今日も「反共分子」kojitakenに悪口する(2023年2/19日分)

朝日新聞が7月に「論座」を終了。どうなるDr.ナイフ(笑) - kojitakenの日記
 松竹伸幸|論座 - 朝日新聞社の言論サイトで分かるように松竹をプッシュしていた「論座」の終了を、「松竹を美化する」kojitakenが嘆くかと思いきやそうではないようです。
 俺的には論座と言えば「松竹を持ち上げた許しがたい反共メディア」ですが。
 いずれにせよ別記事でも書きましたが「新聞不況」の中、大手・朝日ですら経営体力が弱って「金儲けにつながらない事業」を続ける事が難しいのでしょう(他にも週刊朝日休刊など)。果たして本当に「新サイト」ができるかどうか。
 いずれにせよ、「朝日以外の新聞社(日本最大部数の読売を除く)」の苦境は相当のものでしょう。


社民党などの小政党は衆院選を比例代表制をベースにした制度に再改変するとともに、自らの政党が得票率5%以上を固定票として確保できる力をつけることを目指すべきだ - kojitakenの日記

 私は野党共闘を推進した「市民連合」の最大の誤りは、選挙制度再改変を長期的でもあっても目標に掲げることをしなかったことだと考えています。短期的には民主系政党、特に野党共闘の陰の言い出しっぺではなかったかと疑われ、かつ市民連合共産党野党共闘を言い始めた2015年にはまだ政界に対して強い影響力を持っていた*1小沢一郎に対する忖度があったんじゃないかと疑ってますけど。

 kojitakenの常軌を逸した「アンチ小沢」には心底呆れます。
 岡田*2(岡田時代から野党共闘が開始)にせよ蓮舫*3にせよ前原*4にせよ枝野*5にせよ歴代の民主党民主党の流れにある民進党、立民党を含む)代表で、小選挙区制廃止など言った人間が一人もいないのだから「民主党への忖度」で済むところ小沢云々と言い出すバカさには心底呆れます。
 で、こうした俺の批判がよほど不愉快だったのか、当初は掲載拒否、今では投稿拒否設定にしてるのだから心底呆れます。どこまで独善体質、批判拒否体質なのか。

 昨年の参院選では私も社民党の政党要件確保を重視して秋葉忠利氏の名前で比例区に投票し、どうせ当選するのは私が全く支持しない福島瑞穂だろうがそれでも止むを得ない、社民党の政党要件*6維持の方が大事だと考え、実際その通りの結果になりました

 「著名な人権派弁護士」福島氏が党首を辞任したら、社民党は彼女に代わる看板がいないので確実に「衰退一直線」のうえに、過去に社民党国対委員長、政審会長であり、社民党の現状(衰退)に「一定の責任」がある秋葉氏をいたずらに持ち上げるkojitakenの脳味噌は理解不能です。辻元清美氏など多くの社民党議員が民主党、立民党に移籍したにもかかわらず移籍しなかった福島氏への感謝の念はないのか。福島氏が民主党に移籍したり政界引退したりする可能性は決して低くはなかったでしょうに。その方が良かったというのがkojitakenの認識なのか。
 「ウスラバカ」kojitakenの政治センスの無さには心底呆れます。


維新のこういう理念がいいから協力しようということを誰も言ってない(by 三春充希氏) - kojitakenの日記
 こういう維新批判文章を書きながら

維新と協力の余地ない/小池書記局長が表明という小池発言を無視して維新との共闘を主張する松竹伸幸

を「党内批判派」として美化するkojitakenの脳味噌は理解不能ですね。
 何故松竹に対して「党首公選制はともかく、松竹の主張する『維新との共闘論』には賛同できない」「この点では志位執行部の方が松竹より正しい」といえないのか。
 そんなに松竹を批判したくないのか。そんなに志位執行部を「維新への態度」という限定的な話ですら好意的に評価したくないのか?
 維新批判より「志位執行部への悪口」が大事というのだからkojitakenの維新批判は「インチキ」といっていいでしょう。


社民党には2000年代末から2010年代までの「小沢一郎の衛星政党」時代を総括して早く本当の社民主義政党に生まれ変わってもらいたい - kojitakenの日記
 「本当の社民政党」とは何なのかはともかく、「そんな時代(小沢の衛星政党時代)はありませんでした」「社民党の衰退理由はそういう話ではない」で終わる話だと思います。
 後述しますが、社民党が総括すべきことはむしろ「成田知巳*7書記長(後に委員長)の成田三原則(何なのかは後で説明します)、特に労組依存」でしょう。
 社民党の衰退はそういうことではなく
1)長い間社会党社民党)を支持してきた労組(総評→連合)が「連合執行部の右傾化」もあって民主党支持に切り替えたことで、支持基盤ががた減りしたが、それに変わる新たな支持基盤を形成できなかった
→これについては五十嵐仁氏(法政大名誉教授)が

◆いわゆる成田三原則*8、特に労組依存*9を是正できなかったことが社会党社民党)を衰退させた。
◆成田三原則*10、特に労組依存を是正しようと土井たか子社民党党首(1996~2003年まで党首)は市民運動出身の辻元清美ピースボート)、福島瑞穂(弁護士。夫である海渡雄一 - Wikipedia同様、各種市民運動にコミット)、保坂展人(教育ジャーナリスト)らを重用したが思うような成果が出なかった。
→辻元は2010年に社民党を離党し、2011年には民主党(現・立民党)に入党。保坂も世田谷区長(2011年初当選)となって社民党を離れ、今も社民党に在籍するのは福島党首のみ
◆過大評価は禁物だが共産党が今もそれなりの勢力があり、党勢(世論調査での政党支持率、国会議員数*11など)が現在ではついに『衰退の一途の社民党』を超えたことは新婦人(女性団体)、民青(青年団体)など労組以外の支持基盤があったから

と著書『政党政治労働組合運動』(1998年、御茶の水書房)で主張しています。
 五十嵐氏は「全国革新懇*12代表世話人」であり、自他共に認める共産支持者である(その共産評価はある程度割り引く必要がある)とは言え、こうした主張は全くその通りだと思います。自称社民党支持「kojitaken」より「共産支持を自他共に認める五十嵐氏」の方がまともな分析というのも皮肉ではあります。
 なお、『政党政治労働組合運動』(御茶の水書房)については拙記事社会党が衰退したわけ(五十嵐仁「政党政治と労働組合運動」(御茶の水書房)から) - bogus-simotukareのブログでも言及しました。
 こうした「労組依存が社会党社民党)を衰退させた」という五十嵐説について「社民党支持」を自称するkojitakenがどう認識してるのか知りたいところです。なお、kojitakenの日記を「成田三原則」でサイト内検索しても記事はヒットしません。
 「五十嵐仁」で検索すると3件ヒット(五十嵐仁 の検索結果 - kojitakenの日記)しますが、これはkojitakenが引用した「日刊ゲンダイ」や「テレビ朝日」の記事に五十嵐氏のコメントが書かれていただけで、kojitakenが積極的に五十嵐氏に言及しているわけではありません。
 「成田知巳」で検索すると6件ヒットし(成田知巳 の検索結果 - kojitakenの日記)、そのうちの一つは社会党が衰退したわけ(石川真澄『人物戦後政治』より) - kojitakenの日記ですが成田三原則についての言及はありません。
 kojitakenが「成田三原則」について知らない無知か、知っていながら故意に無視してるのか知りませんが、「成田三原則」、特に「労組依存」と言う指摘についてどう考えるのかを論じずして「社会党が衰退したわけ」についてまともな結論は出ないでしょう。
2)「連合による民主党支持」の結果、社民党の前途に不安を感じた辻元清美氏など社民党議員が「寄らば大樹(最大野党民主党)の陰」でどんどん民主党へ流出していき、さらに党勢が衰退
3)自社さ連立政権での社民党の公約違反(例:野党時代は反対していた長良川河口堰について社民党出身の野坂建設相が賛成)に失望した左派支持層が「共産支持」に流れていき、むしろ党勢が「共産>社民」に変化。これに対して「共産に奪われた支持層」をほとんど取り戻せなかった
→最近の社民党はれいわ新選組にも支持者が奪われてる疑いがあります。
という話でしょう。
 この1)~3)を論じることが大事であって「小沢の衛星政党」などという「ありもしない妄想」を論じることはかえって有害です。
 では1)~3)をどうすべきか。これは無能な俺には妙案はありません。
 そもそも3)の自社さ連立政権での社民党の公約違反(例:野党時代は反対していた長良川河口堰について社民党出身の野坂建設相が賛成)に失望した左派支持層が「共産支持」に流れていきという「社民→共産」という「元社民党支持の左派有権者」に価値観が近いのが俺ですのでね(恐らく五十嵐氏もそうした価値観であり社民党の衰退理由を指摘してもそれを克服する案を提案する気まではないでしょう)。
 で「もう社民党は党勢が盛り返せそうにないし、ある程度党勢がある政党で評価できるのは共産だな。共産より党勢(支持率や国会議員数)があるとは言え、極右の維新(俺的には自民の方がまし)は論外だし、維新にすり寄る立民も論外」つうのが俺なので「社民党の党勢回復」について論じる気にもなりません。とりあえず「俺の考える衰退理由」は指摘したので「後はkojitakenなど社民党支持者が考えてください」ですね(社民党支持者がそもそも俺のような認識をしてるかどうかは不明ですが)。
 繰り返しますが「小沢の衛星政党」なんてのは「社民党の衰退理由」と言う意味ではどうでもいい話です。そもそもそんな事実はないでしょうし。
 問題は「立民党に奪われた支持基盤(連合)と議員(立民に移籍した辻元氏など)の穴埋めをどうするか?」「共産やれいわに奪われた左派支持層をどうするか?」と言う話です。但し、繰り返しますが無能な俺には妙案はありませんし、共産支持者として「共産の躍進」ならともかくもはや「社民の躍進」については「ほぼほぼ諦めています」。諦めているからこその共産支持ですね。
【参考:成田三原則】

石橋政嗣氏と溶解した社会党 - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」羽原清雅*13元朝日新聞政治部長
 先日、博多に住む元社会党書記長、委員長を務めた石橋政嗣*14を訪ねた。89歳*15。大いに元気なのだが、政治についてはあまり語らず、報道関係者にも会うこともない。国会40年の政治活動は必ずしも思いを果たすことはできなかったが、昨今の社民党や政治状況には『失望』というよりは『あきれてものがいえない』といった印象である。
 筆者は自民党担当のほうが長かったが、野党、特に社会党を担当したのは佐々木更三*16勝間田清一*17成田知巳飛鳥田一雄*18石橋政嗣土井たか子*19・田辺誠*20各委員長までで、必ずといっていいほど抗争なり、選挙での敗退、委員長交代などの波乱があった。党大会が年5回、ということもあった。それぞれの委員長体制には個性や面白さもあったが、やはり成田・石橋時代が強烈だった。
 石橋氏については、二つの点を紹介したい。
 ひとつは組織政党化の試みと社会主義協会との関係、もうひとつは記録的な外遊と野党外交の存在、である。知る人は知るが、メディアからも十分には伝えられていなかった、といえる。
◆1) 組織政党化の試みと社会主義協会との関係
 成田委員長が1964年*21に打ち出した「成田3原則」は、社会党の基本的なもろさを言い得たものとして注目されていた。つまり、社会党の組織的欠陥は「日常活動の不足」「議員党的体質」「労組依存」にある、という反省の弁である。
 日常的な政党活動は(ボーガス注:党のきちんとした地方組織がある)共産党公明党のようにはいかず、選挙前になると候補者や資金繰り、動員力などで労組の力を借り、代わりに労組の言いなりになりがちになる。また、議員らは選挙区での活動よりも派閥活動を重視、党人事や路線をめぐる党内抗争に走りがちになる。こうした体質を変えなければ党の再生はない、というのだ。
 そこで、成田・石橋執行部は「機関中心主義」を標榜して、まず「社会新報」の購読者を広げて財政基盤を作り、その資金をもとに専従の地方オルグを増やし、党自体の主体的な日常活動を強め、労組依存から脱して党と労組の関係を整理しようとした。労組の力に依存しなければ、候補者や議員は出身労組の言いなりになったり、労組幹部を卒業して国会に出ることを望んだり、といった風潮を排除できるし、労組とその企業の利害で動くような対応を断つことができるし、さらに一般からの有能な人材を国会に送れれば派閥がらみの言動を封じ込める、といった狙いがあった。
 山本政弘*22機関紙局長のもとで、「社会新報」の部数が増え始め、地方の若い専従活動家も徐々に伸びて、地方での党の体質に変化の兆しが見え始めた。
 ところが、行動的な党員の多くが、向坂逸郎*23らの影響の強い、理論に基づきがちな社会主義協会のメンバーだった。
 従来のやり方に慣れた国会議員や地方議員らのあいだに戸惑いや反発が広がっていった。
 たしかに、労組の言いなりになる、議員の座にあぐらをかく、党としての日常活動に加わらない、権威を振りかざす、国会や県議会をタテに横柄な言動に走る、といった日頃の先輩党員への批判や反発の材料が転がっていたことも事実だった。
 急増していく若い党員の情熱は燃えて、行動力も強まった。ところが、「自分たちが党を変える」、「既成の議員たちの手法を変えるのだ」という意気込みが、地方組織を「数」で抑え、古い党員や議員らの思いや経験を聞かない方向に進みがちになった。いわば、血気に燃えた急激な行動が全国に広がりそうになったことで、これに反発と危機感を覚えて、右派も左派も糾合する「反協会」の一大勢力を生み出し、協会系との摩擦が党中央で大きく表面化した。
 協会内には、党の体質改善をあまり性急にやらず、地方の古参党員や議員らとの摩擦を抑えようという現実路線と、折角の改革機運にブレーキをかけるな、という原則推進路線の対立が生まれていたが、必ずしも穏健な方向には踏み切れなかった。
 党中央の成田、石橋執行部は、双方の板ばさみとなり、本来の党体質の改革の動きが協会系の台頭にすり替えられていったことを惜しみながらも、強硬な「反協会」勢力を抑えられなかった。
 結局、若い党員たちの行動力や意欲は次第に衰え、「反協会」系の議員らも新たな改革の方向を打ち出すことはできず、双方にダメージを残して社会党の衰退を受け入れざるを得なくなった。
 おそらく当初の「3原則」を緒につけながら、予想外の展開となっていった状況に、当時の石橋氏らの思いは複雑だっただろう。
 「成田」後に就任した飛鳥田委員長は、一般的な人気はありはしたものの、打ち出した百万党建設の構想はいささか甘く具体化には至らず、キャッチフレーズのみで「風」待ちにとどまった。このあとの石橋体制も、「ニュー社会党」をめざすが、組織党への道に戻ることはできないままに交代。石橋氏を継いだ市民党的な立場の土井委員長もまた、マドンナ旋風などの一般人気に依存、政党としての足場作りにはほとんど関心を示すことはなかった。組織政党建設の試行はこのあたりで終わり、社会党溶解につながっていく。
 石橋氏とすれば、その後の村山富市首相の率いる社会党社民党が与党化し、自衛隊合憲・安保堅持を言い出したことも、今日の保守化とオール与党化の引き金になったという思いが消えないだろう。
 そこに、引退した石橋氏の政治離れというか、社会党への愛想尽かしの根っこがあると言って差しつかえあるまい。

「成田三原則」の現在 - 社民党 京都府連合 野崎靖仁 副主席語録 2010-08-08
 社会党時代から党の問題点として指摘されるのが「成田三原則」ですが、「労働者運動資料室」のサイト成田知巳「党革新の前進のために」の全文が掲載されているので、ご覧ください。
 社会党の弱点として
(1)日常活動の不足
(2)議員党的体質
(3)労組依存
の3つを挙げていますが、有効な処方箋のないまま社民党に名前が変わっても続いています。
 京都府連合の組織課題を述べるなら、「日常活動の不足」以前の問題として、定期的な会議を開いていない総支部が大半です。
京都府連合では、府議会議員の選挙区ごとに「総支部」を置いています)
 そもそも支部を作るのに必要な党員数すらない総支部があるくらいです。
 「議員党的体質」以前に、議員がいない(もちろん議員がゼロではありませんが、社会党所属だった議員の多くが離れていきました)
 地域で党員を集めて活動するには議員/議員候補が必要。
 議員/議員候補を擁立するには地域での党員数が必要。
 「ニワトリが先かタマゴが先か」
 こんなディレンマを抱えているのです。
 「労組依存」以前の問題として、応援していただける組合も少なくなりました。
 社会党時代からの組織基盤のある県連はともかく、京都府連合は党組織自体が「空洞化」しています。
 よく考えれば「成田三原則」ですらありません。

*1:といえるかどうかは非常に疑問でしょう。2015年当時の彼はミニ政党「生活の党」の代表に過ぎないからです。

*2:鳩山、菅内閣外相、民主党幹事長(菅代表時代)、野田内閣副総理・行革相、民主党代表代行(海江田代表時代)、民主党代表などを経て現在立憲民主党幹事長

*3:菅、野田内閣行政刷新担当相、民主党代表代行(岡田代表時代)、民進党代表など歴任

*4:鳩山内閣国交相菅内閣外相、民主党政調会長(野田代表時代)、民進党代表などを経て現在、国民民主党代表代行

*5:鳩山内閣行政刷新担当相、菅内閣官房長官、野田内閣経産相民主党幹事長(海江田、岡田代表時代)、民進党代表代行(前原代表時代)、立憲民主党代表など歴任

*6:何でそこまで社民党の「政党要件維持」が大事なのか意味不明です。

*7:1912~1979年。社会党政審会長、書記長、委員長を歴任

*8:成田書記長(後に委員長)は1964年1月1日付『社会新報』において社会党の弱点として「(国会質問ではない、生活保護で取り戻す平穏 地方議員伴走「貧困は自己責任じゃない」 | 毎日新聞(なお、この記事に出てくる小椋・足立区議は立民党所属)のような)日常活動の不足、議員党的体質、労組依存」の3つを指摘。「成田三原則」と名づけられたが、それらの具体的な処方箋を示すことは出来なかった。その後も社会党が選挙で敗北するたびに成田三原則が問題にされた。(成田知巳 - Wikipedia参照)。

*9:この点は立民党や国民民主党にも該当する弊害でしょう。

*10:五十嵐氏は「成田三原則」が社民党内においてあまり論じられてない現状を「過去の歴史にそんなに無関心でいいのか」等と嘆いています。とはいえ、俺が思うに、土井たか子は成田三原則、特に労組依存についてはかなり自覚していたと思いますが。

*11:共産党やれいわ新選組」はNHK日曜討論」の「与野党討論」に呼ばれますが、国会議員数が少なすぎるという理由(その理由の是非はひとまず置く)から今や社民党は「日曜討論」にはもはや呼ばれません(同様の理由から参政党、NHK党も呼ばれない)。NHK日曜討論」出演基準については例えば総務委員会で「NHK日曜討論の出演基準の不公平」を取り上げました - 前衆議院議員 高井たかし 公式サイト(2021.2.20)参照

*12:共産党の友好団体の一つで、志位委員長、小池書記局長も代表世話人の一人

*13:1938年生まれ。朝日新聞政治部長、西部本社編集局長、西部本社代表など歴任。著書『「門司港」発展と栄光の軌跡』(2011年、書肆侃侃房)、『日本の戦争を報道はどう伝えたか』(2021年、書肆侃侃房)、『沖縄「格差・差別」を追う』(2022年、書肆侃侃房)

*14:1924~2019年。社会党書記長、委員長など歴任

*15:石橋氏は1924年生まれなので2013年の記事でしょう。

*16:1900~1985年。社会党選対委員長、副委員長、委員長など歴任

*17:1908~1989年。社会党国対委員長、政審会長、委員長など歴任

*18:1915~1990年。横浜市長社会党委員長など歴任

*19:1928~2014年。社会党委員長、社民党党首など歴任

*20:1922~2015年。社会党国対委員長、書記長、委員長を歴任

*21:なお、1964年当時は書記長

*22:1918~2015年。社会党機関誌局長、副委員長など歴任

*23:1897~1985年。九州大学教授。社会主義協会代表。著書『資本論入門』(1967年、岩波新書)など