石井一氏が死去(2022年6月7日記載)

元自治相の石井一さん死去 ダッカ事件で交渉役 87歳:朝日新聞デジタル
元自治相の石井一氏死去、87歳…日本赤軍「ダッカ事件」で犯人側と交渉 : 読売新聞オンライン
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 興味深いのは、石井一氏の主張は、とくに暴論でも突飛な意見でもない - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)が触れている横田早紀江などが非難した例の発言について

「ぶつかった後も親しく」憎めぬ人柄、政治に情熱 石井一氏死去、ダッカ事件では「命を懸ける覚悟」|総合|神戸新聞NEXT
 「鳥取と島根は日本のチベット」、北朝鮮による拉致被害者について「既に死亡している」などと話し、歯に衣着せぬ発言が物議を醸したこともあった。

として触れた報道も一部あるものの、ほとんどのマスコミは触れてないことです(しかも触れている神戸新聞も『そういう欠点もあったが愛される人柄だった』という書きぶりです)。
 これが「拉致が風化してない時期」の死去だったら確実に「横田早紀江の非難コメントでもついて、例の発言が改めて、批判的に報じられた」でしょう。
 また石井氏が元々は自民出身(海部内閣で国土庁長官)と言うことで

「ぶつかった後も親しく」憎めぬ人柄、政治に情熱 石井一氏死去、ダッカ事件では「命を懸ける覚悟」|総合|神戸新聞NEXT
 末松信介文部科学相(自民、参院兵庫選挙区)は、兵庫県議を務めた父の代から親交があり「小学生の時に会ったのが最初」と振り返る。1993年の衆院選では議席を争ったが「選挙でぶつかった後も親しい付き合いが続いた。憎めない人柄で、他党の人からも好かれていた」という。

だそうです(他にも兵庫選出国会議員、兵庫県知事などの追悼コメントが神戸新聞記事にはありますが紹介は省略します)。
 これまた、拉致が風化してなかったら「地方紙の神戸新聞で一般の目に触れる機会は少ない」「実際に石井氏とは親しい関係」だとしても「あんな発言をした人間の追悼コメントをマスコミ相手にするのか!。拉致担当ではないとは言え、それが岸田政権閣僚とはどういうことか!」という救う会、家族会のつるし上げを恐れて末松大臣もこんなことは言えなかったでしょう(勿論そうした個人攻撃を恐れてコメントを避けたであろう事は、末松氏以外の政治家たちも同じです)。
 改めて拉致の風化を痛感します。救う会:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会荒木和博BLOG荒木和博 (@ARAKI_Kazuhiro) | Twitter高世仁のジャーナルな日々なども「石井氏の死去」について今後触れないのではないか。
 また、興味深いのは

元自治相の石井一さん死去 ダッカ事件で交渉役 87歳:朝日新聞デジタル
 (ボーガス注:福田内閣)運輸政務次官だった77年には、日本赤軍によるハイジャック事件が発生。政府派遣団の団長として、バングラデシュダッカ空港に入り、犯人グループとの交渉役を担った。

元自治相の石井一氏死去、87歳…日本赤軍「ダッカ事件」で犯人側と交渉 : 読売新聞オンライン
 日本赤軍日航機を乗っ取った1977年の「ダッカ事件」では、運輸政務次官として現地で犯人側との交渉にあたった。

というところですね(無知なので今回そうした事実を初めて知りましたが)。石井氏*2が拉致関係でああした発言をしたのも「人質解放で、救う会みたいなやり方でうまくいくわけがないだろう。俺はダッカ事件でそのことをある程度知っている」という彼なりの使命感、義憤があったのではないか。


石井一 約束を破ったのは北朝鮮ではない、日本だ2018/5/3
 この機会にぐぐって見つけた記事ですが、「全く同感」なので紹介しておきます。しかしこういう「俺の態度」がid:kojitaken

天皇制と共産党と山本太郎と - kojitakenの日記
 この人*3がもともと、北朝鮮を擁護したり

と「北朝鮮シンパ」と認識されるんですかね。つうことはkojitaken的にはおそらく石井氏も北朝鮮を擁護したりなんでしょう。下手したら「金丸訪朝」金丸氏や「小泉訪朝」小泉氏、福田氏、田中均氏などもkojitaken的には北朝鮮を擁護したりかもしれない。kojitakenの「対北朝鮮外交認識(どのような対北朝鮮外交を日本はすべきなのか)」を教えて欲しいもんです。「救う会、家族会の同類ウヨ=kojitaken」なのか。

石井一 約束を破ったのは北朝鮮ではない、日本だ
 安倍政権はこれまで、北朝鮮はすぐに約束を破る信用できない国だとして、対話を拒否してきました。これは日本社会の間でも共有されている意識だと思います。しかし、こと日朝国交正常化交渉においては、約束を破ってきたのは北朝鮮ではなく日本です。我々はこの点から目を背けてはならないと思います。
 ここでは弊誌5月号に掲載した、元日朝議員連盟会長の石井一氏のインタビューを紹介します。全文は5月号をご覧ください。
◆インタビュアー
 石井さんは1990年9月の金丸訪朝団で事務総長を務めました。
◆石井
 まず僕は1990年7月に金丸訪朝団の先遣隊の団長として訪朝しました。自社両党から3人ずつ代表を出し、6人で行きましてね。当時は1982年に第十八富士山丸の紅粉勇船長と栗原好雄機関長がスパイ容疑で拿捕された後、7年間も拘束されたままでした。この事件の解決のため長いこと協議し、救出できそうだという心証を得て、金丸訪朝団の実施を決めたわけです。
 2か月後の金丸訪朝団では自民党社会党朝鮮労働党の間で三党合意を交わしました。そこで約束したのは、まず国交正常化のテーブルにつくことです。妙香山では金日成が金丸*4と二人きりになり、「ぜひ国交正常化をやってもらいたい」と頼みました。北朝鮮は経済的には相当困窮していましたから。金丸も理解を示し、「まず政府間交渉を進め、その後話がまとまれば、富士山の麓で調印式をやりましょう」と応じたのです。
(中略)
 その結果、紅粉さんと栗原さんは無事に解放されて帰国しました。
 ところが、日本国内は文句と北への批判ばかりで、アメリカや韓国も横槍を入れてきました。金丸はこの抵抗に抗しきれず、日本は国交正常化交渉のテーブルから降りてしまったわけです。このとき、僕は金丸に「アメリカを振り切って、自主外交を貫くべきです」と迫りましたが、(ボーガス注:最大派閥・竹下派幹部、元自民党幹事長、元副総理という大物政治家)当時の金丸の力をしてもできなかった。
◆インタビュアー
 2002年9月17日には小泉総理が訪朝して平壌宣言に署名しました。これはどう評価していますか。
◆石井
 金正日日朝首脳会談を機に拉致を国家犯罪として認め、主席*5の立場で正式に謝罪したのです。その上で小泉と金正日平壌宣言に署名しました。つまり、拉致被害者に関する北朝鮮の説明は、両首脳の間で「事実」として決着したということです。この事実はトップの間で確認されているので非常に重いものであり、拉致問題はこの時点で終わったということです。*6
 日本側も(ボーガス注:拉致被害者帰国実現のために)不本意ながらこれを認めました。現に小泉訪朝の当日に、東京では福田官房長官が外務省飯倉公館に拉致被害者の家族全員を招集して、北朝鮮側の説明を伝達しました。国際社会から客観的に見た場合、「両首脳の合意によって事実を確認した上で拉致問題は決着した」ということになります。
 とはいえ、これは日本人には受け入れがたい結果です。そのため、小泉訪朝後に国内世論は激高しました。またアメリカは日本の独自外交を快く思っていなかった。その結果、日本はその後に平壌宣言を無視し、国交正常化交渉を進めることができなくなったわけです。
 金日成金正日は親子2代にわたって日朝国交正常化を求めました。金丸信小泉純一郎はその要求に理解を示したものの、最終的に国内・国際情勢に抗しきれず約束を守ることができませんでした。日朝国交正常化交渉において約束を破っているのは、北朝鮮ではなく日本だということです。(以下略)

【参考:日本のチベット
 石井発言「鳥取と島根は日本のチベット」ですが一般的なのは「岩手は日本のチベット」ですね。勿論「褒め言葉」ではなく「酷い貧困地帯」という意味であり、今や「チベットに失礼」ということでまず使われませんが、以下に関係記事を紹介しておきます。

第13回「岩手県とはどんなところ?その1:日本のチベット」岩垂弘*7から一部引用
 私が(ボーガス注:朝日新聞)盛岡支局に赴任した一九五八年には、この県は「日本のチベット」と呼ばれていた。広大なうえ山地が多く、開発が著しく遅れた地域だったから、そう言われていたのだろうと思う。北海道を除くと、日本一広い県だった。なにしろ、四国四県とほぼ同じ面積である。 
 産業別の就業人口構成比は第一次産業(農林漁業)六二・九%、第二次 産業(鉱工業)一二・六%、第三次産業(自由サービス業)二四・五%。この就業人口構成からも分かるように、主要生産物は農産物で、いわば“農業県”であった。大企業といえば、釜石製鉄所(釜石市)ぐらいのものだった。
 工場が少なく、農業が産業の主軸。その農業も、山地が多いので、畑作のウエートが大きい。が、寒冷地とあって、これといった換金作物も育たず、消費地の大都会も遠い。そんな条件だから、県民所得は低かった。つまり、貧しい県であった。
 一九五八年当時の県民一人あたりの所得は六五,四八〇円(県統計課調べ)で、全国平均の七二・五%。当時、取材先で出会った人びとは「わが岩手県は、一人あたりの県民所得では鹿児島県などとともに全国の最下位グループなんですよ」と、自嘲的に話したものだ。  
 とりわけ、「なるほど、日本のチベットといわれるわけだ」と私に思わせたのは、交通網の不備であった。
 なにしろ、交通はバスに頼らざるをえない。鉄道もあるにはあるが、限られた地域を結んでいるだけで、それも山間を通っているため、しばしば土砂崩れで長期にわたって不通となった。そ こで、バスでということになるわけだが、当時、盛岡から県南の太平洋沿岸の大船渡市まで七時間もかかった。
 当時、県内で最も僻地といわれていたのは岩泉町と、やはり三陸海岸に近い田野畑村だった。
 田野畑村には「思案坂」と「辞職坂」といわれる坂道があった。私が耳にしたところでは、 昔、役人がこの村に赴任しようとして徒歩で役場に向かったが、あまりの遠路と僻地ぶりに、途中で「往こうか往くまいか」と思案し、ついに「やーめた」と引き返してしまった。そうした故事にちなんで名付けられたのだという。
 一九五九年二月四日付の岩手版に「玉沢少年の死がきっかけ 分校をつくろう」という見出しの記事が載った。久慈駐在の三船記者が書いたものだが、小学校からの下校途中、吹雪に閉じこめられて死んだ、県北・九戸郡大野村の開拓地の小学六年生、玉沢清美君(十二歳)の死を機に開拓地に小学校の分校をつくろうという話が進んでいる、という内容だった。玉沢君は小学校ま で片道八キロの道を歩いて通っていたのだ。
 この記事を読んでいたら、目に涙がにじんできた。辺地に暮らす人たち、とくに子どもたちの 苦労を思うと、胸に迫るものがあったからである。当時の僻地の生活ぶりを物語るエピソードの一つだった。

第16回「岩手県とはどんなところ?その4:辺境が育んだ独自の文化」岩垂弘から一部引用
 宮澤賢治の作品からも、当時の岩手の農民の厳しい生活ぶりがうかがわれる。
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病してヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマナナイカラヤメロトイイ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツオロオロアルキ

 よく知られる「雨ニモマケズ」の一部だ。この詩からも、冷害が農民を苦しめていたことが分かる。賢治童話の名作の一つとされる『グスコーブドリの伝記』は、冷害による飢饉で父母と離れた少年が、やがて学問で身をたて、最後には冷害による被害から農民を救うため、その身を犠牲にするという物語である。賢治自身、採石工場技師として炭酸石灰の製法改良に従事するな ど、農民への献身に没入した。
 賢治の作品に流れているのは、痛々しいまでの他者に対する誠実さと献身といってよい。岩手 の風土が彼をしてそうさせたのか、それとも彼の信仰(賢治は敬虔な法華経の信者だった)のなせるわざだろうか。そのどちらも深く影響していただろうというのが私の見方だ。

かつての「日本のチベット」は今 地域特性の「強み」と「弱み」 | 2016年1月号 | 事業構想オンライン2016年1月
 歴史的な経緯もあり、明治以降の県土開発が遅れた岩手県は、かつて“日本のチベット”とも称された。農林水産業で豊富な資源を有し、ものづくり産業で発展を遂げた現在も、数々の課題が山積している。
 戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟に加盟し、維新政府から厳しく処罰されたことが明治以降の県土開発に著しい遅れを招いたとされる。その結果、岩手県は“日本のチベット”として自他共に認める存在になったのである。
◆日本を代表する農林水産県
 現在の岩手県は、もはや“日本のチベット”ではない。食料自給率100%を超える稀有な存在であり、農業就業人口は全国第1位(2010)だ。とりわけ、畜産業と穀類生産が盛んで、前沢牛・いわて短角牛は高級ブランドであるし、雑穀(稗・粟・黍)生産量は第1位となっている。生産量全国上位の品目は数多い。
 また、山間部が県土の8割を占めることから林業も盛んで、特に木炭生産は、全国シェア23%で第1位である。
 さらに漁業に関しても、三陸沖は“世界有数の大漁場”で、東日本大震災からの復興が十分ではないものの、鮑、養殖ワカメの1位をはじめ、多くの品目が漁獲高上位を占めている。
 ただし、課題もある。近年の日本の1次産業においては、ブランド化・6次産業化・輸出振興が喫緊の課題となっており、各都道府県において精力的な取組みが行われている。ところが、岩手県は、その点での遅れが目立つ。多くの品目において日本トップクラスの生産量を誇りながら、全国的知名度があるのは前沢牛・いわて短角牛だけという点にも、それは明らかであり、早急な対応が望まれよう。
◆「集積」が活きない2次産業
 1980年代以降、東北新幹線東北縦貫自動車道の開通などを背景に、安価で広い土地と豊富な水資源を求めて、岩手県の「県南」「盛岡」地域に、自動車関連、半導体関連、弱電産業関連など、県外大企業の工場集積が進んだ(1998年から2007年までの10年間で189社)。2008年の経産省「企業満足度調査」で、「人材斡旋・育成に関する支援」部門で全国第1位、総合で第2位を獲得するなど進出企業からの評価も高い。
 しかし、同県をめぐる2次産業には構造的な問題点が存在する。(1)集積数は多いが、技術的な独自性を有する企業、国際競争力を有する企業は少ない(2)誘致企業(工場)の部品調達の8割以上が「県外調達」である(3)県外大企業の「生産拠点」に留まり、地域資源を活かし、県経済をリードするような県内創業大企業、特に研究開発型企業が、過去も現在も存在しない(4)企業集積が、「県南」「盛岡」エリアに偏在し、「県北」「沿岸」エリアとの間の経済格差を拡大させている。
 こうした状況は、「製造業界年収=全国第45位(2012)」という数字にも現われており、もちろん、上記(1)~(4)だけが原因ではないだろうが、同県の1人当たり県民所得は低く、平均所得242万円(全国第44位)に留まっている。
 経済的困窮は、当然、子女の学力向上や進学にも影響を与え、岩手県4年制大学進学率は、今なお、全国第45位(2013)と低い。結果的に、高卒で就職する若者の比率は高くならざるを得ないが、“高卒者の就職3年以内離職率5割”という“雇用のミスマッチ”が、その経済的困窮をいっそう過酷なものにしているのではないかと思われる。
◆社会基盤の整備は急務
 戦後の高度成長期まで続いた“日本のチベット”状態から脱却した岩手県ではあるが、長い歴史の中で形成された“開発・発展の遅れ”は、現代にあっても色濃く残り、それが上記のような矛盾や歪みを生み出しているのだろう。
 “開発・発展の遅れ”、それは、とりわけ社会資本整備において顕著だ。道路舗装率は全国最下位(2008)で、特に東西を結ぶ「横断軸」は極めて脆弱である。鉄道もまた典型的な過疎地ローカル路線化している。
 県内の橋梁など社会資本の老朽化も深刻で、局地的豪雨による被害額は全国第2位(2008)だ。県民の生活基盤とも言える汚水処理人口普及率も70.2%(2008年末)で、全国平均84.8%を大きく下回る。
 インターネット環境も未整備で、ブロードバンド契約数は全国第45位(2013)であり、それと関連してか、起業家数も全国最下位である(2012)。
 高齢化率第7位(2011)の同県にあって医療サービスの充実は最重要ポイントだが、医師不足は深刻で、地域別・診療科別の偏在が目立つ。2015年、秋田県を抜いて自殺率第1位になったが、メンタル面でのケアの不十分さを物語るものであろう。

*1:現在、石井氏の息子は兵庫県西宮市長

*2:海部内閣国土庁長官、羽田内閣自治相・国家公安委員長などを歴任

*3:俺のこと

*4:田中内閣建設相、三木内閣国土庁長官福田内閣防衛庁長官自民党国対委員長(大平総裁時代)、総務会長、幹事長(中曽根総裁時代)、中曽根内閣副総理、自民党副総裁(宮沢総裁時代)など歴任

*5:原文のまま。金日成国家主席だったが、金正日は「国防委員長、党総書記」だったので本当は「国防委員長」か「総書記」が正しい。

*6:石井一氏の主張は、とくに暴論でも突飛な意見でもない - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)での石井発言と内容的にはほとんど同じ

*7:1935年生まれ。朝日新聞盛岡、浦和、静岡各支局員、東京本社社会部員、北埼玉支局長、浦和支局次長、首都部次長、社会部次長、編集委員などを歴任。1995年退職。現在、平和・協同ジャーナリスト基金代表運営委員(組織|平和・協同ジャーナリスト基金参照)、「リベラル21」副代表(リベラル21 発刊にあたって参照)。著書『核兵器廃絶のうねり:ドキュメント原水禁運動』(1982年、連合出版)、『青海・チベットの旅』(1987年、連合出版)、『平和と協同を求めて:新聞記者37年』(1995年、同時代社)、『「核」に立ち向かった人びと』(2005年、日本図書センター)、『核なき世界へ』(2010年、同時代社)、『ジャーナリストの現場:もの書きをめざす人へ』(2011年、同時代社)、『戦争・核に抗った忘れえぬ人たち』(2018年、同時代社)など(岩垂弘 - Wikipedia参照)