特集『画期としての明治六年:政変*1150年を記念して』
◆維新史研究における明治六年政変の意義と課題(大庭裕介*2)
(内容紹介)
まず毛利敏彦*3『明治六年政変の研究』(1978年、有斐閣)、『明治六年政変』(1979年、中公新書)とそれに対する田村貞雄氏*4の批判が紹介されます。大庭氏は「西郷が征韓論者であること」については現在は争いはなく、その意味では「田村氏の勝利」と評価します(田村批判については拙記事田村貞雄氏の毛利敏彦「明治六年政変説」批判の紹介 - bogus-simotukareのブログで紹介しました)。
但し、毛利主張が全く無意味だったとは見なしておらず、毛利主張以前は「征韓論派(外征重視:薩摩の西郷隆盛、土佐の板垣退助、後藤象二郎、肥前の江藤新平、副島種臣)」「征韓論批判派(内政重視:公家の岩倉具視、三条実美、薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允など)」は「一枚岩(批判派においては大久保がリーダー)」と見なす傾向があったが、毛利主張以降は「一枚岩」とは見なさず、個々の政治家の個性に注目する傾向が強まっているとのこと。
◆「大久保政権論」の現在地(小幡圭祐*5)
(内容紹介)
大久保政権とは「大久保利通の政権」の意味で、始期が征韓論政変で西郷ら対立する政治家を下野させ、その後、初代内務卿として実権を握った「1873年(明治6年)11月」、終期が大久保が暗殺された紀尾井坂の変(1878年(明治11年)5月)とされます。
なお、当初の研究では「大久保政権=強力な専制体制」と見なされてきましたが研究が進むにつれて、大久保の体制は従来思われていたほど強固ではなかったとする見解が強まっていきます。
例えば1875年(明治8年)、大久保は木戸孝允(台湾出兵(1871年)を巡り、賛成派の大久保と反対派の木戸が対立、出兵の実施に反発した木戸が参議を辞任し下野)、板垣退助(勿論、征韓論政変で下野)と会談(いわゆる大阪会議)を行い、板垣、木戸は参議に復帰します(但し、板垣は大久保との対立から参議復帰から半年で参議を辞任)。大久保が絶大な力を保有していたのなら、板垣や木戸が在野から批判しても恐れることはなかったところ、わざわざ政権内に取り込もうとしたことはむしろ「大久保の力の弱さ」を示してるのではないかとされます。
また、大久保が内務卿として推進しようとした施策が「当時、大蔵卿だった大隈重信」によって「予算面での問題」を理由に反対され挫折したケースもあったことが指摘されます。
その結果「そもそも大久保政権と呼ぶことが適切か」という意見(但しどう呼ぶべきかについて定説はない)も最近では出ているとのこと。
◆参議・省卿兼任制の導入過程(柏原宏紀*6 )
(内容紹介)
参議と「省のトップである卿」を兼任とする「参議・省卿兼任制」は兼任制主張者の大久保が征韓論政変後、政治の主導権を握ることで政策として確立するが、それ以前から大久保の主導で
【征韓論派】
◆参議兼司法卿:江藤新平
◆参議兼外務卿:副島種臣
【征韓論反対派】
◆参議兼大蔵卿:大久保利通
◆参議兼文部卿:大木喬任
と言う形で「事実上の参議・省卿兼任制」が展開されていた。征韓論派においても兼任制への反対はないことが注目される。
◆明治六年政変後の宮中と華族(久保正明*7)
(内容紹介)
明治六年政変(1873年)において反対派の勝利を決定したのは勿論明治天皇(1852年生まれ)ですが、まだ若い彼が全てを主体的に決定したとは勿論言えません。そこは征韓論派、反対派双方によるいわゆる「宮中工作(天皇の側近に対する政治工作)」があったわけで、反対派の勝利には宮中工作の勝利という面がありました。
明治六年政変 - Wikipedia
10月18日、三条太政大臣は病に倒れた。10月19日、副島、江藤、後藤、大木の征韓論派参議四人(但し後に大木は反対派に転じる)で行われた閣議は岩倉を太政大臣摂行(代理)とすることを侍従長、宮内卿の徳大寺実則*8に要望し、明治天皇に奏上された。副島らは閣議の決定を早く上奏させるために岩倉を代理に就任させようとしたと見られている。
しかし大久保は挽回のための「秘策」があると見出した。宮内少輔吉井友実に働きかけ、明治天皇が三条邸への見舞いを行った後に岩倉邸に行幸させ、岩倉への太政大臣摂行就任を命じさせるというものだった。10月20日、明治天皇の行幸は実行され、岩倉は太政大臣摂行に就任した。10月22日、西郷、板垣、副島、江藤の征韓論派参議四人が岩倉邸を訪問し、明日にも遣使を発令するべきであると主張したが、岩倉は自らが太政大臣摂行となっているから、三条の意見ではなく自分の意見を奏上するとして引かなかった。
岩倉は10月23日に参内し、決定の経緯と閣議による決定と自分の意見を述べた上で、明治天皇の聖断で遣使を決めたいと奏上した。岩倉と大久保らは宮中工作を行っており、西郷ら征韓派が参内して意見を述べることはできなかった。しかし天皇は重大事であるから明日回答したいと返答し、岩倉は不安に陥っている。10月24日、岩倉による派遣延期の意見が通り、23日に提出された西郷の辞表は受理され、参議と近衛都督を辞職した。24日には板垣、江藤、後藤、副島が辞表を提出し、25日に受理された。
ということでウィキペディアも侍従長、宮内卿の徳大寺実則や宮内少輔吉井友実への政治工作の事実に触れています。
なお、久保氏は「結果的には大きな政治的変化をもたらさなかったため」従来あまり検討されてなかった以下の事件を宮中工作(久光*9左大臣から有栖川宮熾仁親王、三条の政治的同盟者である岩倉右大臣から宮内卿・徳大寺実則への働きかけなど)の一例として取り上げています。
三条実美 - Wikipedia参照
明治7年(1874年)4月27日、保守派の重鎮である島津久光が左大臣となる。彼は政府の欧化政策を批判し撤回させるべく動きを強めた。久光は幕末以来の親交を持つ華族を動員して政府に圧力をかけ、明治8年(1875年)には三条実美太政大臣の権限を左右大臣(右大臣は岩倉具視、左大臣は久光)に譲らせるよう働きかけた。この動きは失敗し、10月19日にはついに久光は三条太政大臣を辞職させるよう上奏した。久光は宮中工作により彼と親しい有栖川宮熾仁親王に裁定させることで実美の辞職を勝ち取ろうとしたが、宮内卿・徳大寺実則は右大臣・岩倉具視に裁定させるべきであると奏上した。天皇は徳大寺の意見に従い、岩倉に意見を求め、岩倉は三条支持を奏上し、久光の弾劾は失敗に終わった。久光は辞表を提出したが岩倉によって差し戻され、10月25日の閣議で正式に免官となった。
いずれにせよこれらの経験は岩倉に宮中工作の重要性を実感させ、
岩倉具視 - Wikipedia
1876年(明治9年)4月19日に岩倉は、華族会館の館長となる。
ということでその一環として華族統制を強めていくことになります。
◆明治六年政変と政軍関係の変容(大江洋代*10)
(内容紹介)
主張が多岐にわたっていてまとめづらいですが、いくつかオレ流にまとめておきます。
1)筆者は少なくとも板垣退助(土佐)においては征韓論(明治六年政変)は単に「外交問題」ではなく「征韓論を梃子に、山県有朋陸軍卿(長州)ら非土佐勢力が支配する軍事部門」に土佐が進出するというもくろみがあったのではないかとする。
しかし征韓論敗北により板垣のもくろみは挫折し、むしろ山県が「陸軍のボス的存在」として力をつけていくことになる。
またこうした板垣の「軍事タカ派性」と単純に直線では結べないとしながらも「加波山事件*11、秩父事件(1884年)」「大阪事件(1885年)」等の自由党の過激事件には板垣の「軍事タカ派性」の影響が考えられるとする。
2)明治六年政変(1873年)後、佐賀の乱(1874年)、秋月の乱、萩の乱、神風連の乱*12(1876年)、西南戦争(1877年)と各地で士族反乱が勃発、それらは国民皆兵(徴兵令)によって結成された軍に敗北。このことは「国民皆兵」の有効性として宣伝されることとなった。
◆日朝関係から見た西郷隆盛の「征韓論」(木村直也*13)
(内容紹介)
西郷を「非征韓論(遣韓論:交渉者として派遣されるだけ)」とする言説について批判があることは過去の拙記事田村貞雄氏の毛利敏彦「明治六年政変説」批判の紹介 - bogus-simotukareのブログ等で触れていますが、木村記事も同様の批判です。
西郷の「交渉に行くだけ」「但し無礼があれば、征伐もあり得る」とは「征伐もあり得る」こそが本心であり、「交渉に行くだけ」とは大久保ら征韓論反対派を丸め込むためのマヌーバーにすぎなかったという話です。
あえて言えば「制裁解除する気はある、但し即時一括全員帰国が条件」という「救う会、家族会」並の詭弁が西郷です。
しかし「御用盗」と言う挑発行為で江戸薩摩藩邸の焼討事件 - Wikipediaを起こさせ、それを倒幕の口実にした西郷のやり口を熟知する大久保、木戸、岩倉からすれば「交渉するだけだから安心しろなんて信用できるか」と警戒し西郷の主張に反対するのはある意味当然です。
まあ、百歩譲って「外交でまとめたい」が西郷の本心だとしても「武力行使の可能性」を否定してないのだから反対派が危惧するのは当然です。
第57回大会準備号「歴史認識のポリティクス」
【前振り】
第57回大会「歴史認識のポリティクス」での報告予定内容について概要が説明されています。
◆いま・ここを知るため史学史を顧みる(小田中直樹*14)
(内容紹介)
以前、筆者が『歴史学のトリセツ』(2022年、ちくまプリマ―新書)で史学史について論じた内容を(勿論考えの変化や補足はありますが)「記憶研究(メモリースタディーズ)」「グローバル・ヒストリー」「公共史(パブリック・ヒストリー)」を中心に改めて報告するとのこと。
◆歴史実践とナラティブチェンジ:非専門家とのパブリック・ヒストリー(菅豊*15)
(内容紹介)
学会では「問題点がありすぎる」として全く評価されなかったにもかかわらず「優れた学術図書」に与えられる建前の「サントリー学芸賞(2022年)」を受賞した竹倉史人『土偶を読む』(2021年、晶文社)を批判する望月昭秀*16他編『土偶を読むを読む』(2023年、文学通信)を紹介すると共にサントリー学芸賞のように「非専門家が専門家(今回は考古学)の領域を無神経に侵害して恥じない日本の現状」について論じるとのこと。
なお、id:kojitakenが権威主義と陰謀論をめぐるさまざまな問題 - kojitakenの日記(2023.3.10)等で「権威を疑え」を連呼してましたが、それが「まともな懐疑」でないとこのように「ただのデマ」になってしまいます。そして皮肉にも「権威(考古学の通説)を疑う」を売りにした「竹倉本」こそが今や「サントリー学芸賞」と言う権威によって「権威と化してる」わけです。
参考
ベストセラー『土偶を読む』の反論本著者が語る検証の杜撰さ、メディアの責任 あえて『土偶を読むを読む』を出版した望月昭秀氏が伝えたかったこと【前編】(1/3) | JBpress (ジェイビープレス)2023.8.16
〈『土偶を読む』ブーム〉を覚えているだろうか?*17
縄文時代の土偶についての新説を提示した『土偶を読む』(竹倉史人著、晶文社)が2021年4月に発売され、発売日当日にNHKが特集を組んだり、養老孟司氏をはじめとする識者や著名人が絶賛したりしたことで大きな反響を呼び、ベストセラーとなった。その後、サントリー学芸賞を受賞し、子供向けのビジュアル版『土偶を読む図鑑』(小学館)が発売された。
しかし、こうした世の熱狂とは対照的に、『土偶を読む』は、考古学の専門家からほとんど評価されていない。その理由をさまざまな角度から明らかにしたのが、『土偶を読むを読む』(文学通信)だ。縄文時代をテーマにした雑誌『縄文ZINE』の編集長を務める望月昭秀氏が、研究者・専門家9名とともに出版した。
本書は『土偶を読む』を丁寧に検証しながら、竹倉氏の自由な「発想」は批判されるものではないが、「検証」があまりに杜撰で、学問的には説として到底認められるようなものではないと結論づける。さらに、竹倉氏の本が、世に受け入れられていった経緯についても検証を重ねていく。
専門知識はあれど一般社会と乖離しがちな学術の世界。専門知識はなくとも影響力を持つ「識者」という存在。わかりやすい物語を欲するメディアと読者。これらの交わり方によって、事実はときに大きく歪む。〈『土偶を読む』ブーム〉を超えて、我々は「複雑な知」とどう向き合うべきなのか。望月氏に話を聞いた。
記者
『土偶を読む』刊行直後から、望月さんは、竹倉さんの説に疑義を呈していらっしゃいました。従来、土偶は、人間、主に女性をかたどったものだとされてきました。しかし『土偶を読む』で竹倉さんは、土偶とは当時の縄文人が食べていた「植物」をかたどったフィギュアであることを、イコノロジー(図像解釈学)を用いて解き明かしています。竹倉さんによると、カックウ(中空土偶)=クリ、ハート形土偶=オニグルミ、山形土偶=貝、縄文のビーナス=トチノミ、結髪土偶=イネ、をかたどっていることになります(ここに挙げたのは一例)。今回、望月さんが縄文研究者らとともに竹倉説を検証する本を出された理由について改めて教えてください。
望月
実は、土偶と植物をつなげる発想自体は、新しいものではないんです。また、新しい仮説を立てること自体は何ら問題ありません。専門家でない人がやってもちろんいいし、その点を批判している専門家はいません。
ただ、『土偶を読む』は、仮説の論証があまりにいい加減でした。本では一つひとつ検証したので読んでいただきたいですが、とにかく論証がいちいち杜撰だと感じました。それで、発売当時から自分のnoteなどで、信じてしまう人たちに釘を刺す意味で批判していたのですが、当初はこんな形で本にするつもりはなかったんです。検証作業ってものすごく大変だし、本にするならもっとちゃんとやらなければなりませんので。
でも、竹倉さんの本がすごく売れて(ボーガス注:サントリー学芸)賞を取り、子供向けの図鑑が出るとなったころから、考えなければいけないなと思うようになりました。権威がついてしまい、学校図書などに入るようになると、子供の教育にとっても社会にとってもよくないですよね。正しいか正しくないかは置いておいて、魅力のある説だったとは思います。バシッと言い切るところもわかりやすいですし。また、竹倉さんの文章も面白いと思います。
世の中に広まったことについては、やはりNHKの影響が大きかったと思います。発売日に特集されたわけですからね(2021年4月24日放送、NHK総合「おはよう日本」の「土曜特集」、関東甲信越のみ放送、約10分ほどの枠)。
この放送のなかで、考古学者で文化庁主任文化財調査官(当時)の原田昌幸さんの好意的なコメントが紹介されましたが、あれは、切り取りというより“捏造”に近いものだったと思います。
記者
望月さんは後日、原田さんに取材をされていて、「あれは、私の意図とは全く違う切り取りをされてしまったものです」という原田さんの言葉が本には掲載されています。原田さんは竹倉さんの説に対して、『これは個人の思いつきに近いもので、学術的には見るところはない』とコメントしているのにその部分は全く使われず、それに続く「しかし、従来の考古学になかった視点で興味深いですね」が、「従来の考古学になかった発想で新たな学問形態の提案」と意訳されて放送されました*18。
望月
「本」には正しいことが書いてある、と一般読者が受け取るのは当然だと思います。それは紙の本が蓄積してきた信用があるからで、本来的には非常にいいことだと思っているのですが、こういった時には逆に鵜呑みしてしまう人が増えてしまう。『土偶を読む』を出した出版社(ボーガス注:晶文社)はそういった点でも信頼のある出版社だったこともその要因でした。
だからこそちゃんとしなければいけないのは著者であり出版社であり、また、お墨付きを与える識者の方やメディアだと思います。特にアカデミズムの世界にいる識者の方には、手放しで絶賛する前に、同僚や知り合いの考古学の専門家に意見を聞いてみるなどしてほしかったなと思います。
記者
竹倉さんの反応はいかがですか? 竹倉さんは刊行後のインタビューで、「本書で展開されている仮説に異論がある方がいるとしたら、ぜひ公開討論で討議したいところです」(『サイゾー(2021年5月29日)』の記事)とおっしゃっていました。
望月
それが、討議を申し込みましたが、すげなく断られてしまいました*19。最初から完璧な仮説ってほとんどないはずなんです。いろんな方面から、いろんな意見や指摘を受けて磨かれたほうが、竹倉さんの説にとっても意味があるのではないかと僕は考えていますが、寂しいものです。
ベストセラー『土偶を読む』が評価された背景にあった専門知批判のストーリー あえて『土偶を読むを読む』を出版した望月昭秀氏が伝えたかったこと【後編】(1/3) | JBpress (ジェイビープレス)2023.8.17
2021年に刊行されるやいなや、NHKをはじめとするメディアや著名識者が絶賛、ベストセラーとなり、サントリー学芸賞を受賞した『土偶を読む』(竹倉史人著、晶文社)。土偶は人ではなく、植物をモチーフにしている、という新説を提示したこの本は、土偶解釈の大胆さやユニークさとともに、専門家や専門知に果敢に挑戦したことが高い評価につながった。考古学の専門家ではない竹倉氏が、考古学の権威と闘うというストーリーが、識者や読者の共感を得たのだ。
この本へのいわば「アンサー本」が、今年、専門家の立場から出た。縄文時代をテーマにした雑誌『縄文ZINE』の編集人・望月昭秀氏と9人の考古学研究者らによる『土偶を読むを読む』(文学通信)である。望月氏らは、竹倉説が「皆目見当違い」であることを最新の研究に基づいて論証したうえで、自由な発想は歓迎すべきものだが、専門知には専門知の役割があることを示す。
記者
サントリー学芸賞では、(ボーガス注:選考委員の一人)佐伯順子*20同志社大学教授が以下のように評しています。これについて、望月さんはどう感じましたか?この新説を疑問視する「専門家」もいるかもしれない。しかし、「専門家」という鎧をまとった人々のいうことは時にあてにならず、「これは〇〇学ではない」と批判する「研究者」ほど、その「○○学」さえ怪しいのが相場である。「専門知」への挑戦*21も、本書の問題提起の中核をなしている。
望月
竹倉さん*22の新説については、僕の知る限り、疑問視する専門家しかいない状態です。その理由はこの本(『土偶を読むを読む』)に書いた通りです。だからこの(ボーガス注:佐伯氏の)言葉を聞いて、専門家は怒らないといけないと思いました。僕は、いわゆる専門家という立場ではありませんが、長年縄文に関わってきた人間として、「えーっ!考古学めちゃめちゃ言われてるじゃん!」と思いましたね。
記者
『土偶を読む』に対して、なぜ研究者などの専門家がすぐに批判しなかったと思われますか?
望月
まず、そもそも『土偶を読む』が一般書というジャンルから出ていて、学術という俎上に上がってこなかったことが大きかった。しかしそれ以上に検証したり批判したりするには相応の時間とカロリーを消費します。専門家だって忙しく、自分の仕事をしながら検証するのは大変だという状況があります。それから、たくさん出てくるトンデモ説を一つひとつ検証していてもキリがない、という理由もあると思います。
ただし、【前編】でも述べたとおり、この本については、批判せざるを得ないと僕は思いました。(ボーガス注:サントリー学芸賞を受賞し)すごく売れ、子供向けの図鑑(小学館の『土偶を読む図鑑』)も出たことで、大きな社会的影響力を持ったからです。
記者
『土偶を読むを読む』は、編者を望月さんが務めました。(ボーガス注:ニルソンデザイン事務所代表で本業は書籍や雑誌のデザインであって、考古学関係の著書『縄文人に相談だ』(2018年、国書刊行会→2020年、角川文庫)があるとは言え、在野の考古学ファンにすぎず)アカデミズムの研究者ではない望月さんが中心となって批判本を編んだのはなぜでしょうか。
望月
今回の件は少し複雑な事情がありました。というのは、『土偶を読む』がさまざまな場所で評価されたポイントがその説の正当性よりも、考古学が権威的だから『土偶を読む』の説を認められないのだ、というパラドックス的な評価になってしまっていて、専門家だけで批判すると、出版後にどういったハレーションが起きるのか予測できなかった。
また、『土偶を読むを読む』も、学術書ではなく、『土偶を読む』と同じ一般書で出すことも意味がありました。学術と読者をつなぐ存在として僕のような研究者ではない立場から編集、執筆することも「アリ」だなと思ったからです。検証批判を真面目な文体でやりすぎると殺伐としすぎてしまうという心配もありました。だからなるべく砕けた文章で脱線しながら楽しく読んでもらえるような検証にしたかったのです。
また、研究者ではないので、研究者の研究を取材という形で「横断」することもできる。そういう強みがあると考えました。
『土偶を読むを読む』では、竹倉さんの説は学問としては全面的に認められない、という結論を出しました。言ってみればキツイ結論になったので、バリバリの研究者ではなく、僕くらいの存在が出てきて倒すくらいがちょうどよかったのかなと思っています。
記者
最近、テレビなどでは、必ずしも専門家でない「識者」と呼ばれる方が登場し、コメントをする場面が一般的になっています。そんななか、専門家の社会的役割を問いかける本書の意義は大きいと感じました。
望月
専門家が神聖というわけでもないし、全員が正しいわけでも完璧なわけでもありません。ただ、この本で僕たちが示したかったのは、専門領域に対しては、少なくとも専門外の人よりは知っているし、長年の蓄積があるという当たり前のことです。
専門家ではない識者の意見も大事かもしれないし、そうした多様な意見は面白いかもしれませんが、その中に専門家の意見があることが社会にとって大切だということをわかってもらいたい。どんなにスポーツ万能な人だって、サッカー選手にサッカーでは勝てないように、素人に歯を抜いてもらうよりは、あまり腕がよくなくても歯医者に抜いてもらうほうがいいように、専門分野については専門家が必要なのではないでしょうか。
それから自由な発想は大切だけれども、「なんでもあり」が面白いかと言ったら、そうではないと僕は思っています。事実に基づかないことって、必ず行き止まりになりますから。
記者
建設的な批判や検証、そして訂正が学問を前に進めていくことを痛感します。
望月
本にも書きましたが検証作業は「雪かき」のようなもので、誰かがやらなければいけないけれど重労働、何かの実績として残るわけでもないし、たいして尊敬もされない*23(笑)。
でも、いざやってみたら面白かったです。大変だったけれど、僕自身も改めて土偶の勉強になりました。検証だけにとどまらない土偶の解像度がより上がる本になったので、『土偶を読む』のファンの方も、そうでない方も、ぜひ読んでもらいたいですね。この本をきっかけに、縄文研究や、縄文の謎に興味をもってもらえたらうれしいです。
最近はSNSなどでも、「言ったもの勝ち」みたいな状況があるように感じます。いい加減なことを言い放つ人には「刀を抜くぞ」という姿勢を、この本で見せることができたかなとも思っています。
『土偶を読むを読む』という書籍を出します。|縄文ZINE_note2023年4月4日
一昨年4月に発売された『土偶を読む』。考古学の実証研究とイコノロジー研究を用いて、土偶は「植物」の姿をかたどった植物像という説(と主張する)を打ち出した本書は、NHKの朝の番組で大きく取り上げられ、養老孟司氏*24ほか、各界の著名人たちから絶賛の声が次々にあがり、ついに学術書を対象にした第43回サントリー学芸賞をも受賞しました。
のですが、筆者はかねてから批判をしてきました。これは同書を読み、その間違いの多さと、「皆目見当違い」で破綻した内容、それにもかかわらず、この本は売れるだろうなとの嫌な予感に危機感を感じたからで、読んだ次の日に、『土偶を読むを読んだけど』をnoteで公開し、この本の説を簡単に信じてしまうであろうみなさんに、何本かの釘をさせたのではと思っています。
その時はこのnoteで「違うよ」という表明ができたので、筆者としては「今日はこのくらいにしてやろう」という気分でいました。
しかし、『土偶を読む』の快進撃は止まらなかった。筆者のnoteや多くの批判をも燃料にし、説自体の信憑性よりも、考古学界批判に重きを置いたそのプロモーションは、そのままサントリー学芸賞の受賞にまでつながりました。
昨年4月には『土偶を読む』の子供向け版というべき『土偶を読む図鑑』が発行されました。版元は小学館という大手出版社。図鑑や学習教材なども得意な出版社から出される図鑑。『土偶を読む図鑑』はその年の5月には全国学校図書館協議会選定図書にも選定され、小中学校の図書館にもこの図鑑が推薦されることになりました。小学生や中学生であれば、縄文時代について初めて触れる本がこの『土偶を読む図鑑』になる場合も多いでしょう。そして断定口調で語られるこの本の仮説をあたかも正しいことのように信じてしまうでしょう。
今月、4月28日に『土偶を読むを読む』という書籍を出します。これは『土偶を読む』の検証本です。
ご存知の通り、世間一般の評価と対照的に、『土偶を読む』は考古学界ではほとんど評価されていません。いや、相手にされていないと言った方が正確でしょう。それはなぜなのか、本書ではその非対称な評価の理由と、『土偶を読む』で主張される「土偶の正体」、それに至る論証を検証します。
『土偶を読む』をなぜ批判するのかといえば、開陳されているその考察は、事実の上に成り立っていないということが大きいからです。かねてから恣意的な資料の見せ方を批判してきましたが、もっと問題なのは、いくつかの事柄は、事実であるように見せるために「改変」もしています。これは瑕疵のように小さな傷ではなく、もっと本質的な部分にあたります。
さらに看過できないのは、過去の研究を都合よく利用した上で軽視し、さらに敵視する姿勢です。これははっきり言って不快で、出版後にはあらぬ批判によって、一部で風評被害まで起こしています。こういった謂れのない考古学界(専門知)批判が評価されていることにも憤りを感じています。
一度信じてしまった人たちが、簡単には改宗しないことも、この間で、よくわかったことでもあります。
「これは事実ではないですよ、このデータは実際にはこういう意味のデータですよ、こんな事柄があるんですよ」と、いくら言葉を尽くしても、思い込んだ「物語」は頭から出ていかない。たとえ頭では理解しても気持ちは動かない。
「そうは言っても、こういうものを否定したら、自由な発想が出なくなってしまうじゃないか」、「縄文時代は答えがないのだから何を言ってもいいじゃないか*25」とは、僕も何度か言われている。
しかし、『土偶を読む』の説が学術に挑戦するのであれば、検証されることはまったくの本懐だろうし、ここまで売れてしまったら、当然内容にも責任が生じてくる。今さら「ネタですよ」と言ったとしても手遅れでしょう。
「答えがない」時代であっても、これまでの研究で「わかっていること」は一般の方が思っているよりもかなり多い。遺跡からはさまざまな縄文人の使った道具や、彼、彼女らの暮らした痕跡が大量に残されている。モノとして動かしようのない事象や、そこから導き出される合理的な推論は一般の方が思うよりも遥かに多く蓄積されている。それらを紹介する機会としてもこの場を借りたいと思う。
可能であれば討論の場を作りたいと考えています。
『土偶を読む』の著者である竹倉さんに討論会の打診をした件について。|縄文ZINE_note2023.6.5
一昨年4月に発売された『土偶を読む』。考古学の実証研究とイコノロジー研究を用いて、土偶は「植物」の姿をかたどった植物像という説(と主張する)を打ち出した本書は、多くの著名人やメディアの後押しもあり版を重ね、学術書を対象にした第43回サントリー学芸賞をも受賞しました。
次の年には子ども向けの『土偶を読む図鑑』(小学館)が出版され、こちらは全国学校図書館協議会選定図書にも選定され、小中学校の図書館にもこの図鑑が公に推薦されることになりました。
しかし、その論証や説には大きな疑問があり、編者である僕、望月昭秀は研究者の皆さんと今年の4月28日に『土偶を読むを読む』(文学通信)を出すに至りました。
『土偶を読むを読む』の内容を超簡単に言えば、「『土偶を読む』での論証は皆目見当違いで破綻しているし、縄文研究ってもっと全然深くて面白いよ」という内容です。
『土偶を読むを読む』の発売前に、出来上がったばかりの『土偶を読むを読む』の献本とともに、このような文面を付け、『土偶を読む』の著者と晶文社の担当編集のEさん宛てに討論会の打診をさせていただきました。
結論から言えば、断られました。
理由は「忙しい」とのこと。
これは意外でもあり、想定内の返答でもありました。意外なのは、『土偶を読む』の著者である竹倉さんは、さまざまな場所で、討論会をやるべきだ、この説は議論となるべきだと発言されていたからです。
しかし、残念ながら討論の申し出は断られてしまった。
本当に忙しくて時間がとれないのかもしれないし、時間ができたら討論に応じる可能性はあるのかもしれないし、書籍での反論は書籍をもって、との考えがあるのかはしれないが、が、もし議論を前に進めたいのであれば、これは簡単に断るべきではないだろう。今でなくても討論を受ける姿勢は保つべきだろう。イベントでなくても媒体は色々ある。
議論になってほしい、討論したい、との言説がただのポーズでなければ。
断られるのが「想定内」だった理由は、この間、竹倉さんが落合陽一さんのラジオ(TOKYO SPEAKEASY)に出演された時(ほとんど土偶の話、落合さんの振る『土偶を読むを読む』の話をあからさまに避け続けていた)の印象もあったのですが、結局のところ『土偶を読む』の読みときが間違えだったということが大きいんだと思う。それは、多分、竹倉さんもわかっているはずで、やはり事実に基づかない話はどうやっても深まらない。竹倉さんがいかな強弁者だったとしても、反証する多くの指摘に応える術がないのだろう。
討論や議論には参加しないけど、新作、続編を出すということのようなので、どう切り抜けるのか、そこも注目してみたい。
考古学界から「学会の研究蓄積を無視している」と酷評される本が「考古学の素人(選考委員)」によって「優れた学術図書に与えられる建前」のサントリー学芸賞受賞とはあまりにも問題がありすぎます。サントリー学芸賞のありようが問題にされて当然です。
◆観光公害と文化遺産:京都の伝統工芸に関わる史資料の現状と課題から(木立雅朗*26)
(内容紹介)
京都の観光公害(外国人観光客の増加が大きな要因)と文化遺産の現状(京都府、京都市が予算やマンパワー不足を理由に京友禅、西陣織など伝統工芸の文化遺産保護に後ろ向きで事実上、民間の努力に委ねられてること)について報告するとのこと。
◆動き始めた歴史教育改革の成果と課題(小川幸司)
(内容紹介)
『世界史との対話』(2011年、地歴社)、『世界史とは何か』(2023年、岩波新書)の著書がある筆者が歴史教育改革について論じていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
◆1950年代前半の歴史学と大衆文化:国民的歴史学運動における紙芝居の実践を題材に(高田雅士*27)
(内容紹介)
「国民的歴史学運動における紙芝居の実践」について論じていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
【参考:明治六年の出来事】
1873年 - Wikipedia
◆1月10日
徴兵令施行
◆2月7日
仇討禁止令布告
◆2月24日
キリスト教禁止の高札撤廃
◆7月28日
地租改正法公布
◆10月25日
明治六年政変(征韓論政変)。征韓論派の参議(板垣退助*28、江藤新平*29、後藤象二郎*30、西郷隆盛*31、副島種臣*32)が反対派(岩倉具視*33、大久保利通*34、木戸孝允*35、三条実美*36)に敗れ、下野。
◆11月10日
内務省設置
【参考:征韓論関係の出来事】
1874年 - Wikipedia
◆1月14日
岩倉具視右大臣暗殺未遂(喰違の変)
◆2月1日
佐賀の乱(江藤新平ら)。3月29日、江藤が捕縛され、4月13日、江藤ら13名に死刑判決が下り即日処刑
1877年 - Wikipedia
◆2月15日
西南戦争(西郷隆盛)。9月24日に西郷が自決したことで組織的な反乱は終結
1878年 - Wikipedia
◆5月14日
大久保利通内務卿暗殺(紀尾井坂の変)
*2:著書『江藤新平』(2018年、戎光祥選書ソレイユ)、『司法省と近代国家の形成』(2020年、同成社)
*3:1932~2016年。大阪市立大学名誉教授。著書『江藤新平』(1987年、中公新書)、『台湾出兵』(1996年、中公新書)、『明治維新政治外交史研究』(2002年、吉川弘文館)、『幕末維新と佐賀藩』(2008年、中公新書)等
*4:1937~2020年。静岡大学名誉教授。著書『地租改正と資本主義論争』(1981年、吉川弘文館)、『ええじゃないか始まる』(1987年、青木書店)等
*5:山形大学准教授。著書『井上馨と明治国家建設:「大大蔵省」の成立と展開』(2018年、吉川弘文館)
*6:関西大学教授。著書『工部省の研究:明治初年の技術官僚と殖産興業政策』(2009年、慶應義塾大学出版会)、『明治の技術官僚:近代日本をつくった長州五傑』(2018年、中公新書)
*8:1840~1919年。侍従長、宮内卿、内大臣を歴任。スペイン風邪のため死去。首相、元老を務めた西園寺公望は弟
*9:久光の左大臣は名誉職扱いされがちだが、1)建前上は「左大臣は太政大臣、右大臣に次ぐナンバー3」、2)久光は元「薩摩藩」国主であり保守派の華族から一定の支持があったことから、久保氏は久光による三条弾劾運動をかなり深刻な事件と見なしている。
*10:東京女子大学准教授。著書『明治期日本の陸軍:官僚制と国民軍の形成』(2018年、東京大学出版会)
*12:熊本鎮台司令官種田政明、熊本県令安岡良亮を襲撃し2人を殺害
*14:東北大学教授。著書『フランス近代社会1814~1852』(1995年、木鐸社)、『歴史学のアポリア:ヨーロッパ近代社会史再読』(2002年、山川出版社)、『歴史学ってなんだ?』(2004年、PHP新書)、『フランス7つの謎』(2005年、文春新書)、『日本の個人主義』(2006年、ちくま新書)、『世界史の教室から』(2007年、山川出版社)、『19世紀フランス社会政治史』(2013年、山川出版社)、『フランス現代史』(2018年、岩波新書)、『歴史学のトリセツ』(2022年、ちくまプリマ―新書)等。『冤罪はこうして作られる』(1993年、講談社現代新書)、『裁判員制度を批判する』(2008年、花伝社)、『誤判救済の課題と再審の理論』(2008年、日本評論社)等の著書がある小田中聰樹・東北大学名誉教授(刑訴法)は父
*15:東大教授。著書『修験がつくる民俗史:鮭をめぐる儀礼と信仰』(2000年、吉川弘文館)、『川は誰のものか:人と環境の民俗学』(2006年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『「新しい野の学問」の時代へ』(2013年、岩波書店)、『鷹将軍と鶴の味噌汁:江戸の鳥の美食学』(2021年、講談社選書メチエ)等
*16:ニルソンデザイン事務所代表。書籍の装丁や雑誌のデザインを主たる業務としながら、雑誌『縄文ZINE』を2015年から発行し編集長をつとめる。著書『縄文人に相談だ』(2018年、国書刊行会→2020年、角川文庫)、『縄文力で生き残れ』(2018年、創元社)
*17:小生個人は「覚えている」以前に「今回初めて知りました」
*18:事実なら確かに「コメント捏造」であり「NHKは何を考えてるのか?」「NHKが持ち上げた佐村河内の件と同じじゃないか?」と言う話です。
*19:偉そうなことを抜かしながら「俺のコメント投稿を拒否するid:kojitaken」や「俺のコメント掲載を拒否する松竹伸幸」を連想させる醜態ですね。勿論「無能な俺」は望月氏ほどの有能な御仁ではないですが。
*20:著書『遊女の文化史』(1987年、中公新書)、『泉鏡花』(2000年、ちくま新書)、『「愛」と「性」の文化史』(2008年、角川選書)、『「女装と男装」の文化史』(2009年、講談社選書メチエ)、『明治〈美人〉論:メディアは女性をどう変えたか』(2012年、NHKブックス)、『男の絆の比較文化史:桜と少年』(2015年、岩波現代全書)、『美少年尽くし』(2015年、平凡社ライブラリー)等
*21:『専門知への挑戦』はけっきょくこれらの本を読めば、本多勝一氏の東洋医学の本など根本から崩壊してしまう(由上修三氏の著書) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)(2023.8.3)が批判する本多勝一氏など「エセ科学や歴史修正主義(例:南京事件否定論)」で良く言われる居直りの言葉ですね。まともな根拠があるなら勿論挑戦してもいいのですが、佐伯氏もこんな居直りで「自分の研究分野で無神経にデタラメな本が出された上に賞までもらったら」怒ると思うんですけどね。まあ、佐伯氏がデタラメな御仁らしいことはよく分かります。
*22:「望月氏や菅豊氏の批判」を信じるならば、「竹倉さん」とは「本多勝一氏にとっての境信一氏(つまりはエセ学者)」でしかない。
*23:同様のことは、浅見定雄・東北学院大学名誉教授もイザヤ・ベンダサン(山本七平)批判の著書『にせユダヤ人と日本人』(1983年、朝日新聞社→1986年、朝日文庫)で書いています。
*24:東大名誉教授
*25:「例は誰でもいい(本多氏は一例にすぎない)」のですがこの種の居直りはもろに『けっきょくこれらの本を読めば、本多勝一氏の東洋医学の本など根本から崩壊してしまう(由上修三氏の著書) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)(2023.8.3)が批判する本多勝一氏』の態度です。
*27:著書『戦後日本の文化運動と歴史叙述:地域のなかの国民的歴史学運動』(2022年、小さ子社)
*28:後に自由党総理(党首)、第二次伊藤、第二次松方、第一次大隈内閣内務相を歴任
*29:当時、司法卿
*30:当時、左院議長。後に黒田、第一次山県、第一次松方内閣逓信相、第二次伊藤内閣農商務相を歴任
*31:当時、陸軍大将、近衛都督
*32:当時、外務卿。後に枢密院副議長、第一次松方内閣内務相を歴任
*33:当時、右大臣
*34:当時、参議、大蔵卿
*35:当時、参議