今日の産経ニュース(12/25分)

■【相模原殺傷】「息子にはちゃんと名前がある」「19人の生きた証し示して」 実名公表に向け遺族の声、聞き取りへ 26日に5カ月
http://www.sankei.com/affairs/news/161225/afr1612250015-n1.html
 それぞれの遺族が名前を出したければ出せばいいし、出したくなければ出さなければいい。それだけの話です。

聞き取り調査を計画したのは、いずれもやまゆり園の元職員、太田顕さん(73)と西角純志さん(51)。
(中略)
 神奈川県警は、殺害された19人の性別と年齢のみを公表。負傷者は男女別の内訳しか明らかにせず、「遺族や家族の意向を尊重した」と理由を説明した。
 西角さんは「(遺族や家族の)沈黙は理解できる」とした上で、「語られないものは、存在しないことと同義。『障害者はいらない』という容疑者の思想を、間接的に肯定してしまうことになりかねない」と訴える。
(中略)
 事件をめぐっては、県警が今月19日、負傷した入居者24人への殺人未遂容疑*1で植松容疑者を追送検した。同日、24人のうち男性2人の氏名を発表。事件の被害者の名前が公になるのは初めてのことだった。
 男性らの家族は産経新聞などの取材に、「息子にはちゃんと名前がある」「名前を出すことでどういう人かが見えてくる」と公表を承諾した理由を明かした。

 余計なお世話ですよね。語りたくないなら語らなくていい。つうか新聞記事でもたまに発言者の名前が「仮名」「匿名」で記事が書かれることがありますがこの件だって仮にマスコミ相手に遺族が語るとしても遺族や被害者の名前は「仮名(山田太郎、松田梅子など)」「匿名」でもいいわけです。実名でなきゃ行けない理由はどこにもない。
 実名なんか出さなくてもいくらでも被害者の個性を描き出すことはできるはずです。

 太田さんも事件の風化が思ったより早く進んでいると感じ、その要因の一つに被害者の匿名があるとみていた。

 実名だってこんなおぞましい事件は風化しますよ。部外者はこんなもんいつまでも覚えていたくないからです。なら実名報道されたオウムサリン事件だの拉致だのは風化してないのか。明らかに風化してるわけです。無理矢理、実名報道とこじつけないで欲しいですね。


■有能な在日外国人、在留1年で永住権 対象の3分の2は中国籍か 政府が規定緩和検討
http://www.sankei.com/politics/news/161225/plt1612250019-n1.html

 法務省によると、平成27年末時点で国内に滞在する対象者は計3840人。国・地域別では中国籍が2497人とダントツで、米国籍の204人、インド籍の177人が続いている。

 「アンチ中国」産経は不快でしょうが日中関係を考えたら「在日外国人優遇」は結局そう言う結果になるわけです。


宗教年鑑の信者数の信頼性は? 真宗大谷派の信者数 320万人から792万人に 算出方法変更で 仏教系教団信者数6位から2位に上昇
http://www.sankei.com/west/news/161225/wst1612250018-n1.html
 非常にインチキ臭いですが、文化庁も「お前それインチキだろ、出し直せ」とは言いづらいでしょう。たぶん他の宗教団体も似たり寄ったりだからです。神社本庁の信者数なんか「自称で9000万(もちろん日本の宗教団体で最大の信者数)」だそうですからね。日本の人口が1億2000万ですから、どう考えても本庁は水増ししてる。
 とはいえ、ここまで無茶苦茶やるとかえって真宗大谷派の評判が落ちるだけだと思うんですけどね。
 それとも世間的には「信者数なんて水増しに決まってるだろ、端から信じてねえよ」の扱いなのか。
 それにしてもこういうときに「一番インチキが酷い神社本庁」をやり玉に挙げない辺りさすが神社本庁のお友達・産経です。


■【ロケ地巡りの旅】映画「人間の証明」 森村誠一氏が訪れた原作の重要なモチーフ 群馬・安中市霧積温泉
http://www.sankei.com/premium/news/161225/prm1612250004-n1.html

1)被害者の言葉「キスミー=キリズミ(群馬県霧積温泉)」「カメダ=カメダケ(島根県亀嵩)」
2)犯人の隠したかった過去が殺人動機

と言う辺りは完全に「人間の証明」は「砂の器」を参考にしてると思います。
 「砂の器」の「亀嵩」が一部の清張ファンにとっていわゆる「聖地」と化してるように、一部の森村ファンにとっては「霧積温泉」も聖地のようです。まあ、群馬なんで東京から割と近い。
 とはいえ群馬には草津温泉伊香保温泉とかもっと有名な温泉がたくさんある。昔は避暑地だったそうですが、結局、軽井沢との戦いに負けてしまう。
 その結果

・明治17年創業の同温泉唯一の旅館「金湯(きんとう)館*2」(産経記事)
・1910年(明治43年)に山津波が発生し、42軒あった温泉旅館が流され、温泉街・別荘は壊滅。きりずみ館・金湯館の2軒の温泉旅館が被害を免れ、営業を続けた。2012年(平成24年)4月、きりずみ館が閉館し、以後は金湯館のみの営業となっている。(ウィキペ「霧積温泉」)

になるわけです。草津伊香保といった有名温泉地では当然ながら「旅館が一軒しかない」なんてことはない。まあいつまで「金湯館」が続くかどうかですね。今後新たに旅館ができることは残念ながらないでしょう。まあこういうひなびた宿も行ってみると結構楽しいかも知れません。ちなみに「峠の釜めし*3」で知られる横川や、アプト式鉄道(今は廃止されましたが)で知られる碓氷峠が確かこの温泉の近くです。

参考

亀嵩駅(ウィキペ参照)
 島根県仁多郡奥出雲町にある西日本旅客鉄道JR西日本木次線の駅。松本清張原作の映画『砂の器』で一躍有名になり、この駅付近の温泉には多くの観光客が訪れる。


■【入門・日米戦争どっちが悪い(4)】満州を狙い日本に嫌がらせした米国 支那事変拡大にコミンテルンの影
http://www.sankei.com/premium/news/161221/prm1612210010-n1.html

 周辺ではわが国に対する挑発が相次ぎ、日本人260人が虐殺される通州事件も起きました。
 それでも現地の軍は不拡大を目指しましたが、最初の和平案が話し合われる日に、遠く離れた上海で大山勇夫海軍中尉が惨殺される大山中尉殺害事件が起きた上、日本人が住む地域を守っていた海軍陸戦隊を国民政府軍が攻撃したこと*4から、わが国は全面的な戦いに引きずり込まれました(支那事変、日中戦争)。
(中略)
 張治中*5は回想録で、共産党入党を周恩来に申し出たが、国民党の中にとどまってひそかに共産党と合作してほしいと要請された−と書いています。張はわが国を挑発して戦いに引きずり込む工作をしたのです。

 これについては張の主張「1945年の日中戦争終了前から実は中国共産党シンパだった」を裏付ける証拠が彼の回想録以外に何もないため「信憑性が怪しい、嘘ではないか」と見るのが通説です。
 張は国共内戦時には大陸にとどまったため「実は僕、中国共産党が勝ち馬になってから、中国共産党に投降したんじゃなくて、蒋介石が羽振りがよいときから中国共産党シンパだったんだ。でも周恩来が『当面、国民党にいろよ』つうから隠してた。」と「回想録で嘘をつく動機」があるわけです。
 いずれにせよ「大山中尉事件」についてはhttp://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/choujichuu.htmlやウィキペ「大山事件」によれば「背後関係がある何らかの政治的陰謀なのか、ただの個人によるテロなのか」「個人によるテロとしてそれは政治性のある抗日テロなのか、それとも政治性のない、大山に対する個人的恨みか」「政治的陰謀だとして誰が何の目的でやったのか」今も真相は不明です(張が関与したとする根拠などないし、張も回想録で「中国共産党の命令で自分がやった」なんて書いてない)。
 第二次上海事変には張は現場司令官として関与していますが、この事件は蒋介石の命令によるものであり、張は蒋介石の命令に従っただけです。蒋介石に日本軍攻撃を進言したのも張ではなく「ドイツからの軍事顧問ファルケンハウゼン」です(ウィキペ「第二次上海事変」参照)。「ファンケルハウゼン・中国共産党スパイ説*6」ならまだしも第二次上海事変を理由に張をスパイ呼ばわりすることは到底無理です。

 砕氷船理論という言葉があります。ソ連がわが国を「砕氷船」にして国民政府軍と戦わせ、氷がなくなると、漁夫の利としてその地域を共産主義陣営にいただく−という戦略のことです。

 それ単なる結果論に過ぎませんが。トラウトマン和平工作などで分かるように日本が戦争を止めようと思えばいつでも止められました(実際には『蒋介石完全打倒による中国完全植民地化』などという蒋介石が絶対に飲めない方針を立てたため和平ができませんが)。
 大体スターリンが当初国共内戦での国民党勝利を予想し、「毛沢東共産党に冷淡だったこと」が後の中ソ対立の遠因になったことは有名な話ですし。

 「国民政府を対手とせず」という声明で交渉の道を閉ざして支那事変を泥沼化させ、わが国に統制経済(つまり社会主義経済)を導入*7した首相の近衛文麿*8は、コミンテルンの影響を受けていました。

 近衛声明で戦争が泥沼化し、中国共産党に恐らく有利に働いた、てそれ結果論でしかありませんが。近衛首相ら、政府首脳は「蒋介石は調子こいてるんじゃねえよ。お前がふざけたこと抜かしてるなら和平交渉なんかしねえよ。日本軍で軍事攻撃して政権崩壊させるだけなんだ。お前なんか相手にするか」と言えばすぐに蒋介石が「お願いです、交渉して下さい」と泣きついてくる、蒋介石の政権基盤は弱いと思ったからこうしたわけです。
 救う会が「制裁すればすぐに金正日が泣きついてくる、制裁した方が拉致が解決する」と言ったのとほとんど話は同じです(救う会の場合、泣きつきなんか実際は期待してないところが近衛とは違いますが)。
 そしてそうした「蒋介石の泣きつき」を助長するために「いわゆる汪兆銘工作」を日本は仕掛けます。
 もちろん近衛首相以外の広田弘毅*9外相、杉山元*10陸軍大臣、米内光政*11海軍大臣なども事情はともかく声明には賛成した。声明の責任は当然近衛一人の責任ではない。
 しかしこうした日本の読みは完全に外れ、「とは言え今さら交渉論にシフトすることも困難で」戦争は泥沼化していきます。まあ「ベトナム戦争泥沼化(米国)」「アフガン戦争泥沼化(ソ連)」など戦争泥沼化は古今東西珍しくありませんが。
 しかし産経の文は「近衛はコミンテルンの手先だった!」としか読めませんが「五摂家*12筆頭」「首相、貴族院議長経験者」の近衛がソ連スパイって正気なんでしょうか。産経とは言えまさか全国紙にここまで酷いデマが載るとは。


参考

■『砕氷船: 誰が第二次世界大戦を始めたか?』(ウィキペ参照)
 イギリス在住のロシア人作家ヴィクトル・スヴォーロフが1990年に出版した著書。第二次世界大戦はヨーロッパの労働者階級を「解放」するためのソ連共産党書記長スターリンの策略の結果として始まったと主張している。彼の主張によるとソ連は、ナチスが支配する地域へ1941年7月に侵攻する準備ができていた。ただしスヴォーロフの見解は、歴史家の多数に全く支持されてはいない。

砕氷船理論(ウィキペ参照)
 ソ連共産党書記長スターリンが実行したと一部の論者が主張している戦略。第二次世界大戦におけるドイツと日本の侵略を「砕氷船」として利用し、その対象となって疲弊した地域を共産主義陣営に取り込む戦略のこと。近年では、在野の歴史研究家杉本幹夫*13が「興亜院政務部・コミンテルン関係一括資料」(国会図書館所蔵)中の怪文書をもとに第七回コミンテルン大会でスターリンが次のような演説を行ったと主張している。

 ドイツと日本を暴走させよ!しかし、その矛先を祖国ロシアに向けさせてはならぬ。ドイツの矛先はフランスと英国へ、日本の矛先は蒋介石の中国へ向けさせよ。そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。日、独の敗北は必至である。そこで、ドイツと日本が荒らしまわって荒廃した地域、つまり、日独砕氷船が割って歩いた後と、疲弊した日・独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ。

 ただし、これまでのところ、実際にこのようなスターリンの演説があったという、確実な史料に基づいた確認はされていない。

*1:裁判が長引きかねないし「殺人だけで重刑は確実(仮に今後、死刑が廃止されても終身刑)」なんですが送検しないと「殺人未遂は大した事じゃないというのか!」つう人がいるんでしょうね。

*2:公式サイト(http://www.kirizumikintokan.com/

*3:公式サイト(http://www.oginoya.co.jp/

*4:いわゆる第二次上海事変のこと

*5:日中戦争時に湖南省政府主席、軍事委員会政治部長、新疆省政府主席など歴任。1949年1月、代理総統李宗仁(注:蒋介石と対立していたせいか、後に台湾ではなく米国に亡命)の指示により、国民党側の和平交渉代表団団長となり、北平(今の北京)で共産党との和平交渉を行ったが、失敗。張は、そのまま北平に留まり、共産党政権への参加意思を示した。1949年10月の新中国建国後は、西北行政委員会副主席、全国人民代表大会常務委員会副委員長、国防委員会副主席、中国人民政治協商会議全国委員会常務委員、中国国民党革命委員会(民革)中央副主席などを歴任。

*6:まあそれだってありえませんが

*7:統制経済導入が社会主義の証なら「満州統制経済を推進した岸信介」も社会主義者になってしまうし、「統制経済をやっていたナチスドイツ」も社会主義者になってしまいます。

*8:戦後、A級戦犯指定を苦にして自殺。

*9:斎藤、岡田、近衛内閣で外相。戦後、A級戦犯として死刑判決

*10:林、近衛、小磯内閣で陸軍大臣。太平洋戦争開戦時の参謀総長。1945年9月に自殺。なお、ウィキペ「杉山元」によれば『「もし日米開戦となった場合、どのくらいで作戦を完遂する見込みか?」と昭和天皇に問われた杉山は「3ヶ月で作戦を終了する見込み」と楽観的回答をする。これに対して天皇は「汝は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき事変は2ヶ月程度で片付くと私にむかって申したのに、支那事変は4年たった今になっても終わっていない」と語気荒く問いつめた。答えに窮した杉山が「支那は奥地が広うございまして、予定通り作戦がいかなかった」と言い訳すると、天皇は「支那の奥地が広いというなら(日米戦争の戦場が予定される)太平洋はもっと広いではないか。いったいいかなる成算があって3ヵ月と言うのか?」と一喝し、杉山は言葉を失ったという。』

*11:林、近衛、平沼、小磯、鈴木内閣で海軍大臣

*12:近衛家九条家二条家一条家鷹司家

*13:日本セメント埼玉工場長、日本イトン工業(日本セメントの子会社)技師長を歴任。著書『「植民地朝鮮」の研究:日本支配36年、謝罪するいわれはない』(2002年、展転社)、『大東亜戦争ルーズベルトの錯覚から始まった(改訂増補版)』(2013年、展転社)など