リベラル21と阿部治平のバカさに呆れる(2022年12月20日分)(追記あり)

リベラル21 テレビ老人の気になる「お言葉」阿部治平
 タイトルだけで唖然ですね。
 以前も阿部は「最近の言葉遣いへのダメ出し」を出していましたが

自民党は「敵基地攻撃能力を反撃能力」「武器輸出を防衛装備移転」と呼ぶな
◆「自己責任」と言う言葉が嫌だ。今の日本では「若者が非正規になるのは自己責任、努力が足りないから正社員になれない」「田舎が過疎になるのは自己責任、努力が(以下略)」など弱者を切り捨て、社会構造の問題を免罪する言葉になってる

等の政治的な話ならともかく、ここで阿部はしてる話はそうではないですからね。
 前回の「最近の言葉遣いへのダメ出し」については以下の通り拙記事で批判しました。

ペマ・ギャルポのトンデモぶりが笑える・パート15(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログ2017.3.22
リベラル21『こんなことばはいやだ』(阿部治平)
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-3894.html
 「俺はスポーツ選手が最近『感動させたい』つうのが嫌なんだ。スポーツ選手は自己ベストを出せばいいのであって『観客を感動させたい』なんて思わなくていい。大体『感動させたい』て上から目線やん。ワシら観客は目下なんか?」
 「俺は観客がスポーツ選手に対して『元気をもらった』つうのが嫌なんだ。元気って他人からもらうモンなんか?。自分で作り出すもんと違うのか?。しかもたかがスポーツ観戦した程度で元気がでるんか?」
 「俺はスポーツ選手が『楽しんできます』つうのが嫌なんだ。多くの選手はたとえアマチュアでも会社や政府の支援受けてるプロみたいなもんやしそんなお気楽なもんと違うやろ。無理に『プレッシャーありません』アピールせんでいいのに」
 「ラーメン屋とかで最近『ワンタン麺でよろしかったでしょうか?』と一人の注文でも言うけど、3人以上の注文とかならともかく1人で確認する必要ないやろ。今ワンタン麺て言ったばっかやん。嫌やわー、過剰なマニュアル主義て。だいたい『よいですか』でええがな。『よろしかったでしょうか』なんて回りくどくいわんでも」
「グルメ番組でやたら、かまなくてもとろけるほど軟らかい肉とか言うけど、柔らかいモンバッカ食ってると歯が悪くなる」
「宣う(のたまう)の過去形は『宣った(のたまった)*1』ではなく『宣うた(のたもうた)*2』だと思うからオレは宣ったという言葉が嫌だ*3
などいろいろ愚痴る*4阿部です。しかしこれ、はっきり言ってリベラル21の建前『私たちは護憲・軍縮・共生を掲げてネット上に市民のメディア、リベラル21を創った』とはまるきり関係ないですね。
 ラーメン屋の「よろしかったでしょうか」が「よいですか」になっても、あるいは世間の人々が「宣った」ではなく「宣うた」と言うようになったからと言って政治が良くなるわけでも何でもない。
 まあ実は上に上げた例のウチ、「宣うた*5」以外は結構阿部意見に賛成する俺ですけど(苦笑)。
 これがまだ「私は自己責任論という言葉がいやだ。日本では政治家が国民を切り捨てるために使う言葉になってる」「私は中国の脅威という言葉が嫌だ、極右の中国誹謗が多いから」「私は特定失踪者と言う言葉が嫌だ、明らかなデマだから」とかなら「政治に関係がありますが」。
 こういうのは阿部は自ブログに書けよ、ですね。つうかリベラル21はどんだけ阿部治平を特別扱いしてるのか(苦笑)。阿部ぐらいじゃないですか、『宣ったじゃなくて宣うたが正しいと思う』とか、何かいても掲載されるのは。いや他にもこういう特別扱いがあるのか。
 ということで

■こんなどうでもいいくだらないことは自ブログに書きなさい
 ところで、こんなどうでもいい老人のつぶやきがどうリベラル21の「表向きの看板」である『護憲・軍縮・共生』に関係するんですか?
 こんなどうでもいいことは自ブログに書いて下さいね、阿部さん。まあこんな駄文を掲載して恥じないリベラル21も本当に愚劣ですね。どうせ掲載拒否するんでしょうがあまりにもバカバカしい駄文なので批判コメントさせて頂きました。しかし籠池証人喚問当日の記事がこんなどうでもいいことですか?。心底呆れます。

と阿部記事にコメントしました。多分「狭量な阿部とリベラル21」は掲載拒否でしょうが(嘲り)。
 全く阿部の記事タイトルを真似れば「こんな駄文を掲載するリベラル21はいやだ」「こんな駄文を書いて恥じないアホ爺の阿部治平はいやだ」ですね(毒)。 
【追記】

リベラル21 こんなことばはいやだ
 友人は、テレビのドラマのなかで写真を撮るとき、「目線を頂戴します」と言ったのを聞いて驚いたという。そこまでへりくだるか、と思ったらしい。私は「目線」がいやだ。そのうえ「目線を頂戴する」ということばは、不快感以前に、日本語としてわからない。気味が悪い。

 俺もすぐには意味が分からなかったんですが、しばらく考えて分かりました。たぶん「カメラ目線でお願いします」の意味でしょう。だから「目線」であって「視線」じゃない。
 ただ写真を撮るときに俺は「目線」と言う言い方はしませんし「頂戴」とまでくりくだりません(その意味で阿部やその友人に言語感覚は近い)。
 最近はこういう言い方なんでしょうか。
 ちなみに小生は「カメラ目線のやり方」というのがよくわかりません。なので写真を撮られるとどうも間の抜けた顔になる。

 そして上記記事には以下の好意的コメントを頂きました。

id:Bill_McCrearyさん
 単なる雑文エッセイですね。拙ブログでいえば「weblog」のカテゴリーに入るようなものです。
 拙ブログははじめから「なんでもあり」を自任しているので、政治ネタから美女のヌードまでありですが、リベラル21のネタじゃないですよね(苦笑)。
 そういえば本多勝一氏もこの種の記事をよく書いていましたが、年齢とともにそういうことを書きたくなるのかもです。いずれにせよそれなら自分のサイトで書けばいい話。

 いずれにせよ、そんなことが「私たちは護憲・軍縮・共生を掲げてネット上に市民メディア、リベラル21を創った」なのか。
 しかもこうした「護憲・軍縮・共生と関係ない記事」は阿部だけではない。横田喬の連載「二十世紀世界文学の名作に触れる」シリーズ(現時点でリベラル21 二十世紀世界文学の名作に触れる(52)ということで52回目)も明らかに「護憲・軍縮・共生と関係ない記事」です。
 阿部、横田とリベラル21のバカさには心底呆れます。そんなことは阿部や横田の個人ブログに書けばいい。
 それとも「リベラル21の同志仲間」なら「護憲・軍縮・共生」に関係なくても記事掲載するのがリベラル21なのか。
 だったらご大層な「私たちは護憲・軍縮・共生を掲げてネット上に市民メディア、リベラル21を創った」なんて看板を取り下げたらどうなのか。「私たちは老人の仲良しクラブです。政治ネタが多いですが、それ以外のことも書きます」とでも看板を掲げたらどうか。
 しかも以前も指摘しましたが「リベラル21に寄稿してる同志仲間」が

【生年順(生年が同じ場合は名前順)】
◆岩垂弘*6(1935年生まれ、87歳)
◆田畑光永*7(1935年生まれ、87歳)
◆横田喬*8(1935年生まれ、87歳)
◆坂井定雄*9(1936年生まれ、86歳)
広原盛明*10(1938年生まれ、84歳)
◆阿部治平*11(1939年生まれ、83歳)

などと「少数固定化」してる。
 その結果として

【2022年12月の場合(12/20時点):名前順】
◆阿部治平(記事4本)
リベラル21 閉じ込められた人々の願いと「反体制」2022.12.3
リベラル21 ロックダウン反対デモの陰で2022.12.8
リベラル21 「敵基地反撃能力」反対をいうだけでは無力である2022.12.13
リベラル21 テレビ老人の気になる「お言葉」2022.12.20
◆岩垂弘(記事4本)
リベラル21 大賞に西日本新聞と山梨日日新聞の2社2022.12.2
リベラル21 歴史的暴挙を阻止しよう2022.12.9
リベラル21 軍事力拡大ではなく外交力で対立の解決を2022.12.12
リベラル21 G7広島サミットに対抗する市民のつどいを開こう2022.12.14
◆横田喬(記事5本)*12
リベラル21 二十世紀世界文学の名作に触れる(48)2022.12.1
リベラル21 二十世紀世界文学の名作に触れる(49)2022.12.5
リベラル21 二十世紀世界文学の名作に触れる(50)2022.12.10
リベラル21 二十世紀世界文学の名作に触れる(51)2022.12.17
リベラル21 二十世紀世界文学の名作に触れる(52)2022.12.19

と1ヶ月に一人の人間が2本以上の記事を書く。12月などは上記のように「12/20時点」でほとんどの記事が「阿部治平、岩垂弘、橋田喬」の3人によるものです(リベラル21は日曜休載なので12/20時点で17本の記事が上がってるがそのうちの13本(全体の76%)が「阿部治平、岩垂弘、橋田喬」の3人の記事)。おそらく12/21~12/31の間もこの3人が記事を書き続けるでしょうから「7割以上がこの3人の記事」という現状は変化がないでしょう。
【12/31追記】

【2022年12月の場合(12/21以降):名前順】
◆阿部治平(2本)
リベラル21 「大軍拡」への中国の反応2022.12.27
リベラル21 大声で軍拡反対を叫ぶだけでよいのか2022.12.30
→なお、12.30の阿部記事についてはリベラル21と阿部治平のバカさに呆れる(2022年12月30日分) - bogus-simotukareのブログで批判しました。
◆岩垂弘(2本)
リベラル21 「安保3文書」の閣議決定への抗議声明相次ぐ2022.12.21
リベラル21 「安保3文書」閣議決定への抗議声明なお続く2022.12.28
日弁連、立憲デモクラシーの会、日本子どもを守る会、日本消費者連盟日本国民救援会などが「批判声明を出した」と他人事のような記事が何ともかんとも。「リベラル21としては何をやってるのですか?、批判声明は出したのですか?」と聞きたくなります。
◆横田喬(1本)
二十世紀世界文学の名作に触れる(53):ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』*13

ということでやはりこの三人の記事が12月記事全体(27本:日曜が休載のため)のうちの「18本(阿部6本、岩垂6本、橋田6本)」で、「約67%」を占めるわけです。さすがに「当初の7割」よりは下がったものの、あまりにもこの3人が記事を書きすぎでしょう。
【追記終わり】
 そんなことをするくらいなら「1ヶ月に記事は1人1本」の縛りをかけた上で「多くの人間に書かせる」べきでしょう。リベラル21は建前では「護憲・軍縮・共生を掲げてネット上に市民メディア、リベラル21」であって、「阿部らの仲良しクラブではない」。
 1)リベラル21は参加人数が非常に少ない上に参加者も不熱心な人間が多いので記事を書かせる人間がまるでいないか、2)「書かせる人間はいないわけではない」のだが、阿部らが自分だけで月に何本も書きたいのか、知りませんが全く酷い話です。よほど「阿部らの記事を毎日でも読みたいファン」でもない限りこんな「固定メンバーの記事ばかりを読みたがる」わけがない。
 そして寄稿者に「女性はほぼ皆無(当然、女性問題への言及はほとんどなし)」「年齢は70歳以上のみ(当然、若者問題への言及はほとんどなし)」です。
 こんな「男性高齢者(しかも特定少数)の仲良しクラブ」で何が「護憲・軍縮・共生を掲げてネット上に市民メディア、リベラル21」なのか。「女性や若者の問題」はリベラル21の建前である「共生」の重要テーマではないのか。
 例えば「コロナ禍での非正規雇い止め(非正規が多い女性や若者の労働者が打撃)」なんて話はリベラル21には全く出てきません。
 というか、リベラル21の場合「岸田の大軍拡反対」など「護憲、軍縮」といえる記事ばかりで「LGBT問題(LGBTとの共生)」「在住外国人問題(在住外国人との共生)」「障害者問題(バリアフリーなど障害者との共生)」「釈放された元受刑者の社会復帰(元受刑者との共生)」など「共生」といえる記事がまるでないのですが。どれほど「共生」について関心が無いのか。
 いずれにせよ、寄稿者に「女性」「70歳未満(1953年以降生まれ)」を出す気がない辺りが全く酷い。こんなんでリベラル21に社会的影響力があるわけもない。
 以上は阿部記事に投稿しますが掲載拒否でしょう。批判意見は絶対に掲載しないのだから自称リベラルが聞いて呆れます。
 さて、以下は阿部の駄記事に軽く突っ込んでおきます(以下は投稿しません)。

 「素敵なお召し物ですね」「今日は特別お美しい」とか、「おいしゅうございました」といった誉め言葉に、相手が「ありがとうございます」と返すのである。むかしは「お恥ずかしい」とか「いや、ご粗末でございました」とか言ったものである。
 このごろの私の経験でも、別荘地帯で犬の散歩をしている人に「かわいい」とか「立派ですね」などと声をかけると、「ありがとうございます」という答えが返ってくる。

 「何か問題なの?」ですね。
 褒められたから礼を言う。何一つ問題のない行為です。阿部的には「それほどでも」等と謙遜して欲しいようですが。
 いずれにせよリベラル21の看板「護憲、軍縮、共生」とは何一つ関係ない。

 新型コロナが蔓延すると、新手の「ありがとうございます」が登場するようになった。テレビのニュースショーに呼吸器や疫学の研究者、臨床医が登場し、感染状況や医療現場の窮状やその対策などを解説するようになった。わたしも専門家のさまざまな発言を興味深く拝聴した。
 発言がおわると、司会者が「ありがとうございました」という。ところが、専門家もやはり「ありがとうございました」と返すのである。司会者が礼を言うのは当然だが、専門家は情報や専門知識を我々に提供したのである。「ありがたい」のはこちらで、そちらさまがなぜ「ありがたい」のか。
 ふつうの会話だと「どういたしまして」といったたぐいの返答をするのではなかろうか。もしやテレビ局は専門家に「ありがとう」を指示しているのではなかろうな。

 
 普通に考えて

(こちらこそ、他にも医療問題の専門家(医師、医学者など)は多数いるのに、私ごとき、つまらない人間をテレビにお呼び頂き)ありがとうございました」
(こちらこそ、私ごとき、つまらない人間の話を長時間ご清聴頂き)ありがとうございました」

という謙遜の言葉(但し赤字部分は省略)でしょう。その言葉遣いに賛同するかどうかはともかく、本気で阿部はその程度のことも分からないのか?

 先日もテレビでアナウンサーがロシアの攻撃によって、「ウクライナの生活インフラの被害が拡大しました」というべきところ、「しがい(死骸)が拡大しました」と発音していた。
 もともとアクセントが違うし前後の関係から聞いてわからないではないが、言葉の専門家であるアナウンサーの発音がこれではまずいと思う。
 私が肩入れしている政党指導者*14が「それは国民にとって相当しどい政策だ」と政権側を批判したことがあった。「ひどい」といってくれれば、もっと支持するのだが。

 江戸っ子が「ヒ」と「シ」の発音を区別できない原因が判明…舌の位置と左右方向の形状が重要だった|FNNプライムオンラインなどでわかるように、江戸っ子(東京生まれ、特に戦前生まれの高齢者)は「ヒとシがごちゃごちゃになる(例えば日比谷(ヒビヤ)はシビヤになる)」「五代目古今亭志ん生、八代目林家正蔵林家彦六)などは戦前生まれの江戸っ子なのでもろにそうだった」は良く言われる話ですが、「え?。そんな発言、テレビアナや志位氏にあったか?」が俺の感想ですね。
 まあ、江戸っ子でなくても「関東圏ではヒとシの区別ははっきりしない」そうなので、「埼玉県民」の俺もその辺り「いい加減」なのかもしれません。志位氏も「千葉出身(志位和夫 - Wikipedia参照)」なのでその辺り「いい加減」なのかもしれません。
 それにしても志位氏への阿部の因縁は酷いですね。アナウンサーならともかく政治家が「ヒとシ」をきちんと発言できないと行けない理由は何なのか?。志位氏は「政治のプロ」であっても「言葉のプロ」ではない。
 また、言葉使いというのは身につくと、「よほど直そうと思わない」と、まず確実に直りません。
 例えば俺の親父など、「パーティー」「ティースプーン」等の「ティー」がほぼ毎回「テーかチー」になります。俺の親父に限らず、年配の方は「ティ」の他にも外来語によくある

トゥシューズ」などの「トゥ(ツになる)」
「ファイト」「フィリピン」「フェイスブック」「スマートフォンチーズフォンデュ」などの「ファ、フィ、フェ、フォ(ハ、ヒ、ヘ、ホになる)」

といった発音がうまくできない方が多いですが、そんなもんをあげつらっても仕方がない。
 無理に直そうとしてもまず直らないし、直す必要性にも乏しい。前後の文脈で分かりますから。
 そんな上げつらいが許されるのは「アナウンサー」「俳優、声優」といった「言葉のプロ」だけでしょう。
 そして志位氏も含めて多くの人間はこんな言葉使いを直すよりもやるべきことがたくさんあるわけです。
 阿部が「本当の支持者」ならこんなバカなことは言わないでしょう。
 そういえば以前、読んだ柳家小三治(十代目)の著書『落語家論』(2007年、ちくま文庫)で小三治
1)プロの落語家は鼻濁音が使えて当然だと思う、「言葉のプロ」落語家ならあらゆる言語表現が使用できるべきだ(勿論こう主張する小三治は鼻濁音が使えるのでしょう。「鼻濁音が使えない」小生は「鼻濁音」がよく分からない上に小三治落語も聞かないのでよく分かりませんが)。最近、鼻濁音を使わない落語家が多いのは嘆かわしい。私(小三治)の見る限り「使えるのに、何らかの考え(最近の日本人は鼻濁音を使わない人が多いので鼻濁音はむしろ違和感を与えるなど)からあえて使わない」のではなく「使えないから使わない」「習得する気がないから使えない」だけのように思う。そんなことでいいのか。「現代日本を舞台にした新作落語」なら「鼻濁音がない落語」でもいいかもしれない(現在において鼻濁音が使えない日本人は多いので)。しかし古典では、本来それではまずいと思う(古典落語で使われる江戸方言ではむしろ鼻濁音が普通なので)。
 「鼻濁音を使わない地域(なお、鼻濁音 - Wikipediaによれば、西日本(中国、四国、九州)がそうらしい、また関東圏はほぼ鼻濁音地域ですが「埼玉北部と群馬」は例外的に使わないとのこと)」に生まれた落語家でも鼻濁音を習得すべきではないか。
2)ただし、これはあくまでも「落語家、俳優、声優、アナウンサー」のような「言葉のプロ」限定の話。一般人が無理して鼻濁音を習得する必要はないと思う(多くの鼻濁音が使えない一般人は「鼻濁音を使わない地域」に生まれたため、使う必要性もないため)。
と言っていた*15と記憶しています(今手元に小三治著書がないので)が、今回も同じ話だと思います。
 「言葉のプロ」であるアナウンサーは「ヒとシ」がきちんと言えるべきでしょうが、「言葉のプロでない」志位氏にそんなことを求める必要はどこにもない。
 大体こんなことを言う阿部が「常に全て適切に物が言えるか」と言えば恐らくそうではないでしょう。
 例えば阿部の年齢を考えれば「ティ(チになる)」「トゥ(ツになる)」「ファ、フィ、フェ、フォ(ハ、ヒ、ヘ、ホになる)」の発音は彼にはできないのではないか。

「……感じですね」「……ようです」

 曖昧な物言いの一例ですね。
 俺も以前、自分の話を録音で聞いたら「と思う」というべき所、「のように思う」「と言うように思う」「と言う風に思う」と言う表現の連発で「無意識のうちに、断言するのを避けてる物言い」に気づいて愕然としたことがあります。
 多分気づかないだけで俺も「感じです」「のようです」を多用してるだろうとは思います。俺も感覚的には阿部同様に「できる限り断言すべきだ」という考えではあるのですが。
 いずれにせよリベラル21の看板「護憲、軍縮、共生」とは何一つ関係ない。

「おじいちゃーん」
 テレビのお墓のコマーシャルである。谷に向かってかわいらしい子供の声が「おじいちゃーん」と叫んでいる。なかなか気の利いた広告だ。だが、この墓場を売り出している会社では「おじいちゃん」しか死なないのか。「おばあちゃん」は「おじいちゃん」よりも長生きすることは知っているが、この広告を見るたび、「おばあちゃーん」も登場してほしいと切に願っている。

 「女性運動の歴史」「テレビ広告の歴史」では有名な「私作る人、僕食べる人」批判を連想させる阿部の主張です。
 なお、阿部の見た葬儀社広告はそうなのでしょうが、「おばあちゃん」が死者として出てくる葬儀社広告も勿論あります。
 それはともかく、こんなことを阿部が書くリベラル21に「おばあちゃん」の筆者が出てこないのは何かの冗談でしょうか?
 リベラル21の寄稿者に「おばあちゃーん」も登場してほしいと切に願っている。。というか「おばあちゃん」に限らず女性の寄稿者自体がほとんど無いのですが。

「迷惑を掛けたくないから」
 テレビコマーシャルで、私より十(とお)も若そうな老人が葬式費用の心配をして「子供たちに迷惑を掛けたくないから」といっていた。どうやらこの人は死亡保険に入る決心をしたらしい。

 個人的には1)死亡保険に入らないと自分の葬儀費用が出せないのはおかしい(保険に入らずともその程度の余裕はあってしかるべき)、2)親が子どもの面倒になるのはむしろ当然ではないかとは思います。

 このコマーシャルを幾度も見ているうちに、わたしもひとごとではない、もうすぐ子供に迷惑をかける仕儀に立ち至ることに気が付いた。ところが自分には保険に入るほどの余裕がないのである。
 そこで息子夫婦には「葬式をやってはならない。火葬後の骨灰はおれの好きだったあの山の尾根に撒くように」と申し渡した。息子は憮然とした顔をして、「葬式をやるなというなら、そう遺言に書いてくれ」といった。葬式をやらなかったら周りがうるさいうえに、やたらに散骨などできないというのである。
 死ぬのも容易でないなと思うようになった。

 「遺書を書けばいいだけ」の話でしょうに何が死ぬのも容易でないのか。まあ、遺書に息子夫婦が従うかどうかは分かりようがないですが。

【参考:鼻濁音】

鼻濁音は消えるのか | ことば(放送用語) - ことばウラ・オモテ | NHK放送文化研究所2000.10.1
 放送のことばについての質問を受けていると、その中に外部からのNHKに対する注文や意見もあります。
 アナウンサーのことばづかいから、服装についての忠告やメーキャップなど、さまざまな問題が持ち込まれます。
 東北地方の方から、テープ同封で「アナウンサーの中に鼻濁音ができない人がいる。即刻首にしろ。」という事例がありました。
 「鼻濁音」ときいてすぐに分かる人は、かなり音声言語にくわしい方でしょう。日本語の「ガ行」は音としては実は2つの音を指しています。「わたしは映画が好きです。」と書いた場合、発音は「ワタシワエーガガスキデス」となり「は」は「わ」と読むのと同じように「が」も「が」と書いて濁音の「ガ」と鼻にかかった「ンガ」という音があります。
 大まかに言って、語頭の「が」は濁音ですが、語中の「が」や、助詞の「が」は鼻濁音になります。
 苦情を寄せられた方は東北在住の方でしたが、中国地方、九州地方などでは、この鼻濁音で発音する習慣が無く、余り問題にされません。
 放送では共通語を使いますから、鼻濁音の発音は欠かせないと言えます。
 ところが、最近若い人を中心に東日本でも鼻濁音がなくなりつつあります。演歌ではきれいな鼻濁音を使っていますが、ニューミュージックといわれ始めた頃から濁音化が歌の世界でも広がっています。『津軽海峡冬景色』は「ツガルカイキョーフユゲシキ」で「が、げ」は鼻濁音になります。
 荒井由美の『卒業写真』は「ソツギョーシャシン」で「ギョ」は濁音で歌われています。
 若い人の中に鼻濁音ができない層が増えていることの一つの理由として、区別を書き表わす方法が一般の表記にはないことがあげられます(専門的には濁音は「ガ」、鼻濁音は「カ゜」として半濁点で表記します)
「見た目で違いがないなら、発音は同じ」とする合理主義なのでしょうか?
 この傾向は新人アナウンサーにも見られ、入局当初に鼻濁音ができる人の割合は、年々低くなっています。

【参考:私作る人、僕食べる人】

私作る人、僕食べる人 - Wikipedia
 1975年(昭和50年)に放送されたハウス食品工業のテレビCMである。CM内の台詞が性別役割分担の固定化につながるとして婦人団体から抗議を受け、約2か月で放送中止となった。日本においてジェンダーの観点から広告が社会的に問題視された最初の事例として知られている。
◆概要
 ハウス食品工業が1975年(昭和50年)に放送したインスタントラーメン「ハウス シャンメン しょうゆ味」のテレビCMである。ラーメンの置かれたテーブルの前で、女性が「私作る人」と言い、続いて男性が「僕食べる人」と言うものであった。
 放送開始から約1か月後の9月30日、市川房枝*16田中寿美子*17、樋口恵子*18吉武輝子*19俵萌子らの「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」が、この台詞は「男女の役割分担を固定化するものである」として抗議。これを受けてハウス食品工業は10月一杯で放送中止とした。

*1:ちなみにこの「宣った」は『「週刊金曜日」(2017・03・10)に、「赤ワイン片手に『(自衛隊の降下訓練を)天皇陛下バンザーイって言ってやろうかな』とのたまった稲田朋美防衛大臣」という見出しの記事』という話でもちろん週金は稲田を小馬鹿にしています。いつ頃から始まったのか、「宣った(もともとは敬語)」は最近では「親愛なるid:Mukke先生が『ノルウェーに霞を食えとは言えない』という歴史的名言を宣いました!」「日本を代表するチベット研究者I濱先生が『沖縄に米軍がないと中国が攻めてくる』と信じられないことを宣った」「自称・共産党支持者の阿部治平先生が『共産党は大企業を敵視してる』と宣ったので苦笑した」などのように相手を小馬鹿にする場合に使われます。俺の個人的感想にすぎませんがこういう小馬鹿にする場合の敬語ではあくまでも「宣った」であって「おっしゃった」とは言わない気がします。

*2:これは『宣う(のたまう)』ではなくて、『宣う(のたもう)』の過去形じゃないですかね。まあ、「のたまう」も「のたもう」も意味は同じですし漢字で書くとまるきり同じですが。

*3:ただし阿部氏曰く友人にそういったら「宣ったでいいジャン。俺だっていつも宣ったって言ってるし。何で宣うたにこだわるの?」と全然賛同が得られなかったそうです。なお小生も「宣った」とは言っても「宣うた」とは言いません。

*4:上の文章はオレ流に要約(意訳、超訳?)しており阿部文章の引用ではありません。

*5:仮に阿部氏の主張が正しいとしても既に「宣った」は市民権を得ています。今さらそんな事にこだわっても仕方がない。

*6:著書『核なき世界へ』(2010年、同時代社)、『ジャーナリストの現場』(2011年、同時代社)、『戦争・核に抗った忘れえぬ人たち』(2018年、同時代社)など

*7:TBS『JNNニュースコープ』メインキャスター、北京支局長、香港支局長などを歴任。TBSを定年退職後は、法政大学客員教授神奈川大学教授を歴任。著書『中国を知る』(1990年、岩波ジュニア新書)、『鄧小平の遺産』(1995年、岩波新書)、『勝った中国・負けた日本:記事が映す断絶八年の転変』(2015年、御茶の水書房)など

*8:著書『反骨のDNA:時代を映す人物記』(2020年、同時代社)など

*9:龍谷大学名誉教授。著書『テロの時代』(1986年、教育社)など

*10:京都府立大学名誉教授。著書『震災・神戸都市計画の検証』(1996年、自治体研究社)、『日本型コミュニティ政策』(2011年、晃洋書房)、『観光立国政策と観光都市京都』(2020年、文理閣)など。個人サイト広原盛明のつれづれ日記

*11:著書『もうひとつのチベット現代史:プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』(2006年、明石書店)、『チベット高原の片隅で』(2012年、連合出版

*12:そもそもこんな文芸記事のどこが「護憲、軍縮、共生」なのか?

*13:「繰り返しますが」そもそもこんな文芸記事のどこが「護憲、軍縮、共生」なのか?

*14:恐らく共産党の志位委員長のことでしょうが、はっきりそう書いたらどうなのか。

*15:ただし「引用紹介はしません」がググったところ、小三治支持者もいる一方で「落語は面白ければいいんだ、鼻濁音なんかどうでもいい」「そんなことを言う小三治や彼の弟子がそんなに鼻濁音がうまくできてるとは思わない」等という「アンチ鼻濁音派」「アンチ小三治派」もいるようですね(勿論こうしたアンチには「ひいきの落語家が鼻濁音を使えないから」「単に小三治や弟子が嫌いだから」と言う人間もいるでしょう)。こういう「アンチ鼻濁音派」は阿部のような意見には「志位演説の内容が良ければいいんだ、ヒとシなんかどうでもいい」ではないか。

*16:1893~1981年。参院議員(第二院クラブ

*17:1909~1995年。労働省婦人少年局婦人課長(同僚には海部内閣官房長官、宮沢内閣文相、小泉内閣法相を務めた森山真弓(1927~2021年)、ウルグアイ大使、細川内閣文相を務めた赤松良子(1929年生まれ)がいた)を経て、1965年(昭和40年)参院議員選挙に社会党から出馬し、当選、以後三期18年務める。社会党副委員長(飛鳥田委員長時代)

*18:1932年生まれ。東京家政大学名誉教授。著書『サザエさんからいじわるばあさんへ:女・子どもの生活史』(2016年、朝日文庫)、『その介護離職、おまちなさい』(2017年、潮新書)など

*19:1931~2012年。著書『女人・吉屋信子』(1986年、文春文庫)、『別れのブルース淡谷のり子』(2003年、小学館文庫)、『病みながら老いる時代を生きる』(2008年、岩波ブックレット)など