「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2019年12/31分:荒木和博の巻)

大晦日の中央委員会【調査会NEWS3152】(R01.12.31): 荒木和博BLOG

・世界中は大晦日ですが北朝鮮では朝鮮労働党の中央委員会が行われるとのこと。28日に開会してからこれで4日目。こんなに続くのはあまり聞いたことがありません。
・明日元旦には通常なら金正恩*1の新年辞発表があります。その前日まで中央委員会を開かなければならないというのは特別な理由があることに間違いありません。

 「大晦日の党中央委員会という異例なことが起こっているのは、何か特別な理由があるのだろう」なんてことは誰でも思いつくことであり、全く無内容な荒木の一文です。まあ誰でも思いつく「理由の一つ」は

北朝鮮、「交渉期限」年末へ強硬 米高官と対話応じず (写真=共同) :日本経済新聞
北朝鮮が強硬姿勢を強めている。年末が交渉期限だと主張し、下旬に開く党会議で「重大な問題」を決定すると予告する。
北朝鮮外務省高官は3日、「クリスマスプレゼントに何を選ぶかは米国次第だ」との談話を出した。

ということで「米国側の回答期限を年末にしていたから」ですが。

 今から63年前、昭和31年(1956)8月の中央委員会では当時の金日成首相に対してソ連派と延安*2派が反旗を翻す、いわゆる「八月宗派事件」が起きました。結果的には失敗してこの二つの派閥は(ボーガス注:中国やソ連への)亡命と(ボーガス注:投獄や左遷などの)粛清で壊滅しました。あるいは「十二月宗派事件」でも起きているのか。ならば今度は成功してもらいたいものですが。

 ばかばかしい。そもそも「反旗を翻す」云々などと言う兆しはどこにもありませんがそれはさておき。
 なぜ金正恩政権の崩壊を望むのかわけが分かりません。後継政権が荒木にとって有利という保証はどこにもないのですが。
 「過去の外国政権の失脚劇」、たとえば「文革による劉少奇*3国家主席失脚(林彪*4がナンバーツーに就任)」「ブレジネフらによるフルシチョフ党第一書記、首相失脚(失脚後の党第一書記(後に書記長)はブレジネフ、首相はコスイギン*5)」によって日本に何かいいことがあったかというと別に無いでしょう。

 来年こそはチャンスを逃すことのないようがんばります。

 「おととしも去年もそんなこと言ってたよね?。今年『も』チャンスを逃したの?」「そんなんじゃ来年も再来年もチャンスを逃すんじゃないの?」「そもそもチャンスって何?」ですよねえ。

参考

◆8月宗派事件(ウィキペディア参照)
朝鮮語の「宗派」は日本語の「分派」を意味し、「8月宗派」とは具体的には「いわゆるソ連派、延安派」を指す。
・1956年6月、金日成首相(当時。後に国家主席)はソ連、東欧、モンゴルを歴訪し、経済援助を得ようとした。この間に1956年2月のフルシチョフ*6ソ連共産党第一書記によるスターリン批判を受け、延安派(中国派)とソ連派が金日成の独裁体制を修正するためにクーデターを計画したと言われている。後の動きと収束から延安派の徐輝*7(朝鮮職業総同盟委員長)、尹公欽(商業相)、崔昌益(副首相兼財務相)、ソ連派の朴昌玉(副首相)、金承化*8(建設相)、朴義琓(副首相兼国家建設委員長)などが中心的人物だったと見られる。
 金日成は政変が起こることを察知し直ちに帰国した。金日成が察知したルートについてはいくつかの説がある。クーデター首謀者らが金日成が留守の間の首相代理である崔庸健*9満州派)に協力を要請したところ崔庸健が計画を金日成に通知した、クーデター首謀者らがソ連大使館に協力を要請したところソ連大使館から崔庸健を経由して金日成に伝わった、などの説がある。
 金日成帰国後の8月30日から8月31日にかけて朝鮮労働党中央委員会全体会議が開かれ、ここで延安派やソ連派の幹部たちは金日成の個人独裁路線や重工業優先政策を批判したが思うように支持を得られず、逆に金日成側から党指導部に対する「宗派(分派)的、反党的陰謀」を企てた不満勢力として処分された。ソ連派の朴昌玉、延安派の尹公欽、徐輝、崔昌益らは公職から解任され党籍を剥奪された。
 延安派で駐ソ大使の李相朝がソ連共産党に全体会議の顛末を報告し金日成の個人崇拝を断罪するよう求めたため、ソ連、中国が共同して異例の内政干渉を行った。9月、ソ連のアナスタス・ミコヤン*10第一副首相と中国の彭徳懐*11・国防相北朝鮮を訪問して再度全体会議を開催させ、8月の全体会議で党籍を剥奪されたソ連派、延安派の除名処分を撤回させた。
◆その後の経過
 ソ連と中国の介入を求めた李相朝・ソ連大使はソ連に亡命した(その後、1989年に韓国に移住)。ソ連と中国による介入後も金日成は延安派とソ連派に対する粛清を続けた。
 国内では、粛清開始前に懐柔されていた金昌満*12(延安派。8月宗派事件の10年後に粛清)、南日*13ソ連派。8月宗派事件の20年後、金日成後継者争いにおける金正日*14のライバルである金平一*15金正日の弟)の後見役に就いたのち交通事故死)など少数の延安派、ソ連派の幹部だけが政治的に生き残ることができた。そして、この一連の政変を逆手に取り一種のカウンター・クーデターを成功させた金日成満州派(国外抗日パルチザン派)と甲山派(国内抗日パルチザン派。のちに延安派、ソ連派同様、粛清される)が権力をほぼ独占するようになった。

*1:北朝鮮国務委員長、朝鮮労働党委員長、朝鮮人民軍最高司令官

*2:陝西省の都市。1937年から1947年まで中国共産党中央委員会が置かれたことから、中国共産党にとっての聖地とされる。

*3:1898~1969年。全人代委員長、国家主席など歴任するが文革で失脚し党を除名される。死後の1980年に名誉回復。

*4:1907~1971年。国防相、党副主席など歴任するが林彪事件で失脚

*5:1904~1980年。財務相軽工業相、ゴスプラン(国家計画委員会)議長、第一副首相、首相など歴任

*6:1894~1971年。ウクライナ共産党第一書記、ソ連共産党第一書記、首相を歴任

*7:1916~1993年。平壌市党委員長、朝鮮職業総同盟委員長などを歴任。1956年に8月宗派事件に参加。その後、尹公欽らとともに中国に亡命する。1993年没。

*8:建設相や金日成総合大学副総長など歴任。1956年に8月宗派事件に参加。その後、ソ連に亡命

*9:1900~1976年。朝鮮人民軍最高司令官、民族保衛相(国防相)、副首相、朝鮮労働党副委員長、最高人民会議常任委員長、国家副主席など歴任

*10:1895~1978年。貿易相、第一副首相、最高会議幹部会議長など歴任

*11:1898~1974年。国防相党中央軍事委員会副主席などを歴任するが、大躍進政策を批判したため1959年の廬山会議で失脚。文革(1966~1976年)でも迫害を受けた。死後の1978年に名誉回復がなされた。

*12:1907~1966年。最高人民会議外交委員長、朝鮮労働党副委員長、副首相など歴任

*13:1913~1976年。副首相兼外相、副首相兼鉄道相などを歴任。

*14:1941~2011年。北朝鮮国防委員長、朝鮮労働党委員長、朝鮮人民軍最高司令官

*15:1954年生まれ。駐ハンガリー大使、駐ブルガリア大使、駐フィンランド大使、駐ポーランド大使、駐チェコ大使など歴任