新刊紹介:「歴史評論」2021年7月号

 小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集「女性史・ジェンダー史から問う自治体史」
自治体史編纂という経験(藪田貫*1
(内容紹介)
 今回の特集の総論的内容。

薮田 貫 (Yutaka Yabuta) - マイポータル - researchmap参照
◆『門真市史・第3巻:近世・史料編』 (1997年)
◆『門真市史・第4巻:近世・本文編』(2000年)
◆『新修泉佐野市史6:史料編・近世Ⅰ』(2005年)
◆『新修泉佐野市史7:史料編・近世Ⅱ』(2007年)
◆『新修泉佐野市史2:通史編・近世』(2009年)

など自治体史編纂に関わった事がある筆者が、自らの経験ももとに「自治体史での女性史、ジェンダー史」について論じていますが、小生の無能のため紹介を省略します。
 なお、「自治体史による女性史の成果」として横浜市史編纂において収集された資料の一つである関口日記を利用した大口勇次郎*2江戸城大奥をめざす村の娘:生麦村関口千恵の生涯』(2016年、山川出版社)が紹介されています。


◆最近の自治体史編纂と女性史(石月静恵*3
(内容紹介)

都道府県史:刊行年順(刊行年が同じ場合は著書名順)】
◆夜明けの航跡:かながわ近代の女たち(1987年、ドメス出版)
◆とやまの女性史(1989年)
◆共生への航路:かながわの女たち'45~'90年(1992年、ドメス出版)
◆石川の女性史(1993年)
◆光をかざす女たち:福岡県女性のあゆみ(1993年、西日本新聞社
◆京の女性史(1995年、京都府
◆花ひらく:ならの女性生活史(1995年、ドメス出版)
◆福井女性の歴史(1996年)
福島県女性史(1998年)
青森県女性史(1999年)
◆みやぎの女性史(1999年、河北新報社
岐阜県女性史(2000年)
◆熊本の女性史(2000年、熊本日日新聞社
◆佐賀の女性史(2001年、佐賀新聞社
◆三重の女性史(2009年)
【東京23区史:刊行年順(刊行年が同じ場合は著書名順)】
◆すぎなみの女性たち(1987年)
◆葦笛のうた:足立・女の歴史(1989年、ドメス出版)
◆風の交叉点1:豊島に生きた女性たち(1992年、ドメス出版)
◆風の交叉点2:豊島に生きた女性たち(1992年、ドメス出版)
◆風の交叉点3:豊島に生きた女性たち(1994年、ドメス出版)
◆椎の木の下で:区民が綴った中野の女性史(1994年、ドメス出版)
中央区フロンティアの女性たち(1994年)
◆あらかわの女性(1996年)
◆風の交叉点4:豊島区女性史通史(1996年、ドメス出版)
田端文士・芸術家村と女たち:もうひとつの北区史(1996年、ドメス出版)
◆新宿・女たちの十字路:区民が綴る地域女性史(1997年、ドメス出版)
◆戦時下にくらした女性たち:もうひとつの北区史2(1997年、ドメス出版)
江東に生きた女性たち(1999年、ドメス出版)
翔ばたく女性たち:もうひとつの北区史3(1999年、ドメス出版)
せたがや女性史(1999年、ドメス出版)
千代田区女性史(2000年、ドメス出版)

など、近年の自治体女性史を中心に自治体女性史を紹介している。具体的な評価については小生の無能のため紹介を省略します。なお、ドメス出版という出版社がこの分野では一定のシェアがあるようですね。


青森県の女性史資料と自治体史:『青森県女性史』を中心に(北原かな子*4
(内容紹介)
 『青森県女性史』(1999年)の編纂に関わった筆者が『編纂の経緯』や『青森県女性史の特徴』などについて論じていますが、具体的な内容については小生の無能のため紹介を省略します。


◆沖縄・女性史編纂のあゆみ(宮城晴美*5
(内容紹介)
 『那覇女性史(近代編)』(1998年)、『那覇女性史 (前近代編)』(2001年)、『沖縄県史 各論編8 女性史』(2016年)の編纂に関わった筆者が『編纂の経緯』や『沖縄県女性史、那覇女性史の特徴』などについて論じていますが、具体的な内容については小生の無能のため紹介を省略します。

参考

沖縄で「沖縄移民史」を語ること | Mariko Iijima2016.7.28
 先日、沖縄県公文書館にて、「移動する沖縄女性-ハワイ、フィリピンの女性移民」というタイトルで発表させて頂きました。この発表は、今年出版された『沖縄県史 各論編8 女性史』に寄稿した論文をもとにしたもので、戦前のハワイとフィリピンという二つの移民先での生活を比較検討しながら、沖縄女性の移民経験についてお話ししました。

『沖縄県史各論編8 女性史』コラム「戦後八重山への出稼ぎ」執筆担当: 沖縄(琉球)文化工芸研究所
 2016年3月に刊行された『沖縄県史各論編8 女性史』の第四部にコラム「戦後八重山への出稼ぎ」(粟国恭子)を執筆担当しました。
 戦前からパイン産業を展開した八重山、戦後の経済復興にもパイン産業が重要な役割を持ち、その労働者として八重山宮古女工たちが関りました。宮古の主婦や農林高校研修を名目に女学生も八重山パイン産業へアルバイトに出向きます。
 後にグローバル化される市場動向に翻弄されるかのように、1960年頃から生産効率、低賃金、加工技術の高い台湾女工が導入されるようになります。
 その動向と反対に、役割をおえるように宮古農林高校農業研修プログラムが終了。小さな島の女性たちとパインとの関りの一つの物語としてコラムは書かれています。

「読む女・書く女」の出現――琉球・沖縄おんな三代にわたる葛藤(勝方(稲福)恵子*6早稲田大学国際学術院教授)
 沖縄県は1994年から「新・県史編集」事業に取り組んできたが、このたび他府県に先駆けて初めての『女性史』(沖縄県史 各論編8、2016年)が刊行された。その特徴の一つが以下に述べる「近代教育による三重の変革」、すなわち1)「声の文化」から「文字の文化」への変容、2)「日本的近代への同化」、そして3)「標準日本語」への切替であり、それが同時に行われることによって沖縄の女性たちが抱えることになった世代間の文化的葛藤である。
◆「声の文化」から「文字の文化」へ
 第一の変革は、明治の近代教育によって、女性にも文字が教えられるようになったことである。有史いらい口承の伝統に生きていた沖縄女性は慣習のくびきを解かれ、初めて文字の習得が許された。すでに読み書きを自在にこなしていた大和女性たちが壮麗な平安朝文学などを遺しているのに対して、沖縄女性の手になる日記や文学などは皆無だった。
 しかし近代にいたるまで口承の神歌(オモロ)を綿々と伝承しつづけ、それゆえに声の文化を充溢させてきた沖縄女性である。王妃や聞得大君祝女ノロ)であっても文字は識らず、和漢書を読みこなすなど論外であったが、すべての知識は膨大な記憶として蓄えられていた。
 女性の知性は、文字で表現されるものではなく、語り部としての記憶や諸般に通じた「物知り」としての技で測られた。たとえば、伊波普猷*7曽祖母は、祖父に科(コウ。高等文官試験)の受験の要諦を教えたほど「物知り」で、母も、「記憶力が強く、二、三十年前の事でも何年何月何日何時に誰が生まれた等と言うことも記憶しておりまして、算術などは知らなかったが、三、四百円以下の乗除をすぐやることが出来る人」だと伝えられている。
 口承文化は話す者と聞く者とを統合し、和を奏でる「場」を優先させるのに対し、書承文化は、文字を読み解く読書の発達に伴って、分類・分析する「個」を誕生させることになる。近代におけるこの二つの文化の衝突は、じつは世代間の対立、価値観の対立となって沖縄女性を分断するとともに個人の内面にも亀裂を生じさせていた。
◆「日本的近代への同化」
 第二は、日本的近代への同化政策、すなわち琉球の「風俗改良」である。同化政策は、琉球女性がよすがとし主体性を発揮してきた伝統的な祭祀儀礼を、時代遅れの野蛮なものに転回してしまい、風土に根差していた固有の女性文化を遺棄させることになる。琉装*8から和装への衣裳・装束の大改革やハジチ*9禁止令などへと繋がって、女性美の基準も変容していく。
 また近代化以前には、琉球社会の男と女は次元を異にしたそれぞれの文化を生きていたが、近代化によって、封建的な男女間の格差が取り払われた代わりに、例えば「良妻賢母」思想のように、男性も女性も単一日本文化や価値観を共有するようになった。
◆「標準日本語」への切替
 第三は、言語(琉球語から日本標準語へ)の切替である。この日本標準語への均一化は、沖縄の人々、とりわけ女性たちには全く新しい経験だった。もちろん、琉球王国時代でも、ヤマトとの交流の深い士族層には、日本語に熟達することは教養として必須で、和歌も盛んに詠まれ、擬古文で書かれた文献も多い。しかし、それは男性士族に限られたことで、明治以降の近代教育が普及するまでは、農民層や女性層は、漢字であれ仮名であれ、文字言語からも日本語からも遠ざけられていた。
 かくして「識字」と「日本的近代」と「標準日本語」という三重の変革は、一種の文化革命のように、前代未聞の文化変容をもたらし、有史以来はじめて「読む女・書く女」が登場することになったのではあるが、同時に、彼女たちは連綿と続いてきた内なる口承文化の伝統との齟齬に苦しむこととなった。
琉球・沖縄の「おんな三代の記」
 近代移行期における世代間文化の衝突は、社会的にも露わだったはずであるが、歴史の空白となっている。しかしどの家庭でも、「世代間の葛藤」は深かったのではないか。私の場合、第一世代の祖母と第二世代の母との葛藤は、単なる嫁舅の確執ではなく、前近代文化と近代文化との代理戦争のようなところがあった。
 もちろんヤマトにおいても明治の世代わりは激烈でそれを生き抜いた母と娘を描いたのが、山川菊栄*10の自叙伝『おんな二代の記*11』。明治の近代化に沿って新知識を求め外国へ留学したいと思い願っていた菊栄の母も、菊栄自身も、水戸に残した祖母とは異なった世相を生きていくことになった。それでも世代間の葛藤はない。
 しかし沖縄の場合は、ヴェクトルの違う文化が淘汰されずに併存している。過渡期の「読む女・書く女」は、口承と書承の二つながらの文化を、日本語と琉球語バイリンガルとして抱え続け、矛盾に満ちた多様な文化の諸相を生き抜くが、昇華せずに次代に移譲した。すでに祖母と母を亡くした第三世代は、この葛藤をどう継承すればよいか、考えあぐねるばかりである。

『沖縄県史 各論編8 女性史』 生活再構成し、歴史描く - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト2016.5.22
 沖縄県史の女性史が刊行された。重厚な巻を手にして「もうすんだとすれば、これからなのだ」という、まどみちおの撞着(どうちゃく)語が思い浮かんだ。
 宮城晴美氏の「総論」によれば、1970年代が在野の研究グループ誕生に始まる女性史のエポックであったというから、77年に終了した最初の県史事業に、女たちは間に合わなかったのだ。こうして女性史が県史に組み入れられるのに、94年に始まる2回目の歴史編集事業を待たねばならなかった。その上、巻末の「編集経過」によれば当初計画の全4巻から1巻に規模を縮小されるなどの曲折を経ている。だが上梓(じょうし)された本書は、執筆者総勢42名による豊穣(ほうじょう)な記録集成となった。この重大なくさびを打つために二十余年をかけた関係諸氏に、まずは心底からの敬意を表したい。その上でここでは「女性史」編さんの意義に照らした特徴を二つだけ挙げる。
 第一に、女たちの経験を軸として構成されたことが時期区分に明瞭に現れている点である。琉球・沖縄史を分節するのは、「復帰」も含めた政治外交的「処分」だけではないという斬新な提言となり得ている。第二に、史資料の限界がある中で、書かれなかった歴史を「読む」技術が駆使されている点だ。禁止や禁忌、生存の経済など、公式の政治が捉え損なってきた記録の向こう側に人々の生活を再構成しようとする技術は、女に限定されない新しい歴史の書き方を、これから拓(ひら)いていくための嚆矢(こうし)となろう。これから、なのだ。
 一読すると、緻密な史資料調査に基づき入念に練り上げて完成された論考と、まずは出来事として県史に刻まれたという意味で記録的価値それ自体であるものなどが混在している。また、女性の視点、すなわち権力とは対極の位置から眼差す歴史を書こうとする創意工夫に満ちた文章がある一方で、歴史に垣間見える女性の姿を「発見」して公式の歴史に付け加えたにとどまるものも散見された。
 取り上げられた多彩な題材に沿った専門的評価も含め、今後さまざまな機会に批評されることを期待したい。そう、これからなのだ。
(阿部小涼・琉球大学教授)
沖縄県史編集事業
 沖縄県は1993年度から新県史編集事業に取り組む。女性史は各論編の考古、近世、古琉球、近代、自然環境に次いで6冊目の発刊となる。

 琉球新報記事について簡単にコメントしておきます。

 宮城晴美氏の「総論」によれば、1970年代が在野の研究グループ誕生に始まる女性史のエポックであったという

 1970年代というと

【沖縄:ウィキペディア参照】
◆1970年12月20日
 いわゆるコザ暴動
◆1972年5月15日
 沖縄返還
◆1975年7月19日
 沖縄国際海洋博覧会開幕

【女性問題:ウィキペディア参照】
◆1970年11月14日
 第一回・日本ウーマンリブ大会開催
◆1972年6月18日
 榎美沙子の中ピ連中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)結成(1977年に日本女性党とともに解散)
◆1972年7月1日
 勤労婦人福祉法(1985年に改正されて男女雇用機会均等法に発展的解消)成立
◆1974年1月
 市川房枝等が「家庭科の男女共修をすすめる会」を結成
◆1975年
 第1回国連世界女性会議。国連婦人年
◆1976~1985年
 国連婦人の10年
◆1977年6月
 榎美沙子が日本女性党を結成。1977年7月の参院選に出馬するが、全員が落選・供託金没収となり、党は解散
◆1979年5月4日
 サッチャーの首相就任

などということで1970年代は沖縄史的な意味で女性史的な意味でも「ある種の画期」だったわけです。


バーミンガム市史とジェンダー(岩間俊彦*12
(内容紹介)
 「バーミンガムで女性参政権獲得運動を行ったキャサリン・コートールド・オスラー」など、バーミンガム市史における女性史の視点について論じているが、具体的な評価については小生の無能のため紹介を省略します。


◆現代台湾の地方志*13編纂とジェンダー(都留俊太郎*14
(内容紹介)
 台湾においても日本同様、長年、『女性史』と言う観点が自治体史に弱かったと指摘した上で、女性史の視点を取り入れようとした最近の業績として「謝雪紅*15彰化県出身)」を取り上げるなどした

◆新修・彰化県志(婦女篇)

を紹介している。なお「新修・彰化県志(婦女篇)」が「謝雪紅(中国共産党員)」に触れたことは「蒋介石死後の台湾民主化」によって台湾地方史において「反共色」「蒋介石、国民党礼賛色」が衰退していることの象徴でもあります。
 具体的な評価については小生の無能のため紹介を省略します。


歴史のひろば・リレー連載『人類は感染症にいかに向き合ってきたか?』
◆婦長殉職之碑とその周辺(松岡弘*16
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

参考

ハンセン病療養所自治に焦点 県の元調査専門委員松岡さん出版:山陽新聞デジタル|さんデジ
 元岡山県ハンセン病問題関連史料調査専門員の松岡弘之・岡山大文学部講師(日本近現代史)が、瀬戸内市・長島の国立療養所長島愛生園と邑久光明園の入所者による「自治」の歩みにスポットを当てた「ハンセン病療養所と自治の歴史」を刊行した。

ハンセン病療養所の「自治」とは…資料たどり出版:朝日新聞デジタル
 瀬戸内市沖に浮かぶ長島には、100年近い歴史を持つハンセン病の国立療養所が2カ所ある。隔離政策のもと、双方の対照的な入所者自治活動の軌跡を丹念に資料からたどった「ハンセン病療養所と自治の歴史」(みすず書房、416ページ)を昨年2月に出版した岡山大学文学部講師の松岡弘之さん(44)。若手研究者を対象としたハンセン病市民学会の「人権賞」を受賞した。

ハンセン病はいま<203> 外島保養院の歴史と、そこに生きた人の 声に動かされて | しんらん交流館HP 浄土真宗ドットインフォ真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2015年1月号より
 一九三四年九月二十一日、近畿一円を襲った室戸台風*17で施設は壊滅し、入所者一七三名を含む職員やその家族など一九六名もの方が亡くなり、ハンセン病史上最大の悲劇と言われる大惨事となりました。
 ハンセン病史上最大の悲劇と言われる室戸台風の被害は、突き詰めれば、自分たちの地域に療養所を作らせなかったこと、患者の方々を外島保養院に強制的に送り込んだこと、そしてその家族を偏見・差別の眼差しにさらしてきたこと、立地条件の悪い場所にしか療養所を作らせず再建すら許さなかった、私たち市民一人ひとりが「無らい県運動」を進めてきた結果、起こった悲劇と言えるのではないでしょうか。

大阪にあったハンセン病療養所「外島保養院」 冊子やリーフレットで悲劇の歴史を後世に(1/4ページ) - 産経ニュース
 瀬戸内海に浮かぶ岡山県の長島(瀬戸内市)にある国立ハンセン病療養所「邑久(おく)光明園」。その前身が大阪市内にあったことはあまり知られていない。「外島(そとじま)保養院」と名付けられ、住宅地から離れた河口近くに建てられた施設は83年前の室戸台風で壊滅し、入所者ら196人が犠牲に。だが、病気への偏見や差別による反対運動で大阪では再建できなかった。そんな歴史を後世に伝えようと今年、冊子やリーフレットが作成された。教員らを対象にした研修で使われているほか、大阪で来月開かれる支援者養成講座でも副教材になるという。関係者は「悲劇を風化させず、語り継ぐツールとして活用してほしい」と呼びかける。
 外島保養院は明治42(1909)年、国のハンセン病患者隔離収容策として、近畿や北陸などの2府10県が大阪市西淀川区中島の河口付近に開設。海抜0メートル地帯で水害が懸念され、療養には厳しい環境だった。移転計画もあったが、候補地の住民らの反対でやむなく現地で拡張工事が行われた。昭和9(1934)年、室戸台風が直撃。入所者の約3割にあたる173人、職員とその家族14人、工事関係者9人の命が奪われた。「危険な場所だとわかっていた。人災の側面がある」と、邑久光明園の青木美憲園長は指摘する。その後、反対運動のため大阪府内では再建できず、13年に長島に再興された。
 そんな過去を知る人が減っていくことに危機感を抱いた関係者らは、室戸台風から80年の平成26年、外島保養院の記憶を語り継ぎ、差別や偏見を生んだ隔離の過ちを繰り返さないように「外島保養院の歴史をのこす会」を結成。会員の研究者や支援者らが邑久光明園や図書館、ゆかりの地などに足を運び、資料や新聞記事の発掘・収集、聞き取りなどを続けた。その成果が今年、「大阪にあったハンセン病療養所 外島保養院」と題したリーフレットや冊子としてまとまった。

中野婦長殉職碑/国立療養所邑久光明園【公式】/園内散策マップ
 この碑は、1934年の室戸台風で当園*18の前身である外島保養院が壊滅(入所者173名、職員・家族14名死亡)した際、我が身を犠牲にしてまでも入所者の救命に全力を尽くし殉職された「中野鹿尾(なかのしかお)」看護婦長を記念して1942年9月に建てられたものです。
 中野婦長は、当日いち早く重病棟に出勤し、風雨におびえる病人たちを励まし、避難と決まるや、すぐさま身動きもできない病人を背負い、また、手を引いて堤防へと急ぎ、それは三度にもおよび津波の迫る中、なお、その水の中に入って行き、残されている病人を背負い、視覚障がい者の手を引いて堤防へ上がろうとした際、高波に飲み込まれ二日後に遺体で発見されました。
 中野婦長は1934年4月に就職したばかりの看護婦であったが、遺体発見後、災害のあった9月21日付で婦長昇格の任命を受け、殉職死亡退職となりました。

【People+】外島保養院 ─室戸台風水害で失われた公立療養所─ | ピープル | ハンセン病制圧活動サイト Leprosy.jp
 悲劇を生んだ最大の要因は、療養所にまったく適さない1級河川の河口、海抜ゼロメートル地帯に療養所を建てたことにあったが、移転計画が反対運動によって実現しなかったこともまた、大きな原因のひとつだったと言えるだろう。移転さえ実現していれば196名の命は失われずに済んだ可能性が高いのである。その意味で外島保養院壊滅は「室戸台風」と、患者を疎外し排除した社会、このふたつによってもたらされたと言えるのではないか。
 保養院壊滅時に亡くなった196名のなかには患者たちから慕われた中野鹿尾(なかのしかお)婦長も含まれていた。
 中野婦長が保養院に赴任したのは室戸台風からわずか5ヵ月前の4月。「婦長」任命は殉職によるもので、災害があったときの肩書きは看護婦だった。

 警官が殉職すると昇格することは「刑事ドラマのネタ」にもなる有名な話ですが、それと同じ話だったわけです。ただ、こういう話(危険な場所に療養所を設置せざるを得なかったというハンセン病差別の為に殉職)を美談にはあまりしたくないですね。
 また、松岡氏が指摘するように「中野の顕彰」が「彼女個人の顕彰」から離れて、

◆危険な場所に療養所を設置せざるを得なかったというハンセン病差別の隠蔽
あるいは
小笠原登 - Wikipediaなどによる批判に対して「日本のハンセン病政策の正当化(小笠原などの批判を中野侮辱であるかのように強弁)」
あるいは
◆「ハンセン病患者と医療従事者(支援者)との間の複雑な人間関係の隠蔽(患者と医療従事者の間に意見対立などあってはならないし、実際にそんなものはない、その好例が中野の殉職だという強弁*19)」

に悪用される側面があったことにも注目する必要はあるでしょう。
 「中野顕彰→日本のハンセン病政策の正当化(小笠原などの批判を中野侮辱であるかのように強弁)」というのは「娘が拉致された横田一家らはかわいそう→拉致被害者家族会を批判すべきではない(救う会高世仁)」「インドに亡命したダライ猊下はかわいそう→ボーガスはダライ猊下を非難するな!(Mukke)」的な完全な話のすり替えですが。
 なお、松岡氏は「朝鮮人差別の問題があるので日本のハンセン病療養所とは同一視できない」と断りながらも「ハンセン病患者と医療従事者」の対立例として『周防正季(すおう・まさすえ)・小鹿島(ソロクト)更生園園長殺害事件』を簡単に紹介しています。

【参考:周防正季・小鹿島更生園園長殺害事件】
 ウィキペディアなどの記述が事実なら*20周防の行為(ハンセン病患者から強制的に金を集め、自分の銅像を建設し、建設後は崇拝を強要)は常軌を逸しており、あえて言えば「恨みを買って殺されるのも自業自得」でしょう。

周防正季 - Wikipedia小鹿島更生園園長刺殺事件 - Wikipedia参照
◆事件の背景と概要
 小鹿島更生園は、周防正季園長の主導の下、患者の収容作業を朝鮮全体で大々的に行っていたが、その際患者を患者ボスの下で組織化し集団で入所の上でボスが収容患者をまとめるというシステムが行われた。こうしたことから、園長・スタッフ─患者ボス─一般患者による支配関係が出来上がり、園の意向を患者ボスが代弁する形で権力を持つ様になった。
 1940年にボス患者の一人・朴順周が中心となって周防園長の銅像を建立する動きが起こり、強制的に献金が集まり建立にこぎつけた(なお、この銅像は戦時中の金属供出により1943年(昭和18年)に撤去された。)。この時の所内の状況について、収容者の一人が述懐している。

◆周防正季は日本の海軍大将クラスの人でした。歴代の院長たちの中でも最も政治力がある人だったと思います。第一に4、5年分の食料を備蓄したこと。次に農機具などをしっかり揃えたこと。
◆院長の銅像を建てにゃならないのだが、とにかく私たちも何もかも差し出さねばいけないのだが、一日三銭、余計に働く人は五銭。銅像を建てた。後は夜明けの3時に銅像を拝めと言われた。「私はキリスト教徒だからそんなことはできない」と答えて監禁室に入れられて死んだ人々がたくさんいました。
 TBS『筑紫哲也 NEWS23』インタビュー(1997年12月)

 周防の銅像を建立するにあたって主導的な役割を負っていた朴順周は1941年(昭和16年)に反対派に殺害され、収容所内の患者からの不満が徐々に表面化していった。
◆周防殺害
 1942年6月20日、小鹿島更生園で月例の「報恩感謝日」の行事が行われ、入所のハンセン病患者が多数集まっていた。周防園長が入場すると、患者・李春相が周防の前に立ち塞がり、「お前は患者に対してあまり無理なことをするからこれを貰え!」と日本語で叫びながら、周防の胸を包丁で一突きした。周防は直ちに救急処置が執られたが、1時間後に出血多量で死亡。犯人・李春相はその場で現行犯逮捕された。

 銅像を崇拝しろと言われて、いつも一カ月に一度は大勢が全部集められていたのです。当時は6千人がこの島に住んでいました。集落ごとに列をつくります。「気をつけ」と声がかかる。ところが私の横にたっている人が、こうしてずっと手を服の中にいれているのですよ。車がきて院長がちょっと後ろにいました。いきなりその人は院長の首をむんずとつかんで、ナイフがこんな風に。グサッとこう刺したのです。私はこれでもう私たちは命がない(と思ったのです)。院長が死んだ。院長の息子がきた。日本から。私たちは殺されずに助かった。
 『筑紫哲也 NEWS23』インタビュー(1997年12月)

 犯人・李春相は小鹿島更生園の入所患者の朝鮮人(当時27歳)であった。
 李春相は一審の光州地方法院、二審の大邱覆審法院とも死刑判決が下った。そして三審の高等法院は上告を棄却し、死刑判決が確定した。1943年(昭和18年)2月19日、大邱刑務所で李春相の死刑が執行された。
 光田健輔*21は、周防死亡時に書いた文章「小鹿島更生園長・周防博士の逝去を悼む」の中で「周防を愛の精神をもつ救らい者」とし、「更生園は世界一といっても溢美の言葉ではない。これが皆周防園長の血と汗の結晶である。伊藤公*22朝鮮人のためによく計られたが、終に「ハルピン*23」駅頭、無知の凶漢安重根のために倒れた。周防園長も朝鮮の同胞を処せしめる為に渾身の努力を惜しまなかったが終に園長の愛の精神を汲むことができなかった一凶漢の為に一命を落とした。誠に惜しみても惜みても余あることである。」と記した。これらの記述から滝尾英二*24は、光田が、周防を伊藤博文*25と並ぶ朝鮮人への理解者・功労者とする一方で、周防を刺殺した朝鮮人患者・李春相を「一凶漢(光田)」として伊藤を射殺した「無知の凶漢(光田)」安重根と対比させていると指摘している。

「被差別問題」を記述する場合の基本的視点=差別の現実から学ぶということ: 滝尾英二的こころ
 迫害のあるところには、抵抗があるのだ。
 その一は、小鹿島更生園での支配者やその手先に対する積極的な抵抗である。
 1941年6月1日の患者顧問である朴順周を患者・李吉龍が刺殺し、李吉龍は小鹿島の島内にある刑務所で自死している。また、1942年6月20日には、第4代園長・周防正季が、入園患者李春相によって刺殺され、翌年2月19日に李春相はテグ刑務所において死刑が執行された事件である。
 周防正季を刺殺した李春相(イ・スンサン)のことは、拙著『日帝下朝鮮の「癩」に関する資料集、第3輯(下)―小鹿島「癩」療養所と周防正季、〈研究・資料解説編〉』人権図書館・広島青丘文庫、(1996年3月)で詳しく論じてきた(83~90ページ)。その時かいた一節は、いま、韓国ではさかんに唱えられている。
 「光田の論旨も同じく、周防を『愛の精神をもつ救癩者』、李春相を『凶暴な不良の徒』として記している。
 『伊藤公(伊藤博文)は朝鮮人の為めによく計られたが、終に「ハルピン」駅頭無知の凶漢安重根の為めに倒れた。周防園長も朝鮮の同胞を善処せしむる為めに渾身の努力を惜しまなかったが、遂に園長の愛の精神を酌む事の出来なかつた一凶漢の為に一命を落とした。』と光田はいう。
 周防正季が伊藤博文なら、朝鮮人「癩」患者にとって安重根である。光田のいう「朝鮮人の為めによく計られた」伊藤博文、「無知の凶漢」安重根という「」書きの形容詞は許し難いが、「周防正季=伊藤博文」、「李春相=安重根」の対比・構図の光田の意見には、私も同意し賛成である。』
(『小鹿島「癩」療養所と周防正季、〈研究・資料解説編〉』、87ページ)」。
 韓国のSBS(ソウル放送)は、2003年10月27日の午後7:00~8:00まで、「李春相(イ・スンサン)について」放映し、私もソウルの汝矣島洞(ヨイドン)にあるSBS本社に行き、番組に出演した。
 患者顧問である朴順周を患者・李吉龍については、韓国国内でも余り知られていない。李吉龍のことについては、拙稿『小鹿島「癩」療養所と周防正季、〈研究・資料解説編〉』、82~83ページ)には、つぎのように記述した。
 「(3)『癩』の総親分・朴順周の利用=第三点は、周防が大邱(テグ)の「癩」者の総親分で侠客的人物の朴順周を手なずけ、彼を顧問に据えて利用し、収容患者の、園当局による管理・統制を強化したことである。このことを、中川浩三の記事からみていく。
 『‥‥その一人といふのが昭和十一年(1936年)収容した大邱の男で、その頃大邱にあった癩者の大きなグループの総支配人なのであつた。(中略)『今、朝鮮にどれ位の癩者がゐるだろうか?』と問うと‥‥全鮮の癩者の社会組織と人物とを一々挙げるのであつた。』
(注193=中川浩三「更生園の生態」、47ページ、本「資料集」第三輯(上)98ページ参照。『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第6巻、不二出版、(2003年7月)379ページ所収)
 「園長(周防正季=滝尾)はさう語りながら尚つづけた。『大邱の総親分といふのは、前々院長(花井善吉)のとき騒動をやつて一度出された男ですが、これは本当の親分であつた。歳は四十七でしたが、その男がこゝの気分を今日のやうな気風にかへて呉れたともいつてもよい。(中略)実にいゝ男だつたが、去年(1941年)他愛もないことで殺されたのです。(中略)
 その男はもう失明してゐたのです。或る朝のこと、皆の患者が神社参拝に出かけてゐた留守中に、突殺されたゐたのです。調査してみると、或る男の誤解からでしたが――」と園長は愛惜に堪へないといつた表情で、しづかに目を閉じた。」
(注194=中川浩三「更生園の生態」、46ページ、本「資料集」第三輯(上)99ページ参照。『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第6巻、不二出版、(2003年7月)380ページ所収)
 「周防のいう「或る男」とは患者・李吉龍のことで、患者代表で顧問・朴順周が看護長・佐藤三代次におもねって食糧から一日一人五勺づつの献納、周防園長之像(銅像)の献金等を提唱して患者を苦しめた朴を刺殺した。

韓国SBS『小鹿島に眠っている第二の安重根』
 1909年10月26日、満州哈爾濱(ハルピン)、三発の銃声とともに朝鮮侵略の元凶(ボーガス注:前韓国統監)伊藤博文が射殺されました。これによって日帝の蛮行を全世界に知らせ、彼らの肝を冷やした主人公はかの安重根
 それから三十余年。
 「周防正季博士殉職」
 再び日帝を衝撃に追い込みながら、第二の安重根と呼ばれた人がいました。
 「第一の凶悪犯が安重根であれば李春相は第二の凶悪犯だ。」
 1942年小鹿島(ソロクド)更生園。
 「俺の包丁をくらえ。お前が死ねば我々が生きる。」
 ここで園長・周防正季を包丁で刺し殺した朝鮮人李春相。
 日本人には「第二の安重根」であった彼の名が、なぜ我々にとっては聞き慣れないものでしょうか。
◆ジョン・グンシク(ソウル大学史学科教授、小鹿島歴史研究者)
「1940年から(周防園長在任時)に小鹿島において死亡率が急激に高くなります。それほど患者たちへの処遇が悪かったのが1940年前後の状況です。」
 しかし、このような状況にもかかわらず日帝はあっけなく周防園長を<癩患者の父>だと称しながら彼を美化し始めます。
<文化朝鮮、1942年5月10日>
・彼の表情は不幸な人たちに限りない愛情を注ぐ聖者に近い。
・彼は病勢がひどい患者にも手袋もつけずに素手で治療した。
・互いに愛する患者たちには、自ら司識者を務め、結婚して一緒に住めるようにした。
◆インタビュアー
「(園長)自ら素手で患者を治療したり、患者同士の結婚式で司識者を務めたりしたと…」
◆元患者
「そんなことは一切ありません。そんなことはありません。園長ははるか遠い存在で、(患者は)会うこともできませんでした。何故ならば、園長はいつも車で通い、歩いて通ったことがありません。園長と会うなんて、それは嘘です。誰がそんな嘘を話したが分かりませんが、そんなことは一切ありませんでした。」
 甚だしくは、患者たちの労役で生きている園長の銅像までも造るに至りました。そうするうちに怒りが極に達したある患者の刃物で最後の審判を受けるようになります。
 1942年6月20日、この日は3千余の患者や職員たちが園長の銅像に参拝する日(定例報恩感謝の日:毎月20日は、小鹿島更生園の患者や職員たちが院長の銅像に参拝する日)でした。周防園長が自分の車から降り、整列している患者の間を通り歩いていったとき、にわかにある青年が胸から何かを出して院長に襲い掛かります。
 「我々の怨讐、俺の包丁をくらえ、お前が死ねば我々が生きる」
 李春相の包丁に刺された周防園長は、その日に息を引きとりました。日本福祉厚生の最高の権威者として、皇室の厚い寵愛を集めていた彼の死は、伊藤博文に比肩されるほど、日本人には大きな衝撃でした。
 李春相はその場で逮捕され、三審を経て死刑を言渡され、テグ刑務所で27歳の短い人生を終えます。
 李春相の行跡を探りながら私たちが感じたことは、彼が実際にしたことに比べ、残された行跡があまりにも微々であるということです。
 日本人にとって大きな衝撃であった彼の存在が、解放を向かえて半世紀が過ぎた今も、なぜ私たちにはあまり知られていないのでしょうか。
 この問題に関連して私たちは、さる(数)十年間小鹿島問題に興味を持って来たある日本人学者と会いました。
 彼は我々の取材要請に、直接韓国まで来て応じてくれました。まず、日本人を殺した李春相をどのように考えているかをたずねました。
◆滝尾英二(たきお・えいじ 近代史研究者)
「同じ民族を抹殺する犯人を安重根が哈爾濱(ハルピン)で殺したように、李春相は日帝下で絶対権力を持っていた一支配者の残酷さを社会に知らせようとした点から、とっても立派な方だと思います。同胞のために命をかけた二人の行動は、非常に似ています。そういう点で李春相を『第二の安重根』であると思います。」
 李春相、彼が起こしたことが義挙であったか、あるいは独立活動であったかについては、より綿密な検討が行わなければならないと思います。しかしそれよりもまず私たちが忘れてはならないことがあります。
 李春相、彼が私たちの記憶の中で忘れられた存在であったことは、ハンセン病を患った他の人びとと同様に、私たちの偏見と差別のせいであることです。


歴史の眼・リレー連載『二一世紀の災害と歴史資料・文化遺産
◆地域歴史文化の継承と「資料ネット」活動(天野真志*26
(内容紹介)
 歴史資料ネットワーク(史料ネット)の活動が紹介されていますが、小生の無能のため詳しい紹介は省略します。

参考
歴史資料、災害から守ろう「地域の記憶 捨てないで」:朝日新聞デジタル2018.7.2
「史料を大切にする社会へ」 広がる文化財レスキュー :朝日新聞デジタル2020.4.14
「史料ネット」台風被害通じて 栃木、群馬でも発足:朝日新聞デジタル2020.10.14

会いたい・聞かせて:被災史料で「恩返し」を 「とちぎ歴史資料ネットワーク」発起人代表・高山慶子さん(45) /栃木 | 毎日新聞2020.12.28
 自然災害が頻発する中、被災した歴史資料や文化財を救出し、保存・活用する活動が全国的に広がっている。県内でも昨年の台風19号被害をきっかけに今年8月、史料レスキューを目的とした「とちぎ歴史資料ネットワーク(とちぎ史料ネット)」が設立された。発起人代表の高山慶子*27・宇都宮大准教授(45)に聞いた。

被災した古文書「廃棄前に連絡を」 仙台のNPO呼び掛け | 河北新報オンラインニュース / ONLINE NEWS2021.2.18
被災文書の活用法探る 全国史料ネット、オンラインで集会 | 河北新報オンラインニュース / ONLINE NEWS2021.2.21


◆書評:森暢平*28『近代皇室の社会史』(2020年、吉川弘文館)(評者:早川紀代*29
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

大正天皇に「側室」はいたのだろうか? 『近代皇室の社会史』 | BOOKウォッチ
 平成から令和になってまもなく一年。本書『近代皇室の社会史』(吉川弘文館)は明治以降の皇室史を「家族」や「家庭」という視点からとらえなおしたものだ。副題は「側室・育児・恋愛」。
 著者の森暢平さんは1964年生まれ。京都大学文学部史学科卒業。成城大学文芸学部教授 。著書に『天皇家の財布』(新潮社)、共著に『「昭和天皇実録」講義』(吉川弘文館)、『皇后四代の歴史』(吉川弘文館)がある。
森さんは問いかける。
 「天皇睦仁(明治天皇)に側室がいたことは、その親王内親王がすべて庶子であることから明らかである。一方、その孫・裕仁昭和天皇)に側室がいなかったことは、『牧野伸顕*30日記』に記されている宮中女官改革の経過などによりまた、明らかであろう。では、その間にいる嘉仁(大正天皇)はどうであっただろうか」
 結論として、大正天皇が一夫一婦であったことは先行研究で「おおむね一致する」。ではなぜそうなったのか、というのが著者の問題意識だ。
 著者は記す。
 「明治中期までの上流階層では、側室は『家』存続戦略として当然視されるものであった。正室を持たず、庶子を多く儲けていた山階宮晃久邇宮朝彦はこうした前近代的な家族慣行を保持し続けていた皇族であった」
 明治の皇室典範庶子*31皇位継承を認めていたそうだ。では、宮家皇族についてはどうするか。いろいろ議論があったことも紹介されている。1910年になって「皇室親族令」が制定された。そこでは庶子について、他の皇族と宮内大臣が否認の申し立てができる条文があるそうだ。本書はこうした規制が、庶子抑制に効果を持ったことを認めつつ、それ以上に、「明治期皇室が近代家族化の波のなかにいたことが大きいだろう」としている。
 宮家皇族における最後の庶子北白川宮の第五王女で1895年。明治天皇に最後の庶子が生まれたのは1897年だという。
 もっとも、昭和戦前期にも皇族の私生児問題は内々に問題になったことがあるそうだ。主として皇族が「芸者」や「玄人」と関係したことによるという。著者は、皇族が側室を公然と置いていた明治中期までとは、「問題の水準が全く違う」「私生児として秘匿される状況こそ、皇室における庶子排除の帰結であるといえよう」と書いている。
 著者は天皇一家をめぐる図像に注目している。1890年制作の御一家の「錦絵」では、天皇、皇后、皇太子のほかに「女官」が描き込まれている。しかし、98年の家族がそろった「皇室御親子御尊影」では、「これまでの錦絵・石版画には盛んに描かれてきた子どもの生母(睦仁の側室である柳原愛子*32園祥子)は描かれず、存在が隠蔽される」。
 大正天皇の「側室廃止」は、明治後期に形成されつつあった近代家族像の延長線上にあったというわけだ。

*1:関西大学名誉教授。兵庫県立歴史博物館館長。著書『国訴と百姓一揆の研究』(1992年、校倉書房)、『女性史としての近世』(1996年、校倉書房)、『男と女の近世史』(1998年、青木書店)、『日本近世史の可能性』(2005年、校倉書房)、『武士の町 大坂』(2010年、中公新書→2020年、講談社学術文庫)、『近世大坂地域の史的研究(新版)』(2016年、清文堂出版)など(藪田貫 - Wikipedia参照)

*2:お茶の水女子大学名誉教授。著書『女性のいる近世』(1985年、勁草書房)、『徳川時代の社会史』(2001年、吉川弘文館)、『幕末農村構造の展開』(2004年、名著刊行会)、『勝小吉と勝海舟』(2013年、山川出版社日本史リブレット)、『徳川幕府財政史の研究』(2020年、研文出版)など(大口勇次郎 - Wikipedia参照)

*3:桜花学園大学教授。著書『戦間期の女性運動』(1996年、東方出版)、『近代日本女性史講義』(2007年、世界思想社)、『子どもへのまなざし:子ども研究の歴史』(2019年、文芸社

*4:青森中央学院大学教授。著書『洋学受容と地方の近代:津軽東奥義塾を中心に』(2002年、岩田書院)、『津軽の近代と外国人教師』(2013年、岩田書院

*5:著書『母の遺したもの(新版):沖縄・座間味島「集団自決」の新しい事実』(2008年、高文研)

*6:著書『おきなわ女性学事始』(2006年、新宿書房

*7:1876~1947年。著書『沖縄歴史物語:日本の縮図』(1998年、平凡社ライブラリー)、『古琉球』(2000年、岩波文庫)、『沖縄女性史』(2000年、平凡社ライブラリー)など(伊波普猷 - Wikipedia参照)

*8:琉装については例えば琉装 - Wikipedia沖縄の伝統衣装「琉装」で那覇・国際通り周辺を散策!沖縄旅で新しい自分に出合う│観光・旅行ガイド - ぐるたび沖縄の文化・風土が凝縮した伝統衣装「琉装」 | 特集記事 | Okinawa Travel Info参照

*9:入れ墨のこと。「ハジチ」については例えば沖縄女性の入れ墨「ハジチ」禁止令から今年で120年 法令で「憧れ」が「恥」に変わった歴史【WEB限定】 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス沖縄女性の入れ墨「ハジチ」、東京で写真展 国に禁じられた文化伝える | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス沖縄女性の入れ墨「ハジチ」写真展 東京で開催 消えた伝統風習を記録 - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト禁止令が出ても…入れ墨「ハジチ」は沖縄女性のあこがれ - 沖縄:朝日新聞デジタル消えた沖縄の文化「ハジチ」 – QAB NEWS Headline参照

*10:片山・社会党内閣で労働省初代婦人少年局長に就任。著書『覚書・幕末の水戸藩』、『武家の女性』(以上、岩波文庫)など。山川均の妻。(山川菊栄 - Wikipedia参照)

*11:現在は岩波文庫

*12:東京都立大学教授。著書『イギリス・ミドルクラスの世界』(2008年、ミネルヴァ書房

*13:三国志』で分かるように中国文化圏では歴史書は『志』と表現されます

*14:京都大学助教

*15:1901~1970年。日本統治時代の台湾で台湾共産党日本共産党台湾民族本部)を設立。二二八事件を契機に香港に逃れ、台湾民主自治同盟を結成して初代主席に就任した。台湾民主自治同盟は中国のいわゆる「八大民主党派(中国国民党革命委員会(民革)、中国民主同盟(民盟)、中国民主建国会(民建)、中国民主促進会民進)、中国農工民主党(農工党)、中国致公党九三学社台湾民主自治同盟(台盟))」の一つである。その後、中国共産党中央華東局軍政委員、中国全国婦女聯合会副主席などを経て、1954年には全国人民代表大会台湾省代表に就任している。1970年に北京にて病没した。文革時代には迫害を受け失脚したが、文革終了後の1986年に名誉回復されている(謝雪紅 - Wikipedia参照)

*16:岡山大学講師。著書『ハンセン病療養所と自治の歴史』(2020年、みすず書房

*17:約3,000人の死者・行方不明者を出し、枕崎台風(1945年、死者2,473人、行方不明者1,283人)、伊勢湾台風(1959年、死者・行方不明者は約5,000人)と並んで昭和の三大台風のひとつとされる(室戸台風 - Wikipedia参照)。

*18:邑久光明園のこと

*19:こうした「当事者と支援者」の間の「意見対立」が最悪の形で「解決」されたのが「家族会による蓮池透追放」です。蓮池追放により家族会は「当事者(家族会)と支援者(救う会)の間には対立は何一つない」という事実に反するフィクションを堅持し、そのフィクションの維持に邪魔な蓮池氏を「裏切り者」として追放しました。その結果、拉致被害者が帰国すれば「まだ良かった」のですが「小泉訪朝から18年に及ぶ拉致敗戦」では話になりません。

*20:まあ事実なのでしょうが。

*21:1876~1964年。国立長島愛生園初代園長等を歴任。「日本のハンセン病政策の闇」を象徴する人物として現在では批判的に評価される(光田健輔 - Wikipedia参照)。

*22:ここでの「公」とは伊藤の爵位「公爵」のこと

*23:現在は黒龍江省省都

*24:著書『朝鮮ハンセン病史:日本植民地下の小鹿島(ソロクト)』(2001年、未来社)。個人サイト『滝尾英二ウェブ』(2006年3月3日まで)、滝尾英二的こころ(2006年1月21日まで)

*25:首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監など要職を歴任。元老の一人(伊藤博文 - Wikipedia参照)。

*26:国立歴史民俗博物館特任准教授。著書『記憶が歴史資料になるとき:遠藤家文書と歴史資料保全』(2016年、蕃山房)、『幕末の学問・思想と政治運動:気吹舎の学事と周旋』(2021年、吉川弘文館

*27:著書『江戸深川猟師町の成立と展開』(2008年、名著刊行会)

*28:毎日新聞記者。成城大学教授。著書『天皇家の財布』(2003年、新潮新書

*29:著書『戦時下の女たち:日本・ドイツ・イギリス』(1993年、岩波ブックレット)、『近代天皇制国家とジェンダー』(1998年、青木書店)、『近代天皇制と国民国家』(2005年、青木書店)

*30:第1次西園寺内閣文相、第2次西園寺内閣農商務相、第1次山本内閣外相、宮内大臣内大臣など歴任。明治新政府で大蔵卿、内務卿を務めた大久保利通の次男。吉田茂元首相の義父。麻生太郎菅内閣副総理・財務相の曾祖父(牧野伸顕 - Wikipedia参照)

*31:庶子」に差別的なイメージがあるため、現代では「非嫡出子」と呼ばれることが多い。

*32:大正天皇の生母(柳原愛子 - Wikipedia参照)