「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2023年4/15日分:荒木和博の巻)

◆荒木ツイート

荒木和博がリツイート
◆レブラくん(RBRA)予備役ブルーリボンの会
 朝日放送の情報番組『正義のミカタ』(首都圏は放送なし)。地上波ではダントツに面白い番組だと思う

 それだけが理由では勿論ないにせよ、こうした「右翼番組」が大阪での維新支持に影響していることは確かでしょう。
 この点は「過大評価はできない」ものの「東京マスコミ」は、まだ「いくらかまし」かもしれない。

 令和5年4月15日土曜日「荒木和博のショートメッセージ」第1096号。昨日韓国大田顕忠院*1で「いきなりライブ」をやりましたが、その流れでお話ししました。日本も自分たちだけ平和だと思うべきではないでしょう。
朝鮮戦争は「休戦」であって「終戦」ではありません

 7分35秒の動画です。確かに朝鮮戦争は「終戦協定」等を結んだわけではなく建前では「休戦」で、38度線も「国境」ではなく「停戦ライン」にすぎません。建前では「南北朝鮮」間には国交がなく、お互いに「国扱いしてない」わけですが、それは建前でしか無い。
 建前論にすぎないからこそ「2000年の南北首脳会談(金大中大統領と金正日国防委員長(朝鮮労働党書記))」が成立するわけです。建前論にすぎないからこそ「南北朝鮮は国連加盟」している。「韓国の友好国」米国も「北朝鮮の友好国」ソ連(当時、現ロシア)、中国も加盟について拒否権を発動しなかった。
 建前論で言うなら「国共内戦」とて今だ「終戦協定」等を結んで「正式に終戦したわけではなく」建前では休戦状態にすぎません。「台湾政府の大陸反攻」も「もはや可能性ゼロ」とはいえ正式に廃棄されていたかどうか?
 また「日ソ関係」「日中関係」も「国交正常化するまで(日ソは1956年、日中は1972年)」は法的には「日ソ、日中間の戦争が終結していない状態」でした。だからといって「今の中台関係」「国交回復前の日ソ、日中関係」を「実質的な意味で戦争状態」とは見なせないように、今の南北関係もとてもそうは見なせないでしょう。そもそも戦争とはそう簡単にできることではない。
 なお、終戦にならないのは「終戦を契機に南北国交を樹立するのか」等、「どう終戦させるべきか」関係各国(米中露、南北朝鮮)の共通合意が取れないからであって「今のウクライナ戦争(現実に戦争状態)」とは勿論意味が違います。
 そしてもはや

もはや韓国(人)にとっては、北朝鮮は「脅威」「打倒の対象」よりもメロドラマのネタ程度のものなのだろう(たぶん日本も同じ 関川某も自分の書いたことを撤回しろとおもう) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2020.5.18
つまりは、韓国大統領にとっても大した脅威ではないということだ - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2020.6.15

でしょう。
 いずれにせよ、そんなことが荒木の建前である「日本人拉致被害者の救出」と何の関係があるのかと心底呆れます。

【参考:大陸反攻】

蔣介石の「大陸反攻」作戦ノート発見 仏、旧日本軍将校が作成 - 産経ニュース2022.8.15
 第二次大戦後、台湾に渡り、蔣介石の軍事顧問団になった旧日本軍将校が、中国大陸への反攻作戦を描いた冊子が見つかった。 
 冊子は「第二次図上戦術」と題され、旧陸軍中佐の糸賀公一氏(2011年没)が1965年に作成した。

国光計画 - Wikipedia
 1959年に中国が大躍進政策の失敗によって経済的に疲弊し、その責任を取って毛沢東国家主席から退任(劉少奇国家主席に就任、但し毛は党主席は退任せず、後に1966年に開始された文革で劉を打倒)し、また中ソ対立が深刻化すると台湾の国民党政権は大陸反攻の機会を得たと判断した。
 1960年12月29日、大躍進政策の失敗に乗じて大陸解放を行うことが決定され、1961年4月1日、反攻計画「国光計画」が始動した。
 1962年の元旦に蔣介石は演説で「国軍は反攻作戦を準備済みであり、いつでも行動を開始できる」と述べた。反攻の開始は1962年10月が予定されていた。
 計画の問題点として必要な揚陸艦と輸送機が不足していたことであり、米国の支援が必要不可欠であった。
 ケネディ政権は中国が経済的に疲弊しつつも内部から大規模な反乱が起きることはなく反攻は無謀だと認識していた。
 また、反攻がソ連の軍事介入を招き、第三次世界大戦を引き起こす恐れがあると認識していたため、反攻支持を要求する台湾政府への回答は引き延ばした。ケネディ政権が明確な拒否回答を避けたのは、明確に拒否の意向を示すとCIAや米軍の反発が予想されたこと、また国民党政権が大陸反攻において米国の支援が期待できないと判断すると勝手に単独の(そして自滅的な)大陸反攻を実行する危険性があったためである。
 大規模な大陸反攻作戦を延期せざるを得なくなった国民党政権は、当面は小型のモーターボートによる大陸東南部沿岸への襲撃(海威計画)にとどめざるを得なかった。
 1963年1月に蔣介石は再び米国に対して大陸反攻を打診した。この時までにケネディ政権は政府内の大陸反攻に賛成的な意見を封じ込めていたため、国民党政権に対して「これからも台湾国民党政権を支援し続けるがそちらが当てにしている大規模な反乱が中国国内で起きるとは考えにくく、見込みのない大陸反攻には同意できない」と明確に拒否回答した。
 1963年9月に蔣経国が渡米しケネディ大統領ら米政府首脳と面会し、大陸反攻支持を再三訴えた。この時には「中国国内の大規模な反乱の可能性」ではなく、中ソ対立を持ち出し大陸反攻の好機だと主張したがケネディ政権は今の状況で大陸反攻を行えば中ソ対立が解消されるだろうとみていたので逆効果であった。
 1964年10月に中国は核実験*2に成功した。この時点で大陸反攻は不可能なものになりつつあったが、蒋介石人民解放軍核兵器を実戦配備するまでまだいくらかの猶予があると観ており、ますます数年以内に大陸反攻作戦を実施する考えに傾倒した。1965年6月には将校用にポケットサイズの「反攻作戦マニュアル」が配布された。
 その後も国民党政権は米国の同盟国としてベトナム戦争に介入するという名目で北ベトナム支援の拠点となっていた広東や広西への上陸作戦による大陸反攻を立案し、1966年9月から1967年3月にかけて米国のジョンソン政権に対して大陸反攻の実施と米軍による支援を打診したが、ベトナム戦争が「米ソ衝突による第三次世界大戦」に拡大する危険性があり、にべもなく断られた。国民党政権が米国に大陸反攻を提案したのはこれが最後となった。

 なかなか興味深いと思うので紹介しておきます。「大陸反攻の可能性がない」と認めざるを得ない「いよいよどうにもならなくなるまで(1967年頃?)」蒋介石は反攻に固執していたわけです。
 勿論「中国の国連加盟(1971年)」「ニクソン訪中(1972年)」で「大陸反攻」の可能性は完全にゼロになります。
 なお、「大陸反攻」でググったら五十嵐隆幸『大陸反攻と台湾:中華民国による統一の構想と挫折』(2021年、名古屋大学出版会)がヒットしました。
 とはいえ、さすがにこうした研究書を読むほどの意欲はないですが。

*1:1979年にソウル顕忠院(1955年設立)に次ぐ「戦死した軍人、軍属を埋葬する第二の国立墓地」として作られた。

*2:蒋介石の反攻意欲は当然、中国側も把握していたでしょうし、核開発はそれへの対抗措置といった面もあったでしょう。