新刊紹介:「歴史評論」2022年5月号(松本清張『皿倉学説』のネタばらしがあります&今日も拉致被害者家族会を罵倒する)

 小生が何とか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『記憶を継承する博物館』
東京大空襲を伝える博物館の試み(石橋星志*1
(内容紹介)
 石橋氏が学芸員を務めた東京大空襲・戦災資料センター、現在、学芸員を務めるすみだ郷土文化資料館の「東京大空襲を伝える試み」が紹介されています。

参考

東京:被災者の連作画公開 江東で 東京大空襲77年 : ニュース : 東京23区 : 地域 : 読売新聞オンライン2020.3.9
 太平洋戦争末期の1945年3月、米軍の無差別爆撃で約10万人が犠牲になったとされる東京大空襲から10日で77年。江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」では、家族とともに空襲の中を逃げ惑い、九死に一生を得た男性の手による連作画が公開されている。猛火に倒れた人々の姿を克明に描いたもので、センターは「悲惨な戦争の実態を次世代に伝えたい」としている。(大原圭二)
 58点に及ぶ連作画を手がけたのは、2020年10月に88歳で亡くなった新潟市の坂井輝松さん。
 坂井さんは戦後50年の節目に合わせ、自身の壮絶な体験と残酷な空襲の様子を連作画「東京大空襲 硝煙の大島町」で描いた。
 空襲を実際に経験した人が少なくなる中で、比江島さんは「データとしての被害ではなく、生身の体験を通じて空襲を知ってもらいたい」と考え、一部を公開した。

現代っ子に「戦争」伝わる展示に 東京大空襲・戦災資料センター、若手研究者らでリニューアル:東京新聞 TOKYO Web2020.5.8
 東京大空襲・戦災資料センター(江東区)が大規模なリニューアルを進めている。
 開館から十五年以上がすぎ、展示内容を見直す時期を迎えていた。運営にかかわってきた三十~四十代の学芸員ら五人が中心となり、「活字離れが叫ばれる中、子どもたちに伝えるにはリアルな体験が欠かせない」と時代に合わせた展示内容を模索してきた。
 その象徴が、精巧に作り直した焼夷弾の模型だ。これまでも実際に投下された焼夷弾を置いていたが、ずっしりとした重さ約二・七キロの筒を新たに並べ、燃料が入った状態の重さを体感できるようにした。担当した石橋星志さん(37)は「こんなに重いものが空から降ってきたんだと、手に取ることで想像が深まるだろう」と狙いを語る。
 展示物に添える解説文も中学生が分かるように練り直した。当たり前のように使ってきた用語でも、今の子どもたちにはピンときていなかったからだ。学童疎開もその一つ。「学童疎開の狙いは~」と前置きなしで始まる解説文に、「学童疎開」の説明を書き加えた。
 リニューアルは、戦争体験者がいなくなる時代も見据えている。センターの主任研究員で法政大准教授の山本唯人さん(47)は「死体が折り重なる写真は悲惨さを伝えてきたが、これは火が収まった夜明けの記録。東京大空襲の瞬間をとらえた写真は少なく、三月十日の未明に人々がどう逃げ惑ったかを知るには体験談を聞くしかすべがない」と指摘する。
 センターでは体験者の証言を直接聞くことができるが、それがかなわなくなる時に備えて、証言集を壁一面に展示した。来館者からは「圧倒的な迫力や生々しさに衝撃を受け、空襲の実態を知ることができた」といった感想が寄せられたという。

【戦後75年】空襲の記憶、継承への挑戦 東京大空襲センターが刷新(1/2ページ) - 産経ニュース2020.7.14
「『B29』って、すごい濃い鉛筆だね!」
 数年前、センター学芸員の比江島大和(ひえしま・ひろと)さん(37)は、見学にやってきた小学生の言葉に思わず耳を疑った。だが、叱責する気にはなれなかった。
 「知らないものを、なぜ知らないのか叱っても仕方ない。むしろ、正確に伝えようとする努力を怠ってきた私たちに責任があるんじゃないか」
 B29は米軍の戦略爆撃機で、戦時中、大量の焼夷弾を積んで東京はじめ日本の都市を爆撃した。比江島さん世代の「常識」は、今の子供に通用しないと身につまされた。平成14年にオープンしたセンターがリニューアルに踏み切る、一つのきっかけだった。
 29年、4年間の長期計画でリニューアルが始まった。中心は比江島さんら30~40代の若手研究者7人。「自分たちの前提を疑おう」を共通認識にした。
 若手とはいえ、祖父母の世代が戦争を経験しており、日常会話で話を聞く機会は少なからずあった。今の子供たちは違う。
 「私たちが当たり前だと思う歴史の事実も、全てかみ砕いて説明しようと思ったんです」と比江島さん。

東京大空襲、400人の体験記をデジタル保存へ 戦災誌の未掲載部分も分析:東京新聞 TOKYO Web2020.8.14
 デジタル化や分析に取り組んでいるのは、空襲研究に携わる山本唯人・法政大准教授(48)らのグループだ。1973年から翌年にかけて刊行された「東京大空襲・戦災誌」全5巻のうち、東京大空襲に関する記述をまとめた第1巻の約400人分の体験記について、東京大空襲・戦災資料センター(江東区)が保管する原稿をデジタル化し、文字入力して保存する。
 体験記を整理する石橋星志・大阪経済法科大客員研究員(38)によると、家族の死亡状況などの個人情報や、体験記を寄せた動機が書かれたものが目立つという。戦後25年がたった戦災誌の編集当時でも既に、自分の心の内や世の中の戦争への風化を懸念する声もあった。
 石橋さんは「空襲前後の年齢や性別、立場による生活実態がより細かく分かることで、自分たちにひきつけて体験を読むことができる。戦争を身近に感じてもらえるのでは」と話す。

コロナの今こそ「忘れず、黙らず」東京大空襲・戦災資料センターの館長が語り継ぐ東京大空襲|東京都の戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK2020.10.5
 早乙女さんの後を継いで去年館長に就任したのが、一橋大学名誉教授の吉田裕さん*2(65)です。
 吉田さんが取り組んだのが展示内容のリニューアルです。30代や40代の研究者たちと議論するなかで、重視したのが「個の体験」でした。
 身近に体験者がいない若い世代に空襲の被害をリアルに伝えるには、個々の体験に共感してもらう必要があると考えたのです。
 吉田さんたちは犠牲者の名前や顔写真も、新たに展示に加えました。8家族30人の名前を、遺族の了承を得て初めて公開したのです。
 名前や写真の顔を見てもらうことで、犠牲になった一人一人に人生があり、家族がいたことをより実感してほしいという願いでした。
吉田さん:
「犠牲者10万人という概数で把握するのではなく、一人一人に名前があって顔があって、生きてきた人生があって、その死を悼む遺族がいる。生き残った人もいろいろな思いを抱えながら戦後生きてきた。その体験への想像力をかきたてるような展示にしたいというのがいちばんのねらいです」
 センターはこの夏、オンラインでの発信に挑戦しました。大学生が展示内容を紹介して動画投稿サイトにも配信するなど、新たな試みを始めています。

東京大空襲76年 被災の実態、地図で迫る 墨田区の石橋学芸員、独自の地図を作成:東京新聞 TOKYO Web2021.3.10
 一九四五年三月十日未明、墨田、江東区を中心に東京の下町で十万人以上が犠牲となった東京大空襲から七十六年。今も、被害の詳細は分かっていない。
 地域のどこまで焼失し、どこが焼け残ったのかを示したのが「被災地図」。戦後に複数発行されたが、大なり小なり「ズレ」がある。すみだ郷土文化資料館(墨田区)の石橋星志(せいし)学芸員(38)は、どれが正確なのかを検証し、独自の地図も作成した。
 終戦四カ月後の四五年十二月に、国の第一復員省*3(旧陸軍省)が発行したのが「全国主要都市戦災概況図」。復員する兵士や引き揚げ者らに地元の被害を知らせる目的だが、作成は各自治体任せだったため、地図の縮尺や大きさがまちまちで、「正確さには難がある」と石橋さん。資料館がある向島の辺りは「国の地図では焼けたことになっているが、実際には焼けていない」。
 また都は「東京都区部焼失区域図」を五三年に発行したが「いつ、どうやって調べたのか、根拠となった調査や資料が不明」という。
 より作成経緯が明確なのが、民間の日本地図株式会社の「戦災焼失区域表示 帝都近傍図」。終戦の三カ月後から、社員が歩いて現地調査して作成した。国や都の地図と比べると建物疎開で強制的に空間が作られた地帯が描かれており、「交通事情が良くなかった当時に現地に入って調査したリアルタイムの記録は貴重」という。
 石橋さんは、体験者の証言や米軍の地図、民間の地図、航空写真などを組み合わせて、最終的に独自の被災地図を作成した。「当事者や遺族が高齢化する中で、見えにくくなっていく戦争被害を少しでも正確に把握して継承するため、事実関係をはっきりさせる必要がある。被災地図の精度をより高めていきたい」と、力を込めた。

東京大空襲、王貞治さんはこう逃れた 避難経路を初公開:朝日新聞デジタル2021.3.17
 1945年3月10日の東京大空襲から今年で76年。「すみだ郷土文化資料館」(東京都墨田区向島2丁目)では、「東京大空襲―被害の詳細と痕跡―」が開かれている。プロ野球王貞治さんがどのように逃げて生き残ることができたのか、その避難経路を初めて紹介した。5月9日まで。
 当時4歳だった王さんは、空襲で火の海となった向島区吾妻町(現墨田区)に暮らしていた。空襲当夜、父が営む中華料理店「五十番」を飛び出し、母に背負われて長姉と一緒に平井方面に逃げて一命をとりとめた。展示では王さんのほか、「東京大空襲・戦災資料センター」(江東区)前館長の早乙女勝元さん*4らの避難経路も公開されている。

 早乙女氏が1932年生まれ、王が1940年生まれです。


広島平和記念資料館の現在地(小山亮*5
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

広島原爆:「鉛のような味がした」エノラ・ゲイ搭乗員証言 | 毎日新聞2018.8.4
 1945年に広島に原爆を投下した米B29爆撃機エノラ・ゲイ」の搭乗員に対するインタビューを収めた録音テープが見つかり、広島市原爆資料館に寄贈された。

被爆再現人形の展示やめた理由 原爆資料館リニューアル:朝日新聞デジタル2019.5.16

 広島の平和記念資料館(原爆資料館)がリニューアルしたね。

 資料館は本館と東館にわかれていて、2014年9月から順番に閉館して改修工事を進めていた。4月25日の本館再開で、全面リニューアルとなった。

 なぜ改修したの?

 被爆者の平均年齢が82歳を超え、1945年8月6日に起きたことを若い人たちに語りつぐ必要がある。原爆の被害を、これまで以上にわかりやすく伝える必要があると考えた。

 どう変わったの?

 被爆者が身につけていた服や、爆風で曲がった鉄骨など、実物の展示を重視した。かつての本館には、やけどをして皮膚をぶら下げて歩く被爆再現人形があった。でも、被爆者からは「被害はこんなものじゃなかった」という批判もあり、展示をやめた。

 一目で恐ろしさがわかる気もするけど。

 人形と違って、実際は服が焼けて裸で、顔も性別がわからないほど焼けただれた人もいた。被爆者がいなくなった将来、誤ったイメージが独り歩きしないようにするためなんだ。

 ほかには、どんな工夫をしたの?

 展示品の説明は、あまり詳しくしないようにしている。遺品と向き合って、被爆者や遺族の苦しみを自分に置きかえて想像してもらいたいんだ。原爆開発の歴史や核兵器の現状は、東館で学べる。あと、展示品が痛まないように暗くしているよ。紙の資料が光によって文字が薄れて見えなくなったり、服が変色したりしないようにしているんだ。

核の“爪痕”くっきり 初公開写真など80点 広島・原爆資料館で収集資料展 | 毎日新聞2020.1.17
 海外で収集した被爆後の写真などを展示する企画展が、広島市中区原爆資料館広島平和記念資料館)東館1階で始まった。
 資料館では米軍が原爆を投下した1945年8月6日前後に撮影された写真の調査に力を入れており、これまでに6000点以上の資料を集めている。2013年からは米国や英国、ニュージーランドに職員を派遣し、公文書館や個人が所蔵する資料を調べてきた。

東京:被災者の連作画公開 江東で 東京大空襲77年 : ニュース : 東京23区 : 地域 : 読売新聞オンライン2022.3.9
 本館の常設展示を進むと、真っ赤な生地でできた鏡の覆いが目に飛び込む。原爆で命を失った様々な年代の遺品が並ぶコーナー「魂の叫び」。17歳で亡くなった井東ユキさんの遺品だ。
「姉は刺繡(ししゅう)が好きだった。ひと針、ひと針、完成に向けて念じながら縫っていた姿を覚えている」
 被爆当時、ユキさんは広島市島本町(現・中区)の自宅にいた。
 ユキさんの胸には割れた鏡の破片が刺さり、覆いがかぶさっていた。
 寄贈した弟の茂夫さん(90)=東広島市=は、原爆投下直後、学徒動員されていた陸軍兵器補給廠(しょう)(現・広島大学医学部医学資料館)から帰宅し、布団に横たわった姉の姿を見つけた。家族から死亡の経緯を聞かされた。薪と油をかき集め、裏庭で火葬した。
 覆いは、ユキさんが亡くなる1年ほど前、学校の課題で半年かけて制作したものだ。下部にはユキさんの血痕が残っている。茂夫さんは言葉を絞り出す。
「姉の人生は17歳、これを完成させただけで終わってしまった。これが生きた証しになるなんて不条理だ」


◆侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館:その設立経緯と展示の概要について(田中寛)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

731部隊(1) フェル・レポート
 「731部隊」をめぐる研究は、1980年代以降、多くの新資料や新証言などを得て、飛躍的に発展しました。少なくとも「人体実験」「細菌戦実施」の二大テーマに関しては、「南京」などと異なり、論壇で「否定論」が聞かれることはほとんど皆無、と言っていいでしょう。
 しかしネットの世界では、素人の思い付きレベルの「否定論」が流布され、それを鵜呑みにする向きも根強く残っています。ちょっと調べれば、重層的に積み上げられた資料群の中に「否定論」の余地など存在しないことはすぐにわかるのですが。
 以下、「人体実験」「細菌戦」についての「根拠」を、解説していきたいと思います。

2018論点・焦点/いま731部隊の戦争犯罪を検証する/慶応義塾大学名誉教授 松村高夫さん/科学と学問を“軍事の僕(しもべ)”にさせぬ 加計学園獣医学部問題にも通じる2018.1.13
 日本政府が現在でも731部隊の人体実験も、細菌戦をおこない犠牲者が出た事実も認めていないことは極めて重大です。
 戦争責任を免罪された細菌戦部隊の幹部や医師は、戦後、陸上自衛隊・衛生学校にもかなり入隊しています。たとえば、731部隊の軍医大尉だった園口忠男は、部隊の研究をもとに博士論文「赤痢菌族の分類に就て」を熊本医科大学に提出、博士号が授与されました。1956年に自衛隊に入隊し、衛生学校教育部教官や第8代衛生学校校長を務めました。
 陸軍省医事課長だった金原節三は、陸軍中堅将校として出席した参謀本部の打ち合わせなどを記録した「金原業務日誌摘録」を残しており、そのなかに細菌戦の打ち合わせ(43年4月)も記録されています。金原は、1955年に防衛庁に入隊し、翌56年に第4代衛生学校校長になり、『衛生学校記事』の初代編集委員長でした。このように、細菌戦の思想と知識・技術は自衛隊に引き継がれていると考えられます。

侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館 - Wikipedia
赤旗旧日本軍731部隊展示施設/8・15の日に新資料館/残虐行為の歴史刻む 中国・ハルビン2015.8.16

中国・ハルビンの「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」訪問記2018.5.29
 新館は(1)中国侵略日本軍細菌戦、(2)731部隊・日本細菌戦の大本営、(3)人体実験、(4)細菌兵器の開発、(5)細菌戦の実施、(6)証拠と裁判という6つのゾーンに分けられています
 このように、時系列で展示し最後に裁判や戦後の様子を置くという形式は南京の南京大虐殺記念館とも共通しています。
 平日昼間の訪問と言うこともありますが、誰もいません。南京の施設が家族連れやカップル(!)でにぎわっていたのとは大きな違いです。
 理由の1つにはロケーションもあるでしょう。
 攻城戦の舞台となり、市街のど真ん中にミュージアムをつくることができた南京*6とは異なり、ハルビン*7のこの施設は街の中心からだいぶ離れています*8
 最初は「中国侵略日本軍細菌戦」コーナー。細菌戦のアウトラインを説明しています。731部隊の拠点は満州でしたが、中国各地に関連施設があったとのことです。
 次いで「731部隊・日本細菌戦の大本営」。731部隊はあくまで細菌戦を司る組織の一部という位置づけを強調しています。
 続いては、731ミュージアムのハイライトとも言える「人体実験」のコーナー。当時731部隊は、中国人やロシア人の捕虜をマルタ(丸太)と呼び、人体実験の材料としたとされています。この呼称は森村誠一氏の書籍*9でも有名になりました。十字架にマルタと呼ばれた人々を固定し、水をかけて放置し凍傷にしたり(前述通り、冬のハルビンはむちゃくちゃ寒い)、病原菌を撃ち込んだりするなどの実験を行ったとされています。
 続いては「細菌兵器の開発」コーナー。
 人体実験を経て、いよいよ兵器として大量生産を始めるくだりです。
 細菌を拡散させるための細菌弾や風船爆弾です。
 風船爆弾については、日本本土から打ち上げ実際に細菌を北米にばらまく案があったようです。
 ラストのコーナー「証拠と裁判」です。日本の敗戦で証拠がどのように廃棄されたか、戦後関係者が(ボーガス注:米国と取引し、東京裁判から)どう逃れ(ボーガス注:一方でソ連ハバロフスク裁判*10で)どう裁かれたかを展示しています。731部隊の関係者はアメリカに実験データを提供することとひきかえに身元を保証されたとされ、戦犯訴追を逃れたとされています。
◆ボイラー棟
 館を出ます。
 周囲には実際の建物などの遺構が残されています。
 名物のハルビン餃子で一息つきます。
 ハルビン自体はとても美しい街で、散策するには飽きません。

 ハルビンと言えば「731部隊」以外にも「安重根による伊藤博文*11暗殺」もありますね。
 また

2か月弱死が伏せられていたのだから、立花隆もたぶん世間的には「過去の人」だったのだろう(外地・旧植民地で生まれたり育った人たちもどんどん亡くなっている) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
 立花と同郷(水戸市)の梅宮辰夫は、満州国ハルビンに1938年に生まれています。

Category:ハルビン出身の人物 - Wikipedia
【誕生年順】
早乙女貢 - Wikipedia
 1926~2008年。作家。1968年、マリア・ルス号事件を扱った『僑人の檻』で直木賞受賞。
鶴田満彦 - Wikipedia
 1934年生まれ。中央大学名誉教授。著書『独占資本主義分析序論』(1972年、有斐閣)、『現代日本経済論』(1973年、青木書店)、『現代政治経済学の理論』(1977年、青木書店)、『グローバル資本主義と日本経済』(2009年、桜井書店)、『21世紀日本の経済と社会』(2014年、桜井書店)など
生田滋 - Wikipedia
 1935年生まれ。大東文化大学名誉教授。著書『大航海時代モルッカ諸島』(1998年、中公新書)など
広原盛明 - Wikipedia
 1938年生まれ。京都府立大学名誉教授。著書『震災・神戸都市計画の検証』(1996年、自治体研究社)、『開発主義神戸の思想と経営』(2001年、日本経済評論社)、『日本型コミュニティ政策:東京・横浜・武蔵野の経験』(2011年、晃洋書房)、『観光立国政策と観光都市京都』(2020年、文理閣)など
野田嶺志 - Wikipedia
 1939~2007年。立教大学名誉教授。著書『防人と衛士:律令国家の兵士』(1980年、教育社歴史新書)、『律令国家の軍事制』(1984年、吉川弘文館)、『日本古代軍事構造の研究』(2010年、塙書房)、『古代の天皇と豪族』(2014年、高志書院
加藤登紀子 - Wikipedia
 1943年生まれ。歌手。実父は南満州鉄道勤務で、敗戦後に母の実家がある京都に引き揚げ、小中に進学。中1の夏に父の仕事の関係で東京都世田谷区へ転居。

ということで「ハルビン生まれの日本人」もいるわけです。

旧日本軍の細菌部隊・岡 9420 部隊の名簿が一般公開--人民網日本語版--人民日報2020.9.3
 第二次世界大戦中、旧日本軍はいくつもの細菌戦部隊を立ち上げた。そのうち、最後に立ち上げられたのは南方軍防疫給水部(通称「岡 9420部隊」)で、1942年にシンガポールに設置された。同年、旧日本軍は中国雲南省で2度大規模な細菌攻撃を行い、その犠牲者は20万人に達した。その作戦に、岡9420部隊も参加していた。
 9月2日、黒竜江省哈爾浜(ハルビン)市にある中国侵略日本軍第七三一部隊罪証陳列館で開催された「中国侵略日本軍細菌戦史料公文書特別展」で、岡9420部隊の名簿が初めて一般公開された。

 731部隊が「中枢」とはいえ、支部として別の部隊もあった点には注意が必要です。

「731部隊留守名簿」など核心的文書1400ページ余りを初公開--人民網日本語版--人民日報2021.6.11
さらなる罪証!中国侵略日本軍731部隊の大量の物証を初公開--人民網日本語版--人民日報2021.7.9

731部隊第2代隊長の米軍への供述書を公開 細菌兵器の研究と使用を認める--人民網日本語版--人民日報2021.8.16
 中国侵略日本軍第七三一部隊罪証陳列館は15日、中国侵略日本軍第七三一部隊(以下「731部隊」)の第2代隊長・北野政次が米フォート・デトリックの調査官による尋問を受けた後、米軍に提出した17ページの供述書を初めて公開した。
 中国侵略日本軍第七三一部隊罪証陳列館の金成民館長によると、(中略)「北野は供述書で、最初は731部隊の犯罪行為を日本の国家行為ではなく石井四郎個人の行為と言っており、自らの責任を極力逃れ、隠蔽していたが、後に尋問でフォート・デトリックの調査官の目的が自分を罰することではなく、細菌戦などデータ資料の入手であることが明らかになると、より多くの自白を始めた。北野が戦時中に日本の医学・薬学誌に発表した論文は、これまでに確認されたもので59件に達している。うち少なくとも2件で生きた人間を実験対象にしており、人体実験を隠すために『猿』などの言葉を使った医学論文もある」と指摘する。
 専門家はこの供述書について、「中国侵略日本軍による細菌戦発動という人道に対する罪を明らかにするだけでなく、731部隊の細菌戦などのデータ資料を入手するために米国がダブルスタンダードを取っていたことも十分に示すものだ」と指摘している。

 米国のこういう行為を知っていると「偽善国家アメリカ」という気持ちを感じずにはいられません。
 「話が脱線しますが」松本清張のマイナー作品に『皿倉学説』なんてのがありますが、これが明らかに731部隊を発想に書いていますが、作品としては正直今ひとつです。発想は面白い物の、それで終わってしまっている。

8090 ≪松本清張全集 38 皿倉学説 短編4≫: 換水録
【皿倉学説】約42ページ
 1962年(昭和37年)12月に、「別冊文藝春秋82号」に掲載されたもの。
 大脳生理学の分野で確固たる地位を築いたものの、女性関係で失敗して退官し、拾ってもらった私学でくすぶっている老学者が、九州の皿倉という内科医が発表した学説に興味を抱く。猿50匹で実験したという点が、学界で物笑いの種になっていたが、着想の良さが図抜けていて、只者とは思えなかった。もしや、50匹の猿というのは、体重が60キロくらいあるのではないかと、疑念を抱き、という話。
 ネタバレになってしまいますが、つまり、猿ではなく、人間で実験したのではないかという疑念ですな。皿倉医師が、何らかの方法で、戦前・戦中に行なわれた、人体実験の記録を手に入れて、発表したのではないかと。そのモチーフだけを書いた作品で、ストーリーというほどのストーリーになっていません。うまく、纏められなかったんでしょうな。森村誠一さんの【悪魔の飽食】が話題になったのは、80年代初頭ですが、その20年近く前から、こういう話は、あったわけだ。

虚妄の烏 : 「松本清張全集38 皿倉学説 短編4」読了
 表題になっている「皿倉学説」は、面白かった。
 脳生理学の権威である主人公の大学教授が、とある素人の論文に「こんなバカな学説が成り立つものか」と思いつつも気になって、論文の著者について色々と調べる。
 それで、研究材料にした”50匹の猿”が、実は50人の人間であるという結論に至る。
 即ち、戦時中の、捕虜を使った生体実験結果である。

ハバロフスク裁判 現実的意義がますます顕著に--人民網日本語版--人民日報2021.9.13
 1949年12月25日から30日にかけて、ソ連極東の都市ハバロフスクで、ソ連政府は特別軍事法廷を設け、第二次世界大戦の元凶である日本ファシズムによる「細菌戦」の発動という犯罪行為について、最後の関東軍総司令官である山田乙三を含む12人の日本人細菌戦戦犯に対する公開裁判を行い、細菌戦を発動した日本人犯罪者にしかるべき処罰を与えたことで、国際的に広く称賛された。ハバロフスク裁判の意義は、細菌戦犯罪に対して特別に行われた人類史上初の国際裁判であったこと、その正義の判決によって、当時日本のファシズム戦犯が細菌兵器を開発し、戦時中に朝鮮や中国の一部地区に細菌兵器を放つなど大罪を犯していた事実を白日の下に曝したことにある。ハバロフスク裁判はその実施からすでに70年余りが経つが、今日の現実の状況に対して依然重要な現実的意義を持つ。


◆植民地歴史博物館が問いかけるもの(野木香里)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。
植民地歴史博物館 - Wikipedia
韓国、今度は「植民地歴史博物館」…来年8月の開館目指し、日本の市民団体も支援 - 産経ニュース2015.10.11

恥ずべき民族侵略の歴史を見ることから〜韓国「植民地歴史博物館」を見学2018.12.5
 1階はオープンスペ ースで企画展示、インフォメーションなど、2階が常設展示館になっている。展示は4つのゾーンになっていて、第1ゾーン「日本帝国はなぜ朝鮮を侵略したのか」、第2ゾーン 「日本帝国の侵略戦争朝鮮人に何が起こったか」、第3ゾーン「同じ時代、違う人生― 親日と抗日」、第4ゾーン「過去を乗り越える力、いま、私たちは何をするべきか」となっている。第4ゾーンには日本での集会のチラシ や「アベ政治を許さない!」のタグなども展示されており、日韓連帯運動を大切にしていることもわかった。
 博物館4階は資料室になっている。各界、各所、各人から寄贈、収集された本がぎっしり と収蔵されていた。日本からもヤスクニや天皇制に関する本などなどが寄贈されていた。

赤旗韓国の植民地歴史博物館訪問/小木曽編集局長 戦前「赤旗」の資料寄贈2019.3.3

強制動員被害者の証言映像公開 ソウルの植民地歴史博物館で展示会 | 聯合ニュース2021.7.16
 展示会「被害者の声を記憶せよ!強制動員の歴史を展示せよ!」が16日、ソウルの植民地歴史博物館で開幕した。11月7日まで。
 この展示会では、日本による植民地時代に強制動員された被害者19人の証言映像が公開されている。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」に含まれている長崎市端島炭坑軍艦島)に動員され、長崎で原爆の被害を受けた故ソ・ジョンウさんの映像が韓国で上映されるのは初めて。また、長崎の高島炭鉱、福岡県の三池炭鉱の強制動員被害者の証言映像は今年春に撮影されたもので、今回の展示会で初公開された。


◆歴史のひろば『「時務の歴史」に向き合い続けて:姜徳相先生を悼む』(河かおる*12
(内容紹介)

姜徳相 - Wikipedia
◆『関東大震災』(1975年、中公新書
◆『朝鮮独立運動の群像:啓蒙運動から三・一運動へ』(1984年、青木書店)
◆『朝鮮人学徒動員:もう一つのわだつみのこえ』(1997年、岩波書店
◆『呂運亨*13評伝1:朝鮮三・一独立運動』(2002年、新幹社)、『呂運亨評伝2:上海臨時政府』(2005年、新幹社)、『呂運亨評伝3:中国国民革命の友として』(2018年、新幹社)、『呂運亨評伝4:日帝末期暗黒時代の灯として』(2019年、新幹社)
◆『関東大震災・虐殺の記憶』(2003年、青丘文化社)
◆『錦絵の中の朝鮮と中国:幕末・明治の日本人のまなざし』(2007年、岩波書店
◆『関東大震災朝鮮人虐殺』(山田昭次*14などとの共著、2016年、論創社
◆『時務の研究者・姜徳相:在日として日本の植民地史を考える』(2021年、三一書房

などの著書がある姜徳相氏(2021年6月12日死去、滋賀県立大学名誉教授)の追悼文ですが小生の無能のため、詳細な紹介は省略します。


◆書評:浜井和史*15戦没者遺骨収集と戦後日本*16』(評者:一ノ瀬俊也*17
(内容紹介)
 戦没者遺骨収集が戦後進まなかった問題が批判的に取り上げられてるとのこと。この点、「俺的に」特に酷いと思うのが「北朝鮮での戦没者」でしょう(シベリア抑留や南方での戦死者だってろくな扱いではないですが)。「拉致最優先」を唱えて遺骨収集を邪魔し、また日本人妻の帰国にも後ろ向きな救う会と家族会には怒り、軽蔑、憎悪といった負の感情を禁じ得ません。
 そしてこうした戦没者遺骨収集への無関心さは評者も指摘するように「靖国参拝するウヨ政治家」が「戦没者墓地」や「千鳥ケ淵戦没者墓苑」については無関心なこととも関係しているでしょう。
 戦没者墓地につい最近までウヨが無関心だったことについては例えば

【戦後76年】人生は真田山とともに 墓地保存は「死ぬまでの責務」と語る吉岡武さん - 産経ニュース2021.8.14
 幼少時に「荘厳な雰囲気」と記憶していた墓地の姿は、敗戦を機に一変した。陸軍省が解体され、連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で国は管理から手を引いたからだ。倒れた墓石は放置され、野良犬がうろつき、雑草が生い茂るようになった。

を紹介しておきます。平たく言えばウヨにとっては「靖国があれば良かった」のであり「金や手間がかからない簡単な話」ならともかく「ガダルカナルのジャングル」などで手間や金をかけてまで遺骨収集する気にならなかったということでしょう。
 またこうした「遺骨収集に後ろ向きな姿勢」は「空襲被害」など「軍人軍属以外の戦争被害者への補償」に後ろ向きなことにもつながってるのではないか。

参考

春秋: 日本経済新聞2016.3.28
 「昭和万葉集」に、戦死した夫の無言の帰還を嘆く歌がある。「箱一つ還りきたりて亡き人を思へとならしその軽き箱」(山本道子)。赤紙一枚で戦地に駆り出され、戻ってきたのは遺骨の入っていない遺骨箱だった。そんな空の箱を前に、故人を思えというのか。
▼太平洋戦争の末期、こういう「軽き箱」を多くの遺族が受け取った。戦場での遺体収容などとてもかなわず、白木の箱に戦地の砂や石、仮の位牌(いはい)を収めて届けたのである。軍や政府は、それを遺骨と見なして「英霊の帰還」というフィクションを構築したと、浜井和史帝京大講師は指摘する(「海外戦没者の戦後史*18」)。
▼戦争が終わり、フィクションは崩壊したがアジア・太平洋に散った人々の遺骨はさほど顧みられずにきた。日中戦争以降、海外で戦没した日本人は約240万人。その半数近くの遺骨がなお未帰還だ。そんな不条理に国会がようやく目を向け、先日、戦没者遺骨収集推進法が成立した。遅きに失したとはいえ画期的だろう。

シベリア抑留の戦没者とされた遺骨「すべて日本人ではない」 | 注目の発言集 | NHK政治マガジン2019.7.29
 この問題について、遺骨収集に関する厚生労働省の専門家会議の委員を務める帝京大学浜井和史准教授は、「国の責任で遺骨収集を進めると言いながら厚生労働省には1つ1つの遺骨に対して真剣に向き合う意識が欠けていたのではないか。取り違えが分かった段階で速やかに公表し、関係国にも情報を伝えるべきで国内的にも国際的にも責任を果たしているとは言えない」と述べ厚生労働省の対応を批判しました。
 その上で「とにかく遺骨を日本に持ち帰ることだけが中心になっていて、遺骨が誰のものなのかという厳密な検証が行われてこなかったことは非常に問題だ。今回の取り違えはこれまで収集した遺骨の中にも日本人以外のものが含まれている可能性があることを示している。見つかった遺骨が日本人のものなのかどうかをしっかり鑑定する体制を整えることが急務で、その上で遺骨を遺族のもとに返していくという大きな仕組みを作らなければ今後も同じようなことが起きるのではないか」と指摘しています。

推進法成立から3年 岐路に立つ戦没者遺骨収集 - 産経ニュース2019.8.14
 戦没者の遺骨収集に詳しい浜井和史帝京大准教授は「遺骨収集事業は国際的にも責任があるもので、国は科学的鑑定の導入に積極的であるべきだった」と指摘。導入の遅れには戦没者を特定し、遺族のもとへ帰すという過程が重要視されてこなかったことが背景にあるといい、「推進法施行後も事業全体のデザインを構築しようとする精神に著しく欠けている」と厚労省の姿勢を批判している。

兄の遺骨箱は空だった 亡き姉のセーラー服で通学した私 [知る戦争]:朝日新聞デジタル2021.8.1
 通信兵となった兄は45年3月、最初の出動で乗っていた船が撃沈。帰らぬ人になった。
「翌月、戦死を知らせる紙と遺骨箱が来ました。中には何も入っていませんでした」。

〈戦後76年 遺骨は語る〉硫黄島で戦死の米兵7000人。不明はわずか95人。研究者は指摘する。「日本政府には遺族の元に返す責任感が欠落してきた」 | 鹿児島のニュース | 南日本新聞 | 373news.com2021.8.14
◆米国との差
 厚労省は2003年度から、戦没者遺骨の身元特定のためDNA鑑定を始めた。当初、遺骨とともに見つかった遺品などで遺族を推定できる場合に限り実施したが、遺族の高齢化を踏まえて間口を広げることに。17年度から沖縄県、20年度からは硫黄島ギルバート諸島タラワ環礁について手掛かりがなくても鑑定を公募した。
 20年度までに身元が判明したのは1200件。今年10月からは、地域を限定せずに募集を始める。
 硫黄島では米兵も約7000人亡くなった。厚労省によると、見つかっていないのはわずか95人にとどまる。米国には軍の専門機関「戦争捕虜・戦中行方不明者捜索統合司令部」(DPAA)があり、早くからDNA鑑定を導入し戦死者の身元特定にも力を入れてきた。
 27歳で戦死した父の遺骨を求めて島に通う弓削光知さん(78)=垂水市新城=は「お国柄なのか、情けない。ばかな戦争で苦労した兵隊さんたちを大事にしてほしい」と憤る。
◆責任意識の欠落
 遺骨収集に詳しい帝京大学浜井和史准教授(日本現代史)は「日本政府には戦没者遺骨を徹底捜索し、身元を特定して遺族の元に返すという責任意識と義務感が欠落してきた」と指摘。背景には、戦況が悪化した戦中から戦後初期にかけ、遺骨代わりに「空の遺骨箱」を遺族に届けることで処理済みとした経緯があるという。
 こうした日本政府の姿勢が、フィリピンや旧ソ連などでの収集活動で、日本人ではない遺骨を持ち帰る失態にもつながった。

〈戦後76年 遺骨は語る〉受動的で消極的「グランドデザインなき日本の遺骨収集」 帝京大・浜井准教授インタビュー | 鹿児島のニュース | 南日本新聞 | 373news.com2021.8.19
インタビュアー
 国の遺骨収集事業をどう評価するか。
浜井
 76年通じて場当たり的。一貫したグランドデザインがないままずるずる過ぎた。
インタビュアー
 なぜそうなった。
浜井
 そもそも非常に膨大な戦没者が海外に取り残され、ジャングルなど過酷な戦場で戦後何年もたってから捜索するのは難しい。早い段階で、どう適切に処理すべきか考えるべきだった。
インタビュアー
 遺骨の多くが無縁仏として扱われたことで生じた影響は。
浜井
 戦後の日本社会が戦争責任の問題に向き合う重要な機会を失うことにもつながった。戦争の記憶継承は大きな課題だが、日本の戦争記憶や平和学習は、原爆や空襲など国内の被害のことが目立つ。遠く離れた地で激戦があり、多くの兵士が飢え死にするなど無残に倒れ、大勢の現地の人も傷つけたという想像力が欠けていた。そういう記憶の継承が追求されず、戦争責任の議論も内向きになった

海に沈む遺骨調査で旧日本軍とみられる航空機引き揚げ 鹿児島 | NHKニュース2021.6.24から一部引用
 第2次世界大戦では海外の戦地やシベリアなどで、およそ240万人が亡くなり、いまも半数近い112万人の遺骨が残されたままになっています。
 このうち海上では旧日本軍の艦船や民間から徴用した輸送船など、およそ3000隻がアメリカ軍の爆撃などで沈没し、およそ30万人分の遺骨が海に眠っているとされています。
 しかし、政府はこれまで海中での遺骨収集には陸地とは違って、技術面や安全面に課題があることや、いわゆる「水葬」の慣習から海は戦没者の安眠の場所であるという考え方があることを理由に『原則として収容を行わない』という見解を示していました。
 このため収集される海中の遺骨は、浅瀬で人目に付く場合など『遺骨の尊厳が損なわれる特別な状況にある場合』などに限られていて、これまでに収集されたのは、去年3月末の時点でトラック諸島やフィリピンなどのおよそ670人分にとどまっています。
 こうした中、厚生労働省は去年8月、海中の遺骨について「今後は積極的に情報収集し技術的に可能な場合には収容を実施する」とする、新たな方針を示しました。
 その主な理由として挙げたのが、観光で潜ることができるダイビングスポットの増加や潜水技術の進歩、そしてSNSの普及です。
 近年はインターネット上にダイバーが撮影した、海中の遺骨の画像が投稿されるケースが相次いでいます。
 5年前には中部太平洋のトラック諸島の沖に沈む貨物船「山霧丸」の内部で撮影された遺骨の動画が、YouTubeに投稿されていることが確認され、その後、2人の遺骨の身元が確認されました。
 こうした状況について遺族などからは、観光ダイバーの目に遺骨がさらされる場合には遺骨収集を進めてほしいとか、遺骨の画像がSNSに掲載されるような近年の状況はつらいものがあるという意見が寄せられたということです。
 このため厚生労働省は、遺骨を目にする可能性があるダイバーなどとの連携を進め、積極的に情報収集を行うとともに、在外公館を通じて海外のダイビング業者などに情報提供を呼びかけるとしています。
遺族「遺骨を日本へ帰してあげてほしい」
 愛知県知多市に住む桑山市郎治さん(78)の父親の重貞さんは昭和19年、機関士として乗船していた「愛国丸」がアメリカ軍の爆撃を受け、亡くなりました。
 桑山さんは昭和59年に初めてトラック諸島を訪れ、これまでに4回慰霊を行いましたが、沈没の場所からもっとも近い島にそとばを立てて供養し、父親の遺骨の帰還については諦めかけていたといいます。
 桑山さんは「現地のダイバーからは、まだ船の中にたくさん遺骨があると聞いていたが、自分の気持ちに区切りをつけないといけないと感じていた。海底に沈んでいる船は世界中にあるので、自分の父親の遺骨だけ引き揚げてほしいという気持ちはないが、人目に付く範囲で潜るのが可能ならば1つでも遺骨を日本へ帰してあげてほしい」と話していました。
 厚生労働省はまず、今月から調査を始めた種子島沖の航空機やトラック諸島沖に沈む「愛国丸」など4隻について、ことしの秋ごろまでに遺骨の引き揚げ作業を行うとしています。
 「愛国丸」は、およそ650人分の船員名簿が残されているということで、陸地に比べてDNAなどの保存状態がよいとされる海中の遺骨収集が進めば、遺骨の身元特定につながることが期待されます。
 ただ「愛国丸」の乗組員の遺族によりますと、今まで厚生労働省から身元特定のために必要なDNAの提出を求められたことはないということです。
 また、海に沈む艦船や輸送船などはおよそ3000隻ありますが「愛国丸」のように、厚生労働省が乗組員の名前を確認できているのは、ごく少数だと言うことで、収集した遺骨をどのようにして遺族の元に戻していくのかが課題になっています。

常夏通信:その94 戦没者遺骨の戦後史(40)水葬=棄兵・棄民の思想 | 毎日新聞【栗原俊雄*19】2021.5.17
 第二次世界大戦下、連合国軍、特に米軍の潜水艦や航空機の攻撃によって多数の艦船が撃沈された。厚生労働省の推計によると海で戦没した日本人は30万人。戦史研究の第一人者である吉田裕・一橋大名誉教授によれば、35万人以上ともされる(『日本軍兵士*20中公新書)。これらのほとんどを、我らが日本政府は「水葬」扱いして、十分に捜しもしなかった。「水葬」という風習は確かに昔からあった。たとえば前近代の民間船、遠洋漁業や冒険の航海中に病気などで亡くなった人がいたら、海に葬るのは致し方ないところだ。それが本来の「水葬」である。
 一方、戦争は国策であり、米軍などに撃沈された人たちは国策の犠牲者だ。遺骨を収容して遺族に返す義務が政府にはある。遺族が「水葬のままでけっこうです」と言うなら別だが、私が知る限り国が遺族にそういう意思を聞いたことはない。30万体=水葬の論理は、戦争や他国侵略政策における棄兵・棄民、つまり多数の兵士を海外に送ったものの、満足に補給をせず見殺しにし、また国策として旧満州(現中国東北部)への民間人移民を推奨しながら、敗戦したあと何の支援もせず見殺しにした、日本政府の「基本政策」の延長にある。
 「水葬」扱いの多くが、外国の領海内や日本政府の支配が及ばない公海で亡くなった人たちだ。敗戦の後、日本は1952年まで連合国軍総司令部GHQ)に占領されていて、外交権がなかった。つまり日本政府に戦争で沈没した船から遺骨を収容する意思があったとしても、それを相手国に直接申し出ることはできなかった。それどころか日本近海の沈船にある遺体、遺骨の収容ですらGHQの許可なしにはできなかった。

常夏通信:その119 戦没者遺骨の戦後史(65) 中国で遺骨調査が進まぬ訳 | 毎日新聞【栗原俊雄】2021.11.10
 2016年に議員立法で成立した戦没者遺骨収集推進法は、遺骨収容を初めて「国の責務」と明記した。同法が目指すのは「集めて終わり」ではない。遺族に返すことだ。海外で亡くなった日本人240万人のうち、収容されたのは今年9月末現在で127万6000体。未収容が112万4000体ということになるが、厚生労働省が収容の対象にしているのはこのうち「最大で約59万柱(体)」という。では残りの53万体については収容する意思がないのだろうか。この「残りの53万体」について考えたい。
 内訳として、53万体のうち30万体は、前回までの本連載で触れた海没遺骨だ。従来は「水葬」扱いとして事実上放置していたが、昨年「原則として収容」と方針を変えた。もう戻らないとあきらめていた遺族にとっては、希望の明かりだ。しかし、収容が劇的に増えるとは考えにくい。厚労省によれば、対象はまず遺骨の情報が残っている沈没船だ。さらに、作業するダイバーの安全が確保できる場所である点が求められる。具体的には、戦時下にミクロネシア連邦・トラック諸島(現チューク諸島)近海で撃沈された輸送船「愛国丸」などだ。
 一方で情報がないか、あったとしてもダイバーの安全確保が不明な場合は手をつけない。こうした条件がある限り、着手できる沈没船は少ないだろう。たとえば大日本帝国海軍のシンボルだった「戦艦大和」だ。乗員3332人中、3000人以上が戦死。沈没位置は北緯30度43分17秒、東経128度04分00秒と判明している。しかし調査すらされていない。厚労省の基準からすれば、遺骨があるかどうか分からないからだ。また、仮に確認できても、水深およそ350メートルという深海であるため、ダイバーによる潜水はほとんど不可能だ。

 要するに「遺骨回収など、もはやほとんど無理だ」ということでしょう。回収したいという遺族の気持ちはわからないでもない。何せ明らかに昔の政府は遺骨回収に「後ろ向きだった、やる気がなかった」。「回収は勿論可能な限りすべきですが」、とはいえ、「絶対に回収しろ」と「どう見ても回収が無理なケースにまで」つるし上げてもただのクレーマーでしかない。
 従って多くの遺族は実際問題、あまりにも無茶なことは言わないでしょう。
 しかしそうした無茶苦茶なクレーマー行為(例:即時一括全員帰国以外認めないなど)を小泉訪朝から20年、政府相手に続けてる迷惑な団体があります。拉致被害者家族会です(政府も毅然とした態度を取るべきではありますが)。俺はもはや横田早紀江拉致被害者家族会には何一つ同情の念はありません。

赤旗主張/戦没者の遺骨収集/取り違え放置に反省あるのか2019.10.25
 第2次世界大戦後に、シベリアに抑留された旧日本軍兵士などの遺骨に取り違えの可能性があることが明らかになり、厚生労働省戦没者遺骨収集事業に対する不信が高まっています。国民の批判を受けて同省は、遺骨鑑定の経過などを調べる専門家チームを発足させましたが、対応が遅すぎます。遺骨が日本人のものでないという疑惑はかねて指摘されていたのに、放置してきた厚労省の姿勢がきびしく問われます。

赤旗辺野古工事 土砂使用 戦没者冒す/井上議員「遺骨収集こそ」/参院外防委2021.3.25
 日本共産党井上哲士*21議員は22日の参院外交防衛委員会で、沖縄県名護市沖の米軍辺野古新基地建設の埋め立てに戦没者の遺骨が残る同県南部の土砂を使う計画をやめるよう求めました。岸信夫*22防衛相は「調達先は決まってないが、お骨の問題は大変重要」「今後しっかり検討していきたい」と答弁しました。
 「戦没者遺骨収集推進法」(2016年制定)は、遺骨収集は「国の責務」と規定。井上氏は、同法の「取り組みの方針」冒頭に「遺族の心情に鑑み、遺骨の尊厳を損なうことのないよう、丁寧な配慮をしつつ…推進する」と明記されていると指摘し、「県南部の土砂を使うことは戦没者を冒涜し国の責務に反する」と批判しました。

コロナ禍で朽ちゆくシベリア抑留の記憶…ロシア人墓地が日本人埋葬地を侵食:東京新聞 TOKYO Web2021.8.16
 第2次大戦後、6万人超の日本人が飢えや病のために死んだシベリア抑留。ロシアではこの1年半、新型コロナウイルスの流行を受けて、日本人墓地(埋葬地)の荒廃が進んだ。戦後76年を迎え、非業の死をしのぶ場所は失われつつある。
(中略)
 この墓地では1997年、日本政府が土を掘り起こし、一部の日本人の骨を回収した。だが遺骨回収済みの場所はくぼ地となって、ごみの不法投棄場所に。ロシア人はこの一帯が日本人の埋葬地だとは知らぬまま、ごみを捨てている状態だ。
 「『日本人の埋葬地』という立て札さえ設置されれば、ロシア人もごみを捨てないはずなのに」とフョードロフさん夫妻は残念がる。
 一方、日本の抑留者団体が埋葬地周辺で建てた慰霊碑も荒れつつある。理由の1つが墓参者の急減だ。
 厚労省や抑留者団体は毎年、日本人墓地の慰霊ツアーを企画してきた。ロシアの自治体は、日本側から墓参の予定を伝えられると、慰霊碑周辺の草刈りなどを行い、日本の訪問団を迎えるのが常だった。
 ところがコロナ禍で慰霊ツアーは2020、21年度と続いてキャンセルに。訪問客が途絶えた結果、地元自治体による墓地清掃の機会は減った。草に覆われ、慰霊碑の土台が朽ちるケースも見受けられる。
 「抑留の歴史遺産が消えていく」。
 こう憤るのは父を抑留で亡くした岩手県立大名誉教授の増子義孝さん(84)。コロナ禍前にウスリースクを訪ね、父の埋葬地周辺がごみだらけだったことにショックを受けたという。「日本政府は墓標を立てるなり、慰霊にふさわしい環境を整えるべきだ」と訴える。

 つう事で「戦没者の遺骨」では、いろいろと酷い話があるわけです。


◆書評:木村拓『朝鮮王朝の侯国的立場と外交*23』(評者・程永超*24
(内容紹介)
 「侯国」とは聞き慣れない言葉ですが、それもそのはずで、評者に寄れば、これは「李氏朝鮮の対中国外交」分析において、著者の提出した新概念です。なお、「侯国」でググる

◆侯(侯爵)という称号をもった者を君主としている国。

という定義(コトバンク)がヒットし、その具体例として『リヒテンシュタイン侯国』などがあがっています。
 なお、話が脱線しますが、外務省は「リヒテンシュタイン公国国家元首は公爵)」と表記し、多くの人間がこれに従っていますが、一方で「侯国」「侯爵」の方が表記として適切という主張があります。
 実際、ググると、

建国300年 ヨーロッパの宝石箱リヒテンシュタイン 侯爵家の至宝展 | Bunkamura
 本展は、侯爵家秘蔵のルーベンス、ヤン・ブリューゲル(父)、クラーナハ(父)を含む、北方ルネサンスバロックロココを中心とする油彩画と、ヨーロッパでも有数の貴族の趣向が色濃く反映された、ウィーン窯を中心とする優美な陶磁器、合わせて約130点で構成されます。
◆植田健嗣 『ミニ国家「リヒテンシュタイン侯国」』(1999年、郁文堂)

などがヒットします。
 話を元に戻しますが、おそらく、李氏朝鮮も「侯という称号をもった者を君主としている国」なのでしょうが、もちろんその程度の話だったら、新概念として提出する意味はどこにもないわけです。
 従ってその新概念自体が「適切なのかどうか」というのが最も重要な問題になりますが、正直、この書評を読むだけではアホの俺にはわからない(そもそも「侯国」概念自体がよくわからない)、つうのが感想です。
 なお、評者は以下の指摘をしています。
1)著者は「李氏朝鮮の対中国外交」を「侯国」概念で分析しているがその分析時期は専ら15世紀である。16世紀以降の記述が乏しいことが問題である。なぜなら、「侯国」概念に従来の概念(冊封国朝貢国、藩属国、服属国など)とは異なる独自の意味があるとしても15世紀のみの分析では「侯国」概念は15世紀のみにしか該当せず、16世紀以降には該当しない可能性があるからである。
2)中国から冊封を受けていた国は李氏朝鮮のみではない。「侯国」概念が意義ある概念だとして、例えば琉球王朝については「侯国」概念は適用できるのかどうか(分析対象は『中国から冊封を受けた国』であればよく、琉球王朝でなくても構わないが)。
 もし適用できないのであればそれは「李氏朝鮮と中国」が琉球など「他の冊封国」とは異なる外交関係にあったと見なせる。一方で琉球王朝についても「侯国」概念が適用できるのであれば「侯国」概念は「中国といわゆる冊封関係にある国」との関係全てに該当すると見なせる余地がある。「侯国」概念が意義ある概念だとしても、果たして「李氏朝鮮限定」なのかそうでないのか、今後分析する必要がある。
 

◆紹介:川合康*25源頼朝*26』(評者・工藤祐一
(内容紹介)
 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ている方ならよくわかるでしょうが「頼朝が『源氏の棟梁』と言えるかどうかは微妙」というのが本書の指摘の一つのようです。
 源義仲(大河では青木崇高)や源行家(頼朝のおじ。大河では杉本哲太)などに対して頼朝(大河では大泉洋)が上の立場だと言えるまともな根拠は実は何もない。単に「義仲、行家など源氏一族の上に立ち、それに義仲らが従わない場合は打倒*27し」、また「御家人たちへの支配権」を正当化するため、頼朝が主張したに過ぎません。
 頼朝が義仲に敗北したり、上総広常(有力御家人の一人)に暗殺されたりすれば崩壊する程度の話でしかない。
 そもそも最初に平氏打倒の兵を挙げたのは頼朝ではなく源頼政(大河では品川徹*28)ですし。
 「頼朝が源氏の棟梁と言えるかどうかは微妙」がわかりやすいのが、大河ドラマでの上総広常(大河では佐藤浩市)の描き方です。
 「石橋山の戦い」で平氏に惨敗した時点では明らかに広常の方が「軍事力、経済力」などが頼朝より強く、立場が上であった。
 しかし、次第に頼朝が力をつけて行くにつれて、両者の対立は激化し、最終的には広常は暗殺されることになります(まだ現時点では暗殺までいっていませんが4/10の放送では、次の4/17放送で暗殺されそうな描き方ではありました)。
【追記】
 やはり「予想通り」4/17放送で暗殺されていますね。権力基盤が強固ならば「暗殺」などという手法はとる必要はそもそもない(例えば江戸幕府では福島正則の改易などが普通に行われている)のであり、頼朝の政権基盤が当初においては確立してなかったことがわかります。
 そしてこうした将軍権力基盤の弱さは結局是正できず、「二代将軍・頼家」「三代将軍・実朝」暗殺を招いたと言うべきでしょう。
 頼家、実朝は「上総広常を粛清した父・頼朝」とは違い、「対立する北条氏」にかえって暗殺される羽目となります。その辺りも勿論大河ドラマで描かれるでしょうが。


◆編集後記
 編集後記では台湾の

台北二二八紀念館 - Wikipedia
 台北市の二二八和平公園内に、二・二八事件(1947年)からちょうど50年となった1997年2月28日に台北市が開館(当時の市長は後に台湾総統となる陳水扁
二二八国家紀念館 - Wikipedia
 2011年2月28日に台湾政府が開設(当時の台湾総統馬英九)。

が簡単に紹介されています。今回の特集タイトル『記憶を継承する博物館』が「どんな記憶」かは「今更」ですが、概ね予想がつくかと思います。

*1:東京大空襲・戦災資料センター学芸員を経て、すみだ郷土文化資料館学芸員

*2:著書『天皇の軍隊と南京事件』(1985年、青木書店)、『昭和天皇終戦史』(1992年、岩波新書)、『現代歴史学と戦争責任』(1997年、青木書店)、『日本の軍隊:兵士たちの近代史』(2002年、岩波新書)、『日本人の戦争観:戦後史のなかの変容』(2005年、岩波現代文庫)、『アジア・太平洋戦争』(2007年、岩波新書)、『現代歴史学軍事史研究』(2012年、校倉書房)、『日本軍兵士:アジア・太平洋戦争の現実』(2017年、中公新書)、『日本人の歴史認識東京裁判』(2019年、岩波ブックレット)、『兵士たちの戦後史:戦後日本社会を支えた人びと』(2020年、岩波現代文庫)など

*3:後に第二復員省(旧海軍省)と統合され復員庁になった。復員庁は1948年1月1日に廃止されその業務は厚生省引揚援護院(その後、厚生省引揚援護庁→厚生省引揚援護局→厚生省援護局→厚生省社会・援護局→厚生労働省社会・援護局)に引き継がれた(第一復員省 - Wikipedia復員庁 - Wikipedia引揚援護庁 - Wikipedia参照)。

*4:著書『東京大空襲』(1971年、岩波新書)、『東京が燃えた日』(1979年、岩波ジュニア新書)、『戦争を語りつぐ:女たちの証言』(1998年、岩波新書)など

*5:広島平和記念資料館学芸員

*6:南京事件当時は中華民国の首都。現在は江蘇省省都

*7:黒竜江省省都

*8:そもそも「細菌戦人体実験」などというやばい施設だからこそ、そう言うところに作ったわけです。

*9:悪魔の飽食』(1983年、角川文庫)のこと

*10:ハバロフスク裁判については例えば 731部隊(11)三友一男『細菌戦の罪』 ハバロフスク軍事裁判の実相参照。ハバロフスク裁判 - Wikipediaによれば、川島清(関東軍細菌製造部長、軍医少将)、柄沢十三夫(関東軍細菌製造課長、軍医少佐)、尾上正男(731部隊海林・牡丹江支部長、軍医少佐)らが裁かれた。

*11:首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監など歴任。元老の一人

*12:滋賀県立大学准教授

*13:1886~1947年。戦後、「朝鮮人民共和国初代国家副主席(初代国家主席は韓国初代大統領の李承晩)」に就任するが李承晩派によって暗殺された。韓国政府は、2005年に建国勲章大統領章を、2008年に建国勲章大韓民国章を追叙(呂運亨 - Wikipedia参照)

*14:立教大学名誉教授。著書『金子文子』(1996年、影書房)、『関東大震災時の朝鮮人虐殺』(2003年、創史社)、『朝鮮人戦時労働動員』(共著、2005年、岩波書店)、『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(2011年、創史社)、『関東大震災時の朝鮮人迫害』(2014年、創史社)など

*15:著書『海外戦没者の戦後史:遺骨帰還と慰霊』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など

*16:2020年、吉川弘文館

*17:埼玉大学教授。著書『近代日本の徴兵制と社会』(2004年、吉川弘文館)、『明治・大正・昭和 軍隊マニュアル』(2004年、光文社新書)、『銃後の社会史:戦死者と遺族』(2005年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『戦場に舞ったビラ:伝単で読み直す太平洋戦争』(2007年、講談社選書メチエ)、『旅順と南京:日中五十年戦争の起源』(2007年、文春新書)、『宣伝謀略ビラで読む、日中・太平洋戦争』(2008年、柏書房)、『皇軍兵士の日常生活』(2009年、講談社現代新書)、『故郷はなぜ兵士を殺したか』(2010年、角川選書)、『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」:帝国陸軍戦法マニュアルのすべて』(2012年、文藝春秋)、『日本軍と日本兵』(2014年、講談社現代新書)、『戦艦大和講義:私たちにとって太平洋戦争とは何か』(2015年、人文書院)、『戦艦武蔵』(2016年、中公新書)、『飛行機の戦争 1914-1945:総力戦体制への道』(2017年、講談社現代新書)、『昭和戦争史講義:ジブリ作品から歴史を学ぶ』(2018年、人文書院)、『特攻隊員の現実』(2020年、講談社現代新書)、『東條英機』(2020年、文春新書)、『軍隊マニュアルで読む日本近現代史』(2021年、朝日文庫)など

*18:2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー

*19:著書『戦艦大和』(2007年、岩波新書)、『シベリア抑留』(2009年、岩波新書)、『勲章:知られざる素顔』(2011年、岩波新書)、『シベリア抑留は「過去」なのか』(2011年、岩波ブックレット)、『20世紀遺跡:帝国の記憶を歩く』(2012年、角川学芸出版)、『遺骨:戦没者三一〇万人の戦後史』(2015年、岩波新書)、『「昭和天皇実録」と戦争』(2015年、山川出版社)、『特攻』(2015年、中公新書)、『戦後補償裁判:民間人たちの終わらない「戦争」』(2016年、NHK出版新書)、『シベリア抑留最後の帰還者:家族をつないだ52通のハガキ』(2018年、角川新書)、『東京大空襲の戦後史』(2022年、岩波新書

*20:2017年刊行

*21:日本共産党幹部会委員

*22:菅、岸田内閣防衛相。安倍元首相の実弟

*23:2021年、汲古書院

*24:東北大学准教授。著書『華夷変態の東アジア:近世日本・朝鮮・中国三国関係史の研究』(2021年、清文堂出版

*25:大阪大学教授。著書『源平合戦の虚像を剥ぐ』(1996年、講談社選書メチエ→2010年、講談社学術文庫)、『鎌倉幕府成立史の研究』(2004年、校倉書房)、『日本中世の歴史3:源平の内乱と公武政権』(2009年、吉川弘文館)、『院政期武士社会と鎌倉幕府』(2019年、吉川弘文館

*26:2021年、ミネルヴァ日本評伝選

*27:実際、最終的には義仲は追討を受け自害に追い込まれ、行家は斬首された

*28:過去の出演としてフジ『白い巨塔(大河内・浪速大学教授)』(2003年)、映画『沈まぬ太陽利根川首相のブレーンである大物財界人・龍崎一清(利根川は中曽根首相、龍崎は瀬島龍三・元伊藤忠社長がモデル))』(2009年)など(品川徹 - Wikipedia参照)