統一地方選「共産党選挙結果」についての阿部治平・論文を論評する(チベット問題にも最後にちょこっと触れます)

リベラル21 選挙における左翼敗退の理由—わが村の場合
 まあ今回共産党統一地方選で、「個々では議席を増やした自治体もあります」が、残念ながら「トータルでは議席を減らし」、また阿部氏のすむ「長野の某村での村議選」でも共産候補が落選したそうです。
 アンチ共産の阿部氏が「アンチ共産のリベラル21」で共産への悪口をどや顔で始める事は容易に予測できますし、実際そうなのですが賛同できる点と賛同できない点があります。「基本、阿部氏が大嫌いな共産支持者の俺」ですが、今回は「阿部氏に悪口しか基本的にしない、いつもと違い」阿部氏全否定ではありません。共産支持者の俺ですが、「一定の正当性があると思われる共産批判」は受け入れたいと思っています。
 なお、「阿部氏がすむ長野の某村での共産党村議の政治活動、選挙活動(今回落選)」に対する阿部氏の批判的、否定的な事実認識、評価がどの程度正しいかどうかを言い出すと話が進まなくなるし、俺にそれを論じる知識や能力もないので、「細部はともかく、大筋では彼の批判的認識が正しい」つう前提で話を進めます。なお、最後に俺的な形で「チベット問題に触れていること(阿部氏への悪口です)」を予告しておきます。

【彼の主張で賛同できない点】
【1】「野党が無能だから俺たち困ってる」つう、お客様意識、他人事意識が露骨で「俺はこうする、こうしたいんだ!」「野党の敗北は俺の責任でもある」などといった当事者意識に欠ける
 いわゆる「お任せ民主主義」「お客様民主主義」と皮肉られる態度が阿部の態度かと言っていいと思います。なお、「お任せ民主主義」でググったら、佐高信編著『さらば おまかせ民主主義』(1997年、岩波ブックレット) という本がヒットしました。 
 この点は「我々はこうしなければいけないと思う」「俺はこうするつもりだ」「俺は今こういう運動をしている」つう文章が結構ある澤藤統一郎氏など*1と阿部の違いです(ただしリベラル21に掲載される澤藤氏の文章は、「リベラル21にしか掲載されない阿部の文章」と違い、澤藤個人ブログ澤藤統一郎の憲法日記からの転載ですが)。まあ、安直に「楽観的展望を語ってもまずい」のですが、ここでの阿部の文章はただただ「共産はダメだ」「野党はダメだ」「だから俺たちアンチ自民の国民が困ってる」つう、あえて単純化して表現すれば「正義の味方(共産など野党)が無能だから悪党(安倍自民)に困らされる被害者の僕ら(安倍自民批判派の国民)」つう話でしかありません。
 彼にとって「統一地方選で敗退した」のは「左翼」「野党」という「自分とは関係ない存在」でしかなく、自分はその「敗退によって苦しめられる善意の第三者」でしかないようです。当然「そうした敗退」について自己の責任を感じることは彼にはおそらくありません。
 彼は「俺たちアンチ自民の国民は野党の敗退を防ぐことが出来なかったか」「今の野党を変えることが出来なかったか」「今の野党が旧態依然の存在なら俺たちこそが新しい野党を、市民運動を作り出すべきじゃないか」という問題意識がまるでない。単に「自分と関係ない存在」としての野党を「上から目線でdisる」、それが彼のこの文章です。もしかしたらこんな文章を平然と載せてるリベラル21にもそんな問題意識は全くないのかもしれません。
 そんな問題意識の欠落した連中が「私たちは護憲・軍縮・共生を掲げてネット上に市民のメディア、リベラル21を創った」とは「悪い冗談」ですが。
 「政治の世界においては国民は傍観者ではなくプレーヤーなんだ」「今の政治に不満があるなら、デモをするとか、選挙に自分が立候補するとかいろいろやってもいいんだ」という意識がこの阿部文章にはあまりにも欠落しています。
 まあ、「阿部の名誉(?)のために断っておけば」こういう人は日本では珍しくはないのでしょう。もちろん一般人にとって「欧米とは違い(?)」日本では政治に対する敷居が高いことも否定しません。小生だって情けないことにリアルの政治活動なんて投票以外にはろくにしていません。とはいえ、ここでの阿部の文章はあまりにも他人事過ぎるでしょう。
 こうした阿部の「お任せ民主主義的態度」は「俺の認識」では、実は皮肉なことに「彼の関心事らしいチベット問題」でも「同じ」です。
 彼はチベット問題ですら「中国は酷い」「それを容認する国際社会は酷い」「だからダライ猊下は酷い目に遭い、ダライ支持者の俺たちも悲しい思いをしている」とただぼやくだけです。「チベット問題を改善するために俺はこうします!」つうのが全然ない。これまた安易に楽観的展望を語るのもまずいでしょうが、「自称チベット支援者」でありながら「チベット問題改善のためにこうしたい」つう当事者意識にあまりにもかけています。あえて単純化して表現すれば彼のしている話は「正義の味方(国際社会)が無能だから悪党(中国)に困らされる被害者の僕(ダライラマ亡命政府と阿部らその支援者)ら」つう話でしかありません。おそらく彼はチベットの現状についても「支援者として自分の無能さにつらい思いをしている」なんてことはないでしょう。彼が感じてること、それはただただ「中国の無法を許す国際社会への怒り」です。
 あくまでも彼は「お客様の立場」でしかない。当事者意識がまるでない。被害者意識しかない。
 そんなんで何がチベット支援者なのか。リベラル21は今回の阿部の文章に俺が感じたような、そういう疑問を感じないのか。感じた上で「それでも書き直しも求めずにこのまんま掲載した」のか?。「何だかなあ」という違和感を禁じ得ません。
【2】阿部氏の村での問題を「共産党全体」や「左翼全体」「野党全体」に広げてる点
 まあ、「彼の村の共産党」も「共産党の一部」ではありますから、そこは「共産党の問題」といってもいいかもしれない。しかしそれを「共産党以外の左翼や野党」にまで広げるのは明らかに不当でしょう。そもそも「過大評価は禁物」ですが「トータルはともかく」個別には共産や「共産以外の野党(立民、国民民主、社民)」が議席を増やした自治体もあります。

【彼の主張で賛同できる点:阿部氏の指摘をより抽象的、一般的に要約しています】
■彼の村での共産党候補の敗因についての評価(なお、「しつこく繰り返しますが」彼の事実認識が概ね妥当という前提で論じてます)
・選挙で勝つためには「候補者や党の魅力をアピール」しなければならない。
「俺は政治的に正しいんだ、だから選挙民は俺についてこい」ではダメであり、地道な政治課題をどう解決していくかを明確に示し、かつ「口先だけでなく」実績を示さないといけない。
 その点、わが村の共産党村議と組織はそうした「地域での地道な活動」がかけていたと思う。
 特に国政はともかく、少なくとも地方政治においては「安保法反対、安倍政治反対」のような話よりも「わが村の老朽化した体育館を建て直そう」的な生活に密接な話が大事だ。国政はともかく地方政治では自民候補支持だからと言って、それは必ずしも「国政での自民政策支持」を意味しない。しかし、わが村の村議と党組織は「安保法反対、九条擁護」的な話(つまり国政レベルの話)が多かった。
 そのため、私、阿部は「共産党の地方活動家で親友のN」が、生前「共産党を頼むよ」といったこともあり、「わが村では唯一のリベラル議員」である共産党村議候補を支援したかったのだが今回応援する気になれなかったし、実際応援しなかった。そうしたこと(つまり阿部氏の理解では村議候補の主張が村民の要望にフィットしてない)もあってか、今回、共産党村議候補はわが村では落選した。今回は共産党統一地方選において議席を改選前よりトータルでは減らしたが、そうした背景にはこうしたこと(地元民の要望にフィットできなかった、そしてその理由が国政課題のアピールだったこと)もあったのではないか。
 これでは国政では一定の無党派の支持が得られても、地方政治ではうまくいかない。そして地方政治で十分な支持が得られないことは「地方政治と国政は別だから問題ない」ともいえず国政にもある程度影響する。地方での議員や後援会などの力が国政選挙において基礎票となるからである。
 なお、こうした事態には「党中央の責任がない」などとは言えないが、末端党員の責任も重く党中央ばかりを非難できない。地方政治において適切に地域の課題を把握し対応すると言うことは「国政とは違い」一義的責任は地元の末端党員にあるだろう。
【文章が下手だし「俺なりの共産愛(わが日本共産党は永遠に不滅です!(長島茂雄風に))の発動」によって「共産への思いを正確に伝えたい」と思い、要約と言いながらかなり長くなりました。「本当に支持してるのか?」と疑いたくなる、口の利き方が無礼な阿部と違い、小生は基本的には共産支持ですので「阿部の同類」と誤解されたくないと思い、つい長くなりました。】

 まあ、この阿部氏の指摘「地方政治においては地方に密着した課題の解決が大事であり、安保法云々などの国政の課題アピールはポイントがずれてる」は「阿部氏の村の共産党についての彼のそうした認識が正しいかどうか」はともかく、一般論としてはその通りでしょう(上で既に「阿部には当事者意識がなさ過ぎる」と書きましたが「そこまで言うならお前が共産党とは別にそういう候補を村議候補に立てて当選させろよ、共産や野党一般に上から目線で悪口して終わりかよ、阿部」つう不快感は正直あります。ただし、そうした問題と「ここでの阿部指摘の是非」はもちろん別問題です)。「ほとんど政党候補」の国政と違い、地方選挙において「無所属候補が多い(まあ自民に親和的な保守系が多いのではありますが)」のもそういうことです。
 あるいは、たとえば「共産党ではありませんが」非自民の保坂世田谷区長(元社民党代議士)の当選もそういうことでしょう。彼は国政では当選が難しかったが世田谷区長としては「楽な選挙ではない」でしょうが「2011年の初当選」から今回、三度目の当選を果たしました。
 「地方政治と国政」の違いは「今更の話」ではありますが大事な話でしょう。
 実際、こうした指摘は阿部氏以外からもなされ、「必要十分ではない」にせよ共産党の「中央も地方も」それなりに認識し、対応しようとしてるとは思います。それが例えば後で紹介する「和歌山県議選」「京都の大山崎町長選」などではあるでしょう。
 小生も「共産支持者」ではありますが「党員、後援会員ではない」し、しがらみもないので、こうした共産への批判的な指摘には「まあ、耳が痛いけどそういう面もあるのだろうね」と素直に受け入れます。
 そもそも和歌山県議選での自民幹事長の地元で勝利/和歌山県議選御坊市区 楠本氏、自民現職破るという「共産にとっての嬉しいニュース*2」は「逆の意味で阿部指摘の正当性を裏付けてる」でしょう。
 何せ「自民党王国で相手は二階幹事長子飼い、定数1」です。この選挙で勝つには確実に「自民党支持層」の支持も必要であり、そのためには「安保法ガー」「安倍政治反対」『だけ』では勝てはしません。
 あるいは
京都・大山崎町長に共産党支持の前川氏/自公など推薦の現職破る
共産が勝った理由 京都・大山崎町長選 統一選にも影響か - 産経ニュース
という「自民、公明、立民、国民民主四党相乗り候補の現職町長を敵に回して、僅差だが勝利した大山崎町長選」なども阿部指摘の正当性を裏付けてるのではないか(ただし今回共産が町長選で支援した候補は「元自民の保守派」で党員ではありませんが)。あるいは「少し古い話」になりますが、自民党とタッグを組んで中里長門・市議を当選させた陸前高田市長選挙とか。
 和歌山県議選、大山崎町長選、陸前高田市長選で地元の共産党が何をどうしたのか、小生は無知、不勉強なので詳細は知りません。またこれらの選挙での勝利を過大評価してもいけないでしょう。また「他の地方自治体に単純適用できない和歌山や大山崎町陸前高田市の特殊事情もある」でしょうが、「地方政治においてどう保守層の支持を得ていくか」で「他自治体の共産党組織」や、もっと話を広げて「立民や社民など野党一般」が学ぶべき材料はあるかと思います。
 さてこれだと「共産支持者なので正直、どんな内容でアレ批判は、愉快ではない。大体、阿部の口の利き方*3も無神経で無礼千万*4だが、阿部の共産批判は一理あると思う、共産党や支持者は無視してはいけない指摘だと思う」で「阿部氏への褒め言葉ばかり」で阿部治平嫌い、共産党シンパとして「しゃくに障る」ので最後に彼への悪口を書いておきます。ただし「お前の母ちゃんでべそ!」「黙れ、反共産分子・阿部治平!」のような建設的でない話ではなく、俺的には「それなりに建設的な話」ですが(ただし阿部氏はこれから俺がいうような話には「ダライ猊下を馬鹿にするな」と怒るだけでしょうが)。
 さてここでの阿部氏の話のポイントの一つは「俺は正しいからみんなついてこい、では人は動かない。もっと実利的なもんで人は動く」つうことですよね。
 「地方選では『安保法云々、安倍政治反対云々』より生活に密着した課題が大事だ、その点で問題があったからわが村での共産党村議候補は落選したのだと思う。そして他地域の共産党の市区町村選挙まで調べてないが、トータルで減らしたのはそういう問題が、わが村以外の共産党の選挙でもあったのではないか」つうのはそういうことです。
 で「今回の阿部氏への悪口」はそういう「実利は大事だ、そういうこと軽視したことで今回、市区町村議選でトータルで共産は議席減らしたんじゃないか?」つう人間・阿部氏がチベット問題では「ダライ猊下は正しい、中国のチベット統治は間違ってる、中国を容認する国際社会はチベットに冷たいと、ただただダライ万歳しかしない、そして中国や国際社会に悪口しかしない」のはいかがなもんかいねえ、矛盾してねえ?、ダライ一味に甘過ぎねえ?、おかしいんじゃねえの?、身びいきじゃないの?、つう話です。
 id:Bill_McCrearyさん記事インドで亡命生活60年の人と中国政府のもとで働いたその兄弟とでは、明らかに兄弟のほうがチベットの人たちの役に立っている(ほかに学校のことなど) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
 拙記事今日の中国ニュース(2019年3月11日分) - bogus-simotukareのブログ
今日の産経ニュースほか(2019年3月28、29日分) - bogus-simotukareのブログ
で紹介した

「中国に存在消される」チベット動乱60年、募る危機感:朝日新聞デジタル
 バイラクッペには祖父母や親の代から暮らす家庭の子が通うチベット人学校もあり、その児童生徒数も減り続けている。英語で学ぶ私立学校に通わせ、欧米の大学を目指す傾向が強くなった。寄宿学校に通うテンジン・チョギャルさん(18)も「両親と一緒に外国に住むのが夢」と言う。
 「チベット社会のために働くと言っても教師か亡命政府職員くらいしかない。悲しいことだが、よりよい教育や仕事を求めるのはやむを得ない」。
 そう語るツェリンさんの娘2人も米国とスイスに渡った。

チベット亡命政府60年 ダライ・ラマ高齢化で岐路に - 毎日新聞
 亡命チベット人約10万人が暮らすインドでは欧米を目指す若者が増えている。亡命3世でホテル従業員のテンジン・シェラプさん(25)も欧米への移住を希望する一人だ。大学を卒業したが、インドではホテル従業員以外の職が見つからなかった。「父までの世代はインドで自由に信仰ができるだけで満足できた。僕たちの世代は自由な信仰だけでなく、経済的な豊かさもほしいんだ」と話す。
 テンジンさんは欧米で活躍する亡命チベット人の女性ポップ歌手にあこがれる。
 「彼女はダラムサラで寺や貧しい人に寄付している。若い世代は亡命社会を捨てたいのではなく、むしろ貢献したい」
 亡命チベット人が文化を維持してこられたのは、インド各地に共同体があったからだ。
 だが欧米に向かう人の増加に加え、中国の監視強化によってチベットからインドに逃れる人が激減し共同体は縮小傾向だ。
 自身も米国に留学経験がある教員のツェテン・ドルジさん(52)は「欧米に向かう人が増えれば、文化の維持は難しくなるだろう。欧米に移住した本人は『チベット人』という意識は強まるが、世代を経れば、現地社会との同化が進んでいくのは他の移民を見ても明らかだ」と見る。
 また社会活動家でジャーナリストのロブサン・ワンギャルさんは「欧米での文化や慣習の維持に取り組むことが必要だ」と指摘し、こう付け加えた。
「我々は国土を失った民だ。このままでは数十年先に文化までも失いかねない」

【チベット動乱60年(中)】インド亡命「中国に屈さない」(1/3ページ) - 産経ニュース
 ニューデリーチベット人居住地域で暮らすサンポさん(20)は「自分は積極的にチベットに帰りたいと思わない」と話す。今は電気技師として働くが、将来的には米国への留学を希望する。「中国が憎いことに親世代も私も変わりはない。だが、それよりはインドで生活を安定させ、前を向いて進みたい」と“新世代”の心境を代弁した。

印のチベット難民社会で失われる活気 国境警備厳格化、中国の圧力じわり - SankeiBiz(サンケイビズ)
 インドの1人当たり国民総所得は中国の約5分の1の年1680ドル(16年、約18万円)。豊かな欧米に再亡命を図る若者は増加するばかりだ。
 ニューデリーで暮らす難民のドルマ・パルゾムさんは「インドには良い仕事がないので、欧米に亡命したい」と話した。
 ダラムサラで日本料理店を営む山崎直子さんの店でも、難民従業員の多くがオーストラリアなどに移住した。
 山崎さんは「豊かになった中国で就職したいと考え、中国当局の許可を得て自治区に戻ろうとする若い難民もいる」と指摘。「ダラムサラの難民は高齢者ばかりになった。チベット伝統の祭りも減り、チベット難民の一大拠点としての一体感も次第に薄れてきている」と話した。

なんて話は「実利的なもんで人は動く」のチベット版です。これに対し「中国に戻って恥ずかしくないのか」「欧米やオーストラリアに移住して恥ずかしくないのか」「そんなにカネが大事か」「ダラムサラのダライ猊下を見捨てるのか」「それでもお前はチベット人か、チベット人としての誇りがないのか」といってもどうしようもない。
 「ダライ猊下と彼を支持する俺たちは正しい、だけでは人は動かない。もっと実利的なもんで人は動く」つうことですよね。「一帯一路」「AIIB」「チベット鉄道(チベットの交通が便利になった)」「中国のチベット統治で、チベットは経済的に発展し、チベット人の平均寿命は長くなり、所得も大幅にアップしました」つう実利的なもんで人は動く。
 「中国全面肯定ではないにせよ」何もチベット人全てが「ダライ万歳でもない」でしょう。何も自治区に住むチベット人全員が焼身自殺してるわけでもない。「数が少ないからたいした問題じゃない」つう話でもないですが自治区住民全体から見れば焼身自殺者なんつうのは少数派に過ぎません。
 このチベットの現状について「ダライ支持者」阿部氏は何というのか。たぶん日本共産党に対し「国政課題も大事だが、もっと地元の生活課題に適切に対応せよ、その点で問題があるから議席が減ったのではないか」といったようにはダライラマ一味に対して「あんたらチベット亡命政府の対応が適切でないから、欧米に移住するチベット人が増えるんや。国際社会もあんたらに冷たいんや」とは言わないだろうな、むしろそういう指摘に「ダライ猊下を馬鹿にするな!」「中国の無法を容認するのか!*5」「ダライ猊下を見捨て欧米に移住するようなチベット人の誇りを失った奴を容認するのか!」などと激怒するだろうな、あの人そういうデタラメな人だよねえ、感がありますけど(苦笑)。たぶんMukkeやI濱教授もそういうデタラメな人間でしょう。
 まあ、これ、いわゆる傍目八目(『傍目(傍観者)の方が、頭が熱くなってる対局者よりも冷静に八目(八手)先の囲碁や将棋の手が読める』つう意味。転じて『当事者より傍観者の方がしがらみや思い入れがないので冷静に正しい判断が出来ることが少なくない』という意味)つうことなんでしょう。つまり「傍目の俺やid:Bill_McCrearyさん」の方がMukkeやI濱教授、阿部氏よりも冷静にチベットが見れるつう話でしょうが、共産党にこういうこというなら、阿部氏ももっとダライを客観的な目「傍目八目」で見たらどうなんですかね?。
 まあ、傍目八目は「安倍自民VS安倍批判派」「トランプVSトランプ批判派」などでも同じ事ですが「中国VSダライ」も同じ事です。
 「我々ダライ亡命政府がこういう手を打ったら中国はこう反撃してくるだろう」つうのを「最低でも八目(八手)先ぐらいまで冷静に読んで対応する」位のことをしないともうどうにもなりません(「有能な経済大国・中国」相手に「無能で貧乏なダライ一味」にそういうことが出来るとは正直思ってませんが。まあこういうこと言うから俺はMukkeやI濱教授なんかに嫌われるわけですが)。「猊下は正しいんだ、中国のしてることはチベット差別だ」「なぜ安倍晋三やイタリアのコンテ首相は一帯一路参加を表明した!。チベットを見捨てるのか!」でどうにかなるなら苦労しない。
 話が脱線しますが拉致問題も「傍目八目」です。「こう動いたら北朝鮮はどう動くのか」など、八目(八手)先を読むような冷静さなしで、拉致被害者家族会のように「とにかく北朝鮮を制裁すればいいのだ」では何年たっても問題は解決しません。
 それはともかく、ダライ衰退の「大きな理由、背景」は明らかに「ダライ一味が時代錯誤だから」でしょうに。で、ダライもそれはある程度自覚しているからこそ「転生霊童をやめようかと思う」などと言い出すわけです。えーと、話がぐだぐだで、まとまらなくなってきましたが、ここでひとまず終わりにします。

*1:例は澤藤氏でなくてもいいですが

*2:過大評価は禁物ですが、こうした「成功例」にまるで触れず、共産党への悪口しかしない阿部には「(阿部の場合『野党共闘のパートナーとして共産を一応支持する』という広い意味での支持者だとは言え)ほんとに支持者なのかよ」感を禁じ得ませんね。一方で阿部は本当に支持してるらしいダライ亡命政府については「日本ウヨとの野合」も「オウム真理教からの多額の金銭受領」も何一つ批判しません。

*3:内容はともかく口の利き方がいつもながら阿部は無礼ですね。「もう少し言い様があるだろう」と思います。理由はともかく、なんか、共産党に恨み辛みとか、含むところがあるんでしょうか?

*4:リベラル21も「もう少し軟らかい表現にできませんか?」と書き直させたらどうなんですかね?

*5:安倍論文での共産批判が自民支持でないのと同様、こうしたダライ批判は中国支持ではありません、