新刊紹介:「前衛」12月号

「前衛」12月号の全体の内容については以下のサイトを参照ください。「興味のある内容」のうち「俺なりになんとか紹介できそうな内容」だけ簡単に触れます。
 http://www.jcp.or.jp/web_book/cat458/cat/
北朝鮮問題と日本の安全保障(山根隆志*1
(内容紹介)
 赤旗の記事紹介で代替。

赤旗
北朝鮮危機:「無条件の対話で解決を」、井上議員が主張、テレ朝系番組
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-10-01/2017100104_03_1.html
■主張『北核・ミサイル問題:対話による平和的な解決こそ』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-10-02/2017100201_05_1.html
北朝鮮問題、軍事衝突避け 対話で解決を、圧力一辺倒でいいのか 閉会中審査で 井上・赤嶺議員
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-08-31/2017083101_01_1.html
■日本政府は対応の根本的見直しを、「対話による平和解決」 中韓両首脳の表明は重要、北朝鮮問題 志位委員長が会見
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-11-10/2017111001_01_1.html


特集『介護保険法成立から20年:続く制度改悪、改善は急務』
介護保険連続改悪ストップ、草の根から改善の運動を(梅津邦夫)
■介護“崩壊”と介護労働者の未来(岩橋祐治)
(内容紹介)
 赤旗の記事紹介で代替。

赤旗
介護保険報酬改定審議資料、実態調べず数字も異なる、財務省主査 本紙指摘に“訂正したい”
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-20/2017092001_03_1.html
■事実と異なる資料撤回を、介護報酬改定議論 倉林議員が批判
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-21/2017092102_03_1.html
■主張『医療・介護報酬改定:「カットありき」で制度崩すな』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-10-26/2017102601_05_1.html


■「無害化」を撤回し豊洲市場への移転推進に舵をきった小池知事(尾崎あや子)
(内容紹介)
 赤旗の記事紹介で代替。

赤旗
豊洲移転、「無害化」約束破るのか、曽根都議質問 小池知事答えられず
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-08-31/2017083101_04_1.html
■主張『築地市場移転問題:「豊洲ありき」の強行許されぬ』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-03/2017090301_05_1.html
豊洲移転に道理なし、共産党都議団 大山幹事長が談話
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-06/2017090604_01_1.html
豊洲「無害化」放棄 業者合意ない移転、都が答弁不能、都議会委 共産あぜ上氏追及
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-05/2017090504_01_1.html
■高濃度汚染に口つぐみ豊洲移転は許されない、日本共産党都議団 大山幹事長が批判
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-22/2017092205_02_1.html
小池都知事は無責任、築地女将さん会が再度要請書、8月の質問状に回答なし
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-10-05/2017100517_01_1.html
■「都のやり方ひどい」、豊洲 来年10月移転合意、都と業界団体 汚染状態続く中 強行
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-11-07/2017110715_01_1.html
■「私たちの声聞いて」、豊洲 来年10月移転合意に市場関係者
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-11-07/2017110715_02_1.html
豊洲新市場、アセス条例違反、都認める、都議会委 原田都議が追及
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-11-08/2017110815_01_1.html
■「現状では受け入れ困難」、豊洲新市場 江東区議会議長が表明
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-11-10/2017111015_02_1.html


小池都知事朝鮮人虐殺追悼文取りやめと虐殺否定論(加藤直樹*2
(内容紹介)
 赤旗などの記事紹介で代替。

赤旗
朝鮮人虐殺 事実見ず、追悼文中止、都知事に式典実行委が抗議
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-08-27/2017082701_04_1.html
関東大震災時の朝鮮人虐殺、追悼文 速やかに送付を、共産党都議団 小池知事に要請
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-08-30/2017083001_02_1.html
朝鮮人虐殺 追悼の式典、関東大震災94年 都知事の対応批判
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-02/2017090201_08_1.html
朝鮮新報
■虐殺の史実隠蔽の動き許さない/表現者・研究者21人が、小池都知事に抗議声明
http://chosonsinbo.com/jp/2017/09/0915ib/
■「メチャクチャな虐殺否定論」/小池都知事の追悼文取り消しや発言
http://chosonsinbo.com/jp/2017/10/1005ib/
■アジアプレスネットワーク『朝鮮人追悼式典への追悼文送付を取りやめた小池都知事の誤り』(加藤直樹
http://www.asiapress.org/apn/author/japan/post-55146/
■ウェブ論座小池都知事朝鮮人犠牲者追悼文取りやめの深刻さ:虐殺を隠蔽し、否定したい人々には十分なメッセージ』加藤直樹
http://webronza.asahi.com/culture/articles/2017092000003.html


特集『南京事件80年 戦争と侵略の体験』
南京事件八〇周年国際シンポジウムに参加して:中国における南京事件研究の進展(笠原十九司*3
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

http://www.kiron21.org/pickup.php?80-80-56
■季論21『盧溝橋事件80年・南京事件80年にあたり海軍の日中戦争責任を問う』笠原十九司
 二〇一七年の今年は、盧溝橋事件の発生から八〇年目にあたる。
(中略)
 二〇年ほど前になるが、拙著『日中全面戦争と海軍―パナイ号事件の真相』(青木書店)において日中戦争を全面化したのは海軍であることを明らかにした。そして五年前になるが、大山事件は海軍が仕掛けた謀略であることを日本の歴史研究において初めてと思われるが明らかにした。
 さらに二年前に拙著『海軍の日中戦争―アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』(平凡社)において、「陸軍が対米戦争へ海軍を引きずっていった」のではなく、逆に「海軍が無謀なアジア太平洋戦争へ陸軍を引きずっていった」ことを「アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ」というサブタイトルをつけて明らかにした。そして今年の七月、拙著『日中戦争全史(上・下)』(高文研)を上梓し、「前史」「前夜」から記述して一九四五年九月*4の日本の降伏にいたる日中戦争の全史を描いたなかで、海軍が日中戦争の開始と拡大さらにその延長としてアジア太平洋戦争への突入を主導したことを明らかにした。
 しかし、日本社会において、戦前から海軍は陸軍に比べてスマートで「国際的・開明的」であるというイメージがあったうえに、敗戦直後の東京裁判にたいして海軍が組織的におこなった海軍首脳の免責工作*5において、「海軍は陸軍に引きずられて太平洋戦争へ突入した」のであり、海軍は本来「平和的・開明的・国際的」であったという「海軍善玉」イメージが海軍関係者から意図的に流布・宣伝され、さらに書物や映画・テレビ・ラジオその他のメディアにおいても「海軍の反戦トリオ*6」と銘打った山本五十六*7・米内光政*8・井上成美*9などの英雄美談が繰り返し流布され、それらが効果をおさめて日本国民に浸透し、戦後の日本国民の海軍イメージとして定着してしまった感がある。
 そのため、侵略戦争であった日中戦争において、海軍が果たした主導的な役割の解明と責任の追及は、日本の歴史学界においても等閑に付されたままである。こうした日本国民の日中戦争認識にたいして、筆者は二〇年余にわたって海軍の役割と責任を追及してきたが、歴史研究者の間では筆者だけの「孤独な闘い*10」になっているのが現実である。
 本稿は、筆者のこれまでの研究に基づいて、タイトルのように、盧溝橋事件八〇年、南京事件八〇年にあたって、海軍が盧溝橋事件の前に陸軍に先駆けて日中戦争発動態勢をとっていた歴史事実と盧溝橋事件に始まった「北支事変」を謀略による「大山事件」を仕掛けて「日支事変」と一挙に全面戦争にしたのが海軍であり、また南京事件を引き起こした陸軍の南京攻略戦に先鞭をつけたのが海軍航空隊の南京爆撃であったこと、さらに日本軍の南京占領直後に海軍機がアメリカ砲艦パナイ号を撃沈し、後に「真珠湾攻撃への序曲」とアメリカ国民に想起されるようになった歴史事実を紹介し、侵略戦争であった日中戦争の緒戦において海軍が果たした戦争責任を追及してみたい。

 「南京事件とは直接関係ない」ですが、笠原氏の「海軍善玉論」と言うデマへの強い怒りは俺も共感しますね。
 まあ海軍が批判される場合でも「山本五十六・米内光政・井上成美(反東条英機東京裁判で訴追されず*11)」は美化され、「嶋田繁太郎永野修身(親東条英機東京裁判で有罪判決)」「大西瀧治郎(特攻の父)」ばかりがやり玉に挙げられることが多いわけですが、そういうのは全く間違ってると思いますね。
 なお、笠原氏が海軍の謀略と批判する「大山事件」については以下の記事も紹介しておきます。

http://scopedog.hatenablog.com/entry/20140812/1407850756
■誰かの妄想・はてなブログ版『大山事件と第二次上海事変の背景・2』
 大山事件は、日本海軍陸戦隊西部派遣隊隊長の大山勇夫中尉が虹橋飛行場前で中国軍に銃撃され殺害された事件です。しかし、この事件は色々不思議なところがあります。最も大きな疑問は、大山中尉は当時どこに行くつもりだったのか、という点です。
 事件当時の上海は緊張状態にあり、中国側保安隊による検問や陣地構築などが為されていました。そのような状況下に日本海軍将校が、市街地から外れた中国側の軍用飛行場まで何しに行ったのか、その点に大きな疑問があります。
(中略)
 大山中尉の真の目的は、虹橋飛行場の偵察というスパイ行為だったと考える以外に説明がつきません。
(中略)
 日本側が大山事件の残虐性を誇張する際によく利用される話ですが、大山中尉・斉藤一水ともに「身ぐるみ全部掠奪されている」と書かれており、軍服を着用していないことがわかります。これは別の記事と並べるとかなり不思議です。日本側は、大山中尉は軍服を着用していたと主張している一方で、死体は軍服を着用していないのです。死体が軍服を着用していないのなら「同中尉は軍服であったこと」などわからないはずです。
 ロイター電にあるイギリス人の証言、1934年の中島少佐の前例を踏まえると、そもそも大山中尉は事件当時軍服を着用しておらず、民間人に偽装していたため、殺害された後の死体も軍服を着ていなかった、と整合的に推定できます。日本の軍人が民間人に偽装して中国の軍事施設を偵察し、その際に中国兵に射殺されたのであれば、非はむしろ日本側にあります。それを否定するために日本側は「身ぐるみ全部掠奪されている」ことにして、「同中尉は軍服であった」と主張した、と考えるとつじつまが合います。

http://scopedog.hatenablog.com/entry/2017/08/09/233000
■誰かの妄想・はてなブログ版『大山事件(虹橋飛行場事件・大山勇夫海軍中尉遭難事件)から80年』
 虹橋飛行場前という事件の発生した場所がまず中国側の計画性を否定しています。
・虹橋飛行場は中国の軍専用飛行場
・虹橋飛行場周辺に日本関連施設はない
・1934年に虹橋飛行場を偵察しようとした日本海軍将校も自動車での接近は検問で制止されていた
・1937年8月9日当時、既に華北で日中両軍の戦闘が勃発し上海市内も厳戒態勢にあった
 上記の事情から、事件現場である虹橋飛行場前は、日本軍将校が何の気なしに自動車で接近できるような状態ではなかったことは明白です。当然、普通なら日本軍将校を乗せた自動車が来るはずのない場所で、中国軍が待ち伏せをするなんてことはありえません。
 私個人の考察としては、日本海軍が予測される上海方面での作戦行動に際し、上海方面の中国軍航空部隊の展開状況を偵察するために大山中尉を派遣し、偵察中の日本軍将校と警備中の中国兵が衝突した、というのが大山事件の実態であろうという認識です。
 実は笠原教授も大山事件を日本海軍の謀略と捉えた論考を「海軍の日中戦争: アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ」で示しています*1。
 笠原教授は大山事件を(ボーガス注:戦争の口実を作るための)戦死前提での自殺攻撃だとみなしており、それを示唆する資料を数多く論拠として挙げています。納得できる部分もありますが、個人的にはやはり戦死は覚悟の上だが前提ではなく、あくまでも極めてリスクの高い偵察行為だったのではないかと考えています*2。

https://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20170908/Recordchina_20170908073.html
■「南京大虐殺及び日本戦争犯罪」シンポジウムが南京で開催、日本からも参加―中国メディア
 2017年9月7日、中国江蘇省南京市*12で、「南京大虐殺及び日本戦争犯罪」国際学術シンポジウムが開催された。中国新聞網が伝えた。
 今年は南京事件から80年となる節目の年だ。シンポジウムには日本や米国など中国内外の研究機関、博物館などから80人を超える専門家が出席。会場では南京事件や難民救助、日本による中国侵略史、慰安婦問題などについてさまざまな角度から意見が交わされ、南京大虐殺記念館の張建軍(ジャン・ジエンジュン)館長は「侵華日軍南京大虐殺史研究会などに委託し、近年は高等教育機関や社会科学院と積極的に交流を進めている。シンクタンクの研究や民間交流を生かして中日関係の発展・改善のための提言を行っていきたい」と発言した。
 記事によると、日本からは歴史学者笠原十九司氏や、南京大虐殺記念館に多くの史料を寄贈してきた大東仁氏*13らが出席している。

http://j.people.com.cn/n3/2017/0911/c94474-9267261.html
■人民日報中日韓の専門家「日本右翼の南京大虐殺否認に強く警戒すべき」
 「第16回歴史認識と東アジア平和フォーラム」が9日に南京で行われ、中日韓の歴史学の専門家110人余りが参加した。参加者は日本右翼の南京大虐殺否認に強い警戒を呼びかけた。中国新聞網が伝えた。
 中国人民抗日戦争ならびに世界反ファシズム戦争の勝利から今年で72年になる。72年前の9月9日、中国戦区日本軍投降調印式が南京で行われた。今年は南京大虐殺発生80周年でもある。15年を経て、今年再び南京で「歴史認識と東アジア平和フォーラム」が開かれた。
 「歴史認識と東アジア平和フォーラム」は中日韓の学者と民間人が2002年に発起。第1回フォーラムは南京で開催し、その後毎年3カ国の持ち回りで開催してきた。東アジア3カ国の近現代史と現実的問題について討論することで、歴史問題と現実的問題における3カ国民間の相互理解と意思疎通を促進するとともに、東アジアの平和維持という共通認識を形成することを目指している。
 中国社会科学院近代史研究所の王建郎所長は「遺憾なことに、今日もなお一部日本右翼勢力が頑なに誤った歴史観を堅持し、南京大虐殺の歴史を公然と否認し、さらには侵略の犯罪行為を飾り立て、美化すべく全力を傾注するのをわれわれは見ている。このため日本軍国主義の策動した侵略戦争がアジアの国々と人々にもたらした深い傷口はいまなお完全にふさがっていない。これは全ての平和を愛する人々が強く警戒し、断固反対すべきものだ」と指摘した。
 日本「子どもと教科書全国ネット21」の俵義文*14事務局長は「日本に歴史修正主義的動向がある。その認識は今も深まっている。日本右翼は日本の侵略戦争を否認するだけでなく、日本軍『慰安婦』及び南京大虐殺など事実の存在も繰り返し否定している」との考えを示した。
 韓国「アジアの平和と歴史教育連帯」の安秉佑常任共同代表は「15年前、南京大虐殺遭難同胞記念館(南京大虐殺記念館)を初めて見学した時に受けた衝撃を今なおありありと覚えている。だが日本右翼は今なお南京大虐殺史を認めない」と述べた。
 中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞記念館(南京大虐殺記念館)の張建軍館長は「南京大虐殺の歴史はすでに『世界記憶』となっており、正しい歴史認識の構築が当面の急務だ」との認識を示した。
 王氏は「歴史問題は東アジア各国が戦後の全面和解を実現するうえでの主要な障害の1つだ。障害を一掃し、東アジアの平和を探るには、中日韓3カ国の共同の努力が必要だ」と表明した。

http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2014-12/24/content_660707.htm
■人民中国『南京を助け、日本を助ける住職』
 この10年、真宗大谷派円光寺住職の大東仁さんは侵華日本軍南京大虐殺殉難同胞記念館(江蘇省南京市)のために1700点余りの資料を収集し、大部分を無償で寄贈してきた。このため日本の右翼勢力からは「裏切り者」とののしられているが、彼は全く動じていない。大東さんは「私がこの活動を続けているのは歴史の本当の姿を取り戻すためだ。これは中国と南京を助ける行為であり、日本を助ける行為でもある」と率直に語る。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-02-13/ftp20080213faq12_01_0.html
赤旗『70年ぶり名誉回復された反戦僧侶、竹中彰元とは?』
〈問い〉
 真宗大谷派が昨年秋に名誉回復をはかった竹中彰元とはどんな人だったのですか? 当時、竹中氏のような反戦を主張した僧侶はほかにもいたのですか?(愛知・一読者)
〈答え〉
 昨年(07年)10月19日、彰元が住職を勤めていた岐阜県真宗大谷派明泉寺で竹中彰元師復権顕彰大会が開かれ、1937年秋に「戦争は罪悪」と主張し、禁固刑をうけた彰元にたいして、宗門が布教使資格を剥奪(はくだつ)し、僧侶身分を最下位としたことを正式に謝罪し、宗務総長が「宗派が犯した大きな過ち」という声明を発表しました。改憲反対の態度を表明している同派の大垣教区は「『平和憲法』を改編しようという動きが急であります。このような状況のなかでこそ、我々は、師の名誉を回復し、復権・顕彰していかなければなりません」と決議しています。
 彰元師略年表によれば、(中略)日本の中国侵略が全面戦争化した1937年、彰元69歳のとき、9月15日の出征兵士見送りのさい、次いで10月10日の近隣寺院での法要のさいに「このたびの事変について、自分は侵略のように考える」、「戦争はたくさんの彼我の人命を損し悲惨の極みであり罪悪である」と話しました。この言動によって逮捕され、陸軍刑法の流言飛語罪で禁固4月の刑をうけました(この裁判中に南京大虐殺が起こっています)。勾留中に面会者にたいして彰元は「私はあくまで真の仏教の精神で言っている、決して頭を下げる気持ちはない」と言い、この態度をつらぬき、終戦の年の10月21日に77歳で没しました。死の直前、「戦争に負けておじいさんの言うとおりになったね」という孫ににっこりうなずいたということです。
 当時の内務省警保局は、諸宗教のほとんど全部が教義教理中に反国体思想の素因を内包している、と宗教者を取り締まりました。キリスト教諸系統、各種新興宗教や新興仏教青年同盟への弾圧が知られていますが、伝統仏教僧侶では、三重県真宗大谷派三宝寺住職・植木徹誠*15、東京の法華宗僧侶・猪股秀道、名古屋市天台宗観音寺住職・日置即全、東京の日蓮正宗僧侶・藤本秀之助、豊橋市真宗大谷派淨園寺住職・藤井静宣、名古屋市真言宗系僧侶・山本妙善、鹿児島県の臨済宗僧侶・三浦聖典などが反軍的反政府的言動によって逮捕、送検されています。

■高木顕明(たかぎ けんみょう、1864年6月24日(元治元年5月21日)〜1914年(大正3年)6月24日:ウィキペ参照)
真宗大谷派の僧侶。幸徳事件(大逆事件)の被告の一人。
・1910年(明治43年)、幸徳秋水の談話会を住職を務める浄泉寺で開催したことから大逆事件の被告として起訴される。当初、死刑判決に処されたが、後に無期懲役減刑された。1910年(明治43年)、真宗大谷派から除籍(僧籍削除)の処分を付された。この時の処分は家族にも及び、一家が寺から退去させられる重いものであった。1914年、秋田刑務所で服役中に自殺。享年50歳。死後85年を経た1996年(平成8年)4月1日、真宗大谷派から僧籍復帰の名誉回復がなされた。現在、新宮市内に顕彰碑が建つ。

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/163051
沖縄タイムス『安倍首相は中国・南京訪問を 「大虐殺」80年で記念館長』
 中国江蘇省南京市にある南京大虐殺記念館の張建軍館長(49)が28日までに、共同通信と同館で会見し「日本の現職首相が一人も記念館に来ていないのは奇妙だ」と述べ、中国人大量殺害などの悲劇を生んだ旧日本軍の南京占領から12月で80年を迎えるのを機に、安倍晋三首相に南京訪問を促した。


■インタビュー『「戦場体験」を受け継ぐとはどういうことか』(遠藤美幸*16
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

http://www.sankei.com/west/news/150814/wst1508140093-n1.html
■産経【戦後70年】「戦場知る責任は全ての日本人にある」…玉砕戦・拉孟作戦の証言集める遠藤美幸さん
 昭和19年にビルマ(現ミャンマー)国境に近い中国・雲南省で1300人の日本軍が4万人の中国軍に包囲され全滅した拉孟(らもう)作戦。大学非常勤講師、遠藤美幸さん(52)=東京都中野区=が生き残りの将兵らを捜し出し、全滅戦の全容を本にまとめた。「戦争のない未来のため、今こそ戦場で何があったのかを知ってほしい」と願う。
(中略)
 過酷な戦闘が、心に傷を残していた。「戦死した将校の遺族に報告をせよ」との上官の命を受け、全滅直前に陣地を脱出した元中尉は、「生き残って申し訳ない」と悔やみ続けていた。
 「脱走の途中、出くわした女性兵士らを斬殺した」。
 涙を流しながら告白した元上等兵もいた。
 作戦を立案し、遂行した元参謀に「当時、作戦は成功すると思っていましたか」と思い切って尋ねると、元参謀は苦笑いしながら自嘲気味に答えた。
「成功するなんて誰も思っていなかった。負け戦になると分かっていても、戦を止めることはできなかった」
 日常とかけ離れた戦場の事実に、耐え切れなくなることもしばしばだった。それでも、「子供たちの未来に戦争があってほしくない」という母親としての思いが背中を押した。
 足かけ約12年。聞き取りを行った証言者は30人以上にのぼる。昨年11月、「『戦場体験』を受け継ぐということ」(高文研)を出版した。
 「よく残してくれた。ありがとう」。
 元将兵や遺族らの言葉が、何よりもうれしかった。
 「戦場体験に耳を傾け、それを知る責任は全ての日本人にある。その上で、どんな未来を選択するかを考えなければならない」
 証言を集める活動は、まだ続ける。聞き取った元将兵らの大半が、この数年間で亡くなった。残された時間との闘いは続く。
■拉孟作戦
 連合軍が中国軍に支援物資を送る輸送ルートを遮断する目的で、中国・雲南省の拉孟で行われた旧日本軍の作戦。昭和19年6月に戦闘が始まり、約1300人の守備隊が、米軍の支援を受けた中国軍約4万人に包囲され、同年9月に玉砕した。内陸部での数少ない玉砕戦の一つ。

http://chosonsinbo.com/jp/2014/11/1120ib/
■朝鮮新報『「戦場体験」を受け継ぐということ/著者・遠藤美幸さんに聞く』
 拉孟戦の研究は、遠藤さんにとって辛すぎる事実を直視しなければならなかった。兵士たちの証言には、朝鮮・南浦出身の元「慰安婦」朴永心さんらも含まれていた。共に死線を潜り抜けた彼女たちを、懐かしさを込めて「戦友」と呼ぶ人もいたと言う。しかし、遠藤さんはきっぱりと話す。
「戦場を共にしたとは言え、彼女たちとの関係を美化することはできない。彼女たちの存在理由は、将兵の性欲のはけ口以外の何ものでもなく、女性たちの恥辱と恨は心身から生涯消えることはなかったからだ」と。
 そして、日本では「慰安婦」問題はなかったとか、「強制連行はなかった」との言説が台頭しているが、「一昨年、拉孟戦跡の旅をして言えることは、海抜2000mのあの険しい山道を踏み越えて、誰が好きで行く人がいただろうか、ということ。日本軍のトラックで女性たちが連行されたわけだから関与していない、とはいえない」と。
「拉孟陣地のあった山奥は今でも女性が赴くには辛い場所。トイレもなく、私は成人用のオムツを装着して行った。あそこは70年前、死しかないところだった。激しい空爆の中で、死の淵にあった『慰安婦』にさせられた女性たちの気持ちを思うと…。私には22歳の娘がいる。その娘よりももっと幼い少女たちもいたはず。それを思うと、耐えられない。たまらなくなる」
 そう語り涙をぬぐう遠藤さん。娘を思う普通の生活者の視点で、拉孟戦の悲劇を余すことなく書き上げた。だからこそ、子育て中の女性読者から届く「家事そっちのけで一気に読めた。分かりやすく書かれていてよかった」との反響がうれしい。
「安倍政権になって、戦争の影がヒタヒタと近づいてくる気がしている。子どもたちの未来に、戦争に繋がる芽を残してはいけないと切に思うようになった。命を産み育てている母親の非戦への思いは、凄惨な『戦場体験』を知ることでより確固となった」

 まあ「産経ではいつものこと」ではありますが、同一人物(遠藤美幸氏)へのインタビューでありながら、産経と朝鮮新報の「内容の違い(安倍批判の有無や、河野談話否定論への批判の有無)」が興味深いですね。
 いつもながら産経も「何を考えているかが、本当にわかりやすいウヨ新聞」です。どう見ても遠藤本には「慰安婦関係記述がある」でしょうに、そこは故意に記事にしないわけです。
 ただ「拉孟戦の研究」それ自体が少ないので、遠藤本を無視したり「慰安婦デマが云々」と誹謗したりするわけにもいかないのでしょう。
 もちろん、前衛インタビューは「あえて言えば」朝鮮新報に近いわけです。

https://ameblo.jp/tsuyoshiwatanabe/entry-12024247567.html
■書籍紹介:遠藤美幸(2014)『「戦場体験」を受け継ぐということ』高文研
 中国とビルマ国境付近の戦時研究は幾つかあるようだが、そのうちの一人、都留文科大学の伊香俊哉*17教授によれば、日本側の資料には当時の事実関係を知るために見るべきものは少なく、「中国側の資料に依拠する以外にない」状況だという。そういった意味でまとまった拉孟全滅戦とその周辺研究として本書の稀少性は高いと言えるのだろう。
(中略)
 印象的だったところが幾つかある。
 まず、拉孟戦の指揮官であった金光大隊長が、木下中尉に戦線からの脱出を命ずるくだり。
「ここで全員が死んでしまったら、長い間の守備隊の苦労が師団にわかってもらえないではないか。それに、戦死した将兵の遺族に対して、だれがこの状況を伝えるのか。…それから後世に対しても、子々孫々に至るまで、この拉孟の戦闘の模様は伝えねばならぬ義務があると思うが」と。
 極限の戦闘状態、「玉砕」が当たり前だった時代にある種「将来世代への説明責任」まで考えていたというのは新鮮な驚きであった。


■消費税増税の争点と民主的オルタナティブ(内山昭*18
(内容紹介)
 赤旗の記事紹介で代替。

赤旗
■主張『消費税増税策動:使途の「見直し」でなく中止を』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-27/2017092701_05_1.html
■消費税に頼らず財源確保格差・貧困是正を:BS番組で田村副委員長が主張
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-10-08/2017100802_03_1.html


■日本型IRの幻想:収益エンジンとしてのカジノは可能なのか(鳥畑与一*19
(内容紹介)
 赤旗の記事紹介で代替。

赤旗
■カジノは観光政策適さない、IR推進の姿勢ただす、清水議員
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-05-29/2017052902_04_1.html
■住民「カジノいらない」、党国会議員団が愛知県調査
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-14/2017091414_02_1.html


■国立大学で「無期転換ルール」を正しく発動させるために:取り組みの現状と、緊急に求められる課題(岩崎誠)
(内容紹介)
 赤旗の記事紹介で代替。

赤旗
■東大のパート雇い止め問題、雇用の安定に反する、宮本徹議員が東職と懇談
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-08/2017090814_01_1.html
■非常勤を無期契約転換へ、名古屋大が雇用安定化施策、組合奮闘で筆記選抜中止
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-14/2017091401_04_1.html
■無期転換妨害を一部削除、東大と組合が団体交渉
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-22/2017092215_03_1.html
■東大雇い止め許せない、吉良議員、非常勤職員と懇談
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-29/2017092914_01_1.html
■東北大の脱法も告発、職員組合が公開質問状
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-29/2017092914_02_1.html
■非常勤の講師3000人 東大が直接雇用に
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-10-17/2017101714_01_1.html


日本郵便の労働実態 断罪される非正規格差(日巻直映)
(内容紹介)
 赤旗の記事紹介で代替。

赤旗
■手当・休暇なし違法、非正規社員格差是正を 日本郵便に賠償命令、東京地裁判決
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-15/2017091501_03_1.html


■記者レポート『「部活って何」 見えてきたのは…』(堤由紀子/和泉民郎)
(内容紹介)
 赤旗などの記事紹介で代替。

東洋経済オンライン
■日本の部活を覆う「ブラックな忖度」という罠:内田良氏×島沢優子氏*20が語る(前編)
http://toyokeizai.net/articles/-/184638

■産経『中教審が教員業務の一部委託を提言 部活動は「必ずしも教員が担う必要ない」と地域への移行を明記』
http://www.sankei.com/life/news/171212/lif1712120049-n1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-10-16/2016101603_01_0.html
赤旗『2016とくほう・特報:シリーズ部活って何:なぜ過熱化解消されない?』
 「部活で遅くなり、授業の準備が十分にできない」「お盆と年末年始しか休みがなくて、もうくたくた」。
 中学校や高校での部活動が過熱化し、教職員も子どもも苦しんでいます。時には、教育現場にあってはならない暴言や暴力まで…。シリーズで学校の部活動問題を考えていきます。(取材班)
 「子どもたちに『がんばってー』と声をかけるぐらいしかできなくて。1日がかりの練習試合でも、私にとっては苦痛の時間でしかありません」
 青森県内の若手の中学校教員。教員はどこかの部活動の顧問を引き受けなければなりません。バレーボールの競技経験は皆無なのに男子バレー部の副顧問をしています。
 同部の顧問は3人いますが、練習の時も、練習試合や競技大会の時も、3人全員がいなければいけない決まりです。
 「学校全体が勝ちにこだわっているんです。『優勝でなければだめ。準優勝は負けなんだ』なんて言う。月曜の朝は教員も子どもも疲れているのがわかります」
 野球部の顧問をしているあるベテラン中学校教員は、若かったころを振り返り、「休んじゃいけないという強迫観念があった」と言います。休日も朝7時から夕方までびっしり練習し、大会前日も練習しました。最近になってやっと、前日練習に大して意味はなく、むしろクールダウンが必要だと気付き、やめました。
 今は、県の指針や県内校長会での申し合わせで、部活動の休止日を決めていますが、なかなか守られません。
 土日は大会が入ります。強くなればなるほど、他校から練習試合を申し込まれることも増え、「『せっかく申し込んでくれたから』とか『もう次から呼ばれなくなるんじゃないか』とか考えてしまって、断りにくいんです」。出場する大会を減らしたいと思っても、「出る資格があるのになぜ出ないのか」と保護者から苦情がくることも。土日は休みにくいのが現実です。
■保護者 試合のたびに車で送迎大変
 実は、保護者も大変です。青森県内では、他校や遠くの施設での試合の際には、車での送迎が欠かせません。その際、教員の運転は禁止されており、保護者が子どもの送り迎えをしなければならないのです。
 ある教員は「さまざまな事情で送迎できない保護者もいます。でも、他の保護者に毎回頼むのはしのびないと、わが子に部活をあきらめさせる保護者もいる」と話します。
 送迎中に、事故も時に起こります。今月8日には、石川県内の公立中学校の野球部員を乗せたマイクロバスがワゴン車と正面衝突し、部員2人が死亡。運転していたのは保護者でした。
 「サッカーは好きです。でも、せめて月に1日か2日休みがあれば、もっとがんばれるのに」
 こう話すのは、神奈川県内の公立中学校に通う佐藤隼さん(仮名)です。サッカー部。
 「こうしようと考えていたことが、試合中に生きた時が楽しい。普段の練習の成果が発揮された瞬間ですね」と話します。
 が、超ハードな練習が悩みでした。休みはお盆と年末年始の3、4日間だけ。朝も6時半から8時まで練習です。「『おまえらサッカー好きなんだろ』と、毎日サッカーができる環境をつくってやってるみたいな感じ」。休みを取りたいと思っている人はほかにもいますが、「意見を言いにくい雰囲気がある。『だったら部活来なけりゃいいじゃん』みたいになる」。
 佐藤さんは、顧問からのアドバイスの仕方も納得できませんでした。
「何が悪いかわからなくて困っているのに、『何やってんだ』って怒鳴られるだけだと…。スポーツって最終的には気合が大事という面はあるけれど、やる気だけでなく技術も大事。具体的なアドバイスの方が後につながると思います」
 教員も子どもも保護者もさまざまな矛盾を感じていますが、なかなか簡単には解消されない…。
 「それは『部活動とは何か』という認識がバラバラだからです」
 こう指摘するのは、宮城教育大学准教授の神谷拓さん*21です。
 神谷さんは、若者を使いつぶす「ブラック企業・ブラックバイト」と同様、子どもや教師を使いつぶすのが「ブラック部活」だといいます。
 そもそも部活動の指導は、教員の職務として明確に定められてはいません。学習指導要領では、部活動は学校教育活動の一環としながらも、生徒の自主的、自発的な参加によって行われる教育課程外の活動として位置づけられているにすぎません。校長が教員に命じることができる例外的な超過勤務業務にも、部活動は含まれていません。
 ところが一方で、対外試合の勝敗にとらわれ過ぎた反省から禁止された全国大会が、徐々に解禁されていき、過熱化に拍車をかけます。部活動の競技成績は、進学にも活用されてきました。
 「部活動にはどういう教育的な意義があるのか、という議論を尽くさないまま教員がかかわらざるを得なかったことが、さまざまな矛盾を大きくしてしまった」と神谷さん。さらに、教員の免許法には部活動に特化した科目が位置づけられていないため、「今は『無免許運転状態』だ」とも強調します。
 「『部活動とは何か』を定義した上で、教員としてここまではやろうという区分けをはっきりさせる。そこから始めることが大事だと思います」

https://dot.asahi.com/wa/2017050900052.html?page=1
週刊朝日『やばい「ブラック部活動」 保護者「まともに休日がない」と悲鳴』
 休日が極端に少ない、過熱する中学・高校の部活動に対して昨年、休養日を設けるように文部科学省が動き始めた。労働条件が劣悪な「ブラック企業」ならぬ「ブラック部活動」問題。本誌アンケートも利用して、学校現場の「今」を取材した。
(中略)
 教員が残業、休日出勤を強いられ、悲鳴をあげる「ブラック部活」問題を取材していくと、子どもを持つ親たちからも、「学業もままならない」という不安の声が聞こえてくる。
 文部科学省は昨年6月、中学と高校の部活動に行き過ぎがみられるとして、休養日を設けることを柱とした改善策を発表した。今年度内には適正な休養の日数をはっきり示すガイドラインをつくる方針だ。
(中略)
 2013年1月、大阪・桜宮高バスケットボール部主将が顧問の暴力などを理由に自殺したことが明らかになって以降、スポーツ界全体が暴力的指導の根絶を目指しているが、一部の顧問には馬耳東風のようだ。
「それが、外からは『熱くていい先生』と評価される。こういう規範意識の薄い先生と濃密な時間を過ごすことで、息子の人格に影響が出ないか不安です」と保護者は明かした。
 スポーツ庁は昨年12月、全国体力調査で調べた中学の運動部活動の休養日設定状況を公表した。
 それによると、学校の決まりとして休養日を設けていない学校が22.4%、土日に設けていない学校が42.6%あった。こうした学校では、部活動指導に燃える顧問が、その裁量でいくらでもできることになる。
 部活動のやりすぎは以前から指摘されてきた。1997年には当時の文部省の有識者会議で、「中学校では週2日以上」「高校では週1日以上」など、運動部における休養日の設定例のほか、練習時間についても、「長くても平日は2〜3時間以内、土日も3〜4時間以内をめどとする」と、子どものゆとりを確保するよう提言していた。
 だが、この20年間、実態はさほど変わらない。今年1月には、文科省が改めて、運動部の部活動で休養日を設けるよう求める通知を全国の教育委員会などに出した。
 週刊朝日では中学高校の部活動の現状について、アンケートを募った。
 中学生の母親(40代)は「外部のコーチの話が長いらしく、いつも完全下校の時間を過ぎる。真夏の炎天下、休憩時間と水分を十分にとらせない。年配の方で、休憩や水分をとるのは、『怠けている』『弱い』という考えのようです」と書いた。
 長時間の拘束のみならず、一歩間違えれば、大きな事故につながりかねない非科学的なやり方が今も横行している。
 運動部だけではない。中学生の子どもが吹奏楽部員という母親(40代)は「まともに休日がない。朝練に始まり、練習後に帰宅してから授業の課題を深夜までやり、慢性的な寝不足。『休みがあったら何をしたい?』と聞くと、『とにかく寝たい』としか言いません」と回答した。
 休養日のガイドラインを出している教委はある。例えば、兵庫県では、公立の中学高校に「ノー部活デー」の取り組みを推奨し、「平日は週1日以上」「土日は月2回以上」は、部活動を行わないよう「お願い」をしている。
 だが、アンケートでは、ガイドラインでは手ぬるいという指摘もあった。高校の男性教員(50代)は「罰則のない目標では守らないのは当然。部活指導で家庭崩壊している教員は少なくない」と訴えた。

https://mainichi.jp/articles/20171031/k00/00m/040/025000c
毎日新聞『部活動 年内にも学会設立 「ブラック」実態論議、提言へ』
 学校教員に過重労働を強いる部活動が問題視される中、現役教職員や教育学者が年内にも「日本部活動学会」を設立する。「ブラック部活動」とも言われる実態についての議論や調査、政府への提言で現状を変えることを目指している。
 部活動はそもそも教育課程に含まれず、学習指導要領も「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」と定めているにすぎない。「だが、実際には教員も生徒も強制されています」と、学会の発起人代表で教育学者の長沼豊*22学習院大教授は指摘する。
(中略)
 文部科学省の教員勤務実態調査結果(2016年度速報値)では中学教諭の6割近くが国の「過労死ライン」である週20時間以上の「残業」をこなす。10年前より週5時間以上も増えた。その一因が過熱する部活動だ。
 しかも、過労死ラインを超す長時間労働に残業代は出ない。
(中略)
 発起人の一人で「ブラック部活動」を刊行した内田良*23・名古屋大准教授(教育社会学)も言う。「教員も保護者も『部活動は先生が指導するもの』と思い込んできたが、教員も労働者です。平日の部活動はサービス残業で土日の手当も最低賃金に届くかどうか。まさに“ブラック”です」
 学会の発起人は約30人になる見通しで、弁護士も参加する。
 野球部の顧問として「部活動指導スタートブック」*24を刊行した大阪府の中学教諭、杉本直樹さんも学会の発起人に名を連ねる。部活動の意義は認めつつ見直しは必要と考え、「スポーツや文化活動の大会を減らすべきだ。休日の引率など教員の負担を減らし、勝利至上主義を脱することで生徒のためにもなる」と語る。大学教員養成課程に部活動指導法講座を設けることも提案したいという。
 文科省スポーツ庁は今年1月、学校の部活動に休養日を適切に設けるよう全国の教育委員会に改めて通知。スポーツ庁は16年ぶりに部活動の実態を調査し、今年度中に休養日の日数などを含むガイドラインを策定する方針だ。しかし、1997年にも当時の文部省が休養日などの目安を示したが現場に浸透せず、実効性を危ぶむ声もある。長沼教授は「休養日の設定だけでは不十分。『全員顧問制』をやめて選択制にし、外部から指導員を入れるべきだ」と説く。【小国綾子*25


論点
■日本IBMロックアウト解雇とのたたかい(三木陵一)
(内容紹介)
 赤旗の記事紹介で代替。

赤旗
■労働者全員が勝訴 ロックアウト解雇は無効、日本IBM第5次訴訟 東京地裁が判決、「泣き寝入りせずたたかってよかった」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-15/2017091515_01_1.html


暮らしの焦点 
■「保険で良い歯科医療」を早期に(宇佐美宏)
(内容紹介)
 赤旗の記事紹介で代替。

赤旗
■深刻化増す歯科技工士の実態、低賃金・長時間労働…後継者なし 改善急務、保団連アンケート調査
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-26/2016122613_01_1.html
■患者負担増止めよう、医師ら18万人分署名を提出
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-06-02/2017060214_03_1.html


メディア
■テレビ『MXテレビの沖縄再取材番組』(沢木啓三)
(内容紹介)
 MXの再取材番組を評価する一方で未だに「ニュース女子が過去の問題報道について正式に謝罪したわけではないこと」を指摘。また、沖縄報道が「この再取材番組一本で終わりになるのでは意味がない」としている。
 沢木氏はひとまずは「MXに対して厳しい評価になるであろう、BPO審査結果」にどうMXが対応するのが問われるとしている。

参考

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-586226.html
琉球新報『「ニュース女子」訂正なし 東京MX30日特番 賛否の意見紹介』
 東京メトロポリタンテレビジョン(MX)の番組「ニュース女子」が、県内の基地建設反対運動に取り組む市民らをテロリストに例えるなどの内容を報じた問題で、東京MXは30日夜、報道特別番組「沖縄からのメッセージ〜基地・ウチナンチュの想い」を放送した。番組は沖縄の歴史に沿ったり、高江のヘリパッド建設や辺野古での新基地問題を巡る反対・容認双方の声を取り上げたりした。しかし、ニュース女子が報じた事実関係の真偽などには踏み込まず、訂正や謝罪などはなかった。
 MXは「検証番組ではない」と前置き。「沖縄と本土の歴史について考えの違いを伝える」目的で制作をジャーナリストの吉岡攻さんに依頼した。吉岡さんは地元沖縄の人々20人以上のインタビューを番組で流した。
 琉球王国時代の非武の文化からひもとき、沖縄戦や米国統治下の土地接収、コザ騒動、日本復帰など節目の出来事を振り返った。少女乱暴事件、米軍普天間飛行場の返還合意、垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ配備、高江や辺野古の問題に至る経緯や県民の基地への反発、複雑な思いについて、反対・容認、双方の人のコメントを拾って報じた。
 ただ、「ニュース女子」を巡っては、基地反対市民が「救急車を止めた」「米軍基地に反対という声は大多数の人からは聞かない」「反対市民は2万円の日当をもらっている」などと報じたことに対して「虚偽だ」との批判がある。
 しかし、特番では「救急車を止めた」という事実について、地元消防署が「誰が乗っているのかとの確認のために止められたことはある」としたコメントを紹介し、救急車の走行を妨害した事実はないことは報じたものの、コメントだけの内容にとどまった。日当についても、反対住民の「もらっていない」との発言を拾っただけだった。新基地建設への反発が強い民意にも触れたが、ニュース女子での報道には言及はなかった。

■吉岡攻(1944年〜)
・オルタスジャパン(http://www.ortus-japan.co.jp/)専務取締役。写真家、テレビプロデューサー、ディレクター。弟はノンフィクション作家、日本ペンクラブ会長の吉岡忍*26
・1968年3月、東京写真大学(現在の東京工芸大学)卒業。その後、フリーの写真家として沖縄県に転居。コザ暴動等、沖縄県の祖国復帰闘争を取材する。1971年11月10日に発生した、沖縄ゼネスト警察官殺害事件では吉岡含めたカメラマンが現場写真を撮影、そのことを知った琉球警察(当時)は、証拠写真の押収目的に、別件の「殺人及び公務執行妨害」容疑の捜索令状で踏み込み、押収したため、政治闘争へと発展した。
 1971年、写真集『沖縄69-70』で平凡社太陽賞」の準太陽賞を受賞。1980年、テレビディレクターに転身。1981年から1983年にかけて『11PM』『NNNドキュメント』(日本テレビ)のドキュメンタリーを制作。
 1984年からは日本テレビ久米宏テレビスクランブル』、1986年から1995年までテレビ朝日ニュースステーション』でディレクター、1995年から2004年まではTBS『報道特集』でキャスター、ディレクターを務めた。2006年、日本テレビ報道局のディレクター、プロデューサーであった、小田昭太郎が設立した番組制作会社オルタスジャパンに参加。NHK の『NHKスペシャル』、NHKBSのドキュメンタリー番組『BS世界のドキュメンタリー』『ドキュメンタリーWAVE』『ハイビジョン特集』など多数の番組を制作。


文化
■美術『難民問題と向き合う現代美術:欧州の3つの国際展』(武居利史)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

■2017年はスペシャルイヤー!「ドクメンタ」「ヴェネチア・ビエンナーレ」「ミュンスター彫刻プロジェクト」が同時開催
http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2017/01/documenta_venice_muenster_2017.html


■映画『戦後沖縄の闘いの歴史描く:「米軍が最も恐れた男:その名はカメジロー」』(伴毅)
(内容紹介)
 映画「米軍が最も恐れた男:その名は、カメジロー」(公式サイト:http://www.kamejiro.ayapro.ne.jp/)の紹介。

参考

■米軍が最も恐れた男:その名は、カメジロー(ウィキペ参照)
 アメリカによる沖縄統治に抗い活動した政治家の瀬長亀次郎*27を描いた、2017年公開のドキュメンタリー映画。2016年8月21日、TBSテレビで放送された『報道の魂』スペシャル「米軍が最も恐れた男〜あなたはカメジローを知っていますか?〜」がもとになっており、追加取材・再編集を行い、未公開映像や関係者のインタビューも取り入れて映画化された。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52554
■現代ビジネス『アメリカが最も恐れた沖縄の男(1):瀬長亀次郎の一生涯』佐古忠彦
 終戦から7年後の1952年4月1日、首里城跡地で、亀次郎と米軍の闘いの原点ともいえる出来事が起きる。
(中略)
 沖縄を占領するアメリカ軍は、日本への復帰運動などを抑えるため、アメリカが指名した行政官による「琉球政府」を設立することにした。
 この日、行われた創立式典では、星条旗と並んで将官旗がはためき、アメリカ陸軍軍楽隊の大コーラスが響く。ビートラー米民政府副長官がこう挨拶した。
 「アメリカには植民地野望はなく、不安な国際情勢下に太平洋の前衛地としての当地に駐屯を余儀なくされている」
 式典の最後に、代表の議員が宣誓文を読み上げたあと、議長が立法院議員(現在の県議会議員にあたる)の名を読み上げ、それぞれが立って脱帽し一礼する。
 そのなかで、ただひとり立ち上がらなかった人物がいた。
 最後列の席で、ひとり座ったまま。
 なぜだ? 会場に広がるどよめきの声。
 その人物が、亀次郎だった。
 ただ一人、起立を拒んだ
 「瀬長亀次郎さん!」
 呼ばれても、返事もせず座ったまま。将軍らの顔は真っ赤になり、米軍によって指名された琉球政府主席はじめ日本人行政官は青ざめていた。
(中略)
 亀次郎のこの行動には、ハーグ陸戦条約を法的な根拠としていた。
 いわゆる戦時国際法のひとつで、攻撃手段の制限や占領、交戦者の資格、捕虜の取り扱いなどを規程している。その中に、「占領された市民は、占領軍に忠誠を誓うことを強制されない」という条文があるのだ。亀次郎の行動には常に、法律的な裏づけが意識されていた。
 実はこの前日、立法院の職員が亀次郎の自宅に来て、何度も宣誓書への捺印を迫っていた。すでに亀次郎を除く全ての立法院議員の捺印が済んでいたが、亀次郎は最後まで説得に応じなかった。ずらりと並ぶ名前の下、瀬長亀次郎だけが空欄なのである。
 亀次郎は、「立法院議員は、米国民政府と琉球住民に対し厳粛に誓います」という条文の「米国民政府」の部分を削らないと宣誓書に判は押さない、という。
 「これはひとり沖縄県民だけの問題ではなく、日本国民に対する民族的侮辱であり、日本復帰と平和に対する挑戦状だ」
 困り果てた職員は、宣誓書をいったん持ち帰るほかなかった。
 再度見せられた宣誓書には、亀次郎の要求通り「米国民政府」の文字が消えていた。
〈宣誓 吾々は茲に自由にして且つ民主的な選挙に基いて琉球住民の経済的政治的社会的福祉増進という崇高な使命を達成すべく設立された琉球政府の名誉ある立法権の行使者として選任せられるに當り琉球住民の信頼に應えるべく誠實且つ公正に其の職務を遂行することを厳粛に誓います〉
 しかし、これには見えすいたカラクリがあった。宣誓書には、英語で書かれたものと日本語で書かれたものの二つがあり、英文を確認すると、こちらのほうには「米国民政府」がしっかりと残されていたのだ。
 あの宣誓の場で、何度名前を呼ばれても、亀次郎が返事をすることも立ち上がることもなかったのには、そういうわけがあった。この日から亀次郎は、「アメリカが最も恐れる男」「沖縄抵抗運動のシンボル」となる。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52613
■現代ビジネス『アメリカが最も恐れた沖縄の男(2):瀬長亀次郎の一生涯』佐古忠彦
 いまに語り継がれる名演説、名フレーズがある。終戦から5年後の1950年、群島知事(奄美宮古八重山諸島などの自治政府)選挙に出馬、首里中学校の校庭での立会演説会に臨んだ。
 亀次郎は、団結して声を上げることの大切さを訴えた。
「この瀬長ひとりが叫んだならば、50メートル先まで聞こえます。
 ここに集まった人々が声をそろえて叫んだならば、全那覇市民にまで聞こえます。
 沖縄70万県民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波を超えてワシントン政府を動かすことができます」
 この演説会で司会をしていた仲松庸全の耳には、いまも鳴り止まない拍手の音が残っている。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52747
■現代ビジネス『アメリカが最も恐れた沖縄の男(4):瀬長亀次郎の一生涯』佐古忠彦
 1956年4月9日の、どんより曇った朝。
 9時15分、刑務所の門が開くと同時に、大歓声が起きた。亀次郎の帰りを待つ人々が通りを埋め尽くしていた。
(中略)
「私が投獄された、唯一の理由は、祖国復帰運動を徹底的にやったことにある。しかし、私はどこまでも県民の皆さんとともに祖国復帰のためにやっていく決意を固めている。働く全県民のスローガンは民族の独立であり、これは沖縄の祖国復帰と結びついていることはいうまでもない。
 もし祖国復帰を叫ぶことをやめて基地権力者に迎合するならば、自己栄達の道が開けるかもしれない。また、これ以上祖国復帰を叫ぶならば、再び監獄に入れられるかもしれないが、投獄もいとわない気持ちである」
 その夜開かれた「瀬長亀次郎歓迎大会」には、市民1万人以上が集まった。
 次女・千尋は言う。
アメリカの失敗は、亀次郎を投獄したことだと思う。投獄すれば屈すると思っていたと思う。でもますますヒーローになって帰って来た。獄中死してもおかしくないような病気もしていたし、奇跡的に回復した。投獄したほうも、獄死してもいいくらいの気持ちで投獄していると思うので、そういう人が無事に出てきたのは、みなさん勇気が出たって言う。どんなに弾圧されてもがんばろうと、出獄がみんなに勇気を与えた」
 1年半の獄中生活によって、亀次郎の影響力は削がれるどころか、むしろ、より大きくなった。米軍の目論見は外れた。
 亀次郎が出獄した年の12月、琉球政府主席の比嘉秀平が急死した。後任の主席には、当間重剛那覇市長が任命された。このため、空席となった那覇市長の椅子をめぐって、選挙が実施されることになった。
 ムーア高等弁務官は、保守統一候補の擁立に躍起になったが、一本化は難航、結局、仲井間宗一、仲本為美の二人が立候補する保守分裂選挙となった。
 一方の沖縄人民党は、瀬長亀次郎の擁立を決めた。
(中略)
 白熱の市長選を制したのは、亀次郎だった。
(中略)
 「瀬長市長」の追い落としを図るアメリカは、市民生活に影響を与える嫌がらせに踏み切る。那覇市への水道供給を止めたのである。亀次郎は、「水攻め」と表現した。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52818
■現代ビジネス『アメリカが最も恐れた沖縄の男(最終回):瀬長亀次郎の一生涯』佐古忠彦
 いっこうに亀次郎を追放できないことに業を煮やす米軍は、最後の手段をとる。亀次郎はすでに日記の中で、米軍の手の内を予測していた。
「セナガさえ立候補できないようにしさえすれば万事はOKである」
 米軍は1957年11月23日、ついに布令改定に踏み切った。
 市町村自治法では、これまで不信任案の議決は、議員の3分の2の出席が要件であったが、これを過半数の出席に緩和した。これにより、与党議員が欠席戦術に出ても、残りの反亀次郎派の議員で不信任議決が可能になった。
 さらに市町村選挙法で、立法院議員の選挙だけに適用されていた欠格条項の破廉恥罪を全ての選挙に適用することとし、不信任されたら最後、亀次郎は、投獄された過去を理由に被選挙権も奪われることになった。つまりアメリカは、亀次郎が二度と復活できないように、強権を発動したのだ。
(中略) 
 亀次郎は、こんな言葉を残して市役所を去った。
「この追放指令によって瀬長市長を追放するのは可能である。だが、可能でないのが一つある。祖国復帰しなければならないという見えざる力が50日後に迫った選挙においてやがて表れ、第二の瀬長がはっきりと登場することをここに宣言しておく」
 その言葉通り、亀次郎失職後の1958年1月に行われた市長選では、亀次郎の後継候補が当選している。
(中略)
 1969年11月19日から4日にわたってアメリカ・ワシントンで行なわれたニクソン大統領と佐藤栄作首相の日米首脳会談で、ついに両首脳は、沖縄返還で合意。
 そのころ、布令の改定により、亀次郎は被選挙権を取り戻していた。亀次郎は1970年11月15日に行われた沖縄初の国政選挙に出馬する。
 「市長追放」から12年以上が経っても、亀次郎人気は健在だった。
(中略)
 沖縄の日本復帰を5ヵ月後に控えた1971年12月4日、亀次郎は衆院沖縄北方特別委員会で佐藤総理に質問する機会を得る。
 そこで、亀次郎は、逮捕から那覇市長就任、その後の兵糧攻めや水攻め、布令による追放という自らのこれまでの経験を語り、沖縄における米兵の関与する事件に触れて、なぜ基地のない沖縄を求めるのかを、日米間で結ばれた沖縄返還協定への疑問とともに佐藤首相にぶつけた。
「佐藤総理の口から言ったでしょう。今国会の冒頭の所信表明の、沖縄問題に対するあの結語は、軍事基地の継続使用は返還の前提ともなる。覚えておられるでしょう。
 返還が目的ではなくて、基地の維持が目的である。ですから、この協定は、決して沖縄県民が26年間血の叫びで要求した返還協定ではない。この沖縄の大地は、再び戦場となることを拒否する!。基地となることを拒否する!」

http://www.tvlife.jp/pickup/140010
佐古忠彦監督インタビュー「これからのことを考える1つのきっかけに」映画「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー」
 2016年にTBSテレビで放送されたドキュメンタリー番組に追加取材、再編集を行って映画化した「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー」を監督したTBSテレビ報道局の佐古忠彦さんにインタビュー。『筑紫哲也NEWS23』でキャスターを務め、長年にわたり沖縄問題を取材してきた佐古さんに、初監督作となった本作への思いを聞きました。
◆インタビュアー
 ドキュメンタリー番組から映画化に至ったきっかけを教えてください。
◆佐古氏
 映画を撮るなんて発想は全くなくて、テレビでいつもと同じように作って放送に出したんです。夜中の番組ですから、普段はそんなに反応がたくさんあるわけではないんですが、驚いたことにTBSでのローカル放送にもかかわらず、ものすごい数の反響があったんです。番組宛にメールや手紙をたくさん頂いて「こんな人物がいたのか」「沖縄の人がなぜ声を上げているのかよく分かった」という感想を頂いて。
 こんなに反応を頂けるんだったら、これは伝わったんだなと思って、ならば、少しでも多くの人に見ていただく方法はないかなと思ったときに、映画という方法もあるよというお話があったんです。
 それで、いろいろな人に相談したりして、そこから追加取材をして、ここに至りました。
(中略)
◆インタビュアー
 亀次郎さんは沖縄ではやはり知名度は高いんですか?
◆佐古氏
 そうですね。伝説のヒーローと言う人もいますし。ですが、40代の半ばくらいの人でも、名前は知っているけど、何をやった人か、までは分からないと言っていました。世代的にそのあたりからは本土とそんなに変わらないかもしれないですね。
佐古忠彦
 近年では、
2013年『生きろ〜戦場に残した伝言』
2014年『生きろ〜異色の司令官が伝えたこと』
    http://www.tbs.co.jp/houtama/last/140720.html
   『茜雲の彼方へ〜最後の特攻隊長の決断』
    http://www.tbs.co.jp/houtama/last/140817.html
2015年『戦後70年 千の証言スペシャル 戦場写真が語る沖縄戦・隠された真実』
2016年報道の魂SP『米軍が最も恐れた男〜あなたはカメジローを知っていますか』
などを制作

◆報道ドラマ『生きろ〜戦場に残した伝言』(ウィキペ参照)
 2013年8月7日21時よりTBSで『テレビ未来遺産"終戦"特別企画』として放送された日本のドキュメンタリードラマ。
 TBSが2013年4月から月1回、「未来に語り継ぐべき大切なメッセージ」をテーマに様々な分野の深層に切り込む大型ドキュメンタリーとしてゴールデンタイム枠で放送している『テレビ未来遺産』の第1作。終戦特別企画として、「県外疎開によって10万人の沖縄県民の命を救った」とされる緒形直人演ずる島田叡・沖縄県知事をメインに赴任から沖縄戦の5ヶ月間の実話を語る報道ドラマで、関係者の証言と貴重な資料を元に、ドラマパートとドキュメンタリーで構成されている。また、もう一人の主人公として島田とともに疎開をすすめたとされる、的場浩司演じる荒井退造・沖縄県警察部長も描かれる。

*1:著書『イラク戦争の出撃拠点:在日米軍と「思いやり予算」の検証』(共著、2008年、新日本出版社

*2:著書『九月、東京の路上で:1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(2014年、ころから)など

*3:著書『アジアの中の日本軍』(1994年、大月書店)、『日中全面戦争と海軍:パナイ号事件の真相』(1997年、青木書店)、『南京事件』(1997年、岩波新書)、『南京事件と日本人』(2002年、柏書房)、『南京難民区の百日:虐殺を見た外国人』(2005年、岩波現代文庫)、『南京事件論争史:日本人は史実をどう認識してきたか』(2007年、平凡社新書)、『「百人斬り競争」と南京事件』(2008年、大月書店)、『日本軍の治安戦:日中戦争の実相』(2010年、岩波書店)、『海軍の日中戦争:アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』(2015年、平凡社)、『日中戦争全史(上)(下)』(2017年、高文研)など

*4:原文のまま。8月15日のポツダム宣言受諾発表(玉音放送)の「誤記」なのか、「9月2日のミズーリ号での降伏文書正式調印」の意味なのかは不明。

*5:東京裁判で死刑となった7人の内、板垣征四郎関東軍高級参謀として満州事変を実行。関東軍参謀長、近衛、平沼内閣陸軍大臣朝鮮軍司令官、第7方面軍(シンガポール)司令官など歴任)、木村兵太郎関東軍参謀長、陸軍次官、ビルマ方面軍司令官など歴任)、土肥原賢二奉天特務機関長、第7方面軍(シンガポール)司令官など歴任)、東条英機関東軍参謀長、陸軍次官、近衛内閣陸軍大臣、首相など歴任)、松井石根(中支那方面軍司令官)、武藤章陸軍省軍務局長、第14方面軍(フィリピン)参謀長など歴任)の6人は陸軍軍人であり、笠原氏が指摘するように「嶋田繁太郎(東条内閣海軍大臣軍令部総長(東条内閣時代)。終身刑判決を受けるが1955年に仮釈放)」「永野修身(広田内閣海軍大臣軍令部総長(東条内閣時代)。裁判中、獄死)」など一部を除き、海軍軍人は訴追されず明らかに東京裁判では主として陸軍軍人が起訴された。「林、近衛、平沼、小磯、鈴木内閣海軍大臣、首相」というその「華麗な経歴」からすれば、訴追されておかしくない米内光政は訴追を免れた。

*6:彼らが反対していたのはどう好意的に見ても「対米国戦争」にすぎません。

*7:海軍航空本部長、海軍次官連合艦隊司令長官など歴任

*8:林、近衛、平沼、小磯、鈴木内閣海軍大臣、首相など歴任

*9:海軍省軍務局長、海軍航空本部長、海軍次官など歴任

*10:「えー、そうなの?」感がありますね。これが「学会では海軍善玉論など過去のもんだが未だ、世間では通用してて困る」つうならわかりますが。

*11:まあ山本は1945年の終戦時点ですでに戦死していますが。

*12:江蘇省省都南京事件当時の中国の首都。

*13:真宗大谷派僧侶。著書『戦争は罪悪である:反戦僧侶・竹中彰元の叛骨』(2008年、風媒社)、『大逆の僧・高木顕明の真実:真宗僧侶と大逆事件』(2011年、風媒社)

*14:著書『「つくる会」分裂と歴史偽造の深層:正念場の歴史教科書問題』(2008年、花伝社)、『日本会議の全貌:知られざる巨大組織の実態』(2016年、花伝社)など

*15:コメディアン植木等の父。彼については赤旗植木等の父、反戦僧侶、植木徹誠とは?』(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-04-19/2008041912_01faq_0.html)参照

*16:著書『「戦場体験」を受け継ぐということ:ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』(2014年、高文研)

*17:著書『近代日本と戦争違法化体制:第一次世界大戦から日中戦争へ』(2002年、吉川弘文館)、『満州事変から日中全面戦争へ』(2007年、吉川弘文館)、『戦争はどう記憶されるのか:日中両国の共鳴と相剋』(2014年、柏書房

*18:著書『分権的地方財源システム』(2009年、法律文化社)、『財政とは何か』(編著、2014年、税務経理協会)など

*19:著書『徹底批判!! カジノ賭博合法化: 国民を食い物にする「カジノビジネス」の正体』(共著、2014年、合同出版)、『カジノ幻想』(2015年、ベスト新書)など

*20:著書『部活があぶない』(2017年、講談社現代新書)など

*21:著書『生徒が自分たちで強くなる部活動指導 :「体罰」「強制」に頼らない新しい部活づくり』(2016年、明治図書出版)など

*22:著書『部活動の不思議を語り合おう』(2017年、ひつじ書房)など

*23:著書『「児童虐待」へのまなざし』(2009年、世界思想社)、『柔道事故』(2013年、河出書房新社)、『教育という病:子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』(2015年、光文社新書)、『ブラック部活動』(2017年、東洋館出版社)など

*24:2015年、明治図書出版

*25:著書『アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた』(2013年、径書房)など

*26:著書『墜落の夏:日航123便事故全記録』(1989年、新潮文庫)、『ルポルタージュ 教師の休日』(1992年、朝日文庫)、『放熱の行方:尾崎豊の3600日』(2001年、講談社文庫)、『ニッポンの心意気:現代仕事カタログ』(2007年、ちくまプリマー新書)など

*27:名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者、うるま新報(現:琉球新報)社長などを経て、沖縄人民党書記長、委員長、那覇市長(米国統治時代)、日本共産党沖縄県委員長、日本共産党副委員長、衆院議員(日本復帰後)を歴任。