山口組と芸能界、自民党(2023年2月7日記載)(追記あり)

【追記】
 西城秀樹の甥は、超有名アウトローの息子だった(らしい) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)でこの拙記事を紹介頂きました。いつもありがとうございます。
【追記終わり】
【1】
西城秀樹の甥は、超有名アウトローの息子だった(らしい) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

 山口組の伝説的な組長である田岡一雄組長が1981年に亡くなった際、その葬儀の生け花に、演歌界の大御所からアイドルにいたるまで、さまざまな有名芸能人の名が連なっていました。
西城秀樹郷ひろみ千昌夫フランク永井堺正章細川たかし*1都はるみ*2松山恵子小林幸子ジュディ・オング川中美幸、高田美和*3石野真子*4西郷輝彦
 ほかにも待田京介高田みづえ*5らの名前も見受けますね。また美空ひばりも弔辞を読んだとのこと。
 ことわっておきますが、このようなことがあからさまだったのは、1980年代のこのころまでかと思います。

 「田岡(あるいは暴力団)と芸能界」の関わりについては以下を紹介しておきます。

神戸芸能社 - Wikipedia
 暴力団・三代目山口組(田岡一雄組長)の企業舎弟美空ひばりの他に田端義夫高田浩吉里見浩太朗山城新伍橋幸夫三波春夫らの興行権を持った(ボーガス注:さすがにいわゆる第一次頂上作戦*6によって、神戸芸能社から有名芸能人が去ることでここまであからさまな癒着はなくなったようですが)。

田端義夫 - Wikipedia
 1960年、山口組組長・田岡一雄らとの会食中、店に偶然居合わせた明友会構成員にその場で歌うことを要求され、これに端を発して山口組組員と明友会構成員との殴り合いが起き、両組織の全面抗争に発展する(明友会事件 - Wikipedia)。この頃は暴力団関係者と芸能人の付き合いは問題とされておらず、制作や興行を仕切る暴力団関係者との関わりなしでの芸能活動は困難な時代であった。

第一次頂上作戦 - Wikipedia
 1965年5月21日夜、田岡一雄は、赤坂のちゃんこ屋で、高倉健江利チエミ夫婦、清川虹子宮城千賀子らと会食した。

林正之助 - Wikipedia
 吉本興業創業者・吉本せい実弟吉本興業総支配人、社長、会長を歴任。
 1968年、当時の山口組組長・田岡一雄と組んでレコード会社を乗っ取ろうとした容疑で兵庫県警に逮捕されている。

吉本興業と山口組の関係 伝説の広報マンが語った「林元会長の仰天秘話」 | デイリー新潮
 去年、世間を騒がせた吉本興業の芸人による闇営業問題。この一件に触発されて、同社に35年間勤務した竹中功氏が「吉本興業史」(角川新書)を出版した。改めて“闇営業”、吉本と暴力団について聞いた。
(中略)
 「吉本興業は明治、大正、昭和初期まで、ヤクザとの関わりがありました。ところが1981年、山口組の田岡一雄三代目組長が亡くなる直前、吉本の舵をとっていた林正之助会長が所属芸人を集めて『今日から、ヤクザとは一切関わってはならん!』と宣言しました」
 もっとも、「ヤクザとは関わるな」と言った当の林会長は、その後同じ年に行われた田岡組長の葬儀に出席しているのだ。
 「葬儀では、林会長は位牌を持ちながら歩いていました。親族と同じくらい、田岡組長と関係が深かったですね」
 林会長が田岡組長の葬儀に参列した様子をメディアが報じた。それを見た中田カウスが、会長と交わした会話を竹中氏は今でも鮮明に覚えている。本書から引用すると、
《会長には、新聞を見せて、『これは会長やないんですか』と聞いてみたんです。すると会長は表情も変えずにおっしゃりました。『カウスくん、キミはボクに双子の兄弟がおるのを知らんかったんか?。これはボクやなくて弟のほうや。しゃあない奴やな。きつく言っとくわ』と》
 吉本興業は、1912年に吉本泰三と妻のせい(旧姓・林)が興した。山口組と関係を持ったのは、1934年。浪曲師・広沢虎造の興行権を得るために、せいが山口組の山口登二代目組長と面会した。ところが吉本と映画出演の専属契約を結んだ虎造は、山口県下関の籠寅組と縁を持ち新興キネマの作品に出演する約束を結んでしまう。困ったせいは、山口組に仲介を依頼した。すると、1940年、山口登組長は籠寅組に襲撃され、瀕死の重傷を負い、2年後に亡くなってしまったという。
林正之助氏の話によると、山口登組長が襲われた現場に当時総支配人だった正之助氏も行く予定だったというのです。用事があって30分遅れたため、助かったとうれしそうに言っていました。その後正之助氏は山口組と関係が深くなり、兵庫県警の内部資料である『広域暴力団山口組壊滅史』には、正之助氏が山口組準構成員と書かれてありました。所属芸人にヤクザとは一切関わるなと言ったのは、ヤクザと付き合うのは自分で最後だと言いたかったのでしょうね」
 山口登組長の死は、吉本興業にも責任の一端があったことから、正之助氏は山口組の田岡一雄三代目と深い関係を持った。田岡組長の妻名義で4080株の自社株を持たせていたほど、身内同然の付き合いだったという。

元吉本芸人「ヤクザと簡単に切れへんことはみんな知ってる」|NEWSポストセブン
週刊ポスト2019年8月16・23日号
 漫談家前田五郎*7(77)。坂田利夫(77)との漫才コンビコメディNo.1」で人気を博した、元吉本のベテランである。
「大崎(洋)会長が僕らのマネージャーをしとった時にヤクザの仕事を持ってきて、それに行ってんねんから、何回も。それを出さんとええカッコ抜かしやがって」
「当時の“発注先”はほとんどが山口組本家やった。もともと林正之助会長(創業者・吉本せいの弟)と山口組三代目(田岡一雄組長)の仲は有名(*注)で、その縁もあって本家の祝い事や催しには必ず吉本芸人に声がかかったんですわ。
【*注:1968年1月、正之助氏は田岡一雄組長と組んでレコード会社を乗っ取ろうとしたとして、恐喝の疑いで兵庫県警に逮捕された。当時、正之助氏は「山口組があるから、レコードの販売、製造がうまくいく」などとレコード会社の設立者を脅したと報じられている】
 三代目が亡くなった時は追悼の盆踊り会があって、吉本の芸人は会社命令で参加させられたほどや。その場に菅原文太さんや山城新伍さんらがおって驚いた。

島田紳助 - Wikipedia
 2011年8月23日に吉本興業から「島田紳助に関する緊急記者会見開催」がマスコミ各社に通知され、吉本興業東京本部で、紳助および吉本興業社長の大崎洋らが記者会見し、同日に島田紳助が芸能界を引退すると発表した。
 引退事由は、紳助と暴力団関係者との交際が発覚し、けじめを付けるためであるとした。
 関係するとされた暴力団関係者の1人は元プロボクサーで引退後はタレント活動も行っていた渡辺二郎*8で、もう1人は山口組筆頭若頭補佐で山口組系極心連合会会長の橋本弘文(2019年に引退し極心連合会を解散)である、渡辺は極心連合会相談役であると報じられた。

中田カウス・ボタン - Wikipedia
 カウスは2007年4月、週刊誌報道で暴力団との関係を指摘され、「ファンを騒がせた」として吉本興業特別顧問を退任した。
 これを受けてNHKは、カウスが出演した『バラエティー生活笑百科』(NHK総合)の4月28日と5月5日放送分を無期限放送延期とした(事実上の中止)。
 2011年、ビートたけしは『週刊文春』のインタビューにおいて、「ある芸能人」に仕組まれ山口組5代目組長の渡辺芳則に会わされたことがあると語った。たけし本人は名を伏せたが、同誌はそれがカウスであるとしている。この記事に対しカウスは、事実関係が異なると『週刊朝日中田カウス たけしが語った暴力団交際の証言に「事実関係が違う」(1/2)〈週刊朝日〉 | AERA dot. (アエラドット)で述べ、たけしに明確に否定するよう再三求めたものの拒否されたとしている。

ヤクザと芸能界、全部バラすぞ!なべおさみが見た昭和の大スターたち(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(2/7)
なべ
「1973年にひばりさんの弟が暴力団員だったことが分かり、全国の公会堂や市民ホールの使用を禁止されてしまいました。そして紅白歌合戦を数年辞退することになります。」
 美空ひばりの個人事務所は山口組三代目・田岡一雄組長が立ち上げた神戸芸能社の傘下にあり、田岡組長自身も役員に名を連ねていたことは周知の事実である。そしてひばりの実弟・かとう哲也は山口組系組織の舎弟頭で、たびたび逮捕歴があった。

【2】
 ちなみに「徳田球一生前」なのでかなり昔ですが、昔は「芸能界と暴力団」どころか、もっととんでもない話があったことを実話雑誌だか「徳田球一についての本(Amazon.co.jp: 徳田球一全集(4)国会での闘争 : 徳田 球一: Japanese Booksだったかもしれない)」だかで読んで知ったことがあります。

日本経済新聞社 私の履歴書 浅沼稲次郎
 共産党の立花(ボーガス注:敏男)君が民自党の小西寅松*9親分の頭をポカポカなぐる騒ぎとなった。

第5回国会 衆議院 本会議 第34号 昭和24年5月20日 | テキスト表示 | 国会会議録検索システム シンプル表示
◆平川篤雄君*10
 私は、立花敏男*11、小西寅松両君を懲罰委員会に付するの動議を提出いたします。両君の行動が懲罰事犯であると断ずる根拠は、きわめて簡明であります。すなわち、神聖なるべき議場内において暴力を行使し、ために國会の威信を失墜したという点、それのみにて懲罰に値すると断ずるがゆえであります。

第5回国会 衆議院 本会議 第39号 昭和24年5月25日
◆大西弘君*12
 立花敏男君の弁明は、当日の議場混乱の際に、自党の議員神山茂夫君が人々に取囲まれて危險な状態に陥つたものと解し、神山君を助けようとして思わず自席よりかけよつたものであつて、その際ほとんど無意識に小西君の頭部に手を加えたことについては、決して故意に出たものではないが、たとい前後の事情がどうあろうと、自己の行動の惡い点はこれを率直に認めるというのでありました。
 また小西寅松君の弁明するところによると、当日の議場混乱の際に、神山茂夫君が大きな声をあげるので、自席から立つてこれをとめようとしていたところ、だれかにうしろから頭をたたかれたので、そのたたいた人をつかまえようと追跡をしたものであつて、議員としてその行動の非は認めるが、その際自分としては暴力を用いた覚えはないというのでありました。
 採決の結果、(中略)議員立花敏男君に対しては三十日間の登院停止、また議員小西寅松君に対しては七日間の登院停止をそれぞれ命ずべきものと議決した次第であります。

ということで徳田球一の国会演説中に民主自由党(吉田首相が総裁、自民党の前身の一つ)議員が野次を飛ばし、その民自党議員を共産党議員が憤激してぶん殴った。
 ところがこの民自党議員小西寅松 - Wikipedia、既に現役は引退してたかもしれませんが、もともとは山口組系の暴力団組長(だから浅沼も親分と書いている)で「警察が山口組の徳田襲撃を警戒する」という笑えない事態になってしまいます。
 俺が読んだ記事では結局「うちの議員が野次を飛ばしたのは悪かった(民自党)」「うちの議員も殴ったのは悪かった(共産党)」とお互い詫びを入れて手打ちだったような記憶があります。

*1:2008年9月に山口組後藤組後藤忠政組長とのゴルフコンペに参加したことが明らかとなり、NHKの番組出演が見送られ、2008年の第59回紅白には出場できなかった(細川たかし - Wikipedia参照)

*2:2015年11月24日、東京国際フォーラムでの全国ツアー最終日に、コンサート活動を休業することを発表。また2015年12月16日には、五木ひろし司会の音楽番組『日本の名曲 人生、歌がある“3時間スペシャ都はるみトリビュート”』(BS朝日)への登場をもって、テレビ出演も見合わせている。2016年2月18日、TBSラジオ大沢悠里のゆうゆうワイド』にゲスト出演。都は充電中の近況を「精神的にスッキリした感じ」と報告ののち「いい詞に出会えばいいけど、なかなか巡り会わない」など、具体的な活動復帰には否定的なコメントを残した。都がマスメディアへ登場したのは当番組が最後となり、現在、芸能活動は完全停止の状態である。2021年、元俳優の矢崎滋と共に東北地方でホテル暮らしをしていることが『フライデー』に報道された(都はるみ - Wikipedia参照)。

*3:写真では1981年当時、夫婦関係にあった片岡秀太郎 (2代目) - Wikipedia(後に離婚)との連名

*4:石野のデビューは1978年なのに「1981年に田岡に花を送るのか?」感がありますね。何とか縁切りできなかったのか。この点は1977年デビューの高田みづえも同じですが。

*5:1985年2月、同じく鹿児島県出身で大相撲の人気力士で当時大関だった若嶋津六夫との婚約を発表し芸能界引退を表明(高田みづえ - Wikipedia参照)

*6:山口組においては田岡の舎弟・岡精義が引退表明に追い込まれている(第一次頂上作戦 - Wikipedia参照)

*7:1942~2021年。2009年4月3日に起きた中田カウスへの脅迫状送付事件に関与していたと一部で報道されたため、吉本興業は本人と相談の上で「世間を騒がせたため」という理由で5月25日よりタレント活動を休養させると発表。7月21日、この事件に関連して大阪府警南警察署より参考人として任意の事情聴取を受けるが一貫して関与を否定。8月31日、「コメディNo.1は解散した」と吉本興業が発表。9月15日、吉本興業から契約を解除された(前田五郎 - Wikipedia参照)。

*8:2007年6月4日、大阪府警岸和田署に知人の暴行事件を隠匿するために被害者に被害届の提出をさせないよう迫ったとして証人等威迫の疑いで逮捕されたが、一週間後に処分保留で釈放された。日本ボクシングコミッションは、渡辺をライセンスの無期限停止処分とし、ボクシング界から事実上の永久追放処分となった。2007年6月30日には羽賀研二未公開株詐欺事件に絡み恐喝未遂の疑いで逮捕・起訴され、2013年4月1日に懲役2年の実刑判決が確定した(渡辺二郎 - Wikipedia参照)。

*9:1902~1960年。1946年、第22回衆議院議員総選挙で初当選(以後第28回まで当選7回)(小西寅松 - Wikipedia参照)

*10:1911~1996年。1946年の第22回衆議院議員総選挙広島県全県区に無所属で出馬して初当選。1947年の第23回総選挙で広島県第1区に国民協同党(後に自民党総裁、首相となる三木武夫が委員長)公認で出馬して落選するが、1948年、広島県第3区補欠選挙に出馬して再選。以後1952年の第25回総選挙まで再選され、衆議院議員に4期在任した。この間、国民協同党庶務部長、事務局長、国民民主党(芦田内閣官房長官、片山内閣運輸相を歴任した苫米地義三が委員長)副幹事長、改進党(戦前、東条、小磯内閣外相、戦後、鳩山内閣外相を務めた重光葵が総裁)出版部長などを務めた(平川篤雄 - Wikipedia参照)。

*11:1908~1994年。1949年の第24回衆議院議員総選挙に、兵庫1区から日本共産党公認で出馬して当選。衆議院議員を1期務めた。その後、アカハタ兵庫支局長、共産党神戸市委員長、共産党兵庫県副委員長、日ソ協会兵庫県連副会長、兵庫県商工団体連合会顧問、共産党中央委員会顧問などを歴任(立花敏男 - Wikipedia参照)

*12:1908~1975年。1949年の第24回衆議院議員総選挙愛媛県第1区から民主自由党所属で出馬して当選、衆議院議員に1期在任(大西弘 - Wikipedia参照)