新刊紹介:「歴史評論」11月号

★特集『2016年歴史学の焦点』
・なお、詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。興味のあるモノ、「俺なりに内容をそれなりに理解し、要約できたモノ」のみ紹介する。
■戦犯裁判研究の現在(宇田川幸大)
(内容紹介)
・2016年と言うよりは「韓国、中国、東南アジアなどの告発によって、戦後補償問題をいやがおうでも直視せざるを得なくなった冷戦終了後、ずっと*1」「あるいは、つくる会教科書後の歴史修正主義の表面化後ずっと」日本及び隣国にとって「この問題は重要なテーマであり続けた」と思うがそれはさておき。
 他の収録論文*2、たとえば『近世の長崎について』(木村直樹*3)など「近世長崎研究って最近進展でもあったの?、僕は素人だから分からないよ」に比べれば小生のような素人にも「うん、確かに重要テーマだよね」と理解できる宇田川論文のテーマではある。
・近年(2000年代以降の)の日本での戦犯裁判研究(筆者が日本史家のため、主として日本が裁かれた裁判についての研究)について色々と紹介がされている。
 具体的には
・粟屋憲太郎*4東京裁判への道(上・下)』(2006年、講談社選書メチエ→後に2013年、講談社学術文庫
内海愛子*5朝鮮人BC級戦犯の記録』(1982年、勁草書房→後に2015年、岩波現代文庫)、『スガモプリズン:戦犯たちの平和運動』(2000年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『キムはなぜ裁かれたのか:朝鮮人BC級戦犯の軌跡』(2008年、朝日選書)
・芝健介*6ニュルンベルク裁判』(2015年、岩波書店
・武田珂代子『東京裁判における通訳』 (2008年、みすず書房
・戸谷由麻『東京裁判』(2008年、みすず書房)、『不確かな正義:BC級戦犯裁判の軌跡』(2015年、岩波書店
永井均『フィリピンと対日戦犯裁判:1945〜1953年』(2010年、岩波書店)、『フィリピンBC級戦犯裁判』(2013年、講談社選書メチエ)
・中里成章『パル判事:インドナショナリズム東京裁判』(2011年、岩波新書
林博史*7『裁かれた戦争犯罪:イギリスの対日戦犯裁判』(1998年、岩波書店→後に2016年、岩波人文書セレクション)、『BC級戦犯裁判』(2005年、岩波新書) 、『戦犯裁判の研究:戦犯裁判政策の形成から東京裁判・BC級裁判まで』(2009年、勉誠出版
・日暮吉延『東京裁判の国際関係』(2002年、木鐸社)、『東京裁判』(2008年、講談社現代新書
などである。戸谷本、日暮本については筆者は賛同しがたい部分があるとして批判しているので最後に簡単に触れておく。
・筆者は紹介していないが、(そして小生も実は読んでないが)大岡優一郎東京裁判:フランス人判事の無罪論』(2012年、文春新書)も「被告全員無罪」という「結論に限定すれば」インドのパルと同じ結論なのに何故か、パルを称えた「日本ウヨ」が「無視し続けた」フランス判事ベルナールにスポットをあてた面白い研究(?)成果ではないかと思う(著者・大岡はテレビ東京社員でありいわゆる研究者ではないし、大岡本が学問的にどう評価可能かも何とも言えないが)。なお、「何故ウヨが触れないかというと」

http://spinou.exblog.jp/20794074/
 東京裁判アングロサクソンを中心にした多数派の不公正を唱えたフランス人判事アンリ・ベルナールの主張が(ボーガス注:日本ウヨに)看過されてきた背景には彼が天皇の戦争責任を問うべきだったと考えていたことの「不都合」がある。

ということだろう。
・筆者が言うように東京裁判には
A1)戦争犯罪を裁く道筋を初めて作った、と言うプラス面と共に
B1)韓国、台湾に対する植民地支配それ自体は裁かれなかった
B2)原爆投下など連合国の戦争犯罪行為は裁かれなかった
B3)昭和天皇岸信介・東条内閣商工相(戦後、自民党幹事長、石橋*8内閣外相を経て首相)など、旧支配層を戦後統治に利用するため、「いわゆる陸軍悪玉論*9」「天皇平和主義者論」のシナリオが日米合作で作成され、陸軍以外の責任追及があいまいにされた。その上、有罪判決が下ったA級戦犯すら冷戦の進行によるいわゆる逆コースによって「重光葵(東条*10、小磯*11内閣外相、禁錮7年)」が出所後、鳩山内閣外相になったり「賀屋興宣(近衛、東条内閣蔵相、終身禁固)」が「仮釈放され」、自民党政調会長(池田*12総裁時代)、池田内閣法相になったりして政界に復権した(単純に線ではつなげないが、重光や賀屋のようなA級戦犯すら復権したことが、日本の戦争認識を歪め、安倍の首相就任にも当然つながっている)。
 また「細菌戦データ提供とのバーター取引」で731部隊が免罪された。その違法性が当時充分認識されていなかった慰安婦についてはBC級裁判では裁かれたが東京裁判では裁かれなかった(そのことが現在の慰安婦問題に繋がることになる)。
などと言ったマイナス面が存在する点に注意が必要だろう。なお、筆者は程度の差こそアレ*13こうしたマイナス面は、ナチス高官が裁かれたニュルンベルク裁判にも存在したと見なしている(たとえばいわゆる『清廉潔白な国防軍』神話。この神話は日本における「陸軍悪玉論・海軍善玉論」のような物と見ていいだろう)。
 マイナス面を理由にプラス面を否定すること(産経などの立場)も、プラス面を理由にマイナス面を無視することも適切ではないだろう。
 なお,マイナス面について「勝者(連合国)の報復裁判」のような極めて歪んだ見方をし「南京事件否定論」などのデマまで飛ばしているのが勿論産経新聞などの極右である。
・戸谷本、日暮本については筆者は
1)戸谷本*14には東京裁判のマイナス面を軽視し「東京裁判ICCなどに繋がった」と描く一方、逆に日暮本にはプラス面を軽視し「勝者の報復裁判的に理解する傾向が強い」という問題があるとしている。特に日暮本は「産経のようにデマ(南京事件否定論など)は飛ばしてないとは言え」そのスタンスは「裁判否定論に限りなく近い立場(東京裁判結果を『日本の国際社会復帰のためにはやむをえない』として渋々認めた岸信介ら支配層に近い立場)」「そうした自らの立場を正当化するために故意にそうしているのか、東京裁判肯定論をマイナス面を指摘しない政治的な主張であるかのように矮小化して理解している」として批判している。
 私見*15では、日暮が、著書『「文明の裁き」をこえて:対日戦犯裁判読解の試み』(2001年、中公叢書)で第10回山本七平賞*16を受賞した「限りなく裁判意義否定論に近い立場」である「産経文化人・牛村圭」と共著『東京裁判を正しく読む』(2008年、文春新書)を出したことも宇田川氏の「日暮の見解は当人の自己認識はともかく限りなく裁判意義否定論に近い」という指摘の傍証になるかと思う。
 なお、牛村の立場については
■産経『「全て悪という判決」「国際的な議論期待」 東京裁判・日本占領政策国士舘大でシンポ』
http://www.sankei.com/politics/news/141103/plt1411030010-n1.html
を紹介しておく。「極右系」国士舘大主催、産経協力という右翼シンポにシンポジストとして呼ばれ、それを引き受ける牛村の「自己認識」「他者認識(ウヨ連中が牛村をどう認識しているか)」は明白だろう。当然ながらこの種のウヨシンポには東京裁判研究者と世間に見なされていてもウヨ連中が「反日左翼」とみなすような人物、たとえば、粟屋憲太郎氏などは呼ばれないわけである。


参考
Apes! Not Monkeys! はてな別館
■粟屋憲太郎、『東京裁判への道』(上・下)、講談社選書メチエ
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20060813/p1
■「ごぼうを捕虜に食べさせて有罪になったB級戦犯」は都市伝説?
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20060828/p1
 id:Apeman氏のこの記事中で林博史本が紹介されている。なお、■『ゴボウの件、続報』(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20060901/p2)、■『「捕虜とゴボウ」続報』(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20071227/p1)によれば、この話の元ネタはドラマ「私は貝になりたい」らしい。林氏も「主人公のような二等兵が死刑になった例はない」「虚偽をドラマにするなど論外」としてあのドラマには極めて否定的だ。
■『フィリピンBC級戦犯裁判』
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20130811/p1


■Internet Zone:WordPressでBlog生活『粟屋憲太郎「東京裁判への道」』
http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2006/09/25220452/


早稲田大学大学院・早瀬晋三*17の書評ブログ
■『フィリピンと対日戦犯裁判 1945-1953年』永井均(岩波書店)
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2010/03/19451953.html
■『フィリピンBC級戦犯裁判』永井均(講談社選書メチエ)
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2013/05/post_294.html

http://japanese.hix05.com/History/showa/showa040.bc.html
林博史「BC級戦犯裁判」
 第二次大戦後に、日本やドイツなどの敗戦国に対して適用されたいわゆる戦犯三類型のうち、日本人を対象にしたBC級戦犯裁判の実態については、これまで組織的な研究がなされてきたとは言い難かった、と林博史氏はいう。この著作「BC級戦犯裁判」(岩波新書)は、そうした状況に一石を投じるつもりで書いた、と氏はいうのだが、筆者なども、この問題が今後組織的に研究されることを期待している。
(中略)
 BC級戦犯については、(中略)裁判のやり方が一方的で、無実の者の多くが絞首刑になったり、本来責任のあるものが責任を問われず、現場に居合わせた兵士たちが、上官の命令に従っただけなのに、重大な責任を問われて絞首刑になった、といった不満が強かったようだ。
 こんなことから、BC級戦犯裁判問題は、感情的になる要素が強すぎて、客観的な検証が困難だったとは言えよう。だが、感情的になる余りに、この歴史的な問題をきちんと検証しておかなければ、日本人は、ちゃんとした未来を切り開いていけないだろう。
 ところで、BC級戦犯と一言でいうが、実体としては、C級である「人道への罪」が、日本人について裁かれたことはなかった。ナチス・ドイツの場合には、ユダヤ人やロマの組織的虐殺をはじめとして、このカテゴリーがクリティカルになったのとは異なり、日本の場合には、伝統的な戦争犯罪、すなわちB級戦犯がもっぱら裁かれた。
(中略)
 ドイツやイタリアなどヨーロッパの枢軸国を対象にした戦犯裁判では、9万人が裁かれたというが、それはドイツなどに占領された国々が、自国の国内で行われた戦争犯罪を徹底的に追求したことを反映している。それに対して日本の場合には、フィリピンを除いては、占領された国が直接日本を裁くことはなく、イギリス、フランス、オランダといった宗主国が裁いたのであり、それらの宗主国は日本人による植民地人民の被害については、必ずしも同情的ではなかった。
(中略)
 イギリスは、自国兵捕虜の虐待のほかに、植民地住民への虐待も積極的に取り上げた。というのも、イギリスは戦後旧植民地の回復を図るうえで、宗主国としての威厳を保つ意味でも、住民に対して行われた、日本軍による残虐行為を厳しく裁く姿勢をみせる必要があると判断したためだろう、と氏は推測している。
 これに対して、フランスとオランダは、もっぱら自国民への虐待を取り上げて、植民地住民についてのケースには冷淡だった。というのも、戦後ヴェトナムやインドネシアなど、両国の植民地が独立を巡って、宗主国と対立関係に入ったという事情があったからだと氏は推測している。
(中略)
 注目すべきなのは、裁かれた戦犯の中に、朝鮮人(148人、うち死刑23人)と台湾人(173人、うち死刑21人)が含まれていることである。朝鮮と台湾は日本の属国とされ、朝鮮人と台湾人は日本国民とされていた。よって彼らは日本人戦犯として裁かれたわけである。
 しかし日本政府は、敗戦後、朝鮮人らが独立によって日本国籍を失ったという理由で、彼らやその家族への援護を拒否した。その結果、日本人戦犯については、1952年の独立後、減刑や釈放などの方針がとられ、1958年までには、すべての戦犯が釈放されたにもかかわらず、朝鮮人、台湾人の戦犯は、その恩恵に与れなかった。このことについて、氏は次のようにいっている。
「当時は日本人だとして戦争に駆り立てておきながら、戦争が終わると日本人ではないといって援護を拒否し、戦犯としての罪だけは押し付けるという、卑劣としかいいようのない政策をとったのである」
 一人の日本人として、なんとも考えさせられる指摘である。

http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011071703576.html
朝日新聞書評『内海愛子「キムはなぜ裁かれたのか:朝鮮人BC級戦犯の軌跡」(2008年、朝日選書)』
評・赤澤史朗*18立命館大学教授)
 戦後60年以上たつのに、日本の戦争責任の問題は終わっていない。それは日本政府による戦争被害者への補償が、公平さを欠いていたためである。また戦争の被害と加害の問題は入り組んでいて、理解が難しいからでもある。本書は、朝鮮人元BC級戦犯の運命に焦点を当てて、戦争責任の問題を考察したものだ。
(中略)
 収容所の末端の監視員には、朝鮮人などの軍属があてられていた。戦後に戦犯として裁かれた彼らには、捕虜の扱いについての権限が小さいのに虐待の責任を問われたことへの不条理感があった。また本国が独立したのに、過去に日本人であった資格で裁かれることを、納得しかねていた。
 連合国の戦犯裁判の記録と朝鮮人元戦犯の証言とには、食い違いもある。だが著者は両者を付き合わせて事実を究明し、どちらも戦犯裁判の全体像を理解する一部だと位置づけている。
 著者はかつて『朝鮮人BC級戦犯の記録』で朝鮮人戦犯が、日本人戦犯には与えられた補償の支給からは除外される差別を描いた。その状況は今も変わっていない。その後著者は、欧米人捕虜の残酷な被害の実態や、その虐待が日本軍の捕虜政策の構造的な特質に由来していたことを解明してきた。簡潔な記述の中にも、著者が発掘してきた戦争責任問題への多角的な視点が、詰め込まれている好著といえよう。

■清廉潔白な国防軍(ウィキペ参照)
ナチス時代のドイツ国防軍が、第二次世界大戦における戦争犯罪や戦争責任、さらにはホロコースト等の迫害と無関係であったとする言説。国防軍無罪論、国防軍潔白神話などとも訳される。
第二次世界大戦終了後、連合国は当初国防軍にも戦争責任があると考えていた。しかしアメリカのOSS(後のCIA)局長で、ニュルンベルク裁判の次席検察官に任命されていたウィリアム・ドノバン少将は、国防軍を裁くことに反対していた。ドノバンはドイツ国防軍最高司令部(OKW)統帥局次長ヴァルター・ヴァルリモントと接触し、元陸軍参謀総長フランツ・ハルダーの指導によって裁判に関わる戦史の編集を勧めた。
 1945年11月29日、ヴァルリモントとハルダー、そしてヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元陸軍総司令官、エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥は連名で国防軍の活動に関する一通の覚書を提出した。この覚書には国防軍は非政治的な存在であり、戦場における犯罪行為等は親衛隊によってなされたものであるという主張が書かれていた。この覚書が採用され、1946年9月30日には参謀本部とOKWが親衛隊やゲシュタポのような犯罪的組織ではないという判決が下った。ただし、この判決は個人としての国防軍軍人すべてを免責したわけではなく、ニュルンベルク継続裁判等の裁判では、ヴァルリモント*19マンシュタイン*20をはじめとする複数の軍人が戦争犯罪によって有罪とされている。
 この国防軍戦争犯罪に積極的に関与していないという言説は、後にアメリカ軍の戦史研究官となったハルダーの戦史執筆、マンシュタインハインツ・グデーリアンといった将軍達の回顧録出版によって補強され、占領下のドイツ西部(アメリカ・イギリス・フランスの軍政施行地域)全体に広まった。この説は冷戦下で再軍備を急ぐ西ドイツ政府にとっても有利であり、西側諸国全体にも受け入れられていった。1951年1月にはかつての連合軍司令官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥(後に米国大統領)が、戦時中にナチス国防軍を同一視した発言を行ったことを謝罪する書簡を送っている。
 一方で1980年代にはマンフレート・メッサーシュミットら研究者が、国防軍がナチズムの道具として使われていたということをたびたび言及している。
■冷戦終結後の議論
 冷戦が終結してドイツ統一が達成されると、国防軍戦争犯罪に対する研究が活発*21となった。1995年から1999年にかけて、ハンブルク社会問題研究所が「絶滅戦争:国防軍の犯罪・1941〜1944」と題したパネル展を開催した。このパネル展で国防軍が東部戦線においてユダヤ人の組織虐殺を行っていた事、国防軍ヒトラーの道具ではなくパートナーであった事などが主張され、ドイツを二分する激しい論争を引き起こした。
 この時期、ドイツ軍の兵舎に、ナチス・ドイツ期の親ナチス的な将官の名が冠せられていることも問題となった。バイエルンの兵舎の名として冠せられたエデュアルト・ディートルは、1920年代からナチズムの共鳴者であり、葬儀の際にはアドルフ・ヒトラーが「模範的な国民社会主義*22(ナチズム)的将校」と賞賛した事もある人物であった。これを除去すべきであるという野党・同盟90/緑の党と与党・ドイツキリスト教民主同盟との間で激しい論争が起きた。軍および国防省はこうした問題に態度を表明する必要に迫られ、1995年6月5日にパネル展「絶滅戦争:国防軍の犯罪・1941〜1944」について「内容はややラディカルなものの、軍事史研究所(国防省の管轄組織)の研究成果をふまえている」という評価を行っている。また1995年11月にはフォルカー・リューエ国防相が、「国防軍第三帝国の組織として、その頂点において、部隊・兵士とともにナチズムの犯罪に巻き込まれた。それゆえに国防軍は、国家機関として、いかなる伝統も形作ることはできない」と国防軍について批判的な姿勢を示した。
 しかし一方で、保守派はこのような動きに反発した。元首相ヘルムート・シュミット*23国防軍と「ナチス党や親衛隊」を同一視する動きを左翼的急進主義として批判した。政治問題化した情勢を受けて軍はこの論争から距離を取る姿勢を示し、リューエ国防相軍事史研究所職員にパネル展をめぐる議論に参加しないよう通達を出し、パネル展の開催式への出席をキャンセルした。しかしこのような上層部の姿勢に反発し、パネル展を支持する動きも軍内に存在した。
 1997年4月にはドイツ議会において国防軍問題に関する決議を行う動きがあった。同盟90/緑の党は「国防軍は国民社会主義システム*24の支柱の一つであった。国防軍は組織として国民社会主義の犯罪に関与した」という決議案を提出し、ドイツ社会民主党や民主社会党の賛成を得たものの、ドイツキリスト教民主同盟の提出による「ドイツ国防軍への従事者に対するあらゆる一方的・総括的な非難に対して断固として反対する」という決議案が賛成多数で採択された。
 1999年にはパネル展の写真にソ連の内務人民委員部(後のKGB)による殺害写真が混入しているという批判が行われ、第三者委員会による調査が行われた。3ヶ月以上に及ぶ調査の結果、内務人民委員部の殺害写真が混入していることや、連邦公文書館の管理がずさんなため、同一の写真に異なったキャプションがつけられているなどの不正確な点が発見された。ハンブルク社会研究所はパネル展の内容を修正し、2001年から2004年にかけて再度展示が行われている。
 2009年にドイツの歴史家クリスティアン・ハルトマンは、「いわゆる『清廉潔白な』国防軍という神話について、これ以上正体を暴く必要はなくなった。国防軍の罪はあまりにも圧倒的であるために、これ以上の議論はもはや不要である。」と述べている。
■参考文献
守屋純『国防軍潔白神話の生成』(2009年、錦正社

【追記】
 誰がはてブつけてるのかな、と思ったらid:Apeman氏でした。まあ俺の記事が評価されたと言うよりは「歴史評論の宇田川論文紹介の面が大きい」でしょうけど。
 

*1:考えようによって日本の敗戦後、ズットだが。

*2:他の収録論文についてはうまくコメントできそうにないので触れません。

*3:著書『幕藩制国家と東アジア世界』(2009年、吉川弘文館)、『「通訳」たちの幕末維新』(2012年、吉川弘文館)、『長崎奉行の歴史:苦悩する官僚エリート』(2016年、角川選書

*4:著書『昭和の政党』(1988年、小学館→後に2007年、岩波現代文庫)、『東京裁判論』(1989年、大月書店)、『未決の戦争責任』(1994年、柏書房)、『十五年戦争期の政治と社会』(1995年、大月書店)、『現代史発掘』(1996年、大月書店)など

*5:著書『朝鮮人皇軍」兵士たちの戦争』(1991年、岩波ブックレット)、『戦後補償から考える日本とアジア』(2002年、山川出版社日本史リブレット)、『日本軍の捕虜政策』(2005年、青木書店)、『遺骨の戦後:朝鮮人強制動員と日本』(共著、2007年、岩波ブックレット)など

*6:著書『武装SS:ナチスもう一つの暴力装置』(1995年、講談社選書メチエ)、『ヒトラーニュルンベルク第三帝国の光と闇』(2000年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『武装親衛隊とジェノサイド』(2008年、有志舎)、『ホロコーストナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』(2008年、中公新書)など

*7:個人サイト(http://www.geocities.jp/hhhirofumi/)。日本の戦争犯罪研究をライフワークの一つとしている。著書『沖縄戦と民衆』(2001年、大月書店)、『シンガポール華僑粛清:日本軍はシンガポールで何をしたのか』(2007年、高文研)、『沖縄戦・強制された「集団自決」』(2009年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『沖縄戦が問うもの』(2010年、大月書店)、『日本軍「慰安婦」問題の核心』(2015年、花伝社)など

*8:吉田内閣蔵相、鳩山内閣通産相などを経て首相

*9:死刑になったA級戦犯のうち「陸軍軍人でない人間」は外交官の広田弘毅(斎藤、岡田、近衛内閣外相、首相を歴任)だけであり他は「板垣征四郎(近衛内閣・平沼内閣陸軍大臣)」「木村兵太郎(陸軍次官、ビルマ方面軍司令官など歴任)」「土肥原賢二奉天特務機関長、ハルピン特務機関長など歴任)」「東条英機(近衛内閣陸軍大臣を経て首相)」「武藤章陸軍省軍務局長、第14方面軍(フィリピン)参謀長など歴任)」と全て陸軍軍人である。

*10:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、近衛内閣陸軍大臣を経て首相。戦後、東京裁判で死刑判決。後に「昭和殉難者」として靖国に合祀された。

*11:朝鮮軍司令官、朝鮮総督などを経て首相。戦後、東京裁判で終身禁固刑判決を受け、服役中に病死。後に「昭和殉難者」として靖国に合祀された。

*12:吉田、石橋内閣蔵相、岸内閣通産相などを経て首相

*13:まあ普通に考えて日本の方がより問題は深刻でしょう。

*14:ただし筆者が触れているのは戸谷『東京裁判』(2008年、みすず書房)であり、『不確かな正義:BC級戦犯裁判の軌跡』(2015年、岩波書店)についての筆者の理解は不明である。

*15:あくまでも私見であり、宇田川氏の見解ではない

*16:アパ賞や産経正論大賞並みに常人にとってもらいたくない賞。ただし常人はもらいたくてももらえない。アパ賞、産経正論大賞同様、もらうことによって「あの人ってそんなトンデモ極右だったのか」と世間にさげすまれることになる。

*17:著書『戦争の記憶を歩く・東南アジアのいま』(2007年、岩波書店)、『未完のフィリピン革命と植民地化』(2009年、山川出版社世界史リブレット)、『フィリピン近現代史のなかの日本人:植民地社会の形成と移民・商品』(2012年、東京大学出版会)、『マンダラ国家から国民国家へ:東南アジア史のなかの第一次世界大戦』(2012年、人文書院)など

*18:著書『靖国神社』(2005年、岩波書店)、『戦没者合祀と靖国神社』(2015年、吉川弘文館)など

*19:ニュルンベルク継続裁判の一つ国防軍最高司令部裁判で起訴され、1948年10月28日に終身刑判決を受けた。1951年に懲役18年に減刑され、1954年6月には刑務所を釈放された。1976年に死去(ウィキペ「ヴァルター・ヴァルリモント」参照)

*20:保守党党首のウィンストン・チャーチル元首相はマンシュタインを戦犯裁判で裁こうとするイギリス政府の方針を「ドイツの対英感情を悪くする」「政治的にも行政的にも愚行であり、司法的には不法であり、かつ人道的にも軍人精神にも矛盾する」と激しく批判した。このため1948年中にはマンシュタインの裁判に関する決定は何等行われなかった。1949年3月、イギリス政府がマンシュタインの健康状態を調査すると、マンシュタインは裁判に耐えられるという結果が出た。このため5月5日の閣議でハーグ陸戦条約違反と「人道に対する罪」によってマンシュタインを起訴する決定が下された。裁判では「捕虜と住民の強制使用」「住民の強制移送」「捕虜の殺害、親衛隊への引き渡し、パルチザンと政治将校の不当な扱い」「シンフェロポリユダヤ人殺害を承知していた件」について有罪と判定され懲役18年の刑を下した。しかし拘留期間が差し引かれ、12年に減刑された。1951年にはイギリス首相となったチャーチルとコンラート・アデナウアー西ドイツ首相がマンシュタインの釈放について合意し、1953年に健康上の理由として刑期満了前に恩赦され釈放された。その後、彼は新生ドイツ連邦軍の創成に尽力し、西ドイツ政府の国家防衛委員会の顧問を務めた。1955年には回想録『失われた勝利』を出版している。1973年6月10日、脳卒中により死去。葬儀ではドイツ軍の軍人達がリューネブルクの墓地に棺を運んだ。(ウィキペ「エーリッヒ・フォン・マンシュタイン」参照)

*21:この点は日本の研究も同様である。

*22:国家社会主義と呼ばれることが多いが「国民社会主義でも間違いではない」のでウィキペディアの表記に従いました。

*23:ブラント政権で国防相財務相。ブラントが「ギョーム事件(ブラントの私設秘書ギョームが東ドイツスパイと発覚した事件)」によって辞任した後を受けて急遽連邦首相に就任

*24:ナチズムのこと