新刊紹介:「歴史評論」8月号

★特集『越境する戦争の記憶』
・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。それなりに紹介できそうな内容のみオレ流に紹介しておきます。

■「記憶の政治」研究を振り返る:ピエール・ノラ編「記憶の場」*1日本語版の受容を中心に(岡田泰平*2
(内容紹介)
 ピエール・ノラ編「記憶の場」について論じていますが、まあ内容が難しくてアホの小生にはよく分かりません。
 まあ「何となくのイメージ」で「分かったような気がするところ」について言えばノラや岡田氏が言ってることの一つは「歴史学とは単に客観的事実を描き出せば成り立つというそう言うナイーブなモンじゃない」つうことでしょうか。
 「記憶の場」でググったら
毎日新聞『韓国:追悼公園「慰安婦記憶の場」が完成、除幕式 ソウル』
http://mainichi.jp/articles/20160830/k00/00m/030/037000c
日経新聞慰安婦問題、日韓合意反対派が「記憶の場」起工式』
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM29H4X_Z20C16A6FF2000/
という記事がヒットしました。
 たぶんこの追悼公園「慰安婦記憶の場」はノラの著書「記憶の場」にヒントを得ているのでしょう。
 つまり歴史学とは「何を我々は歴史的事実として記憶すべきか、後世に語り継ぎ、語り残していくべきか」「何を我々は歴史的事実として描き出すべきか」という極めて主観的な営みだと言う事です。完全に客観化することはできない。
 もちろん

・「主観的な面があるから何でもいいんだ」
・「神武は実在の天皇だと言っていいんだ(産経新聞など日本ウヨ)」
・「慰安婦を売春婦、公娼と言っていいんだ、河野談話を否定していいんだ(産経新聞など日本ウヨ)」
・「南京事件は捏造だといっていいんだ、張作霖暗殺はソ連の犯行といっていいんだ、盧溝橋事件は中国共産党の陰謀といっていいんだ(産経新聞など日本ウヨ)」
・「ホロコーストユダヤの捏造と言っていいんだ」(ネオナチ)
・「チンギスハーンは源義経だといっていいんだ(木村鷹太郎の珍説)」
・「邪馬台国はエジプトにあったと言っていいんだ(木村鷹太郎の珍説)」

などということには全く成りません。何でもありならそれはただの歴史修正主義デマゴーグになってしまう。
 ある程度の客観性は当然必要です。
 ただ「記憶の場」として「慰安婦の追悼公園をつくろう」あるいは「日本大使館前などに慰安婦銅像(「平和の少女」銅像)をつくろう」などという歴史学的営みは当然ながらある種の問題意識があるわけです。

・「記憶の場」としての「原爆ドーム
・「記憶の場」としての「東日本大震災・震災遺構」

などもわかりやすい例でしょうが、「原爆ドームなんて、震災遺構なんてただの廃墟ジャン、潰して新しい建物つくろうぜ」という考えもあり得るわけです。実際にそう言う声は存在しました。
 原爆ドームや震災遺構を残すことは何ら当然のことではなくそこには「記憶の場として残す」という問題意識、価値観があり、そうした問題意識、価値観から歴史学は完全に中立にはなれないつうことです。
 あるいは重要文化財にせよ世界遺産(例:原爆ドーム)、世界記憶遺産(例:南京事件資料)にせよそこには「記憶の場」という考えがあるわけです。
 もちろん「記憶の場」つう考えは何も「慰安婦、原爆などの戦争犯罪」「震災などの自然災害」に限定される訳じゃない。ただ「慰安婦、原爆などの戦争犯罪」「震災などの自然災害」だと「そんなもん記憶の場として残さなくていい」つう声があるために「記憶の場」というものが極めてわかりやすい形で目に見えるつう事です。
 そう言う意味では歴史論争というのは「まともな学術的論争」だけでなく、「ホロコースト否定論、南京事件否定論河野談話否定論など」といった「歴史修正主義との戦い」も含めて「記憶の場を巡る戦い」とも言えるでしょう。
 たとえば第二次天安門事件については「民主化運動(例:劉暁波)」という見方の一方でより否定的な見方(例:中国政府)もあるわけです。

参考

■震災遺構(ウィキペ参照)
・震災が原因で倒壊した建物などを次世代に向けて震災が起きたという記憶や教訓のために取り壊さないで保存しておくというもの。
・2011年に発生した東日本大震災でも幾つかの倒壊した建物を震災遺構という形での保存を求める声があるものの、それをするためには多額の費用がかかったり、震災を思い出したくないと思う者も多いことから、震災遺構とならずに取り壊されてしまった建物は多い。陸前高田市のいわゆる「奇跡の一本松」は震災遺構とするために復元されて保存されているものである。2013年11月15日には宮古市に存在していた「たろう観光ホテル*3」が震災遺構として保存されることになり、そのための費用の一部が国から負担されることとなった。これに続いて数多くの建物が震災遺構として保存するべきとされ、そのための費用を国に求める運動が各地で行われている。

毎日新聞『震災遺構:津波の恐怖生々しく たろう観光ホテル一般公開』
http://mainichi.jp/articles/20160405/k00/00e/040/156000c


■「記憶」の時代の茨城:戦争の表象をめぐって(佐々木啓*4
(内容紹介)
 ・茨城における日中戦争、太平洋戦争の「記憶の場」について指摘がされている。
 とりあげられているのは
特攻隊について触れている
1)予科練*5平和記念館(http://www.yokaren-heiwa.jp/
2)筑波海軍航空隊記念館(http://www.p-ibaraki.com/tsukuba
在日朝鮮人強制連行・強制労働について触れている
3)日立鉱山慰霊碑
である。
 筆者は1)、2)について「茨城の特攻記念施設に限ったこと」ではないが「特攻=かわいそうな若者たち」という描き方はしていても「そうした非道な戦争指導をして若者たちの人生を奪った昭和天皇ら当時の戦争指導層への批判意識が弱い」と批判している。
 そうした問題点は2)筑波海軍航空隊記念館(http://www.p-ibaraki.com/tsukuba)についていえば、ホームページにも現れている。筑波海軍航空隊記念館ホームページは映画「永遠のゼロ(百田尚樹原作)」のロケ地であることを自慢している(百田小説は筑波海軍航空隊が舞台)。
 なお、「特攻=昭和天皇らによる誤った戦争指導による被害者」という視点が弱いと
産経
■特攻とナチスの虐殺は違う 鹿児島南九州市・知覧、「アウシュビッツ」との連携見直しへ 遺族らから反対意見相次ぐ
http://www.sankei.com/politics/news/150725/plt1507250002-n1.html
■「特攻と虐殺は違う」アウシュビッツとの友好協定中止を決定 知覧・南九州市 反対論が続出
http://www.sankei.com/west/news/150728/wst1507280022-n1.html
という小生から言わせれば「とんちんかんな事」になるわけです。
 小生は特攻は「虐殺も同然だ」と思いますけどね。だって自殺攻撃の訳ですから*6
 3)については日本人の戦争加害意識が弱いこと、その結果、こうした「在日朝鮮人強制連行・強制労働」についての「記憶の場」の動きはもっぱら在日朝鮮人・韓国人によって担われてきたこと、最近では極右安倍政権の誕生もあってこうしたものに対して「自虐」「反日」といった不当な非難があることが触れられている。

参考
【特攻と観光】

http://www.joyoliving.co.jp/topics/200905/0905052.htm
阿見町の名物土産に「予科練の街クッキー」、阿見町内18店で販売
 2010年2月の「予科練記念平和館」の開館に合わせ、阿見町商工会では地元産のヤーコン*7を使用した「予科練の街クッキー」を開発し、阿見町内の菓子店などで販売を開始した。
「何かまちを象徴するお土産をつくろう」と、阿見町商工会を中心に町内の農家、商工業者が集結し考案した同クッキーは、ヤーコンの根粉末を使用した独特の風味が持ち味で、試作を重ね5月14日に発売に至った。

 佐々木氏も批判的ですし、小生もこう見えてまじめなので「何だよ予科練クッキーって!。軽すぎるわ!」と思いますね。

http://blogos.com/article/128535/
■【読書感想】「知覧」の誕生―特攻の記憶はいかに創られてきたのか
 「知覧」も、最初は「慰霊の地」としての役割が中心だったそうです。
 ところが、新聞で「特攻隊として散っていった若者たちのドラマ」が採りあげられたり、映画化されたりしていくうちに、「観光客を呼び込む効果」があることがわかってきました。
 そして、特攻隊の若者たちの心情と、爆弾を積んで「敵」に向かっていった、ということ(あくまでも、「戦争」の一環であったということ)を、戦後の人々が「割り切る」手段として、「彼らは、平和を祈って出撃していったのだ」という解釈するようになってきたのです。
(中略)
 この本の著者たちは、容赦なく斬り込んでいくのです。
 「平和のため」が第一の目的なら、特攻するのは、矛盾じゃないか?
 言われてみれば、たしかに、その通りなんですよね
(中略)
 「特攻」というのは、あまりにも残酷すぎて、なんらかの「物語」を付加したくなってしまうのかもしれません。
 しかしそれは「特攻の美化」につながる、と考える人も少なくない。
 ちなみに、知覧にはいくつかの「ツッコミどころ」があって、陸軍の基地だったにもかかわらず、海軍の戦没者が紹介されていることや、展示されている零戦も、知覧から飛び立ったものではない、海軍の飛行機です。
 1970年代には、イベント(町民体育大会)で、「特攻隊に扮し、飛行機に乗った若者を、若い女性たちが見送る様子を再現」までしています(「特攻仮装大会」って……)。
 このイベント、けっこうウケたそうなのですが、ネットがあったら、「炎上必至」だったのでは……

 広島とともに世界的に知られた被爆地、長崎の原爆資料館では、来館者数のピークを終戦50年の翌年にあたる1996年に記録した。その数は114万人であり、同年度の知覧の70万人を大きく上回っていた。
 だが長崎では翌年から来館者数が斬減し、2012年度には64万人まで落ち込んだ。16年間で44パーセントも減少したことになる。なお長崎市全体の来訪者数は1996年度の542万人から2004年度の493万人までは原爆資料館と同様に減少したものの、翌2005年から増加に転じて続伸し、2012年度には595万人に達している。すなわち長崎市を訪れる人は増加したが、原爆資料館へ足を運ぶ人はおよそ半減したこと*8になる。
 それに対して知覧特攻平和会館の来訪者数は、2002年度に最多の73万5409人を記録し、同年度の長崎原爆資料館(73万9874人)と1パーセント未満の差に迫る人びとを迎えた。そして2008年度には、わずかながら長崎を上回る来館者数を記録した。国際的な知名度を有し、豊富な観光資源*9とアクセスに恵まれた長崎の市街地に立地する長崎原爆資料館と比べ、知覧特攻平和会館は上述のように「ついでに行く」ことが考えられないほど辺鄙な山中に位置*10する。しかも特攻の戦跡ならば九州の各地に複数ある。それでも知覧だけが多くの人々を惹きつけ、そして2002年度にピークを迎えた理由はどこにあるのだろうか*11

朝鮮人強制連行・労働】

http://chosonsinbo.com/jp/2015/04/il-588/
■朝鮮新報『日立鉱山強制連行の跡を訪ねて/「日朝連帯いばらき女性の会」主催フィールドワーク』
 日立鉱山では過酷な労働条件のもと、数多くの同胞たちが犠牲となった。その遺骨の多くは無縁仏として捨て置かれた。そのことに憤慨し在日1世が中心となり、1979年に日立平和台霊園に茨城県朝鮮人納骨塔が建立され、2006年には2世、3世の手によって慰霊塔として修復、整備がなされた。現在は慰霊塔管理委員会のもと、年に1度の秋夕慰霊祭が行われている。
(中略)
 フィールドワークを終えた参加者たちは、今回の企画は実に意義深いものだったと口を揃えた。 
 「日朝連帯いばらき女性の会」共同議長を務めるI女性会議茨城の大郄みよ議長は、「一般の日本の人たちは(在日朝鮮人の)歴史を知らない人が多すぎる。地元で起きたことでさえ知らないというのが現実だ。このような機会をきっかけにもっとたくさんの事実、歴史を学んでいかなくてはならない」と感想を述べた。
 また、日立市出身の日本のある参加者は、「自分が生まれ育ったこの地でこのような悲しい史実があったことを長年知らされず、知る機会もなかった。この企画に参加できて本当によかった」と話した。
 同会の幹事を務める蠔枝玉さんは、「10数年ぶりに日鉱*12記念館(http://www.nmm.jx-group.co.jp/museum/)を訪れて憤りを抑えきれない。なぜなら、記念館は前よりきれいに整備されていたが、前は展示されていた強制連行に関する当時の写真や資料が一枚もなくなっていたから。これは強制連行という歴史的事実を全くなかったことにしようとするもので、決して許されることではない。日本では、都合の悪い歴史にふたをしようとする風潮が加速している。とても恐ろしいことだと思う」と語った。

http://chosonsinbo.com/jp/2016/12/il-1078/
■朝鮮新報『鹿児島県で強制連行犠牲者追悼式/「外国人納骨堂」に20柱の朝鮮人遺骨』
 太平洋戦争当時、鹿児島県各地には本土決戦に備えて飛行場建設や海の特攻基地震洋・回天基地などが数多く建設された。
 出水市、鹿屋市、万世(加世田市)などの飛行場に連行された朝鮮人は危険で過酷な労働を強いられ、おびただしい犠牲者を出したと言われている。
 しかし、これらの実態は未だに明らかにされていない。
(中略)
 参加者はまず、強制連行、強制労働現場で無残に犠牲になった同胞を追悼して黙祷し献花した。
 鹿児島県在住の同胞は「鹿児島県での強制連行の実態調査は1974年4月に行われている。犠牲者の実数の掘り起こしは今回を契機にこれからも続けていかなければならない」と感想を述べた。
 参加者たちは口々に「祖国解放後71年経ったいまも強制連行の苦しみが鹿児島の地にも残っている。各地の同胞たちにこの事実を知らせていこう」と語り合った。

http://chosonsinbo.com/jp/2017/05/yr0501-1/
■朝鮮新報『〈取材ノート〉地方自治体の忖度』
 先月27日、千葉初中に対する千葉市補助金不交付が決定された。市は13年度から「地域交流を通じた外国人児童・生徒の健全な育成を支援する」目的に助成を始めてきた。不交付の大きな理由として挙げられたのは、昨年12月、同校や近隣学校の児童生徒の作品を展示した美術展で、南日合意*13を否定する内容の作品が展示されたことだった。
 この事件を受け、思い出されたのは、先月、群馬県立美術館の企画展で、同館が朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑を模した作品の展示を開催直前に取りやめた事件だ。作品のモチーフとなった県立公園群馬の森にある追悼碑をめぐっては、碑前で行われた市民団体の集会で、設置条件に反する「政治的」な発言があったとして、県側が設置の更新を不許可。市民団体が県を相手取り、処分取り消しを求める裁判が行われている。同館は「県が係争中の事案で、展示作品はふさわしくないと判断した」と説明するが、同館の設置管理条例に撤去の根拠となる条文はなかった。
 上記に共通するのは、千葉初中が積み重ねてきた近隣住民や学校との交流の歴史、群馬に至っては地域の市民団体が薄皮をはぐように明らかにしてきた朝鮮人強制連行に関する史実を、「政治的」というこじつけで否定し、進んで排除しようとする地方自治体の姿勢だ。政権に忖度した一連の行為は、少数者の思想、表現の自由を萎縮させ、歴史を語る試みをも閉ざそうとする暴挙にほかならず、横行する差別、排外主義を煽り、助長させることに繋がる。


■(ボーガス注:特攻隊美化という)想起を介した(ボーガス注:日本軍の残虐行為の)忘却:日比におけるアジア太平洋戦争の碑と観光(カール・イアン・チェン・チュア:訳・岡田泰平)
(内容紹介)
■産経『この夏、特攻隊員の像が立つ「カミカゼ神社」に行ってみては』(吉村英輝)
http://www.sankei.com/column/news/170714/clm1707140006-n1.html
夕刊フジ『【賞賛される日本】フィリピン・ルソン島で経験した神風特攻隊の慰霊祭』(井上和彦*14
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20140129/frn1401290719000-n1.htm
■ザ・リバティ*15『神風特攻隊を誇りに思うフィリピン人 自虐史観の下では愛国心は理解できない』
http://the-liberty.com/article.php?item_id=8691
などで

http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20140129/frn1401290719000-n1.htm
・地元記者のジョジョ・マリグ氏(25)はいう。
 「この式典は、日本とフィリピンの関係を知るよい機会です。私自身、カミカゼについて多くの書物を読みましたが、その尊い命を国家にささげた関大尉*16は“英雄”だと思います」
・式典に参加していた画家のダニエル・ディゾン氏は、自宅に「カミカゼミュージアム」を設けて、神風特攻隊の顕彰を行っているフィリピン人だ。
 「35年前、私は神風特攻隊の本を読んで涙が止まらなかったのです。当時、白人は有色人種を見下していた。日本は『世界のあらゆる人種が平等であるべきだ』として戦争に突入していった*17。神風攻撃隊は、白人の横暴に対する最後の抵抗*18だったのです。こんな勇気や忠誠心を聞いたことがなかった。同じアジア人として、このような英雄を誇りに思います*19

という発言*20から「神風特攻はフィリピン人も称える英雄的行為だ」と強弁する日本ウヨが批判されています。
 残念ながら、カール氏の論文に寄ればこうした産経らの言い分は全くのウソではないようです。
 そういう動きはフィリピンに残念ながら存在する。
 ただし「一部のフィリピン人が特攻を英雄的行為と称えようとも」、それは特攻の真実とはとても言えないし、またそうした称賛が「フィリピン人の真意かどうか」も極めて疑わしい。
 それはカール氏の論文の副題に「観光」の二文字があることでも分かるでしょう。
 つまりはこの慰霊碑、「日本ウヨに媚びる事によって日本ウヨに気持ちよくフィリピン観光をしてもらいカネを落としてもらおう」という話にすぎないわけです。人間は時として「カネのため」「私利私欲のため」に良心や常識を捨てることがあります。
 カール氏に寄れば当然というべきか「フィリピンを日本の侵略から救ったと見る人間が多い欧米人観光客」と「大東亜共栄圏万歳の日本ウヨが多い日本人観光客」の戦地観光コースはまるで違います*21
 要するに欧米人相手には米軍兵士が死亡した「バターン死の行進*22」が観光ガイドから語られる一方、日本人相手には語られないわけです。
 つまりはダライ・ラマペマ・ギャルポラビア・カーディル、楊海英らが「日本ウヨに調子あわせてデタラメ放言したりしてること」とフィリピンの件は本質的には全く一緒です。
 当然ながらダライやペマ、ラビアや楊と同様、そうしたフィリピン側の「日本ウヨに媚びる動き」*23は「日本ウヨの歴史修正主義に荷担する愚行」として批判されるべきでしょう。
 まあ、id:Mukkeさんだと「フィリピンに霞を食えとは言えない。日本人観光客にリップサービスして何が悪い*24」と言い出すかも知れませんけど、ハハハ(大笑い)、て俺も我ながら底意地が悪いな(苦笑)
 つうかいい加減「ノルウェーに霞を食えとは言えない」つう屁理屈を撤回しろよ、id:Mukke。全くいつまではてなブログから「長期お休み」名目でトンズラしてれば気が済むのやら。まあトンズラするだけid:noharraよりはマシな気もするけど。
 まあ、それはともかくフィリピン出身のハラニーリャ判事が東京裁判において「被告全員の死刑」を主張したこと、フィリピンのBC級戦犯裁判で本間雅晴・元第14軍(フィリピン)司令官が「バターン死の行進」の責任を、山下奉文*25・元第14方面軍(フィリピン)司令官が「マニラ虐殺事件」の責任を問われて死刑になったこと、あるいは

http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2010/03/19451953.html
 帰国の途につくためにマニラ港埠頭に向かった戦犯たちは、「沿道の人達からあらゆるば声を聞いた」。
 取材のために来ていた新聞記者も、「戦犯たちの乗ったトラックがモンテンルパからマニラの港まで走る間、これを見送る路傍のフィリピン人たちの大部分は白い眼を向けて、「ドロボー」と叫んだ」と書いている。戦犯のひとりは、「比島人全体の対日感情をよくするためにはまだ日がかかると思う」と語り、記者は、フィリピン人の恨みや憎しみは、「生きているうちに消える日が来るかも知れない。しかし、それでも少くとも、十年、二十年の歳月はかかるにちがいない」と、一種のあきらめを感じた」ほどであった。

ということでわかるようにフィリピンはあの戦争で酷い被害を受けており、決してそう言う意味では日本ウヨの言うような「大東亜共栄圏大義を支持する親日国家」ではまったくありません。
 またフィリピン戦といえば大岡昇平『野火』『レイテ戦記』の舞台であり日本兵にとってまさに生き地獄*26でした。そういう意味でも、産経のような美化は許されることではないでしょう。 

参考

http://news.livedoor.com/article/detail/9401510/
■フィリピンで特攻隊が観光客を呼び込む 慰霊祭には抗議の声も
 新華社は25日、フィリピン北部のルソン島で、旧日本軍の「神風特攻隊」の隊員たちのために、同日に慰霊式典が行われたとする日本メディアの報道を伝えた。1944年10月25日に、旧日本軍の「神風特攻隊」が自爆式の攻撃を開始したという。
 「神風特攻隊」の出撃基地跡地がある同島のマバラカット市で25日に行われた慰霊式典には、同市市長や日本の僧侶ら約150人が出席。犠牲となった特攻隊員や、日米の激戦によって死亡した110万人のフィリピン人に祈りをささげた。
 同市は悪名高き「神風特攻隊」の基地所在地として知られ、常時日本人観光客や元兵士、学生などが訪れるという。これに対して同市はあろうことか、日本人観光客呼び込みのために数年前に「神風特攻隊」隊員の像を作ったのだ。英メディアによれば、主に出資したのはフィリピン人だという。
 旧日本軍による残虐な統治に耐えて生存した人びとからは、猛烈な抗議の声が噴出。抗議者には元「慰安婦」のフィリピン人女性の姿もあった。


■国民和解と外交の間:朝鮮戦争をめぐる記憶(金賢*27
(内容紹介)
 朝鮮戦争の記憶は李承晩、朴チョンヒ、全斗煥といった右派政権においては「北朝鮮、中国の侵略から国を守った聖戦」扱いだったわけですが最近は少し事情が変わってるという話です。
【事情変更その1】
・冷戦の終了&中国との経済関係
 論文タイトル「国民和解と外交の間」の「外交」にあたる部分です。
 まあ最近の「サード配備なんかしたら後でどうなるかわかってるんやろうな!(韓国相手)」あるいは「犯罪者の劉暁波ノーベル平和賞なんかやるとはええ度胸やないか。お前がそう言う気ならお前の所のサーモンなんか誰が買うか。チリやカナダから買うから(ノルウェー相手)」的な話で分かるように「経済大国」中国を下手に激怒させると「経済的な意味で」後が恐ろしいことになります。
 そういう意味では欧米が一定の批判をする「劉暁波問題」ならまだしも日本に絶対に勝ち目がない「南京事件資料ユネスコ記憶遺産登録」で中国にケンカを売る一部の反中国極右は完全に気が狂っています。
 それはともかく、冷戦が終了したこともあって中韓関係は「経済交流の深化」の方向に行っています。下手に朝鮮戦争を「中国と北朝鮮の侵略」と騒ぐことは冷戦時ならまだしも今は中国の反発で韓国経済が恐ろしいことになりかねません。
【事情変更その2】
・冷戦の終了&民主化による戦争犯罪の追及
 論文タイトル「国民和解と外交の間」の「国民和解」にあたる部分です。
 朝鮮戦争においては米軍や韓国政府によって「保導連盟事件(1950年)」、「老斤里事件(1950年)」、「居昌事件(1951年)」などといった戦争犯罪がおきましたがこれらは「親北朝鮮派に対する正当な行動」と正当化され、犠牲者遺族を含む事件批判派には「北朝鮮の手先」というレッテルが貼られ、弾圧が加えられました。批判派は沈黙を強制されます。
 しかし冷戦の終了&民主化により、被害者遺族が声を上げ、戦争犯罪の追及が始まっています。もちろんこうした追及が必要十分とは到底言えないこともまた事実ですが。
 なお、こうした戦争犯罪の問題は朝鮮戦争だけでなく「ベトナム戦争での韓国軍」でもあります。
 というか「朝鮮戦争での戦争犯罪の追及の不充分さ」が「ベトナム戦争での韓国軍の戦争犯罪」を産んだと言えるでしょう。
 「ベトナム戦争での韓国軍」の戦争犯罪についても不十分ながら追及が始まりつつあります。 

参考
【事情変更その1関係】
聯合ニュース朝鮮戦争に参戦した中国兵の遺骨28柱を返還 韓国政府』
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2017/03/22/0200000000AJP20170322002700882.HTML

 もちろんこうした遺骨返還において「冷戦終了(1989年)」「中韓国交樹立(1992年)」が大きいことは言うまでもありません。そしてこうした遺骨返還に人道的要素がないとは言いませんが、「中韓関係を良くして中国ビジネスにつなげたい」という実利も当然あるわけです。
 話が脱線しますが「中国の対日戦勝70周年記念式典への朴クネ大統領(当時)の出席*28」、「AIIBへの韓国の参加*29」なども「中韓友好による経済交流進展」を目的にしているわけです。
 ただしこうした中韓友好は現在「サード配備問題」で非常に微妙な状況にありますが。


■ハフィントンポスト日本版『安重根記念館がハルビンに完成 外務省は「けしからん話だ」と中韓に抗議』
http://www.huffingtonpost.jp/2014/01/20/an-chung-gun-memorial_n_4629888.html

 朝日新聞デジタルによると、韓国の朴槿恵大統領は、2013年6月に訪中した際に「韓中両国民が尊敬する歴史的な人物だけに、(暗殺現場の)ハルビン駅に記念碑を設置してほしい」と、安重根の記念碑建立を習近平国家主席に直接要請していた。これに対して習氏は「関係機関に検討を指示する」と答えるに止めたと報じられている。
 しかし、2013年末の安倍首相の靖国参拝を受けて、中国側は態度を一変。記念館を開館し、(ボーガス注:記念碑という)朴槿恵大統領の要請からさらに(ボーガス注:記念館に)格上げする形で希望に応えることで、中韓の連携を強める狙いだと考えられる。記念館完成にあたり、韓国外交省も「開館を歓迎し高く評価する」という談話を発表した。
 これに対して、菅義偉官房長官は1月20日の記者会見で「安重根はテロリストだと認識している」などと発言し、中国による記念館開館を批判した。

 日本の侵略に抵抗した民族的英雄に向かって日本政府高官がテロリスト呼ばわりすることの意味が安倍や菅にはわからないようです。心底呆れます。
 まあそれはともかく。今や冷戦時代じゃあるまいし「日韓は仲良しで中韓は敵対関係」てわけでもないわけです。


■産経『韓国北部で伊藤博文を暗殺の安重根像を設置 習近平国家主席が製作を指示』
http://www.sankei.com/world/news/170809/wor1708090066-n1.html

 韓国北部議政府(ウィジョンプ)市の駅前の公園に、初代韓国統監の伊藤博文*30を暗殺し死刑となった安重根(アン・ジュングン)の銅像が9日までに設置された。中国から贈られたもので、韓国メディアによれば製作は習近平*31国家主席の指示によるものという。
(中略)
 2013年6月に朴槿恵(パク・クネ)大統領(当時)が訪中した際、中韓首脳会談で、暗殺現場の中国黒竜江省ハルビン駅に碑を建てることを要請。これを機に像は2体製作され、もう一体はハルビン駅の安重根記念館に設置されるという。
(中略)
 議政府市では、像の設置による中国人観光客の増加や(ボーガス注:サード配備問題で悪化した)対中関係改善を期待しているという。

 ということで冷戦時代と今とでは中韓関係は明らかに違うわけです。


【事情変更その2関係】

保導連盟事件(ウィキペ参照)
・1950年6月25日の朝鮮戦争勃発を受けて、李承晩大統領の命令によって韓国の軍や警察が共産主義からの転向者やその家族を再教育するための組織「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人などを大量虐殺した事件。
・李承晩以来の独裁的・軍事的政権を批判する立場からは、体制によって隠匿されてきた権力犯罪の一環として糾明の対象となり、盧武鉉政権による「過去史」清算事業の対象の一つとなった。
 2008年1月24日、盧武鉉大統領は保導連盟事件の犠牲者追悼式に送ったメッセージで、国家権力の不法行為に対して包括的な形で謝罪を表明した。
・また、2004年には、保導連盟署名者の凄惨な処刑が重要な場面で描かれている映画『ブラザーフッド』が製作・公開された。

http://www.tbs.co.jp/houtoku/onair/20080906_1_1.html#
■TBS報道特集『暴かれる韓国最大のタブー「保導連盟事件」』 (2008/9/6 放送)
 約60年前、韓国で政府が国民を大虐殺した事件をご存知だろうか。「犠牲者は20万人以上だった」とも言われている。それほど大規模な虐殺だったにもかかわらず、韓国内では長い間、タブーとされてきたため、詳しく知っている人はほとんどいない。この「韓国最大のタブー」が今、ようやく暴かれようとしている。

http://www.tbs.co.jp/houtoku/onair/20080906_1_2.html#
■TBS報道特集『暴かれる韓国最大のタブー「保導連盟事件」』 (2008/9/6 放送)
 真実和解委員会の調査で、保導連盟員の多くは共産主義とは無関係だったことがわかっている。
(中略)
 長く封印されてきた虐殺事件の調査を始めたのは、軍事政権と対立してきた民主化勢力の流れをくむノ・ムヒョン前大統領だった。
ノ・ムヒョン大統領(当時)会見(2008年1月)
「58年前の国民保導連盟事件は、我が国の現代史の大きな悲劇でした。私は大統領として、国家を代表して当時国家権力が犯した不法行為について心からお詫びいたします。」
 しかし2008年2月、大統領は保守系のイ・ミョンバク氏*32に代わった。
 真実和解委員会のキム・ドンチュン常任委員は、今後、調査体制が縮小されるのではないかと危惧している。
○真実和解委員会 キム・ドンチュン氏インタビュー
「今の政権は、私たちのような歴史の調査活動をよく思っていません。廃止まではしなくても、予算や人員の削減などで委員会の力を弱めようとするでしょう。」
 法律で決められた真実和解委員会の活動期限は2010年4月までだ。
 あと1年半ほどの間に「韓国最大のタブー」と言われた大量虐殺の真相はどこまで明らかにされるのか。
 真実和解委員会による遺骨の発掘が始まった現場は、まだ11か所に過ぎない。

■老斤里(ノグンリ)事件(ウィキペ参照)
 朝鮮戦争中の1950年7月に起きたアメリカ軍による韓国民間人の虐殺事件。第25師団長ウィリアム・B・キーン少将による7月26日の「戦闘地域を移動するすべての民間人を敵とみなし発砲せよ」という命令に基づき行われた。 
 なお、朝鮮戦争中に行なわれた米韓連合軍の民間人虐殺はこれ一件に留まるものではなく、収監されていた1000人以上の政治犯も軍命で処刑(=殺害)されていた事が、後に文書調査で判明している。
・老斤里事件は長く伏せられていたが、1994年に韓国人生存者が著書を出版、1999年9月9日AP通信が大々的に報道した。同年10月29日在韓米軍が現地調査を実施し、2004年には事件の犠牲者の名誉を回復する法案が韓国国会を通過した。韓国における反米軍感情が高まる原因のひとつとなったといわれる。

■居昌(コチャン)事件(ウィキペ参照)
朝鮮戦争中の1951年2月9日から2月11日にかけて韓国慶尚南道居昌郡にある智異山で韓国軍が共産主義パルチザンを殲滅するための作戦として、民間人719人を虐殺した事件。また2月7日に慶尚南道山清郡、咸陽郡で引き起こされた山清・咸陽事件とひと括りにして、居昌・山清・咸陽事件と呼ばれることもある。
・居昌出身の議員愼重穆が1951年3月29日の国会で事件を追求し、政府は調査団を派遣した。しかし、調査団が到着する数日前から、国防長官の指示によって事件現場は出入禁止となり、子どもの死体が別の場所に埋葬される隠蔽工作が行われた。また、共産主義ゲリラに偽装した韓国軍が国会調査団に銃撃を加えて調査を妨害した。
・7月27日大邱高等軍法会議において裁判が始まった。1951年12月16日、裁判所は第9連隊長の呉益慶中佐に無期懲役、第3大隊長の韓東錫少佐に懲役10年、慶尚南道地区戒厳民事部長の金宗元に懲役3年、情報将校李鍾大少尉に無罪を言い渡した。しかし李承晩大統領は恩赦を出して呉益慶中佐、韓東錫少佐、金宗元を釈放したあげく、韓東錫少佐を警察幹部に抜擢した。この事件によって李承晩大統領への反感が高まった。
■責任追及の動き
・1996年1月に居昌事件等の関係者の名誉回復のための特別措置法が制定された。
・2001年、居昌事件の遺族は韓国政府を相手として訴訟を起こし、裁判所は一審では韓国政府は遺族に40万ウォンずつ支払うように原告一部勝訴の判決を下したが、2008年6月5日、韓国最高裁判所は国家賠償の責任はないとの判決を下し事件を巡る訴訟は終結した。
・2004年4月に事件を追悼して、15万平方メートルの広さの敷地に居昌事件追悼公園が施工。
・2010年6月に韓国政府機関「真実和解のための過去史整理委員会」のアン・ジョンエ調査官が「当時の李承晩政権の命令によって虐殺が行われたこと」をホームページ上で公開すると、9月9日に委員会はアン調査官を解任した。アン調査官によると韓国軍第11師団が出した「作戦命令5号付録」に「敵の支配下にあるものは全員銃殺せよ」と明記されており、住民への虐殺命令が明白としている。また、李承晩政権時代に現地調査を行った特務隊が死亡者数の縮小、乳児遺体遺棄、性的暴行、財産略奪を隠ぺいしていたことも明らかにされた。委員会は内部文書として非公開を条件に国防部から関連資料を受領したと述べている。2010年10月15日、アン調査官は当該文書は秘密文書ではなく2009年に大統領と国会に報告された文書であるとして解任取り消しを求めた。

http://www.huffingtonpost.jp/2017/06/15/korea-memorialday_n_17139954.html
■ハフィントンポスト日本版『ベトナム戦争に従軍した韓国兵への弔辞に抗議。ベトナム政府「国民感情を傷つけかねない」』
 ベトナム戦争参戦の韓国軍に対する文在寅大統領の追悼メッセージに、ベトナム政府が反発した。韓国外交部も対応に乗り出した。
 6月13日、大手通信社「連合ニュース」は、ベトナム外交部が文大統領の顕忠日追悼の辞に対して、駐ベトナム韓国大使館を通じて韓国政府に抗議したと報じた。
 顕忠日とは韓国におけるメモリアルデーのことで、戦没者を追悼する記念日だ。
 1956年に制定され、毎年6月6日に国立ソウル顕忠院*33にて追悼式典が行われている。追悼対象は朝鮮戦争での戦死者のみならず、国を守るために命を捧げたすべての先祖の魂だという。
 文大統領は6日、顕忠日記念追悼式典で「ベトナム参戦勇士の献身と犠牲を土台に祖国の経済が復活した」と述べたところだ。文大統領は「異国の戦場で戦って生じた病と後遺障害は、国家が責任を負わなければならない負債」とし「然るべき償いで礼遇する」と約束した。
 これにベトナム外交部は12日、ホームページを通じて「韓国政府がベトナム国民の感情を傷つけ、両国の友好と協力関係に否定的な影響を与えかねない言動をしないよう要請する」と立場を伝えた。
 韓国三大紙「朝鮮日報」は、ベトナムの一部マスコミが当時の韓国軍によるベトナム民間人虐殺に対する問題を提起していると報じた。ベトナム戦争当時、韓国軍が9000人余りのベトナム民間人を虐殺したにも関わらず、韓国政府はこれを認めていないのを指摘したということだ。
 韓国政府も対応に乗り出した。通信社「 ニュース1」によると、チョ・ジュンヒョク外交部報道官は13日の定例会見で「韓国はベトナムとの関係を非常に重視する」とし、「顕忠日の追悼辞は、国家の命によって献身した軍人たちに適切な処遇がなければならないという趣旨の言及」と話した。

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/27771.html
ハンギョレベトナム戦争に対する省察なしに真の先進国になれるのか?」
 韓国ベトナム平和財団、アジア平和人権連帯など50あまりの市民社会団体は、この日「正しい大韓民国ベトナム戦争に対する省察から」という主題の記者会見で、韓国軍によるベトナム民間人虐殺に対して韓国政府が真相究明をはじめ責任ある姿を見せなければならないと要求した。記者会見文を代表で朗読したベトナム参戦軍人出身のミョンジン僧侶(72年、猛虎部隊派兵)は「韓国とベトナムが国交正常化して以来、ベトナムは『過去を閉ざして未来に行こう』という立場を堅持し、多様な交流を続けてきたが、韓国ベトナム国交正常化25年を迎え、初めて両国家間の歴史問題が水面上に浮上している」と明らかにした。
 これに先立って文在寅*34(ムン・ジェイン)大統領が今月6日、顕忠日の追悼式で「ベトナム戦争に参戦した勇士の献身と犠牲を基に祖国の経済が生き返った」と発言すると、ベトナム外交部は6日後の12日(現地時間)に公式論評を出して「ベトナム国民の心を傷つけ、両国の友好協力関係に否定的な影響を与える発言と行動を慎むことを要請する」と明らかにした。韓国ベトナム平和財団をはじめとする団体は、これに対して「過去の民主政権時期に、植民支配と独裁政権下で起きた反民主的、反倫理的事件に対する真実を明らかにするために多様な過去事委員会が作られた」として「文在寅政府もやはりこれ以上遅くならないうちに韓国軍のベトナム民間人虐殺問題に対して国家次元の真相究明に乗り出すことを要求する」と明らかにした。

 顕忠院という「記憶の場」での文発言がベトナム・韓国間の対立を産んだわけです。


■歴史の眼「熊本地震の被災体験」(猪飼隆明*35
(内容紹介)
・筆者も関わってる熊本洋学校*36教師館ジェーンズ邸(震災で崩壊)の復興運動が取り上げられている。
 筆者は文化財復興については熊本城ばかりが取り上げられているが他にもジェーンズ邸、横井小楠*37の私塾「四時軒」などがあるのでそちらについてもマスコミの報道、行政等の支援を望みたいとしている。
・また「2019年末再建予定」を熊本市が公約したジェーンズ邸は比較的恵まれているとしながらも「未だ実際に再建されたわけではない」ので今後の動向に注目したいとしている。

参考

https://mainichi.jp/articles/20170404/ddl/k43/040/356000c
毎日新聞熊本地震:1年を前に 米臨時代理大使、全壊「ジェーンズ邸」視察 /熊本』
 在日米国大使館のジェイソン・ハイランド臨時代理大使が、熊本地震から1年を迎えるのを前に3日、地震で全壊した県重要文化財熊本洋学校教師ジェーンズ邸」(熊本市中央区水前寺公園)を視察した。
 熊本洋学校やジェーンズを顕彰する「ジェーンズの会」のメンバーが、パネル7枚や被災前の写真などを見せながら説明した。ハイランド大使は「こんなにすばらしい建物があったのか」と驚いた様子で聞いていた。
 ジェーンズの会事務局長、本田憲之助さん(79)は「大使は当時の写真を見て驚いていたが、再建に向けて準備を進めていることを伝えると『喜ばしいことだ』と言ってくれた」と話した。
 ジェーンズ邸は外国人教師ジェーンズを迎えるため1871年に建設され、現存する洋館としては県内最古だった。熊本市文化振興課によると、熊本地震で全壊し、2019年度末にも再建する予定だが、再建場所は未定という。

熊本洋学校教師館ジェーンズ邸(ウィキペ参照)
熊本県熊本市中央区にあった歴史的建造物。
熊本藩明治4年1871年)に古城(ふるしろ、現:熊本市中央区新町)に熊本洋学校を開設した際に招いたアメリカ人教師リロイ・ランシング・ジェーンズのために造らせた邸宅。
・2016年(平成28年)4月14日に発生した熊本地震の前震により建物の壁が崩落する被害に遭い、同月16日未明の本震で建物が倒壊した。熊本市は当初、建物の修復は困難としていた。しかし、地震後初の保存修理検討委員会が現地を開き、2020年度の再建再開を目指して5億円をかけ復旧を図る方針を了承した。
・2017年(平成29年)3月に熊本県立大学がジェーンズ邸復興プロジェクトを始動、熊本地震で被災した文化財を「ペーパークラフトを作って、知って、そして救おう!」をテーマに再建の支援を行った。


■書評:松尾章一*38編『歴史家・服部之総』(2016年、日本経済評論社)(評者:安在邦夫*39
(内容紹介)
 服部之総といえば日本現代史研究の大物ですので機会があったら読みたいとは思います。

参考

服部之総(ウィキペ参照:1901年(明治34年)9月24日〜1956年(昭和31年)3月4日)
 『日本資本主義発達史講座』では、明治維新研究について論文を寄せ、また日本資本主義論争においては土屋喬雄と論争を繰り広げた。服部は、「維新史方法上の諸問題」(『歴史科学』1933年4-7月号)において、明治維新時の経済は、『資本論』によるところの「厳密なる意味におけるマニュファクチュア時代」(本来的マニュファクチュア時代)であるとした(「幕末=厳マニュ説」)。土屋はこれを実証性が欠けるとして批判し、「問屋制家内工業段階説」を唱えた。
 1936年(昭和11年)に花王石鹸の委嘱を受け、社史を編纂。1938年(昭和13年)には花王に入社し、宣伝部長。戦後は鎌倉アカデミアの教壇に立ち、法政大学社会学部では「社会学理論」担当。
 彼の著作は『服部之総著作集』(理論社、全7巻、1955年)、『服部之総全集』(福村出版、全24巻、1973〜1976年)にまとめられている。

http://suyiryutei.exblog.jp/26483799/
■酔流亭日乗『歴史家・服部之総
 『週刊読書人』の12月9日付けに載った、この本の書評記事(評者・先崎千尋氏)のコピーを知人のTさんがくださったのは先週のことである。すぐアマゾンに注文した。
 歴史家・服部之総、好きなんです。帯の推薦文は色川大吉さん*40が書いている。980ページという大著で、値段も9800円。つまり1ページ10円か。ともあれ来年1年間かけてじっくり読むつもり。

http://dokushojin.com/article.html?i=610
週刊読書人書評『歴史家・服部之總:日記・書翰・回想で辿る軌跡』(評者:先崎千尋(農業))
 忘れかけていた日本近代史家・服部之總がよみがえり、生身の姿を私たちの前に現した。この大著は、戦後の服部(以下すべて敬称略)の私設助手だった松尾が、服部の「没後三十年記念の集い」などを記録した『服部之總・人と学問』*41日本経済評論社)の編集後記に、「私にはまだ大きな宿題が残されている。それは私自身の『服部之總伝』を完成することである。この仕事を、ここ一、二年のうちに必ず果たしたい」と書いた約束を三十年近く経った今果たしたということなのだ。
 本書の「あとがき」を見ると、脱稿は二〇〇八年。それから出版まで八年。著者の努力もさることながら、出版に踏み切った日本経済評論社にも敬意を表する。
 私がなぜ服部の歴史学を学んだのか。私の専門は農業経済と農協論。所属する学会は土地制度史学会だった。学会に加わった最初の頃は総帥の山田盛太郎*42がまだ健在で、研究会の最後に発言するのが常だった。わが国の農業問題を研究するには戦前の地主小作制をどう理解するのかが不可欠だが、そのことは、明治維新を絶対主義の成立(講座派)とみるのか、ブルジョア革命(労農派)と考えるのかということでもあった。
 さらに、一九世紀に東アジア諸国は同一の外圧にさらされながら、インドはイギリスの植民地に、中国は欧米列強の半植民地になったにもかかわらず、なぜ日本だけが独立国になりえたのかということにも関心を持っていた。
 私が学生の時に服部はいなかった。だが、当時社会科学を学ぼうとする学徒にとって服部の著作は必読の文献だった。
 服部は、一九〇一年に島根県浄土真宗の寺の長男として生まれ、東京帝国大学文学部を卒業した。『日本資本主義発達史講座』に明治維新について執筆し、後に「幕末=厳マニュ時代」論(明治維新の経済は、『資本論』によるところの「厳密なるマニファクチュア時代」であるとした)を展開した。維新史研究の成果の上に絶対主義、自由民権運動日本帝国主義、日本ファシズムなどについて多くの論考を残している。著書に『明治維新史』『黒船前夜』『蓮如』『親鸞ノート』などがある。
 本書はサブタイトルでわかるように、服部の著作の解説などではなく、服部の五十四年の生涯を、残された日記、書簡、回想、講演や対談記録などを克明に追いながら正確に伝えることに主眼を置いて編集執筆された。普通は、書かれたもの、つまり著作からしかその人を知りえないし、評価することもその範囲でしかできないが、服部の裏も表も知り抜いている松尾は、あらゆる資料を駆使して服部の全体像、はだかの人間像をみごとに描き出している。
 本書は「いま服部之總から学ぶこと」という松尾の序に続いて、「生い立ちから戦前期までの服部之總」、「戦後史のなかの服部之總」の二部から成り、第一部は、生家、木田村*43尋常小学校・県立浜田中学校時代、旧制第三高等学校時代、東京帝国大学時代、結婚・再婚そして労農党政治部員時代、在野の歴史家時代、花王石鹸株式会社時代、第二部は、敗戦直後、鎌倉大学校、闘病と執筆活動を支えた奈良本辰也*44との友情、日本近代史研究会時代、アメリカ占領下の服部之總、法政大学教授時代、入院と退院直後の日記、で構成されている。これだけ見ても服部の動き、八面六臂の活躍ぶりが手に取るようにわかる。しかも晩年は結核、糖尿病、ノイローゼなどの持病と戦いながらだ。先ごろ亡くなった三笠宮*45との交流も面白い。「自分の人生を華やかに演出した服部も寿命だけは意のままにならなかった」とある。
 服部は鎌倉アカデミアや法政大学で教鞭をとっていたが、労農党や日本共産党と関わり、三鷹事件松川事件メーデー事件の被告を支援し、地域の民主化運動として鎌倉市長選にも積極的に関わった。三鷹事件で唯一死刑判決を受け、冤罪を訴えてきた竹内景助からの獄中書簡も、本書に十四通収められている。
 私の目をくぎ付けにしたのは、一九五五年一一月一〇日の日記の「桜井武雄来泊」のくだり。松尾の解説に「桜井は戦前の服部の私設助手第一号」とある。櫻井武雄は茨城にあって岩上二郎知事の田園都市づくりを玉川農協組合長の山口一門とともに担った。私はどういうわけか彼に嫌われ、一九九三年の瓜連町長時代、岩上のあとの知事竹内藤男が贈収賄事件で逮捕され辞任したあとの知事選で、独自候補を擁立しようとした私の動きを強く叱られたことがあった。
 櫻井は「茨城は後進県である」と説き、私も地域で封建的、保守的な空気に抵抗し、農協や行政でいろいろ動いてきた。なぜ茨城は後進県なのか、その風土はどうして出来上がったのかが今日までの研究課題であり、研究するだけでなく、その克服を行動の原点としてきた。服部の明治維新研究と私の内発的な問題意識は櫻井を通してつながっているのだ、と本書を通読して受け止めることができた。
 服部は一九五一年から『歴史画報』を出すが、「発刊にのぞんで」の次の文は、時間をずらせば今にも当てはまり、これが服部史学の神髄を学ぶことだと思っている。
 「二十世紀の後半に入った今日、祖国日本は新しい運命の前に立っております。このとき、わたくしどもは、一九世紀の後半を含んだ近代日本の歩みを顧みることが、今日の立場を理解し、今後の歩みを知るためにも、絶対に必要なことだと信じます」。

http://d.hatena.ne.jp/shigak19/20161217
■書房日記『恐るべき三笠宮
 ぼけっと小西四郎・遠山茂樹*46編『服部之總・人と学問』日本経済評論社、1988年を眺めていたら、没後30年集会で今年亡くなった三笠宮が日本近代史研究会とのかかわりや服部之総との付き合いを振り返った発言の中で、

 私なんか(ボーガス注:皇族という)立場上(ボーガス注:形式的な?)非常に冷たいお付き合いが多いのでございますけれども、それだけに服部先生、また周囲の方々とのお付き合いというのが、なんともいえない温かい楽しい思い出だった事を記憶しております(同書、111頁)

とまで語っていて、「赤い皇族」と揶揄されるだけのブラックユーモアだなあと感じたのだった。歴史研究者として紀元節批判を公表する程筋を通した三笠宮自身にとっては、これくらいの発言はむしろ自然だったのかもしれないけれど。

 まあ、服部はマルクス主義歴史学者であり、共産党員でもありましたからねえ。いかに「マルクス主義の立場に立たない歴史学者からも一定の評価をされていた」とはいえ三笠宮以外の皇族からはまず出てこない発言のように思います。

http://www1.e-hon.ne.jp/content/toshoshimbun_3274_1-1.html
図書新聞『いま、なぜ、服部之總か:大歴史家・服部之總の人と学問に迫る』
川村善二郎氏*47インタビュー
 松尾章一編著『歴史家 服部之總:日記・書翰・回想で辿る軌跡』(日本経済評論社)という大著が刊行された。歴史家・服部之聰とは何者なのか……。本書著者の松尾氏と同じく、服部の謦咳に接した川村善二郎氏に話をうかがった。
インタビュアー
 服部之總(一九〇一〜一九五六)という歴史家のことを、いまの人はほとんど知りません。明治維新史や自由民権運動史を研究する人も、服部の書いたものを読まないで論文を書くような事態になっています。服部之總という大歴史家がどういう人であったか、川村さんとはどういう付き合いだったかなど、お話しいただければと思います。
川村
 私は一九五一年に大学を卒業して、服部之總が代表の日本近代史研究会(以下、「近研」)に参加しました。本書の著者の松尾章一さんは一九五三年から服部家に住み込んで、直々に指導を受けられましたが、私は近研の「歴史画報」の編集作業に携わりましたが、その作業自体が「服部ゼミナール」のようでした。
(中略)
 私は一九五一年の三月に東大を卒業しましたが、就職先が見つからないので毎日、東大の国史研究室に行って本を漁っていました。そうしたら、先輩の青村眞明さんが「歴史の写真集をつくっているから手伝ってくれよ」と言うので、編集室(近研)に行くと、浦和高校の先輩の藤井松一さんがいたので、お手伝いすることになりました。その歴史の写真集の編集には、東大の史料編纂所に勤務していた小西四郎さん、遠山茂樹さん、吉田常吉さん、松島榮一さんといった近代史家があたっていました。さらにその中心には服部之總がいることがわかり、びっくりしました。私ははからずも仰ぎ見ていた服部之總の下で歴史写真集の編集作業に携わる機会に恵まれたのでした。その写真集は「画報近代百年史」(一九五一〜五二年、国際文化情報社)というものです。その冒頭に「発刊にのぞんで」という服部之總と小西四郎の連名の挨拶文が載っています。その挨拶文は「二十世紀後半に入った今日、祖国日本は新しい運命のまえに立っております。このとき、わたくしどもは、十九世紀の後半を含んだ近代日本の歩みを顧ることが、今日の立場を理解し、今後の歩みを知るためにも、絶対に必要なことであると信じます」と書き出されていました。現在を理解し未来を目指すために、歴史の流れを顧みることは、当たり前のことなんですが、当時の私にはえらく新鮮に感じられました。
(中略)
インタビュアー
 改めて、服部之總とはどういう人ですか?
川村
 服部之總は島根県浄土真宗の寺の長男です。いずれは寺を継ぐということもあったのでしょう、檀家の承認を得て京都の第三高等学校に行き、さらには東大文学部の社会学科に進みます。私が服部さんに「なぜ社会学科だったんですか?」と訊いたら、「社会学科は社会主義を教授するところだと思ったから」と、笑い話のような答えでしたけれど(笑)、案外、本音だったかもしれません。ただし、東大時代の服部さんは、「東京帝国大学柳島セツルメント」の住み込みの活動家でした。柳島セツルメントは労働者向けの学習会を多く開いていたようで、そこで服部さんも「社会史」の講義をしていました。私は一九六四年からあちこちの公民館や教育委員会の歴史講座、人権講座の講師をやってきましたが、葛飾区で話したときに服部之總の名前を出したら、あるおじいさんが「私は柳島セツルメントの学習会で服部先生の教えを受けました」と言っていました。「話がわかりやすくて面白かった」とのことです。
 服部之總はその後、一九二八年の大山郁夫・河上肇監修の「マルクス主義講座」に、初めて明治維新史の論文を書いて歴史家としての歩みを始めます。
(中略)
 封建制最後の君主形態である絶対主義王制の成立という観点で明治維新を捉え直したのが服部論文でした。当時、服部の研究と羽仁五郎の、封建支配と闘う百姓一揆を重視する明治維新史の研究が大いに注目されたと思います。その後の日本資本主義論争とは、当時の社会運動の変革の対象である日本の国家権力が、封建的な性格を強く持つものなのか、それとも近代的なものなのかという論争だったと思います。それは革命運動の戦略・戦術にも関わる政治課題でしたが、それを学問研究上の課題と受け止めたのが日本資本主義論争の課題だったと思います。問題は、日本の近代国家における封建的な要素、わかりやすく言えば近代の君主制天皇制)の性格の封建的な要素は、根底にあるものなのか、それとも残りものなのか。後者であれば自然になくなる。しかし前者なら、きちんと取り除かないといけない。日本資本主義論争における講座派と労農派の論点はそこだったんです。だけど当時は現在のような言論の自由がほとんどない時代ですから、あからさまに政治論議ができない。だからそれを「歴史」研究の課題として明治維新史に移して論じ合ったのが、服部さんや羽仁さんの研究だったのではないでしょうか。
 ところが講座派の人たちがあまりにも封建的な要素を固定化して捉える傾向が強かった。そこで「日本資本主義発達史講座」における服部さんの論文は、決してそうではなくて、封建的な要素を持つと同時に、近代、民主主義を目指す動きもあったんだと言おうとした。それが明治維新の歴史における「革命と反革命」、そして「封建性と近代性」についての論文であり、「マニュファクチュア時代」という提起だったんだと思います。ポツダム宣言に基づく戦後の民主化においては、戦前の封建性そのものが問題になった。その意味では講座派が言っていたことは正しかったのですが、しかし封建的な要素一色で塗り潰しかねない講座派の理論ではダメだというのが、服部さんの内部批判の立場だったわけです。それは戦後、福島大学での講演「マニュファクチュア論争についての所感」で服部さん自身が語っていることです。
(中略)
インタビュアー
 服部之總は、川村さんにとってどういう存在ですか?
川村
 私の歴史研究と部落問題研究にとっては、まず植木徹之助*48遠山茂樹の影響が大きいのですが、近研での編集の仕事を通じて服部さんから教えられ、学んだことを考えると、いま私がやっていることは服部さんの歴史家としての生き方・考え方と無関係ではないんだなと思うことが多いです。公民館での歴史講座などで私がずっと言い続けているのは、「歴史を学ぶのではない、歴史に学ぶ、歴史の教訓に学んで、現代に生きることが大切だ」ということです。それは、歴史画報の編集の折々に服部さんがおっしゃっていたことを私なりに受け止めた、私なりの生き方・考え方です。
 部落問題の話になりますが、私は大学に入った年に植木徹之助一家と知り合いました。植木徹之助の息子はやがて芸能界で活躍し、「スーダラ節」を歌って人気を博した植木等です。植木徹之助は若いころ、真珠で有名な御木本幸吉の貴金属工場の彫金職人をしていました。その工場が労資協調政策に沿って改革されたとき、工場長になったのは幸吉の弟の斎藤信吉という人でした。その人は熱烈なクリスチャンで、キリスト教の牧師や学者、思想家を呼んで従業員に話を聞かせた。その結果、三十数人が一度に洗礼を受け、そのなかに植木徹之助もいました。彼は「人間は神の子としてみな平等だ」という信念を持った。それが植木徹之助の原点だと思います。ある牧師が「君たちはあの世の幸せを求めるのではなくて、この世の幸せを探しなさい。そのためには現実をしっかり見なさい」と話したそうです。植木が現実を見つめたら、人間不平等がありすぎることに気づいた。そこで彼は社会の矛盾を感じ、社会問題に関心を寄せ、社会運動にも参加するようになりました。ちょうど関東大震災のころですが、昭和天皇が摂政時代、婚約が決まったときに良子女王がかぶる冠の作成を御木本が委託されていました。その冠をつくっているときに大震災が起こり、工場が潰れてしまった。当時、御木本の工場は現在の日比谷図書館のあたりにあったようですが、従業員は日比谷公園に避難した。そこへ御木本幸吉がやってきて、「植木、あの冠を工場から取り出してこい」。すると植木は「冠なんか壊れたらいつでもつくり直せばいいじゃないか。人間は潰れたら取り返しがつかない」と言い返したそうです。植木はそういう反骨の人でした。
 植木はその後、肺結核になってしまい、妻の実家の寺で療養していました。その寺の檀家に部落の人がいて、気が合ったのか、植木はしょっちゅう遊びにいっていた。そんなことから植木は部落問題に関心を持つようになりました。やがて、植木を警戒して特高警察がしばしば来るものだから、檀家の人たちが「いつまで彼を寺に置いておくのだ」と言うので、住職が植木に親鸞の話をして僧侶にならないかと勧めました。すると植木は、親鸞悪人正機説キリスト教と同じ人間平等の思想を感じ、僧侶(大谷派)になる決心をします。そして一九三五年、三重県伊勢神宮に近い被差別部落の人たちから、寺の住職がいないので来てくれないかと頼まれて、植木はその寺に入り、その地区の住民の差別撤廃運動の指導者の一人になります。彼はまた、「戦争は集団殺人だ、人殺しだ」と言って憚りませんでした。日中戦争が全面化すると、部落の青年にも召集令状が来ます。その人が寺の植木に挨拶に行くと、「とうとう君も集団殺人の片棒を担がされるか。いいか、中国兵も人間なんだから、中国へ行っても相手に当たらないように鉄砲を撃ちなさい。人間を殺してはいけない。だけど戦争だから向こうからもタマが飛んでくる。だから君は隠れなさい。敵を殺すな、君も死ぬな。生きて帰ってきなさい」というのが、応召兵士に送る植木の餞の言葉でした。
 もう一つ、服部之總に結びついた思い出を言うと、当時の全国水平社の松本治一郎*49の片腕といわれた井元麟之*50という活動家がいます。福岡の人ですが、植木が入った寺のある地区の差別糾弾闘争の指導にあたった人です。私は一九六四年に井元さんに福岡で話を聞きました。井元さんの兄は松源寺の住職の佐々木滋寛師で、お会いすると「服部(之總)君はよくこの寺に来ましたよ」と言われました。服部さんは寺の息子ですから、京都の三高時代に青年仏教会に入って、佐々木さんも当時京都の寺で修行していて、二人はともに本願寺教団の民主化運動に奔走した同志でした。一九三八年、服部さんは花王石鹸に入社して役員になります。花王が中国や台湾につくった会社の役員をやって、社用でそちらに出張していました。その帰りに服部さんは博多に上陸すると、佐々木滋寛さんの寺を訪ねたそうです。私が歴史画報の編集をしているころ、水平社の項目で私が書いた解説の原稿に服部さんが手を入れて、もう一回勉強しろと言わんばかりに「この本を読みなさい」と渡してくれたのが高橋貞樹の書いた「部落史」の本でした。そのときは不思議にも思いませんでしたが、いまになってみれば、部落問題についての服部さんの意見を一度きちんと聞いておきたかったなと思います。
インタビュアー
 いま、われわれは服部之總から何を学んだらいいでしょうか?
川村
 一九五二年八月に岐阜県中津川市で、当時の作文教育全国協議会の第一回が開かれた時、その集会へ服部さんがメッセージを寄せています。そのメッセージで服部さんはまず、子どもたちに現実を直視させ、調べさせ、よりよい未来を考えさせる綴方教育、作文教育の取り組みに全面的に賛同しています。それに付け加えて服部さんは、歴史家の一人として一つの希望を申し添えたいと提言しています。その希望とは、子どもたちが見つめる現実には「過去」が凝縮してあるはずだ、つまり現実のなかに「歴史」を発見させなさい、綴方教育と歴史教育とを、縦と横とを合一させて、未来につなぐ「教育」を充実させて下さいと言っています。ここには服部さんの歴史の見方・考え方、「微視の史学」と「巨視の史学」とを結び合わせる考え方が込められていると思います。
インタビュアー
 最後に、本書の著者の松尾章一さんはほぼ一生をかけて服部之總を追いかけてきましたが、それはなぜだと思いますか?
川村
 松尾さんと私とはそれぞれの道を歩み、一緒に歴史の研究をしてきたという間柄ではないんですが、二人は異なる場ではありますが、それぞれ服部之總に接して、その指導を受けて育ったので、松尾さんは私を服部同門の仲間として立ててくれます。松尾さんの千ページにもなる本書には、歴史家服部之總の歩みと、いろんな人の服部さんに対する考えとがまとめられています。私はこの労作を読みながら、歴史画報の編集作業に携わった近研の頃を思い出し、久しぶりに服部さんの声を聴き、その謦咳に接しているような気持に浸りました。
 なぜ松尾さんは服部さんを追いかけたかということですが、松尾さんも私もおそらくは同じだと思うのですが、服部さんの歴史家としての生き方・考え方、そして歴史の見方・考え方――歴史家として現実に立ち向かい、同時に歴史上の問題にも人物にも歴史家として相対する、そういう前向きの姿勢に心を打たれ、学ぼうとしてきたからではないでしょうか。
 最後に、私が近研の同人に加えていただいてまもなく、刊行された「画報近代百年史」の第一集に掲載された服部之總と小西四郎の連名になる挨拶文「発刊にのぞんで」の書き出しの一節を、もう一度紹介したいと思います。
 その挨拶文の最初にある「二十世紀後半に入った今日、祖国日本は……」を、「二十一世紀に入った今日、祖国日本は……」と書き換えてみましょう。私には、六十年前に世を去った歴史家服部之總が生前の姿で現れて、いま「歴史の教訓に学んで現代に生きる」ことの大切さを、私たちに教え諭しているように思えるのです。
「二十世紀後半に入った今日、祖国日本は新しい運命のまえに立っております。このとき、わたくしどもは、十九世紀の後半を含んだ近代日本の歩みを顧ることが、今日の立場を理解し、今後の歩みを知るためにも、絶対に必要なことであると信じます」。

*1:全3巻、2002〜2003年、岩波書店

*2:著書『「恩恵の論理」と植民地:アメリカ植民地期フィリピンの教育とその遺制』(2014年、法政大学出版局

*3:なお、ホテルの事業者はその後、付近の高台に移転新築し、「渚亭 たろう庵」(http://www.tarou-an.jp/)と名称を改めて2015年4月に営業を再開した(ウィキペ『たろう観光ホテル』参照)。

*4:茨城大学准教授。著書『証言記録 市民たちの戦争1:銃後の動員』、『証言記録 市民たちの戦争2:本土に及ぶ戦禍』、『証言記録 市民たちの戦争3:帝国日本の崩壊』(共著、2015年、大月書店)

*5:「海軍飛行予科練習生」の略。

*6:これについては法華狼の日記『知覧とアウシュビッツ、特攻とホロコースト、それぞれ何が似ていて何が違うのか』(http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20150727/1438042084)を紹介しておきます。

*7:ヤーコンと阿見町の関係については■阿見町の特産品(http://www.town.ami.lg.jp/0000000920.html)参照

*8:広島の原爆ドームと違って世界遺産じゃないからですかね?

*9:浦上天主堂、グラバー邸、長崎中華街(横浜、神戸、長崎で俗に日本三大中華街と呼ぶ)とかいろいろあります。

*10:会館公式サイト(http://www.chiran-tokkou.jp/access/index.html)によれば鹿児島空港やJR鹿児島中央駅からタクシーで約1時間かかる。

*11:やはり映画ですかね?

*12:日立鉱山のこと

*13:朴クネ大統領と安倍首相の日韓慰安婦合意のこと。南とは「南朝鮮(韓国)」のこと。

*14:著書『親日アジア街道を行く:日本近代史の真実』(2005年、扶桑社)、『日本が戦ってくれて感謝しています:アジアが賞賛する日本とあの戦争』(2013年、産経新聞出版)、『日本が戦ってくれて感謝しています2:あの戦争で日本人が尊敬された理由』(2015年、産経新聞出版)、『パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか』(2015年、PHP研究所)、『ありがとう日本軍:アジアのために勇敢に戦ったサムライたち』(2015年、PHP研究所)、『大東亜戦争秘録:日本軍はこんなに強かった!』(2016年、双葉社)など

*15:右翼宗教・幸福の科学の機関誌

*16:ただし、関自身は『報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。』という位、特攻作戦には批判的だったようです(ウィキペ「関行男」参照)。

*17:そんな「立派な人種平等国家」日本が「アパルトヘイト南ア」から「名誉白人」という称号を戦後もらったわけです(皮肉のつもり)。

*18:そもそも「大東亜戦争はアジア解放の戦争」というのはウソですが仮にそれを真実と認めても神風特攻なんて自殺攻撃が正当化出来るわけがないでしょう。

*19:焼身自殺を美化するダライと言い、特攻を美化する井上やディゾンと言い「なら手前も焼身自殺や特攻をやって見ろよ」といいたくなります。

*20:「井上の捏造」か、「マリグ、ディゾンらフィリピン人の井上に対する媚び」かはともかく読んでてあまりのデタラメさに怒りと悲しみを禁じ得ません。まあ、カール氏の論文を信じれば捏造ではなさそうですが。

*21:ちなみにカール氏に寄れば「朝鮮戦争戦跡ツアー(韓国や北朝鮮)」の場合も「中国人観光客(韓国の場合:中国非難はできる限り避ける)と欧米人観光客(北朝鮮の場合:欧米非難はできる限り避ける)」ではガイドの扱いが違うそうです。もちろん「韓国+欧米(というか西側)」VS「北朝鮮+中国」で戦争が行われお互い「俺は悪くない、相手が悪い」つう建前ですからある意味当然ですが。そもそも朝鮮戦争は建前ではいまだ終戦していません(現状は建前では休戦、停戦でありいわゆる38度線も国境ではなく停戦ラインにすぎない)。俺的には「欧米人の北朝鮮戦跡ツアー」「中国人の韓国戦跡ツアー」がどんなものか興味があります。政府公式見解を、韓国が中国人客相手に、あるいは北朝鮮が欧米人客相手に無神経にぶちかましたら客が激怒するのは必然ですからね。

*22:この事件についてはバターン死の行進7 右派論壇の「否定論」 を紹介しておきます。

*23:もちろんフィリピン国内において批判がないわけではありません。

*24:お断りすれば俺も「商売上のリップサービス」を否定はしませんがモノには「限度」というモンがあるはずです。度を超えたリップサービスは許されるもんではない。

*25:陸軍省軍事調査部長時代に皇道派幹部として226事件青年将校に好意的態度をとったことがたたり失脚。その後は陸軍省中枢から外れ、支那駐屯混成旅団長、北支那方面軍参謀長、第25軍(マレーシア)司令官、第1方面軍(満州)司令官、第14方面軍(フィリピン)司令官を歴任。戦後のBC級戦犯裁判で「シンガポール華僑虐殺事件」「マニラ虐殺事件」の責任を問われ死刑判決。

*26:これについては例えば■高世仁の「諸悪莫作」日記『ルソン島 伯父さんは逝った』(http://d.hatena.ne.jp/takase22/20150818)参照

*27:著書『異文化間コミュニケーションからみた韓国高等学校の日本語教育』(2008年、ひつじ書房

*28:一方、日本側は韓国と違い出席せず、中国との関係を悪化させました。

*29:一方、日本側は韓国と違いAIIBへの参加をせず、中国との関係を悪化させました(最近、参加の方向に舵を切りつつありますが米国の不参加に躊躇しているのか正式には参加していません)。

*30:元老の一人。首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監などの要職を歴任

*31:福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、国家副主席、党中央軍事員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを経て党総書記、国家主席、党中央軍事員会主席、国家中央軍事委員会主席

*32:ソウル市長を経て大統領

*33:2009年5月(李明博政権時代)には2009年5月には新潟日赤センター爆破未遂事件に係わった工作員(工作活動中に死亡)12名が祀られた「韓国の靖国」と呼ばれる施設(ウィキペ『国立ソウル顕忠院』参照)。

*34:盧武鉉政権大統領秘書室長、「共に民主党」代表を経て大統領

*35:著書『西郷隆盛西南戦争への道』(1992年、岩波新書)、『西南戦争』(2008年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『近代日本におけるハンセン病政策の成立と病者たち』(2016年、校倉書房)など

*36:著名な卒業生としては海老名弾正(キリスト教伝道師、同志社大学総長)、蔵原惟郭(代議士。評論家・蔵原惟人の父)、徳富蘇峰(作家)、横井時雄(横井小楠の長男で海老名弾正の義兄。キリスト教伝道師)、横井時敬(東京農業大学学長)などがいる(ウィキペ「熊本洋学校」参照)

*37:熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩主・松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。

*38:著書『中国人戦争被害者と戦後補償』(編著、1998年、岩波ブックレット)、『関東大震災戒厳令』(2003年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など

*39:早稲田大学名誉教授。著書『立憲改進党の活動と思想』(1992年、校倉書房)、『自由民権運動史への招待』(2012年、吉田書店)など

*40:著書『自由民権の地下水』(1990年、岩波同時代ライブラリー)、『昭和史と天皇』(1991年、岩波セミナーブックス)、『近代日本の戦争』(1998年、岩波ジュニア新書)、『明治の文化』(2007年、岩波現代文庫)、『明治精神史(上)(下)』(2008年、岩波現代文庫)など

*41:小西四郎・遠山茂樹編、1988年

*42:著書『日本資本主義分析』(岩波文庫)、『資本主義構造論:山田盛太郎東大最終講義』(日本経済評論社

*43:現在は浜田市

*44:立命館大学教授。著書『吉田松陰』(1981年、岩波新書)、『忘れられた殉教者:日蓮宗不受不施派の挑戦』(共著、1988年、小学館ライブラリー)、『日本文化論』(2002年、角川選書)など

*45:昭和天皇の弟。歴史研究者(古代オリエント史)。著書『文明のあけぼの:古代オリエントの世界』(2002年、集英社)、『わが歴史研究の七十年』(2008年、学生社)など

*46:著書『明治維新天皇』(1991年、岩波セミナーブックス)、『明治維新』(2000年、岩波現代文庫)、『戦後の歴史学と歴史意識』(2001年、岩波モダンクラシックス)など

*47:部落問題研究者。植木等の義弟

*48:植木については■赤旗植木等の父、反戦僧侶、植木徹誠とは?』(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-04-19/2008041912_01faq_0.html)参照

*49:戦前、全国水平社議長。戦後、部落解放同盟委員長。

*50:戦前、全国水平社書記局長