新刊紹介:「前衛」2022年5月号その2(副題:昭和天皇のクズさに改めて呆れる)

 「前衛」5月号について「昭和天皇批判」の部分のみ書いています。他については新刊紹介:「前衛」2022年5月号 - bogus-simotukareのブログを参照ください。
昭和天皇の戦争認識:『昭和天皇拝謁記』(1949-1950)の検証(山田朗*1
(内容紹介)
 『昭和天皇拝謁記』については昭和天皇『拝謁記』12月から公刊へ 初代宮内庁長官が書き残す | 皇室 | NHKニュース(2021.9.26)ということでNHKなどで報道がされ、刊行途中ですが岩波書店から刊行が始まりました。それを前提にした山田論文です。
 当初は「山田論文を要約しよう」と思ったのですが、俺が無能のため、うまく行かないのでネット上の記事紹介で代替します。
 以下は「山田論文でも触れてる内容」もありますが「触れてない内容」もあることを断っておきます。
 田島以前の宮内大臣宮内庁長官の前身)は

宮内省 - Wikipedia
◆土方久元(華族
 伯爵。宮中顧問官、元老院議官、第1次伊藤内閣農商務相などを経て宮内大臣
田中光顕(華族
 子爵。陸軍省会計局長、第一次伊藤内閣書記官長、会計検査院長、警視総監、学習院院長などを経て宮内大臣
◆岩倉具定(華族
 公爵。右大臣、外務卿を歴任した岩倉具視の三男。学習院院長、枢密顧問官などを経て宮内大臣
渡辺千秋内務省出身、華族
 伯爵。鹿児島県知事、滋賀県知事、北海道庁長官、内務次官、京都府知事、宮内省内蔵頭、宮内次官などを経て宮内大臣
◆波多野敬直(司法省出身、華族
 子爵。京都地方裁判所長、函館控訴院長、東京控訴院検事長、司法次官、第1次桂内閣司法相、東宮侍従長などを経て宮内大臣
◆中村雄次郎(陸軍出身、華族
 男爵。陸軍士官学校校長、陸軍次官兼軍務局長、南満州鉄道総裁、関東都督等を経て宮内大臣
牧野伸顕(外務省出身、華族
 伯爵。大久保利通内務卿の次男。第一次西園寺内閣文相、第二次西園寺内閣農商務相、第一次山本内閣外相などを経て宮内大臣
◆一木喜徳郎(内務省出身)
 第二次大隈内閣文相、内務相などを経て宮内大臣
◆湯浅倉平(内務省出身)
 警視総監、内務次官、会計検査院長などを経て宮内大臣
松平恒雄(外務省出身、華族の家柄)
 旧会津藩主で京都守護職を務めた松平容保の六男。天津総領事、外務省欧米局長、外務次官、駐米大使、駐英大使を経て宮内大臣
◆石渡荘太郎(大蔵省出身)
 大蔵省主税局長、大蔵次官、平沼、東條、小磯内閣蔵相などを経て宮内大臣
松平慶民宮内省出身、華族
 子爵。元越前藩主松平慶永の三男。1912年に侍従に就いて以降、一貫して宮内省に奉職。侍従兼式部官、式部次長兼宗秩寮宗親課長、式部長官、宗秩寮総裁を経て、宮内大臣

と「華族」か「官僚出身」がほとんどでした。財界エリートとは言え

田島道治 - Wikipedia参照)
 愛知銀行(後の東海銀行、現在の三菱UFJ銀行)常務、昭和銀行常務、頭取、日本産金振興社長、日本銀行参与、大日本育英会(現在の日本学生支援機構)会長、宮内庁長官東京通信工業(現在のソニー監査役、会長、相談役など歴任。

という「非華族」「非官僚」の田島の任命は異例でした。
 田島が宮内庁長官に任命された時期は芦田内閣でした。

芦田均 - Wikipedia
 芦田は「新憲法になって以後、余り陛下が内政外交に御立入りになる如き印象を与えることは、皇室のためにも、日本のためにも良いことではない」と、憲法に記載されている通り、天皇を元首としてではなくあくまで象徴として扱うことを心がけた。首相就任当時、芦田は、これ以降閣僚の内奏を取り止める旨を奏上した。芦田自身も外相時代、天皇に上奏をほとんど行わなかったため、鈴木一*2侍従次長が「陛下は外交問題について御宸念遊ばしてゐる(中略)外務大臣が内奏に見えないのか(中略)見えるなら土曜日でもよろしい」と、当時の岡崎勝男*3外務事務次官に漏らしていた。それを聞いた芦田は「御上の思召」なら行くべきだと宮中へ参内した。

ということで芦田*4は当時としては「リベラル派」であり「田島の宮内庁長官任命」も「芦田による宮中改革」の一環でした。
 また、芦田(1887年生まれ)と田島(1885年生まれ)には

田島道治 - Wikipedia
 旧制第一高等学校を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。東京帝大時代には新渡戸稲造*5を敬愛し、新渡戸家に書生として住み込みをした。鶴見祐輔*6、前田多門*7、岩永裕吉*8とともに「新渡戸四天王」と呼ばれ、新渡戸の死後は、「故新渡戸博士記念事業実行委員会」を結成し代表となっている。

【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】第42回:芦田均
◆1904年、芦田は東京の第一高等学校に進学。当時の校長は、農学者・哲学者・教育者として名高い新渡戸稲造
◆1907年(明治40)、東京帝国大学法科大学仏法科に入学

ということで「旧制一高」「東大法科」「新渡戸稲造」というつながりがありました。 
 また、この際に芦田や田島の要望があったのか、

田島道治 - Wikipedia
 昭和天皇は宮内府長官・松平慶民侍従長・大金益次郎*9を交代させることに難色を示していたが、芦田は宮中改革を実行するために交代を断行し田島が宮内府(後に宮内庁)長官、三谷隆信侍従長のコンビが成立した。

ということで、芦田とは「外務省つながり(芦田、三谷はともに元外務官僚)」があり、また田島の知人で田島同様に新渡戸門下だった「三谷隆信*10」が新たに侍従長に就任します。
 これについては

田島道治 - Wikipedia
◆新渡戸門下生の田島(宮内庁長官)と三谷(侍従長)の「宮中クリスチャンコンビ」
◆このコンビは、田島が宮内庁長官の後任にクリスチャンの宇佐美毅を指名し、「田島ー三谷」から「宇佐美ー三谷」にリレーされた。そして美智子皇太子妃(現在の上皇后)の実現などの功績を残すことになった。

という記述がウィキペディアにもあります。
 なお、「非官僚(田島は財界出身)の宮内庁長官」は今のところ、田島が「最初で最後」であり田島の辞任後は

宮内庁 - Wikipedia
◆宇佐美毅(内務省出身)
 鳥取県警察部長、内務省国土局総務課長、河川課長、東京都教育長、宮内庁次長などを経て宮内庁長官
富田朝彦内務省警察庁出身)
 警視庁交通部長、警察庁長官官房長、警察庁警備局長、警視副総監、宮内庁次長などを経て宮内庁長官
藤森昭一(厚生省→環境庁出身)
 環境事務次官、中曽根内閣官房副長官などを経て宮内庁長官
◆鎌倉節(警察庁出身)
 内閣調査室長、警視総監、宮内庁次長などを経て宮内庁長官
◆湯浅利夫(自治省出身)
 自治省税務局長、財政局長、自治事務次官、宮内庁次長などを経て宮内庁長官
羽毛田信吾(厚生省出身)
 厚生省老人保健福祉局長、保険局長、厚生事務次官宮内庁次長などを経て宮内庁長官
◆風岡典之(建設省出身)
 建設省建設経済局長、国土交通省総合政策局長、大臣官房長、国土交通審議官、国土交通事務次官宮内庁次長などを経て宮内庁長官
◆山本信一郎(自治省出身)
 自治省大臣官房審議官(選挙担当)、総務省大臣官房審議官(選挙担当)、内閣府大臣官房審議官(沖縄担当)、内閣府大臣官房長、内閣府事務次官宮内庁次長などを経て宮内庁長官
◆西村泰彦(警察庁出身:現在の宮内庁長官
 警察庁警備局長、警視総監、宮内庁次長などを経て宮内庁長官

と皆、長官は官僚出身になります。 

「拝謁記1」 側近に感情を発露 退位にも言及 朝日新聞書評から|好書好日2022.2.12
 講和条約が締結された時に、「情勢が許せば退位とか譲位とかいふことも考へらるゝので」。田島はこの答えに「感激して落涙滂沱(ぼうだ)、声も出(い)でず」という状態になる。

 口から出任せでしょう。昭和天皇が本心から退位を考えたことは一度もなかったでしょう。勿論、これは「田島の記録」なので本当に田島が感動して泣いたかどうかはわかりません。将来、記録を公開することを前提に「泣いてもいないのにこう書いて天皇をかばおうとした」のかもしれない。
 しかし本当に泣いたのなら昭和天皇は「俺の出任せで感動するなんてチョロい男だ」と思ったでしょう。昭和天皇とはそういうクズでしょう。

「昭和天皇拝謁記」の驚き 人間的、辛辣な「肉声」: 日本経済新聞*11(井上亮)2022.1.2
 戦後間もない1948年から5年半、初代の宮内庁長官(就任時は宮内府)を務めた田島道治昭和天皇との対話を記述した「昭和天皇拝謁記」(岩波書店)の第1巻が先月刊行された(全5巻)。好悪の感情を隠さない天皇の人間的側面が明らかになっており、昭和史、天皇制研究者を驚かせている。
 弟の高松宮*12について「人が右と言えば左」という性格で、戦前は日米開戦論者だったと批判。三笠宮*13らが新聞で自由に意見表明し、(ボーガス注:紀元節復活反対論などで?)進歩的と評価*14されていることにも不満で「皇族の義務は行わず権利ばかり主張」「皇弟たる自覚が足らぬ*15」と興奮して話したという。 

 この日経記事、有料会員限定ですが、日経は(将来はこのサービスをなくすかもしれませんが)「月に10記事までなら無料会員でも、有料記事が読める」サービスがあるので「無料会員」の俺は全文読めます。ということで興味のある部分を紹介しておきます。
 後でも書きますが「弟相手に悪口とはどんだけ小物なんだよ」と呆れます。現在の皇族については特に嫌悪の情はありませんが改めて「昭和天皇が大嫌いになりました」(以前から「言葉の綾発言」「沖縄メッセージ」などで大嫌いですが)。
 でも、この記事を書いた人間(井上亮*16)はそうは思ってないんでしょうねえ。「日経はアンチ昭和天皇の立場じゃない」ですから。「人間いろいろ、価値観いろいろ」という気がします。

高松宮宣仁親王 - Wikipedia
 1941年(昭和16年)11月30日、宣仁親王昭和天皇のもとに行啓し、開戦について意見を交わした。その際、統帥部の予測として「五分五分の引き分け、良くて六分四分の辛勝*17」と伝えた上で、敗戦を懸念する昭和天皇に対し、開戦を中止するよう訴えた。だが昭和天皇は、政府・統帥部の意見を無視した場合、クーデターが発生すると考えて、宣仁親王の意見を聞き入れることはしなかったという。

を読む限り、昭和天皇の方がむしろ「開戦積極派」ぽいですけどね。つうか仮にも元・国家元首が、弟相手に「あいつだって戦前は対米開戦派だった。対米開戦は俺だけのせいじゃない」と悪口とはどんだけ小物なのか。昭和天皇のことだから「兄としての苦言」とでも思ってるんでしょうけど。

高松宮宣仁親王 - Wikipedia
 宣仁親王は1944年(昭和19年)夏頃には、政府の方針に異を唱える言動を繰り返しており、「(ボーガス注:サイパン陥落で日本への空襲が可能となり)絶対国防圏が破られた以上、大東亜共栄圏建設の理想を捨て、如何にしてより良く負けるかを模索すべきだ」「一億玉砕など事実上不可能。新聞などは玉砕精神ばかり論じていて間違っている」と主張していた。このような言説を内大臣木戸幸一*18は嫌っており、側近の木戸を通じ、昭和天皇の宣仁親王に対する印象も悪化していった。宣仁親王昭和天皇と直接話す機会が徐々に少なくなっている事を周囲に語っている。
 1945年(昭和20年)8月15日、玉音放送において兄・昭和天皇が読み上げた「終戦詔書」について、「天皇が国民にわびることばはないね」と天皇の責任(昭和天皇の戦争責任論)について指摘している。

ですから、少なくともある時期から兄弟仲は悪かったんでしょう。なお、高松宮も指摘するように、東條英機が首相辞任に追い込まれた「サイパン陥落」時点(1944年7月)で「日本の敗戦は確実」だったのに、それから1年も降伏を先送りして犠牲を増やした昭和天皇には怒りを禁じ得ません。「ポツダム宣言受諾」はまさに「遅すぎた聖断」でした(「遅すぎた聖断」については例えば沖縄戦ドキュメンタリー番組「遅すぎた聖断」がいま問いかけるものとは | 週刊金曜日オンライン参照)。

「昭和天皇拝謁記」の驚き 人間的、辛辣な「肉声」: 日本経済新聞(井上亮)2022.1.2
 母親の皇太后貞明皇后)についても「感情に勝り、虫の居所が悪いときは正反対の矛盾したことを言う」と容赦ない。

 貞明皇后 - Wikipediaによれば「貞明皇后の嫁いびり」は酷かったそうなのでその辺りがこういう昭和天皇の母親評価の背景にあるかもしれない。

「昭和天皇拝謁記」の驚き 人間的、辛辣な「肉声」: 日本経済新聞
 政治家、軍人らに対しても手厳しいA級戦犯として東京裁判で死刑になった元首相の広田弘毅*19は「気の毒」とした上で、陸軍軍人だった*20鈴木貞一*21橋本欣五郎*22大島浩らが(ボーガス注:終身刑になったことについて)「死刑でなきは不思議」と言い、(ボーガス注:駐独大使・大島浩とともに日独伊三国同盟締結に動いた)元駐伊大使の白鳥敏夫も「わるい」と語っている。

 「手厳しい」つうより「冷酷」ですよね。
 これについては

「拝謁記1」 側近に感情を発露 退位にも言及 朝日新聞書評から|好書好日2022.2.12
 東京裁判の判決から1年近くを経たのちの1949年9月7日の記述になるのだが、田島から問われて裁判結果について意見を述べている。広田弘毅木戸幸一重光葵*23などの量刑(ボーガス注:広田が死刑、木戸が終身刑、重光が禁固7年(A級戦犯では重光の刑が一番軽い))には(ボーガス注:重すぎる*24と)疑問を呈する。反して鈴木貞一、橋本欣五郎大島浩などは「死刑でなきは不思議」との感想を漏らす。白鳥敏夫にも冷たい。

も紹介しておきます。
「あいつら(大島や白鳥など)がドイツと手を組んだ方がいいというから手を組んだ。勝てるというから中国や米国相手に戦争した。あいつらなんか東京裁判で死刑になればいい*25。死刑にならないのが不思議だ。あいつらのせいで俺は酷い目に遭った。植民地(朝鮮、台湾など)は全て失い、国家元首の地位から転落した。俺は被害者だ」とでも思ってるのか。
 どんだけ部下に冷たいのか。そして「被害者意識」の強い「この男」が一度でも退位などまともに考えたことがないことがうかがえます。
 建前でも「終身刑でほっとした。やはり部下が死刑になるのは見たくない」といえないのか。これを聞かされた田島宮内庁長官も内心どう思っていたのか。
 「何か俺がトラブルを起こしたら、天皇が俺に当初は賛成したことでも大島のように恨まれて悪口されるのか」と気が滅入らなかったか。
 昭和天皇の「部下への冷たさ」に「これが日本の最高指導者だったのか(絶句)」と失望しなかったか。
 俺なんか「お前みたいな責任転嫁のクズこそ、世のために死刑になれば良かったのにな」と昭和天皇には心底呆れますけど、この記事を書いた日経の人間(井上亮)はそうは思ってないんでしょうね。繰り返しますけど「日経はアンチ昭和天皇の立場じゃない」ですから。「人間いろいろ、価値観いろいろ」という気がします。こういうのを「手厳しい」という神経はマジで理解できません。むしろ昭和天皇は「自分に甘すぎ」でしょう。
 「靖国参拝しなくても安倍さんは悪くない、全て部下が悪い」つう「安倍信者」の世界によく似ています。悪いのは全て部下であって、昭和天皇ではない。
 この発言は生前に大島浩とかが知ったら「部下に全部責任転嫁か。どんだけ責任感ねえんだよ」「いくら何でも部下の死刑を望むとはそれでも人間か」とさすがにむっとしたんじゃないか。
 ちなみに白鳥敏夫と言えば例の富田メモで「松岡(第二次近衛内閣外相、裁判中に病死)、白鳥(終身刑で服役中に病死)が合祀されたのは納得がいかない」として昭和天皇靖国に行かなくなった理由とされてる人物です。今回の『昭和天皇拝謁記』での白鳥への悪口により「富田メモの信頼性」が改めて裏付けられたのではないか。
 なお、「拝謁記1」 側近に感情を発露 退位にも言及 朝日新聞書評から|好書好日「昭和天皇拝謁記」の驚き 人間的、辛辣な「肉声」: 日本経済新聞には何故か「豊田副武(とよだ・そえむ)*26」の名前が出てきませんが、山田論文によれば

豊田副武 - Wikipedia
 極東国際軍事裁判東京裁判)では不起訴、続いて行われた、いわゆるGHQ裁判 - Wikipediaの一つである「いわゆる豊田裁判」では、ベン・ブルース・ブレイクニー*27及びジョージ・A・ファーネス*28両弁護人の尽力によって、無罪判決を得た。

という豊田について「何故豊田が何の処罰も受けないのか」と昭和天皇は田島長官に対して「豊田の不起訴(東京裁判)&無罪判決(いわゆる豊田裁判)」について不満を口にしたそうです。
 これは「東京裁判は不当な裁判」というウヨにとっては「不都合な事実」でしょう。それはともかくこの発言からは「理由が何かはともかく」、昭和天皇が豊田に深い恨みを持っていたこと(後述しますが、徹底抗戦論への恨みか?)、また戦犯裁判それ自体については「理由が何かはともかく」、それを受け入れていたことがうかがえます。
 まあ昭和天皇やその周辺が戦時中及び戦後において、豊田を評価してなかったらしいことは

豊田副武 - Wikipedia
◆1944年(昭和19年)5月3日、連合艦隊司令長官に着任。前任の連合艦隊司令長官・古賀峯一*29大将の殉職(いわゆる海軍乙事件*30)を受け連合艦隊司令長官に任命される。山本五十六連合艦隊司令長官の戦死後、司令長官に任命されるべき職位に居たが、兵学校1期後輩の古賀が選任された事に「何故自分より後輩の古賀の方が評価されたのか?」とこだわりを持ち続け、戦争末期の長官就任要請時にも当初は「(敗色濃厚な?)今さら任されても自分にできる事は何もないし気力もない」と突っぱねた。
◆1945年5月29日、軍令部総長に着任。昭和天皇は「連合艦隊司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と豊田の総長就任に反対する旨を小磯内閣海軍大臣の米内光政*31に告げているが、米内は「若い者(徹底抗戦派)に支持がある豊田なら若い者を抑えて終戦に持っていける」という意図を天皇に告げ押し切った。しかし結果的には徹底抗戦派を抑えるどころか「当時の軍令部次長・大西瀧治郎*32中将とともに徹底抗戦を訴え」、徹底抗戦派に押し切られた形になった。米内は親しい知人に「豊田に裏切られた気分だ。見損なった」と述べ、昭和天皇も後に「米内の失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している。もっとも豊田は自著『最後の帝国海軍:軍令部総長の証言』(現在は中公文庫)で、「海軍内部における決戦派の暴走を食止めた」と自己弁護論を展開している。 高木惣吉は、豊田の見解に対し「苦しい弁疏にすぎず論点甚だ不明」とした上で、「徹底抗戦派に引きずられ、全国民の災難に思いを致さなかったことは、断じて許されない誤りである」と厳しく批判している。
◆敗戦直後の幣原内閣発足時、米内(鈴木内閣、東久邇宮内閣海軍大臣)は病気を理由に海軍大臣を辞退し後任に豊田を推薦したが、占領軍が豊田を戦犯容疑で調査を進めており、かつ海軍内においても、豊田を評価しない井上成美(いのうえ・しげよし)*33高木惣吉*34などから豊田の海軍大臣就任には猛反対があり、ついに豊田の海軍大臣就任は実現せず、米内が海軍省廃止まで海軍大臣を務めた。
◆井上成美は戦前と戦後で豊田の評価が180度異なったものとなり、軍令部総長としての徹底抗戦主張や、『降伏文書調印式への出席拒否という女々しい行動(仕方なく軍令部第一部長の富岡定俊少将が代理として出席)』により、戦前の高評価が一転して戦後は罵倒に近い評価をしていたという。

ということでもうかがえます。しかしウィキペディアはこういうときに便利です(怪しい記述も多いですが)。

「昭和天皇拝謁記」の驚き 人間的、辛辣な「肉声」: 日本経済新聞
 東条英機を「条件的にちゃんちゃんとやった」といくぶん評価*35近衛文麿は「無責任」と断じ、「近衛と東条との性格を一人にて兼備するものはなきか*36」と嘆いた。社会党政権の首相・片山哲を「善人だが意志が弱い」、吉田茂は「共産党を過小評価している*37」と評していた。

 近衛についての「無責任」呼ばわりは「近衛の首相辞任後の次期首相」に東條英機を推薦しておきながら、いわゆる近衛上奏文では東條に悪口したことですかね?

「昭和天皇拝謁記」の驚き 人間的、辛辣な「肉声」: 日本経済新聞
 戦後に東京帝大総長を務め、天皇退位論を主張した南原繁への不信感*38は根強く、「大学総長として常識がない」と言い、皇太子(上皇さま)の進学先として「南原総長の間は東大はいや。南原がやめたら東大でもよい*39」とまで語っていた。

 南原が退位論を主張しただけでここまで言っちゃうのは「どうしようもねえバカだな」「お前の方こそ常識がない」「日本人としてお前が天皇なのはマジで恥ずかしい」ですね。多分、近衛への悪口も「彼が戦後退位論を主張したこと」が『理由の一つ』でしょう。
 なお、南原と言えばいわゆる「ソ連を含む全面講和論(実際にはいわゆる「単独講和」となり、ソ連との国交回復は鳩山一郎内閣で実現)」を主張し吉田茂が「曲学阿世の徒」と悪口したことでも知られます。
 昭和天皇は勿論「単独講和支持」なのでそうしたことも南原敵視の背景にあったでしょう。

 天皇は安全保障、米ソ冷戦に敏感で、日本は「恥ずかしいけれども、現実としてはアメリカに頼らざるを得ない」と力説。

 日本ウヨではおなじみの「米国万歳論」です。だからこその「単独講和支持(昭和天皇)」でもある。

 拝謁記編者の一人の瀬畑源*40龍谷大学准教授は「ここまで詳細に昭和天皇の発言を書き留めた資料は記憶にない。占領期から独立回復期の米国や政治家、国民、皇族との関係など、天皇の考え方が克明に記されている。現在の天皇制をみる上でも価値が高い」と評している。

 まあそうでしょうけど、既に書いたように「これは客観的に見て昭和天皇の汚点、黒歴史でしかねえだろ」つうものがかなりありますね。天皇制や昭和天皇に批判的な赤旗等ならともかく保守の日経が掲載した理由がよくわかりません。

【書評】掛け値なしの昭和史の超一流資料 昭和天皇と宮内庁長官の対話録|NEWSポストセブン週刊ポスト2022年2月4日号
 私が一番驚いたのは昭和二十四年九月七日だ。
「(ボーガス注:近衛元首相など)[終戦時の]自決者は大体戦争犯罪人[に]なるのがいやで自決したとの仰せ。(ボーガス注:戦犯追及が始まる前に自決した?)田中静壱*41と阿南[惟幾]*42だけは別、本庄[繁]*43も杉山[元]*44も皆戦犯となることを避けてだとの仰せ」
 遺族が耳にしたら何と思うだろうか、それこそ「胸が痛む」。この後、東京裁判の被告たちへの容赦ない寸評が続く。

 上に「既に書きました」けど本当に「部下に対して冷酷」ですよね。「お前だって政治工作で戦犯追及から逃げたんじゃねえか(呆)」と本当に腹立たしい。「なんで大島浩が死刑にならなかったのか*45(要約)」などの東京裁判の被告たちへの容赦ない寸評については既に上で紹介しました。

昭和天皇「拝謁記」入手 語れなかった戦争への悔恨 | 注目の発言集 | NHK政治マガジン2019.8.16
 昭和天皇が田島長官を相手に敗戦に至った道のりを何度も振り返り、軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現して、「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」などと後悔の言葉を繰り返し語っていたことがわかりました。

 「事実上の国営放送」に昭和天皇批判なんか期待してませんけど悔恨、後悔じゃなくてただの言い訳ですよね。
 1)226事件を、陸軍上層部(川島*46陸軍大臣、本庄侍従武官長など)の「穏便な処分を」という要望を無視して昭和天皇が強権で鎮圧し、青年将校に対しても死刑という厳罰を行ったこと
 2)太平洋戦争開戦時の東条首相は「東條の上奏癖」といわれるほど、天皇に上奏し、天皇の意思に配慮していたことなどを考えれば「下剋上は止められなかった」なんて嘘でしかない。

改憲「侵略者がある以上軍隊はやむを得ず」沖縄米軍基地も「犠牲はやむを得ぬ」|LITERA/リテラ2019.8.24
 1951年3月には「侵略者のない世の中になれば武備は入らぬが、侵略者が人間社会にある以上、軍隊は不得已(やむをえず)必要だといふ事は残念ながら道理がある」と発言し、田島から「その通りでありまするが憲法の手前そんな事はいえませぬし、最近の戦争で日本が侵略者といわれた計りの事ではあり、それは禁句であります」と諌められている。

 「日本が明文改憲したいなんて言っても認められる政治情勢じゃない。ましてやあなたが言うのはまずすぎる」と田島長官からダメ出しされてる辺りが「本当に昭和天皇は政治音痴でどうしようもない」。

改憲「侵略者がある以上軍隊はやむを得ず」沖縄米軍基地も「犠牲はやむを得ぬ」|LITERA/リテラ2019.8.24
 沖縄米軍基地について語った発言だ。「拝謁記」によれば、サンフランシスコ講和条約発効後の1953年11月24日、昭和天皇は田島に対し、こう述べている。
「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一応もっともと思う理由もあろうが、全体の為に之がいいと分れば一部の犠牲はやむを得ぬと考える事、その代りは一部の犠牲となる人には全体から補償するという事にしなければ国として存立して行く以上やりようない話」

 「沖縄メッセージ」などから、予想の範囲内ですが戦後も沖縄を踏み石にして恥じない昭和天皇です。

昭和天皇「拝謁記」公開/戦争責任 国民的議論を2019.8.22
責任を全面転嫁
 手記は、戦争への「反省」を述べながらも、自己弁護を繰り返し、陸海軍の統帥者として侵略戦争に直接の責任を負っていたことへの自覚がまったく見られない昭和天皇の姿を示すものとなっています。
 日米開戦(1941年)をめぐっても、自らが出席した「御前会議」で開戦が決定されたにもかかわらず、「平和を念じながら止められなかった」「東條内閣の時ハ既に病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」(51年12月14日)と述べているばかりか、「太平洋戦争ハ近衛が始めたといつてよいよ」(52年4月5日)と近衛文麿元首相に責任を全面転嫁しています。
 終戦をもっと早くできなかったのかという疑問に対し、「事の実際としてハ下剋上(げこくじょう)でとても出来るものではなかつた」(51年12月17日)と述べて、自己の責任をあくまで否定しています。
再軍備など求め
 手記にはさらに、昭和天皇がたびたび改憲再軍備に言及し、「吉田ニハ再軍備の事ハ憲法を改正するべきだといふ事を質問するやうにでもいはん方がいゝだらうネー」(52年2月18日)などと述べ、田島氏から「憲法の手前そんな事ハいへませぬ」などといさめられたことも記録されています。
 天皇の地位が戦前の「統治権の総攬(そうらん)者」から新憲法の下で「象徴」へと変わり、「国政に関する権能を有しない」ことになったことを昭和天皇が理解せず、戦前の元首意識を多分に残していたことをうかがわせる内容です。

田島『拝謁記』から考える宮内庁長官の重い職責 社会学的皇室ウォッチング!/22=成城大教授・森暢平〈サンデー毎日〉 | 週刊エコノミスト Online2022.2.14
長官、天皇をいさめる
 1950年、前年にノーベル賞を受賞した湯川秀樹を文化的に国家に貢献したとして表彰し、菊の紋章入りの銀杯を授与する話が出た。これに合わせ、原爆投下後の長崎で救護活動にあたった元長崎医科大学*47教授の永井隆(たかし)も同時に表彰したいという申請が内閣からきた。『拝謁記』(50年4月19日条)によると、昭和天皇は、「私は(永井のような)こんな宣伝屋はいやだが、そして湯川博士にもわるい」と難色を示し、しかし、裁可しないわけにはいかないから、長崎医大学長らも同時に表彰するよう注文を付けた。『長崎の鐘』『この子を残して』の著書が評価される永井を、昭和天皇がなぜ嫌ったのかは分からないが、天皇が「中々御興奮の様子」で話していると田島は記した。
 田島は次のように天皇をいさめる。
憲法七条の栄典授与は内閣の助言と承認によるもの故(ゆえ)(略)御異論は出来ぬと思ひます故、永井は不当と存じます事、陛下の御考(おかんがえ)と全く同一でありますが、御裁可願ふより外なく、先刻御話の如(ごと)く、条件又は御希望とからませる事は如何(いかが)と存じます」
 永井を表彰したくない陛下の気持ちは分かりますが、栄典授与は内閣が責任をもって行うもので、銀杯を授与する、しないの意見を天皇が言うことはできません。田島はこう伝えたのである。天皇は納得しない様子であったが、最終的には永井への銀杯授与を裁可した。
 『拝謁記』を読んでいくと、昭和天皇が、戦前と同様な意識で政治に意見を述べ、それを田島がたしなめる場面がしばしば出てくる。

 以前から沖縄メッセージや昭和天皇というのも、時代錯誤な人だ - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)などで「戦後も国家元首気取りだったこと」はわかっていますが、拝謁記で改めてそれがわかったわけです。
 しかし、永井の存命中にこれがわかったら、永井も昭和天皇に呆れたでしょうね。

社説 [ 昭和天皇「拝謁記」] 今に続く「捨て石」発想 | 社説 | 沖縄タイムス+プラス2019.8.21
 戦後、初代宮内庁長官を務めた故田島道治昭和天皇の言葉や、やりとりの様子を克明に記した「拝謁(はいえつ)記」が見つかり、内容の一部が公開された。
 昭和天皇との対話を詳細に記録した貴重な資料の中で目を引くのが、基地問題に触れた記述だ。
 「全体の為ニ之がいゝと分れば 一部の犠牲ハ已(や)むを得ぬと考へる事、その代りハ 一部の犠牲となる人ニハ 全体から補償するといふ事ニしなければ 国として存立して行く以上 やりやうない話」(53年11月)とある。
 「一部の犠牲」が沖縄に負わされる形で、今も、国土面積の0・6%にすぎない沖縄県に米軍専用施設の約70%が固定化されている。
 国の安全保障を沖縄が過重に担う現在につながる源流ともいえる言葉だ。
 戦時中、沖縄は本土防衛のための「捨て石」にされた。
 47年9月、昭和天皇が米側に伝えた「天皇メッセージ」では、「アメリカによる沖縄の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の25年から50年ないしそれ以上の貸与(リース)をする」と、昭和天皇自らが、沖縄を米国に差し出した。
 今回明らかになった「一部の犠牲はやむなし」の思考はこれらに通底するものだ。

昭和天皇拝謁記(第1巻)のアマゾンレビュー】
◆釣合人形
 文中は特に話者が言及されていない個所があるので、田島道治本人なのか、それとも昭和天皇貞明皇后をはじめとして、誰か他の人が語った内容なのかを見極めないと誤読してしまいそうだ。
 それはともかく、第1分冊は昭和24年から昭和25年にかけてなので、時期的に孝宮和子内親王(後の鷹司和子)の結婚についての記述が結構ある。

*1:明治大学教授。歴史教育者協議会委員長。著書『昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版)、『大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社→2020年、ちくま学芸文庫)、『軍備拡張の近代史:日本軍の膨張と崩壊』(1997年、吉川弘文館)、『歴史修正主義の克服』(2001年、高文研)、『護憲派のための軍事入門』(2005年、花伝社)、『世界史の中の日露戦争』(2009年、吉川弘文館)、『これだけは知っておきたい日露戦争の真実:日本陸海軍の〈成功〉と〈失敗〉』(2010年、高文研)、『日本は過去とどう向き合ってきたか』(2013年、高文研)、『近代日本軍事力の研究』(2015年、校倉書房)、『兵士たちの戦場』(2015年、岩波書店)、『昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店)、『日本の戦争:歴史認識と戦争責任』(2017年、新日本出版社)、『日本の戦争Ⅱ:暴走の本質』(2018年、新日本出版社)、『日本の戦争III:天皇と戦争責任』(2019年、新日本出版社)、『帝銀事件と日本の秘密戦』(2020年、新日本出版社)など

*2:農林省山林局長、宮内省内匠頭兼主馬頭、主殿頭、侍従次長、外務省出入国管理庁長官、法務省出入国管理局長、日本中央競馬会副理事長、東京穀物商品取引所理事長など歴任

*3:外務事務次官、吉田内閣官房長官、外相など歴任

*4:幣原内閣厚生相、片山内閣副総理・外相、首相、自民党外交調査会長など歴任

*5:第一高等学校長、国際連盟事務次長、東京女子大学初代学長、東京女子経済専門学校(現・新渡戸文化短期大学)初代校長など歴任

*6:戦前、米内内閣内務次官を、戦後、改進党常任顧問、日本民主党(総裁は鳩山一郎)顧問、鳩山一郎内閣厚生相、自民党顧問、相談役など歴任。南満洲鉄道初代総裁、第二次桂内閣逓信相、寺内内閣内務相、外相、第二次山本内閣内務相などを歴任した後藤新平は義父。鶴見和子上智大学名誉教授)・俊輔(元・同志社大学教授)姉弟の父。鶴見良行龍谷大学教授)の伯父。鶴見太郎(俊輔の子、早稲田大学教授)の祖父

*7:内務官僚出身。戦前、新潟県知事、戦後、東久邇宮、幣原内閣文相、東京通信工業(現在のソニー)初代社長、日本育英会(現在の日本学生支援機構)会長など歴任

*8:同盟通信社(現在の共同通信社時事通信社の前身)初代社長。日本郵船専務を務めた岩永省一は義父

*9:内務官僚出身。大阪府保安課長、京都府地方課長、宮内大臣秘書官、侍従、宮内省総務局長、宮内次官などを経て侍従長侍従長退任後は、日本銀行監事、社会福祉法人恩賜財団済生会理事長などを歴任

*10:スイス大使、フランス大使、学習院女子部長、宮内庁侍従長など歴任。著書『回顧録侍従長の昭和史』(中公文庫)(三谷隆信 - Wikipedia参照)

*11:「人間的」とは思いますが「辛辣」とは思いません。日経記事を読む限り、昭和天皇の発言は「感情的で低レベルな悪口雑言」にすぎないからです。

*12:大正天皇の三男

*13:大正天皇の四男

*14:一方でウヨは彼を敵視しました(三笠宮崇仁親王 - Wikipedia参照)。

*15:この発言からは「弟たちには自覚が足りない→息子・明仁はまだ幼い→だから俺は退位しない」という認識であることがうかがえます。

*16:皇室記者であり富田メモについての記事で2006年度新聞協会賞を受賞。『天皇と葬儀:日本人の死生観』(2013年、新潮選書)、『昭和天皇は何と戦っていたのか:『実録』で読む87年の生涯』(2016年、小学館)、『天皇の戦争宝庫:知られざる皇居の靖国「御府」』(2017年、ちくま新書)、『象徴天皇の旅:平成に築かれた国民との絆』(2018年、平凡社新書)、『平成と天皇』(半藤一利保阪正康との共著、2019年、大和書房)などの著書がある(井上亮 (ジャーナリスト) - Wikipedia参照)。

*17:さすがに圧勝予想はしないわけですが、これでも甘過ぎでしょう

*18:第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣を歴任。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*19:斎藤、岡田、第一次近衛内閣外相、首相など歴任

*20:とはいえ鈴木は企画院総裁としての、大島はドイツ大使としての言動が東京裁判で追及されたのであって「土肥原賢二関東軍高級参謀として満州事変を実行)」「南次郎(満州事変当時の陸軍大臣(第二次若槻内閣))」「木村兵太郎(太平洋戦争開戦当時の陸軍次官)」「武藤章(太平洋戦争開戦当時の陸軍省軍務局長)」などとは違い「陸軍軍人」として追及されたわけではありません。

*21:第二次、第三次近衛、東条内閣企画院総裁。石油じり貧論などを根拠に対米開戦を主張した一人とされる。

*22:桜会(陸軍内の秘密結社)幹部としてクーデタ計画三月事件 - Wikipedia十月事件 - Wikipediaに関与

*23:東條、小磯内閣で外相。戦後終身刑判決を受けるが仮釈放。後に公職追放も解除され政界に復帰。改進党総裁、日本民主党副総裁(総裁は鳩山一郎)、鳩山内閣外相を歴任

*24:昭和天皇が広田、木戸、重光については「(軍部の?)被害者扱い」していたことがうかがえます。

*25:死刑になってたら靖国合祀でしょうけど、その場合、富田メモでの「白鳥や松岡への悪口」同様に「大島らの合祀」に悪口したんでしょうね。

*26:連合艦隊参謀長、海軍省教育局長、軍務局長、艦政本部長、呉鎮守府司令長官、横須賀鎮守府司令長官、連合艦隊司令長官軍令部総長など歴任

*27:東京裁判で、東條、鈴木内閣外相を歴任した東郷茂徳(禁固20年で服役中に病死し後に靖国合祀)、関東軍司令官、参謀総長など歴任した梅津美治郎終身刑で服役中に病死し後に靖国合祀)の弁護人を務めた。

*28:東京裁判で東條、小磯内閣外相を歴任した重光葵(禁固7年)の弁護人を務めた。

*29:横須賀鎮守府司令長官、連合艦隊司令長官など歴任

*30:なお、山本五十六連合艦隊長官搭乗機が撃墜された事件を「海軍甲事件」と呼ぶ

*31:戦前、林、第一次近衛、平沼、小磯、鈴木内閣海軍大臣、首相を、戦後、東久邇宮、幣原内閣海軍大臣を歴任

*32:神風特別攻撃隊創始者の一人。終戦時に自決。

*33:海軍省軍務局長、海軍航空本部長、海軍次官など歴任

*34:海軍省教育局長など歴任。著書『私観太平洋戦争:和平工作に奔走した一提督の手記』(光人社NF文庫)

*35:『東條の上奏癖』とまで言われた『基本、何でも昭和天皇に上奏(報告)する態度』が評価されたのでしょう。

*36:『俺は部下に恵まれなかった』とまた責任転嫁です(呆)。いずれにせよ「東條内閣時代は、陸軍の下剋上で対米戦争は止められなかった」と嘘をつきながらも、一方で、別のところでは「東條は私のためによくやってくれた」と本心が漏れてしまい「嘘が一貫できない」辺りが興味深い。

*37:十分、吉田は反共政治家なのですが、これです。昭和天皇の反共ウヨぶりがよくわかります。

*38:不信感と言うより不快感、敵視でしょう。

*39:『そもそも皇太子(現在の上皇明仁)が東大に入れる学力があるのかよ、それともコネで入るから学力関係ないのか?』と昭和天皇に言ったらマジギレするんですかね?。ちなみに実際には皇太子は学習院大学に進学しました。

*40:著書『公文書管理と民主主義:なぜ公文書は残されなければならないのか』(2019年、岩波ブックレット)、『国家と記録:政府はなぜ公文書を隠すのか?』(2019年、集英社新書)など

*41:第12方面軍司令官(東部軍管区司令官兼務)としていわゆる宮城事件を鎮圧。映画『日本のいちばん長い日』では石山健二郎(1967年版)、木場勝己(2015年版)が演じた。

*42:鈴木内閣で陸軍大臣。映画『日本のいちばん長い日』の主人公で、三船敏郎(1967年版)、役所広司(2015年版)が演じた。

*43:満州事変当時の関東軍司令官。226事件当時の侍従武官長

*44:太平洋戦争開戦時の参謀総長。林、小磯内閣陸軍大臣、陸軍教育総監など歴任

*45:まあ、それだけ「ドイツと手を結んだのは失敗だった」つう思いが強いんでしょうけど。これについては「ハニートラップ」なんてことで、そのような歴史の話を解釈するのはよろしくない(半藤一利氏って、こんなトンデモだったのという気がする)(下) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)が「大島本人の反省」を紹介していますので是非お読みください。

*46:朝鮮軍司令官、岡田内閣陸軍大臣など歴任

*47:現在は長崎大学医学部