今日の産経ニュース(12/17分)

■【産経抄】12月17日
http://www.sankei.com/column/news/161217/clm1612170003-n1.html

 戦前戦後の政財界で名を成した高碕達之助*1水産業者団体の会長として納沙布岬を訪ねたのは昭和34年、74歳の夏である。

 ちなみに高碕と言えば「いわゆるLT*2貿易」にその名を残す、いわゆる「日中友好の井戸を掘った人」の一人であり、一方こうした高碕ら親中派を敵視していたのが産経です。

参考

http://j.people.com.cn/weekly/20080327/3.htm
■人民日報『周恩来総理と中日関係(三):生誕110周年にあたって』から一部引用
 1955年4月、アジア・アフリカ会議インドネシアのバンドンで開かれた。周総理の指示で、廖承志氏が中国代表団に参加した。それは、華僑に関する仕事の必要からだけでなく、日本代表団との接触に着眼したからでもあった。なぜなら廖承志氏は日本の事情を熟知しており、日本の友人がたくさんいたからである。
 日本代表団の団長は、当時の鳩山内閣経済企画庁長官の高碕達之助氏だった。彼は日本が中国を侵略したとき、「満州重工業開発株式会社」の総裁をつとめていた。周総理と高碕氏との会談は、廖氏の手配で行なわれた。
 会談は、当時の日本の状況や中日貿易を展開する必要性、その段取りから、国交正常化問題の解決や双方が直面する困難などまで話し合われた。互いに腹を割った意見の交換は、高碕氏の心を打った。
 1960年代の初め、高碕氏は周総理の招きに応じて2回、中国を訪問し、岸信介内閣がつくり出した中日関係の膠着状態を打ち破るために貢献した。また高碕氏は松村謙三氏とともに、中日覚書貿易(LT貿易)の創始者となった。

http://j.people.com.cn/weekly/20080403/3.htm
■人民日報『周恩来総理と中日関係(四):生誕110周年にあたって』から一部引用
 「長崎国旗事件」では、岸政府は暴徒を(ボーガス注:外国国旗損壊罪で)厳重に処罰しないだけでなく、逆に「外交関係を結んでいない国の国旗を侮辱することは(ボーガス注:外国国旗損壊罪で処罰する)刑事事件にならない」と称して、(ボーガス注:器物損壊罪で)500円の罰金を科しただけで済ましてしまった。この事件は中国人民の大きな憤激を引き起こした。陳毅*3外交部長(外相)は談話を発表し、岸*4政府の中国敵視(中略)を非難した。そして中国側の厳正な立場を示すため、中国側は日本に対する輸出入の許可証の発行を停止し、民間漁業協定を延長しない、と宣言した。これによって中日貿易は、一時的に中断状態に陥り、その他の面も影響を受けないわけにはいかなかった。
 中日貿易が中断している間、西欧の国々が先を争って中国市場に進出し、中欧貿易は猛烈な勢いで増加した。日本の経済界は中国市場を失うことを恐れ、岸内閣の後を継いで登場した池田内閣に対し、早目に中日関係を改善する手を打つよう要求した。自民党内の一部の有識者たち、たとえば元首相の石橋湛山*5、農林大臣や文部大臣を歴任した自民党顧問の松村謙三*6高碕達之助氏らが相次いで中国を訪問し、周総理と会談、膠着した局面を打開し、中日関係を発展させる道を探った。
(中略)
 松村氏と高碕氏は帰国後、池田*7内閣に迫って1962年5月に、米国に拘束されずに自主的に対中国貿易を展開することを決定させ、延べ払い方式によって中国にプラントを輸出することを認めさせ、また松村氏と高碕氏がこの仕事の発展に責任を持つことを黙認させた。1962年10月、中日双方が長期総合貿易協定の覚書(LT貿易)に調印した。これまでの民間協定と区別するために、これは「覚書」と名づけられた。
「覚書」の内容は、両国政府の同意を経たものであり、実際は政府間協定の性格に近かった。従って中日関係は1962年から前に半歩踏み出して、「半官半民」の時期に入ったと言える。1964年に双方は、互いに覚書貿易事務所を設立し、駐在記者を相互派遣した。

http://new22nozawa.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-16e9.html
日中国交正常化 高碕達之助のやったこと
 アジア・アフリカ会議が、1955年4月、インドネシアのバンドン市で開かれた。
そこへ中国から周恩来首相が来た。日本代表高碕達之助経済審議庁長官)が会議のない日を選んで、周恩来の宿泊する民家(住宅街にある華僑の別荘)へ押しかけて会談を開いた。
(中略)
 鳩山内閣で、閣僚であった高崎は、中国との関係改善を目指して行動した。日本からインドネシアへ飛行機で飛んでいる間に、「オレは貿易できるところとは、中国でもどこでも貿易するんだ」と、通訳に語っていた。
 アメリカは、日本と中国が貿易することは反対していた。そのことを無視して、突っ走ろうとしていた。コレは鳩山内閣であったから、高崎の行動が許されたのだろう。
 日本の復興は、アジアとの貿易でしかなしえないと思っていた高崎は、貿易できる国を求めていた。ソレは日本国民のためだと思っていた。その日は、次回の会談を約束して終わった。
 日本代表団には、外務省から派遣された顧問(谷正之*8)がついていた。谷は、会談から帰った通訳を呼んで「きょうの会談の内容はどうだった?」と聞かれたので、通訳は「こうこう、こうで、明日二回目の会談がある」と答えると、谷は「そんなわけにはいかない。断って来い」
 アメリカの頭越しに中国と交渉話を高崎にさせるわけには行かない。「断って来い」といわれ、周恩来首相のところへ断りに行った。それで、二回目の交渉は出来なくなった。
(中略)
 岸内閣が安保改定と共に退陣すると、池田内閣が誕生した。
 池田内閣は、中国との関係を、政治と経済とを切り離し、貿易拡大を目指した。
 そこで、高崎達之介は再び中国へ渡った。バンドンで一回目周恩来総理との会談以来途絶えた、会談の実現に出かけた。
「時間の許す限り、一回でも二回でも周総理に申し込んである」
(中略)
 周・高崎会談の成果が、1962年11月9日、貿易協定が結ばれた。これが、LT貿易である。協定の実務者の廖承志と高橋達之助の頭文字をとって名づけた。これによって、国交はないが、政府保証の事務所を両国につくり、人的交流と共に貿易が行われ、この積み重ねで、双方の事情も理解し始めた。この協定が出来た結果、約10年後に日中国交回復した。
 しかし、その成果を見ることなく、1964年、高崎達之助は79歳で亡くなった。
(中略)
 死去に際して、親交の深かった周恩来は「このような人物は二度と現れまい」と哀悼の言葉を述べた。また、死の前日には高槻市の名誉市民表彰を受けている。正三位勲一等旭日大綬章

http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhongri/200109/200109-all.htm
■人民中国「初の直行便と藤山愛一郎氏」
 1982年、駐日中国大使館に赴任したばかりの私は、先輩の呉曙東参事官(故人)と周斉夫人につきそって、藤山愛一郎氏(1897〜1985)を訪ねた。
(中略)
 彼は早年、イギリスに留学。その後、父(財界首脳・藤山雷太氏)が経営していた大日本製糖、日東化学工業の社長職を継ぎ、戦時中は日本商工会議所連合会会長となる。戦後は公職追放をうけるが、50年に解除。経済同友会代表、日本航空会長、日本商工会議所会頭などを歴任し、57年、岸信介内閣の外相に就任。以来6回、衆院議員に当選し、池田勇人佐藤栄作*9両内閣の経済企画庁長官をつとめた。自民党の総裁選になんどか立つが、総裁、首相の夢は最後まではたせなかった。75年に政界引退を表明。晩年は、石橋湛山前首相の後を継ぎ、日本国際貿易促進協会の会長に就任、代表団を率いて、よく中国を訪れた。75年6月、病床にあった周恩来総理が、最後に会見した日本の友人でもあった。

 高碕(東洋製罐創業者)、藤山(藤山財閥総帥)と言った「親中派政治家」が財界出身であることは恐らく「偶然ではなく」財界が当時から中国貿易を重視していたことの表れでしょう。


■【外交・安保取材の現場から】ステルス化する世界の慰安婦像設置計画 中韓が仕掛ける終わりなき「歴史戦」 日本は官民で立ち向かえ
http://www.sankei.com/premium/news/161217/prm1612170001-n1.html
 もちろん「慰安婦は日本の犯罪であること」を認めた上での話ですが、慰安婦像を「どんどん作って欲しい」とは俺も思いません。愉快な話ではない。ただしそれは加害者側が言える話ではないし、「我々が悪い事は分かってるができれば作らないで欲しい」ならまだしも産経のように「そもそも戦争犯罪じゃない」なんてデマ飛ばすのは論外です。
 そしてまともな人間なら銅像作成の動きが強まってるのは「河野談話発表直後ではなく」、安倍政権誕生後だということがわかるわけです。
 安倍が「河野談話を否定したがってるから」、安倍への対決として銅像ができるのだと言う事を。従って銅像を造って欲しくなければやることは簡単です。
 「河野談話を撤回したい」「慰安婦は公娼だ」なんて馬鹿な事言わなきゃいい。もちろん「できた銅像が撤去されることはない」でしょうし、「馬鹿な事を言うのを辞めても」銅像はできるかも知れない。ただ今のような「安倍政権の無法を許すな!」という銅像作成ムードはなくなるでしょう。まあ、そんな事が安倍にできるとは俺も思っておらず結局「安倍が下野するまで状況は変わらない」「下手したら安倍が下野しても状況は変わらないかも知れない(ポスト安倍が安倍の同類ならそうなります)」と思っていますが。


■【五輪会場見直し】バレー「有明」で決着 “小池色”後退 3会場400億円削減に評価の声も 
http://www.sankei.com/politics/news/161216/plt1612160062-n1.html

 2020年東京五輪パラリンピックのバレーボール会場として、有明アリーナ(東京都江東区)新設が決まった。
 「都民ファースト」の目線から3会場の見直しを仕掛けた小池百合子*10知事は、こだわり続けた既存施設の活用を実現できず、独自色が薄れた決着を迎えた。

 まあ予想通りのしょっぱい結末です。小池は必死に「400億円削減した」と宣伝しますが果たして評価できる結末なのか。今後、各方面からの検証を待ちたいと思います。ただ今の「権力批判がまともにできない」日本マスコミには検証ができるとは「かけらも期待してない」「小池へのおべんちゃらしか言わない、と思う」ので赤旗とか市民運動とかそう言う方面の検証ですが。


■【五輪会場見直し】有明で決着 関係者らの受け止めは様々 「一番良い結論」「ほっとした」
http://www.sankei.com/politics/news/161216/plt1612160064-n1.html

 神奈川県の黒岩祐治知事は定例会見で「(横浜アリーナが浮上した経緯は)唐突で、納得感はなかった。結果的に踊らされなくてよかった」と皮肉った。

 恐らく小池から「黒岩知事、林市長など関係各位には大変ご迷惑をおかけしました。結局、横浜は使いませんがどうぞご容赦下さい。記者発表前にお伝えするのが礼儀かと思いお伝えしました」とか何も事前フォローなかったんでしょうね。だから黒岩がこういう態度になる。

*1:東洋製罐創業者。戦前、満州重工業総裁。戦後、電源開発総裁、鳩山、岸内閣通産相経済企画庁長官兼務)を歴任

*2:Lが廖承志(後に中日友好協会会長)、Tが高碕

*3:上海市長・党委員会書記、外相など歴任。

*4:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、自民党幹事長、石橋内閣外相を経て首相。

*5:吉田内閣蔵相、鳩山内閣通産相などを経て首相

*6:東久邇宮内閣厚生相、幣原内閣農水相鳩山内閣文相を歴任

*7:吉田、石橋内閣蔵相、岸内閣通産相などを経て首相

*8:戦前、外務事務次官、東条内閣外相。戦後、駐米大使。

*9:吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、池田内閣通産相科学技術庁長官などを経て首相

*10:小泉内閣環境相、第一次安倍内閣防衛相、自民党総務会長(谷垣総裁時代)を歴任