今日の産経ニュース(9/1分)(追記・訂正あり)

■【藤本欣也の中国探訪】ブームに沸く“聖地”梁家河村 「泥だらけの青春」を過ごした習近平*1 男泣きのワケは? 
http://www.sankei.com/premium/news/170901/prm1709010003-n1.html

 習氏は53年、北京で生まれた。父親は元副首相の習仲勲*2
(中略)
 子供の頃の習近平氏は、党幹部が集まる北京・中南海に居住するなど極めて恵まれた環境で育った。
 しかし62年、父親が政敵によって反党活動をでっち上げ*3られて失脚、生活は暗転した。66年に文化大革命が始まると、習氏は「反革命分子の子弟」と非難される苦難の時代を迎える。
 69年には他の青年たちと同様、「上山下郷運動」に参加させられた。都会の知識青年を地方に送り、労働教育を受けさせるというものだ。その下放先が延安市*4中心部から約60キロ離れた農村、梁家河。
 ときに習氏、15歳の冬だった。
(中略)
 村での仕事は人糞を運んで堆肥をつくり、畑を耕し井戸や灌漑(かんがい)施設を整備する汗と泥にまみれた肉体労働だった。
 もちろん、習氏だけではなく、当時の都会の青年たちは下放を経験している。
 李克強*5首相は18歳から約4年間、安徽省の農村で働いた。王岐山*6・中央規律検査委員会書記も20歳から約3年間、習氏と同じ陝西省の別の農村に下放された。
 ただ、習氏が一般と異なるのは、15歳の若さで農村に赴き、6年間もの長期にわたって農民として過ごしたことだ。失脚した父親の影響以外考えられない。
 習氏はのちに、国内メディアなどを通じて当時のことを述懐している。
(中略)
 「最も我慢できなかったのは、ノミだ。私の皮膚は敏感で、かまれると赤くはれて、かゆくて痛くてたまらなかった」
 そして、とうとう「私は年齢も若い。仕事を始めても身が入らず、北京に逃げ帰ってしまった…」
(中略)
 しかし、北京に習氏を受け入れてくれる場所などなかった。結局、北京でも工事現場で汗を流す日々を送る。4カ月あまり後、梁家河村に舞い戻ってきた。
 習氏が変わったのは、それからである。
 習氏はまず、延安地方の方言を覚えることから始めた。力仕事を先頭に立って行った。井戸の水質が悪くなると、率先して井戸の中に入り、たまった泥などを取り出した。
 習氏は暇ができると読書をしていたという。しばしば習氏の窯洞を訪ね、彼の蔵書をむさぼり読んだ村の青年がいた。
 習氏より1歳若いその青年の記憶では、中国の『水滸伝』のほか、ロシア革命前後の激動期を描いた、旧ソ連の作家ショーロホフ*7の『静かなドン』、同じく旧ソ連の作家オストロフスキー*8の『鋼鉄はいかに鍛えられたか』などの本を借りて読んだという。
(中略)
 習氏が父親のハンディを乗り越えて、中国共産党への入党を果たしたのは74年、20歳のとき。その年、村の党支部書記にも選ばれ、名実ともに村のリーダーとなった。
(中略)
 1975年10月、習氏の6年以上にわたる農村生活もいよいよ終わりを告げるときがやってきた。
 北京の名門、清華大学への推薦入学が認められたのだ。以後、習氏の人生は一転し、父親の名誉回復(78年)もあいまって出世街道を歩んでいくことになる。
 北京へ向かう出立の日の朝、村中の人々が列を成して見送ってくれたという。本がいっぱい詰まったカバン2つを持った22歳の習氏。最後にはこらえきれず、男泣きに泣いた。後にそう述懐している。
 村の青年12人が一緒に30キロを歩いて隣町まで送ってくれた。習氏の宿で語り明かし、翌朝、みんなでお金を出し合って撮った記念写真が今に残る。
 他の知識青年たちより長期間の農村生活を余儀なくされた習氏。汗と泥にまみれた梁家河村の青春時代は彼に何を残したのか。
 自ら振り返ってこう語っている。
(中略)
 「その後、困難にぶつかったとき、『あの当時のことを思えば、解決できない問題はない』と考えるようになった」

 2世政治家と言っても習氏はボンボンの安倍とは違う苦労人の訳です。

参考

反党小説『劉志丹』事件(ウィキペ参照)
・1936年に戦死した劉志丹を題材に書かれた小説『劉志丹』が反党文書だとされ習仲勲副首相らが失脚した事件。
・劉志丹は1920年代から活躍した軍人で、長征の先頭に立ち高崗らと共に陝西省北部の陝北ソビエトの確立に尽力した。1936年2月21日、毛沢東の「北上抗日」という指示で東征を行い、山西省に入ったところで同地を支配していた国民党の閻錫山*9軍に敗北し、4月14日に退却の途中に射殺されている。この一件で、後に彼の故郷である保安県は志丹県と名を変え、追悼大会が盛大に行われた。
 1954年、党中央宣伝部の指示で、彼を題材にした小説『劉志丹』が弟劉景范の妻で、自身も陝北で活動していた李建彤によって執筆が始められ、1959年までに初稿を書き終えた。その後、1936年当時に陝北ソビエト政府主席であった国務院副総理習仲勲の助言を得て、1962年までに完成した。だが既に「毛沢東党主席、劉少奇国家主席周恩来首相ら党、政府執行部に敵対した」として失脚していた高崗*10や、1930年代に共産党極左偏向路線を主導した王明*11に関わる内容であったことから、陝北地域の党責任者だった賈拓夫は中央宣伝部の審査を仰ぎ、周揚副部長は問題なく出版は可能と結論。出版にこぎつけた。
 ところが光明日報、工人日報*12、中国青年報*13などに連載されると閻紅彦(雲南省党委員会第一書記)が、内容は党中央の評価が必要だと発表に反対し、その報告を受けた康生*14は「政治問題であり、処理を求める」と楊尚昆*15に命じた。
 1962年8月、中国共産党第8期中央委員会第10回全体会議予備会議で小説『劉志丹』は高崗の名誉を回復し、党を攻撃する文書と指摘、9月24日に開催された第8期十中全会で毛沢東は「小説を書いて反党反人民をするとは、これは一大発明だ」と批判した。これを口実に習仲勲、賈拓夫、劉景范らが反党集団と認定され、習仲勲は党内外の職務からすべて解任された上に下放され、賈拓夫は北京鉄鋼公司の副経理に降格された。
 1966年に文化大革命が始まると、康生、江青*16林彪*17らは小説『劉志丹』に関わった人間に対してさらに弾圧を加えた。1967年、人民日報で出版許可を出した周揚を「反革命両面派周揚を評す」と題された姚文元*18執筆文章を発表して党と国家を簒奪する陰謀を進めていたと批判し、拘束した。李建彤は1970年に党から除名され、労働改造処分となるなど、西北反党集団として6万人が被害を受けたとされる。またかつて毛沢東に英雄と評された劉志丹自身もその手からは逃れられず、記念碑が紅衛兵によって破壊された。
 1978年の中国共産党第11期3中全会以降、冤罪事件の再評価が始まり、翌1979年には「小説劉志丹の名誉回復に関する報告」ですばらしい革命文化作品であり、高崗の再評価問題など存在しないと評価され、10月には再出版された。しかし、一部古参同志が事実と異なると指摘したため、1986年に習仲勲が調査した結果、「党の歴史的人物の描写は歪曲してはならない」と決定され、胡耀邦*19・党総書記(当時)の指示で再度発禁となった。その後、小説に描かれた関係者がほとんど逝去した2009年に至って江西教育出版社から再刊された。


■忘れられないステージ4のがんを患った筆者への激励 弟に刺殺された厚生労働省幹部・北島智子さんをしのぶ(政治部 坂井広志)http://www.sankei.com/premium/news/170901/prm1709010002-n1.html

 厚生労働省関東信越厚生局長の北島智子さん(56)が8月12日、弟に包丁で刺されこの世を去った。
(中略)
 弟は精神疾患で通院歴があったという。現行犯逮捕した高輪署は刑事責任能力の有無を調べている。

 精神を病んでる人間が肉親を殺害というとどうしても小生は山村新治郎氏*20の死を連想しますね(ウィキペディアに寄れば氏を殺害した次女は心神喪失で不起訴になったが後に自殺)。今回の件で心神喪失心神耗弱が認められるか分かりませんがせめて今回は弟氏の自殺などがないようにしてほしい。
 なお、話が少しずれますが山村氏のよど号ハイジャックでの対応で分かるように拉致問題ってのは一番現実的な解決方法は交渉でしょう。

北島さんをなぜ助けられなかったのか、検証が必要だ。

 「犯行に精神病が影響してる」という前提で書いていますが、酷な事言えば山村氏の件と言い今回と言いこれはもうどうしようもないんじゃないですかね。
 「治療中(もちろんある程度回復している)の精神病者と肉親が一緒に暮らす限り」、こうした悲劇をできる限り避けることはできても完全になくすことは無理でしょう。完全になくしたいならそれこそ「精神病院に閉じ込めるしかない」でしょう。

 筆者(46)は平成6年4月に産経新聞社に入社した。最初に赴任した先は甲府市。このとき厚生省(現厚労省)から山梨県庁に出向していたのが当時、健康増進課長を務めていた北島さんだった。時を経て、筆者が厚労記者会に所属したのが今年2月。久々の再開を喜んだのもつかの間。旧交を温めるにはあまりにも時間は短かった。
「ステージ4の小腸がんになってしまい、食事療法として玄米や野菜を中心にしているんですよ。甘いものも控えているんです」
 2月から厚労省担当になった後、当時、生活衛生・食品安全部長だった北島さんにがんについてこう話をした。筆者が小腸がんを告知されたのは昨年12月28日。同月19日に手術を受け、今年1月13日から抗がん剤治療を続けている。
(中略)
 小腸がんの5年生存率は一般的に約20%とされており、死に対する恐怖感が消えることはない。そんな筆者に「人はいつかは死ぬもの。がんだけが特別じゃないのよ」とも言ってくれた。

ちなみに別の産経記事。

http://www.sankei.com/affairs/news/170812/afr1708120020-n2.html
 山梨県の健康増進課長当時から付き合いがある知人の男性(46)は「温厚だけど、主張するところはしっかり主張する立派な人だった」と惜しむ。
 今年6月に食事をした際、男性ががんになったことを打ち明け、不安な気持ちを口にすると、北島さんは「大丈夫よ。元気じゃない!」と明るく励まし、「人はいつかは死ぬもんなの。がんだけが特別じゃないのよ」とも言ってくれた。
 「懐の深い人だった」。男性はこう振り返り、早すぎる死を悼んだ。

 つまりは「山梨県の健康増進課長当時から付き合いがある知人の男性(46)=産経政治部 坂井広志記者(46)」だったわけです。こんなぼかした書き方しないではっきり「産経記者」て書いていいと思うんですけどね。

*1:福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、国家副主席、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*2:新中国建国後、党中央宣伝部長、副首相などの要職を歴任するが1962年に反党小説「劉志丹」事件で失脚。文革中も反党分子として迫害を受けた。文革終了後に復権広東省党第一書記・広東省長、全国人民代表大会全人代)常務副委員長など歴任

*3:反党小説『劉志丹』事件」のこと。

*4:1937年から1947年まで中国共産党中央委員会が置かれ、この期間中に毛沢東の党内主導権が確立したことから、中国革命の聖地とされる。

*5:中国共産主義青年団共青団)中央書記処第一書記、河南省長・党委員会書記、遼寧省党委員会書記、第一副首相などを経て首相

*6:中国人民建設銀行総裁、中国建設銀行総裁、海南省党委員会書記、北京市長、副首相などを経て党中央規律検査委員会書記(党常務委員兼務)

*7:1965年ノーベル文学賞受賞者。著書『静かなドン』、『ひらかれた処女地』(岩波文庫)、『人間の運命』(角川文庫)

*8:著書『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(岩波文庫、角川文庫)

*9:山西省政府主席

*10:中国中央人民政府副主席、国家計画委員会主席などの要職を務めたが、毛沢東党主席、劉少奇国家主席周恩来首相との権力闘争に敗れて失脚。1954年に自殺した(自殺後、党を除名)。

*11:1931年、ソ連からコミンテルン中国代表に指名されたが、1935年1月の遵義会議以後、次第に毛沢東に主導権を奪われ、1942年からの整風運動でほぼ完全に党内の影響力を失った。新中国建国後は政務院政治法律委員会主任としてさまざまな法律の制定に関与。1956年に「病気治療」の名目でソ連に事実上亡命。1974年にソ連で死去。

*12:中華全国総工会(中国の労組ナショナルセンター)の機関紙

*13:中国共産主義青年団共青団)の機関紙

*14:文革中の1975年に死去。文革終了後の1980年に林彪江青反革命集団の一員として党を除名された。

*15:新中国建国後、党中央委員会副秘書長、党中央弁公庁主任、党中央軍事委員会秘書長に就任するが文革で失脚。文革終了後復権広州市党委員会第一書記、全国人民代表大会全人代)常務委員会副委員長、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席、国家主席など歴任。

*16:毛沢東の妻。文革末期には王洪文張春橋姚文元と「四人組」を形成し、中国共産党内で影響力を持ったが、毛の死後に逮捕され、死刑判決を受ける。無期懲役減刑ののち、病気治療仮釈放中に北京で自殺した。

*17:国務院常務副総理(第一副首相)、国防部長(国防相)、中国共産党副主席、中国共産党中央軍事委員会第一副主席など要職を歴任。林彪事件で死亡後、党除名

*18:1976年10月に四人組の一人として逮捕され、1981年1月に最高人民法院特別法廷で、懲役20年の判決を受ける。1996年に出所し、2005年に糖尿病により74歳で死去した。

*19:新中国建国後は、中国共産主義青年団共青団)第一書記、陝西省党委員会第一書記などを歴任したが、文化大革命が始まると1967年に実権派と批判されて失脚。文革後期の1972年に復活。党中央組織部長、党中央秘書長兼中央宣伝部長などを経て党総書記。1987年に総書記を解任。1989年の彼の死に対する追悼デモがいわゆる天安門事件に発展した。

*20:運輸政務次官時代によど号ハイジャック問題での乗客解放に尽力。中曽根内閣農水相、宇野内閣運輸相など歴任。