高世仁に突っ込む(2020年1月1日分)

2019年に読んだ10冊の本 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 小生は小心者で「そんな本がお前のベスト10なの?」と言われるのが嫌なので、「自信家」高世と違い「2019年に読んだお薦めの本10冊」なんてもんはないですね。そもそも本をあまり読みませんし。
 最近は『前衛』『経済』『歴史評論』を読む*1以外には全然活字を読んでないなと改めて実感しています。

1.鬼海弘雄『PERSONA最終章』(筑摩書房)、鬼海弘雄『ことばを写す 鬼海弘雄対談集』(山岡淳一郎*2編、平凡社

 高世にとって今一番大事な人間の一人が鬼頭氏(写真家)なんでしょうか。それにしても対談集はともかく普通、本の紹介で写真集(『PERSONA最終章』)の紹介はあまりしませんよね(苦笑)。

2.渡辺京二*3『黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志』(洋泉社
 名著『逝きし世の面影』*4の続編とされる本で、2010年に出ている*5のだが今年やっと読んだ。以前から気になっていた「和人がアイヌを搾取、圧迫してきた」という俗論から自由になれてすっきりした。

 高世が「俗論」と決めつける根拠は何なんですかねえ。そもそもアイヌについて語るのに「アイヌ専門家ではない渡辺を持ち出す」つうのも頭がどうかしていると思いますが(そもそも渡辺のアイヌについての記述は、おそらく孫引きでしょうし)。
 そして「まさかとは思いますが」『畏友』三浦小太郎のように「アイヌ新法は悪法だ、アイヌ特権だ」なんて言い出さないでしょうねえ、高世さん。
 なお、

「映画秘宝」休刊へ 発行の洋泉社、宝島社と合併で解散:朝日新聞デジタル
 出版社の宝島社は18日、子会社の洋泉社を来年2月1日に吸収合併すると明らかにした。宝島社が全ての権利義務を継承し、洋泉社は解散する。

だそうです。渡辺本が従来通り、「洋泉社を吸収合併した宝島社」から発行されるかは現時点ではわからないようです。まあ、宝島社から出ない場合は「筑摩書房」「平凡社」など渡辺の本を出してる他の出版社から出るのでしょうが。

7.竹中明洋『殺しの柳川―日韓戦後秘史』(小学館
 山口組全国制覇の先兵だった最強武闘集団「柳川組」の柳川次郎は在日韓国人で、1969年に柳川組を解散すると日韓の架け橋として両国を行き来した。
 本書には力道山*6大山倍達*7、朴正煕*8許永中など(ボーガス注:といった韓国・朝鮮人)も登場し、日韓関係には柳川らの「裏」のコネクションが大きな役割を果たしたことを知る。
 有力な在日ヤクザには、西の柳川組に対して東の町井久之の「東声会」があり、やはり日韓関係に大きな影響をもった。町井は下関と釜山を結ぶ関釜フェリーを就航させ、民団の顧問にもなっている。城内康伸『猛牛と呼ばれた男―「東声会」町井久之の戦後史』(新潮社)と合わせ読むといっそうおもしろいだろう。

 まあ、そういう「裏社会のつながり」も日韓関係にはあったわけです。

8.三浦小太郎『なぜ秀吉はバテレンを追放したのか―世界遺産潜伏キリシタン」の真実』(ハート出版)
 三浦さんは長い付き合いの畏友である。

 吹き出しました。高世は以前も三浦小太郎が斬るNY平壌公演1 - 高世仁の「諸悪莫作」日記嘘の人権 偽の平和 - 高世仁の「諸悪莫作」日記で三浦を「畏友」と呼んでいましたが、また「畏友」だそうです。
 三浦小太郎に突っ込む(2019年8月14日分) - bogus-simotukareのブログ三浦小太郎に突っ込む(2019年8月18日分)(追記あり) - bogus-simotukareのブログ三浦小太郎に突っ込む(2019年10月4日分) - bogus-simotukareのブログに書いた高世批判の繰り返しになりますが、「新しい歴史教科書をつくる会理事(つまり南京事件否定派、河野談話否定派)」という「歴史修正主義者」「プロ右翼活動家」の三浦を「長い付き合い」の「畏友(尊敬しており、その前にでると深く畏まらざるを得ない友)」とまで呼び、著書まで好意的に紹介ですか。ハート出版なんて明らかに異常な極右出版社なんですが*9。普通、よほどの関係でないと「畏友」なんて言いませんよねえ。
 変な人間*10を「畏友」なんて呼べば「あんた、バカか?。あんな奴が畏友なの?。あんな奴を尊敬してるの?。何を尊敬してるの?。あんな奴の前に出ると敬語とか使って畏まっちゃうの?。ため口とか聞けないの?」と言われます*11し。
 一方で言われた方だって「畏友」なんて言われて嬉しいんですかね?。俺が言われたら「褒め殺しかよ?」とかえってドン引きですが。
 いやもちろん、その畏友とやらが「ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎」「人間国宝柳家小三治(落語)」とか「世間的に高く評価されてる人間」ならまだわかりますけどね(例は何でもいいですが)。三浦なんてそんなご大層なもんじゃないし。
 それはともかく、俺なんか尊敬どころか三浦には「軽蔑」「呆れ」「怒り」といった負の感情しかありませんが。
 しかもその著書は「素人・三浦が、プロの歴史学者の一般向けの本をつまみ食い引用して作った、信頼性に難のある日本史の本」(もちろん三浦に秀吉時代の古文書を読む力も、一般向けでない専門論文を読む力もありません)。
 「高世はアホと違うか?」「三浦の駄本じゃなくて三浦が元ネタにした本でも紹介すれば?」ですね。本気ではなく「三浦へのこびへつらい」、ひいては「三浦とつながる救う会西岡力会長、島田洋一副会長、荒木和博元事務局長ら)へのこびへつらい*12」でしょうが、人として恥ずかしくないのか。だから俺は高世が大嫌いですし、人間として何一つ評価してないし、日頃からこうして悪口しています。高世なんぞと付き合える人間の気が知れません。「高世の知人友人(妻子や親兄弟を含む)」って、高世と同類のバカ揃い、クズ揃いなんでしょうか?

10.名郷直樹『「健康第一」は間違っている』(ちくま選書)
 「健康より大切なものはない*13のか。治療や予防によって損なわれているもの*14は何か。本来の医療の役割をさぐるラディカルな医療論」(出版社の内容紹介より)
 ひたすら医療不信を煽る近藤誠氏の議論とは全く違い、エビデンスをもとに、巷にあふれる健康情報を根本から問いなおしている。
 名郷さんの問題提起をもとに厚生政策を練り直してほしいと思う。

 「悪い意味」で「高世(あるいは筑摩書房)って勇気あるなあ!」ですね。こういう本は「小生が指摘するまでもない」でしょうが、往々にして「医療ネグレクトを助長するトンデモ本」であることが多いわけです。で「筑摩の担当編集」はどうか知りませんが、俺もそうですが、高世だって「医療の専門家」ではないですよね。
 「近藤誠*15エビデンスがない*16と思うが名郷直樹はエビデンスがある、信用できる」と高世が言う根拠は何なのか?
 あげく「名郷さんの問題提起をもとに厚生政策を練り直してほしい」とまで言っちまう根拠は何なのか?
 いかに「俺的にはいい本だった(あくまで個人的感想です、医学素人なのでその点ご注意下さい)by高世」と断っても「小心者の俺」ならこの種の本は絶対に紹介しませんね。
 だってこの本がいわゆるトンデモ本健康被害でも出たら怖いじゃないですか。「高世のせいで酷い目に遭った」なんて言われるかもしれないという恐怖は高世にないんでしょうか?
 エシカル消費で銀行を変える - 高世仁の「諸悪莫作」日記によれば、高世の実弟は医師らしいですけど、もしかして実弟から薦められた本なのか(それでも俺なら怖くて他人に薦めたくないですが)。

番外:道尾秀介『向日葵の咲かない夏』(新潮社)
 私は小説をほとんど読まない。恥ずかしながら、『ことばを写す 鬼海弘雄対談集*17』で鬼海さんの対談相手の道尾秀介*18というミステリー作家の名前を知った。どんな本を書いているのかと試しに読んでみたら、あまりに面白くて通勤途中も本が手離せず、やるべきことをがあったのに、オフィスでも本を広げて、一気に読みきった。

 まあこの辺りは人それぞれですね。ちなみに、小生が床屋だかラーメン屋だかに置いてあった雑誌『文藝ポスト』(小学館)を時間つぶしに斜め読みして「面白い」と思ったのが鯨統一郎『間暮警部の事件簿(後に「『神田川』見立て殺人:間暮警部の事件簿」(小学館文庫)として刊行)』です。
 鯨については私が今までに読んだ本の紹介(鯨統一郎編)(追記あり) - bogus-simotukareのブログミステリがあまり好きじゃない人に君なら何を勧める?(多少ネタバラシあり) - bogus-simotukareのブログでも紹介しましたが。
 まあ小説は好き嫌いが分かれると思います。
 鯨なんかたとえばその作品はミステリがあまり好きじゃない人に君なら何を勧める?(多少ネタバラシあり) - bogus-simotukareのブログでも紹介しましたが、その作品の一つは

・『歴史をネタにしたユーモアミステリ』
・『邪馬台国の所在地*19岩手県八幡平(はちまんたい)市だ、八幡平はヤマタイと読めるではないか!』云々という代物(勿論本気ではなくジョーク)

であり、つまり「おふざけが強い作風」なので、小生と違い、「その種のおふざけが嫌いな人(何が『八幡平が邪馬台国の所在地』だ、ふざけるな!)」「おふざけは好きだが、鯨のギャグがあわない人」は面白くないと思います。
 まあ小生はもっぱら読む小説はミステリ*20と時代小説だけですね。他の小説はほとんど読みません。まあドラマ(例:TBSの半沢直樹(原作・池井戸潤*21))で話題になったりするとミーハー的興味から読むこともありますが。

【参考:在日ヤクザ】

ヤクザと韓国 殺しの柳川や猛牛・町井らが日韓関係裏で暗躍 (1/5ページ) - zakzak週刊ポスト2019年9月6日号
 近著『殺しの柳川』で、戦後日韓関係と裏社会の蜜月を描いたジャーナリスト・竹中明洋氏が、「ヤクザと韓国」の秘史をレポートする。(文中敬称略)
 日韓関係の悪化に歯止めがかからない。
 この事態に元公安調査庁調査第二部長で、朝鮮半島情勢の専門家の菅沼光弘が嘆息する。
 「よくも悪くも、日韓を裏側で結びつけた人々がいなくなった」
 菅沼がいう「結びつけた人々」とは、(中略)町井久之や柳川次郎、高山登久太郎を筆頭とするヤクザだ。
 まずは“猛牛(ファンソ)”こと町井久之。1965年の日韓国交正常化で大きな役割を果たした一人である。町井は1923年に東京に生まれたが、両親はともに朝鮮半島出身。韓国名を鄭建永(チョン・ゴニョン)という。身長180センチ超、体重100キロの巨躯の持ち主で、その腕力を武器に銀座を縄張りとして頭角を現し、1500人の構成員を従える東声会の会長として東京の裏社会に君臨した。1963年には山口組三代目の田岡一雄と兄弟盃を交わしている。
 その町井が韓国国内で人脈を広げていくのは、1962年のことだった。韓国で開かれた国民体育大会に町井が在日同胞チームの団長として訪韓した際、ソウルで町井らが宿泊したホテルの警備を担当したのが、のちに大統領警護室長となり、朴正煕(パク・チョンヒ)政権のナンバー2と言われた朴鍾圭(パク・ジョンギュ)だった。豪胆な性格の2人はすぐに意気投合したという(城内康伸著『猛牛と呼ばれた男「東声会」町井久之の戦後史』*22参照)。
 射撃の名手で、気にくわない相手にはすぐにピストルを抜くことから、「ピストル朴」と怖れられた朴鍾圭は、京都生まれで、日本語も堪能。朴鍾圭を介して韓国の政財界に食い込んだ町井は、兄弟分だった力道山の紹介で、「政財界の黒幕」と呼ばれた右翼の児玉誉士夫とも親しくなり、その児玉の伝手で自民党大物政治家の大野伴睦*23河野一郎*24らと知己を得る。
 当時、日韓の間では長年にわたり続いていた国交正常化に向けた交渉が暗礁に乗り上げていた。
 「韓国嫌いで知られた大野をはじめ、自民党内に早期の交渉妥結に反対する声が多かった」(元政治部記者)
 こうしたなか、町井は韓国の朴正煕政権の意向を受けて、韓国側の要人と大野らをたびたび引き合わせ、1965年の日韓国交正常化実現の環境整備に一役買った。
 1964年の東京五輪では、韓国選手の渡航費用や宿泊費、機材費などを支援。1966年には韓国オリンピック委員会の委員にもなっている。
 町井と同じ1923年に生まれ、大阪を拠点としたことから、(ボーガス注:在日ヤクザを代表する存在として)「東の町井、西の柳川」と並び称されたのが、柳川次郎こと梁元錫(ヤン・ウォンソク)である。
 1958年に柳川組を旗揚げ。翌年には山口組の傘下に入った。
その凶暴さから「殺しの軍団」との異名を取った柳川組は、山口組の全国進出の尖兵として関西から北陸や山陰、東海、そして北海道へと勢力を拡大し、(ボーガス注:警察庁のいわゆる第一次頂上作戦(1964~1969年)によって)1969年に解散するまでに1700人の構成員を数えた。
 柳川が、韓国の政財界に食い込むようになったきっかけも、やはり「ピストル朴」だった。朴正煕政権とも関わりの深い韓国人老学者が経緯を明かす。
「1972年に朴正煕大統領が国賓として日本を公式訪問することになり、朴鍾圭が警視庁と警備計画を協議したのですが、天皇の警備でもやらないほどの厳重さを要求したそうです。朴鍾圭にすれば、それが大統領への忠誠を示すものだったのでしょう。日程には大阪も含まれていたので、大阪府警とも同じようにやったのですが、それでも足りないと思ったのか、朴鍾圭は警察以外の者にも警備への協力を求めた。それが町井であり、柳川だったのです」
 結局、公式訪問は取り止めとなったため、町井や柳川の出番はなかったが、これ以降、柳川は朴正煕政権との関わりを深めていく。1974年に朴正煕政権の招きで1944年ぶりに韓国を訪れると、翌年には大のプロレス好きで知られた大統領の直々の依頼を受け、アントニオ猪木新日本プロレス一行を引き連れ韓国興行を打つ。
 猪木と韓国人レスラーの大木金太郎こと金一(キム・イル)の対決をメインとした興行は、韓国の5都市を回り、いずれもテレビ中継され空前の人気となった。ソウル興行後に猪木や金一を伴って青瓦台を表敬訪問した柳川は、大統領から感謝の抱擁をされたという。
 1979年に朴正煕大統領は側近のKCIA部長に暗殺される。混乱のなかでクーデターにより政権を奪取したのが、韓国軍の情報機関・保安司令部(ポアンサ)の司令官だった全斗煥(チョン・ドファン)だ。それまでのKCIAに代わって対日工作を担うことになるが、日本国内で活動する手駒がいない。目をつけたのが柳川だった。
 柳川は日本でのポアンサの工作活動を担い、その様は公安調査庁OBの菅沼をして「事実上のポアンサ駐日代表」と言わしめるほどだった。大統領に就任した全斗煥の周辺とも太いパイプをつくり、1983年に当時の中曽根康弘*25首相が日本の首相としては初の公式訪韓をした際には、その地ならしに柳川が暗躍したとも言われる。
 在日韓国人が多く、また在日ヤクザも多かった大阪では、柳川の他にも触れておくべき人物がいる。山口組三代目の田岡一雄と盃を交わし、舎弟となった田中禄春こと韓禄春(ハン・ロクチュン)である。
 1966年に堅気となるが、それまでに築いた莫大な財産を民団の活動に寄付して民団本部の常任顧問を務めたほか、大阪の御堂筋に韓国総領事館が建設された際には、建設期成会の会長となって巨額の私費を寄付した。田中は韓国最高級の勲章にあたる無窮花(ムグンファ)章を授与されている。
 そして、もう一人、韓国政府と深い関わりを持った在日ヤクザがいる。前出の菅沼はこの人物と初めて会った時のことをこう振り返る。
 「1991年末に柳川次郎が亡くなって間もない頃のこと。東京の韓国大使館の武官室から連絡があったのです」
 用件は、ポアンサのナンバー2の将軍が訪米の帰りに日本に寄るから会ってほしいというものだった。指定された場所は、熱海の高級旅館。
 「行ってみると、そこには私以外にもう一人客がいた。」
 その夜、ポアンサの将軍は菅沼にその男を紹介し、こう伝えたという。
 「柳川の次は彼にやってもらう」
 ポアンサの“駐日代表”を引き継いだこの男は、京都の会津小鉄会の会長・高山登久太郎である。高山は、1928年に大阪市東成区に生まれた在日で、韓国名を姜外秀(カン・ウエス)という。民団中央本部の中央委員を務め、1987年の韓国大統領選挙では、全斗煥の後継である盧泰愚を資金面で支援した。韓国の政権と深い結びつきを築いた在日ヤクザたちだったが、高山を最後に目立った動きはなくなる。その理由を菅沼は「民主化が進んだからだ」と指摘する。
 朴正煕をはじめ軍人による独裁が続いた韓国の歴代政権は、日本における情報収集や工作活動のために暴力という武器を持つヤクザたちを重宝した。だが、民主化の進展は、そのような不透明な関係を許さなくなったのだ。KCIAやポアンサといった情報機関が改編や解体の憂き目に遭ったことも影響している。
 稲川会会長の清田次郎(韓国名・辛炳圭〈シン・ピョンギュ〉)、六代目山口組で統括委員長を務める極真連合会会長の橋本弘文*26(同・姜弘文〈カン・ホンムン〉)、六代目山口組から分裂した任侠山口組代表の織田絆誠(同・金禎紀〈キム・ジョンギ〉)を始め、いまなお組織のトップに在日は多く、その下にはさらに多数の在日がいる。だが、日韓関係を水面下で動かすことはなく、またそれを許す社会でもなくなった。

◆町井久之(1923~2002年、ウィキペディア参照)
 昭和32年(1957年)には東京・銀座で、東声会を結成した。昭和38年(1963年)児玉誉士夫の取り持ちで、三代目山口組・田岡一雄組長の舎弟となった。
 昭和39年(1964年)2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(「第一次頂上作戦」)を開始した。町井の東声会は、警察庁により広域10大暴力団に指定された。なお、10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会*27、大阪・柳川組*28、熱海・錦政会(後の稲川会)、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会*29、東京・東声会、川崎・日本義人党、東京・北星会だった。 警察の圧力の強まる中、昭和41年(1966年)9月1日、町井は東声会の解散声明を発表した。
 昭和42年(1967年)4月、町井は東声会を、企業色を前面に押し出した形で「東亜友愛事業協同組合(後に東亜相互企業に改名)」として再建し、自らは名誉会長となった。
 昭和43年(1968年)、韓国より国民勲章・冬栢章を受勲した。翌年釜関フェリー株式会社を設立し、就航させた。昭和46年(1971年)には、在日本大韓民国民団中央本部顧問に就任した。
 しかし、白河高原の開発をめぐって、昭和51年(1976年)7月5日、東亜相互企業の社員が、福島県知事・木村守江*30に対する500万円の贈賄容疑で逮捕された。結局、昭和52年(1977年)6月、東亜相互企業は不渡りを出して倒産した。これ以降、町井はほとんど人前に出なくなったといわれる。

読書 猛牛と呼ばれた男 韓日戦後史の闇将軍を照明
 荒廃した戦後の東京で、腕力を武器に千五百人の構成員を擁する暴力団「東声会」の首領として一躍その名を轟かせたのが、在日2世の町井久之こと鄭建永である。
 その一方で、日本の政財界の大物とのパイプを築き、韓日国交正常化では水面下で動いた。朴正煕大統領の信任も厚かったという。

◆田中禄春(ウィキペディア参照)
 昭和28年(1953年)に、大阪ミナミの宗右衛門町にキャバレー「富士」をオープン。しかし、地元ヤクザからみかじめ料などを要求され、自ら暴力団の舎弟となって事業を守ろうと考える。その後、中川組・中川猪三郎組長の紹介で、昭和32年(1957年)10月に持参金を持って、三代目山口組・田岡一雄組長の盃を受ける。田中は田岡の若衆となり富士会(後に一心会に改名)を結成した。
 しかし、第一次頂上作戦で山口組の主だった傘下組織が摘発・解散の憂き目に遭い、田中も昭和41年(1966年)8月23日にヤクザから引退する。2003年に民団大阪本部顧問となり、2006年には民団中央本部常任顧問となっている。

訃報 韓禄春常任顧問 永眠
 民団中央本部・大阪本部の韓禄春常任顧問が宿患のため1月13日に死去した。享年95歳。通夜、葬儀は家族で営まれた。

高山登久太郎(1928~2003年、ウィキペディア参照)
 1950年(昭和25年)、中川組の中川芳太郎組長から盃をもらい、中川芳太郎の若衆となり、同時に、愚連隊の配下を集めて高山組を結成。1986年(昭和61年)、三代目会津小鉄会会長図越利一から会長の座を継承し、四代目会津小鉄会を発足させた。1997年(平成9年)の2月をもってヤクザから引退を表明。山口組系淡海一家総長の高山義友希は実子。
◆栄誉等
 1980年には民団滋賀・大津支部の顧問に就任、1998年には滋賀韓商の常任顧問となる。また2000年から民団中央本部中央委員に就任。1981年には民団滋賀県本部会館の建設に貢献し、1988年にはソウルオリンピックのための募金に寄与。1990年には財団法人・外秀韓日交流奨学会を設立。これらの業績により、1989年に大韓民国体育部長官表彰、1990年に大韓民国大統領表彰を受け、2003年に大韓民国の国民勲章冬栢章を受けた。

【島田紳助】島田紳助芸能界復帰か 山口組ナンバー3の引退が追い風に|日刊ゲンダイDIGITAL
 「こりゃあ、紳助の復帰あるで!」
 11月中旬、6代目山口組極心連合会の橋本弘文会長(72)が引退したという話が広まると、在阪テレビ局関係者は思わずこう漏らした。
 暴力団関係者との交際が明らかになり、島田紳助(63=当時55)が引退会見を開いたのは8年前。会見の2日前、紳助は吉本興業本社に呼ばれ、大崎洋社長(現会長)から携帯メールの資料を見せられた。
 「二郎さんと会長に守られていると思うと、心強いです」
 二郎さんとは元ボクシング世界チャンピオンで、極心連合会相談役の渡辺二郎のこと。紳助は渡辺を通じて橋本会長と知り合った。資料には自身が招いた右翼とのトラブルを解決してもらった橋本会長との親密交際をうかがわせるやりとりが100通以上、残されていた。
 「オレのケツモチを誰やと思っとんねん。極心連合会やで」
 紳助はかつて事あるごとに、暴力団との「親密な関係」を吹聴。2011年10月の「フライデー」に橋本会長と6代目山口組高山清司若頭(72)とのスリーショットが掲載された。
 時を経て15年8月、6代目山口組が分裂。高山若頭と共に組の礎を築き上げた橋本会長はナンバー3の地位まで上り詰めた。
 大崎洋社長は12年、年初の挨拶で「(紳助が)いつの日か吉本興業に戻ってきてくれるものだと信じています」と発言。紳助も同年4月の「週刊文春」で「いつか『テレビに出れる人』にはして欲しい。一連の報道の中で、まるで島田紳助が犯罪者のようになっているのが嫌や」と語っている。
 これまで復帰の噂は絶えず、今夏にも長年、MCを務めた「行列のできる法律相談所」にゲスト出演する計画が進められていたが、宮迫博之(49)の闇営業問題でパーになった。
 「吉本から再三暴力団との付き合いを断ち切るよう言われながらでけへんかったのも、会長に対する恩義や『裏切り者』のレッテルを貼られ、暴力団全員を敵に回すのを恐れたからや。右翼と揉めた時も『誰も助けてくれへん』言うてビビりまくっとったぐらいやからな。機を見るに敏な紳助のことや、会長が一般人になったこのタイミングで芸能界復帰を画策してもおかしない。戻りたがっとるいう話は耳にしとる」(芸能関係者)


【参考:児玉誉士夫

児玉誉士夫(1911~1984年、ウィキペディア参照)
◆児玉機関
 1941年11月、児玉が属した国粋大衆党を主宰する笹川良一の紹介で海軍省海軍大臣嶋田繁太郎*31)の外局である航空本部(本部長は山本五十六*32)より招かれた。児玉は海軍航空本部のため航空機に必要な物資を調達することとなる。上海に児玉機関の本部を置き、児玉は海軍の嘱託(佐官待遇)となる。
 児玉はタングステンラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた。児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど、1億7500万ドル相当の資金を有するに至ったと言われている。児玉の行動について憲兵の監視はあったが、海軍の庇護があるため逮捕してもすぐに釈放されるという結果となった。
 児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げていた。児玉は、1946年初頭、この資金の一部を自民党の前身にあたる日本民主党(総裁・鳩山一郎*33)の結党資金として提供した。
 その後も自民党と緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー(黒幕)として君臨した。
 岸信介*34首相の第1次FX問題をめぐる汚職社会党の今澄勇*35代議士が追及していた時には等々力の児玉の私邸へ二度も呼び、児玉は追及をやめるように説得した。しかし、今澄が聞き入れないため、身上調書を渡した。それには今澄の政治資金の出所、その額、使っている料理屋、付き合っている女が全て書かれていた。
 日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸首相は1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約をした。その立会人が児玉であり、河野一郎佐藤栄作*36も署名した誓約書が残されている。
 なお、岸はその約束を反故にし、池田勇人*37に政権を禅譲した。辞意表明後の1960年7月14日、岸は暴漢に刺されて重傷を負ったが、これは、岸の裏切りに怒った児玉の報復と言われる。
 安保条約改定に反対する安保闘争を阻止するため、岸首相は自民党の木村篤太郎*38らにヤクザ・右翼を動員させたが、児玉はその世話役も務めた。
 児玉は1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると、韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。児玉もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、フィクサーとして利益を得た。
 日本国内では企業間の紛争にしばしば介入した。1972年河本敏夫*39社長の三光汽船はジャパンライン*40の乗っ取りを計画して同社株の買占めを進めた。困惑したジャパンライン社長の土屋研一は児玉に事件の解決を依頼した。しかし、児玉が圧力をかけても、河本はなかなかいうことを聞かなかった。そこで、児玉はそごう会長の水島廣雄に調停を依頼。水島の協力により、河本は買い占めた株の売却に同意する。児玉は水島に謝礼として1億円相当のダイヤモンドを贈った。
ロッキード事件
 児玉はすでに1958年(昭和33年)からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104戦闘機を選定させる工作をしていた。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党大野伴睦河野一郎岸信介らであった。しかし、大野(1964年死去)や河野(1965年死去)が死亡すると、総理大臣の佐藤栄作にはあまり影響力をもっていなかった。そこで児玉は「佐藤政権の幹部」田中角栄*41と親しい政商・小佐野賢治国際興業社主)に頼るようになった。小佐野は日本航空全日本空輸の大株主であり、ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮したが、すでに日本航空マクドネル・ダグラス社製のDC-10型機の購入を決定していたこともあり、その矛先を全日空に向けた。
 この頃深い関係を作り上げていた田中角栄が1972年(昭和47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、その後全日空ロッキード社飛行機を21機購入し、この結果ロッキード社の日本での売上は拡大した。
 ロッキード社社長のアーチボルド・コーチャンは「児玉の役割は『防衛庁P-3C導入』を政府関係者に働きかけることだった。児玉は次の大臣に誰がなりそうか教えてくれた。日本では大臣はすぐに代わるから特定の大臣と仲良くなっても無駄である。彼は私の国務省だった。」と調書で語っている。
 1976年(昭和51年)、アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が児玉を秘密代理人として雇い、多額の現金を支払っている」事実が明らかにされ、日本は大騒ぎとなった。
 児玉は脱税と外為法違反で在宅起訴された。児玉は判決が出る直前の1984年(昭和59年)に死去し、裁判は打ち切りとなった。
 2016年に放送されたNHKスペシャル「未解決事件」のインタビューに応じた堀田力*42元検事は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。深い、物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察、もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。

*1:これらについては拙ブログで紹介していますが

*2:著書『医療のこと、もっと知ってほしい』(2009年、岩波ジュニア新書)、『原発と権力』(2011年、ちくま新書)、『国民皆保険が危ない』(2011年、平凡社新書)、『震災復興の先に待ちうけているもの』(2012年、洋泉社新書y)、『田中角栄の資源戦争』(2013年、草思社文庫)、『インフラの呪縛:公共事業はなぜ迷走するのか』(2014年、ちくま新書)、『後藤新平』(2014年、草思社文庫)、『長生きしても報われない社会:在宅医療・介護の真実』(2016年、ちくま新書)、『生きのびるマンション:〈二つの老い〉をこえて』(2019年、岩波新書)、『ゴッドドクター 徳田虎雄』(2020年1月刊行予定、小学館文庫)など

*3:著書『神風連とその時代』(2006年、洋泉社MC新書)、『なぜいま人類史か』(2007年、洋泉社MC新書)、『北一輝』(2007年、ちくま学芸文庫)、『日本近世の起源』(2008年、洋泉社MC新書)、『私のロシア文学』(2011年、文春学藝ライブラリー)、『維新の夢』(2011年、ちくま学芸文庫)、『神風連とその時代』(2011年、洋泉社新書y)、『ドストエフスキイの政治思想』(2012年、洋泉社新書y)、『私の世界文学案内』(2012年、ちくま学芸文庫)、『近代の呪い』(2013年、平凡社新書)、『無名の人生』(2014年、文春新書)、『幻影の明治:名もなき人びとの肖像』(2018年、平凡社ライブラリー)など

*4:2005年、平凡社ライブラリー

*5:後に『2019年、洋泉社新書y』として刊行

*6:プロレスラー

*7:極真空手創始者

*8:韓国大統領

*9:とはいえ「自称・護憲派」として、高世は三浦の最新刊『ドストエフスキー戦争論』を取り上げる気にはならなかったようです。何せ『改憲が正しい事がわかる』なんて三浦と類友が豪語するウヨ本ですからね(苦笑)。

*10:率直にいって三浦は「変な人間」ですが

*11:というか、俺がここに書いてる高世への悪口はそういうことですが。つうか心ある人間が「高世の周囲」にいて「この高世の三浦へのこびへつらい」を見たら高世に呆れるでしょうね。そういう「心ある人間」が今の高世の周囲にいるのか知りませんが。

*12:さすがに「三浦が理事を務めるつくる会」へのこびへつらいではないでしょう。

*13:健康に気をつける人間だって「健康より大事なモノは何一つない」なんてそもそも言ってないでしょうに。

*14:まあ過剰な治療や予防は「時間や健康をかえって損なう」でしょうが、そもそもそんなに過剰な治療や予防もないと思いますが。なお、「胃ろうや人工呼吸器を付けてまで生きるかどうか」というのは価値観の問題であり「過剰」と簡単に切って捨てられる話でもありません。

*15:著書『「がん」ほどつき合いやすい病気はない』(1995年、講談社プラスアルファ文庫)、『「治るがん」と「治らないがん」』(1998年、講談社プラスアルファ文庫)、『がんは切ればなおるのか』(1998年、新潮文庫)、『安心できるがん治療法』(1999年、講談社プラスアルファ文庫)、『患者よ、がんと闘うな』(2000年、文春文庫)、『成人病の真実』(2004年、文春文庫)、『がん放置療法のすすめ』(2012年、文春新書)、『がん治療で殺されない七つの秘訣』(2013年、文春新書)、『抗がん剤だけはやめなさい』(2013年、文春文庫)、『近藤先生、「がんは放置」で本当にいいんですか?』(2014年、光文社新書)、『これでもがん治療を続けますか』(2014年、文春新書)、『がん治療の95%は間違い』(2015年、幻冬舎新書)、『日本は世界一の「医療被曝」大国』(2015年、集英社新書)、『何度でも言う がんとは決して闘うな』(2015年、文春文庫)、『健康診断は受けてはいけない』(2017年、文春新書)、『医者が教える「がん」にならない30の習慣』(2019年、宝島社新書)など

*16:まあ各方面から批判がありますので近藤の主張は間違ってるのだろうと俺も思いますが。

*17:ことばを写す 鬼海弘雄対話集 - 平凡社によれば対談相手は高世が名前を挙げた道尾秀介(作家)以外では、山田太一(脚本家)、荒木経惟(写真家)、平田俊子(詩人、小説家、劇作家)、田口ランディ(小説家)、青木茂(建築家、首都大学東京教授)、堀江敏幸(小説家、早稲田大学教授。2001年、『熊の敷石』で芥川賞受賞)、池澤夏樹(小説家。1988年に『スティル・ライフ』で芥川賞を受賞)

*18:オフィス用品の商社で営業職として勤める傍ら、2004年、『背の眼』でホラーサスペンス大賞特別賞を受賞し小説家デビュー。2005年、商社を退職し専業作家になる。2007年、『シャドウ』で本格ミステリ大賞(小説部門)受賞。2009年、『カラスの親指』で日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)受賞。2010年、『龍神の雨』で大藪春彦賞を、『光媒の花』で山本周五郎賞を受賞。2011年、『月と蟹』で直木賞を受賞(ウィキペディア道尾秀介』参照)。

*19:勿論有力説は近畿と九州です。

*20:古い小説ですが、今でもたまに『松本清張の短編』は読みます。清張作品は量が多いので『読んでない小説』『読んで忘れた小説』が結構多い。なお、長編は読んでて疲れるのであまり読みません。

*21:池井戸はぶっちゃけ「ワンパターンな人情モノ、勧善懲悪モノ(バッドエンドはない)」ですが、それなりに楽しく読めます。

*22:2011年、新潮文庫

*23:自民党河野派領袖。吉田内閣北海道開発庁長官、日本自由党幹事長(鳩山一郎総裁時代)、自由党総務会長(吉田、緒方総裁時代)、自民党副総裁(岸、池田総裁時代)など歴任

*24:鳩山内閣農林相、岸内閣経済企画庁長官、自民党総務会長(岸総裁時代)、池田内閣農林相、建設相、副総理(五輪担当相兼務)、佐藤内閣副総理(五輪担当相兼務)など歴任。河野洋平自民党総裁の父。河野太郎・第四次安倍内閣防衛相の祖父

*25:岸内閣科学技術庁長官、佐藤内閣運輸相、防衛庁長官、田中内閣通産相自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行政管理庁長官などを経て首相

*26:2019年11月にヤクザからの引退を表明

*27:後に大日本平和会と改称。1997年に解散(ウィキペディア「大日本平和会」参照)

*28:第一次頂上作戦の対象とされ、厳しい追及を受けて1969年に解散を宣言。その結果、初代組長・柳川次郎(梁元錫)、二代目組長・谷川康太郎(康東華)は山口組から絶縁された。残された構成員は一会、章友会、藤原会、金田組に分割された(ウィキペディア「柳川組」参照)。

*29:後に国粋会に改名。当初は独立団体だったが現在は山口組の二次団体(ウィキペディア「国粋会」参照)。

*30:1900~1996年。1950年の参議院議員選挙福島県選挙区から立候補し、当選。参議院議員を1期務めた後、衆議院に鞍替えし、1958年の衆議院議員総選挙で旧福島3区から出馬して当選(自民党)。1964年に佐藤善一郎福島県知事が現職で急死したことを受け、その後任を選ぶ知事選挙に出馬し、初当選。以後、3期12年知事を務めた。1976年8月6日、東亜相互企業からの土地開発に絡む収賄罪容疑で福島地方検察庁に逮捕され、8月11日に知事を辞任。1979年1月、仙台高等裁判所で懲役1年6ヶ月、執行猶予5年の判決が確定した(ウィキペディア「木村守江」参照)。

*31:東条内閣海軍大臣軍令部総長など歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*32:海軍航空本部長、海軍次官連合艦隊司令長官など歴任

*33:戦前、田中内閣書記官長、犬養、斎藤内閣文相を歴任。戦後、日本自由党総裁、日本民主党総裁を経て首相

*34:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、日本民主党幹事長、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相

*35:民社党で政策審議会長

*36:岸の実弟。運輸次官から政界入り。自由党幹事長(吉田総裁時代)、吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、自民党総務会長(岸総裁時代)、池田内閣通産相科学技術庁長官などを経て首相

*37:大蔵次官から政界入り。自由党政調会長(吉田総裁時代)、吉田内閣蔵相、通産相、石橋内閣蔵相、岸内閣蔵相、通産相を経て首相

*38:吉田内閣行政管理庁長官、法相、防衛庁長官など歴任

*39:実業界から政界入り。自民党河本派領袖。佐藤内閣郵政相、三木、福田内閣通産相自民党政調会長(福田、大平総裁時代)、鈴木、中曽根内閣経済企画庁長官など歴任。

*40:1964年に日東商船と大同海運が合併して誕生した海運会社。1989年に山下新日本汽船に吸収合併されナビックスラインになり、ナビックスラインも1999年には大阪商船三井船舶と合併して商船三井になった。

*41:岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、佐藤内閣通産相自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)などを経て首相

*42:著書『壁を破って進め(上)(下):私記ロッキード事件』(講談社文庫)など