新刊紹介:「歴史評論」10月号

特集「原発震災・地震津波歴史学の課題―」
詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/
■「史料地震学と原発震災」(石橋克彦*1
(内容要約)
 内容的には「原発問題」と「史料地震学(歴史地震学)」の2つにわかれる。
原発問題」について言えば、データ分析による適切な原発政策をとるべし、というのが筆者の主張だが「地震列島日本」において、「地震に強い原発」をつくることは「それに失敗したときのデメリット(予想を超える震災が来ない保障はどこにもない)」や「かかる費用」を考えれば現実的ではなく、もはや撤退戦、脱原発こそ正道、問題はどう撤退するのかという撤退方法の話であり、原発推進など「ドイツ、イタリア降伏後の大日本帝国の徹底抗戦論」なみに論外というのが筆者の見解のようだ。俺も同感だが。
 「史料地震学」について言えば、「歴史学者地震学者の共同作業が必要」と言うのがまず一点。歴史学者地震学のプロではないため、地震学の適切なフォローがなければ、過去の地震について地震学的にはあり得ない歴史像を描く出す恐れがある。
 次に地震史料についてのデータベース化と歴史地震学の拠点整備を、歴史地震学成立の前提条件としてあげている。

参考

http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/69-335b.html
保立道久の研究雑記「北原先生との座談会と若い地震学者への手紙」
 歴史地震の検討をしたいので、歴史史料の読み方や史料批判をめぐる問題について意見を聞きたいというメールをいただきました。先端的な研究をになう若い地震学研究者から、そういう問い合わせをうけることは光栄です。
(中略)
必要なのは、地震津波史料が発見されたら、それをすぐに地震学研究者が知ることができる仕組みであろうと思います。それは石橋克彦氏が代表の科研で作成され、静岡大学の小山真人先生の研究室で管理されている「古代・中世、地震・噴火データベース」のようなものが、地震学と歴史学の共有のものとしてもつべき機能の最大のものであると思います。
 地震学と歴史学の学際的な協力が、データベースとネットワークに依拠すべきものであることはいうまでもありません。歴史地震学は、それによってのみ、現在の研究状況に不可欠な厳密性と理論的な発展を保障され、必要な社会的役割がはたせるものと思います。そして、そこで問われているのは研究者の集団、学界としての社会的役割ですから、単純な意味での個人業績というものはなくなるはずだと思います。
(中略)
文献歴史学の側には、この九世紀地震についての専論は一本もありませんでした。もし、それがあって、この九世紀地震についての情報の発信を強化することができていれば、沿岸地帯における防災の体制や教育に若干であれ実際上の変化がありえたかもしれません。大量現象として考えるのならば、それが何人かの人々の命を守る知識として働いた可能性は現実に存在したと思います。
(中略)
まず、七世紀から一〇世紀にかけての地震・噴火史料を詳細に読まれることをお奨めしたいと思います。漢文史料ですので、最初はなかなか取っつきにくいかもしれませんが、この漢文は日本的な変形漢文といわれるもので、返り点や送りがなをつけて読めますので、高校の教科書か受験参考書を引っ張り出し、辞書を引き引き読めばどうにかなるはずです。
 それを地震学者としてどう読むべきかのお手本は石橋克彦氏の論文「文献史料からみた東海・南海巨大地震」(『地学雑誌』一〇八号、一九九九)でしょう。この論文は、八八七年のいわゆる「仁和地震」が南海・東海の連動地震であることを『類聚三代格』という、この時代の法令集の史料解釈からみちびきだしたものです。
(中略)
私は、この論文を読んだ衝撃によって8・9世紀の地震論の研究を本格的に始めました。なにしろ歴史学の方では、八・九世紀に大量に存在する地震史料の精細な読みは昨年までほとんどなかったという実情ですので、これは歴史学にとっての反省材料であることもお伝えしておきたいと思います。石橋氏のこの史料解釈によって、南海トラフ地震津波について論じる重大な基礎が形成されたことはいうまでもありません。

http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/14-63a4.html
保立道久の研究雑記「貞観津波に最初に注目した人ー今村明恒」
貞観地震についてはじめて注目した研究者は今村明恒(1870−1948、写真はウィキペディアより)。今村は、日本の地震学の最初の確立者であり、関東大震災の危険を予知した研究者として著名である。今村は、自然科学者であるが、歴史史料を扱う能力も高く、歴史地震学の分野でも、実質上、最初の開拓者である。
 彼が貞観地震についてふれた論文は、下記の二つの論文。
(イ)「日本に於ける過去の地震活動について(未定稿)」(『地震』8巻,121−134頁)、
(ロ)「日本に於ける過去の地震活動について(増訂)」(『地震』8巻,600ー606頁)であろう。


■「戦後史のなかで大震災・原発事故と復旧・復興を考える」(渡辺治
(内容要約)
・震災での様々な困難、特に原発事故問題は旧来の自民党型政治に重大な問題点があったことを可視化した。これに対し、民主党政権は適切な手を打てておらず、復興のために十分な手を打つ必要があるというお話。


■「文書の保存を考える」(西村慎太郎*2
(内容要約)
 被災した歴史文書の保存、保全についての筆者の見解が述べられる。やはり、がれき撤去などの目立ちやすい所と比べると、文書保存はなかなか困難なようだが、何とか頑張ってほしいと思う。また筆者は「被災後すぐに文書保存のネットワークを立ち上げることは楽ではない」とし、平時から文書保存に取り組む体制作りが必要としている。


■「福島における原発震災後の報道―語られたこと、語られなかったこと―」(荒木田岳)
(内容要約)
荒木田氏の見解については氏のホームページ(http://311fukushima.seesaa.net/)を紹介しておく。氏のサイトや、歴史評論掲載論文からは荒木田氏が国や県庁、東京電力やメディア、学者(悪名高い山下俊一氏など)に対し、「何を信じていいのか」と強い不信感を抱いていることが読み取れる。


■「平安時代末期の地震龍神信仰―『方丈記』の地震を切り口に―」(保立道久*3
(内容要約)
保立氏の関連エントリで代替。

保立道久の研究雑記
大飯原発再稼働と『方丈記』の若狭の津波
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/66-3142.html

 このエントリや歴史評論掲載論文で「方丈記の記述だけではうかつなことはいえない、発掘調査などが必要だろうが」と断りながらも「方丈記」の記述によれば大飯原発のある若狭湾地震津波が来た可能性があると指摘する保立氏。まあ何があろうと再稼働するのが野田内閣クオリティだろうが。


「『方丈記』とその時代」
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-0777.html


■「刑事裁判記録マイクロフィルムの公開について:東京弁護士会、東京第二弁護士会合同図書館所蔵」(藤野裕子
(内容要約)
東京弁護士会、東京第二弁護士会合同図書館所蔵の紙媒体・刑事裁判記録がマイクロフィルム化されて早稲田大学図書館で公開されるようになったという話。著名な事件としては、次の資料があるとのこと。
・「大隈重信外相暗殺未遂事件」
・「日比谷焼打ち事件」
・「星亨暗殺事件」
・「寺内朝鮮総督暗殺未遂事件(105人事件)」:独立運動を弾圧するための朝鮮総督府によるでっち上げ説が通説
・「朴烈事件」
・「閔元植暗殺事件」:
 閔妃の甥で朝鮮時報社社長、朝鮮総督府中枢院副参議の閔元植は朝鮮にも衆議院議員選挙法の適用を求める参政権獲得運動を起こしていた。
 1921年2月15日、朝鮮独立運動家で日本大学学生だった梁槿煥は、閔に面会を申し込んだ。梁は30分ほど歓談した後、「今、我々が祖国独立のために闘っているのに、参政権獲得運動などと馬鹿げたことをやるとは怪しからん」と叫び、閔を短刀で刺した。閔は、まもなくホテルのボーイに発見され、直ちに病院に運ばれたが出血多量で死亡した。
 梁槿煥には無期懲役の判決が下った。(ウィキペ「閔元植暗殺事件」参照)
・「515事件」
・「シーメンス事件」
・「松島遊郭疑獄」:
 当時大阪市西区にあった大阪最大の遊廓、松島遊廓の移転計画を巡り、複数の不動産会社から、与野党政治家3名が、移転を巡る運動費(当時の金額でそれぞれ30〜40万円)を受取ったとされたが、後の裁判では、全員無罪となった。また、現職総理大臣が予審尋問を受けるという、前代未聞の事態は第一次若槻禮次郎内閣総辞職の遠因にもなった(ウィキペ「松島遊郭疑獄」参照)。
・「帝人事件」
・「昭和電工事件」
・「三鷹事件
・「松川事件
・「加藤老事件」:
 大正時代(1915年)に発生した強盗殺人事件。被疑者の虚偽の供述により共犯とされた男性が冤罪を訴え、事件発生から62年経って再審により無罪が言い渡された冤罪事件(ウィキペ「加藤老事件」参照)。

 便利な話だがただし、二つ注意点がある。
1)弁護側記録なので、検察側資料、裁判所資料と付き合わせる必要がある。なお、日本においては裁判所保存資料、検察保存資料の公開制度は不十分であり、充実が望まれる。
2)ワープロやパソコンが日常的に使われるようになった昨今の資料は別だが、昔の資料は手書きが多く、誤字、脱字や悪筆で判読困難なものもある。今回の資料は原本をそのままマイクロフィルム化したものなので今後はそうした誤字、脱字、悪筆を分析し、正確な内容を把握する必要がある。


■文化の窓「韓国で考えたこと4:踏査(タプサ)」(君島和彦*4
 韓国の大学の歴史学授業には「踏査(タプサ)」という歴史的な文化史跡を旅行する授業があるという話。もちろん授業なので観光という甘い話のわけがなく、旅行中にはレポートや発表、旅行後もレポートや発表という話になる。


■私の原点「都市下層社会研究への旅立ち:松本四郎氏の幕末維新期江戸研究に学ぶ」(吉田伸之)
(内容要約)
 取り上げられてるのは松本氏の論文「幕末・維新期における都市の構造」「幕末・維新期における都市と階級闘争」(松本『日本近世都市論』(1983年、東大出版会))収録。ただし松本氏自身はこれ以降、都市下層社会研究を継続することはなかったそうなのだが。


■書評:戦国史研究会編著「織田権力の領域支配」(神田千里*5
(内容要約)
評者曰く、従来の織田政権研究は「信長の革新性や専制性」に注目される傾向があったがそれは一面的ではないかとの批判意識からまとめられたのが本書とのこと。

参考

http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-680-2.htm
戦国史研究会シンポジウム「織田権力論−領域支配の視点から−」(2010.6)の報告9本と、その後の例会報告1本を収録
(中略)
目次

織田権力の京都支配 *6木下昌規
織田権力の摂津支配*7 下川雅弘
織田権力の和泉支配 平井上総*8
 Ⅱ
織田権力と織田信忠 木下聡*9
織田権力と北畠信雄*10 小川雄
 Ⅲ
織田権力の北陸支配 丸島和洋*11
織田権力の若狭支配*12 功刀俊宏
明智光秀*13の領国支配 鈴木将典
羽柴秀吉*14の領国支配 柴裕之
 Ⅳ
織田権力の取次 戸谷穂高
討 論 (司会)黒田基樹*15

 織田権力の和泉支配だがググっても「松浦氏」とか「寺田氏」とか名前を聞いたことのない武将しか出てこない。戦国時代の和泉の主な武将「和泉三十六郷士」を紹介すると言うサイト(http://www.eonet.ne.jp/~sensyushi/REKISHI/sensyu/36shi/36shi.html)も見ても名前を聞いたことのない武将しか出てこない。

松浦宗清(ウィキペ参照)
 安土桃山時代の武将。本姓寺田氏。はじめ和泉国守護代岸和田城主松浦肥前守に仕えた。天正に入り松浦氏は没落し*16天正3年に兄とともに岸和田城主となり、織田信長に仕える。

http://members3.jcom.home.ne.jp/kazu_maru/
『織田権力の領域支配』刊行
 未だに疑問を呈示されるのですが、「織田政権論」ではありません。東国の戦国大名研究の手法を織田氏に導入し、大名権力としての織田氏(織田権力)を考えてみようというものです。本書収録の拙稿でも書きましたし、何度でもいいますが、「中央権力を掌握」したから、秀吉にいたる天下統一の先駆けになったから、「特別な政策を行った『はず』だ」というのは、命題として成り立ちません。結果論です。本文に比べて、ちょっと強めに断言。
 私*17としては、織田氏から中央権力という先入観を排除して、権力の特徴を、捉え直してみたいのです。そもそも、織田研究と、その他の戦国大名研究が、まともにリンクしていない現状を、これ以上放置してよいのか、という疑問もあります。ようは、賛同するにせよ、反論するにせよ、議論をしましょうよ、ということです。
 私の担当は、柴田勝家。「柴田勝家の〜〜」とすると(注:鈴木論文「明智光秀の領国支配」や柴論文「羽柴秀吉の領国支配」とタイトルが)奇麗に並ぶのですが、武藤舜秀(敦賀郡)や前田利家能登)についても検討しているので、こういうタイトルに落ち着きました。何で?と聞かれることがありますが、気分転換に、朝倉氏の発給文書を眺めることを、昔から結構やっていたので…。
 具体的内容は、「一職支配論」について考え直す、というものです。私にしては、ちょっと大きな議論でしょうか。シンポ当日の報告に比べると、少し手を加えた箇所がありますが(あの時は病み上がりでして…すいません)、全体の論旨そのものには、一切変更はありません。
 それと、執筆者間の議論について。細かい論点は、シンポジウムの準備報告に際し、議論を闘わせましたが、強引に統一を図ったりはしていません。各論者で、微妙に違いはあるはずです。学問ですから、当たり前のことですが。
 本書が、議論の活性化に少しでも寄与すれば、幸いです。なお、毎度ながら、以上はあくまでも私見ですので、念のため。

・「一職支配論」というのが素人にはよくわからないが、どうも信長権力の専制性を強調する議論のことらしい。
加賀藩藩祖で、後の五大老前田利家や「賤ヶ岳の戦い」の柴田勝家はさすがにわかるが、武藤舜秀って誰やねん。

http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-date-20100613.html
戦国史研究会シンポ」
 戦国史研究会は、「織田権力論―領域支配の視点から―」という私の守備範囲のテーマだから無視するわけにはいかない。
 織田権力の領域支配がテーマになっているのは、織田権力論が信長個人の個性に収斂する傾向があるのに対して、やはり、その領国経営の実態や、家臣団の動向を詳しく見るべきだという問題意識に基づくもので、織田権力論にとって、かねてから指摘されていた課題だったから、私も異議はない。
 たとえば、和泉国という、この時期、あまり話題にならない地域(堺は除く)で、織田権力がどのように浸透していったのか(実際は国人支配を追認するものだったらしい)という検討はとても新鮮だった。
 また信忠*18尾張・美濃経営では、その領域支配のとらえ方にはいささか異議があった。あとで谷口克広氏*19とお話したときも話題になったが、尾張・美濃には信長の旗本家臣領が相当残っており、そこには信忠の支配は及んでいないのではないかと思われた。
 それでも、信忠の官位問題の指摘*20については、私もかねがね疑問に思っていたことだったので興味深かった。
 全体を通じて、織田権力の領域支配がかなり具体的になった感じで、個人的にも得るところが多かった。報告者たちは2年間も準備に費やしたとのことで、その苦労のほどがうかがわれた。
 もっとも、素朴な疑問もないわけではない。
 たとえば、支城領主(勝家・光秀・秀吉など)が織田権力末期には外交権さえ保持していたという指摘はどうだろうか? 
 それをいうなら、明智光秀天正3年(1575)にすでに長宗我部氏との間で外交を展開しており、もっと遡るということになる。しかし、光秀の対長宗我部外交は明らかに同10年(1582)に(注:長宗我部討伐路線に変更した)信長によって否定される。これで外交権をもっていたといえるか。
 要は、信長の許容範囲内で、支城領主たちは外交に関して一定の裁量をもちえただけで、外交権はあくまで信長が保持していたと見るべきではないのか。そもそも「上様」「公儀」である信長を無視した外交が展開されたら、「政権」とはいえないだろう。
 また城割政策が天正8、9年あたりから各領域で展開されている事実も指摘されている。ほとんどの報告者が支城領主たちの独自性、自律性を強調していたが、こうした政策基調の共通点は偶然なのだろうか。やはり統一権力の上からの意志を支城領主たちが遂行しているという見方はできないのか。
 また、独自性、自律性という言葉にもやや違和感をもった。
 各領域において、ある時期から信長の朱印状発給がなくなることなどを契機に、支城領主たちによる領域支配が独自に展開されたとするが、地域の条件の違いという意味での「独自性」は承認しえても、「自律性」はどうなのだろうか? 外交権ひとつとっても「自律性」があったとは考えにくい。
 それに、支城領主の典型といってよい佐久間信盛の改易という冷厳な事実を、支城領主たちの「独自性」「自律性」からどのように説明できるのだろうか?
 支城領主たちも結局、信長の掌の上での「独自性」「自律性」だったのではないかという感が否めないのだが……。
 シンポの最後に、池享さん*21から、それでは織田権力って何なんだという趣旨の疑問が述べられたが、私もそのように感じた。
 今回のシンポの目的が織田権力の領域支配に焦点をあてるだけで、その先の結論を述べるのは時期尚早ではないかという報告者の発言もあったが、それでも、織田権力が(注:伊達、武田、上杉、北条、毛利、長宗我部などのほかの)戦国大名と(注:性格はあまり)変わらない、大戦国大名であるだけだという趣旨の発言も漏れ聞こえた。
 それでは、織田権力が他の戦国大名と異なるのは、領国規模が大きいのと(注:首都である)京都を支配しているだけということになりそうだが、それでいいのだろうか?
 何というか、もっとも根源的な疑問を突きつけられた会だった気がした。もっと勉強しないといけなさそうだ。

http://shikado.cocolog-nifty.com/zakki/2010/06/post-42b1.html
シンポジウム「織田権力論」
 先日、戦国史研究会シンポジウム「織田権力論―領域支配の視点から―」に出席しました。
 とはいえ、朝9時開始だったものの、会場に到着したのは午後でしたが…。
 というわけですべての報告を聞けませんでしたが、レジュメを読んだり討論を聞いたりしながら、全体の話の流れを追うようなスタイルでおりました。
 「領域支配の視点」と謳っているように、織田信長が中央で発揮した権力を論じるというようなこれまでの中心的な議論ではなく、その基盤となる領国支配の具体像を明らかにすることを主題としたものと理解しました。いずれの報告も多くの史料が提示されていて、丁寧に議論を組み立てる意欲を感じることができました。
 討論にもあったように、結果として「織田権力」という存在がいかなる歴史的位置にあるのかについてはこれからの課題となったようですが、今後の展開を期待したいところです(って、人ごとのように言っていいのか…)。論集にする予定もあるそうなので、楽しみです。
 報告を聞いていて思ったのは、織田信長による領国支配というのは決して独創性に優れたものではなく、どうやら各地の支配の在り方をかなりの部分で踏襲・継承していたのかもしれないなあ、ということです。私個人は、人口に膾炙するような信長の「革新性」というものにはわりと懐疑的なんですが(笑)、その点ではやや意を強くしました。
 150人を越える参加者があったそうで、関心の高さが窺えますね。これを機に、わかっているようでよくわかっていない「織田権力」の内実をめぐる議論が一層深まることを期待したいです。


「でもこういうのは信長は革新的だと思いたがるニッポソ人には受けないんだよな」

*1:編著『原発を終わらせる』(2011年、岩波新書

*2:著書『近世朝廷社会と地下官人』(2008年、吉川弘文館

*3:著書『歴史のなかの大地動乱――奈良・平安の地震天皇』(2012年、岩波新書

*4:著書『教科書の思想:日本と韓国の近現代史』(1996年、すずさわ書店)、『日韓歴史教科書の軌跡―歴史の共通認識を求めて』(2009年、すずさわ書店)

*5:著書『信長と石山合戦』(1995年、吉川弘文館

*6:京都所司代村井貞勝の京都支配について論じている

*7:荒木村重の摂津支配について論じている

*8:著書『長宗我部氏の検地と権力構造』(2008年、校倉書房

*9:著書『中世武家官位の研究』(2011年、吉川弘文館

*10:信長の次男

*11:著書『戦国大名武田氏の権力構造』(2011年、思文閣出版

*12:丹羽長秀の若狭支配について論じている

*13:近江国滋賀郡、丹波を与えられ坂本城を居城とした

*14:浅井氏滅亡後、その旧領を与えられ長浜城を居城とした

*15:著書『百姓から見た戦国大名』(2006年、ちくま新書)、『戦国関東の覇権戦争』(2011年、洋泉社歴史新書y)

*16:というより家臣・寺田氏による下克上のようだが。松浦氏を打倒した寺田氏はその後、自らが松浦氏を名乗る。松浦、寺田が和泉における有力武将らしい

*17:丸島和洋氏のこと

*18:信長の長男。本能寺の変明智光秀に討たれる

*19:著書『信長の天下所司代:筆頭吏僚村井貞勝』(2009年、中公新書)、『信長と家康:清洲同盟の実体』(2012年、学研新書

*20:信忠が秋田城介に任官したのは将来の東北征服戦争を前提としていたという話らしい

*21:著書『戦国・織豊期の武家天皇』(2003年、校倉書房