付家老について、他(「歴史評論」2024年7月号の補足)

【1】
 新刊紹介:「歴史評論」2024年7月号(副題:NHK朝ドラ『鳩子の海』の紹介、ほか) - bogus-simotukareのブログ
◆戦国合戦図屏風研究の論点(高橋修*1)の(内容紹介)で「尾張藩付家老・成瀬氏」について

 元和3年(1617年)、尾張藩主・徳川義直の附家老である成瀬正成が3万石で入って、尾張藩を補佐する犬山成瀬氏(犬山藩)が成立した。但し、犬山成瀬氏(犬山藩)はあくまで身分は尾張徳川家を補佐する重臣という立場であり、独立した大名として見られることはなかった。このため、第7代当主・正寿や第8代当主・正住は尾張藩から独立しようと企てたが、いずれも失敗している。慶応4年(1868年)1月、新政府の維新立藩により、犬山成瀬氏(犬山藩)は正式に「尾張藩から独立した犬山藩」となった。明治2年(1869年)に藩主・成瀬正肥は版籍奉還により犬山藩知事に任じられる。明治4年1871年)の廃藩置県で犬山藩は犬山県となり、11月22日に名古屋県尾張藩を母体とする)に合併された。後に名古屋県は愛知県と改名。また独立大名となった成瀬氏は明治17年(1885年)の華族令で男爵になっている(但し、「維新立藩でない大名」は男爵より格上の爵位(子爵以上)となっており、その点では格差がある)。(犬山藩 - Wikipedia参照)

と書きました*2が、別途「付家老」について御附家老 - Wikipediaの記述を紹介しておきます(長くなるので別記事にしました)。

御附家老 - Wikipedia
 江戸幕府初期、将軍家の連枝を大名として取り立てた際に、特に将軍から直接の命令を受けてその者の家老に附属された家臣のことをいう。多い場合は十数人付けられたらしいが、通常はそのうちの筆頭家老を指す。付家老家の中でも徳川御三家の筆頭附家老5家(尾張徳川家付家老の成瀬氏(犬山藩主)、竹腰氏(今尾藩主)、紀伊徳川家付家老の安藤氏(紀伊田辺藩主)、水野氏(紀伊新宮藩主)、水戸徳川家の中山氏(常陸松岡藩主))が特に知られている。

 ということで、「補佐役として特に任命された」と言うことで「付家老は名誉か」と言えばそうでもなかったらしいことは御附家老 - Wikipedia等に以下の通り書いてあります。
 付家老には通常「譜代大名や大身旗本」が任命されますが、
1)付家老は譜代大名と違い、独立大名扱いではない
2)初期の付家老は「付家老をしながら幕政参加」したケース(例:紀州藩初代藩主・徳川頼宣の付家老であるとともに幕府老中として幕政に関わった安藤直次)もあるが、付家老体制が確立するとそうしたことはなくなった。譜代大名(例えば幕末の大老井伊直弼)や旗本は「老中、若年寄勘定奉行寺社奉行」等の形で幕政に関与できるが、付家老は「紀州藩主の吉宗が将軍就任」のような「特殊ケース」でない限り、幕政関与の道がない
ため「譜代大名、大身旗本>付家老」といった認識があったためです。

御附家老 - Wikipedia
【御三家の付家老】
◆家康は尾張義直と紀州頼宣の付家老に、松平康重と永井直勝*3を考え、内意を伝えたところ、両人ともに付家老就任を辞退した。また、頼宣の附家老となった水野重央も一度は辞退している。
◆水野重央の子「重良」は既に直参旗本の地位にあり、父の死後、「大名扱いされず、また旗本と違い、幕政関与の道もない付家老」の就任を拒否しようとしたが、大御所(前将軍)秀忠、将軍家光らに説得されて家督を相続する。
【待遇改善の運動】
 いわゆる「付家老5家体制(尾張徳川家付家老の成瀬氏(犬山藩主)、竹腰氏(今尾藩主)、紀伊徳川家付家老の安藤氏(紀伊田辺藩主)、水野氏(紀伊新宮藩主)、水戸徳川家の中山氏(常陸松岡藩主))」が整った後、5家は大名格の所領を持ちながら、独立大名としては扱われず、陪臣(大名の家臣)として家格が低かったため、連帯して幕府に譜代大名並みの待遇を求めた運動を行った。
 幕府に対して、初めて附家老の待遇改善を要求したのは、水戸藩中山家の第10代信敬であった。信敬は水戸藩第5代藩主の徳川宗翰の実子で、第6代藩主治保の実弟であるが、中山家の第9代政信の臨終の席で、婿養子となって中山家の家督を相続した。信敬は藩主の子として生まれたため、末子であっても大名家の養子となる資格があったが、2万5千石の陪臣の養子となったことに不満があったと推測される。幕府に対して文化13年(1819年)1月から老中・水野忠成*4に、「八朔五節句江戸城登城」について藩主随伴ではなく単独で登城できるように陳情を始めた。この陳情は中山家だけでは実現できそうもなかったため、同じ附家老の尾張成瀬家や紀州安藤家と連携をとって家格向上に努めた。
 特に紀州藩付家老・安藤家初代「安藤直次」と尾張藩付家老・成瀬家初代「成瀬正成」は、江戸時代初期に大御所(前将軍)となった徳川家康駿河政権に参画し、駿河年寄として本多正純*5板倉勝重*6ら「家康の側近」と共に幕府運営のための文書に連署するなどの重責を担ったまま、同時に、紀州藩初代藩主「徳川頼宣」、尾張藩初代藩主「徳川義直」の付家老に任じられた。これら2家は、付家老にならなければ老中を輩出する譜代大名となったであろうことから、子孫による附家老の家格上昇運動の意識に影響を与えた。
 「八朔五節句の単独登城」については、文政8年3月8日の水戸藩家老衆の通達によると、まず、成瀬、安藤の両家が単独登城を果たし、「中山家」他の付家老も続くことに成功した。

水野忠央 - Wikipedia
 紀伊新宮藩紀州藩附家老)第9代藩主。
 忠央は大名並みの3万5,000石を領していたが、紀州藩の附家老であるために陪臣(大名の家臣)として扱われており、幕府には大名として認められていなかった。忠央は譜代大名並みの待遇を切望し、附家老5家(尾張徳川家付家老の成瀬氏(犬山藩主)、竹腰氏(今尾藩主)、紀伊徳川家付家老の安藤氏(紀伊田辺藩主)、水野氏(紀伊新宮藩主)、水戸徳川家の中山氏(常陸松岡藩主))が連帯して幕府に待遇改善を求めた運動を先鋭化し、紀州藩の附家老「安藤氏(紀伊田辺藩主)、水野氏(紀伊新宮藩主)」に菊間席(大名、旗本の詰所)を求めたほか、妹の広を旗本「杉重明」の養女として大奥に入れ、第12代将軍「徳川家慶」の側室として寵愛を受けて「いずれも夭折するものの」4子を儲けることに成功した。家慶の側近である御小姓頭取(後に御徒頭)薬師寺元真と御小納戸頭(後に御側御用取次)平岡道弘にも妹を嫁がせ、御小納戸の水野勝賢、御使番の佐橋佳為、村上常要には弟を養子入りさせている。
 嘉永6年(1853年)に第13代将軍に就任した徳川家定に対しても姉の睦(ちか)を側室に送り込んだ。
 家定は病弱な上に嗣子がなかったため、水戸藩主・徳川斉昭の実子「徳川慶喜(一橋家当主)」を推す一橋派と、紀州藩主「徳川慶福」を擁立する南紀派に分かれて対立することとなったが(将軍継嗣問題)、紀州藩付家老で「南紀派」の忠央は、彦根藩主「井伊直弼」の腹心である長野主膳を通じて直弼と手を結ぶ。
 安政4年(1857年)、幕府で隠然たる勢力を持っていた老中・阿部正弘*7が死去すると、斉昭に反発する大奥を南紀派に引き入れ、翌安政5年(1858年)4月23日には直弼が大老に就任。同年6月25日に家定の名で後継者を慶福とすることが発表され、家定の死去により慶福が「徳川家茂」として第14代将軍に就任した。
 しかし安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で直弼が水戸浪士に暗殺されると、旧一橋派や反井伊派が勢力を盛り返したため、旧南紀派の忠央は同年6月に失脚し、家督を嫡男の忠幹*8に譲って隠居することを命じられ、新宮城に幽閉されることとなり、以後政治の舞台に復帰することはなかった。
 藩政では文武を奨励し、産業を育成するとともに、洋式軍隊の編成や洋式帆船「丹鶴丸」の建造に取り組んだ一方で、吉田松陰が「蝦夷地開拓の雄略」と賞賛した蝦夷地開発調査を実行・指揮するなど、聡明で時流を見据えた人物でもあり、松陰は「水野奸*9にして才あり、世頗るこれを畏る、また一世の豪なり」と評している。また、文化人としても優れ、歴史・文学・医学などの古典籍を集めた『丹鶴叢書』を編纂・刊行しており、これは水戸藩の『大日本史』や塙保己一の『群書類従』と並び称されている。

参考

中山信吉 | 高萩市公式ホームページ
 「御三家」という言葉をご存知の方も多いことでしょう。徳川家康関ヶ原の戦い勝利の後、政権を図り、最近親者を大名に取り立てました。「御三家」はその結果として、後世定着したものだそうです。
 家康はそれら三家、九男義直を尾張に、十男頼宣を紀州に、十一男頼房を水戸に配置しました。しかしまだ彼らは幼少のため、これら三人に信頼できる家臣を付けました。これらのうち「五家」と称され、別格の「附家老」として位置づけられたのが、尾張徳川家の成瀬氏と竹腰氏、紀伊徳川家の安藤氏と水野氏、そして水戸徳川家に付けられた中山氏です。
 彼ら附家老の果たした役割について、小山譽城氏*10は次のように解説しています。
「彼らは三家の内部で幕府のために働き、時には幕府と三家との潤滑油となって摩擦を未然に防ぎ、藩主を補導・監督する職務によって藩政を主導する存在であった。そのため、幕府にとっては幕藩体制の要石である御三家をコントロールする上で付家老の存在が不可欠であり、政治的に極めて利用価値が高い存在であったといえる」
(小山譽城 2006『徳川御三家付家老の研究』清文堂,p.58)
 立場上藩内の家臣でありながら、幕府が全国を治めていくうえで附家老たちの役割はとても大きなものだったことがよくわかります。


【2】
 「現在の成瀬家当主(成瀬淳子氏)」関係の記事を見つけたので紹介しておきます。

400年間守り継いだ城を次世代に残す“最後の姫”。犬山城第12代城主・成瀬正俊の長女、成瀬淳子さん | めぐりジャパン
 成瀬家の12代目城主の長女であり、犬山城の財団法人化を果たした成瀬淳子さん。
 犬山城と成瀬家の付き合いは、2017年でちょうど、400年になりました。尾張徳川家の付家老(※2)だった成瀬家は、徳川将軍家からいただいた犬山城を代々、大切にしてきました。
※2)付家老(つけがろう)
 ここでは、徳川御三家徳川家康から付けられた家老を指す。「五家」と呼ばれ、将軍に謁見できるほどの力があった。

 9代目の正肥(まさみつ)の時代に、江戸幕府が幕を下ろし、時代は明治へ。廃藩置県によって、犬山城天守を残してほとんどの建物が壊されました。しかし、それから20年後に濃尾地震天守が半壊。廃城という話も出たものの、城下の人々の「犬山城を残したい」という嘆願があり、愛知県が成瀬家に修復を条件に無償で払い下げました。
 無償とはいえ、その修復費は当時で4500円。現代の貨幣価値にして数億円になったといいます。成瀬家が奔走して集めた資金と、犬山町民の義援金により、無事に修復されて今日にその姿を残した犬山城。成瀬家が、「平成の城主」となる数奇な運命の始まりでもありました。
 尾張藩重臣・成瀬家とは、どんな家だったのでしょうか。
 成瀬家で最初の犬山城主となった正成は、数え年で7〜8歳のときに家康の小姓として城へ上がりました。
 正成が豊臣秀吉から「5万石与えるから家臣にならないか」と誘われ、外交のために家康からも秀吉の下へ行くよう言われたとき、正成は「二君に仕えず」と、切腹を宣言。慌てて家康が話を取り消したという逸話も残っているそうです。
「そのとき正成は、はらはらと涙を流したと書かれているんですよ。戦国武将が、嘘でしょう?、と思いますよね。まるで家族のように、強い絆で結ばれた間だったようです」
 天下人・家康の信頼厚く、周囲からも一目置かれていた正成は、やがて付家老になり、そこから成瀬家は代々、犬山城主と尾張藩の付家老を務めてきました。
 現在、日本の城郭は99%が行政の所有で、犬山城のみが財団所有。
「成瀬家は、犬山城のために、家が傾くほどお金に苦労してきたんです。私の家族は東京にいたのですが、犬山市に台風が近付くと、両親が一睡もせずにテレビを見ていたのが印象的です。扉一枚を直すにも数百万円が掛かるんですから」
 かつて、城を持てるのは大名でも二万石以上の領地がある殿様だけだったそうです。それだけ、城の維持にはお金が掛かるということ。現代で、個人でお城を所有するというのがどれほど大変かは想像に難くありません。成瀬家は、これまでも何度か財団法人化を試みたものの、国宝ということもあり、なかなか話が進まなかったそうです。
 36歳のとき、犬山城を継ぐ決意をした淳子さんは、城を守っていくためには、今度こそ財団法人化するしかないと、4年の月日をかけてついに2004年に公益財団法人・犬山城白帝文庫を設立しました。
 この頃、淳子さんの父であり、最後の城主でもある12代目・正俊さんは、難病に苦しみ、病床にあったそうです。「財団法人設立」を告げたとき、淳子さんにとって辛い願いを口にされました。
「『役目は終わった。そろそろ(逝っても)よろしいかな』と言われました。でも、私は『いいえ、正式な認可が下りるまで、あと4年は頑張ってもらわないと』と言ったんです」
 親に生きてほしい一心からの言葉でした。病に苦しんでいた正俊さんからは「親不孝者」と怒鳴られたといいますが、それからきっちり4年と4日後、満開の桜の中を、正俊さんは旅立ったそうです。
 犬山城最後の城主が、最愛の娘の新しい出発を見届けて舞台を降りた、見事な最期でした。
 犬山城は、犬山市の観光の中心であり、今や年間50万人が訪れるほど。だから、修復もせっかく来てくれた観光客をがっかりさせないように、「見せる修繕」をしていくそうです。
 そのために、10年前から修繕箇所を調査し、観覧に影響が出ない修復方法を技術者たちと相談しながら進めているのだといいます。

合戦屏風|inuyamajo15372023.3.28
 大河ドラマのおかげで、徳川家康公の周りは騒がしい。
 3月期末、長久手市長久手合戦の講演があったので、私*11も参加した。席は全て予約一杯、今の興味の深さの度合いがわかった。その講演の冒頭、長久手合戦図は双曲で、もう1つが長篠合戦図だといわれ、その元は「成瀬家本である」と言われてしまった。私は自分のことを言われているような気がして、1人で照れてしまった。
 この合戦図屏風は、私の人生に「犬山城」の次に大きな影響を与えた品だ。
 まずは、財団設立にだ。国税庁からは、その時の個人所有では「城」と「屏風」の2つは、父の相続の時に残せない、ということであった。
 またこの話がある前に、土蔵にある所蔵品の調査をした。その折、協力してくれた京都の古美術商は私に「この屏風、億で買い取りますよ」と言われたこともあった。
 私がこの屏風の実物に会ったのは、財団*12設立前であったが、この屏風の存在を知ったのは、私が高校1年の時だった。
 それは凄い発見として、メディアに取り上げられた。私の記憶の中では、(ボーガス注:犬山城が)新聞の1面を飾ったのは「犬山城の落雷」とこの「合戦図発見」と、記憶する。
 父は後から私にこっそりと教えてくれたが、どうも父はこの合戦図の存在を知っていたようだった。父にはこんな面白いところがあった。きっとこの時もこの方が面白いだろうと思ったから、その時知らないフリをしたに違いない。しかしこうした父のユーモアセンスが、時に伝わらず、誤解を招くことがたびたびであったことは、ここで告げておこう。
 この合戦図屏風の持つ意味は、成瀬家の初代にまつわる人が、描かれていることにある。まず「長篠合戦図」は、初代正成の父・正一が馬妨柵の前に描かれているところだ。それから「長久手合戦図」は、本人の初代正成の初陣の馬上の姿と合戦中の姿が2ヶ所に描かれている。
 私の中には、成瀬家ゆかりのものが描かれているにも関わらず、金銭を伴う売り買いをしたくないという考えを、もってきた。しかし事情があって今は公表できないが、売却を余儀なくされたこともあった。先祖の残してきた遺品。それを売ることは、歴史を売ることに感じられると、私は考えて来た。だから両方を残す選択はないかと、調べに調べて、財団設立の道を選んだ。その時の苦労はここで語るべきでないと考えるので、ここでは記録しない。しかしこのような並々ならない覚悟をもって、財団を創設したことは、皆様に知っておいてもらいたいのだ。

*1:茨城大学教授。著書『中世武士団と地域社会』(2000年、清文堂)、『異説・もうひとつの川中島合戦:紀州本「川中島合戦図屏風」の発見』(2007年、洋泉社新書y)、『熊谷直実』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『信仰の中世武士団:湯浅一族と明恵』(2016年、清文堂)、『戦国合戦図屛風の歴史学』(2021年、勉誠出版)、『中世水軍領主論』(2023年、高志書院)等

*2:なお、「尾張藩付家老の竹腰氏(今尾藩主)」など「成瀬氏以外の付家老」も「あくまで身分は尾張徳川家を補佐する重臣という立場であり、独立した大名として見られることはなかった」が成瀬氏同様、いわゆる「維新立藩」で独立大名となり、明治17年(1885年)の華族令で男爵になっている

*3:上野小幡藩主→常陸笠間藩主→下総古河藩主

*4:沼津藩主。小納戸役、小姓奏者番寺社奉行若年寄側用人、老中を歴任を歴任。老中時代には「田沼意次を上回る賄賂政治家」として庶民に「水野出て、元の田沼となりにけり」などと皮肉られた(水野忠成 - Wikipedia参照)

*5:宇都宮藩主。徳川家康の側近であったが、徳川秀忠の代に失脚し、宇都宮藩を改易された

*6:江戸町奉行京都所司代など歴任

*7:福山藩主。奏者番寺社奉行、老中を歴任

*8:慶応4年(1868年)、新政府の「維新立藩」により、大名として認められ、新宮藩を立藩。明治2年(1869年)に版籍奉還が行われると、新宮藩知事に任命されたが、明治4年1871年)の廃藩置県により免官。明治17年1884年)、華族令により男爵を叙爵

*9:一橋派支持の松蔭にとって、南紀派の忠央は奸物と評価される

*10:和歌山信愛大学非常勤講師。著書『徳川将軍家紀伊徳川家』(2011年、清文堂)

*11:成瀬淳子氏のこと

*12:犬山城を管理する公益財団法人「犬山城白帝文庫」のこと