映画「サンセット大通り」から田中絹代を連想した(2023年6月12日記載)(副題:脱線して「死語」についていろいろ)(追記あり)

 映画「サンセット大通り」は映画『サンセット大通り』についていろいろ(2023年6月11日記載)(注:刑事コロンボ『忘れられたスター』のネタばらしがあります) - bogus-simotukareのブログで取り上げましたが。
 田中が一時期、苦境にあったことは田中絹代 - Wikipediaにも簡単に記載があります。

◆1928年だけでも16本の作品に出演
◆1932年、『金色夜叉*1』で林長二郎(後の長谷川一夫*2)と共演、二人による貫一、お宮で評判を呼び、どこの劇場も満員札止めの大盛況となるほどの人気作となったほか、『伊豆の踊子*3』に踊り子「薫」役で主演
◆1938年に主演したメロドラマ映画『愛染かつら*4』は空前の大ヒットを記録し、その後、続編として『続・愛染かつら』、『愛染かつら・完結篇』(いずれも1939年公開)が製作された

と戦前「スター女優」として「我が世の春」を謳歌した彼女も戦後の一時期は

 1949年10月21日から日米親善使節として渡米。ハワイでは各地で歓迎のレイを首にかけられ、戦時下で差別された日系人からもひときわ大きな熱烈歓迎を受けたという。ハリウッドでは映画スタジオを見学してベティ・デイヴィス*5シルヴィア・シドニーらと会い、ジョーン・クロフォードの撮影を見学したり、当時の先端的なメイク法も教わった。
 翌1950年1月19日に帰国。出発時は小袖姿だったが、帰国時はアフタヌーンドレスと毛皮のハーフコート、緑のサングラスにハワイ土産のレイをまとって登場。報道陣らには「ハロー」と挨拶し、銀座のパレードで投げキッスを連発。この姿に渡米を後援した毎日新聞社を除くメディアから「アメリカかぶれ」「アメション*6女優」と叩かれた。
 一方、田中のファンたちも「アメリカに毒された」と猛反発、「銃後を守る気丈な日本女性」のイメージを確立していた国民的女優の突然の変身に、敗戦に打ちひしがれていた国民は戸惑い、同時に憤りをかきたてた。
 1950年に小津安二郎*7監督『宗方姉妹*8』、木下惠介*9監督『婚約指環』に出演。しかし両作とも不評で、特に後者は「三船敏郎の恋人役」を演じたが、それが一部で「老醜」とまで酷評された(三船は1920年生まれ、田中は1909年生まれ)。
 1951年には、映画雑誌『近代映画』のスター人気投票の女優部門で10位以内にも入らずトップスターの地位を失った。当時田中は、知人に「ファンレターが1通も来なくなった」と漏らしていたという。

と言う悲惨なことになります。残念ながら彼女は「未だにスター女優」吉永小百合のような人生にはなりませんでした。
 1953年に監督としての第一作『恋文』を撮影したのも当然こうした「人気スター女優からの転落」と言った要素はあったでしょう。但し、監督業が成功しなかったことは既に別記事で書きました。
 結局、彼女は「人気スター女優」から「演技派の脇役」に変化していきます。変化せざるを得なかったと言うべきでしょう。
 それが

【映画】
赤ひげ - Wikipedia(1965年)
 青年医師「保本登」(加山雄三)の母
【テレビドラマ】
樅ノ木は残った (NHK大河ドラマ) - Wikipedia(1970年)
 主人公・原田甲斐*10平幹二朗)の母・津多
 なお、このドラマで「昔の田中(つまりアイドル的存在)」にあたる役を演じたのが、「若き日の原田の恋人・たよ(但し病気で早世)を演じた栗原小巻(1945年生まれ)」や「原田を慕う少女・宇乃を演じた吉永小百合(1945年生まれ)」です。
日本テレビ前略おふくろ様 - Wikipedia(第1シリーズ:1975~1976年、第2シリーズ:1976~1977年)
 主人公・片島三郎(萩原健一)の母親・片島益代。田中の死去は1977年なので最晩年の作品。

等だったわけです。上記映画やドラマは「昭和を代表する名作(『赤ひげ』は黒沢明監督の代表作の一つ、『前略おふくろ様』は脚本家・倉本聰の代表作の一つ、『樅の木は残った』も大河ドラマとして、それなりの視聴率を取り、比較的評価は高い)」と評価されているかと思いますので彼女の出演は「晩年の栄光」といえるでしょう。

【参考:アメション
 以下、話が完全に脱線していますがご容赦ください。
 なお、アメションからは「安倍晋三南カリフォルニア大学・短期留学(大学は卒業せず。やはり箔付けだけが目的?)」を連想しました。多分安倍シンパでもあの話はもはや「黒歴史」でしょうが。

中日春秋:中日新聞Web2023.3.22
 俳優の田中絹代さんが米国視察の旅を終え、帰国したのは戦後間もない一九五〇(昭和二十五)年一月のこと。到着した飛行機のタラップの上から出迎えの人々に投げキッスをしてみせたが、これがいけなかった。米国人のようなふるまいだと世の反感を買い、こう批判された。
アメション
▼若い人はご存じないか*11。米国を短期間、訪れただけで分かったような気になった人をちゃかす言葉で、大正時代からあったそうだ。品のない説明をお許しいただきたいが、ションは小用を足すほど短い滞在という意味だろう
▼今回の電撃訪問が体裁とパフォーマンスの「ウク(ライナ)ション」などとからかわれぬようにしたい。岸田首相である。
 ウクライナに対しては人道支援に加え、将来的な復興も見据えて積極的に動く。それができれば、今回の訪問も「なんとかション」とは呼ばれまい。

5381「アメション」 | (ytvアナウンサー)『道浦TIME』
 「アメション」という言葉。
 私の理解では、
「ちょっとの間だけアメリカに行ってきて(洋行して)、対して何も学んで来なかったくせに、アメリカに行ったという事実をひけらかすやつを、見下して言った言葉」
だと思っていたのですが、辞書を引くと、『三省堂国語辞典・第7版』には載っていませんでした。もう死語かなあ。でも、(ボーガス注:三省堂の)『新明解国語辞典』には載っていました。
 「アメしょん」=「(「アメ」はアメリカ、「しょん」は「小便」の俗語形「しょんべん」の略)わざわざ遠くまで出かけておきながら小便をしただけで帰ってくる、の意味を揶揄した表現」
 また、(ボーガス注:小学館の)『精選版日本国語大辞典』には、
「アメしょん」=(「アメリカ」の略に「しょんべん(小便)」の略が付いた語)アメリカ合衆国へ短期間渡って、何も得るところなく帰国すること。また、その人。大正の頃よりいわれた」
 大正時代かあ、じゃあもう100年ぐらい経つから、「死語」になっても仕方がないかなあ。
 しかし、さすがに(ボーガス注:東京堂出版の)『日本俗語大辞典』(米川明彦編)は詳しく載っていました。全部載せると分量が多いので抜粋すると、
アメリカへほんのわずかの期間行って帰国する事。またその人を冷かして言う品のない言葉。大正時代から使われ、戦後、海外渡航が規制されていた時代に、アメリカに行って帰った人を指して流行語として使われた。女優の田中絹代がその例」
 おお、大正時代だけでなく、戦後も使われた流行語だったのですね!それならまだ完全には「死語」になっていないかもしれませんね。でも、さらに読み進むと、1996年に朝日新聞の「素粒子」欄で「海外渡航者1000万人突破」のニュースに関連して、
赤ゲット、アメション、洋行帰りなんぞという言葉は遠く」
と書いたら、
「『アメション』とはどういう意味か?」
という質問が殺到したそうですから、やはり「死語」なんでしょうかね。
 アジャパー*12

【参考:赤ゲット】

日本の古本屋メールマガジン
◆ニッポン洋行御支度史(1)赤毛布(平成22年1月)
 欧米への旅が「洋行」と呼ばれた時代、気負いと不安、優越感と劣等感を抱えながら旅した人たちの記録は、日本人と海外旅行の変遷についてさまざまなことを教えてくれる。そんな海外旅行記をひもとく時に頻繁に出てくる言葉が「赤毛布」。この言葉をご存知だろうか。
 赤毛布と書いて「あかゲット」と読む。もともとは明治時代、赤い毛布(ブランケット)をマント代わりに体に巻き、地方から東京見物に出てきた人を指す。「田舎者」「おのぼりさん」の意である。夏目漱石泉鏡花徳富蘆花の小説にも出てくる言葉で、明治錦絵にその姿をとどめる。それがさらに転じて海外旅行初心者を指すようになった。米文学者の浜田政二郎*13は戦後、マーク・トウェイン*14のヨーロッパ旅行記を「赤毛布外遊記」(岩波文庫)と訳して出版した。
 高度成長期の海外旅行を題材にした映画にもこの言葉はよく出てくる。1963(昭和三十八)年の東宝「社長外遊記」(松林宗恵*15監督)もその一つ。そこには海外に出掛ける同行の部下を「赤ゲット」と呼び、からかう社長が登場する。主演は先ごろ亡くなった森繁久彌。映画黄金期の人気喜劇シリーズの一作だ。
 戦後の外貨持ち出し制限が緩和され、一般の人でも海外へ観光旅行に出かけることができるようになったのは、この映画が封切られた翌年の1964(昭和三十九)年4月。社長シリーズはパンアメリカン航空の協力の下、何本かの海外旅行ものを製作する。森繁*16加東大介*17小林桂樹*18三木のり平*19が繰り広げる赤ゲットぶりに観客は笑い転げ、庶民には縁遠い海外旅行を夢見た。自由化の年の海外渡航者はわずか13万人。現在の百分の一にも満たない。

その65 「赤ゲット」は、こうして残った。 | 三省堂国語辞典のすすめ(飯間 浩明) | 三省堂 ことばのコラム
 『三省堂国語辞典(三国)』は、現代に生きて使われていることばは、なるべく広く載せようとしています。その一方で、使われなくなったことばは、細心の注意を払いつつ削除しています。せっかく載ったことばを削る作業は、なかなかつらいものです。
 今回の第六版では、たとえば、妻に甘い人を指す「サイノロ(妻のろ)」を削除しました。戦前の流行語で、戦後も、森村誠一分水嶺』(1968年)に〈妻(さい)ノロの夫が妻を迎える顔をして立ち上がった。〉と出てくるのですが、時代色の濃い語と判断しました。その代わり、「死語」の項目に、この「サイノロ」を例として残してあります。
 「赤ゲット」ということばも、今回、問題になりました。もともと、明治時代に赤い毛布(ケット)をコート代わりに羽織って都会見物に来た田舎者を指すことばでした。今ではなくなった風俗であり、当然、削除することも視野に入ります。
 もっとも、風俗はなくなっても、ことばは残ることがあります。そこで、現代語の例を探してみます。高峰秀子*20『わたしの渡世日記*21』(1976年)には、次のようにあります。
〈私のようなバカ丸出しの赤ゲットがパリなどという見もしらぬ外国へノコノコ出かけていって、もし、とんでもないヘマでも仕出かしたら〉(朝日新聞社・下巻 p.171)
 今から30年ほど前のエッセーですが、この年代の文章に出てくるなら、「赤ゲット」は現代語の範囲に含めていいでしょう。だいたいの感じですが、1970年代以降の文章に出てくることばは、『三国』に残す条件のひとつを備えているといえます。さらに、新聞の用例などを確かめると、「赤ゲット」はここ数年の例もちらほらあります。
 「赤ゲット」については、さらに、北杜夫*22『月と10セント*23』(1971年)に次のような記述があります。
〈ちなみに、赤毛布は赤ゲットと読む。明治時代、東京見物などにくるオノボリさんが赤毛布をよくしょっていたことから由来した。〔略〕近ごろの若者は英語はできるようになったが、母国語にこう弱くなっては困るな。〉(新潮文庫 p.47)
 北杜夫さんは、若者が「赤ゲット」の意味を知らないことを嘆いています。それならば、ぜひ『三国』にこのことばを残し、今の若い人たちにも覚えてもらおうと考えました。

【参考:アジャパー】

【昭和のことば】喜劇役者・伴淳三郎が舞台で使ったことばが赤塚不二夫の漫画で広まる 「アジャパー」(昭和24年) - zakzak:夕刊フジ公式サイト
 喜劇役者、伴淳三郎*24が軽演劇の舞台で使った感嘆を表すことばである。東北弁の「アジャー」に、失うの意の「パー」を加えたもの。もとのセリフは「アジャジャーにしてパーでございます」。拳を上向きに開きながら「アジャパー」とやった。
 このことば自体はずいぶん古いが、昭和46(1971)年に連載を開始した赤塚不二夫のギャグ漫画『レッツラゴン』の劇中で多用され、下の世代にも広く波及した。

『アジャパー天国』::トラウマの天知茂 blog
 貧乏アパートの住民たちの悲喜こもごもが♪あなたはアジャー!で私はパーよ〜♪(歌:伴淳さんと泉友子さん)とほのぼのムードで描かれているこの作品(ボーガス注:1953年公開)に天っちゃんが出ているとの情報をききつけ、早速DVDを鑑賞。
 キャバレーで働きながら代筆に勤しむズンさん(伴淳三郎)のシラノ的恋愛、旦那(田中春男)を待ち続ける子持ち婦人(清川虹子)に惚れているズンさんの兄貴・金さん(柳家金語楼)の恋の顛末、近所の富豪(婿養子で奥さんの尻に敷かれっぱなしの花菱アチャコ)のお嬢様(星美智子)と貧乏学生(高島忠夫)の駆け落ち、キャバレー社長の横槍による誘拐事件、などが繰り広げられるわけだが、さて肝心の天っちゃんはというと、キャバレーの場面でこれか?と思われるボーイを発見。
 あとはラスト近くで社長さんに「おいボーイ、ビール持ってこい」と呼ばれた時が画面最大(当然、セリフは一切なし)。(ボーガス注:セリフのある役をもらい)ポスターにもでかでかと載っている(ボーガス注:1951年の新東宝スターレット1期生)同期の高島さんを見てさぞ複雑な心境だったろうなあと推察するが、そんな朴訥な学生役なんて似合わないんだから仕方がない。頑張れ天っちゃん、ギャングへの道*25はもうすぐだ!←あと1年半
※こちらもクレジットには無かったが、(ボーガス注:天知と同じ1951年の新東宝スターレット1期生である)奥様・森悠子さんも出演されていた(こちら。中央のバタやん=田端義夫の左にいる黒いワンピースの女性がそうかと)

【妻ノロ

「ぴえん」はもう死語? 飯間浩明さんをうならせたZ世代の答え
◆飯間さん
 「流行期が終わったら死語」と簡単に言う人もいるんですが、ある言葉が「完全に使われなくなった」「死語になった」と判断することは難しいです。
 例えば、上田さん、「ナウいヤング」って言ったらわかりますか?
◆上田さん慶応義塾大学環境情報学部4年生。1999年生まれ)
 うっすらわかります。
◆飯間さん
 うっすらわかりますよね。
 私が「おじさんはナウいヤングだからね」って言ったら、まあ引かれるかもしれませんが、言っている意味はわかると思うんです。正確な意味はともかく、なんとなく「今風だって言ってるのかな」と受け止めてもらえる。
 だとすると、これは死語ではないんです。
 「ナウい」は1979年の流行語ですが、今は古風な言葉というか、ギャグとして使われる言葉ですね。「ギャグ要員」として生き残っています。「ナウいヤング」も死語ではない。
 一方で、本当にわからない言葉があるんです。「あいつはなかなかのサイノロだね」とか。「妻(さい)にのろい人」、つまり「妻(つま)に甘い人」ということです。
 戦前、当時の若い人たちが、仲間内で冗談で使うような言葉でした。これが1960年代ぐらいまでは通じたんです。でも、現在はさすがに誰もわからないし、使わない。
 「サイノロ」は、三省堂国語辞典では、遅まきながら2008年の第6版で削りました。
 こんなふうに、みんなに「え、なにそれ」って言われるようになると、それは死語です。

Column8 そもそも「死語」と「廃語」とは何ぞや。 - NIHONGO -Ⅱ-(彩霞) - カクヨム
【死語】『三省堂国語辞典 第八版』
①昔[=だいたい明治時代以降]の流行語など、現在は使われなくなった単語。廃語。例、サイノロ[=妻にあまい男]
②現在の日常生活では使われなくなった言語。例、古代ギリシャ語・ラテン語
 今回は『三省堂国語辞典 第八版』を取り上げてみました。いかがでしょう。①を見てみると分かると思いますが、これこそが皆さんが日常でよく使う意味に近い「死語」ではないでしょうか。
 しかし、よく見て下さい。用例に出ている「サイノロ」について、すぐに意味が分かる方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。きっとそれほど多くないはずです。何故なら、この言葉を日常の中で聞くことがほとんどないから。
 つまり、「死語」というのは単に「流行語が廃れた」という意味ではなくて、「その言葉を発したり使っても、日常会話の中で使われなくなったために意味が通じないこと」を意味しているのです。
 『三省堂国語辞典』の辞書編纂者である、飯間浩明氏が大学生と対談したものがネット上に載っているのですが、そこに「『死語』ってどういう状況のことをいうんでしょうか?」という質問が出てきます。飯間氏*26はそれに対し「みんなに『え、なにそれ』って言われるようになると、それは死語です」と仰っていました。つまり、誰かが何となくでも意味が分かるものは「死語」ではないんです。

【追記】
 コメント欄の

>樅ノ木は残った (NHK大河ドラマ) というのは、ぜんぜん知りませんでした

というのは

「赤いシリーズ」の山口百恵出演作品が、7月1日からTBSのCSチャンネルで放送されている(1日2話放送) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2020.7.2
「ウルトラマンレオ」が、来月(8月)CSで再放送される(子役時代の冨永みーなも出演) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2020.7.31
70年代の青春ドラマなどでの脇役が印象的だった森川正太氏が亡くなった - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2020.10.14
「赤いシリーズ」「ウルトラシリーズ」のロケ地の現在(いま)(成城・祖師谷編)(追記あり)(写真の追加あり) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2021.3.17
古谷一行氏の死を知り、『87分署シリーズ・裸の街』と映画『凶弾』の関連を思い出した - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2022.9.13
堀ちえみ主演の大映ドラマ『スタア誕生』が、本日(5月8日)からCSで放送される(追記あり) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2023.5.8

など「過去の有名ドラマについて数々の記事を書いてるのに?(NHK大河ドラマにはあまり興味がない?)」と意外でしたがそれはさておき。
 コメント欄で指摘もありますが「樅ノ木は残った」は主人公「原田甲斐平幹二朗)」以外も以下の通り「重要人物(実在の人物もいれば架空の人物もいますが)」は大物揃いです(青字はコメント欄で指摘がある人物)。「今でもNHKにはそれなりに力がある」でしょうが、やはり「当時のNHKには力があった」ということなのでしょう。

◆原田民部(甲斐の父):宮口精二
◆伊達兵部:佐藤慶*27
 陸奥一関藩主。伊達政宗の十男。伊達綱宗隠居後、まだ若い藩主・伊達綱村の後見役を幕府に命じられる。ドラマにおいては伊達家乗っ取りを画策する悪役。家臣・原田の安芸暗殺*28の引責で一関藩を改易され、土佐藩流罪とされる。
◆新妻隼人:金田竜之介
 伊達兵部の側近。モデルは一関藩家老・新妻胤実
◆酒井雅楽頭:北大路欣也
 幕府大老。伊達兵部を唆し、伊達家改易を企むが原田によって阻止される。自らの陰謀が露見することを恐れ、原田や伊達安芸らを謀殺
◆太田弥兵衛:藤岡重慶*29
 大老酒井の家臣で原田ら謀殺の実行犯の一人。
◆久世大和守:岡田英次
 幕府老中。大老酒井には批判的。瀕死の原田に伊達家存続を確約する。
伊達綱宗尾上菊之助(現・尾上菊五郎
 伊達家藩主。乱行を理由に幕府から隠居を命じられるがドラマにおいては仙台藩改易を企む幕府の言いがかり
伊達安芸森雅之
 伊達家一門で「反兵部派」の重鎮。ドラマの最後では原田と共に酒井大老によって謀殺される
柴田外記:神田隆*30
◆蜂谷六左衛門:小栗一也
 柴田、蜂谷とも、反兵部派の伊達家家臣でドラマの最後では原田、伊達安芸と共に酒井大老によって謀殺される
◆古内志摩:若林豪
 反兵部派の伊達家家臣。ドラマの最後で危うく原田等と共に酒井大老によって謀殺されそうになるが一命を取り留める。
◆茂庭周防:高橋昌也
 反兵部派の伊達家家臣。原田の親友であり、原田の本心(兵部に対する態度は面従腹背であり、実際には兵部打倒の機会をうかがっている)を知らされている数少ない人物。病弱であり、原田より先に病死する
◆伊東七十郎:伊吹吾郎
◆伊東采女近藤正臣
 七十郎、采女とも、反兵部派の伊達家家臣。兵部暗殺を計画するが、家来の裏切りにより発覚し、兵部に捕らえられ斬首される。
◆河野道円:下条正巳*31
 仙台藩御殿医。兵部の意向により、兵部が後見を務める幼君・伊達綱村毒殺を試みるが失敗し、斬首された。
◆塩沢丹三郎:大出俊
 原田の部下(小姓)で、幼君・伊達綱村の毒見役。河野道円の盛った毒により死亡。

*1:金色夜叉 - Wikipediaを見れば分かりますがその後も映画やテレビドラマで数々の人気女優(1933年の山田五十鈴、1954年の山本富士子、1955年の水谷八重子、1962年の朝丘雪路など)がお宮を演じています。

*2:1908~1984年。1927年、林長二郎の芸名で、犬塚稔監督『稚児の剣法』で映画デビュー。人気スターとなる。1937年、松竹を退社し、東宝に移籍。1937年11月12日、『源九郎義経』撮影中、撮影所から宿舎へ移動する最中、「松竹への恩義を忘れた不徳義漢」として暴徒二人に襲われて顔を斬りつけられ、左頬を貫通する深手を負い、撮影続行不能、映画は中止。この事件の黒幕は松竹ではないかと疑われた。1938年、襲撃事件のネガティブイメージを払拭するため、芸名を本名の長谷川一夫に変更。独自に工夫したメイキャップで傷跡を消し、再起不能とまでいわれた逆境を跳ね返して堂々二枚目スターに返り咲いた。1951年、大映で長谷川主演の『銭形平次』が公開、以後『銭形平次捕物控』シリーズとして、1961年まで計17本の作品が作られ、長谷川の代表作の一つとなると共に大映を支える人気シリーズの一つとなった。1964年にはNHK大河ドラマ赤穂浪士』に大石内蔵助役で主演、当たり役のひとつとなった(長谷川一夫 - Wikipedia参照)

*3:伊豆の踊子 - Wikipediaを見れば分かりますがその後も映画やテレビドラマで数々の人気女優(1960年の鰐淵晴子、1963年の吉永小百合、1974年の山口百恵など)が薫を演じています。

*4:愛染かつら - Wikipediaを見れば分かりますがその後も映画やテレビドラマで数々の人気女優(1954年の京マチ子、1962年岡田茉莉子など)が『愛染かつら』で主演しています。

*5:1908~1989年。1935年、『青春の抗議』で、1938年、『黒蘭の女』でアカデミー主演女優賞を受賞

*6:アメリカに小便をしに行った=箔付けにアメリカへ行ってきただけ」の意味

*7:なお、田中絹代監督映画『月は上りぬ』(1955年公開、第2作)は小津脚本

*8:山村聰ブルーリボン賞主演男優賞を受賞

*9:なお、田中絹代監督映画『恋文』(1953年公開、第1作)は木下脚本

*10:従来は歌舞伎「伽羅(めいぼく)先代萩」等で「伊達兵部の家臣」として伊達家乗っ取り計画に加担し、それが挫折するや「忠臣」伊達安芸らを殺害したとされる「逆臣」原田をこのドラマ(山本周五郎の同名小説が原作)では「兵部から伊達家を守った忠臣」と描き、安芸らの殺害も原田の犯行ではなく濡れ衣としている。

*11:アメションもそうですが残念ながら田中絹代(今から46年前の1977年死去)を「ご存じない」でしょう。

*12:驚きや困惑を表す感嘆詞で、喜劇俳優伴淳三郎が映画『吃七捕物帖・一番手柄』(1951年公開)でうけたセリフ「アジャジャーにしてパーでございます」を略したものである。1953年には、伴の主演映画『アジャパー天国』が作られた。パーはクルクルパーに見られる馬鹿の意、アジャジャーは伴の出身地・山形県の方言で「あれまあ」と同義に使われる言葉である。アジャパーは映画の公開から若者を中心に普及。当時の流行語になった(アジャパー(あじゃぱー) - 日本語俗語辞書伴淳三郎 - Wikipedia参照)。

*13:1898~1981年。神戸大学名誉教授、甲南大学名誉教授。

*14:1835~1910年。日本ではフジテレビでアニメ化された『ハックルベリー・フィンの冒険』(1976年放送、ハック役は野沢雅子)、『トム・ソーヤーの冒険』(1980年放送、世界名作劇場の第6作、トム役は野沢雅子、ハック役は青木和代)の作者として知られる。

*15:1920~2009年。代表作として『社長三代記』、『続・社長三代記』(1958年)、『社長太平記』(1959年)、『社長道中記』、『続・社長道中記』(1961年)、『サラリーマン清水港』、『続サラリーマン清水港』(1962年)、『社長外遊記』、『続・社長外遊記』(1963年)、『社長紳士録』、『続・社長紳士録』(1964年)、『社長忍法帖』、『続・社長忍法帖』(1965年)、『社長行状記』、『続・社長行状記』(1966年)、『社長千一夜』、『続・社長千一夜』(1967年)、『社長繁盛記』、『続・社長繁盛記』(1968年)、『社長えんま帖』、『続・社長えんま帖』(1969年)、『社長学ABC』、『続・社長学ABC』(1970年)、『連合艦隊』(1981年)

*16:『社長外遊記』では社長

*17:『社長外遊記』では常務

*18:『社長外遊記』では秘書課長

*19:『社長外遊記』では営業部長

*20:1924~2010年。1954年、『二十四の瞳』等でブルーリボン賞主演女優賞、毎日映画コンクール女優主演賞を受賞

*21:1976年、朝日新聞社→1998年、文春文庫

*22:1927~2011年。『夜と霧の隅で』(1960年)で芥川賞を受賞

*23:1971年、朝日新聞社→1978年、新潮文庫

*24:1908~1981年。喜劇俳優として活躍する一方、1964年に公開された、内田吐夢監督、水上勉原作の『飢餓海峡』の老刑事の演技で毎日映画コンクール男優助演賞を受賞するなど、シリアスな演技でも活躍

*25:天知が初めて主演した「恐怖のカービン銃」(1954年公開)のこと(『恐怖のカービン銃』/『暁の非常線』::トラウマの天知茂 blog参照)

*26:著書『遊ぶ日本語・不思議な日本語』(2003年、岩波アクティブ新書)、『伝わる文章の書き方教室』(2011年、ちくまプリマー新書)、『ことばから誤解が生まれる:「伝わらない日本語」見本帳』(2011年、中公新書ラクレ)、『辞書を編む』(2013年、光文社新書)、『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』(2015年、PHP新書)、『三省堂国語辞典のひみつ』(2017年、新潮文庫)、『知っておくと役立つ街の変な日本語』(2019年、朝日新書)等

*27:佐藤慶 - Wikipediaに『1955年以降、大島渚監督作品(1960年の「青春残酷物語」のヤクザ役、1966年の「白昼の通り魔」の強姦殺人犯役など)をはじめ、存在感ある悪役として本領を発揮』『テレビドラマでは1967年のNET『白い巨塔』で、映画(1966年)やフジテレビドラマ(1978~1979年)で田宮二郎が演じた野心的な雰囲気とは違った、暗くねじれた個性を前面に出した財前五郎役を演じて代表作のひとつとなった』とあるように悪役の多い御仁です。

*28:ドラマにおいては実際は「大老酒井の犯行」だが、原田に濡れ衣が着せられたとされる。

*29:藤岡重慶 - Wikipediaに『強面の悪役俳優として頭角を現した。時代劇や刑事ドラマでヤクザの親分、悪徳警官、凄腕用心棒などさまざまな悪役を務めた』とあるように悪役の多い御仁です。

*30:1918~1986年。政治家の佐藤栄作に顔立ちがよく似ていることから、山本薩夫監督映画『金環蝕』(1975年、酒井首相役)、『不毛地帯』(1976年、佐橋蔵相役)では、佐藤がモデルとなった政府高官を演じている。

*31:1915~2004年。勿論「男はつらいよ」の三代目おいちゃん(車竜造)