珍右翼・高世仁に悪口する(2023年6/14日分)(副題:中村哲氏のアホさに呆れる)

中村哲医師と大和魂 - 高世仁のジャーナルな日々

 家族が居るからには軽々しく「一命を捧げる」などという決心はできない。日本側の問題でこの事業が分解する時は、せめて腕の一本くらいは切り落として彼らに捧げ、詫びを乞おう、と思った。(『ダラエヌールへの道*1』P56)
 失敗して撤退するときは、責任をとって、指を詰めるどころか、腕を切り落として詫びを入れるというのだ。近くでこの発言を聞いた人は、中村さんは本気だったという。

 指だろうが腕だろうがそんな物を切り落とされてもアフガン人には迷惑なだけで「本気であれ、いわゆる言葉の綾であれ」「中村氏ってバカ?」です。こんな与太に本気で高世が感心してるとはとても思えません。
 中村氏をネタに商売するために「中村ファン」に媚びてるだけでしょう。

 極端な戦後教育の転換は、全て古いものを封建的という烙印を押して一掃し、日本人から精神性を奪い取った。
(『辺境で診る・辺境から見る*2』P151)

 「不敬事件」で公職追放*3になった直後の内村(鑑三)は、同時代に「足尾鉱毒事件」の犠牲者救済に一生を費やした田中正造と同様、時の不条理に挑戦して止まなかった。日本人の感性がまだはつらつと生きていた時代である。(『辺境で診る・辺境から見る』P189)

 内村鑑三田中正造も「当時の少数派」で「明治新政府に弾圧を受ける側」だったのに「中村氏ってバカ?」ですね。
 彼らは「信念に従い、当時の多数派や権力に抗する勇敢な少数派」だったから後世に名を残したわけです。
 中村氏の主張は

大島浩(駐ドイツ大使)ら親ドイツ派の存在を無視し、杉原千畝をネタに『当時の日本人はナチドイツ批判派だった』という
◆島田叡*4知事や荒井退造*5警察部長*6をネタに『当時の本土人沖縄県民を差別してなかった』という

位馬鹿げています。
 こんな与太に本気で高世が(以下略)。ジンネットを潰しても「媚びる対象が救う会や家族会から、中村ファンに変わっただけ」で「腐った高世の精神」は変わらないようです。
 そもそも「戦後の日本」「今の日本」だって「政府批判する人間はいくらでもいた(いる)」わけでそうした人間に対して中村氏と高世は失礼です。
 中村氏が「アフガンで医療活動をし一定の成果を上げたこと」は評価しますが「社会認識があまりにおかしい」。
 むしろ今の日本の方が「少なくともある面」では「戦前よりまし」でしょう。戦前をいたずらに美化する中村氏は馬鹿げています。
 今の日本で「大逆事件(でっち上げにより幸徳秋水等が死刑)」のような「政治弾圧」があり得るのか*7
 今の日本で「関東大震災下での左派活動家(大杉栄伊藤野枝など)や在日朝鮮人の虐殺」のような残虐事件があり得るのか。
 今の日本で「226事件」のような「自衛隊による軍事クーデター」があり得るのか。いずれもノーでしょう。
 所詮彼は「アフガンでの医療活動」限定でしか評価できない「その程度の人間」だと思います。高世や「中村ファン」の中村評価のように「過大評価できるような立派な人間」ではない。
 「あえて言えば」、彼が「アフガンで殺害された」のもこうした「認識の歪み」が一因ではなかったか。
 つまり「認識の歪み」から「自分に迫る危険」を的確に認識できなかったのではないか。

 中村さんは、明治の日本人が好きだった。

 やれやれですね。「明治の日本人全て」が勿論「立派なわけもなく」くだらないノスタルジーにもほどがあるでしょう。
 例えば、田中正造を弾圧する側にいた

足尾銅山の当時の経営者「古河市兵衛
 古河財閥(現在の古河機械金属古河電気工業など)創業者。

も明治の人間のわけです。

*1:1993年、石風社

*2:2003年、石風社

*3:少なくとも建前では一高(今の東大教養学部)教師辞職は、内村が辞表を提出した事による「依願退職(勿論周囲の圧力はあったでしょうが)」であり公職追放ではありません。

*4:1901~1945年。佐賀県警察部長、千葉県内政部長、愛知県警察部長、大阪府内政部長等を経て沖縄県知事

*5:1900~1945年。福井県官房長等を経て沖縄県警察部長

*6:勿論この本で沖縄戦を勉強したい - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)島田知事の限界をも論じられているかに注目したい(沖縄戦時の知事である島田叡についてのドキュメント映画が公開) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)が批判するように、彼らには時代の限界があり、過大評価は禁物ですが「当時の本土人」としては「まともな方」でしょう。

*7:戦後の松川事件三鷹事件では死刑判決が出ているので死刑が執行されれば、大逆事件並の政治弾圧でしたが、幸いにも「三鷹事件の竹内景助被告」以外は全て最終的には無罪判決となり、竹内被告も「死ぬまで死刑囚だった」とはいえ、彼の死は死刑執行ではなく病死(獄中死)でした。