「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2021年5/27分:荒木和博の巻)

共産党と民社党と拉致問題(R3.5.27): 荒木和博BLOG

 令和3年5月27日水曜日のショートメッセージ(Vol.420)。24日に日本共産党に要請を行いました。元々共産党民社党犬猿の仲*1でしたが、元両党にいた人が拉致問題では重要な役割を果たしています。そんなこんなのお話しです。

 6分程度の動画です。「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2021年5/25分:荒木和博の巻) - bogus-simotukareのブログで取り上げた日本共産党に要請【調査会NEWS3443】(R3.5.25) : 荒木和博BLOGの続きです。
 動画説明文だけで「アホか」ですね。
 動画説明文の「元民社党にいた人(元党員)」とは1997年の安明進質問の西村真悟です。西村は質問当時は新進党ですが、元民社党です。親父の西村栄一も旧民社党で書記長、委員長ですが。
 まあ、荒木自身も「元民社党職員」ですし、荒木の関係で救う会には旧民社党人脈が多数いるようですが。ちなみに話が脱線しますが「西村栄一」と『読みは同じ名前』で「西村英一*2」という政治家もいます。
 動画説明文の「元共産党にいた人(元党員)」とは「恐らく今も党員である橋本敦・元参院議員」ではなく「主として」共産党を除名され、除名後は反共本『日本共産党の戦後秘史』(2005年、産経新聞出版→2008年、新潮文庫)まで出した「兵本達吉(橋本氏の元秘書で、橋本質問をお膳立てした一人)」のことです。ただし「サブ」として他にも、荒木のウヨ仲間である『元党員』篠原常一郎*3筆坂秀世*4の名前なども出てはきます。「アホか」ですね。
 何でそこで「政府として初めて拉致疑惑を認めた梶山*5国家公安委員長、宇野*6外相答弁」を引き出した橋本氏の名前が出てこないのか。「いくら荒木が、旧民社党職員で、国家基本問題研究所副評議員長という反共プロ右翼とは言え、共産党に要請に行った奴が、陳情の後でそんな無礼なことするか?。非常識すぎるやろ?」と「俺の嘘」だと思うかもしれませんがマジで動画で出てくる共産党関係の名前は「メインが兵本」「サブで篠原、筆坂」だけ、橋本氏の名前は全く出てきません。荒木の非常識さには二の句が継げません。何のために陳情に行ったのか。「『荒木ら巣くう会は反共右翼活動家で拉致を解決する気なんか無い。だから小泉訪朝から18年に至るも一度も共産党に陳情に行ったことがない』という批判をかわすための単にアリバイ作りで一回やっただけ」「二度目はない」ということか。だからこんな無礼が平気でやれるのか。
 共産党に「お願いします」と依頼に行った奴が、陳情後の動画で「拉致解決に尽力した(あるいはしている)共産党関係者」として「兵本、篠原、筆坂(全員、今は共産党とは敵対関係)の名だけ出す」「橋本氏の名前は一切出さない」。
 兵本、篠原、筆坂と共産党が「犬猿の仲にあること(兵本、筆坂については後で関連の赤旗記事を紹介します)」くらい荒木だって知ってるでしょうよ。それで、なんで橋本氏の名前を出さないのか。
 何で兵本、篠原、筆坂の名前しか出てこないのか。兵本の「拉致質問は俺の言いなりに橋本がしただけ。橋本は俺の使い走り」「俺が除名されたのは、その後、日本共産党朝鮮労働党との関係回復を画策し、俺が邪魔になったから」なんて無礼なデマ放言を荒木も支持する気なのか。
 共産党からすれば「兵本や篠原、筆坂を持ち上げて、橋本を完全にネグるとは、共産党にケンカ売ってるのか、手前」ですよねえ。まともな人間にはおよそ出来ない所業です。むしろ、まともな人間なら「要請以前はともかく」要請に行った以上は、「要請以降は」逆に「兵本や篠原、筆坂の名は出さずに橋本氏の名を出す」でしょうよ。
 まあ、共産党の方も「穀田恵二国対委員長笠井亮衆院拉致特委員、武田良介参院拉致特委員」が「一応は会った」とはいえこうした「反共右翼」荒木の無礼な本性はわかっているためか、荒木に会ったことなど
1)穀田氏らはツイート(穀田恵二 (@kokutakeiji) | Twitter笠井あきら (@akibacsi) | Twitter)やブログ記事になどしないし
2)紙の赤旗ではベタ記事であるのかもしれないが「基本的に重要な記事しか載ってない」しんぶん赤旗|日本共産党には載ってないし
3)赤旗政治記者 (@akahataseiji) | Twitterなど共産党関係のツイートでも全く取り上げられない
わけですが。
 しかし「繰り返します」が、共産党に陳情に行った後で「兵本、篠原、筆坂の名前だけ出して橋本氏の名前はネグる」とか非常識すぎて言葉もないですね。いくら荒木が反共右翼でもそれが陳情先・共産党に対して、陳情後にやることなのか。
 別に荒木がこの動画で「橋本敦さんに感謝してる」といったところで共産党も「反共右翼」荒木に好意的になるほどお人好しでも無いでしょうが、荒木の方から「橋本氏の存在をネグり、兵本、篠原、筆坂を持ち上げる」という「無礼」を平然と働くのだから言葉もありません。こんなバカ右翼と拉致被害者家族会が付き合ってるようではいつまで経っても拉致なんか解決するわけがない。

【参考:共産党と兵本、筆坂の関係】

「拉致調査妨害」など事実無根/前参議院議員 橋本敦2002年11月17日(日)
 『文藝春秋』十二月号は、「不破共産党議長を査問せよ」と題する兵本達吉氏の一文を掲載しました。これにたいし、日本共産党はただちに反論の掲載を要求し、橋本敦前参議院議員が執筆した反論を、同誌編集部に届けましたが、同誌はその掲載を拒否しました。橋本氏の原稿全文を本紙に掲載します。

 『文藝春秋』二〇〇二年十二月号に「不破共産党議長を査問せよ」などという一文が掲載された。「日本共産党こそ拉致調査を妨害した元凶である」と言うのが、その内容のすべてであり、ウソと中傷に満ちたものである。その筆者が、私の参議院議員時代の秘書だったものであるだけに、彼をよく知るものの一人として、また日本共産党国会議員団のなかにあって、拉致問題究明にいささか力を尽くしてきたものの一人として、真実を明らかにすることは、私の責任でもあるだろう。
(中略)
五、ウソで固めた兵本元秘書の日本共産党攻撃
 以上の事実と経過にてらせば、本誌(『文藝春秋』)十二月号で私の元秘書兵本君が「日本共産党こそ拉致調査を妨害した元凶である」などと断じていることのでたらめさは、あまりにも明白であろう。
 彼は、「橋本敦議員の質問を準備したのが私だった」という。質問の準備は、私を先頭にして兵本君を含む私の部屋全体でやったのだし、一九八八年の時点でこの問題を取り上げ質問しようと提起したのは、ほかでもない、この私である。質問原稿も、秘書二人の調査結果や資料をふまえつつ、私自身が自ら議員としての責任において苦労して練り上げて書いたのだ。私が兵本君のスピーカー役をつとめたかのような言い分は、思い上がりもはなはだしく、無礼というべきだろう。
(中略)
 私が、拉致問題にかかわる兵本君の行動にストップをかけた数少ない具体例の一つについて、彼が書いていることには明白なウソがある。九七年四月の彼の二度の神戸行きの件である。北朝鮮系の「地下組織の元工作員」の紹介で拉致問題に通じた「地下組織の責任者」か何かに会いに行きたいといってきた件(二十日の神戸行き)と、それに続いて、朝鮮労働党の幹部が船で神戸港に入るという情報にもとづいて外務省職員をともなって会いに行きたいといってきた件(二十二日の神戸行き)の二件である。これは、党議員団が行うべき調査活動というようなものではなかった。
 最初の件については、事前に相談があった。私は、即座に止めたし、国対の担当者であった佐々木陸海衆議院議員とも相談した。佐々木議員も直接兵本君に会って、「地下組織」といったものとの接触などすべきではない、調査活動の枠を超えるし、何よりも危険だからといって、止めたのである。
 後の件については、兵本君はすでに外務省関係者にも連絡して、翌朝一緒に出発することを決めた後、深夜に電話で私に了解を求めてきた。このときも私は、佐々木議員と連絡しつつ、絶対にだめだと繰り返した。日本共産党は、朝鮮労働党と断絶状態にある。その日本共産党の議員の秘書が、労働党幹部と外務省職員を引き合わせ、勝手な話し合いを行うことを認めるならば、政党としてのけじめをまったく欠いた行動になることは、普通の常識をもつものならわかることだ。
 兵本君は、佐々木議員が「不破さん〔当時党委員長〕の直々の指示だ」といって二十日の神戸行きをとめたといい、二十二日の神戸行きに際しては、「不破委員長の秘書室」からの電話で、「労働党幹部との交渉のテーブルには絶対につくな」といってきたと書いている。最近の公明新聞によると、勝手な行動をしてはならない云々(うんぬん)と「不破さんから直々に言われた」と、兵本君は語っているそうである。これらはみな大ウソなのだ。最初は私と佐々木議員が止めた。二度目は私が止めたが、止められないとわかって、最後に佐々木議員とも相談して「北朝鮮の幹部とは絶対に会ってはならない」と指示した。二十二日の朝、東京駅を出ようとする兵本君からの電話をうけて制止したのは、党の織田優参議院事務局長である。不破委員長や秘書室がどうのというのは、真っ赤なウソなのである。
 そういうウソまでならべて、兵本君は、彼の活動を「党」が妨害したといいたいのだろう。しかし、兵本君は、こうした私たちの制止にもかかわらず、二回とも神戸に行ったのだ。そして、二回ともめざす相手に会えなかったのである。これが、いったい拉致問題解明へのどういう妨害だったというのか。妨害というのもウソなのだ。ついでにいえば、私は、この二回の神戸行きにかんしてさえも、兵本君の出張経費の支出を承認している。今となっては、これは甘かったと思っているが。
 兵本君は、彼の除名そのものが、拉致問題調査への妨害だったといいたいらしい。とんでもない話だ。大体、彼は、九八年三月で定年を迎えていた。彼の活動をやめさせたければ、そこで退職させればよかったはずだが、実際には、私も、国会議員団事務局も、彼の半年間の定年延長を党本部に要請し、党本部もそれを了承した。韓国大使館行きも、神戸行きも、兵本君の除名の理由ではない。拉致問題は除名とはまったく無関係なのである。
 問題は、この定年延長の間の九八年五月、『文藝春秋』の彼の一文でも引用しているとおり、彼が、赤坂の料理屋で警視庁警備公安警察官と会食し、彼の退職後の就職の斡旋(あっせん)について面接を受け、自分の採用を事実上依頼する対応をしたことだったのである。この点について、彼は「日本共産党らしい作為」だとかいろいろ弁明しているが、見苦しい限りだ。
 彼が、当時国会の同僚秘書に「退職後の身の上相談」としてもちかけた内容が重大だったので、事務局の織田優君らが兵本君に直接事情を聞くことになった。そこで彼が、積極的に語ったところによれば、公安警察官との「面接」の詳細は次のようなものだった。

 指定された料理屋に行った。「案内した女性や仲居さんが、とても水商売の女性とは違い、婦人警官のようなしっかりした感じがし、警察庁の関係の料理屋という感じだった」。案内された部屋で待っていると、現れたのは「四十五歳から五十歳くらいの、厚手の眼鏡をかけた、おとなしそうな大学教授風」の人物で、「警察庁警備局公安一課」という肩書きの名刺を出した。

 兵本君はこの男と二時間近く会食し、兵本君の経歴などを男が知悉(ちしつ)していることを知らされて驚いたりしている。この会食の意味についても、兵本君は、「退職後の就職の斡旋であり、相手は政府の役人であり、拉致問題で政府の仕事に就ける人物かどうかの面接であったと理解している」と語っている。
 警備公安警察は、日本共産党対策を中心任務とする秘密政治警察の核心であり、日本共産党公安調査庁とともにその廃止を要求している。こういう警察官の「面接」を受け就職斡旋を依頼するなどということが、党員として許されないのは、当たり前ではないか。こうして兵本君は、定年延長期限が切れる八月末の直前に除名処分となり、秘書を罷免となっている。兵本君がその後、秘密政治警察など党破壊勢力の手先の役割を、手を変え品を変えて忠実に果たすに至っていることは、周知の事実だ。
(中略)
 日本共産党の「数々の妨害行為」「拉致問題棚上げ」などというありもしないものをウソを交えてでっち上げた結果、そのつじつま合わせに、日本共産党北朝鮮との良好な関係を築いて「利権をねらっているのだ」という、荒唐無稽なでっち上げを積み重ねるところまで、兵本君は落ちている。もはや言うべき言葉もない。

筆坂秀世氏の本を読んで/不破 哲三2006年4月19日(水)
 筆坂秀世氏が、『日本共産党』(新潮新書)という本を出しました。氏は、二〇〇三年六月にセクハラ事件で党中央委員罷免の処分を受け、参議院議員を辞職したあと、二年ほど党本部に在籍しましたが、〇五年七月、みずから離党を申し出て日本共産党を離れました。同年九月二十九日号の『週刊新潮』に「日本共産党への『弔辞』」と題する「特別手記」を掲載し、党に敵対する立場を明確にしました。
 この本を読んだ不破哲三前議長から、次の一文が本紙に寄せられましたので、掲載します。

 筆坂秀世氏の日本共産党攻撃の書を読んでの感想は、一言でいえば、ここまで落ちることができるのか、という驚きである。
 筆坂氏によれば、自分は「プライドを取り戻す」ために党を離れ、共産党の「実像」を国民に知らせるためにこの本を書いた、とのことである。
 しかし、彼が自分の「プライド」を傷つけられたという筆坂問題とは、だれかが彼をおとしいれたという問題ではなく、彼自身がひきおこした問題である。筆坂氏自身がやった行為について、一女性からセクハラの被害をうけたという訴えがあり、当人にただしたら、訴えの事実があったことを認め、女性への謝罪の意思を示すとともに、自分の性癖についても、「刹那的な享楽」を求めて同じような行為に出たことがこれまでにもあったことを認め、そのことを自分から「自己批判書」に書いて提出した。それにたいして、規約にてらして処分をおこなったのが、筆坂問題だった。
 しかし、今回の本では、自分の行為で被害を受けた女性への一言の謝罪の言葉もなく、「なぜセクハラという訴えになったのか、今もって不可解」と、問題がまるで“冤罪”であったかのように見せかけている。本当に“冤罪”だと思ったのなら、なぜ、そのとき、正々堂々と自分の態度を説明しなかったのか。そして、いま、問題を“冤罪”にすりかえることで、自分の“プライド”を取り戻そうとしているのだとしたら、それは、人間のモラルというものを、自分本位の立場で、あまりにも安易に捨て去ることではないか。
 筆坂問題で、被害を受けたのは、当の女性だけではない。全国の多くの党員が国民のあいだでの活動でどんなにつらい思いを経験したか。国民のあいだでの日本共産党の信頼性がどれだけ傷つけられたか、党が受けた打撃は、はかりしれないほどのものがあった。しかし、全国の党員たちのそういう思いには、筆坂氏はまったく目を向けようとはしない。それどころか、日本共産党を攻撃する本のなかで、自分こそ草の根の党員の代表者だ、といったそぶりで、党中央への文句をならべて見せる。
 私は、これまでの党生活のなかで、党員としての立場を捨てて敵対的な立場に移った人びとを少なからず見てきたが、このような厚かましさは、私の経験にはほとんど前例がないものである。
 驚かされたことは、もう一つある。たとえ、政治的にどんな立場をとろうと、言論で活動しようとする者なら、事実を尊重するという精神は、欠くことのできない資格条件となるはずである。しかも、筆坂氏は、この本の発行にあたって、かつて党の常任幹部会委員の部署にあったものとして、外からは見えない“日本共産党の本当の姿”を書くということを最大の売り物にしている人物である。
 私は、筆坂氏の次々持ち出してくる“本当の姿”なるものに一つ一つ付き合うつもりはないが、私の立場上、どうしても触れる責任があると思う二、三の点についてだけ、発言しておきたい。
◆筆坂氏の語る「真相」とは……
 私は、ある週刊誌にこの本の予告的な報道記事が出たとき、それを読んで目を疑った。記事には、「宮本顕治氏(97)の議長引退の真相が初めて明かされた」というリードがつけられ、本文には、筆坂氏の本からの次のような引用があった。
 「宮本氏は……まだ引退するつもりなどなかった。不破氏が数日間の大会期間中、その日の日程が終わると東京都多摩市の宮本邸まで行って、『引退してほしい』と説得し続けたのである。(中略)宮本氏の秘書をしていた小林栄三常任幹部会委員(当時)も同行したように聞いている」。
 党の大会のことをまったく知らない人ならいざ知らず、少しでも大会の様子を知っている人なら、党の委員長であるとともに大会での中央委員会報告の報告者である私が、日々の日程が終わったあと、毎晩、伊豆多賀の大会会場から東京に取って返し、宮本邸を訪問しては伊豆多賀にとんぼがえりをしていたなどとは、想像しがたいことだろう。実際、日本共産党が、伊豆多賀の党学校で大会を開くようになってから、すでに二十九年たつが、その間の十一回の大会期間中、私が東京に帰ったのは、二〇〇〇年秋の自民党内の“反乱”――いわゆる“加藤の乱”――の時、大会への報告を終えたあと、国会議員の責任として、夜の衆院本会議にかけつけ、未明に大会会場に帰ったという経験が一度あるだけだ。
 “本当にこんなことが書いてあるのか”と半信半疑の気持ちで、後日、発売された本を開いてみると、「宮本議長引退の真相」と銘打った部分に、予告されていた通りの文章があった。
 これは、筆坂氏の頭のなかでつくりだされた虚構と妄想の世界での話としか、考えられない。
◆宮本さんの退任の経過について
 筆坂氏がつくりだした「真相」なるものが、マスメディアでずいぶん流布され、誤解も広まっているので、私は、当事者の一人として、正確な事実をお伝えする責任を感じている。
 宮本さんの議長退任が決まったのは、一九九七年九月の第二十一回党大会だったが、その一つ前の第二十回党大会(一九九四年)の直前に、宮本さんは、脳梗塞の発作を起こしてたおれ、大会には出席できなかった。その後、一定の回復をして、中央委員会の総会には顔をだしあいさつや発言をしていたが、病気の進行とともに活動上の困難が強まってきた。九七年を迎えたころは、中央委員会総会への出席でも車いすが必要となり、発声の苦しさも周囲から目にみえるようになった。
 九七年五月の中央委員会総会で、九月に大会を開くことが決まったあと、私は、長くいっしょに活動をしてきた者として、宮本さんの退任の問題について、二人での話し合いを始めた。高齢という問題もあるが、いまの健康状態で議長の職務を続けることは、党全体にとっても、ご当人にとっても適切なことではない、と考えての提起だった。戦前・戦後、党中央で一貫して活動してきたただ一人の幹部という経歴からの思いもあり、一致した結論にいたるまでには、時間がかかったが、九月に入って間もなく、話し合いがまとまった。大会にたいする報告を承認する中央委員会総会(九月二十日)を終えたあと、私と志位書記局長(当時)の二人が宮本さんと会い、二人が議長退任の申し出を受けた。この間、筆坂氏がいうような、小林栄三さんが、私に同行したり、話し合いに同席したりした事実はまったくない。
 こうして、宮本さんの退任の問題は、大会開催(九月二十二日)までにすっかり解決していたことだった。
 党大会では、二日目の夜、常任幹部会を開いて、宮本さんの退任問題を報告、翌三日目には、夕方から幹部会および中央委員会総会をひらいて、同じ報告をおこなった。このことを前提にして、中央委員会として大会に提案する中央役員および名誉役員の推薦名簿を作成した。
 この日程を見ていただければ、筆坂氏のいう「真相」など、入り込む余地がまったくないことがお分かりいただけるだろう。
◆自分でつくった「ガセネタ」を自分で流す
 さらに重要なことがある。いま説明した日程には、筆坂氏自身も参加していた。彼は、当時、中央委員で幹部会委員だったから、大会三日目の二つの会議には参加して、その報告を聞いていた。だから、自分の記憶に忠実でさえあるならば、筆坂氏がいうような日程などありえないこと、つまり、自分が「真相」として宣伝するものが、小泉首相の用語法にならえば「ガセネタ」であることを重々承知していたはずである。
 なぜ、このような「ガセネタ」が筆坂氏の頭に浮かんだのか、それは私の知るところではない。しかし、まったく事実になく、道理から言ってもありえない「真相」話を、彼が自分でつくりあげて、それをこの本を通じてマスメディアにふりまいたことは、まぎれもない事実である。民主党のメール問題では、「ガセネタ」の情報源と流布者は別人だったが、筆坂氏の場合には、「ガセネタ」の情報源と流布者が同一人物なのである。それだけ、その罪の重いことは明りょうだろう。
 筆坂氏の本には、日本共産党の内部事情なるものについて、数多くの「真相」話がもりこまれている。しかし、もっとも人目を引く「真相」話としてマスメディアに売り込んだ「宮本議長引退の真相」なるものが、こういう手法で製造された「ガセネタ」だったとなると、その他の「実像」話のつくられ方も、おおよそ想像がつくのではないだろうか。
◆「不破議長時代の罪と罰」とは……
 筆坂氏は、その本の後半に「不破議長時代の罪と罰」という章をたてて、「本当に不破議長は完全無欠なのだろうか」と問いかけている。この問いかけはまことに奇妙なものである。どんな人間でも「完全無欠」な人間などありうるはずはないし、私自身についていえば、私は“よりよく、より欠陥すくなく”あることを願いはしても、“完全無欠”な人間になることなど考えたこともない。
 しかも、もう一つ奇妙なことがある。筆坂氏の問いかけは、政策や理論の分野を問題にしているようなのだが、その点で、彼が私の誤りあるいは失敗として問題にしているのは、次の章の「日本共産党の無謬性を問う」をあわせても、拉致問題での外交交渉を論じた党首討論(二〇〇〇年十月)と民主連合政府のもとでの自衛隊の扱いについてのテレビ討論での発言(同年八月)と、二つの点しかない。私が日本共産党の議長をつとめたのは、第二十二回大会(同年十一月)から第二十四回大会(二〇〇六年一月)までの五年二カ月だが、その全期間を筆坂式で調べても、この二つの問題点しか見つからなかったのだろうか。しかも、二つの問題点なるものは、どちらも私が議長になる以前のことであって、それを「委員長時代」ではなく、「議長時代」の「罪」に数え入れるのは、「看板に偽りあり」ということになろう。
 提起されている二つの問題点については、どちらも、ここに「罪」を求めるのは筆坂氏の独断にすぎない。
 拉致問題での外交交渉についていえば、私が提起したのは、拉致問題とは北朝鮮の国際犯罪にかかわる問題であることを十分に意識した、緻密な外交努力を求めたのであって、これを“拉致棚上げの主張”と非難するのは、まったくの曲解である。
 その後、小泉首相の第一次訪朝のさいに、北朝鮮側が、拉致という国際的な犯罪行為を犯したことを部分的にもせよ認めた、という展開があった。この第一歩を、問題の根本解決に前進させるためには、国家的な国際犯罪という拉致問題の重大な性格を正面からとらえて、それにふさわしい緻密な外交態度をとることが、いよいよ重要になってきた。そこに、拉致問題の現状の大きな特徴があることを指摘しなければならないだろう。
 また、テレビでの安保論争についていえば、このとき、私が論戦の当事者として確認したのは、私たちの安保政策に、憲法完全実施および国際的な平和秩序の確立にいたる過程での対応論が十分に整理されていない、という問題だった。私たちは、その年の党大会では、それまでの政策をさらに大きく発展させ、民主連合政府のもとで、国民合意のもとにすすめる段階的な安全保障政策と対応する自衛隊政策を決定した。私たちの政策のこうした発展のプロセスは、公開された形で明らかになっていることで、筆坂氏の“内幕”話などが入り込む余地は、なんら存在しない。
 なお、こうして確立した民主連合政府下に憲法完全実施に進む段階的な政策は、次の大会での綱領改定のさい、党の基本政策の一部として、党綱領にとりいれたことを、付記しておこう。

筆坂秀世氏の本の虚構と思惑/浜野 忠夫2006年4月20日(木)
 筆坂氏のセクハラ事件は、党の重要幹部が引き起こした不祥事として、党内外に大きな衝撃を与えた。筆坂氏は、本のなかで、国民との接点で苦労して活動している党員の気持ちに深い理解を寄せているかのようにいうが、それが装いに過ぎないことはすぐわかる。それら苦労している党員・支持者にはかり知れない困難をもたらした自らの不祥事についてのおわびの言葉も、反省もない。それどころか、肝心の被害女性への謝罪さえない。あるのは党への非難なのである。
 「同席した秘書も、その女性が…大いに楽しんでいたと証言している。それがなぜセクハラという訴えになったのか、今もって不可解というしかない」
 訴えたのがおかしい、何か裏があったに違いないというのが、氏がこの本で表明している今の心境なのである。
(中略)
 事件後二度目の常任幹部会会議で、筆坂氏の党中央委員罷免・議員辞職勧告という方向を決め、市田書記局長と私が筆坂氏に会ってそれを伝えた際も、氏はそれを素直に受け入れた。処分を決定する幹部会会議と中央委員会総会に出席し、弁明する権利があることを伝えたが、「弁明することはない。出席しない」と明言し、「党にたいへん迷惑をかけた。申し訳ない。忙しいときにこんなことで手をわずらわせて…」などとのべて、涙ながらにわれわれと握手を交わしたのである。私は、このときの彼の言葉や態度は、当時の彼の偽りのない真情だったと思っていた。
 しかし、この当時の自己批判の言葉・態度と、今回の本での言い分が、正反対のものであることは明白である。
(中略)
 氏は、「(離党したのは)プライドを取り戻したかったからだ」「プライドを持たない人生などありえない」などと、「プライド」を繰り返している。ここでいう「プライド」が、自己批判のなかでいった「誇り」とはまったく別物であることは明白である。
 氏が党員としての本当のプライド、誇りをもっていたとするなら、傷ついた氏のプライド、誇りは、氏自身の党内での地道な努力によってのみ回復しうるものだった。常任幹部会は、その道をけっして閉ざすことはしなかった。しかし、筆坂氏は、結局その道を進むことができず、いま、自分ではなく党の方が間違っていると主張することで、自分の「プライド」を取り戻そうというのだ。党攻撃によって自らの正当化をはかってきたこれまでの転向者、変節者たちと、何ら変わるところはないのである。セクハラ問題にかんして、氏は、当初の反省を完全にかなぐり捨てて開き直り、党が悪いと主張しているのである。
(中略)
 宮本顕治氏引退の経緯にかんする筆坂氏の「暴露」が虚偽であることは、すでに不破前議長の昨日付「しんぶん赤旗」の文章で明白に証明している。「内幕本」「暴露本」の一番の“売り”がこの程度なのだから、他は推して知るべしである。
 筆坂氏は、常任幹部会会議で「志位氏が議題のまとめをするたびに、不破氏が『僕は違うな』といってひっくり返す」「これが週一回の会議のたびごとに繰り返される」、そのために志位氏は「ついにまとめができなくなってしまった」などと書いている。これもマスコミ受けを狙った筆坂氏一流の偽りである。

筆坂氏の本について/誤りの合理化が転落の原因/志位委員長が会見で2006年4月21日(金)
◆記者
 筆坂氏が本を出版したが感想は。
◆志位委員長
 落ちるところまで落ちた、というのが感想だ。(中略)暴露本として宣伝しているではないか。中身もそれを最大の売り物としている。しかし、その暴露なるものの内実がまったく虚偽だったということは、二つの論文が示したとおりだ。
◆記者
 なぜ筆坂さんは、委員長によると、落ちるところまで落ちたのか。
◆志位委員長
 自らの不祥事について、その誤りを結局うけいれることができなかった。それを合理化していった。そしてあたかも、冤罪であるかのようにのべているが、その立場に身を置いていった。そうすると党のすべてが憎悪の対象になっていく。反省ができず、開き直る。まさに、それが落ちていった原因だ。

 とはいえこの時点ではまだ筆坂は「セクハラを否定し居直った」とはいえ、「河野談話否定論を公言するまでには落ちていません」でした。あくまでも「リベラル保守or社民左派」的なポーズで共産党を批判していた。
 その後「河野談話否定論を放言して恥じないまで」にデマ極右となり「落ちるところまで落ちた」わけです。

*1:そりゃ民社党は反共極右政党ですからね。

*2:池田内閣厚生相、佐藤内閣建設相、田中内閣国土庁長官福田内閣行政管理庁長官、自民党副総裁(大平、鈴木総裁時代)など歴任。田中角栄の側近でロッキード事件での田中離党後は「七日会(田中派)」の会長を務めた。

*3:筆坂秀世共産党政策委員長の元秘書。『いますぐ読みたい日本共産党の謎』(筆坂秀世との共著、2009年、徳間書店)、『日本共産党 噂の真相』(2020年、扶桑社)、『中国共産党の対日・対米工作(仮題)』(2021年7月刊行予定、ワック文庫)などの反共右翼著書がある。

*4:共産党政策委員長(元参院議員)。『日本共産党中韓:左から右へ大転換してわかったこと』(2015年、ワニブックスPLUS新書)、『日本共産党の最新レトリック』(2019年、産経新聞出版)、『大手メディアがなぜか触れない日本共産党と野党の大問題』(上念司との共著、2019年、清談社Publico)などの反共右翼著書がある。

*5:竹下内閣自治相・国家公安委員長、宇野内閣通産相、海部内閣法相、自民党幹事長(宮沢総裁時代)、橋本内閣官房長官など歴任

*6:田中内閣防衛庁長官自民党国対委員長(三木総裁時代)、福田内閣科学技術庁長官、大平内閣行政管理庁長官、中曽根内閣通産相、竹下内閣外相を経て首相