今日の中国ニュース(2021年12月4日分)

中国、外交ボイコット論に予防線「招待していない」 - 産経ニュース
 「?」と思ったんですがどうも

【中国】
 オミクロン株の流行でもしかしたら『2020東京五輪』のように1年延期になるかもしれない。開催するとしても『2020東京五輪(2021年開催)』のように選手以外は入れないかもしれない(もちろん選手以外も呼んで、フルスペックで来年2月に開催したいが)。
 それなのに『招待されても外交ボイコットの考え』て、まだ、招待できるかわからないから、正式には招待してないのに何様だ!。ふざけんな!。そんなこと言う国家首脳は最初から呼ばないことにするわ!

ということのようです。しかし、それは「怒りの爆発」ではあっても、果たして「予防線」なのか?


北京五輪外交ボイコット 政府迫られる「独自判断」 - 産経ニュース
 オミクロン株の出現によって「ボイコット」以前に「そもそも来年2月に開催できるのか。『2020東京五輪』のように1年延期にならないか」「開催するとしても『2020東京五輪(2021年開催)』のように選手以外は入れないんじゃないか?」つう話ですよね。岸田政権が「外交ボイコット論」に対して明確な態度をとらない理由の一つはそれでしょう。


【正論】袋小路に追い込む「再毛沢東化」 東洋学園大学教授・櫻田淳 - 産経ニュース
 習近平氏の政治をどう評価するにせよ「毛沢東化」などというのはまともな評価ではありません。
 勿論、産経も桜田もさすがに本気ではないでしょうが。

猪木正道*1京都大学名誉教授は、1967年2月時点で、次のように書いている。
「非毛沢東化によって、和解が促進されうることを、日本としては片時も忘れてはなるまい」

 「はあ?」ですね。桜田の引用した部分だけでは「猪木の文章の正確な評価は困難」ですが「毛沢東生前に日中国交正常化が実現していること」を考えても「毛沢東路線」と「日中関係」は直結している話ではありません。

 日本政府の対中政策対応を仕切るのは、岸田文雄首相にせよ林芳正外相にせよ、そして中谷元・国際人権問題担当首相補佐官にせよ、政治上の系譜としては「吉田茂の直系の孫弟子」に当たる政治家である。

 「初代会長」池田勇人が「吉田内閣蔵相、通産相」として重用されたとはいえ、「宏池会(現在は岸田派で、林、中谷が所属)」て果たして「吉田茂の直系」なんでしょうか。
 それはともかく、「吉田=反中国」「宏池会=吉田の直系」と見なした上で、反中国外交を岸田政権にそそのかす桜田ですが、

【歴代宏池会ボス】
池田勇人*2
 首相として「大平外相」とともに周鴻慶事件解決に関与(ただしその解決内容は中国に歓迎されたが台湾を激怒させる内容であった:詳しくは例えば、LT貿易 - Wikipedia吉田書簡 - Wikipedia参照)
大平正芳*3
 池田内閣外相として周鴻慶事件解決に関与。田中内閣外相として日中国交正常化を実現
宮沢喜一*4
 首相時代に明仁天皇訪中を実現
河野洋平*5
 現在、「いわゆる日中友好団体」の一つである日本国際貿易促進協会の会長

という「日中友好という面での宏池会関係者の言動」を桜田が無視するのには吹き出しました。
 また、

吉田書簡 - Wikipedia参照
 中ソ対立を予見していた吉田は首相引退後に「中共政権はソ連と密接に握手しているが如く見えるけれど、中国民族は本質的にはソ連人と相容れざるものがある。文明を異にし、国民性を異にし、政情をも亦異にしている中ソ両国は、遂に相容れざるに至るべしと私は考えており、従って中共政権との間柄を決定的に悪化させることを欲しなかった」と述べている。
 実際、首相在任中も、中国紅十字会会長である李徳全*6(馮玉祥*7の妻)の来日及び日本の政財界との接触を黙認するなど、吉田はアメリカの批判をかわしながら中国に対して柔軟に対応していた。

という記述からは吉田が「桜田ら反中国右翼が言うほどの反中国ではないこと(つまりは中国ビジネスの重視)」も伺えます。

参考

中国紅十字会会長李徳全氏らが来日 | NHK放送史(動画・記事)
 1954年10月30日、日本人の帰国問題で世話になったお礼に日本赤十字社が招いた中国紅十字会会長・李徳全氏らの一行は羽田に到着した。李徳全氏は「今度の訪問は、中日両国人民の友情を深め、お互いの理解を一層増すことに役立つでしょう」と挨拶。代表団の一行は、数千人の中国人が出迎える中を帝国ホテルに入った。31日、一行は東京芝の日赤本社を訪問し、島津社長と正式に挨拶を交わし、留守家族待望の戦犯名簿を手渡した。

B、C級戦犯を帰国させてくれた女性重篤郎(毎日新聞社論説室専門編集委員
 1954年10月、ある一人の女性が中国紅十字総会の代表団を率いて、中華人民共和国建国後初めて日本を訪問した。訪日の目的は、日中戦争後なお中国に囚われていたB、C級戦犯1000人を日本に速やかに帰国させることだった。
 その女性が、宋慶齢*8らと並び新中国で当時最も著名な女性、李徳全だった。代表団は、まだ国交のない日本に14日間滞在、後のLT貿易(廖承志*9高碕達之助*10の頭文字を取り、1962年に始まった日中間の半官半民貿易事業)につながる人脈を作ったほか、日中民間交流の走りにもなった。

LT貿易 - Wikipedia吉田書簡 - Wikipedia参照
 周鴻慶事件とは、1963年9月に中華人民共和国(中国)油圧機器訪日代表団の通訳として来日した周鴻慶が、全日程を終える直前の10月7日早朝、ソ連大使館に亡命を求めたことから始まった事件である。ソ連大使館が受け入れを拒否したため、周はその後、亡命希望先を中華民国(台湾)に変更。亡命先に指名された台湾は、日本側に周の引き渡しを強く求めたが、「中国ビジネスを重視し」中国との関係悪化を恐れた日本外務省はパスポート期限切れを理由に10月8日周を拘留、その後10月24日には「本人の意志」が中国への帰国に変わったとして、翌1964年1月10日中国大連に送還した。
 この一連の日本側の対応に台湾側は激怒し、駐華大使を召還すると共に日本政府へ厳重な警告と抗議を行い、日華関係(日台関係)は断絶の危機に瀕した。この台湾側の反発を解くため、池田首相、大平外相は、吉田元首相に(日中関係に配慮して政府特使ではなく建前上は)私人の立場で台湾訪問することを要請。吉田は池田首相の親書を持参して台北へ赴き、要人と会談した。しかし帰国後の1964年(昭和39年)5月、張群国民党秘書長へ宛てた吉田の書簡の中に対中プラント輸出に日本輸出入銀行(輸銀、現在の国際協力銀行の前身)の融資は使用しないと表明してあったため、輸銀融資を受けたこともあり、既に中国との契約が成立していた倉敷レーヨン(現在のクラレ)に比べ、輸銀融資が受けられなくなったニチボー(現在のユニチカ)の契約調印は大幅に遅れることになった(いわゆる「吉田書簡問題」)。
 吉田書簡は日本の外交に大きな影響を及ぼしたものの、政府が関与しない私信として扱われて非公開とされた。野党は強くその開示を求めたが、政府は公開を拒否した。
 1972年9月の日中国交正常化とともに吉田書簡の効力は消滅したとされる。

*1:1914~2012年。著書『評伝吉田茂』(1995年、ちくま学芸文庫)、『日本の運命を変えた七つの決断』(2015年、文春学藝ライブラリー)、『新版増補・共産主義の系譜』(2018年、角川ソフィア文庫)、『独裁の政治思想』(2019年、角川ソフィア文庫)、『ロシア革命史』(2020年、角川ソフィア文庫)、『軍国日本の興亡』(2021年、中公文庫)など

*2:吉田内閣蔵相、通産相、石橋内閣蔵相、岸内閣蔵相、通産相などを経て首相

*3:池田内閣官房長官、外相、佐藤内閣通産相、田中内閣外相、蔵相、三木内閣蔵相、自民党幹事長(福田総裁時代)などを経て首相

*4:池田内閣経済企画庁長官、佐藤内閣通産相、三木内閣外相、福田内閣経済企画庁長官、鈴木内閣官房長官、中曽根、竹下内閣蔵相などを経て首相。首相退任後も小渕、森内閣で蔵相

*5:新自由クラブ代表、中曽根内閣科学技術庁長官、宮沢内閣官房長官自民党総裁、村山、小渕、森内閣外相、衆院議長など歴任

*6:1896~1972年。中国衛生大臣(厚生相に当たる)、中国赤十字会会長を歴任(李徳全 - Wikipedia参照)。

*7:1882~1948年。中国の軍人。日本軍に勝利した後には、馮は蔣介石に対して内戦を回避するよう呼びかけ続けたが、これは全く無視されている。その後も内戦反対活動を展開し、1947年11月、馮は訪問先のニューヨークで「中国和平民主聯盟」を組織し、その主席に就任。これらの活動に怒った蔣は12月に帰国を命令したが、馮は拒否した。1948年に中国国民党革命委員会(民革)が結成されると、これに加入。1948年7月末に、帰国を決断し、ソ連船に乗ってアメリカを離れた。ところが9月1日、黒海沿岸のオデッサ付近で船が火災に遭い、馮玉祥も巻き込まれて死亡した。満65歳没(馮玉祥 - Wikipedia参照)

*8:1893~1981年。孫文の妻。中国建国後、全人代全国人民代表大会)常務委員会第一副委員長、国家副主席など歴任(宋慶齢 - Wikipedia参照)

*9:1908~1983年。中日友好協会会長(廖承志 - Wikipedia参照)

*10:1885~1964年。東洋製罐創業者。満州重工業開発総裁、電源開発総裁、鳩山内閣経済企画庁長官、岸内閣通産相など歴任(高碕達之助 - Wikipedia参照)