「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2022年7/1日分:荒木和博の巻)

在日朝鮮人の拉致について(R4.7.1): 荒木和博BLOG
 5分程度の動画です。
 まあ、政府認定拉致被害者は全て日本人ですからね。
 まず、すべきことは「実現可能性が比較的高い」であろう「政府認定拉致被害者の帰国」であって、それ以外のことは「その後の話」でしょう。
 しかも荒木の場合は動画内で

【1】「帰国事業」で帰国した在日朝鮮人
【2】北朝鮮に帰国後、韓徳銖(1907*1~2001年。1958年から2001年に死去するまで朝鮮総連議長(韓徳銖 - Wikipedia参照))の北朝鮮政府への要請で、身柄拘束され、日本に戻れなかった*2と言われる金炳植(1919*3~1999年。拘束当時、朝鮮総連第一副議長、韓徳銖の義弟)

についてまで「自由往来できないから拉致」と言い出すから「おいおい」です。
 そんなことを言って「即時一括全員帰国以外不可」なんて言ったら、それこそ「拉致は解決しません」。
 つうか、そんなことを言うなら荒木はとっとと「いわゆる日本人妻の帰国*4」に動いたらどうなのか。
 あるいはすぐにでも平壌に常駐事務所を設置するとともに、早急に国交樹立し、日朝間の自由往来を進めるよう、政府に対し主張すべきではないのか。

【参考:金炳植】

金炳植 - Wikipedia
 1919~1999年。
 1972年10月、代表団の一員として南北赤十字会談に出席するため北朝鮮渡航するが、滞在先の平壌で「反党反革命分子」として拘束され、失脚。朝鮮総連議長だった韓徳銖が金日成を後ろ盾にしたのに対し、金炳植(当時、朝鮮総連第一副議長)は金正日に接近することで勢力を拡大し、韓の地位を脅かしたため、金日成が事態収拾を図り、1972年の「失脚」に繋がったといわれている。
 失脚後の金炳植は「隠遁生活」を送ったとされるが、金正日の権力確立(1993年4月に金正日は国防委員長(軍のトップ)に就任。一方、1994年7月に死去するまで党のトップ(党総書記)、政府のトップ(国家主席)は父・金日成が務めた:金正日 - Wikipedia参照))に伴い復権したとみられている。
 金正日の国防委員長就任(1993年4月)以降の1993年7月、金炳植は「朝鮮社会民主党(政権与党「朝鮮労働党」の衛星政党)」の委員長に就任。1993年12月11日には国家副主席に任命され、復権を果たした。1998年8月28日に朝鮮社会民主党委員長職を金英大*5に譲り、党顧問に就任。9月5日には副主席を退任。

 ちなみに、金炳植が帰国した1972年には朝鮮半島関係では

1972年 - Wikipedia
◆7月4日
 南北朝鮮政府が、「南北平和統一に関する共同声明(南北共同声明 - Wikipedia)」を発表
◆12月25日
 北朝鮮最高人民会議が新憲法朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法)を採択。金日成首相を国家主席に選出。
◆12月27日
 朴正煕大統領が第4共和制(維新体制)を発足。直接選挙制だった大統領選挙を、統一主体国民会議国民会議代議員は選挙だが、立候補制限が厳しく、与党以外、事実上、代議員候補になれない)による間接選挙に改め独裁を強化

と言った出来事がありました。

*1:韓と同じ1907年生まれの著名人としては「江田三郎社民連代表(1977年死去)」「ブレジネフ元ソ連共産党書記長(1982年死去)」「三木武夫元首相(1988年死去)」などがいます(1907年 - Wikipedia参照)。

*2:ただし、実権がどこまであったかはともかく、帰国後、国家副主席などの要職を歴任

*3:金と同じ1919年生まれの著名人としては「趙紫陽・元中国共産党総書記(2005年死去)」「宮沢喜一元首相(2007年死去)」などがいます(1919年 - Wikipedia参照)。

*4:日本人妻については例えばぜひ購入して読んでみたい(「ドキュメント 朝鮮で見た〈日本〉: 知られざる隣国との絆」)(こういう基本的なことをどうにかしてもらわないとどうしようもない) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)(2019.4.22)参照

*5:朝鮮社会民主党委員長、最高人民会議常任委員会副委員長(国会副議長)などを歴任