さて今日も「反吐が出るほど大嫌いなクズ野郎」kojitakenに悪口することにしましょう。
カズオ・イシグロの『日の名残り』を日本人読者が「誤読しがち」な問題を取り上げたnoteの良い記事があった - KJ's Books and Music
この国では権威主義的なものの考え方があまりにも強烈に刷り込まれた人たちが多いからではないかと私は考える。
「日本ではイシグロ小説『日の名残り』(邦訳は中公文庫、ハヤカワepi文庫。1993年に映画化され、獲得は逃した物の、1994年のアカデミー賞で主演男優賞(スティーヴンス役のアンソニー・ホプキンス*1)、主演女優賞(ケントン役のエマ・トンプソン*2)にノミネート。なお、1994年のアカデミー主演男優賞はトム・ハンクス*3(『フィラデルフィア』)、主演女優賞はホリー・ハンター(『ピアノ・レッスン』)が受賞)を誤読してるバカが多いが、俺は正確に解釈してるんだ!。どうだ、スゴイだろ!」「誤読してるバカは権威主義者なのだ。それに対して俺は反権威主義者だ。どうだ、スゴイだろ!」と今日も自画自賛に励むid:kojitakenです。
もはや「感銘を受けた(あるいは「大好きな」など)イシグロ小説」を多くの人間に知って欲しい、読んで欲しいと言うことで紹介してると言うよりは、イシグロ小説をネタにして「おバカな日本人大多数(悪しき権威主義者)とは違う、お利口な俺様(反権威主義者)」を自慢してるようにしか見えません。
「反権威主義」を自称するkojitakenですが、皮肉にもこうしたkojitakenの「俺は反権威主義者だ。だからイシグロが正確に読めるのだ」「俺は権威主義者が多い日本人多数派とは違うのだ」と自画自賛する態度こそが「ある種の権威主義」ではないか。
そして、そうした態度は「イシグロに対しても失礼」ではないか?
むしろ、こんなことをkojitakenが書けば
「イシグロ小説ってそんなに理解が困難なんだ。じゃあバカな俺に理解できないな」
「イシグロ小説を読んで理解できなくて『ああ、俺ってやはりバカなんだ、文章読解力がないんだ』となるのは不愉快なので読むのは止めよう」
「イシグロ小説をネタに自画自賛するkojitakenが非常に不愉快だから読む気にならない。何なの、あの自画自賛ばかりするバカ。頭狂ってるの?」
となって読む人間を減らすだけではないのか?
それもこうした自画自賛が「今回が初めて」ならともかく過去にも
日系イギリス人ノーベル賞作家カズオ・イシグロの代表作『日の名残り』をいつまで経っても理解できない日本人が「変わる」日は来るか - kojitakenの日記2023.8.22
【ネタバレあり】ディケンズ『大いなる遺産』とカズオ・イシグロ『日の名残り』 - KJ's Books and Music2025.1.24
カズオ・イシグロの小説『日の名残り』についてのアメリカの掲示板「reddit」のスレッドを眺めてみたら日本の「読書メーター」とは大違いだった - KJ's Books and Music
日本人の多くには権威主義的な思考方法が徹底的に身についている、というかそのように刷り込まれているんだなあと改めて思った。
ですからね。一つのネタ(イシグロ小説『日の名残り』の解釈)で何度、「日本ではイシグロ小説『日の名残り』を誤読してるバカが多いが、俺は正確に解釈してるんだ!。どうだ、スゴイだろ!」「誤読してるバカは権威主義者なのだ。それに対して俺は反権威主義者だ。どうだ、スゴイだろ!」と自画自賛すれば気が済むのか。
もはやkojitakenは「俺はすごいんだ!」と「自画自賛しないと死ぬ病気」という「ある種の病気」にしか見えません。
宮武嶺とか周囲(類友)も「kojitakenをおだててばかりいない」で少しは批判したらどうなのか?
なお、米国のトランプ支持者(トランプを盲目的に支持してるようにしか見えない)を考えるに、kojitakenがカズオ・イシグロの小説『日の名残り』についてのアメリカの掲示板「reddit」のスレッドを眺めてみたら日本の「読書メーター」とは大違いだった - KJ's Books and Musicで言うように「日本に比べて米国民に反権威主義が多い」といえるかどうか疑問に思います。
なお、話が脱線しますが、イシグロと言えば以下の通り、今年、小説『遠い山なみの光*4』が石川慶監督*5、「広瀬すず(長崎時代)、吉田羊*6(英国移住時代)主演」で映画化されましたね(日本でも9月5日から上映)。俺個人は見る気はないですが。
映画についてはググってヒットした以下を紹介しておきます。個人的には「日の名残り」について「誤読するのは権威主義だから」を連呼するkojitakenですが、そもそも「理解が難しい小説(いわゆる『信頼できない語り手』)=イシグロ小説」の気がしますね。
「頭が良くない俺」「時代劇、刑事ドラマ、冒険活劇等の、わかりやすいベタな勧善懲悪(TBS『水戸黄門』、テレビ朝日『暴れん坊将軍』、米国映画『アンタッチャブル(エリオット・ネス捜査官がアル・カポネを追い詰めていく)』等)や時代劇、ホームドラマ等の、わかりやすいベタな人情物(黒澤明映画『赤ひげ』、山田洋次映画『男はつらいよ』、日本テレビ『パパと呼ばないで』『池中玄太80キロ』等)といったわかりやすい、ベタな話が大好きな俺」としては読書意欲や映画鑑賞意欲がそそられません。
【参考:遠い山なみの光】
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20250516/5030024032.html2025.5.16
世界3大映画祭*7の1つ、フランスのカンヌ映画祭で15日に公式上映されたのは、ノーベル文学賞作家、カズオ・イシグロさんの長編小説が原作となっている石川慶監督の「遠い山なみの光」です。
この作品は長崎で原爆を経験し、戦後イギリスに渡った女性が記憶をたどりながらこれまでの人生の希望や苦悩を語り明かしていく物語です。
【飛ぶ教室】石川慶さん(映画監督)|読むらじる。|NHKラジオ らじる★らじるから一部引用
【出演者】
・石川:石川慶さん(映画監督)
・高橋:高橋源一郎さん*8(作家)
・礒野:礒野佑子アナウンサー
礒野
石川監督のプロフィールをご紹介させていただきます。
1977年、愛知県生まれ。東北大学理学部物理学科を卒業後、ポーランドの国立大学「ウッチ映画大学」に留学し、演出を学ばれました。2017年公開の『愚行録』でデビュー。この作品はベネチア国際映画祭オリゾンティ・コンペティション部門に選出されたほか、新藤兼人賞で「銀賞」。ヨコハマ映画祭、日本映画プロフェッショナル大賞では新人監督賞も受賞されました。また、2019年公開の『蜜蜂と遠雷』では毎日映画コンクール日本映画大賞、日本アカデミー賞優秀作品賞などを受賞。そして、ノーベル文学賞受賞作家、カズオ・イシグロのデビュー作を広瀬すずさん主演で映画化した新作『遠い山なみの光』が9月に公開されたばかりです。
先週、トロントの映画祭に行かれていたそうで、どうでしたか?
石川:
向こうは結構、移民の人たちとかも多い国だったりするので、ホントに自分事として、自分もお母さんからいろんな話を聞いたとか、日系の方とかもいっぱいいらっしゃったので、なんかちょっと違う切り口で見られていたりとか、すごく熱がある「Q&A」とかがあって、よかったです。
高橋:
現在公開中の『遠い山なみの光』なんですが、ちょっと簡単に「あらすじ」だけ…。
原作と若干違うんですよ、映画はね。なので、原作ベースでいうとですね、主人公が悦子さんっていう日本人の女性で、彼女が長崎に住んでいて、戦争中に佐知子という、ちょっと歳が若干上の女性と会って、悦子は妊娠してて、佐知子には子どもがいて…。仲良くなるんですけれど、それぞれに問題を抱えていて、佐知子はアメリカに行き、悦子は残るんだけど、後にイギリスに行くと、結婚して…。この話は1952年の長崎と1982年のイギリスを行ったり来たりする。だから30年後に、30年前の事件、起こったことを回想するというお話で、1982年のイギリスにはニキという娘が彼女にはいて、これはちょっと原作と違うんですけど、映画ではニキがお母さんの話を書きとっている感じですね。
原作でもいちおう、ニキに話をするということで、戦争で起こった出来事を、戦後30年以上たって母親が回想するお話。
(ボーガス注:ネタばらしになりかねないので)どこまで言って良いかわからないんですけど、原作はカズオ・イシグロで、おそらく原作の特徴は「何が起こってるのか、はっきり分からない」。
いくつかね、謎と事件らしいものがあるんですよ!
悦子さんと佐智子さんたちには、戦後すぐの時になんかあったと…。で、その30年後に、そのことを思い出してるんだけど、どうもなんか隠してるような感じもあると…、小説はね!
で、映画では「こういう事が起こった」というような感じで描かれているんですけど、さて!
「解釈」が入ってるんですが、その辺のお話は、どういうふうになさったんでしょう?
実は、原作者のカズオ・イシグロさんがエグゼクティブプロデューサー?
石川:
最初に「映画化をしたい」っていった時に、結構長めのプロットを書いてお送りして、その時になんとなく、ほのめかすような形で「ラストを自分は、こういうふうに解釈してるんですけれども…」っていう形でお送りしたんですよね。それに対して「あぁ、すごくいいね」っていう…。「この方向性はすごく面白いと思うよ」っていう形で、連絡が返ってきて、その後、脚本を書いて、それでまた…。
高橋:
イシグロさんに戻すわけですよね?
石川:
「基本的にはこの方向で!」というのは、ずっとカズオさんとコンセンサスを取りながら進めていったって感じです。
高橋:
要するに、この主人公は長崎で被爆をしている…。原作には、はっきり書いていないですよね?
石川:
原作には、はっきり書いてないないですね。なんとなく匂うっていう…。
高橋:
原作は全て「匂わし」なんだよね。映画では、あえて「こういうことがあった」と!
それは要するに踏み込んでるじゃない?
それは映画だからでしょうかね?
石川:
そうですね。
年表みたいなのを作るんですよ。そうすると、なんかおかしいんですよ(笑)。ロープウエーはこの時ないよな~とか、平和祈念像まだできてない…。
高橋:
元の叙述に含んでいる嘘がわかる!
石川:
原文もちょっとあたってみると、代名詞が日本語だと付いてなかったものが「We」になってたり…。「“私たち”って一体、誰と誰の話?」みたいな…。
高橋:
翻訳ではもしかすると通りすぎてるかもしれない?
石川:
そうなんです。だから結構本当に微妙なところでヒントが転がっていて、これは「絶対そうだな!」って思いながら、ただカズオさんやっぱり…。
高橋:
言わないよね(笑)。
石川:
言わないんですよ(笑)。記憶ってそういうものじゃないですか?。そこがポイントっていう…。
高橋:
これって戦争の記憶ですよね。まぁ言ってみれば「戦時下の記憶がテーマ」なんで、「みんなはっきり覚えているか?」っていう話ですよね。つまり、辛い記憶は消すじゃないですか!。だからそれは勇気がいることで、「誰が踏み込む権利があるか?」ということですね。だから原作者はあえて踏み込まなかったけど…。映画監督が何十年後かに…。「ここまで解釈していいのか?」とか思いましたか?、監督。
石川:
思ったは思ったんですけど、ただ40年前に書かれた原作を、40年たって、戦争から最も遠い世代の自分たちがやることの意味っていうか「自分たちはこういう解釈でこういうふうにしたいんです」っていうことを、やっぱりカズオさんに言わないと…。(ボーガス注:映画化について)「うん」って言ってもらえないような気もしたし、やる意味が見出せなかったというか…。
高橋:
そんなに時間がないんですけども、平野啓一郎さん*9の『ある男*10』、貫井徳郎さん*11の『愚行録*12』、ケン・リュウさんの『Arc アーク*13』っていう3つの作品をそれぞれ映画化してるんですけど、これも(ボーガス注:『遠い山なみの光』と同様に)原作を大幅にチェンジしてますよね?(笑)。結構「えっ?、これいいの?」みたいなね(笑)。
石川:
例えば貫井さんの『愚行録』はホントに叙述トリックで、「そのまんまは、絶対に映像化できない」っていう。「小説にしかできないこと」っていうのをやられてて、やっぱりそういうものにひかれて…。じゃあ今度「映像にする場合に、映像にしかできないこと」を、どういうふうに…。
高橋:
だから僕ね、たぶん原作者はみんな喜んだと思いますよ。「こんなことするんだ!? 監督は!」みたいな!!(笑)。
高橋:
原作を選ぶ時って、何か基準はあるんですか?
石川:
映像化不可能とかよく言われますけど、ちょっと頭抱えるぐらいのやつの方が、やりがいがあるし!
礒野:
じゃあすぐにイメージできるものは、あまり?
石川:
そうですね。だから「漫画」とかって言われると、結構難しかったり…。
高橋:
難しいやつの方がいいんだよ、監督は(笑)。
礒野:
石川監督から源一郎さんに聞いてみたいことがあるそうなので、ぜひ、いくつか!
石川:
源一郎さんから見て「こういう監督に撮ってもらいたいな」とか「こういう監督嫌だな」みたいなの…、自分の作品を預けるにあたって…。
高橋:
「純粋に映画監督の能力」ですよ。どんな嫌なやつでも(笑)。要するに、その人の映像が好きだったらOKですね!
その人が作った映画作品がすばらしかったら、自分の作品がどんなことされても全然OKです!
別もんですもん!。つまり小説は言葉でしかできないことをやってるので、それはもうお渡ししちゃって…。それはたぶん、小説家は全員そうですよ。
今後はどんな作品を?。予定はありますか?
石川:
今後は、原作もずっとやりつつ、もう少しオリジナルだったりとか、実際に起きた事件を元にしたものとか、ノンフィクションだとか、そういうことをちょっとやってみたいなっていうのが、すごくあります。
よくばり映画鑑賞術:誰が語っているのか?--観客がだまされている「遠い山なみの光」の驚くべき仕掛け | 毎日新聞2025.9.27
「信頼できない語り手」と呼ばれる手法がある。
カズオ・イシグロはこの手法の名手として知られており、(ボーガス注:今回映画化された)長編デビュー作の「遠い山なみの光」(1982年)でもそれが効果的に機能している。
原作小説があえて曖昧にしていた部分に踏み込んだ解釈を施し、映像的に方向づけている今回の映画の姿勢には各方面から賛否が寄せられているところだが、実際にはあくまで正統派の解釈の一つを映像化したにすぎない。
言うなれば、その部分は観客の注意を解釈論争に引きつけるためにデコイ(おとり)でしかなく、真に驚くべき仕掛けを隠すための目くらましである。実際、映画の策略は見事に奏功しており、管見の限りでは大方の観客はまんまと映画の術中にはまっているようである。
映画を最後まで見ると、どうやら悦子(広瀬すず/吉田羊)が嘘をついていたらしいことが明らかとなる。
悦子は娘のニキ(カミラ・アイコ)に、長崎にいた頃に知り合った佐知子(二階堂ふみ*14)という女性とその娘の万里子のエピソードを語って聞かせるが、実はそれは悦子および彼女の娘の景子の経験を仮託したものだったようなのである。
つまり、佐知子なる女性はそもそも存在せず、彼女の話として語られた内容はすべて悦子自身の話であったか、あるいは仮に佐知子が現実にいたとしても、語りの中でかなりの程度、悦子自身の体験が投影されていると見るべきだ、ということになる。
本当に悦子=佐知子なのか。そうであったとしてもなかったとしても、どこからどこまでが悦子の嘘(作り話)で、どこからどこまでが本当にあったことなのか。観客は映画の最後に宙に投げ出され、次々と浮かんでくる疑問にさらされることになる。しかしながら、これらの疑問は(前述の通り)すべてレッド・ヘリング(偽の手がかり)である。
なるほど、悦子は確かに嘘つきらしい。ロンドンから実家に帰ってきているニキとともに散歩に出た悦子は、近所に住むウォーターズ先生から長女・景子のことを尋ねられ、とっさに彼女はマンチェスターで暮らしていると嘘をつく。実際には景子は自室で首つり自殺を遂げており、すでにこの世にはいない。
もちろん、誰しも処世術の一環として嘘をつくことはある。身内の自死といったデリケートな事柄について、それを知らない相手にわざわざ事実を触れ回ることはない。悦子自身もニキに言っているように、適当にごまかしておくほうが穏当である。
ただ、物語の流れの中でこのシーンが持っている意味は重要である。このあと、悦子の作り話に端を発して、悦子とニキの間の感情的な対立が浮かび上がり、最終的に悦子がニキを平手打ちするに至る。
このシーンを通して、観客は、悦子がごく自然に作り話をする人物であり、普段は温厚そうに見えるがときに暴力をも辞さない激情を秘めた人物であると強く印象づけられるだろう。
イギリス人ジャーナリストの夫についていくことを決めたかつての悦子は、まだ幼い景子を連れて長崎を離れた。嫌がる景子を、半ば暴力的な仕方で説き伏せて。
結果として異国での生活になじめなかった景子は、若くして自殺してしまう。悦子は娘の死に対して罪悪感を覚えずにはいられない。自らの決断と娘の死に関係がないとは思えないからである。
とはいえ、それは正面から向き合うにはあまりに残酷すぎる現実である。だから、次女のニキに長崎時代の思い出を語る際には、事実を曲げて作り話をしたのだと、とりあえずは説明がつく格好になっている。一般に、人生はしばしば過酷である。人は人生に耐えるために、(ときに自分自身にさえ)(ボーガス注:自己欺瞞という)嘘をつくことがあるものなのだ。
さて、ここまでが本作の表面的な理解である。そして、それは多くの観客が理解している本作の概要と一致するだろう。確かに、話としてよくできている。
だが、やや「よくできすぎてはいまい」か。あまりにも「作為的すぎる」というか、「技巧的すぎる」というか、それこそ、悦子の作り話を含めた物語全体が、作り話めいて見えるのである。
「小説であれ映画であれ、フィクションとは往々にしてそのようなものである」というのは一つの答え方だろう。
◆ニキの回想録はフィクションだ
NAGASAKI:A Family Story(「長崎:家族の物語」)。劇中でニキが取り組んでいる回顧録のタイトルである。知り合いの(というか不倫相手らしき)男性編集者からも出版を強くすすめられている。どうやらナガサキ(ヒロシマでも構わない)というテーマは、(ボーガス注:漫画『風が吹くとき』が発表されるなど)核兵器をめぐる議論が白熱している現在(1982年のイギリス)の時流に乗ったものらしい。
回顧録執筆のため、ニキは悦子から長崎時代の話を聞き出そうとする。それが本作の枠構造になっているように見えるが、実はその外にもう一つの枠組みがある。
すなわち、ニキが書き上げたのは、回顧録執筆の過程そのものを取り込んだ回顧録であり、我々観客が目にした映画はそれが「遠い山なみの光」として完成したバージョンだということになる。最終的には回顧録の体を取ったフィクショナルな文学作品に結実したと考えればいいだろう。
長崎時代のエピソードは、室内をはう蜘蛛を捕まえ、自分の口に入れようとする万里子を悦子が無理やり止める場面で終わり、続くイギリスの場面では壁に張り付いている蜘蛛にニキが手を伸ばす姿で始まる。
これは単なる奇妙な偶然の一致だろうか。むしろ、目の前の蜘蛛からインスピレーションを得たニキが、作家として長崎時代の母のエピソードを仮構したと考えたほうが自然ではないか。
別の長崎時代のシーンからイギリス時代へのつなぎには、平和祈念像の絵はがきが使われている。自分たちの団地に一時的に滞在していた義父の緒方(三浦友和*15)を見送った悦子は、お礼の絵はがきを受け取る。その直後に、同じ絵はがきを30年後に見ているニキのショットへとつながれている。
このとき、ニキはタイプライターに向かって何かを打ち込んでいた様子である。とすれば、直前の長崎のシーンは、悦子から直接聞いた話というより、絵はがきの文面からニキが想像した話のように見えてこないだろうか。
◆技巧的に過ぎるセリフと編集
ともかく、編集が目に見えて技巧的すぎるのである。
時空間を超えた蜘蛛が二つのシーンを結びつける。30年前の絵はがきから現在の絵はがきへ。いずれも文学的によくできたレトリックであり、作為を感じさせるものである。
セリフの上では、悦子と佐知子の間で交わされた「すてきか話やね」と、イギリス時代の悦子とニキの間で交わされた「すてきな話ね(That sounds wonderful)」のやり取りや、長崎時代の悦子の「緒方さんも変わらんば。わたしたちも変わるとです」と、イギリス時代のニキの「ママも変わらなきゃ。わたしたちも変わるのよ」のように、露骨に呼応している箇所が散見される。
セリフ自体が同じ作者(ニキ)の手になる創作なのであれば、この一致も納得である。
つまり、悦子が話さなかった部分は、断片的な情報を手掛かりにしつつ、ニキの想像によって補完し、文学的に再構成しているのではないか。そうすると、悦子に「信頼できない語り手」の役割を与えているのは、ニキの文学的な戦略ということになる(実際にはニキが「信頼できない語り手」を務めるという入れ子構造になっている)。
映画の物語は家を出て暮らしているニキが悦子の住む実家を訪ねてきたことによって始まり、彼女がロンドンに帰っていく場面で終わる。ニキ、すなわち語り手が存在しなければ、そもそも語られようのない物語なのである(それに対して原作小説は終始、悦子の一人称視点で語られている)。
◆語り手の地位を悦子から簒奪したニキ
ニキが回顧録を書いているという設定は、映画独自のものである。小説に比して映画の語り手というのはしばしば判然としないものだが、そうしたメディアの特性を利用して、ニキは密かに語り手の地位を悦子から簒奪していたのである。
その意味では、本作はカズオ・イシグロ作品の映画化でありつつ、実はニキの文学的作品の映画化でもあるという二重性を内包している。
◆一人の救済から家族の救済へ
それでは、語り手の変更によって、映画はどのような効果を得たのだろうか。先ほど映画の表面的な理解として示した概要は、原作小説を読めば同様に到達できるものである(決して原作を軽んじているわけではない。イシグロの原作小説はまごうことなき大傑作である)。仮にそこでもくろまれていたのが「ある一人の女性の救済」であるとすれば、映画はさらに踏み込んで「ある家族の救済」を目指している。
ニキは、悦子が作り話をせざるをえなくなった状況を丹念に描くことによって、嘘をつく女としての母を肯定した。
長崎を離れることにした当時の母の判断は決して責められるべきものではないと。それは同時に、ニキ自身の人生を肯定することにもつながる。母が移住を決めていなければ、ニキはこの世に存在していなかっただろう。
映画化に際して追加されたニキの「妊娠」のモチーフは、それをさらに後押しする。
年上の(十中八九、不誠実で無責任な)既婚男性との間に子どもができたとして、大学を中退したニキはこの先どのような決断を下すのだろうか(小説家として大成することができるだろうか)。
映画の最後に置かれているのが、ロンドンに帰るべく前を見据えて歩き始めるニキのショットと、それを見守るかのような悦子と佐知子の晴れがましい表情のショットとの接続であるのは、この回顧録の性質上、当然の帰結である。
「遠い山なみの光」映画、原作小説の解釈&感想:記憶の語り直しと再生の物語|Kiki'sRoom2025.9.21
石川監督は先述のトークイベントで、「佐知子がいたか、いないかは大した問題ではない」とも語っていて、「あぁ、そうなのだろうな」と私も思った。
この映画はもちろん悦子と佐知子の謎解きがテーマではない。
イギリスの悦子が、なぜ自分の記憶を佐知子と万里子の話としてニキに語ったのか。
その結果、悦子はどうなったのか。
これが肝なのだと思う。
「ママはお姉ちゃんのためにできる限りのことをしたわ」「お姉ちゃんの死は、ママのせいじゃない」(映画)
「お母さまは景子のためにできるだけのことをしたわ。お母さまを責められる人なんていないわよ」「お母さまのしたことは正しかったのよ」(小説)
映画でも原作でも、ニキは悦子の選択を、生き方を、力強く肯定した。
ここが、この作品の一番重要な場面なのだと私は思っている。
ニキは、おそらく妊娠している(検査薬の液体が赤色に変わっていたようだったので陽性だと私は考えている)。妻と別れない不倫相手には期待せず、1人で産み育てる決心をしたのではないか。万里子のことを力強く1人で育てていた佐知子のように。
景子は死んだが、ニキは生きていて、新しい命を宿した。命の継承。これは悦子の希望の光となるだろう。
あるいは、妊娠していなくてホッとして、不倫相手の男性とはこれを機会にケリをつけようと思っていたのかもしれない。
これも、どちらの解釈でもいいのだろう。
【映画.comの映画『遠い山なみの光』レビュー】
◆ぜんさん(2025年9月27日)
「切なすぎる真実」(予告編より)とは?
哀しいかな、私には理解不能。しかし、原作を読もうかという気持ちは湧かない。
カズオ・イシグロ原作に若干の不安はあったが、やはり小難しい。
多分、ストーリーの最後では私には分からなかった見せ場があったと思われる。
それにしても、もう少し分かりやすくしてくれてもいいのではないかな。
しかし、広瀬すずの演技はとても良かったと思う。楽しみな女優だと思います。
◆ginさん(2025年9月27日)
二階堂ふみ演じる佐知子が娘から取り上げた子猫を川に沈めるシーンは、鬼気迫って出来れば見たくなかった。こういう役、彼女は上手い。
広瀬すずは、今年になって「ゆきてかへらぬ*16」、本作、「宝島*17」とあいついで文芸作品で大正、昭和の大人の女を演じ心境著しい。本格的な女優の途を登り始めていると言えるだろう。今後が楽しみである。
さて話をkojitaken記事に戻します。
私自身は少し変わった国語教師に教わった思い出が強い。その教師は教科書に載っていた「作者は何が言いたかったのでしょう?」という設問を無視して地の文章(日本の小説の一節)の著者を「この書き手はなんて心が冷たい人なんだと思いますね」と批判するような人だった。私もその文章に対して同じ感想を持ったので大いに意を強くした思い出がある。
これまた「俺は一風変わった国語教師に教わった、どうだ、スゴイだろ!」という自画自賛なのでしょう。
繰り返しますが、kojitakenは「俺はすごいんだ!」と「自画自賛しないと死ぬ病気」という「ある種の病気」にしか見えません。
それにしても「著者名」「作品名」「冷たいと思った理由」、どれ一つとして明確でないのでこんなことを書かれても「はあ?」ですね。
東野圭吾小説『容疑者Xの献身』については
フジテレビで東野圭吾原作の映画『容疑者Xの献身』が放送されたらしいが、原作は極悪犯人が罪なきホームレスを理由なく虐殺した行為を「献身」と僭称するトンデモ小説(怒) - kojitakenの日記
として「著者名」「作品名」「酷いと思った理由(罪のないホームレスを殺害したことを美化)」を書くkojitakenがここでは、それを書かないのは、
【1】「著者名」「作品名」「冷たいと思った理由」について全て忘れてる
【2】覚えてるが、東野と違い、名前を出して批判することを何らかの理由で避けた
のどちらなのか?
*1:1937年生まれ。映画『羊たちの沈黙』(1991年公開)で演じた精神科医で猟奇殺人犯のハンニバル・レクター博士役が高く評価され、1991年にアカデミー主演男優賞を受賞。その後も『ハンニバル』(2001年)、『レッド・ドラゴン』(2002年)でレクターを演じ、最大の当たり役となっている。『ファーザー』(2020年公開)で認知症を患った老人を演じ、2020年に二度目のアカデミー主演男優賞を受賞(現時点でのアカデミー主演男優賞・最高齢受賞者(83才で受賞))(アンソニー・ホプキンス - Wikipedia参照)
*2:1993年に『ハワーズ・エンド』(1992年公開)でアカデミー主演女優賞を、1995年に『いつか晴れた日に』(1995年公開)でアカデミー脚色賞を受賞。2018年に女優としてのキャリアが評価され、大英帝国勲章第2位DBEを叙勲し、女性の騎士号Dame(デイム)を冠することを許された。(エマ・トンプソン - Wikipedia参照)
*3:1994年に『フィラデルフィア』(1993年公開)で、1995年に『フォレスト・ガンプ 一期一会』(1994年公開)でアカデミー主演男優賞を受賞(トム・ハンクス - Wikipedia参照)
*4:原作はハヤカワepi文庫
*5:2019年、映画『蜜蜂と遠雷(直木賞(2016年下半期)を受賞した恩田陸の同名小説の映画化)』で毎日映画コンクール監督賞を、2023年に映画『ある男』で日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞(石川慶 - Wikipedia参照)
*6:2015年、『映画ビリギャル』『脳内ポイズンベリー』『愛を積むひと』でブルーリボン賞助演女優賞、報知映画賞助演女優賞を受賞(吉田羊 - Wikipedia参照)
*7:他の二つはベルリン国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭
*8:1951年生まれ。明治学院大学名誉教授。1988年、『優雅で感傷的な日本野球』(現在は河出文庫)で三島由紀夫賞を、2002年、『日本文学盛衰史』(現在は講談社文庫)で伊藤整文学賞(小説部門)を、2012年、『さよならクリストファー・ロビン』(新潮社)で谷崎潤一郎賞を受賞(高橋源一郎 - Wikipedia参照)
*9:1999年に『日蝕』で芥川賞を、2017年に『マチネの終わりに』で渡辺淳一文学賞を、2018年に『ある男』で読売文学賞を、2023年に『三島由紀夫論』で小林秀雄賞を受賞
*10:映画は2022年公開され、日本アカデミー賞最優秀監督賞(石川慶)、最優秀脚本賞(向井康介)、最優秀主演男優賞(妻夫木聡)、最優秀助演男優賞(窪田正孝)、最優秀助演女優賞(安藤サクラ)を受賞。原作は文春文庫
*11:2010年に『乱反射』(現在は朝日文庫)で日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)を受賞。現在、日本推理作家協会代表理事
*13:映画は2021年公開。原作は『もののあはれ (ケン・リュウ短篇傑作集2) 』(2017年、早川書房)収録
*14:1994年生まれ。2011年のヴェネツィア国際映画祭に出品された映画『ヒミズ』で最優秀新人賞にあたるマルチェロ・マストロヤンニ賞を共演の染谷将太(1992年生まれ)ともに日本人として初受賞。2013年には映画『ヒミズ』、『悪の教典』(いずれも2012年公開)で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。2020年度前期放送のNHK連続テレビ小説『エール』で、作曲家古関裕而の妻・古関金子をモデルとするヒロイン・関内音を演じる。2023年、映画『月』(2023年公開)で報知映画賞助演女優賞を受賞(二階堂ふみ - Wikipedia参照)
*15:1952年生まれ。1975年に『伊豆の踊子』でブルーリボン賞新人賞を、1985年に『台風クラブ』で報知映画賞助演男優賞、1991年に『江戸城大乱』『仔鹿物語』『無能の人』で毎日映画コンクール助演男優賞を、1999年に『M/OTHER』『あ、春』で報知映画賞主演男優賞を、2007年に『松ヶ根乱射事件』『転々』でブルーリボン賞助演男優賞を、2016年に『葛城事件』で報知映画賞主演男優賞を受賞(三浦友和 - Wikipedia参照)
*16:広瀬は、詩人・中原中也(演:木戸大聖)、文芸評論家・小林秀雄(演:岡田将生)と三角関係にあった女優「長谷川泰子」を演じた。
*17:2018年下半期の直木賞を受賞した真藤順丈の同名小説の映画化。米軍統治時代から沖縄が日本に復帰した1972年までの沖縄を舞台としている