混沌の時代を読む―知識はなくとも、ユーモアをもって(その1) - Pontarou0608’s diary
坂野*1の著書『日本近代史』(2012年、ちくま新書)を紐解いてみよう。すると、日中戦争に突入していく近衛文麿内閣の性格について次のようなことが述べられている。
1937年6月4日に成立した第一次近衛文麿*2内閣は、(中略)民政党や政友会だけでなく、財界からも新官僚からも入閣者を得(中略)諸政治勢力のすべてを包摂した内閣であった。
具体的には以下の通りです。
第1次近衛内閣 - Wikipedia参照
【民政党】
◆永井柳太郎(第一次近衛内閣逓信相)
近衛内閣以前に斎藤*3内閣拓務相。近衛内閣以降に阿部*4内閣逓信相
【政友会】
◆中島知久平(第一次近衛内閣鉄道相)
中島飛行機(現在のSUBARU)創業者であり財界人でもある。
【財界】
◆馬場鍈一(第一次近衛内閣内務相)
元日本勧業銀行総裁。近衛内閣以前に広田内閣蔵相
【新官僚(革新官僚)】
◆賀屋興宣(第一次近衛内閣蔵相)
大蔵省主計局長、理財局長、大蔵次官を歴任。近衛内閣以降も東条内閣で蔵相。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放。公職追放も解除され政界に復帰。池田内閣法相、自民党政調会長(池田総裁時代)など歴任
◆塩野季彦(第一次近衛内閣司法相)
司法省行刑局長、名古屋控訴院検事長(現在の名古屋高検検事長)、大審院検事局次長(現在の最高検次長検事)を歴任。近衛内閣以前も林内閣司法相。近衛内閣以降、平沼内閣司法相
◆吉野信次(第一次近衛内閣商工相)
商工官僚として商工省工務局長、商工次官を歴任。戦後公職追放されるが、後に解除され政界に復帰。鳩山内閣運輸相、自民党参院議員会長(岸総裁時代)など歴任
それは「挙国一致での政権強化を近衛が狙った」ということでもあるだろうし、「中国との戦争を有利に進めるには挙国一致が必要」と言う点では「国内の政治勢力(政友会、民政党、財界、新官僚など)のほとんどが同意見だった」ということでもあるでしょう。
だからこそ「挙国一致」を目指すために、1940年には政党(立憲政友会、立憲民政党、社会大衆党など)が解散し、大政翼賛会も誕生した(とはいえ、大政翼賛会は政党(立憲政友会、立憲民政党、社会大衆党など)の寄り合い所帯に過ぎず、政党間の意見の違いは残ったままで、一枚岩の組織とは言えなかった*5ようですが)。
なお、こうした挙国一致は何も第一次近衛内閣だけではない。
近衛の前の林*6内閣も
林内閣 - Wikipedia参照
【昭和会】
◆山崎達之輔*7(林内閣農林相)
「岡田*8内閣に批判的な立憲政友会執行部」の了解なく、岡田内閣に農林相として入閣したため「反党行為」を理由に政友会を除名。
山崎と同様の理由(岡田内閣への無断入閣*9)で政友会を除名*10された内田信也*11(岡田内閣鉄道相)、望月圭介*12(岡田内閣逓信相)や政友会を離党した井阪豊光(離党後、岡田内閣で外務政務次官)、樋口典常(離党後、岡田内閣で鉄道政務次官)、蔵園三四郎(離党後、岡田内閣で鉄道政務次官)などとともに新党「昭和会」を結成。
その後、林内閣でも農林相として入閣。
【財界】
◆結城豊太郎(林内閣蔵相)
安田銀行*13副頭取、日本興業銀行総裁、商工組合中央金庫理事長を歴任
【新官僚(革新官僚)】
◆塩野季彦(林内閣司法相)
として「政友会、民政党の二大政党を大臣に取り込むことには失敗(その代わりとして第三勢力「昭和会」の山崎を取り込む)」したものの、多様な政治勢力を取り込んだし、近衛の後の平沼*14内閣も
【民政党】
◆櫻内幸雄(平沼内閣農林相)
平沼内閣以前に第二次若槻*15内閣商工相。平沼内閣以後に米内*16内閣蔵相
【政友会】
◆前田米蔵(平沼内閣鉄道相)
平沼内閣以前に犬養*17内閣商工相、広田*18内閣鉄道相。平沼内閣以降に小磯*19内閣運輸通信相
【新官僚(革新官僚)】
◆石渡荘太郎(平沼内閣蔵相)
大蔵省主税局長、大蔵次官を歴任。平沼内閣以降の、東条、小磯内閣でも蔵相
◆塩野季彦(平沼内閣司法相)
◆広瀬久忠(平沼内閣厚生相)
三重県知事、埼玉県知事、内務省土木局長、内務次官、厚生次官等を歴任。平沼内閣以降の小磯内閣でも厚生相
として多様な政治勢力を取り込んでいました。林内閣以前(広田*20内閣など)、平沼内閣以降(阿部*21内閣など)も「同じ」と思いますが紹介は省略します。
日中全面戦争の危機が生じたのである。『危機の時代』が懐かしくなるような『崩壊の時代』が始まったのである。しかし、「崩壊の時代」に入っていった最大の原因は、すでに国内の指導勢力が四分五裂していて、対外関係を制御できなくなっていたからである。
何が「崩壊の時代」なんだろう?、ですね。
なお、日本が日中全面戦争に突入したのは国内の指導勢力が四分五裂していて、対外関係を制御できなくなっていたからではなく「全面戦争に突入しても簡単に中国に勝てる」と中国を舐めていたからでしょう。
その舐めた考えは戦争泥沼化によって裏切られますが。
むしろ国内の指導勢力が四分五裂していて、対外関係を制御できなくなっていたのなら戦争なんか出来ないと思いますけどね。
日中戦争を途中で停めたり、日英米戦争を回避したりするための政治体制の再編*22を目指す指導者は、もはや存在しなかったのである。
これ*23以後の8年間は、異議申し立てをする政党、官僚、財界、労働界、言論界、学界がどこにも存在しない*24、まさに『崩壊の時代』であった。
そりゃほとんどの人間が「中国に勝てる」と思ってるんだから異議申し立てはしないでしょう。
なお、「日中戦争を途中で停めたり」は「中国に勝てる」と思っていたから、確かに「なかった」でしょうが、「日英米戦争を回避」について言えば、少なくとも主観的には日本政府は回避しようとしていたでしょう。
だからこそ米国に来栖三郎*25や野村吉三郎*26を大使として送り込んで、米国と交渉した。対米戦争を回避する気が無いなら来栖や野村に交渉させる必要は無い。
米国の対日石油禁輸を招いた仏印進駐だって「米国は反発しない」という間違った認識、甘い認識で実行したのであって、故意に米国を挑発したわけではない。日本政府が「日英米戦争を回避」する気が無かったかのような坂野の文章はいかがなものか?
しかし日米交渉は「中国からは軍を撤退しない。蒋介石政権は打倒する。仏印からも軍は撤退しない(日本)」という代物であり、「中国と仏印から軍を撤退しろ。蒋介石政権打倒は諦めろ。そうで無い限り石油禁輸は解除しない」という米国のハルノートとは意見の違いが大きすぎた。
この意見の違いを「ハルノート受諾」ではなく「対米開戦」で解決したのが当時の日本でした。
*1:東京大学名誉教授。著書『昭和史の決定的瞬間』(2004年、ちくま新書)、『明治デモクラシー』(2005年、岩波新書)、『未完の明治維新』(2007年、ちくま新書)、『近代日本の国家構想:1871‐1936』(2009年、岩波現代文庫) 、『自由と平等の昭和史:一九三〇年代の日本政治』(2009年、講談社選書メチエ)、『日本政治「失敗」の研究』(2010年、講談社学術文庫)、『明治国家の終焉』(2010年、ちくま学芸文庫)、『日本近代史』(2012年、ちくま新書)、『西郷隆盛と明治維新』(2013年、講談社現代新書)、『近代日本とアジア』(2013年、ちくま学芸文庫)、『〈階級〉の日本近代史:政治的平等と社会的不平等』 (2014年、講談社選書メチエ)、『近代日本の構造:同盟と格差』(2018年、講談社現代新書)、『明治憲法史』(2020年、ちくま新書)等
*2:戦前、貴族院議長、首相を歴任。戦後、戦犯指定を苦にして自殺
*3:第一次西園寺、第二次桂、第二次西園寺、第三次桂、第一次山本内閣海軍大臣、朝鮮総督、首相、内大臣を歴任。内大臣在任中に226事件で暗殺
*4:陸軍省軍務局長、陸軍次官、台湾軍司令官、首相、朝鮮総督を歴任
*5:新刊紹介:「歴史評論」2025年9月号 - bogus-simotukareのブログでも触れましたが大政翼賛会が「ドイツのナチ党」「イタリアのファシスト党」と違い、一枚岩の組織と言えなかったことから「ドイツやイタリアのファシズムと戦前日本の戦時体制には大きな違いがある」「日本の政治体制をファシズムと呼ぶことは適切ではないのではないか」とは仮に言えても「戦前日本の戦時体制が人権抑圧体制(例:治安維持法による弾圧)で、ドイツやイタリアのファシズムに親和的な体制(例:だからこそ日独伊三国同盟を締結したし、一枚岩の組織を作れなかったとは言え、ドイツ、イタリアを真似て大政翼賛会もつくった)であったこと」は勿論否定できません。
*6:朝鮮軍司令官、陸軍教育総監、斎藤、岡田内閣陸軍大臣を経て首相
*7:岡田、林、東条内閣で農林相
*9:ちなみに「政友会に断りなく、岡田内閣に入閣した山崎」らと同様に自民党に無断で「菅直人内閣総務大臣政務官」に就任したために、「離党届けを出したが受理されず自民に除名された」のが浜田和幸です(浜田和幸 - Wikipedia参照)
*10:以前も書きましたが、このように「党方針に反すれば除名される」のは当然であり、松竹、神谷の除名も「党方針『自衛隊違憲、日米安保廃止』に反し『自衛隊合憲、日米安保堅持』を主張した松竹、神谷の自業自得。党を恨むのは筋違いな逆恨み。裁判も今すぐ取り下げろ(まあ取り下げないのでしょうが)」が俺の理解です。
*11:内田造船所創業者。山下汽船(後に山下新日本汽船→ナビックスラインを経て商船三井)創業者の山下亀三郎」「勝田汽船創業者の勝田銀次郎」とともに「三大船成金」と呼ばれた。戦前、岡田内閣鉄道相、東条内閣農商相を、戦後、吉田内閣農林相を歴任
*14:司法次官、検事総長、大審院長(現在の最高裁長官)、第2次山本内閣司法相、枢密院議長、首相、第2次近衛内閣内務相を歴任。戦後、終身刑で服役中に病死。後に靖国に合祀
*15:第三次桂、第二次大隈内閣蔵相、加藤高明内閣内務相等を経て首相
*16:戦前、林、第1次近衛、平沼内閣海軍大臣、首相、小磯、鈴木内閣海軍大臣を、戦後、東久邇宮、幣原内閣海軍大臣を歴任
*17:第一次大隈内閣文相、第二次山本、加藤高明内閣逓信相等を経て首相。首相在任中に226事件で暗殺
*18:斎藤、岡田内閣外相、首相、第一次近衛内閣外相等を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀
*19:陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、平沼、米内内閣拓務大臣、朝鮮総督等を経て首相。戦後終身刑判決で服役中に病死。後に靖国に合祀
*20:斎藤、岡田内閣外相、首相、第一次近衛内閣外相等を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀
*21:陸軍省軍務局長、陸軍次官、台湾軍司令官、首相、朝鮮総督等を歴任
*22:目的が何かはともかく「政治体制の再編」自体なら総力戦に備えた「国家総動員法の制定(1938年)」や「大政翼賛会の結成(1940年)」があります。
*23:1937年の盧溝橋事件のこと
*24:「政府の弾圧」「戦争熱の高まり」などによって「極めて少数でほとんど存在しない」というならともかく「戦争推進について異議申し立て(終戦論、停戦論)がどこにも存在しない」というのは言いすぎではないか。また「対中、対米開戦」の実行自体については「ほとんど異議申し立て」はない(ほとんど停戦、終戦論はない)でしょうが「どう進めるか」については異議申し立ては多々あったでしょう。そのわかりやすい例が「中野正剛の東条首相批判」とそれに対して「東条が圧力をかけて中野を自殺に追い込んだ(事実ならば、東条による中野に対する事実上の自殺強要であり、殺人と言ってもいいかもしれない)」とされる中野正剛事件 - Wikipediaです。
*25:外務省通商局長、ベルギー大使、ドイツ大使、米国大使を歴任
*26:海軍省教育局長、軍令部次長、呉鎮守府司令長官、横須賀鎮守府司令長官を歴任。海軍軍人だが駐在武官経験があり、外交通であるため、阿部内閣外相、米国大使を歴任