新刊紹介:「歴史評論」2024年7月号(副題:NHK朝ドラ『鳩子の海』の紹介、ほか)

特集『ビジュアル資料と歴史研究のいま』
 ビジュアル資料という場合、「写真」「映像(映画等)」も入りますが、今回は絵画のみが取り上げられています。
◆中世荘園絵図研究の軌跡と展望(井上聡*1
(内容紹介)
 まずは、黒田日出男*2『中世荘園絵図の解釈学』(2000年、東京大学出版会)等、過去の絵図研究の実績、軌跡について述べられます。
 次に近年の成果として東大史料編纂所『日本荘園絵図聚影』について述べられます。主な荘園絵図をデジタルデータ化した『聚影』によってさらなる研究の進化、深化が期待できるとしています(小生の無能のため詳細な紹介は省略します)。


◆戦国合戦図屏風研究の論点(高橋修*3
(内容紹介)
 長篠の戦い(織田、徳川連合軍が武田氏を破った)と長久手の戦い(局地戦ではあるが、徳川家康豊臣秀吉側の池田恒興*4池田元助(恒興の長男)、森長可(恒興の義理の息子)を討ち死にさせ勝利)を描いた「長篠・長久手合戦図屏風(犬山城白帝文庫所蔵*5)」の研究史について論じられています。
 この屏風は代々「尾張藩付家老(犬山城*6)」となった成瀬氏の所蔵してきたものであり、長篠、長久手で活躍した「成瀬正一*7、正成*8親子」の武勇を讃えるために作られたのでは無いかとされています。
 筆者は「合戦図の多くはリアルタイムで作られたわけではない」ため史実と合致しているか怪しく、史実の確定という意味では重要性に乏しいとしています。
 例えば今回の長篠長久手合戦図屏風(犬山城所蔵)の場合「後世の作品でリアルタイム作品でないので、描写内容は必ずしも事実とは見なせない」と評価されています。

『長篠合戦』/金子拓インタビュー|web中公新書
金子*9
 戦国合戦図屏風とは、基本的に江戸時代になってから制作されたものです。ですので、当時その場を目撃した人が描いたわけでもなく、その場にいた人が自分の見聞を絵師に描かせたわけでもありません*10。先に述べたように、江戸時代に編まれた記録や系図、またそこから作られた物語をもとにして描かれたと推測されます。つまりは「江戸時代の長篠合戦イメージ」が絵として表されたわけです。
 ただやはり文字よりも絵で見たほうが喚起力が強いですから、長篠合戦といえばこんな構図ということで、結局現代のわたしたちの長篠合戦イメージをも支配することになりました。本書では、どのような過程でこれら屏風が制作されたのかにも気を配って書いています。

『長篠合戦図屏風』は、設楽原の戦いを忠実に描いたものではない(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース
 犬山藩主の成瀬家に伝来した『長篠合戦図屏風』(犬山城白帝文庫所蔵)もよく知られた作品で、17世紀中期に成立したと考えられる。
 小口康仁氏によると、成瀬家本『長篠合戦図屏風』を制作する際、『甲陽軍鑑』、小瀬甫庵信長記』などの軍記物語だけでなく、ほかにも絵図などが数多く参照されたのではないかと推察している。後世に制作したのだから、止むを得ないことである。
 そもそも成瀬家本『長篠合戦図屏風』はかなりの時間を経て成立したので、設楽原の戦いを絵師が直接見ながら描いたものではない。絵師は織田・徳川連合軍と武田軍の布陣、武将たちの生き生きとした活躍ぶりを描くため、とりわけ軍記物語の記述を参考にして描いた。
 『長篠合戦図屏風』は写真を撮ったかのように合戦を描いたのではなく、内容豊かに描くため、軍記物語などの諸史料を参照したのだから、『長篠合戦図屏風』を根拠として、織田・徳川連合軍の「鉄砲の三段撃ち」、武田軍の「騎馬隊」を論じても意味がない。
 ましてや、参照した『甲陽軍鑑』、小瀬甫庵信長記』は、(ボーガス注:リアルタイム資料では無く、また後世の誇張があると評価されており)史料としての質が劣るのでなおさらである。『長篠合戦図屏風』は美術史上の価値こそ認められるが、歴史史料として用いるには不適切*11なのである。
【主要参考文献】
◆小口康仁*12「成瀬家本「長篠合戦図屏風」における図様形成の一考察 : 絵図から屏風へ」(『日本近世美術研究』3号、2020年)

 そのため、過去においては合戦図の歴史的価値が軽視されがちでした。
 しかし「誰が何の目的で合戦図を作り、合戦図はその後、どのような影響力を持ったか(長篠長久手合戦図屏風の場合、成瀬氏顕彰と見られる、また今後の研究が必要だが、犬山藩独立運動*13において合戦図が利用された可能性もある)」と言う意味では研究資料としての価値があるとし、研究がそうした方面で進んでいることが指摘されます。
 なお、合戦図は「プロの絵師が描き芸術的価値もある」のですが、今回はそうした美術史的な観点での議論はされません。

参考

[PR]徳川美術館に聞く! 学芸員インタヴュー「合戦図─もののふたちの勇姿を描く─」:トピックス|美術館・アート情報 artscape2019.08.01
 「合戦図─もののふたちの勇姿を描く─」の担当学芸員である薄田大輔氏*14に、同展の挑戦と見どころを聞いた。
(中略)
 17世紀半ば以降、各武家で先祖の活躍を屏風絵に描くことが主流になっていく。徳川博物館所蔵の《長篠長久手合戦図屏風》はそのひとつで、ほとんどの武将が類型的な甲冑姿で描かれる一方、本多忠勝*15ひとりが鹿の角を冠した黒塗り甲冑で存在感を放っている。明らかにその活躍を強調し、後世に伝えるために描かれたと考えられる。
薄田
 長篠合戦図は他にもいくつかあり、それぞれ画中で活躍する人が異なる。これは注文主の意向であることがわかっています。つまり一定の物語性や、配軍位置などの正確さは残しつつ、特定勢力の活躍を強調するのです。


◆ひざまずく髭面のペルリ*16:黒船かわら版におけるアメリカ人像の検討(田中葉子)
(内容紹介)
 タイトル「ひざまずく」が重要ですね。
 勿論「ペリーと江戸幕府側の面会」を黒船かわら版を作成した一般庶民が見られるわけも無く、これは「想像の産物」ですが、外国人(ペリーに限らない。オランダ商館長、朝鮮通信使等も同様)と幕府の関係は「幕府が上」と当然のように認識されていたわけです。
 しかし、そうした「ひざまずく外国人像」は歴史が進むにつれ「実態に合わないこと(軍事面、経済面で日本の方がむしろ欧米に劣る)」が庶民にとっても明白となり廃れていくことになります。


◆「描いて記録した朝鮮人虐殺」から見えてきたもの:関東大震災の記録画に光をあてて(新井勝紘*17
(内容紹介)
 『関東大震災・描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』(2022年、新日本出版社)の著書がある筆者が、著書で取り上げた画家達(河目悌二、萱原白洞、淇谷こと大原弥市)を題材に、改めて「描かれた朝鮮人虐殺」について論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
参考

(書評)『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』 新井勝紘〈著〉:朝日新聞デジタル2022.11.5
 1923年の関東大震災直後には、朝鮮人虐殺の絵が描かれた。本書は、柳瀬正夢(やなせ・まさむ)、堅山南風(かたやま・なんぷう)、萱原白洞(かやはら・はくどう)の作品や、小学生が学校で描いた絵を読み解き、虐殺の実態を考える。

1世紀前の惨状描いた絵巻、ネットで落札 作者は誰? 謎追う研究者:朝日新聞デジタル2023.6.22
 日本近代史研究者の新井は、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の助教授時代、関東大震災の常設展示にかかわり、震災、とくに朝鮮人虐殺を描いた絵を探した。童画家の河目悌二(かわめ・ていじ)*18が描いたとみられる水彩画「関東大震災朝鮮人虐殺スケッチ」や、日本画家の萱原白洞(かやはら・はくどう)による絵巻「東都大震災過眼録」を発見。企画展などで紹介した。

朝鮮人虐殺を描いた「関東大震災絵巻」が初公開 福島出身の元教員・画家の作品か 東京・新宿の高麗博物館:東京新聞 TOKYO Web(小川慎一)2023.7.6
 1923(大正12)年9月1日の関東大震災直後、各地で起きた朝鮮人虐殺の様子を描いた絵巻が見つかり、東京・新宿の高麗博物館で5日、初めて公開された。震災の3年後、福島県出身の元教員の画家が描いた可能性が高い。発見した前館長で元専修大教授の新井勝紘さん(78)は「今年で震災から100年。絵巻を通して過去の事実を反省し、向き合う必要がある」と意義を強調する。
 「関東大震災絵巻」と題された絵巻は全2巻。1926(大正15)年に描かれたとあり、作者は雅号で「淇谷(きこく)」。平穏な町が地震と火災で混乱していく様子が時系列で描写され、虐殺の場面は第1巻(全長約14メートル)の終盤にあった。
 青い服を着た朝鮮人とみられる人たちが、やりや刀を持った警察官や在郷軍人を含む自警団とみられる多くの人に襲われ、頭や肩、背中から血を流して倒れている。犠牲者がござの上に山積みされ、遺体を燃やしているような場面もある。具体的な場所は記されていない。
 「淇谷」はいったい誰なのか。新井さんの調査では、この雅号を使っていた画家「大原弥市」の可能性が高いが、確実に描いたという情報がない。

火災、軍人に蹴られる人、背中に竹やり…朝鮮人虐殺描いた絵巻公開 | 毎日新聞2024.1.20
 関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺の様子を描いたとみられる絵巻物の公開が20日、東京都千代田区専修大神田キャンパスで始まった。この日は絵巻物を発見した元専修大教授の新井勝紘さん(79)の講演もあり、新井さんは「虐殺の事実を次の世代にしっかり伝えていかないといけない」と語った。
 絵巻物は、全2巻の「関東大震災絵巻1・2 大正15年 肉筆 淇谷(きこく)」。新井さんが2021年2月にインターネットオークションで見つけ、入手した。長さは1巻と2巻を合わせて30メートルを超える。


◆すみだの東京空襲体験画研究の試み(石橋星志*19
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。
【参考:空襲体験画】

企画展「描かれた東京大空襲絵画に見る戦争の記憶」 墨田区公式ウェブサイト
開催期間:平成16年1月31日(土曜日)から3月21日(日曜日)まで
 東京空襲の被災の状況・実態をビジュアルに確認できる写真や絵画は、空襲の真実をより直接的に把握できる重要な記録といえます。しかし、こうした資料は、これまで体系的な収集がほとんどなされておらず、精力的な画家たちが描いてきた稀少な空襲画や、故石川光陽氏が撮影した被災写真などがわずかに知られるにすぎません。当館では、平成15年4月以後、広く空襲体験者に、ご自身が直接に見、体験した記憶に残る光景を自らの手で描いた、被災体験画の提供を呼びかけました。その結果、墨田区民ほか、関東近県在住の体験者86人の方々より、約200点に及ぶ絵画が区に寄せられました。この企画展は、これらの空襲体験画を一堂に展示・紹介する、初めての展示会です。空襲体験者が、その辛い体験と向き合い、懸命に描かれた絵画を通じて、東京空襲とは何だったのか、その真実の一端が明らかになることを望んでやみません。

東京大空襲から79年 当時の記憶、力強く 昭島市、体験画80点紹介:東京新聞 TOKYO Web(岡本太)2024.3.9
 東京大空襲から10日で79年になるのに合わせ、空襲体験者の描いた絵画約80点が、東京都昭島市の教育福祉総合センター「アキシマエンシス」市民ギャラリーで展示されている。猛火から逃げ惑う人々や焦土と化した街など、壮絶な体験と記憶の数々を作品を通じて感じることができる。
 展示しているのは、空襲で大きな被害を受けた墨田区すみだ郷土文化資料館が2003年以降、体験者に描いてもらった作品約300点の一部。同資料館に常設展示されているが、被害の全容を広く伝え継いでいこうと、東京大空襲のあった3月10日に合わせて昭島市が作品を借り、作品展を開くことになった。

東京大空襲から79年 浅草で惨禍伝える資料展 所蔵の体験画23枚や焼失地域地図も紹介:東京新聞 TOKYO Web鈴木里奈)2024.3.9
 東京大空襲の惨禍を伝える資料展が8日、東京都台東区浅草の浅草公会堂で始まった。11日まで。
 区民を中心につくる実行委員会が毎年この時期に開き、37回目。墨田区すみだ郷土文化資料館が所蔵する体験画23枚を展示した。

【参考:戦争体験画】

「戦争体験画」とは何か|NHK放送文化研究所メディア研究部 井上裕之
 NHKは、戦争体験者に自身の体験を描いてもらう「戦争体験画」募集のプロジェクトを、1970年代から、広島、長崎、沖縄、札幌の各放送局で、計6回実施し、4900枚余りの絵を集めてきた。
 戦争の多様な側面を視覚的に伝えられる点で戦争体験画は貴重である。

戦時中の体験を絵で描いた作品の展示会 NHK佐賀放送局|NHK 佐賀県のニュース2023.8.22
 戦時中の体験の記憶を絵で描いた作品の展示会が、NHK佐賀放送局で開かれています。
「あなたの絵が伝える『佐賀の戦争』展」は、戦時中の体験の記憶を絵の形で記録し未来へ伝えていこうと、NHK佐賀放送局が開いています。
 佐賀市にある佐賀放送局1階のイベントスペースには、ことし5月から先月までに応募のあったおよそ70点の作品と去年の作品80点あまりが展示され、佐賀市鳥栖市の空襲の体験など戦時中の記憶が描かれています。
 このうち原田洋子さん(90)の作品は、昭和20年8月の佐賀空襲で自宅の寺に焼夷弾が投下され、火の手があがる様子を描いたものです。
 原田さんは当時の状況について「最後に残った本堂の屋根が崩れ落ちた様子は今も脳裏に焼き付いています」と振り返っています。
 また、牟田早苗さん(85)の作品は、終戦の直前、空襲警報のサイレンが鳴る中、祖母が引くリヤカーに弟を乗せて家族5人で佐賀市内から避難する様子が描かれています。
 牟田さんは「子どもだったので戦争の本当の恐ろしさは感じていないとは思いますが、今でも夜中の飛行機の音は嫌な思いがします」とするコメントを寄せています。

地方局が集めた4,900枚の「戦争体験画」 | NHK文研メディア研究部 井上裕之
 この絵は、沖縄戦の体験を描いた「戦争体験画」の1枚です。砲弾を浴びて倒れた一家の姿が描かれています。
 絵を描いた豊永スミ子さん*20は当時6歳。家族で砲火をくぐり抜けて避難していましたが、1発の砲弾が近くでさく裂。父親と幼い弟を失いました。絵の右側には、弟を抱き上げて泣きながら取り乱す母親。絵の左側には、砲弾を腹に受けて苦しむ父親と、父親にしがみつく豊永さん自身が描かれています。描いているうちに、豊永さんは、着の身着のままで亡くなった家族の姿をきれいに彩ってあげたいと思い、クレヨンで色を塗ることにしました。
 沖縄戦の、住民側から見た視覚的な記録を。
 そんなねらいで、沖縄放送局でニュースデスクをしていた2005年、局を挙げて「戦争体験画」を集めました。ローカル放送で戦争体験者に呼びかけたところ、500枚以上の絵が寄せられました。沖縄戦は、米軍側が撮影した映像の記録が残っている戦闘です。
 しかし、寄せられた絵には、そこに記録されなかった、住民側から見た多様で凄惨な地上戦の姿がありました。豊永さんの絵もその1枚です。
 それから時を経た2018年、こんどは札幌放送局が、北の地上戦の絵を集めました。樺太(今のサハリン)や千島列島での戦争体験の絵を描いてほしいと呼びかけたところ、短期間ですが、100枚以上の絵が集まりました。札幌局で中心となったのは、十数年前に沖縄戦の絵をいっしょに集めた同僚でした。一見、場所も離れ、別々に行われたように見えるプロジェクトですが、つなげてみると、息の長いプロジェクトのようにも見えます。
 NHKで最初に「戦争体験画」の募集を呼びかけたプロジェクトは、1974年にさかのぼります。原爆のショックで記憶を失った戦災孤児の少女「鳩子」を描いた朝ドラ鳩子の海をテレビで見た、という男性が、自分で描いた1枚の絵を当時の広島放送局に持ち込みました。その絵を放送で紹介したところ、大変な反響があり、こうした絵を集めることになったと言います。その影響を受けた長崎放送局でも絵の募集を実施。全国放送の番組でも紹介されました。
 それから、NHKが行ってきた「戦争体験画」募集のプロジェクトは合計6回。実施したのは、いずれも地方局です。集まった絵は、合わせて4,900枚余りに上りました。こうした絵は、カメラが普及していない時代の出来事を伝える貴重な記録です。そこには、描いた人の気持ちも込められています。それは、プロの画家が描いた戦争画などとも異なります。戦争体験画とは一体何なのか?。私たち自身も、それを知りたいと思っています。

 鳩子の海については以下を紹介しておきます。

鳩子の海 - Wikipedia
【キャスト】
鳩子
 藤田美保子*21(幼少期:斉藤こず恵*22
【エピソード】
 放送中、番組を見たという広島市在住の被爆者の老人(男性)が、市内萬代橋近くで見たという被爆後の惨状を描いた絵を広島放送局に持参してきた。広島局ではこれをきっかけに市民から原爆の絵を募集したところ、多くの絵が寄せられた。以後広島局では原爆体験を後世に伝える活動を続けており、毎年手紙を募集して8月6日前後に放送で紹介している(詳細は原爆の絵運動 - Wikipedia参照)。

原爆の絵運動 - Wikipedia
 1974年(昭和49年)5月、当時77歳の男性*23が、1枚の絵を携えてNHK中国本部を訪れた。男性は広島原爆の被爆者であり、絵は被爆直後の萬代橋付近を描いたものだった。当時のNHK報道番組班の若手ディレクター、後にNHK放送総局長となる原田豊彦が応対した。男性は広島原爆を扱ったドラマである連続テレビ小説鳩子の海を見たことを機に、自身の目撃した被爆直後の光景をどうしても死ぬまでに描き残したいと考え、その絵を描いたと語った。
 原田は、その絵の迫力もさることながら、70歳代を過ぎてもなお約30年前の被爆当時のことを鮮明に覚えている記憶力に衝撃を受けた。このことでNHKでは、被爆者たちに当時の体験を絵で表すよう依頼することが発案された。被爆者たちの老齢化は年を追って進み、一方では被爆地である広島においてすら、原爆を知らない若い世代が、人口の半数を占めるまでに増えていた。被爆体験を継承し、体験を被爆者一代で終わらせないことが目的であった。
 1974年6月、NHKの朝のローカル番組で、その男性のエピソードをもとに『届けられた一枚の絵』が放送され、「広島市民の手で原爆の絵を残そう」と、絵の募集が始められた。
 集まった絵は、募集開始の6月から翌1975年(昭和40年)までに2225点に達した。翌1975年4月より、NHKでは再び絵の募集が始められた。
 1975年7月、これらの絵のうち104点を収録した絵画集『劫火を見た・市民の手で原爆の絵を』がNHK出版協会から発刊された。また7月より広島県中国新聞社等の主催による『ヒロシマ・原爆の記録展』で、300点の絵が各種原爆資料と共に、札幌市、仙台市、東京都、名古屋市大阪市の主要5都市で展示された。1975年8月6日には、NHK広島によるドキュメンタリー番組『市民の手で原爆の絵を』が放映され、集められた絵が紹介された。1975年12月、これらの絵はすべて広島市に寄贈された。翌1976年(昭和51年)に広島平和記念資料館原爆資料館)の管理・運営組織である広島平和文化センターが発足した後、絵は全て同センターに譲渡された。
 1994年の広島平和記念資料館での展示では、ある女子大生から「こんなに下手な絵ばかり並びたてた展覧会が、かつてあったろうか?。その下手な絵に、これまで見たどんな絵よりも激しく心を揺さぶられた」との感想も寄せられた。

〈本の紹介〉 「原爆の絵」と出会う[朝鮮新報 2007.10.15]
 1974年5月、当時77歳だった小林岩吉さんが被爆直後の萬代橋の様子を描いた絵を携え、NHK広島放送局を訪れたことをきっかけに、NHKが「広島市とその周辺での被爆後の状況をあらわす絵」を募集した。そして、原爆死没者30回忌にあたる1975年までに、750余人の被爆者が描いた計2200余枚の絵が集まった。

鳩子の海 | どちらかと言えばサントラ好き。
 1974年〜75年にかけて放送されたのが鳩子の海です。当時私は小学校の中学年になったところでした。
 私は家族の視聴習慣によりこの作品を観ていたと書きましたが、きっと主人公の子役として出演した斉藤こず恵さん目当てで観たという理由があったと思います。
 私と斉藤さんは同世代なので、親近感を持っていました。
 当時、斉藤さんはこの作品で超人気子役になったようですが(視聴率50%近い朝ドラなら当然かと)、この後もみんなのうたNHK)での「山口さんちのツトム君」の歌手での人気も凄かったですし、TBSのドラマ「それ行け!カッチン」(1975年〜76年)も好きで観ていました。
 演技が上手い斉藤さんは、子供時代の鳩子が終わってもNHKに「もっと出してほしい」と投書が来たらしく、引き継いだ大人役の藤田さんが大変だったというような話を聞いた覚えがあります。
 子供時代の鳩子は、天真爛漫で物怖じせず、畑に植えている芋を盗んで矢部天兵(夏八木勲)と一緒にふかして食べるというシーンもありました。確かにインパクトのある演技で、これらが子供らしいと好評だったのかもしれません。
 ちなみにWikipediaで鳩子の海を調べると、このドラマを観た被爆者の老人男性が、被爆後の惨状を絵に描いてNHK広島放送局へ持って来られた、という記述があります。広島局ではこのことをきっかけとして市民に原爆を描いた絵を募集するようになり、原爆体験を後世に伝える活動を続けたとか。原爆の絵運動と呼ばれているそうです。多くの人々の気持ちを動かしたドラマだったと言えるかもしれません。
 NHKには全話のテープがなく、視聴者から提供されたものと合わせて20話程度しかないようです*24(これらは番組公開ライブラリーで最寄りのNHKで観られます)。本当に何度も言ってしまいますが、70年代の作品はことごとくないんですよね…。せめて観られる分だけでもオンデマンドで観られる環境にしてもらいたいものです。

鳩子の海 - 観光情報 - 柳井市ホームページ
 昭和49年(1974年)にNHKで放映された連続テレビ小説鳩子の海を記念したお菓子です。あさひ製菓最初のヒット商品となり、山口県を代表するお菓子として知られています。
 やわらかいしっとりとした白あんに北海道産の良質な生クリームを加えたオリジナルミルク餡を使用しています。和と洋が調和した味わいは、どこか懐かしさを感じさせる美味しさです。

山口県町村会|6つの町のご紹介|上関町のご紹介
 青い海、豊かな緑に囲まれた町、風情ある町並みは連続ドラマ鳩子の海のロケ地に選ばれたこともあります。

NHK朝ドラ「鳩子の海」放送から50年 愛された鳩子、舞台の山口県上関町に今も | 中国新聞デジタル
 山口県上関町や周辺で「鳩子」の名が付く名物や施設がある。由来は地元の海を舞台にしたテレビドラマ鳩子の海で、戦中から戦後を生き抜いた主人公の少女の名前だ。

上関町に行きました | 活動情報|山口朝日放送のSDGs
 先週末に上関町の温泉施設「鳩子の湯」に行きました。
 温泉は地下1,000メートルから汲み上げられており、内風呂やサウナはもちろん、瀬戸内海を一望できる露天風呂も楽しめます。

上関海峡(1)「鳩子の海」の「鳩子の湯」へ(山口県熊毛郡上関町室津924) - 何でも見てやろう!瀬戸内海の小さな旅!
 私達は「海の見える温泉」上関海峡温泉「鳩子の湯」にやって来ました。「鳩子の湯」はNHK連続テレビ小説鳩子の海にちなんで2011年12月にオープンしました。上関海峡は江戸時代には朝鮮通信使や参勤交代の大名が訪れ、瀬戸内の絶景を愉しみながら旅の疲れを癒した名所です。そのような歴史を反映して「鳩子の湯」の施設は全て和風の建築様式になっています。
 連続テレビ小説鳩子の海」(昭和49年4月~昭和50年4月)は、広島の原爆など戦争のショックで記憶を失い、瀬戸内海の港町(上関町=ロケ地)で育てられた少女「鳩子」の放浪の軌跡を感動的に描いています。平均視聴率は47.2%、最高視聴率は53.3%。
【「鳩子の湯」売店
 連続テレビ小説鳩子の海」にちなんだお菓子「鳩子の海」、鳩子てんぷら*25、鳩子ちゃんハンカチタオルなどグッズも販売していました。


◆韓国の民衆美術:記憶闘争の視覚化(古川美佳*26
(内容紹介)
 『韓国の民衆美術』(2018年、岩波書店)の著書がある筆者が改めて「韓国の民衆美術」について論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
【参考】
 「民衆美術」でググってヒットした記事をいくつか紹介しておきます。

古川美佳「韓国の民衆美術 抵抗の美学と思想」 表現の断絶を越え理解の一歩へ|好書好日
 ソウル日本大使館前に設置された「少女像」の彫刻としての成り立ちについて理解するには、本書が主題とする韓国の「民衆美術(ミンジュンアート)」を巡る歴史的経緯を知ることがどうしても必要だ。
 だが「日本では、韓国に民衆美術が存在するという事実自体が知られてこなかったし、たとえ知ったとしても前近代的プロパガンダ的な表現としてしか見ようとしない傾向が強かった」。
 そんななか、日本と韓国の今日に至る美術表現の背景にある断絶、というよりもそれ以前にある空白を埋めるため、本書の果たす役割は大きい。


ソウル・南山の慰安婦追悼公園、強制わいせつで起訴された「韓国民衆美術界の巨匠」の手で造られていた(上)-Chosun online 朝鮮日報

24色のペン:元慰安婦碑の撤去を巡る「公共美術」論争=堀山明子(外信部) | 毎日新聞2023.9.9
 韓国ソウルの市街を見渡せる南山の一角に、「記憶の場」という元慰安婦の追悼碑が置かれた広場がある。9月5日早朝、ソウル市がクレーンで碑を砕き、わずか2時間で撤去するという衝撃的な出来事が起きた。碑を設計した民衆美術運動をリードする作家が8月、セクハラ訴訟の1審で有罪判決を受けたため、「社会的に物議を醸した作家の作品を保存するのは、公共美術の趣旨にあわない」(ソウル市)というのが理由だ。
 韓国では2018年から性暴力被害の告発運動「#MeToo(ミートゥー)」のうねりが各界に広がり、文化芸術分野でも巨匠が社会的に葬られるのは珍しくない。ただ今回は、告発運動を支援してきた女性団体も撤去に異議を唱えている*27のが気になった。日本では耳慣れない「公共美術」とは何なのか。
 広場はもともと、日本が朝鮮を植民地化する過程にあった1900年代初めに韓国統監の官邸があり、韓国の軍事政権時代には民主化活動家を弾圧したKCIA(韓国中央情報部)の施設があった。民衆を痛めつけた「黒歴史」が重なる象徴的な現場だ。
 悲劇を繰り返さないようにしようと、市民運動出身で、進歩系の朴元淳(パク・ウォンスン)前ソウル市長が2016年にここに広場を設置。約2万人の寄付金をもとに、民衆美術の第1世代とされる林玉相(イム・オクサン)氏(73)の設計で、元慰安婦の名前や証言を刻んだ碑「大地の目」と、他の作家と共同制作した碑「世界のへそ」を並べ、歴史を記憶する空間をデザインした。
 ところが、広場をつくった朴前市長は在任中の2020年、元女性秘書にセクハラで告発されて自死。そして今回、設計者のセクハラまで発覚し、黒歴史が上塗りされてしまった。林氏は13年に自身が運営する研究所の女性職員に無理やりキスしたとして、今年6月に刑事告訴され、懲役6月(執行猶予2年)と性暴力治療プログラム40時間の受講を命じられた。
 林氏の二重基準に対する市民の反発は大きかった。ソウル市が1000人を対象にした世論調査によると、「(問題となった)作家の名前だけ削って作品は残す」と答えた人は23・8%のみ。「作品の撤去」が53・6%、「広場の閉鎖」が11・4%と、全体の6割以上の市民が抜本的な見直しを求めている。
 議論がここまで大きくなったのはミートゥー運動のパワーだけでなく、激化する保革間の政治対立の影響もある。
 撤去を命じた呉世勲(オ・セフン)ソウル市長は、次期大統領候補として名前があがる保守系の政治リーダーだ。一方の林氏は、16年に朴槿恵(パク・クネ)大統領が弾劾された後に当選した進歩系の文在寅ムン・ジェイン)大統領の支持者。文政権の大統領府には、朴政権退陣を求める「ろうそくデモ」をモチーフにした林氏の作品が飾られていた。呉氏にとっては、敵失をとらえて進歩系のカリスマ作家の作品とその支援者を公共空間から締め出すのは、「時代は変わった」と市民社会にアピールする絶好の機会となる。
 実際、呉氏は自身のSNS(ネット交流サービス)で、「元慰安婦を保護するための団体がセクハラ作家の作品撤去に反対するのは、存在理由を自ら否定することだ」と投稿。「市民団体は死んだ」と強く批判した。
 一方、進歩系の市民団体は撤去そのものに反対というより、広場ができるまでに多くの市民が参加した民主的プロセスを無視されたことへの反発が大きいように見える。
 募金に参加した市民100人は共同声明で、他の作家も参加した共同作品であるにもかかわらず、関係者と協議もせず、今後の方針も示さず、「奇襲撤去」したことに問題があると訴えた。テレビ取材に撤去反対の女性活動家が「作品は林氏のものでも、ソウル市のものでもない」と公共性を訴えていたのが印象的だった。どういうことか。
 「韓国の民衆美術は、民主化闘争の現場で生まれた土着的な抵抗の表現。特に広場や路上にある公共美術は、市民から湧き上がるエネルギーや時代性を反映している。だから、撤去するにも議論による問題の可視化が求められるのです」
 こう解説するのは、「韓国の民衆美術」の著者で、朝鮮美術文化研究家の古川美佳さん。民衆美術は民主化運動がさかんだった1970~80年代、既存の美術界に反旗を翻し社会批判を表現する形で、労働運動や学生、市民による路上デモとともに発展してきた。一方で、民衆美術の運動の中にも男性中心主義は内在している。それに反発する形でフェミニズムアートが育っており、共同作品「世界のへそ」には女性作家が加わっていた。一方的に破壊したソウル市の行為は(以下有料記事なので読めません)

 「モニュメントをどうすべきか、議論がある中で、破壊、撤去行為に及んだソウル市(市長は右派)」には「群馬知事の山本か!(県立公園内の朝鮮人追悼碑を破壊、撤去し非難される)」「何処の国にもクズがいるもんだ」と怒り、呆れますがそれはさておき。
 まあ、こういうのもなかなか難しいところです。
 「ソウル市の破壊、撤去(俺の価値観では山本群馬知事並に無法)」は論外ですが、「セクハラ(性加害)をやらかした人間のモニュメントをそのままでいいのか、そもそもモニュメントは性加害被害者(慰安婦)追悼が目的では無いか。警察の暴力団追放キャンペーンに協力した歌手がヤクザ主催の宴会で歌を歌うくらい酷くないか」というのは「一理はある」でしょう。近年は「セクハラ」に対する評価も昔よりかなり厳しくなっている。
 例えば「広河隆一氏」などは『福島・原発と人びと』(2011年、岩波新書)等の著書が過去にあるところ、セクハラ問題(例えば「人権派ジャーナリスト」の性暴力 - 高世仁のジャーナルな日々参照)によって今や「ほぼ完全に活動休止状態」です。京大教授だった矢野暢などもセクハラ告発後の晩年はほぼ「活動休止状態」でしょう(その点、ここまでひどいとさすがにあまりのすさまじさに絶句する - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)日本の社会は、安倍晋三が殺されるまで統一協会と本気で向かい合おうとしなかった(ジャニーズの問題などもご同様) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)が指摘するように、死後、批判を浴び、また『ジャニーズ事務所が社名変更、被害者への謝罪と賠償』に追い込まれたとはいえ、生前は完全に逃げ切ったジャニー喜多川と、彼を容認した日本社会がいかに酷いか、いかにジャニーズ事務所の権勢(特にメリー、ジャニー姉弟の存命時)がすごかったかと言うことですが)。
 但し、朝鮮日報、ソウル市長、尹錫悦大統領といった右派のこうした「セクハラ」云々は「女性差別反対」というよりは「戦前日本のやらかした慰安婦とか朝鮮人強制連行とか昔のことだから水に流そうぜ」「そんなことより日韓友好」「日本は韓国企業にとって重要な市場です!」「日本と対立したら北朝鮮を利する」的な「下心(日本批判を抑え込みたい)」が見え透いてるわけです(ということで日本右派が言うほど、韓国社会は「慰安婦問題等、歴史問題での日本批判」で一枚岩であるわけでは全くない)。また今回について言えば「朴元淳叩き→朴氏が所属した『共に民主党』叩き」狙いという「右派の下心」も見え透いている。
 韓国右派の態度は「筆坂(当時、党政策委員長)のセクハラ」「小池書記局長のパワハラ(公式に謝罪しましたが*28)」で共産叩きにハッスルする「日本ウヨ(セクハラやパワハラに興味があるわけではないので、共産以外では黙り)」みたいなもんです。
 「なるほど確かにセクハラ芸術家ではまずい、別の人間でモニュメントを作り直そう」「そもそも我々韓国民は慰安婦問題についてどう向き合うべきなのか」等と言う話を彼ら韓国右派はしない(単に慰安婦問題での日本批判を抑え込みたいだけ)わけですから。それも「人間としてどうか(呆)」と思いますね。
 しかしこういうのも性犯罪とかに関する人間の闇の部分にいまさらながら絶句する(追記有。地裁で懲役10年の判決) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)の一例ではあるでしょう。
 「韓国革新派」のセクハラと言えば自殺した「朴元淳ソウル市長*29」のことも思い出して何とも複雑な気になります。


◆歴史のひろば「方向性の喪失?:民主化後三〇年、南アフリカ歴史学の現在」(上林朋広*30
(内容紹介)
 筆者曰く民主化(というかアパルトヘイト廃止)以前の「南ア歴史学」の重要テーマは「アパルトヘイトをどう評価し、それをどう廃止していくか」というものでした。
 細かい点を無視すれば「日本での民主化革命、社会主義革命をいかに進めるか」という考えの違いによって「明治維新評価」が異なった「講座派(明治維新天皇制絶対主義の確立と見なし、民主化社会主義革命の二段階革命論)と労農派(一段階革命論)」に似た面があるかもしれない。
 ただし、民主化以降、そうした「アパルトヘイト研究」は下火になり、良く言えば「研究の多様化」、悪く言えば「方向性の喪失」が起こってる。それは「必ずしも悪いことではない」ものの、背景を考えると「複雑な問題」がある。
 「アパルトヘイト研究」が下火になったのは「もはやアパルトヘイトが過去になったから(マンデラ大統領(在位:1994~1999年)も2013年に死去し10年が経過)」という「良い面」もある反面、「ANCへの失望」と言う悪い面もある。
 先日「南ア総選挙」で与党の地位を守ったとは言え、国民の不満から、ANCが大幅に議席を減らしたこと(過半数割れし連立政権が不可避)はご存じの方も多いかと思います。
 「ホンマかいな?」と思いますが上林論文に寄れば「ANCへの失望(特に経済政策への不満)」から「アパルトヘイトを経験した世代の一部」からは、ソビエト連邦への郷愁 - Wikipediaのような「昔の方が良かった(経済的な意味で生活が楽だった)」という郷愁もある(主として白人だが黒人にすらそうした人間がいる)とのこと。

【参考:ANCへの失望】

南アフリカ総選挙 アパルトヘイト撤廃以降政権維持の与党 初の過半数割れ 連立政権に向け交渉へ | NHK | 南アフリカ2024.6.3
 南アフリカの総選挙で、アパルトヘイト=人種隔離政策の撤廃以降、30年にわたって政権を維持してきた与党が、議会で初めて過半数を割り込みました。連立政権の樹立に向けた交渉が始まることになり、安定的な政権をつくることができるかが焦点です。
 これまで30年にわたって政権を維持してきた、与党ANC=アフリカ民族会議は、議会で400議席中159議席過半数を割り込みました。
 かつてアパルトヘイト撤廃運動を主導したANCは、1994年に行われたすべての人種が参加する民主的な選挙で勝利し、ネルソン・マンデラ氏が黒人初の大統領となって以降、多くの国民の支持を集めてきました。
 しかし、汚職の蔓延や経済の低迷、それに治安の悪化などに国民の不満が高まり、今回の選挙で初めて議会での過半数を失いました。
 ANCを率いるラマポーザ*31大統領は「政党のリーダーとして、国民の声を受け止め国民の選択と願いを尊重しなければならない」と述べました。
 今後は連立政権の樹立に向けた交渉が始まり、第1党の座を維持したANC(159議席)が、白人中心の第2党「民主連合(DA:87議席)」や、ANCを離脱*32したズマ*33前大統領が立ち上げた第3党「民族の槍(MK:58議席)」などと協議を行うものとみられます。
 しかし、連立の条件をめぐって交渉が難航することも予想され、安定的な政権をつくることができるかが今後の焦点となります。

南アフリカで総選挙後初の下院招集 白人系最大野党の連立入りが焦点に - 産経ニュース2024.6.14
 故マンデラ大統領が率いた名門政党「アフリカ民族会議」(ANC)は159議席で第1党を維持したが、30年ぶりに過半数を割り、連立協議が招集直前まで行われた。白人を支持基盤とするリベラル派の最大野党「民主同盟」(DA)がANCとの連立に応じるかが焦点だ。
 連立協議では、87議席で第2党となったDAの幹部が「14日未明に連立入りで最終合意した」としつつも、さらに詳細な条件を詰めていると述べた。DAとANCは長くライバル関係にあり、双方とも政策やポスト配分などを巡って警戒感を緩めていないようだ。
 ANCとDAが連立する場合、17議席で第5党となった保守系「インカタ自由党」(IFP)も加わるとの見通しが出ている。
 ANCの支持者の間で「白人の利益の守護者」とみなされるDAは不人気なため、黒人民族ズールー人主体のIFPが連立に加わることで白人色が薄まり、ANC支持者の懸念が和らぐとの見方が出ていた。
 開かれた市場を支持するDAが与党になれば、実業界や海外の投資家なども好感するとみられる。一方、39議席で第4党となった黒人主体の「経済的解放の闘士」(EFF)は、白人の土地接収を主張する急進派で、連立入りすれば経済・投資環境が悪化するとの見方がある。このため南アの新政権の構成は、国外からも注視されている。
 また、58議席を得て第3党に躍り出た新党「民族の槍」(MK)は、汚職疑惑で批判が高まり2018年に辞任したズマ前大統領が率いる。MKは選挙で不正があったとして下院の開会を阻止しようとするなど、政界に対抗する姿勢を示しており、今後の不安定材料となりそうだ。
 マンデラ氏が率いたANCはアパルトヘイト(人種隔離)を軸とする白人支配の打倒に大きな役割を果たしたが、近年は汚職疑惑が相次いだほか経済低迷も打開できず、国民の不満が高まっていた。

 「経済的解放の闘士」(EFF)については以下を紹介しておきます。
 マンデラ流の「人種融和論が今も主流」とはいえこうした過激派も無視できない政治力を有しているようです。まあこれらの過激派の主張には「貧困な黒人を経済支援すべきだ」という「一定の道理」はありますが、それが「白人攻撃」とセットであるようなのが何ともかんとも。

「白人を殺せ」黒人民族主義を掲げる極左躍進へ…「多人種共生」揺らぐ南ア : 読売新聞2021.10.24
 南アフリカで11月1日、5年に1度の統一地方選が行われる。各種調査で、過激な白人排斥を掲げる極左野党「経済的解放の闘士(EFF)」の躍進が見込まれている。人種対立の先鋭化が、ネルソン・マンデラ元大統領が多人種共生を掲げた「虹の国」の理念を揺るがしている。(ヨハネスブルク支局 深沢亮爾)
 「我々が権力を握れば、土地を強制収用する。白人の土地は全て我々のものだ」
 21日、ワインの産地として知られる風光明媚な西ケープ州ステレンボシュで、EFFのジュリアス・マレマ代表が声を張り上げると、会場は熱狂に包まれた。聴衆のほとんどは黒人だ。
 EFFは、与党アフリカ民族会議(ANC)を離脱したマレマ氏が2013年に結党した新興政党だ。
 「黒人のための南ア」の実現を目指す黒人民族主義を掲げ、暴力も辞さない過激な街頭運動や「白人を殺せ」との主張など人種対立をあおる手法が特徴だ。選挙戦では、白人の土地の強制接収のほか、富裕層地区への黒人貧困層向け住宅建設などを訴えている。

南ア下院、ラマポーザ氏を大統領に再選出 対立超えて連立合意 白人野党「団結し共同統治」 - 産経ニュース2024.6.15
 南アフリカの下院(定数400)で14日、故マンデラ氏が率いた名門政党「アフリカ民族会議」(ANC)が白人主体のリベラル政党「民主同盟」(DA)などと連立政権を樹立することで合意した。
 ロイター通信によると、黒人のズールー人主体のインカタ自由党(IFP)や、カラード(混血)の支持を得る右派の愛国同盟(PA)も連立に加わる。
 ANCは5月29日投票の下院総選挙で、アパルトヘイト(人種隔離)撤廃後の1994年の選挙以来、初めて過半数を割った。汚職の蔓延や格差の拡大に、国民が厳しい審判を下した形となった。
 連立協議の過程では、ANCが白人の土地接収や天然資源の国有化などを掲げる急進左派と組む可能性も指摘された。アパルトヘイトの記憶が残るANC内部には、DAとの連立を敬遠する向きもあったという。
 しかし、ANCは市場経済を重視するDAとの連立を選択。左派との連携を避けたことで、経済界や外国の投資家の信頼も維持される見通しとなった。
 政策調整や閣僚ポストの配分が焦点となるが、ANCとDAを中心とする協調体制が長続きするかを懸念する声もある。

【参考:ソ連への郷愁】

ソビエト連邦への郷愁 - Wikipedia
 2018年の世論調査では、ロシア人の66%がソ連の崩壊を後悔している(但し、この後悔意見の大半は55歳以上の中高年)。
 2020年に行われた世論調査では、ロシア人の75%がソ連時代は国の歴史の中で「最も偉大な時代」だったと答えた。
 世論調査によると、旧ソ連で最も惜しまれているのは、「安定していた経済システム*34」であった。ソ連崩壊後の新自由主義的な経済改革により、富裕層を除く「一般のロシア人」の生活水準は厳しくなった*35
 スターリンの好感度も2019年春に過去最高を記録した。
 こうした国民世論に影響されてか、2021年、ロシア大統領プーチンソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的悲劇」と発言した。

旧ソ連懐かしむロシア人が7割近く プーチン政権に不満 - 産経ニュース2018.12.26
 郷愁を感じる理由は「経済システムの崩壊」が52%で首位。以下、「大国意識の喪失」(36%)、「(国民同士の)相互不信の高まり」(31%)と続いた。
 露経済紙ベドモスチは「共産主義への回帰願望ではなく、現政権への遠回しな批判だ。生活の厳しさや将来への不安が、ソ連時代の安定性を魅力的にしている」と分析した。

*1:東京大学史料編纂所准教授

*2:東大名誉教授。『謎解き洛中洛外図』(1996年、岩波新書)、『謎解き伴大納言絵巻』(2002年、小学館)、『絵画史料で歴史を読む』(2004年、ちくまプリマーブックス→増補、2007年、ちくま学芸文庫)、『吉備大臣入唐絵巻の謎』(2005年、小学館)、『江戸図屏風の謎を解く』(2010年、角川選書)、『豊国祭礼図を読む』(2013年、角川選書)、『江戸名所図屏風を読む』(2014年、角川選書)、『洛中洛外図・舟木本を読む』(2015年、角川選書)、『岩佐又兵衛屏風絵巻の謎を解く』(2020年、角川選書)等、絵図研究の著書多数

*3:茨城大学教授。著書『中世武士団と地域社会』(2000年、清文堂)、『異説・もうひとつの川中島合戦:紀州本「川中島合戦図屏風」の発見』(2007年、洋泉社新書y)、『熊谷直実』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『信仰の中世武士団:湯浅一族と明恵』(2016年、清文堂)、『戦国合戦図屛風の歴史学』(2021年、勉誠出版)、『中世水軍領主論』(2023年、高志書院)等

*4:初代姫路藩主・池田輝政の父

*5:長篠・長久手合戦図屏風は他にも徳川博物館所蔵、大阪城天守閣所蔵などもあるが、犬山城を管理する公益財団法人「犬山城白帝文庫」所蔵が最古(オリジナル)であり、他の屏風は犬山城所蔵を元に作成されたとみられている(なお、歴代犬山城主は成瀬氏で、白帝文庫理事長は成瀬家の末裔である成瀬淳子氏)

*6:元和3年(1617年)、尾張藩主・徳川義直の附家老である成瀬正成が3万石で入って、尾張藩を補佐する犬山成瀬氏(犬山藩)が成立した。但し、犬山成瀬氏(犬山藩)はあくまで身分は尾張徳川家を補佐する重臣という立場であり、独立した大名として見られることはなかった。このため、第7代当主・正寿や第8代当主・正住は尾張藩から独立しようと企てたが、いずれも失敗している。慶応4年(1868年)1月、新政府の維新立藩により、犬山成瀬氏(犬山藩)は正式に「尾張藩から独立した犬山藩」となった。明治2年(1869年)に藩主・成瀬正肥は版籍奉還により犬山藩知事に任じられる。明治4年1871年)の廃藩置県で犬山藩は犬山県となり、11月22日に名古屋県尾張藩を母体とする)に合併された。後に名古屋県は愛知県と改名。また独立大名となった成瀬氏は明治17年(1885年)の華族令で男爵になっている(但し、「維新立藩でない大名」は男爵より格上の爵位(子爵以上)となっており、その点では格差がある)。(犬山藩 - Wikipedia参照)

*7:伏見城留守居役など歴任

*8:正一の長男。初代栗原藩主。後に尾張藩付家老(犬山城主)

*9:東京大学史料編纂所教授。著書『中世武家政権と政治秩序』(1998年、吉川弘文館)、『織田信長という歴史:『信長記』の彼方へ』(2009年、勉誠出版)、『記憶の歴史学:史料に見る戦国』(2011年、講談社選書メチエ)、『織田信長〈天下人〉の実像』(2014年、講談社現代新書)、『織田信長権力論』(2015年、吉川弘文館)、『織田信長:不器用すぎた天下人』(2017年、河出書房新社→『裏切られ信長:不器用すぎた天下人』と改題し、2022年、河出文庫)、『戦国おもてなし時代:信長・秀吉の接待術』(2017年、淡交社)、『鳥居強右衛門』(2018年、平凡社)、『長篠合戦の史料学』(2018年、勉誠出版)、『信長家臣明智光秀』(2019年、 平凡社新書)、『長篠合戦』(2023年、中公新書)等

*10:但し「揚げ足取り」すれば、絵画資料が「非体験者による後世に作成された資料」ではなく「リアルタイム資料」や「体験者の作成資料」なら当然に真実かと言えば、そんなことは勿論無く「自分に都合の悪い描写はしない」「記憶違い」等で事実に反する描写はあり得ます。

*11:正確には『「鉄砲の三段撃ち」など、長篠合戦の史実確定に用いるに当たっては不適切』ですね。今回の高橋論文が指摘するように「誰が何の目的で合戦図を作り、合戦図はその後、どのような影響力を持ったか(長篠長久手合戦図屏風の場合、もともとは成瀬氏顕彰と見られる。また今後の研究が必要だが、犬山藩独立運動において合戦図が利用された可能性もある)」と言う意味においては歴史資料としての価値があります。これは何も今回の「合戦図屏風」に限りません。例えばいわゆる偽書田中上奏文等)、偽家系図も「偽物である以上、真実追究には役立たない」ですが、「誰が何の目的で作成し、当時どんな影響を与えたか」と言う意味では歴史資料としての価値があります。

*12:学習院大学助教

*13:犬山藩 - Wikipediaが「犬山成瀬氏(犬山藩)はあくまで身分は尾張藩の徳川家を補佐する重臣という立場であり、独立した大名として見られることはなかった。このため、第7代当主・正寿や第8代当主・正住は尾張藩から独立しようと企てたが、いずれも失敗している。」と指摘するように運動は失敗しますが

*14:徳川博物館主任学芸員等を経て静岡県立美術館主任学芸員

*15:上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。いわゆる徳川四天王の一人(他の三人は酒井忠次榊原康政上野国館林藩・初代藩主)、井伊直政近江国彦根藩・初代藩主))

*16:マシュー・ペリー - Wikipediaのこと

*17:国立歴史民俗博物館助教授、専修大学教授を歴任。著書『五日市憲法』(2018年、岩波新書

*18:1889~1958年。1913年(大正2年)に東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科を卒業。1920年大正9年)に小林商店(現・ライオン)に入社し広告部図案係に配属。1937年の退社まで広告画を手掛ける。また、児童誌の挿絵画家として、講談社少年倶楽部』やフレーベル館『キンダーブック』、東京社『コドモノクニ』で数多くのイラストを発表(河目悌二 - Wikipedia参照)

*19:すみだ郷土文化資料館学芸員

*20:豊永氏についてはググってヒットした「やっぱり捨てられたんだ」 豊永スミ子さん 収容所で(29)<読者と刻む沖縄戦> - 琉球新報デジタル(2020.8.23)、米兵への恐怖心 消えず 豊永スミ子さん 収容所で(30)<読者と刻む沖縄戦> - 琉球新報デジタル(2020.8.24)を紹介しておきます

*21:1952年生まれ。1975年5月24日から1977年5月7日まで、TBS『Gメン'75』に響圭子刑事として2年間出演(藤田三保子 - Wikipedia参照)

*22:1967年生まれ。1971年、3歳で劇団若草に入団。同期入団に坂上忍(1967年生まれ)と杉田かおる(1964年生まれ)がいる。1974年にNHK連続テレビ小説鳩子の海』で主人公・鳩子の少女時代を演じ、最高視聴率53.3%を記録し天才子役として一躍有名になる。1976年にはシングル「山口さんちのツトム君」が大ヒットした(斉藤こず恵 - Wikipedia参照)

*23:伝えるヒロシマ 原爆を描く <2> 届けられた一枚の絵 追悼のペン 市民共鳴 | 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターによれば小林岩吉

*24:NHKには第1回、最終回及び家庭用VTRで寄贈された38話分が現存されている。当時は放送局用ビデオテープが非常に高価だったために放送終了後に別作品を撮影し上書き消去された(鳩子の海 - Wikipedia参照)

*25:なお、この「てんぷら」とは薩摩揚げのことのようです

*26:女子美術大学非常勤講師

*27:「撤去に異議」は後述しますが「セクハラ云々」は口実で「慰安婦問題での日本批判を封じ込めたい」「この機会に左派に政治的打撃を与えたい」と言う「右派の下心」が見え透いてるからです。

*28:これについては例えば、赤旗田村政策委員長への言動/小池書記局長 パワハラと認め謝罪/「深刻な反省と自己改革が必要」(2022.11.15)参照

*29:なお、24色のペン:元慰安婦碑の撤去を巡る「公共美術」論争=堀山明子(外信部) | 毎日新聞等も指摘していますが、今回の「セクハラ芸術家問題」ですが、この公園事業は「朴市長時代のソウル市の事業」で朴氏がセクハラ告発後、自殺したことで「セクハラ市長だからセクハラ芸術家を選んだのだ、類友だ」と言う攻撃を右派から受けているとのこと

*30:甲南大学講師。著書『ズールー語が開く世界』(2022年、風響社)

*31:ズマ政権副大統領等を経て大統領

*32:大統領時代の汚職疑惑を批判され、ズマがANC離党に追い込まれた(そもそも大統領辞任も汚職疑惑批判によるもの)。汚職疑惑が発覚し、ANC離党に追い込まれても未だに一定の支持がある点は「我が国の安倍(モリカケ桜など)」「米国のトランプ(上院襲撃扇動疑惑など)」と似ています。

*33:ムベキ政権副大統領等を経て大統領(なお、ムベキはマンデラ政権副大統領であり、ムベキ(マンデラ政権副大統領)→ズマ(ムベキ政権副大統領)→ラマポーザ(ズマ政権副大統領)とマンデラ以降の大統領は全て副大統領の昇格)

*34:裏返せばこれは「プーチン政権の経済施策への不満の表れ」であり、「プーチンソ連美化が郷愁を生んでいる」と見るより「ソ連への郷愁がプーチンソ連美化を生んでいる」と見るべきでしょう。

*35:なお、歴史評論の上林論文に寄れば南アにおいても、アパルトヘイト廃止後、新自由主義的な経済改革により、むしろ貧富の格差が拡大したとのこと