黒坂真に突っ込む(2020年5月14日分)

黒坂真
 田村智子議員がyou tubeWe shall overcome という歌を歌っています。田村智子議員は自衛隊解散を願って歌っていそうです*1

 ここまで「意味不明で馬鹿げた発言」「常人には思いつくことすら出来ない発言」をツイートできるのは「日本トンデモウヨ広し」といえども、黒坂ぐらいではないか。
 田村氏の「We shall overcome」については普通の人間は「あの歌が好きなのか」あるいは政治的に解釈する場合でも「共産党の躍進や安倍政権(あるいは自民党政権)の下野を願って歌ってるのか」でしょう。黒坂みたいな馬鹿なことは言わない。
 確かに共産党は「自衛隊違憲論」ではありますが「すぐに解散する」などとはいってない。「当面は軍縮」が方針の訳です。
 まあ、櫻井よしこ島田洋一ですら黒坂に比べたらまともに見えます。

黒坂真リツイート
篠原常一郎
 沖縄人民党の政治家として沖縄県の祖国復帰に献身した瀬長亀次郎*2の事績から「琉球独立論」の欺瞞、チュチェ思想研究会まで入り込んだ「オール沖縄」の歪み、中国の動きまで考えます

 欺瞞も何も「経済的に国の補助金から独立しよう」つう意味での「独立論」ならともかく文字通りの独立論(独立国家・沖縄)なんか昔も今も主流じゃないでしょうよ。
 それにしてもいくら「祖国復帰運動*3」をしたからといって篠原や黒坂みたいなゲス右翼に「見ろ、瀬長だって独立論には否定的だ」なんて言われるのも瀬長にとって全く迷惑でしょう。
 そしてまた「チュチェ思想研究会ガー」だそうです。誰が考えても沖縄独立論にせよ、基地反対論にせよ、「チュチェ思想研究会関係者」なんてもんが仮に居るとしてもそんなもんがメジャーな存在のわけがないでしょう。
 こんな馬鹿なことを言えば沖縄県民を激怒させると共に、黒坂や篠原が呆れられるだけなのですが、よくもこんな馬鹿なことが言えたもんです。しかも篠原に至っては離党したとは言え「筆坂秀世・国会議員(当時)の元秘書」ですからね。
 秘書時代からこういう「面従腹背(商売左翼)」だったのか、離党後、劣化したのか知りませんが、お粗末なもんです。

*1:断定しなくてもデマはデマです。言うのも愚かなことですが「そうです」という表現からは田村氏の動画オンリーでは「自衛隊解散を願って歌っている」などと評価できる根拠は何もないのでしょう。

*2:1907~2001年。戦後、名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者を経て、1946年にうるま新報(現:琉球新報)社長に就任。在任中、沖縄人民党の結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。1954年10月、米国民政府は瀬長を、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑(出入国管理令違反)で逮捕、懲役2年の刑の判決により投獄。1人の証言を証拠として弁護士なしの裁判にかけるなど事実審理の形式に多くの問題があった(いわゆる沖縄人民党事件)。1956年4月の出獄後、同年12月に行われた那覇市長選に出馬、当選。1957年、高等弁務官ジェームス・E・ムーア陸軍中将が布令を改定し(米民政府高等弁務官布令143号、通称「瀬長布令」)1954年の投獄を理由に、瀬長から被選挙権を剥奪した。市長在任期間は一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米国民政府との攻防は、当時沖縄県民の強い支持を受け、現在でも県内では祖国復帰運動に身を捧げた市民活動家であるとの評価が高い。1967年12月に瀬長布令が廃止されたことで被選挙権を回復。翌68年の第8回立法院議員選挙で当選。1970年の沖縄初の国政参加選挙では、沖縄人民党公認(沖縄人民党書記長)で当選、1972年の衆議院議員総選挙でも人民党公認で2期目の当選を果たす。沖縄復帰後の1973年に人民党は日本共産党と合流、以後は日本共産党公認として1986年の衆議院議員総選挙まで通算7期連続して衆議院議員に当選した。その間、日本共産党副委員長を務めた。1990年、政治活動を引退。著書『民族の悲劇:沖縄県民の抵抗』(復刻版、2013年、新日本出版社)、『沖縄の心:瀬長亀次郎回想録』(復刻版、2014年、新日本出版社)、『民族の怒り:もえあがる沖縄』(復刻版、2016年、新日本出版社)など(ウィキペディア『瀬長亀次郎』参照)。

*3:まあ瀬長に限らず、当時、ほとんどの沖縄人は祖国復帰の立場でしたが。