「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2021年5/26分:荒木和博の巻)

北朝鮮工作員の実態【調査会NEWS3444】(R3.5.26): 荒木和博BLOG
 「拉致被害者の帰国」とは何一つ関係ない駄文で心底呆れます。
 「くだらなすぎて」引用して突っ込む気にもなれないので特に引用も批判もしません。


安全保障と拉致問題(R3.5.26): 荒木和博BLOG

 令和3年5月26日水曜日のショートメッセージ(Vol.419)。新型コロナでの我が国のもたつきは結局安保*1を他国に依存*2してきたことによるものではないか、その延長線上に拉致問題もあるのではないかというお話しです。

 7分程度の動画です。動画説明文だけで「アホか」ですね。
 「新型コロナでのもたつき」には「菅首相ら政治家、官僚らの無能さ」も勿論あるのですが拙記事
新刊紹介:「歴史評論」2021年6月号(ボーガス注:江戸川乱歩『芋虫』、ダルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』のネタばらしがあります) - bogus-simotukareのブログで紹介した

映画で考える日本の歴史と感染症-結核との長い闘い、保健婦の活躍を中心に |ニッセイ基礎研究所2020年10月02日
 今年上旬からの新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、感染症に対して脆弱な医療提供体制の問題点が浮き彫りになっています。しかし、(中略)、人類と感染症の長い付き合い(腐れ縁?)を踏まえると、感染症が社会にとって深刻な脅威とは言えなくなったのは、そう遠い話ではありません。
 そこで今回は映画を素材にし、感染症との関わりを考えたいと思います。
 歴史を振り返ると、感染症は日常的に起きていました。例えば、開国直後の日本はコレラチフス、性病などに次々と見舞われ、1879年のコレラ感染では約10万人が命を落としています。こうした時代の雰囲気を後年に描写した映画として、『ふんどし医者』(1960年公開)があります。
 舞台は江戸末期から明治初期の駿河国静岡県)島田宿。長崎で西洋医学を学んだ医師の小山慶斎(森繁久彌)は池田明海山村聡)とともに江戸に戻って幕府お抱え医師(御典医)になるつもりだったのですが、渡し船や橋が設けられていなかった大井川の増水に伴い、島田宿で足止めを余儀なくされます。その間、病に苦しむ宿場の旅行者などの実態を見た慶斎は長崎から追い掛けて来た女性、いく(原節子)とともに島田に滞在することを決意し、貧乏人や旅人、農民の病気を治す町医者になりました。
 そんな中、ひょんなことから地元の半五郎(夏木陽介)という男に大手術を施すことになり、当初は反発していた半五郎も慶斎が優れた医者であることを知るに至り、自らも医師を志すようになり……。詳細はDVDでご覧頂くとして、映画の後半では当時、伝染病として恐れられたチフスの感染拡大が描かれています。
 小津安二郎監督が戦前に作った映画にも感染症は登場します。例えば、失業した父子家庭を取り上げる『東京の宿』(1935年公開)、失業した生活困窮世帯の生活を描いた『東京の合唱*3』(1931年公開)では、いずれも医療費の支払いと急性感染症に関するシーンが盛り込まれています。具体的には、いずれも子どもが「疫痢」になり、主人公が医療費の用立てに迫られた結果、前者では主人公が泥棒に入り、後者では主人公が質屋に服を入れる場面があります。
 ここから言えることは2つです。第1に、当時は国民健康保険生活保護の医療扶助など社会保障制度が整備されていなかったため、医療費の急な支払いが大きなリスクになっていた点です。
 第2に、子どもが「疫痢」になっている点です。疫痢とは主に幼児がかかる病気で、激しい腹痛や下痢などを伴います。当時は上下水道が今ほど整備されておらず、衛生環境も良くなかったため、疫痢は脅威になっていました。
 「肺が悪い」「肺をやられた」。
 昔の日本映画を観ていると、こうしたセリフが頻繁に交わされています。つまり、「国民病」と呼ばれた結核です。特効薬が普及する1950年代中盤までの間、結核は日本人の死因の上位にランクインしており、国民にとって脅威となっていました。それだけ結核が身近だった(悪い意味ですが)ことを理解する一助として、市川崑監督による『おとうと』(1960年公開)を取り上げます。
 映画の舞台は昭和初期。文豪の父(森雅之)を持つ主人公のげん(岸恵子)は学生の弟、碧郎(川口浩)を可愛がりつつも、反抗期で何かと問題行為の多い弟に手を焼いていました。その後、映画の中盤で碧郎が結核に感染していることが分かり、無機質な病室に隔離されます。しかも、碧郎の病状は進んでおり、医師から「なぜもっと早く医者に見せなかったんです」と言われるレベル。結局、碧郎は「今日から厄介者か」「『おれはもう難しいんだ』と言ってくれた方がいいんだ」などと半ば自暴自棄になり、げんなどに看取られつつ早世してしまいます。
(中略)
 ここでは吉永小百合主演の『いつでも夢を』(1963年公開)のシーンを取り上げます。
 映画の舞台は高度成長期における下町の定時制高校。ここに通う三原ひかる(吉永小百合)、木村勝利(浜田光夫)、松本秋子(松原智恵子)の青春物語を取り上げており、療養所は後半に登場します。具体的には、秋子は結核で高校中退を余儀なくされ、ひかるが秋子を見舞うため、「武蔵野療養所」を訪ねるシーンです。その際、ひかるに対し、秋子は以下のように述べています。
『この病棟だと、随分と軽症な方なのよ。喀血してもね、病棟が新しいから、回復率が早いんですって。このまま順調に行けば、1年ぐらいで帰れるだろうって、先生が仰ったわ。』
 ここでのポイントは「病棟」「1年ぐらいで帰れる」という部分です。この時点で結核の特効薬が開発され、結核で亡くなる人は少なくなっていた半面、結核患者を受け入れる病床(映画では「病棟」となっています)の整備が問題となっていました。
 さらに、後者の「1年ぐらいで帰れる」という部分については、社会復帰支援が課題になっていた点を示唆します。実際、1956年に初めて発刊された『厚生白書』は「結核は依然最大の国民病」としつつ、結核患者を受け入れる病床の整備のほか、結核患者の社会復帰支援に言及しています。
 つまり、『いつでも夢を』のセリフは結核を克服した後も、社会復帰という課題に直面していた事実や、結核に苦しめられてきた歴史的な経緯が分かります。今でも毎年2,000人程度の方が結核で亡くなっていることを考えると、「結核は過去の遺物」と言い切れないのですが、戦後の一時期まで結核は大きな脅威になっていたことを読み取れます。言い換えると、戦後に医療制度を整備したり、公衆衛生を改善したりしたことで、結核を中心に感染症の封じ込めに成功したと言えます。
 さらに日本の公衆衛生の改善には保健婦(現在は保健師)が大きく貢献しました。こちらも幾つかの映画に取り上げられており、『明日は咲こう花咲こう』という映画(1965年公開)に注目します。
 主役の小日山ひろ子(吉永小百合)は山梨県の山村で働く保健婦。東京で研修を受けた後、恋人の新聞記者(中尾彬)の制止を振り切る形で、姫虎村という山村に単身で飛び込みます。
 しかし、上水道が整備されていないなど村の衛生状態は良いとは言えず、ひろ子は「沢で食器を洗ったり、お米を研いだりするのは衛生上、良くありません」と農家の女性に指導したり、村役場の幹部に掛け合って飲料水と洗濯の区域分けに取り組んだりしますが、なかなか村民の理解を得られません。さらに地域の面倒な政争に巻き込まれたほか、結核の子どもを隔離したことが村民の反発を招き、ひろ子は疲弊してしまいます。
 そんな中、村で集団赤痢が発生するものの、村の政争に明け暮れる村役場の幹部は赤痢ではないと言い張るだけでなく、ひろ子を追い落としに掛かり……、詳細はインターネットで鑑賞して頂くとして、こうした保健婦の存在は当時、決して珍しくなく、幾つかの映画で取り上げられています。
 例えば、炭鉱での生活を取り上げた(ボーガス注:名匠・今村昌平監督の)『にあんちゃん』(1959年公開)という映画では堀かな子(吉行和子)という新人保健婦が登場します。さらに、『孤島の太陽』(1968年公開)という映画では高知県の離島で働く保健婦の荒木初子(樫山文枝*4)や、県職員として初子の指導に当たる保健婦の上村聖恵(芦川いづみ)が登場します。いずれも実話を基にした映画であり、中でも後者については、高知県が市町村に保健婦を派遣していた「駐在保健婦」という制度と、その制度に関わった実在の登場人物をベースにしています。
 しかも、いずれのストーリーも「若い新人保健婦が僻地に派遣→『飲み水に気を付けろ』などの公衆衛生の指導に住民が反発→赤痢などの急性感染症が発生→保健婦が大活躍→保健婦が住民の支持と信頼を獲得」という共通点を持っており、それだけ保健婦が身近な存在だったことを示していると言えそうです。
(中略)
 以上のように日本社会は戦後、結核などの感染症を克服したことで、医療政策に占める感染症対策のウエイトは下がりました。
 今回の新型コロナウイルスで政治や行政の対応が後手に回っているのは、戦後の日本社会が感染症の脅威を減退させた結果、医療政策から感染症対策の視点が見落とされていた反映と考えられます。

(後略)

という話です(赤字強調は俺がしました)。
 「繰り返しますが」今回の新型コロナ問題は

映画で考える日本の歴史と感染症-結核との長い闘い、保健婦の活躍を中心に |ニッセイ基礎研究所2020年10月02日
 今年上旬からの新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、感染症に対して脆弱な医療提供体制の問題点が浮き彫りになっています。しかし、(中略)、人類と感染症の長い付き合い(腐れ縁?)を踏まえると、感染症が社会にとって深刻な脅威とは言えなくなったのは、そう遠い話ではありません。
(中略)
以上のように日本社会は戦後、結核などの感染症を克服したことで、医療政策に占める感染症対策のウエイトは下がりました。
 今回の新型コロナウイルスで政治や行政の対応が後手に回っているのは、戦後の日本社会が感染症の脅威を減退させた結果、医療政策から感染症対策の視点が見落とされていた反映と考えられます。

という話です。
 もちろん、だからといって菅首相ら現政府の無能さが免罪されるわけでは全くありませんが、1)菅*5首相ら現政府だけの責任ではない、2)「歴代首相(もちろん橋本、小渕*6などと言った歴代自民党首相も、細川*7、羽田*8、鳩山*9菅直人*10、野田*11と言った非自民政権もどちらも含む)」の責任も大きいとは言えるでしょう。
 拙記事新刊紹介:「歴史評論」2021年6月号(ボーガス注:江戸川乱歩『芋虫』、ダルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』のネタばらしがあります) - bogus-simotukareのブログで紹介しましたが

西郷隆盛も感染した風土病 日韓で征圧した歴史を探求: J-CAST トレンド【全文表示】(ノンフィクションライター 西所正道*12
 かつて日本は感染症寄生虫病対策のリーダーシップを取る姿勢を世界に示した時があったという。その中心人物は(大平*13内閣厚生相という厚生族議員の)橋本龍太郎*14元首相で、1998年のバーミンガムサミットで、「(ボーガス注:ツツガムシ病、日本住血吸虫症、リンパ系フィラリア等)20世紀にさまざまな寄生虫病を克服した日本が、その経験を生かして世界で寄生虫対策のために積極的な役割を果たすことを約束する」と宣言した。
 これは「橋本イニシアティブ*15」といわれ、世界のいくつかの場所に研究拠点を設けた。

ということで橋本首相に至っては「もはや日本にとって感染症は過去の問題となった。ツツガムシ病、日本住血吸虫症、リンパ系フィラリア等など多くの感染症を日本は撲滅した」「その日本の『成功体験』を国際社会の感染症撲滅に生かしたい」とどや顔までしていたわけです。
 いずれにせよ、軍事云々など全く関係ない。「PCR検査不足」「病床不足」「ワクチン不足」と軍事と何の関係があるのか。
 そもそも「戦前」だって「スペイン風邪の大被害」があったわけで、感染症の話と軍事と何の関係があるのか。
 そして拉致についても、「金丸*16訪朝での第18富士山丸船長、機関長帰国」「小泉*17訪朝での拉致被害者5人帰国」でわかるように「九条改憲」など全く関係ない。
 どっちにしろ詭弁で「拉致を口実に九条改憲を放言している暇」があるのならまともな「拉致解決策を提言してみろ」という話です。荒木ら救う会の『経済制裁すれば拉致解決する』論が「小泉訪朝から18年に及ぶ拉致敗戦」で崩壊し、「自衛隊で救出論」も、まともな人間は誰も相手にしない今、もはや荒木にはそのようなことをする能力どころか、する意思もないのでしょうが。

【参考:橋本イニシアチブ(国際寄生虫対策構想)と森イニシアチブ(沖縄感染症対策イニシアティブ)】

G8バーミンガム・サミット コミュニケ(仮訳)
 感染症及び寄生虫症に関する相互協力を強化し、これらの分野における世界保健機関の努力を支援すること。我々は、何億人もの人々が経験している苦しみを除去し、マラリアに起因する死亡率を2010年までに大幅に減少させるための、新たな「ロールバックマラリア」イニシアティヴを支持する。我々はまた、ワクチン開発、予防プログラム及び適当な治療法を通じ、かつUNAIDS(国連エイズ共同プログラム)に対する支援を継続することによって、世界的なエイズ禍を減少させるための努力を継続する。我々は、エイズの予防と治療のためのフランスによる「国際治療統一基金構想」の提案及びその他の提案を歓迎すると共に、我々の専門家に対し、それらの実施のフィージビリティを迅速に検討するよう要請する。

国際寄生虫対策ワークショップ2004の開催について
 1997年、デンバー・サミットにおいて橋本首相からG8に提唱された国際寄生虫対策構想(橋本イニシアティブ)はバーミンガム・サミットにおける具体的な提案を経て、国際協力事業団(JICA:現・独立行政法人国際協力機構)によってタイ、ケニア、ガーナにおける寄生虫対策プロジェクトとして実施されてきました。また、2000年の九州・沖縄サミットにおいて、森*18首相より寄生虫対策を含む沖縄感染症対策イニシアティブが発表され、より一層の展開がなされてきております。
 日本政府は、橋本イニシアティブの実現をめざし、厚生労働省、外務省、文部科学省、JICA、日本寄生虫学会等を中心に、専門家会合によってJICA事業を支援し、また、WHO、世銀等との情報交換を促進するために、ワークショップ等を実施してきましたが、それらの会合において、今後のさらなる効果的な国際寄生虫対策の実施に向けて、他ドナー機関との連携によってさらに取り組みを強化していくことの重要性が指摘されました。
 本ワークショップは、橋本イニシアティブによる寄生虫対策への取り組みが5年目を迎えるにあたり、過去5年間の業績を振り返り、対象となる各国およびそれぞれの国での活動を支援するドナー間で寄生虫対策活動に関する情報を共有し、新しいパートナーシップづくりの体制を構築することを目的として実施いたします。

世界エイズ・結核・マラリア対策基金 - Wikipedia
 世界エイズ結核マラリア対策基金(略称・グローバルファンド)は、「国連持続可能な開発目標(SDGs)」の一つでもある世界三大感染症HIV/エイズ結核マラリア)の流行を終わらせることを目的として設立された組織である。スイスのジュネーブに事務局を置き、2002年1月に活動を開始した。
 日本は、1994年に「人口・エイズに関する地球的規模問題イニシアティブ(GII)」を発表し、この分野で7年間で50億ドルの貢献をして、世界の感染症対策において主導的役割を果たす国の一つとなった。さらに、2000年にホスト国となったG8九州・沖縄サミットでも感染症の重要性を取り上げ、これがジェノバ・サミットを経てグローバルファンドの設立に至ったとされている。
 また、九州・沖縄サミットではGIIの後継となる「沖縄感染症対策イニシアティブ(IDI)」を発表、取組みをさらに強化した。

*1:感染症対策」「防災(震災、水害など)対策」なども広い意味では「安保」ですが、ここでの荒木の話は専ら「軍事(要するに九条改憲)」の話です。

*2:日米安保のこと。ただしここで荒木は「自衛隊の国軍化(九条改憲)」は主張しても「日米安保廃棄」は主張しません。

*3:1931年(昭和6年)公開の日本映画。松竹キネマ製作・配給。監督は小津安二郎。脚本は野田高梧キネマ旬報ベスト・テン第3位。1953年(昭和28年)に東宝で『サラリーマンの歌』(杉江敏男監督)としてリメイクされた。

*4:1941年生まれ。1966年4月から1年間放送されたNHK連続テレビ小説おはなはん』の主役に抜擢されたことで一躍有名になる。俳優の綿引勝彦(1945~2020年)は夫。大手アパレルメーカーのオンワード樫山創業者・樫山純三は伯父

*5:第一次安倍内閣総務相、第二~四次安倍内閣官房長官を経て首相

*6:竹下内閣官房長官自民党副総裁(河野総裁時代)、橋本内閣外相などを経て首相

*7:熊本県知事、日本新党代表を経て首相

*8:中曽根、竹下内閣農水相、宮沢内閣蔵相、細川内閣副総理・外相などを経て首相。首相退任後も太陽党、民政党で党首

*9:新党さきがけ代表幹事、細川内閣官房副長官民主党幹事長などを経て首相

*10:社民連副代表、新党さきがけ政調会長、橋本内閣厚生相、鳩山内閣副総理・財務相、首相などを経て、現在、立憲民主党最高顧問

*11:鳩山内閣財務副大臣菅内閣財務相、首相、民進党幹事長(蓮舫代表時代)などを経て、現在、立憲民主党常任顧問

*12:著書『「上海東亜同文書院」風雲録:日中共存を追い続けた5000人のエリートたち』(2001年、角川書店)、『東京五輪の残像:1964年、日の丸を背負って消えた天才たち』(2020年、中公文庫)など

*13:池田内閣官房長官、外相、佐藤内閣通産相、田中内閣外相、蔵相、三木内閣蔵相、自民党幹事長(福田総裁時代)などを経て首相

*14:大平内閣厚生相、中曽根内閣運輸相、自民党幹事長(宇野総裁時代)、海部内閣蔵相、自民党政調会長(河野総裁時代)、村山内閣副総理・通産相などを経て首相。首相退任後も小渕、森内閣で行革相

*15:国際寄生虫対策ワークショップ2004の開催については「1997年、デンバーサミットにおいて橋本首相からG8に提唱された国際寄生虫対策構想(橋本イニシアティブ)はバーミンガム・サミットにおける具体的な提案を経て」としており飯島氏の認識とは微妙にずれている。

*16:田中内閣建設相、三木内閣国土庁長官福田内閣防衛庁長官自民党国対委員長(大平総裁時代)、総務会長、幹事長(中曽根総裁時代)、中曽根内閣副総理、自民党副総裁(宮沢総裁時代)など歴任

*17:宇野内閣厚生相、宮沢内閣郵政相、橋本内閣厚生相などを経て首相

*18:中曽根内閣文相、自民党政調会長(宮沢総裁時代)、宮沢内閣通産相、村山内閣建設相、自民党総務会長(橋本総裁時代)、幹事長(小渕総裁時代)等を経て首相