「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2019年4/1分:高世仁の巻)

かつて日本は子どもの楽園だった(3) - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 小生が「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2019年3/8分:高世仁の巻) - bogus-simotukareのブログで批判した高世の与太かつて日本は子どもの楽園だった(2) - 高世仁の「諸悪莫作」日記の続きです。以前も批判したところですが「間引きなんぞあった江戸時代日本」が「子どもの天国」のわけもない。高世の与太には改めて呆れます。大体、高世主張の根拠が渡辺京二*1『逝きし世の面影』*2オンリーってのが滑稽です。他に根拠が出せないのか。出せないんでしょうね。そもそも与太だし、高世はバカだし。

 陰惨な幼児虐待事件に心を痛めたであろう人が詠んだ歌が、31日(日)の朝日歌壇に入選した。
・なかつたらうマンモスを狩る男らが弱き子供を虐ぐるとは(我孫子市 島津康右)
 なるほど。氷河時代までさかのぼるとは、すごい想像力

 イヤー、俺は「朝日歌壇の選者ってバカ?」「島津某ってバカ?」「高世ってバカ?」なんですが。「なかった」と思う根拠は何なのか。
 もし「生活がカツカツでそんなことしてる余裕がなかった」つうなら
1)生活がカツカツなら人は児童虐待しないのか(そんなことないんじゃないの?。むしろ今の日本においては貧乏な方が児童虐待してる気がするけど?)
2)生活がカツカツであることはいいことなのか(もちろんそんなことはない)
つう話です。

150年前の日本でも子どもの虐待はほとんど見られなかったようだ。明治初期に来日した外国人が、こぞって日本は子どもの天国だと讃える声を紹介してきた。

 単に「外人が児童虐待を認識できなかっただけ」という可能性をなぜ高世は否定できるのか。
 なお、「児童虐待統計」など江戸時代にないので「数は分からない」ものの、江戸時代においても児童虐待自体は存在したことは「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2019年3/1分:高世仁の巻) - bogus-simotukareのブログでそれについてのネット上の記事を紹介しました。

・ネットー=明治6年~18年お雇い外国人として在日
・アリス・ベーコン=明治21年華族女学校の教師として来日した米人
・ブスケ=明治5年から司法省顧問として在日した仏人

 高世記事ですぐに気づくこと、それは「高世が紹介する外国人のほとんどが、明治時代のいわゆる御雇外国人だ」ということです(外交官など御雇外国人でない人間もいますが)。
 明治の近代化はこうした「御雇外国人」の手によって進められたわけです。そもそもいくら明治政府が「高給払うから来てくれ」といったからといって当時は「アジアの田舎国家」にすぎない日本にわざわざ来るような人間*3は「日本に対して好意を持ってるので、日本に対する発言にはそうしたバイアスがかかってる可能性がある」でしょう。また高給をもらったら、「よほどのことがない限り」人の情として「イヤー、日本ってホンマろくでもない国やったわ、二度とあんな所に行きたくないわ」とは普通言わないわけです。まあ普通の人間は「日本良かったわあ、ワシみたいなもんに高い給料払ってくれたし」と褒めるでしょう。
 高世はその可能性を完全無視していますが。
 最後に「ウィキペディアの記述」その他を紹介しておきます。

■お雇い外国人(ウィキペディア参照)
 お雇い外国人は高額な報酬で雇用されたことで知られる。1871年(明治3~ 4年)の時点で太政大臣三条実美*4の月俸が800円、右大臣・岩倉具視*5が600円であったのに対し、外国人の最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円であった。その他、大学南校(東京大学の前身)教頭、左院翻訳顧問を務めたグイド・フルベッキや兵部省兵式顧問、元老院翻訳官を務めたアルベール・シャルル・デュ・ブスケが600円で雇用されている。当時の欧米からすれば日本は極東の辺境であり、外国人身辺の危険も少なくなかったことから、一流の技術や知識の専門家を招聘することが困難だったことによる。
 多くは任期を終えるとともに帰国したが、ラフカディオ・ハーン*6小泉八雲)のように日本文化に惹かれて滞在し続け、日本で生涯を終えた人物もいた。

■クルト・ネットー(1847年~1909年:ウィキペディア参照)
 ドイツの採鉱冶金学者。お雇い外国人。1873年明治6年)、工部省官営小坂鉱山冶金技師として来日。1877年(明治10年)、東京大学理学部採鉱冶金学教師となる。1885年(明治18年)ドイツに帰国。

秋田)小坂のクリスマス始まる 旧小坂鉱山事務所:朝日新聞デジタル
 秋田県小坂町の明治百年通りで1日、「小坂のクリスマス」が始まった。国重要文化財の旧小坂鉱山事務所や、国の登録有形文化財の天使館(旧聖園〈みその〉マリア園)がライトアップされ、一帯をイルミネーションが彩った。ドイツの「クリスマスマルクト(市場)」にあやかった出店も並んだ。
 この催しは、明治時代に小坂村(当時)で4年ほど過ごしたドイツ人鉱山技師クルト・ネットー(1847~1909)にちなむ。ネットーは国策の富国強兵や殖産興業のために指導者として招かれた。赴任して間もない1873年12月、26歳のネットーは村人を招き、クリスマスを祝ったとされる。望郷の念にかられたであろうネットーの思いにこたえようと、聖夜まで楽しく過ごすクリスマスマルクトを再現した。

■アリス・ベーコン(1858~1918年:ウィキペディア参照)
・父レオナルドは子沢山であったため生活は非常に苦しかったという。1872年、日本から来た女子留学生の下宿先を探していた森有礼*7の申し出に応じて山川捨松(当時。後の大山捨松*8)を引き取ったのは、日本政府から支払われる多額の謝礼が目当てであったといわれる。しかし、レオナルド夫妻は捨松を娘同様に扱い、特に年齢の近かったアリスとは姉妹のように過ごした。
1884年大山捨松や津田梅子(捨松とともに米国に留学。捨松の友人)の招聘により、華族女学校(後の学習院女学校)英語教師として来日する。来日中の1年間の手紙をまとめたものを1894年『日本の内側』として出版し、反響を呼ぶ。米国帰国後はハンプトン師範学校校長となったが、1900年4月、大山捨松と津田梅子の再度の招聘により東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)および津田梅子が設立した女子英学塾(現・津田塾大学)の英語教師として赴任、1902年4月に任期満了で帰国するまで貢献した。
・帰国後も教育に身を捧げ、一生独身であった。ただし、渡辺光子と一柳満喜子*9という2人の日本女性を養女とした。一柳満喜子は女子英学塾の教師になることを期待されたが、帰国後ウィリアム・ヴォーリズ*10と結婚した。
・著書『日本の内側』(日本語訳題『華族女学校教師の見た 明治日本の内側』(1994年、中央公論社))、『日本の女性』(日本語訳題『明治日本の女たち』(2003年、みすず書房))は明治時代日本の女性事情を書いた史料として貴重であり、ルース・ベネディクトが『菊と刀』(邦訳は講談社学術文庫光文社古典新訳文庫)を執筆するときに参考文献の一つとした。ちなみに『日本の女性』の前書きには「生涯の友人・大山捨松に捧げる」という一文が添えられ、捨松とは死ぬ直前まで文通を交わしていた。

■ジョルジュ・ブスケ(1846年~1937年:ウィキペディア参照)
 フランスの弁護士。パリ大学法学部卒業。1866年に弁護士登録。1872年(明治5年)に訪日(日本で初めての御雇い外国人)。当初、民法草案の策定にかかわるが、ギュスターヴ・エミール・ボアソナード*11訪日後は、司法省明法寮(後、司法省法学校)で法学を講義した。1876年(明治9年)に帰国し、日本での見聞をまとめた『今日の日本』(日本語訳題『ブスケ 日本見聞記:フランス人の見た明治初年の日本』(全2巻、1977年、みすず書房))を刊行。

*1:著書『神風連とその時代』(2006年、洋泉社MC新書)、『なぜいま人類史か』(2007年、洋泉社MC新書)、『北一輝』(2007年、ちくま学芸文庫)、『日本近世の起源』(2008年、洋泉社MC新書)、『私のロシア文学』(2011年、文春学藝ライブラリー)、『維新の夢』(2011年、ちくま学芸文庫)、『神風連とその時代』(2011年、洋泉社新書y)、『ドストエフスキイの政治思想』(2012年、洋泉社新書y)、『私の世界文学案内』(2012年、ちくま学芸文庫)、『近代の呪い』(2013年、平凡社新書)、『無名の人生』(2014年、文春新書)、『幻影の明治:名もなき人びとの肖像』(2018年、平凡社ライブラリー)など

*2:2005年、平凡社ライブラリー

*3:まあそう言う人間は「三流ではない」にせよ「超一流」という人間はほとんどいないでしょう。「自国で超一流の専門家としていい待遇してもらえる」なら普通の人間は当時の日本なんかわざわざ行きません。

*4:太政大臣内大臣を歴任

*5:外務卿、右大臣を歴任

*6:一時、島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)、島根県尋常師範学校(現・島根大学)、熊本第五高等学校(現・熊本大学)、東京帝国大学文科大学、早稲田大学の英語教師を務めた。

*7:外務大輔、駐英公使、第1次伊藤内閣文相など歴任。文相在任中に森を「西洋かぶれ」と敵視する右翼テロリストによって暗殺される。

*8:1860~1919年。第1次伊藤、黒田、第1次山県、第1次松方、第2次伊藤、第2次松方内閣陸軍大臣、陸軍参謀総長内大臣、元老を務めた大山巌の妻。東京帝国大学総長、九州帝国大学総長、京都帝国大学総長を歴任した山川健次郎の姉。

*9:元播磨小野藩主・一柳末徳子爵の三女。1919年(大正8年)、次兄・広岡恵三(加島銀行頭取、大同生命社長、大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)社長を歴任。NHK朝ドラ『あさが来た』の主人公のモデル・広岡浅子の女婿)の自宅設計に設計者として招かれていた建築家ヴォーリズと知り合い、その後、結婚。ヴォーリズの主宰する近江ミッションに加わり、結婚後は滋賀県近江八幡で生涯を過ごした。学校法人近江兄弟社学園(現在の学校法人ヴォーリズ学園)の創設者。

*10:メンソレータムで知られる株式会社近江兄弟社創立者

*11:民法草案策定者。民法起草者の一人で「日本民法典の父」といわれる民法学者・梅謙次郎(法政大学初代総理)の師。