珍右翼・黒坂真に突っ込む(2022年9月2日分)

◆黒坂ツイート

黒坂真
 若手弁護士さん。(ボーガス注:関東大震災(9/1以降)の朝鮮人虐殺について)数千人虐殺*1、の根拠は何ですか。数千人虐殺されたなら、数万人が暴行をされた筈です。数万人に暴行をするなら、数十万人が暴行をせねばならない。

 むしろ黒坂の主張の方が「はあ?」ですね。「数千人虐殺されたなら、数万人が暴行をされた筈」「数万人に暴行をするなら、数十万人が暴行をせねばならない。」の根拠は何なのか?
 といえばただの思いつきでしょう。「関東大震災(9/1以降)の朝鮮人虐殺」に限らず、南京事件にせよポルポト虐殺にせよ何にせよ「過去の虐殺においてそのような事実が確認されてるのか」と言えばおそらくそんなことはない。
 ここで「数千人虐殺の根拠はAだが、それについてはBという批判がある」と言うまともな批判ができない辺り心底呆れます(まあ、あまりにも主張根拠が意味不明なので、黒坂の主張を支持する人間もまずいないでしょうが)。
 有名私立大(早慶*2関関同立*3、MARCH*4など)に比べずっとレベルの低い大阪経済大学」とはいえこれが本当に大学教授なのかと唖然とします。
 というか黒坂に限りませんが「問題は数の大小ではない」。「虐殺それ自体が恥ずべき違法行為」と言う認識が黒坂らウヨにはあまりになさ過ぎです。その一方で「政府認定の北朝鮮拉致被害者17名」を大騒ぎする。黒坂らウヨの「虐殺矮小化」の理屈ならそれこそ「たった17人で騒ぐな」と言う話です。

黒坂真
 くるみわりさん。朝日新聞社を退職することになった方々に、赤旗記者になってほしいとの呟きですが、朝日新聞社日本共産党員はあまりいない*5でしょう。記者になるために日本共産党に入って下さい、というのも変です。
◆くるみわり
 恐ろしいことをする…
 こうなったら、対象となった志のある記者さんたちにしんぶん赤旗🚩に来てもらって、そのスキルと経験と記者魂を爆発させてほしい。赤旗さんいま記者募集中だし。かつて読売新聞社の有能記者さんたちが赤旗にごそっと来てくれた時のように。
◆鮫島浩*6
 朝日新聞で今月から過去最大級のリストラが始まる。私のコメントも掲載されています。
 私に寄せられた情報によると8月末に対象社員のメールに退職届の雛型が一斉に届いたとか。会社は部長面談を重ねて「追い出し部屋」行き人事をちらつかせ一人でも多く退職へ追い込む構えだ*7

 確かに「しんぶん赤旗」記者募集のお知らせ - 「しんぶん赤旗」によれば「党員であること」が応募条件のようですが「採用時において党歴1年以上でいい*8」ので「かなり緩い条件」ではあるでしょう(個人的には党員要件は外していい気もしますが)。記者になるために日本共産党に入って下さい、というのも変という黒坂ですがこの辺りは価値観の問題でしかありません。
 なお、読売新聞社の有能記者さんたちが赤旗にごそっ*9と来てくれたとは読売争議のことでしょう。
 読売争議の退職者では

【名前順:経歴はウィキペディア参照】
岩村三千夫
 1908~1977年。読売では上海特派員、香港支局長、東亜部次長、シンガポール支局長、論説委員を歴任。1946年、中国研究所の創立に携わり、理事を務める。1949年には日中友好協会の設立に参加。著書『中国革命と日中関係』(1981年、東方書店)など
◆具島兼三郎
 1905~2004年。読売退社後、九州大学教授や長崎大学学長など歴任。著書『全面核戦争と広島・長崎』(1984年、岩波ブックレット)など
◆鈴木東民
 1895~1979年。読売では外報部長、編集局長を歴任。退社後は釜石市長、市議を歴任
徳間康快
 1921~2000年。同盟通信を退いた松本重治*10の経営する新聞「民報」で社会部次長となる*11が1948年に「民報」が倒産。友人である中野達彦(中野正剛の息子)が社長の出版社「真善美社」の専務となるが、すぐに倒産。1950年、新光印刷(後に徳間プレスセンター)の社長に就任(新光印刷副社長は友人・中野だった)。1953年、読売新聞時代の友人・竹井博友*12が社長をしていた日東新聞副社長に就任。1954年3月に、竹井が経営していた東西芸能出版の経営を譲り受け、社長に就任し、「週刊アサヒ芸能」を1956年10月から発行、人気雑誌とする。1958年、社名を東西芸能出版からアサヒ芸能出版に変更して、引き続き社長。 1961年、総合出版会社を目指して、新たに徳間書店を創設、「アサヒ芸能出版」と二社体制となった。1967年に徳間書店と「アサヒ芸能出版」が合併して、徳間書店として一本化
◆樋口見治
 「第53回 共産党幹部の素顔」(岩垂弘)によれば1968年当時、赤旗日曜版編集長
◆増山太助
 1913~2007年。1950年6月の党分裂以降は党関東地方委員会委員や党東京都委員長を務めた。1955年7月の第6回全国協議会以降、党中央委員候補。1958年7月の第7回共産党大会で党章草案に反対、これを機に党のいっさいの役職を退く。1979年に除名。著書『読売争議1945~1946』(1976年、亜紀書房)、『産別会議十月闘争:新聞放送ゼネストをめぐって』(1978年、五月社)、『検証・占領期の労働運動』(1983年、れんが書房)、『戦後期左翼人士群像』(2000年、柘植書房新社
◆宮本太郎
 1910~2008年。読売退社後、1947年に「赤旗」編集局入り。党中央委員、広報部長など歴任。著書『回想の読売争議:あるジャーナリストの人生』(1994年、新日本出版社

がいます。

*1:勿論「韓国政府見解」「研究者の通説的見解」などそれなりに有力な見解が根拠でしょう。俺も無知なのでわかりませんが。

*2:早稲田、慶応

*3:関西大、関西学院大同志社立命館

*4:明治、青学、立教、中央、法政

*5:と決めつける根拠は恐らく黒坂には何もないでしょう。

*6:1971年生まれ。朝日新聞政治部次長、特別報道部デスクなど歴任。2021年に朝日新聞を退社してウェブメディア「SAMEJIMA TIMES」を創刊。著書『朝日新聞政治部』(2022年、講談社

*7:事実ならば無法な話ですが、真偽不明なので判断は保留します。

*8:「採用後、離党することは問題ないのかどうか」は書かれてないのでよく分かりません。

*9:ごそっと来たのかどうかは俺は知りませんし、来たとしても当時は「50年分裂時代の混乱期」なのでかなりの記者が失望して去った可能性もありますが(勿論、後述する宮本太郎氏のように長く在籍した人間もいますが)。

*10:1899~1989年。著書『上海時代:ジャーナリストの回想』、『近衛時代:ジャーナリストの回想』(以上、中公新書

*11:つまり当初は徳間も「新聞記者復帰」を目指していたわけです。

*12:1920~2003年。「不動産会社である地産」「致知出版社」の創業者。