「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2021年10/6日:荒木和博の巻)

春日一幸のこととか政治の話(R3.10.7): 荒木和博BLOG
 7分57秒の動画です。タイトルだけで見る気が失せます。「春日(元民社党委員長)と拉致と何の関係があるんだ?」ですね(なお、荒木は旧民社党の元職員)。何の関係もない。
 これが

◆いわゆる「李恩恵」質問の橋本敦・参院議員(共産党
◆橋本質問に「北朝鮮拉致の可能性」を初めて認めた梶山*1国家公安委員長、宇野*2外相(竹下内閣)
◆金丸訪朝の金丸*3自民党副総裁(宮沢総裁時代)、田辺*4社会党委員長
◆小泉訪朝の小泉*5元首相

など「拉致問題」「北朝鮮」に関係ある政治家ならまだしも。
 さて荒木が「岸田*6首相の記者会見によれば10/31が総選挙」と言いながら「拉致が争点になってほしい」とも「拉致を解決するためにはホニャララ党(あるいはホニャララ候補)を支持しよう」とも言えないのが滑稽ですね。「拉致解決につながりそうな候補を選ぼう」という抽象的なことしか言えない。
 さて荒木が春日について話すことが何かと言えば春日の演説で「アンチ」から「妾は元気か!」と野次が飛んだら春日が顔色も変えず「元気でやっております」と応対したとか。
 「そういう話が嫌いな人もいる」のに「春日のエピソードで出てくるのがそれかよ?」「政策の話はないのか?」ですね。
 田中角栄*7について

【池田内閣蔵相時代】
山一証券への日銀特融 
【佐藤内閣通産相時代】
◆日米繊維交渉妥結
【首相時代】
日中国交正常化」「日本列島改造論」「金脈疑惑やロッキード事件

などについて話さず「越山会の女王・佐藤昭(田中の愛人)」について話すようなもんで、どんだけ「荒木も非常識なのか」と言う話です。
 あるいは「春日は愛知県選出で、今も愛知は(右寄りのトヨタ労組の影響もあって)旧民社がある程度強い。名古屋の河村市長も春日の元秘書だ」とか。
 どっちにしろ全く拉致と関係ない。
 なお、「以前も別記事で書きましたが」この種のエピソードというのは春日に限らず、昔は良くありますね。
 話が脱線しますが「この種の女性エピソード」としては

三木武吉 - Wikipedia参照
◆1884~1956年。鳩山一郎首相の側近として知られる。
◆「猿は木から落ちても猿だが、政治家が選挙に落ちたらただの人」という名言(?)は誤って三木の発言として語られることがあるが、正しくは自民党副総裁(岸、池田総裁時代)だった大野伴睦の台詞である。
◆「日本自由党日本民主党の総務会長(いずれも総裁は鳩山一郎)」等を歴任した大物政治家でありながら非常に珍しいことに、閣僚を経験したことが全くなかった。寝業師型、調整型政治家の代表例としていまだに名声が高く、中曽根康弘*8首相は自民党総務会長、幹事長(中曽根総裁時代)だった金丸信を「三木武吉を越えた」とおだてたことがある。
◆1952年の第25回衆議院議員総選挙では、選挙中の立会演説会で対立候補の福家俊一(当時、三木は鳩山民主党、福家は日本再建連盟に所属したが、1955年の自民党結党後はどちらも自民党に所属)から「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」と批判された。ところが、次に演壇に立った三木は「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者が『ある有力候補』と申したのは、不肖、この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補*9に投ぜられるより、有力候補たる私にと、三木は考えます。なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、(ボーガス注:セックスの相手としては?)役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」と愛人の存在をあっさりと認め、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。
 「およそ大政治家たらんものは、いっぺんに数人の女を、喧嘩もさせず嫉妬もさせずに、操っていくぐらい腕がなくてはならん」と公言していた。

大蔵貢 - Wikipedia参照
◆1899~1978年。新東宝社長、大蔵映画社長。
◆1960年、新東宝所属の女優「高倉みゆき」との関係について「女優を2号(妾)にしたのではなく、2号を女優にしたのだ*10」と発言し「事実上、愛人関係を認めて」物議を醸した。

とか。今これをやったら確実に「女性差別」「下劣」などとして「袋だたき」でしょうが。
 実際、その後、「女性醜聞(愛人醜聞)」が理由で宇野首相は「首相を早期辞任」。自民党幹事長(小泉総裁時代)だった山崎拓*11も「副総裁」という名誉職に棚上げにされます。
 まあ、三木武吉発言など考えれば、森*12元首相が「五輪組織委員会会長」を辞任した「例の発言」について「何が女性差別だ!」と憤慨しても無理はないかもしれない(もちろん森擁護などしませんが)。三木武吉発言など、昔はもっと酷い発言が横行してましたので。
 なお、話がさらに脱線しますが、福家が1952年当時に所属した日本再建連盟

日本再建連盟 - Wikipedia参照
・1952年4月、岸信介*13に近い政治家や旧官僚を糾合して「岸新党」として結成。1952年の衆院選に候補を擁立した。
・発表した「五大政策」には、憲法改定、反共など、岸が終生貫いた政治路線が表れている。
・1952年の衆院選で当選したのは1人だけで、福家など、他の候補は全て落選した(岸本人はこの時は立候補していない)。翌年、連盟は解散。ただし自然消滅に近かったらしく、岸は後年「日本再建連盟高知県支部役員をしていたという人から『あなたは自民党に入って総理にもなったが再建連盟はどうなったのか。自分はやめた覚えも解散通知を受け取った覚えもない』という手紙をもらった*14(笑)」と語っている。

という代物であり、福家*15自身も

福家俊一 - Wikipedia参照
・少年時代に東京憲兵隊本部で甘粕正彦(後に満州に渡り、満州国協和会理事、満洲映画協会理事長など満州関係の要職を歴任)の給仕を務めたことを機に、満州に渡って満州国の機関紙「斯民」の記者となる。この満州時代に、いわゆる「弐キ参スケ - Wikipedia」の一人「岸信介(当時、満州国総務庁次長)」と深い仲を築いたとされる。
・岸が長女・洋子(安倍晋三*16元首相の母)の結婚相手として新聞記者を望んでいたことから、当時、毎日新聞政治部記者であった安倍晋太郎*17を岸に紹介したといわれる。

という「岸に近い人物」でした(ただし岸派所属ではない)。
 「にもかかわらず」福家が面白いのは

福家俊一 - Wikipedia参照
・軍と外務省の肝いりによって上海に国策新聞「大陸新報」が創設されると、1937年にその社長に25歳の若さで就任。美濃部達吉などの嘆願を受け、同社では美濃部亮吉(達吉の長男で、後の東京都知事)や向坂逸郎(後に九州大学名誉教授、社会主義協会代表)、高橋正雄九州大学名誉教授)など人民戦線事件で検挙された左派知識人を積極的に雇い入れた。高橋正雄は回想録で福家のことを「豪傑」と語っている。「大陸新報」時代の部下だった小森武とは、戦後まで強い繋がりを持っていた。
 朝鮮総連の金炳植*18副議長と知己があり、1971年の美濃部都知事の中国、北朝鮮訪問の際に、保利茂*19自民党幹事長が周恩来宛の書簡(いわゆる「保利書簡」)を美濃部に託すにあたって、「大陸新報」時代の部下だった小森武(当時、美濃部ブレーンの一人)に工作を行った。

というところですね。「岸に近い自民党右派」でありながら、朝鮮総連や美濃部都知事にもパイプがある。今、自民にこういう人間がいるのかといったら「いない」でしょうねえ。「だから拉致が解決しない」といっていいんじゃないか。拉致みたいな厄介な代物は「寝技」「水面下交渉」「裏工作」「バーター取引」などが「なし」で解決するわけもないでしょう。


拉致問題 政府との対し方について(R3.10.6): 荒木和博BLOG
 9分9秒の動画です。タイトルだけで見る気が失せます。「小泉訪朝から19年も経ってるのに今頃、そんな寝言か」ですね。
 なお、荒木らしい「お粗末な話」ですが

 松本博一・官房長官兼拉致担当大臣は全く面識がないので期待も失望もしようがありません。

と言う文の「松本博一」は「松野博一*20」の誤記です。こういうところで堂々と人名を間違うとは「政府相手にまともに陳情する気があるのか?」。
 後述するように「荒木ら救う会と政府の関係はあまり良くない」とはいえ、です。
 それはともかく、荒木の寝言、与太と関係なく俺の考えを書けば、政府との関係は「評価できるところは評価し、評価できないところは批判する」という「是々非々」ですよねえ。
 「拉致被害者家族会」「荒木らの救う会特定失踪者問題調査会」に限らず、「各種の政治運動団体、市民団体」と政府の関係は

◆「政府の下請け」や逆に「政府にあれこれ上から命令する立場」のような上下関係

でもなければ

◆「常に盲目的支持」や「常にアンチ」と言う関係

でも普通ない。
 もちろん結果として「政府が自分たちの主張を概ね認めてくれる(あるいは逆にほとんど認めない)」などで「盲目的支持」や「アンチ」になることはあり得るでしょうが、それはあくまでも「結果論」でしかない。
 で救う会や家族会の失敗は「政府を自分たちの下請け」と勘違いしてるとしか思えない言動(田中均氏への個人攻撃など)をしたことですね。
 それに対して、政府(与党や外務省など)が「思い上がるな!」とガツンと言えば良かった。しかしそれが言えなかった。
 しかしだからといって政府は「心の底から救う会や家族会などに共感してるわけではない」。むしろ反発している。
 だから

◆『山形県の海岸で、発見された山本美保さんの遺体』を別人と認めろ。北朝鮮拉致被害者で今も北朝鮮で生きてると認めろ
→これについては荒木は『山本美保さん失踪事件の謎を追う:拉致問題の闇』(2012年、草思社)なんて本まで書いています。全くキチガイの沙汰です。
◆特定失踪者を拉致と認めろ

などという荒木らの要望に「あの安倍ですら」応じたりはしない。政府の「家族会や救う会などへの態度」が完全に「敬して遠ざける(敬遠する)」「面従腹背」、「昔の部落解放同盟タブーのようなもの(解放同盟を批判しないが内心で反発を感じてる)」になってしまった。そしてマスコミも「そうした政府の反発」におそらく共感していることもあって拉致問題を報じなくなってしまった。
 もちろん視聴率や部数がとれないと言うこともありますが『政府すら子分扱いする家族会や救う会』は『マスコミ(特に産経など右派マスコミ)』は『もっと子分扱いしている』わけでマスコミの『内心での反発』も相当のものではなかったか。
 しかし、荒木が『特定失踪者を拉致と認めないこと』について散々、政府に悪口してることが興味深いですね。よほど不愉快らしいですが、それでも「国賠訴訟を起こす」とは言えず「今後国賠訴訟も検討したい」としか言えないのが滑稽です。

*1:竹下内閣自治相・国家公安委員長、宇野内閣通産相、海部内閣法相、自民党国対委員長、幹事長(宮沢総裁時代)、橋本内閣官房長官など歴任

*2:田中内閣防衛庁長官自民党国対委員長(三木総裁時代)、福田内閣科学技術庁長官、大平内閣行政管理庁長官、中曽根内閣通産相、竹下内閣外相などを経て首相

*3:田中内閣建設相、三木内閣国土庁長官福田内閣防衛庁長官自民党国対委員長(大平総裁時代)など歴任

*4:社会党国対委員長(飛鳥田委員長時代)、書記長(石橋委員長時代)、副委員長(土井委員長時代)などを経て委員長

*5:宇野内閣厚生相、宮沢内閣郵政相、橋本内閣厚生相などを経て首相

*6:第一次安倍、福田内閣沖縄・北方等担当相、第二次、第三次安倍内閣外相、自民党政調会長(第二次安倍総裁時代)等を経て首相

*7:岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、佐藤内閣通産相自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)などを経て首相

*8:岸内閣科学技術庁長官、佐藤内閣運輸相、防衛庁長官、田中内閣通産相自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行政管理庁長官などを経て首相

*9:実際、この選挙では福家は残念ながら落選し、一方、三木は当選しています。また福家俊一 - Wikipediaによれば福家は『選挙に弱く落選も多かった。自民党公認候補として6回の落選は、史上最多記録である』

*10:女優を「社長の圧力」で妾にしたのなら「セクハラ」だが、「妾」を女優にしたのなら「自分に尽くした女に報いたのだから、むしろ美談だ」と言いたかったと思われる。

*11:宇野内閣防衛庁長官、宮沢内閣建設相、自民党国対委員長(河野総裁時代)、政調会長(橋本総裁時代)など歴任

*12:中曽根内閣文相、自民党政調会長(宮沢総裁時代)、宮沢内閣通産相、村山内閣建設相、自民党総務会長(橋本総裁時代)、幹事長(小渕総裁時代)等を経て首相

*13:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、日本民主党幹事長、自民党幹事長、石橋内閣外相を経て首相

*14:こうしたことが笑って語れるあたりが「祖父・岸と孫・安倍」の違いでしょう。安倍は、谷垣総裁時代に「過去の人」呼ばわりされたことを根に持って、溝手氏に刺客候補を送るような男ですから。

*15:1912~1987年。1958年の衆院総選挙で当選し、以後当選5回(1958年、1960年、1967年、1979年、1983年)。1986年の総選挙で落選し、政界を引退。池田内閣運輸政務次官自民党国対副委員長、副幹事長など歴任

*16:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官などを経て首相

*17:後に政界入り。三木内閣農林相、福田内閣官房長官自民党政調会長(大平総裁時代)、鈴木内閣通産相、中曽根内閣外相、自民党幹事長(竹下総裁時代)など歴任

*18:1919~1999年。朝鮮総連事務局長、副議長を歴任。1972年に北朝鮮に帰国し、朝鮮総連からは離れる。帰国後は「朝鮮労働党衛星政党朝鮮社会民主党」の委員長や国家副主席を歴任(金炳植 - Wikipedia参照)

*19:吉田内閣労働相、農林相、自民党総務会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣建設相、官房長官、田中内閣行政管理庁長官ど歴任

*20:第一次安倍内閣厚労大臣政務官、福田、麻生内閣文科副大臣、第三次安倍内閣文科相などを経て岸田内閣官房長官松野博一 - Wikipedia参照)