「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2019年4/7分:高世仁の巻)

第38回土門拳賞授賞式にて - 高世仁の「諸悪莫作」日記

 新元号、直前まで極秘にしておいて、いったん発表になると自分の手柄のようにメディアをハシゴして話しまくる。中国の古典からではないこと*1を強調して支持率アップ*2につなげた。
 メデイアははしゃぎすぎ。しょこたんNHKの新元号特番で「どんな元号になるか、ドキドキしますね」などと煽り、発表直後からどのチャンネルもいっせいに列島各地から喜びの声を中継した。乗せられたのか、自ら乗ったのか。反省すべし。

 安倍やマスコミの愚劣さにうんざりしますね。なお「しょこたん」というのはタレント「中川翔子」の愛称です。

 5日(金)、第38回土門拳賞授賞式に招かれ、如水会館*3に行ってきた。
 このあいだブログに書いたように。今年の受賞者は高橋智史さん。
カンボジアを撮り続ける高橋智史さんが土門拳賞に! - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 受賞者挨拶で高橋さんは「不当な形で弱い立場に追いやられた人たちの願いを、何が何でも伝えると、その志をもとに、ファインダーを通してカンボジアの人々の願いを見詰め続けてきました」と語り、その決意をいっそう強めたエピソードを披露した。
 ある土地を強制収容された人々のデモを取材中、当局者が高橋さんの腕をつかんで、いますぐその(カメラの)データを消せ、さもないと投獄するぞと脅した。

 事情がよく分からないので評価も難しいですが、こうして考えると脅すどころか、いきなり長井健司氏を射殺した当時のミャンマーはやはり異常だと思いますね。 
 そしてそんなミャンマーに対し、ろくに制裁もしないくせに、北朝鮮だけには制裁を叫ぶ日本人は非常に「おかしい」「理解が出来ない」と俺なんかは思います。どうみても「ミャンマー親日国だから甘くする」「北朝鮮共産国だから厳しくする」みたいな変な忖度があるとしか思えない。

 カンボジアの人々は、高橋さんというジャーナリストを通じて世界とつながることを期待しているのである。

 とはいえ「カンボジアでの金儲けのため」でしょうが欧米も日本もフンセン政権に対しては大甘です。例えば東京新聞記事を見てみましょう。

東京新聞:フン・セン政権 カンボジア 中国頼み:国際(TOKYO Web)
 欧米は、野党弾圧を強めているなどとしてフン・セン氏の強権的な政治手法への批判を強めている。欧州連合(EU)は昨年十月、カンボジアに対して関税優遇措置の撤廃を検討していると明らかにした。事実上の経済制裁となる。今月十六日には、EU域内の生産者に打撃を与えているとして、カンボジア産のコメに段階的に関税を課す方針も決めた。

 昨年10月から初めてフンセン政権は独裁化したのか。そんなことはないわけです。昨年10月になってやっと「関税優遇措置の撤廃を検討した」。
 「今月(2019年1月)になってやっとカンボジア産コメの関税を引き上げた(輸入禁止ではない)」。
 どんだけ欧米はカンボジアに甘いんだって話です。一番、カンボジアとの貿易額、投資額が大きいのは中国であり、その責任は当然大きいですが「中国だけが悪い」という話では残念ながらありません。
 そして北朝鮮相手には「打倒金正恩」を叫ぶ高世もさすがにカンボジアフンセン政権批判する物の、打倒フンセンとは言わない。高世も全くデタラメな男です。それにしても高世も「いつになったらタイの民政移管選挙をネタにするのか」。カンボジア独裁をネタにするならそろそろ、「タクシンVS軍の動向に注目している」とか簡単にでも触れればいいのにと思いますね。
 ちなみに高橋氏へのインタビューを参考に紹介しておきます。

変容するカンボジアと闘う市民を追い続けてきたフォトジャーナリスト高橋智史さんが土門拳賞を受賞(堀潤) - 個人 - Yahoo!ニュース
■高橋
 7月29日に5年ぶりの選挙が行われました。最大の野党であった変革の願いを掲げていた「カンボジア救国党」という存在がいましたが、その救国党は解党に追い込まれ、党首が投獄され、さらに異を唱えるメディアも閉鎖に追い込まれ、立ち上がる人々の意思は恐怖の弾圧下で駆逐され、民意は反映されていないような状況でした。その結果、125議席の全てを、フン・セン首相率いる「カンボジア人民党」が掌握してしまったという形です。2013年の総選挙でも(ボーガス注:救国党が)大きな躍進を果たし、まさに「変革なるか?」という願いを抱えた中、昨年地方選挙がありました。その地方選挙で「カンボジア救国党」が躍進を果たしたことが、フン・セン首相に脅威を与えたのではないかと考えます。
■堀
 フン・セン首相は、なぜ人差し指を掲げているのでしょうか?
■高橋
 (ボーガス注:二重投票防止のためとされている)10日間ぐらいは消えないと言われている、投票したことを示すインクを指につけています。「私は投票済ませました」ということを表明している瞬間になります。
■堀
 逆に言うと、投票を棄権しようものなら、「指に赤いインクがついていないということは、選挙を棄権しただろう」という印になって、それも弾圧の対象になるということですか?
■高橋
 投票しないということは、例えば、解党に追い込まれてしまった「カンボジア救国党」を支持するということに繋がる可能性もありますので、人々にとってはとても大きなプレッシャーを感じる選挙だったのではないかなと思います。投票に行かないというのは、職を失ったり、村から追い出されたり、嫌がらせを受けたり、弾圧を受けたり、様々な負の要因へと繋がっていく可能性があります。
■堀
 次の写真にいきましょう。
■高橋
 これは無効票です。まさに、この不当な総選挙への民意を象徴している写真です。バッテンを付けていますが、これは「私は支持する政党は無い」という強い意志を表明しているものです。今回の総選挙では約60万票の無効票が投じられたと言われています。「カンボジア人民党」が125議席を獲得したわけですが、第2位の政党の票でさえ、37万票でした。それを上回るほどの数を、人々が勇気を持って自分の意思を示したのではないかと思います。
■堀
 日本政府はこの選挙活動については、実は税金を使って支援をしているんですよね。
■高橋
 選挙の投票箱の手配など、約8億円相当の支援を行いました。
■堀
 外務省の見解は、「中国がバックについているので、ここで日本が引いてしまえば完全に中国サイドに付かれてしまう可能性がある。日本としては、いい塩梅で関わり続け、ある程度手を握っておく状況も必要だ」という説明もしていました。これも分からないでもないと思いましたが、それだけ中国政府とフン・セン政権の結びつきというのは強いのでしょうか?
■高橋
 はい。この強権体制を支えているのは、やはり中国の存在です。
■堀
 具体的に、中国系の企業はカンボジアでどのような動きをしているのでしょうか?
■高橋
 2010年以降、カンボジアへの経済的支援は、どの国と比較しても中国がダントツにトップに躍り出てしまっています。
■堀
 高橋さんはもう10年以上現場での取材活動を続けています。最初にカンボジア取材したのは15年ほど前だそうですね。
■高橋
 2003年のことです。
■堀
 10年前からは現地に住んでいるんですよね。独裁化、強権化というのは突然だったんですか?それともじわじわと進んでいったんですか?
■高橋
 この33年間フン・セン首相率いる「カンボジア人民党」が、カンボジア全土で構成員を増やすため、様々な政策を採ってきました。自らの地位を確固たるものとするための段階を、1つひとつ踏んでいったと思われます。実はその中でたくさんの弾圧があったわけで、突然弾圧が進行したわけではない。その隠された事実の中で、弾圧は今までも幾度も行われてきたと考えています。
■堀
 次の写真がこちらです。野党の党首の方ですよね。
■高橋
 はい。約1年間投獄下に置かれていた「カンボジア救国党」党首のケム・ソカーさんが、去年6月の地方選挙で投票するシーンです。彼は1年間投獄下に置かれ、つい先日に釈放されました。今は自宅軟禁状態にあり、一切の面会も許されず、もちろん政治活動もできない状況に置かれていると言われています。
■堀
 野党の党首が逮捕されたり、最高裁にかけられて解体させられたりというのは、どういう名目で行われたのでしょうか?
■高橋
 ケム・ソカーさんの場合は、国家転覆罪でした。「カンボジア救国党」の台頭を、やはり「カンボジア人民党」は恐れたんだと思います。この地方選挙でも大きな躍進を果たしましたから、解党されていなければ、今年の総選挙で「カンボジア救国党」は 33年間の「カンボジア人民党」の歴史*4に終止符を打つことができる存在だったのではないかと考えられていました。その強い影響力を排除したいと願う政権による弾圧の、大きな象徴と言えるような出来事でした。
■堀
 次の写真です。女性活動家のテップ・バニーさんが写っています。どういう状況ですか?
■高橋
 テップ・バニーさんは、カンボジアのフン・セン政権の弾圧に対する平和運動の、まさに象徴です。彼女は近代カンボジアの最大の社会問題の1つである土地強制強奪の問題に自ら巻き込まれながらも、その横暴に立ち上がり、その勇気が世界から賞賛を受けてきました。でも、やはり地方選挙総前に彼女の強い影響力を排除したいと願う政権によって、2016年8月15日、投獄下に置かれていた5人の人権活動家の釈放を求めるデモ中に、私が取材する目の前で、彼女は当局者に連れ去られました。そのまま2年6ヶ月の投獄の判決を受け、約2年間投獄下に置かれていたのですが、彼女も総選挙が終わった3週間後に釈放されました。彼女が投獄される理由というのも、ただ、投獄されている活動家の釈放を求めるデモを行ったということだけでした。
■堀
 弾圧などの状況がなかなか高橋さんの取材以外からは伝わってこない。他のジャーナリスト、現地メディアはどうしているのでしょうか?
■高橋
 やはり、カンボジアにあるメディアは、どうしても政権の直接的な弾圧を受けやすい。批判的な記事を書けない、政権寄りの情報しか流すことができないという、まさに恐怖の弾圧で完全にコントロールされてしまっている状況です。異議を申し立てることが非常に難しい状況に追いやられてしまっています。
■堀
 現地のメディア「The CAMBODIA DAILY」という歴史のある英字新聞も廃刊に追い込まれたんですよね。突然6億円を超える税金の請求を突きつけられたんですよね。しかも、その6億円が妥当なものなのかどうかは、はっきりと分からない。税金を払えないということで廃刊になり、新聞社に関わってきた経営者はカンボジアに戻ってくることさえできないような状況にあるということです。メディアを潰すというのは、独裁の象徴的な出来事でしたよね。
 高橋さんをはじめとするジャーナリストたちの活動も制約を受けていて、Facebookの内容も含めて政府から監視され、逮捕される仲間たちもいましたよね。
■高橋
 まず1人は、オーストラリア人のビデオジャーナリストです。彼はもう60代後半なのですが、昨年の地方選挙期間中に最大野党「カンボジア救国党」の集会を取材している時に上空でドローンを飛ばしていたのですが、なぜかスパイ容疑にあたるということで投獄されました。先日6年の投獄が宣告されてしまい、今でも彼はかなり劣悪な環境下で自由を奪われている形になります。
■堀
 今後カンボジアと、どういう関わり、支援をしていくべきだと思いますか?
■高橋
 支援というのは、民主的な形で使われることこそが国際協力だと思います。その意味をもっと人々が理解をして、国際協力の本質をもう一度見つめ直して、カンボジアを捉えてほしいなと思います。
■堀
 当局と向き合い続ける市民がいて、こういう市民の皆さんを支える活動は、現場でどのように展開されているのでしょうか?
■高橋
 一部の人権NGOはとても頑張っています。彼らと共に一緒に現場に来て、この事実を伝えようと、彼らのことをサポートしようと、常に最前線の現場で共に立ち上がっているNGOもあります。ただ、残念ながら日本のNGOが彼らとともにデモの現場にやってくる姿は、この5年間で1度も見たことがありません。
 30数年間権力の座を維持すると、やはりいろんな歪みが生まれてきます。その歪みの集約が今年の総選挙だったのではないかなと感じます。

 まあ日本の「中国ガー」つうのは完全に言い訳ですね。単に「カンボジアで金儲けしたいだけ」「民主化など全く関心がないだけ」なのにさすがにそうは公言できないというだけの話です。まあ、「アパルトヘイト南アフリカ」とすらレアアース目当てに付き合って、「名誉白人称号」を当時の南アからもらい、その結果、国際社会から非難された前科を持つ日本にとってカンボジアとの付き合いなど何のためらいもないでしょう。

 選考委員の写真家(大石芳野*5鬼海弘雄*6中村征夫*7)が三人とも欠席でさびしかった

 きついこと言えば寂しいとかそういうレベルの話じゃないと思うんですよね。
 選考委員の訳ですから。「仮に何らかの理由(用事が他にある、体調が悪いなど)で最初から最後まで式にいることが出来ず、途中退席するにしても」授賞式に出席して祝辞を述べるのが当然でしょう。いや「どうしても日程の都合がつかんかった」「体調を崩していて入院中、当面外出できない」とか正当な理由があれば別ですよ。しかし「三人全員そうです」なんてことが本当にありうるのか。
 選考委員が無責任か、土門賞主催者がろくに日程調整もせずに式典日程を決めたか、どっちかとしか思えませんね。
 「単に名前貸しで本当は審査してないんじゃないか」と疑いたくなります。
 高世は何も書いていませんが選考委員が全員欠席したことについて、主催者からは何の弁明もなかったのか?

 懐かしい人にも出会えた。パーティーの祝辞を述べた熊岡路矢さん*8カンボジア市民フォーラム共同代表)で、彼と会ったのは1983年、タイで。高橋さんが生まれた頃だ。当時、熊岡さんは、日本の海外NGO活動のさきがけとなったJVC(日本ボランティアセンター)で、タイのカンボジア難民キャンプの救援活動をしていた。あれから35年、今もカンボジアを良い国にしようという地道な活動を続けている。

 上で紹介した高橋氏インタビューでの

 残念ながら日本のNGOが彼らとともにデモの現場にやってくる姿は、この5年間で1度も見たことがありません。

という、高橋氏による、おそらく「日本NGOへの批判」という意味合いの言葉を熊岡氏や高世はどう評価するのかなとは思います。
 いやもちろん「デモに参加すれば正しい、参加しなければ間違ってる」つう単純な話でもないでしょう。また「高橋氏が知らないだけで熊岡氏など日本NGO関係者がデモに参加したことはある」のかもしれませんが。


【参考】

■フン・セン(ウィキペディア参照)
 1951年生まれ。1970年3月、北京に亡命中のシアヌーク国王の呼びかけに応じ、ロン・ノル*9政権に対抗するクメール・ルージュ軍の下級部隊指揮官として従軍。1975年4月のプノンペン攻略に大隊長として参加し、4月16日の戦闘で顔面に銃弾を受けて左目を失明した。1976年になるとクメール・ルージュカンボジア共産党ポルポト派)の過激な政策に嫌気がさし、粛清の危険も感じて、翌年の6月にベトナムに亡命する。
 1978年12月、カンプチア救国民族統一戦線中央委員および救国民族青年協会会長に就任。直後にベトナム軍がカンボジアに侵攻、クメール・ルージュ軍は敗走しポル・ポトはタイとの国境へ逃れた。1979年1月7日、プノンペン陥落の同日、人民革命党再建大会(第3回党大会)において中央委員および常任委員会委員に選出された。翌8日には28歳で人民革命評議会外務担当副議長(外務大臣)に就任し、10日には「カンプチア人民共和国」(ヘン・サムリン*10政権)が発足した。以後、彼は外務大臣として、インドシナ和平交渉において重要な役割を果たしてゆく。
 1981年5月1日の総選挙において、コンポンチャム州選出の国民議会議員として当選。同年5月26日から29日の第4回党大会において、中央委員および政治局員、書記局員に選出され、党内序列第6位となる。6月にはペン・ソバン*11内閣の閣僚評議会副議長(副首相)兼外務大臣に任命され、ペン・ソバン失脚後も、次のチャン・シ*12内閣で留任した。
 1984年末のチャン・シ首相の病死後、フン・センは同首相の葬儀委員長を務める。
 1985年1月14日、第8期国会において後任の閣僚評議会議長(首相)に選出され、外務大臣を兼務した。フン・センは当時32歳であり、世界最年少の政府首脳だった。1990年9月にはカンボジア最高国民評議会 (SNC) 議員に就任。1991年10月18日、カンプチア人民革命党臨時党大会において、カンボジア人民党への改称が採択されるとともに、フン・センは党中央委員会副議長に選出され、序列第3位となった。
 1993年5月の国連管理下の総選挙の結果、王党派の政党フンシンペックと人民党が連立で合意し、同年7月1日にノロドム・ラナリット*13と共に暫定国民政府共同首相に就任した。9月24日、新憲法が発効し、カンボジア王国が成立すると、第二首相に就任(ラナリットが第一首相)。
 しかし、1997年7月にラナリットの外遊中に武力クーデターを起こし、連立相手であったフンシンペックを政権から排除した。その後はフンシンペックの反ラナリット派と連立の枠組を維持し、ウン・フオト外相を第一首相に就けた。
 1998年11月、再びフンシンペックとの連立で合意し、ラナリットは下院議長に就任し、フン・センは11月30日に単独の首相に就任した。 2004年7月15日、首相に再任。
 2013年9月24日、先の総選挙により選出された国民議会(下院)は野党がボイコットする中、与党議員68人の全会一致でフン・センを首相に再任し、新内閣を承認した。
 2017年9月、最大野党カンボジア救国党の党首ケム・ソカーを逮捕し、同年11月にはカンボジア救国党を解散させるなど独裁化を強めているとされ、2017年時点で在職期間で世界最長の首相とされる。

*1:すでにネット上で指摘がありますが「万葉集の歌は中国古典の本歌取り」なのだから「中国古典も出典」です。要するに安倍が嘘つきだと言うことですが。いずれにせよ「元号自体が中国ルーツ」なのだから「出典は日本古典」と安倍が言うことは滑稽でしかありません。

*2:やはりそうなんですかね。「生活がよくなるわけでもない」元号なんぞが支持率アップにつながる意味がおよそ理解できませんし、そんな日本人のあほさに絶望的気持ちになりますが。

*3:一橋大学の同窓クラブ「如水会」(大正3年発足) の同窓会館。

*4:確かに「33年間(1986~2019年)、カンボジア人民党が政権与党」てのも問題ですがもっと酷いのは「その33年間、ずっとフンセンが首相だったこと」です。

*5:著書『女の国になったカンボジア』(1984年、講談社文庫)、『ベトナムは、いま:十年後のベトナム戦争』(1985年、講談社文庫)、『闘った人びと:ベトナム戦争を過ぎて』(1988年、講談社文庫)、『沖縄 若夏の記憶』(2016年、岩波現代文庫)など

*6:著書『世間のひと』(2014年、ちくま文庫)など

*7:著書『海も天才である』(1992年、角川文庫)、『全・東京湾』(1992年、新潮文庫)、『珊瑚礁の誘惑』(1993年、角川文庫)など

*8:著書『カンボジア最前線』(2003年、岩波新書)、『戦争の現場で考えた空爆、占領、難民:カンボジアベトナムからイラクまで』(2014年、彩流社

*9:防相、首相、大統領を歴任。内戦の敗北によりハワイに亡命。

*10:カンボジア救国民族統一戦線議長、カンボジア首相、カンボジア人民革命党書記長、カンボジア下院議長などを経て現在、カンボジア人民党名誉議長。

*11:1936~2016年。カンボジア人民革命党書記長、カンボジア首相など歴任。しかし、ベトナム共産党政治局員のレ・ドクトと対立したことで失脚。その後、カンボジア救国党から、2013年7月の第5期国民議会選挙に立候補して当選し、政界に復帰した。

*12:1932~1984年。副首相兼国防相、首相など歴任。

*13:第50代国王シアヌークの次男で、第51代国王シアモニの兄。フンシンペック党首、カンボジア第一首相、下院議長など歴任