三浦小太郎に突っ込む(2020年5月23日分)

「北朝鮮利権の真相2 日朝交渉『敗因』の研究」(宝島社)読み返しています | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
 北朝鮮利権なる物は勿論一度も証明されたことがなく、『北朝鮮利権の真相』なる本は、単に「金丸訪朝の金丸*1・元自民党副総裁」「日朝国交正常化推進議員連盟会長だった山崎拓*2・元自民党幹事長」「朝鮮労働党と友好関係にあった昔の社会党」など、三浦らウヨが「北朝鮮シンパ」扱いした政治家や団体などに悪口雑言してるだけの駄本です。
 むしろ金丸氏、山崎氏のような御仁を敵視し、北朝鮮との間でまともな外交交渉が出来ないことが拉致問題などの解決を阻害し「日朝交渉の敗因」の原因のわけです。
 そして、あえて言えば巣くう会が税金にたかってる方が、よほど「アンチ北朝鮮利権」でしょう。

 ジャーナリストの野村旗守氏が「虚妄の補償『戦後賠償』利権」という、日朝国交回復がもし行われた場合についての利権構造やお金の動きについて、日韓国交回復を例にした中々興味深い分析が載っています。

 『ザ・在日特権』(2007年、宝島社文庫*3)などというデマ本の著者・野村*4はジャーナリストなどではなくただの極右活動家、極右デマゴーグですがそれはさておき。
 色々な意味で三浦や野村は言ってることが無茶苦茶ですね。
 まず第一に「日韓国交正常化」と「日朝国交正常化」は単純に同一視できないわけです。色々と違いがある。
 第二に「日韓国交正常化で政財官の利権あさりガー。だから日朝国交正常化でも(以下略)」という野村、三浦らウヨは『日韓国交正常化それ自体』を、そして日韓国交正常化を実行した佐藤栄作*5政権を否定するのか。日韓国交正常化に批判的だった当時の社会党共産党を支持するのか。
 あるいは国交正常化において利権をあさった一人である朴チョンヒを否定するのか、といったらおそらくそうではないでしょう。
 第三に日朝国交正常化賛成派でも「利権あさりまで肯定する人間」はいない。「利権をあさらない国交正常化」を目指せばいい訳です。
 というか、まだ交渉が具体的成果を生んだわけでもないのに「利権あさりガー」もないもんです。
 第四に「何をしようと利権をあさろうとする人間は出てくる」。
 三浦の理屈なら「利権をあさる人間が出る恐れがある」ということで「日朝国交正常化」どころか、ODA(途上国の経済支援)も公共事業(空港や鉄道、高速道路などの建設)も東京五輪もあらゆる事業が全否定できるでしょう。
 三浦らウヨが美化する「兵器の購入」だってもちろん利権あさりの対象となり得る。過去にもジーメンス事件で海軍幹部が逮捕されたり、山田洋行疑惑で防衛事務次官が逮捕されたりしているわけです。だからといって、「具体的な疑惑を元に武器購入に反対するならともかく」そんな抽象的な話で武器の購入を全否定する人間はハト派ですら普通いない。

ただ、ここでは同書に収録された荒木和博氏の文章を紹介します。
自民党は『社会党がいるから今は憲法改正はできない。しかし我が党が選挙で負ければ国の安全は危うくなる。やがては憲法も改正するつもりだから投票してほしい』と支持層に訴えた。」

 はっきり言って自民党主流はそんなことは訴えてないでしょう。自民党主流が訴えたこと、それはもっぱら「経済成長」です。
 わかりやすい例が「上越新幹線関越自動車道を選挙区・新潟に建設したこと」などで強固な後援会組織を築き、首相在任中には「日本列島改造論」をぶちあげた田中角栄*6です。
 改憲なんてことは岸*7、中曽根*8、安倍*9政権などウヨ政権以外ではほとんど政治日程にも上ってない。
 そして「日米安保自衛隊容認」であり社会党共産党とは立場が違うとはいえ、荒木や三浦のような極右路線を支持しない勢力として、三木武夫*10元首相、宮沢喜一*11元首相などの自民党リベラルがいたわけです。彼らは勿論改憲なんか自らの政治スローガンにしていない。

「『軍国主義』と言われてきた戦前でさえ、旧ソ連のスパイであるリヒャルト・ゾルゲ*12 は陸軍の中枢にまで人間関係を持ち、公然と情報収集*13を行っていた。しかしゾルゲが摘発されたのちも、軍内でスパイとして捕まった人間はいない。まさか憲兵隊にしても特高警察にしても、あの巨大な帝国陸海軍にスパイが一人もいないなどとは思っていなかっただろう。しかし、結局敗戦まで摘発できなかったのが現実で、それはやはり、見たくないものは存在しないことにしようということだったのではないか。」(「事なかれ主義という戦後日本の宿病」荒木和博)

 「はあ?」ですね。
 「ゾルゲ事件で陸軍から逮捕者が出なかった」のは
【1】
 某陸軍軍人について、ゾルゲと付き合いがあることは証明が出来ても、「ゾルゲがスパイと知って加担していたこと*14」はもちろん「(スパイとは知らなかったが)ゾルゲに渡してはならない機密情報を違法に渡した」という証明が出来なかったか(そもそも幸いなことにそんな人間はいなかった?)
【2】
 某陸軍軍人の中には「ここだけの話だから」などとして機密情報を違法に渡した人間もいたし、捜査当局も充分、犯罪容疑を立証出来ると思っていたが、「造船疑獄での指揮権発動」のような形の「陸軍の不当な政治的圧力」で捜査が潰されたか
【1】か【2】か、どちらかでしかありません。ゴーストップ事件のことなど考えれば【2】もあり得ない話ではありません(なお、処罰云々というなら『オットー駐日大使らがゾルゲと懇意だった』ドイツ側だって左遷ならまだしも、処罰はないでしょう)。
 小生もゾルゲ事件については無知ですので【1】、【2】どちらなのか知りませんが。どっちにしろそんなことと北朝鮮拉致問題と何の関係があるのか。そして荒木や三浦も【2】だと主張するなら何か根拠を出したらどうなのか。
 なお、【1】について少し説明しておけば、ゾルゲの『表向きの看板』は「ドイツの新聞『フランクフルター・ツァイトゥング』の記者」であり駐日ドイツ大使オットーもゾルゲを信用していたことは有名な話です。『フランクフルター・ツァイトゥング』はゾルゲが正体を隠蔽するためだけのダミー企業ではなく、今も存在するまともなドイツの新聞社ですし、当然、会社はゾルゲのやってるスパイ行為を知らない。
 この点は「朝日新聞社」というまともな新聞社のOBで、外交・政治評論家であり、ゾルゲのパートナーだった尾崎秀実*15も同じですが。
 尾崎もゾルゲも『有能なジャーナリストが、その才能を評価したソ連にスカウトされてスパイに転進した』のであって「スパイがジャーナリストを偽装しているのではない」ので、そのジャーナリズムを偽装したスパイ行為を見抜くのは至難の業でしょう。
 当然ながらそう言う人間と「陸軍関係者」がつきあいがあっても何ら不思議ではない。例えば今の日本で「NYタイムズワシントンポストなど言ったメジャーな米国メディアの記者(あるいはそういう記者から政治評論家に転じた人間)」で「駐日米国大使」とも懇意な人間が防衛官僚に取材に来たら普通に応対するでしょう。
 そんな人間を「ロシアのスパイ」とは普通思いません。ゾルゲや尾崎のケースも全く同じであり、「つきあいがあるだけ」では犯罪として摘発なんか出来ません。
 なお、ウィキペディア武藤章*16」によれば

 太平洋戦争開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條英機*17首相らと対立、またリヒャルト・ゾルゲにかねてから陸軍省軍務局長の名で全面的な情報提供を命じていたことから1942年(昭和17年)4月にゾルゲ事件の発覚等により軍務局長を更迭され、近衛師団長となる。

だそうです。
 また、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9f0245c45cfdc0b21de836f995cd39c
 例えば加藤哲郎*18の『ゾルゲ事件 覆された神話』(平凡社新書、2014)に次のような記述があります。(p21)

 事件の全貌も、解明されたとは言えなかった。一九三九年のノモンハン事件(ハルハ河戦争)の頃、日本軍内部にゾルゲと親しい軍エリートたちがいた。武藤章少将、馬奈木敬信*19大佐、山県有光*20少佐、西郷従吾*21少佐ら親独派将校は、(ボーガス注:表向きはドイツの新聞記者で駐日ドイツ大使オットーとも昵懇だった)ゾルゲに日本の軍事情報を流していた可能性が高いが、内務省に属する特高警察は、彼らを密かにリストアップできても、軍部にまで捜査を及ぼすことはできなかった(松崎昭一「ゾルゲと尾崎のはざま」、NHK取材班・下斗米伸夫*22『国際スパイ・ゾルゲの真実』角川書店、一九九二年)

イラク戦争からみたゾルゲ事件加藤哲郎
 ゾルゲは、陸軍軍務局長武藤章少将や馬奈木敬信大佐ら、ドイツと親しいけれども「皇道派」ではなくて「統制派」に属するような革新将校たちと非常に近い関係にあった。それなのに、なぜかゾルゲ事件では、軍関係者はほとんど取り調べを受けていません。

だそうです。
 もちろんそれが事実だとしても武藤らもゾルゲをソ連スパイと知って情報を流したわけではないでしょうが。また現時点では、武藤らとゾルゲの関係がよく分からないので思いつきで『武藤らがうかつに情報を与えたせいでノモンハン事件で敗北した』『武藤らが南進論だったのはゾルゲの影響』などと決めつける*23のは勿論不適切ですし、ましてや『武藤らもソ連スパイだった』などという陰謀論を放言するのは論外です(なお、例の『東条、武藤ら統制派を隠れ共産党呼ばわり』する近衛上奏文はもしかしたら『武藤とゾルゲの関係』が影響していたのかもしれません)。
 まあ確かに「武藤章ゾルゲ逮捕当時、陸軍省軍務局長という大物)」がゾルゲと親しかったならば、特高や検察も下手に陸軍への捜査などできなかったでしょう。
 三浦や荒木も「陸軍にはゾルゲの協力者がいたに違いない」とでかい口を叩くのなら「加藤哲郎氏のように武藤章の名前でも挙げてみろ」と言う話ですが「武藤がいわゆる昭和殉難者だから都合が悪いのでネグってる」のではなく多分そうした事実を知らないのでしょう。全くお粗末な連中です。

 ゾルゲの謀略は日本を米国との戦争に導き、やがては敗戦の奈落に突き落とすのである。(「事なかれ主義という戦後日本の宿病」荒木和博)

 そんな事実はどこにもありません。デマも大概にしてほしい。尾崎やゾルゲが日米開戦を煽ったなどという事実はありません。そもそも当時の日本社会(特に軍部)は『米国許すまじ』『米国など恐れるに足りず』という『米国への敵意』に燃えていたので今更、煽る必要もないのですが。
 まず第一に、日本が対米戦争に突入したのは『蒋介石政権打倒は諦めろ、日本軍は中国から撤退しろ』という米国の要望(いわゆるハルノート)を蹴ったからです。
 蒋介石政権打倒に固執したことが戦争を招いたのであり、それ以上でもそれ以下でもない(まあ、「仏印進駐問題」もありますがメインの問題は蒋介石打倒です)。
 しかも『ハルノート』で米国側が「蒋介石打倒は諦めろ」と通告したことを「こんな要求が呑めるか」「これで日米交渉も挫折した。これは天佑(天の恵み)だ。これで日米交渉派も交渉を諦めるだろう。やっと米国と戦争が出来る。俺たちにはドイツがついてる。米国など恐れるに足りず」と喜んでいたのが陸軍強硬派です。
 それで何が「ゾルゲがー、尾崎ガー」なのか。
 第二に尾崎、ゾルゲの最大の手柄とされるのは『日本の対ソ戦争はない』という情報をつかんでソ連に伝えたことです。これでスターリンは日本の攻撃を恐れることなく、ドイツ戦線に主要兵力をつぎ込みヒトラーに勝利することが出来た。
 つまり尾崎、ゾルゲの役目とはあくまでも「機密情報を探り出す情報スパイ」であって、「日本政府要人に働きかけて政策を自分らの都合の良いようにする政治工作」ではない。そもそもそんな政治工作はそう簡単にできるもんではないし、下手にやると「ジャーナリズム活動に偽装しやすい情報スパイ」と違い、スパイであることがばれかねないのでソ連側もそんな政治工作は命令などしていなかったというのが事実です。
 むしろ「ゾルゲや尾崎の工作で対米戦争になった」とデマを飛ばす荒木や三浦こそが

見たくないものは存在しないことにしようということだったのではないか

でしょう。
 あるいは

 見たくないものは存在しないことにしようということだったのではないか

とは「安倍が習主席訪日を招待してもろくに安倍批判しない荒木や三浦」「国内で多数発見されたことで特定失踪者が明らかにデマであることが露呈されてもそれを認めない荒木や三浦」「家族会から除名することで蓮池透氏の巣くう会批判をなかったことにしようとする荒木や三浦」の態度ではないのか。
 というか、「尾崎やゾルゲのせいで対米戦争ガー(荒木や三浦の主張)」と「あの戦争はアジア解放の聖戦。あの戦争のおかげで東南アジア(インドネシア、マレーシア、ミャンマーなど)は独立できた(これもまた、荒木や三浦の主張)」は明らかに矛盾します(もちろん『とにかく日本が悪くないと言えれば理由はどうでもいい』というデタラメが荒木や三浦だからこうなるわけですが)。
 「尾崎やゾルゲのせいで対米戦争ガー」と「あの戦争はアジア解放の聖戦。あの戦争のおかげで東南アジアは独立できた」を両立させるとしたら「尾崎やゾルゲのおかげで東南アジアは独立できた。尾崎やゾルゲは東南アジア諸国の恩人だ」でしょうが、恐らく誰かがそう言ったら三浦や荒木はマジギレでしょう。

「その意味では、日本は戦前も戦後も変わっておらず、あれだけの犠牲を出した戦争の教訓を全く生かしていないのだ」(「事なかれ主義という戦後日本の宿病」荒木和博)

 「大本営発表で事実を無視し、戦争の教訓を生かしてない」というなら、2002年の小泉訪朝後、18年が経っても「北朝鮮は追い詰められてる。経済制裁しか拉致解決の道はない」とデマ飛ばして恥じない荒木や三浦ら救う会右翼こそがそれに該当するでしょう。
 「現実を無視し無謀な戦争をして大敗した戦前日本」と同レベルの行為「北朝鮮は追い詰められてる。経済制裁しか拉致解決の道はない」を現在進行形で北朝鮮相手にやってるバカ・荒木や三浦ら巣くう会右翼がよくもこんなふざけたことがいえたもんです。

【参考:武藤章

【昭和天皇の87年】大混乱の参謀本部 現地の停戦協定はご破算となった - 産経ニュース
 昭和12年7月7日に盧溝橋事件が起きたとき、参謀本部を主導していたのは作戦部長の石原莞爾*24である。一報を受けた石原は、作戦課員に訓示した。
 「支那と戦端を開くときは長期持久に陥り、日本は泥沼に足を突っこんだ如く身動きができなくなる。戦争は避けなければならぬ」
 石原はまた、「今日の支那は昔の支那ではない。(中略)挙国一致の強い力を発揮することができる」ともみていた。
 だが、こうした考えは陸軍では少数派だ。多くは中国など一撃を加えれば屈服すると思い込み、拡大論に傾いた。その筆頭が、石原の直属の部下の作戦課長、武藤章である。石原の訓示を渋面で聞いていた武藤は、石原が部屋から出て行くと電話に飛びつき、拡大派の仲間を呼び出して言った。
 「面白くなったね。ウン、大へん面白い。大いにやらにゃいかん」
 石原に従う少数の不拡大派将校は11日早朝、外務省東亜局に連絡し、内々に申し入れた(※1)。
 「今日の閣議陸相が3個師団動員案を提起する。そいつを外相の反対で葬ってほしい」
 混乱の極致である。
 東亜局長の石射猪太郎*25はあきれつつ、外相の広田弘毅*26に「動員案を食い止めていただきたい、中国側を刺激することは絶対禁物です」と進言した。
 ところが、広田は閣議であっさり了承してしまう。陸相が「今すぐの派兵ではなく万一の時に対する備えである」と説明したのを鵜呑(うの)みにしたからだ。首相時代、さんざん陸軍に煮え湯を飲まされてきた広田は、すっかり無気力になっていた。
 11日、近衛文麿内閣は内地の3個師団動員を含む派兵方針を表明する(※2)。果して中国側の態度は硬化した。
 近衛内閣と陸軍は、武力行使の姿勢を示せば中国は引くはずだと楽観していたが、まるで逆効果だったのだ。
 このときの近衛について、派兵に断固反対だった外務省東亜局長の石射猪太郎がこう振り返る。
 「事件がある毎に、政府はいつも後手にまわり、軍部に引き摺(ず)られるのが今までの例だ。いっそ政府自身先手に出る方が、かえって軍をたじろがせ、事件解決上効果的だという首相側近の考えから、まず大風呂敷を広げて気勢を示したのだといわれた。冗談じゃない。野獣に生肉を投じたのだ」
(※1)
 石原莞爾参謀本部首脳会議で動員案に同意しながら、11日早朝、首相の近衛文麿に「閣議で否決してください」と頼み、近衛を驚かせたという。しかし近衛は閣議でほとんど発言しなかった。

靖国神社に祀られるA級戦犯:武藤章
 1936年に中国へ赴任し、関東軍参謀部第二課課長となった。
 1937年に起きた「八・一三事変(第二次上海事変)」後、日本軍は上海へ進攻したが、中国軍の激しい抵抗を受け、速戦即決の目標は達成されなかった。武藤章は軍隊を派遣し、杭州湾へ上陸することを提案した。彼の意見は採用され、日本軍の上海占領計画は達せられた。献策の功により、彼は中支方面軍参謀副長に任命される。武藤章は新職務就任後、直ちに南京へ進攻することを提案した。1937年12月1日、日本大本営は彼の意見を聞き入れ、南京進攻の命令を下す。
 1937年12月13日、日本軍が南京を占領し、続いて30万人の中国同胞が殺害されるという大惨事が起きた。武藤章はこの惨事を招いた元凶の一人である。
 当時、武藤章は中支方面軍参謀副長の肩書きで、南京地区における日本軍の宿営地手配を担当していた。武藤章は、南京城外に宿営地が不足しているので、日本軍将兵は南京市内で自由に宿営地を選べると発言。この発言をきっかけとして、まるで野獣のオリを開けたかのように、日本軍は南京城内のあらゆる路地へ入り込み、男性を見れば殺し、女性を見れば強姦し、財を見れば略奪し、全世界を震撼させる南京大虐殺事件*27を引き起こした*28
 1942年、武藤章は中将へ昇進し、近衛師団長となって、軍を率いてフィリピンへ侵入する。1944年、第14方面軍参謀長に就任。この間、彼は現地住民を虐殺し、「マニラ虐殺事件*29」を起こす。
 1948年11月4日、極東国際軍事裁判武藤章A級戦犯と判定し、絞首刑を宣告する。同年12月23日、武藤章は東京巣鴨プリズンで絞首刑に処せられる。


なぜ「東海道」四谷怪談なのか? | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
 我々『四谷』と言うと今連想するのは『山手線の四ツ谷駅(新宿区四谷)』ですね。駅の近くに上智大学キャンパスがあります。
 ただ「四谷怪談」の四谷とは、四谷怪談 - Wikipediaによれば、その四谷ではなく『雑司ヶ谷四谷町(現・豊島区雑司が谷)』になります。

 6月に上映予定の「東海道四谷怪談」についてですが、(ボーガス注:三浦の)FBF*30の幡さんから「四ツ谷なのに何で『東海道』というのでしょうか?」というごもっともな質問をいただきました。以下、最も説得力のある説を紹介しておきます。

 のっけから意味不明ですね。鶴屋南北東海道四谷怪談の作者)に詳しいわけでもない三浦に何でそんなことを聞くのかがまず意味不明です。
 第二に「鶴屋南北に詳しいわけでもない三浦」が何を根拠に「最も説得力のある説を紹介しておきます」と自信満々に言えるのかも意味不明です。
 そもそも三浦が紹介する山本吉之助なる人物の「最も説得力のある説」とやらは山本の「根拠薄弱な思いつきが書いてるだけ」で「鶴屋南北東海道四谷怪談命名した理由についてこう書き残しています」などの具体的な説得力ある根拠は何一つ提示されてない。
 三浦が何を根拠に「最も説得力のある説」と評価したのかさっぱり分かりません。
 また、山本自身、

歌舞伎への招待 | 山本 吉之助 | KUポートスクエア
山本吉之助
歌舞伎評論家
 1957年兵庫県神戸市生まれ。観劇歴四十数年。会社勤めの傍ら、伝統芸能、主として歌舞伎の研究・評論活動に従事し、歌舞伎講座を長年主催してきた。

などという人物、つまり「自称・歌舞伎評論家」にすぎず、専門家と評価できるような人間ではない。会社勤めの傍ら、歌舞伎云々なんて専門家とは言いがたいでしょう。
 山本著書の版元も『十八代目中村勘三郎*31の芸』(2013年、アルファベータブックス)、『女形の美学 たおやめぶりの戦略』(2015年、アルファベータブックス)などというマイナー出版社です。
 単に「山本が三浦の知人」とかその程度のくだらない話で三浦が山本を持ち上げてるにすぎないでしょう。

 「忠臣蔵」との関連性を全面に押し出した映画作品は、これは好き嫌いがはっきり分かれますが「忠臣蔵外伝 四谷怪談」(1994年)です。高岡早紀のヌードシーンばかりが話題になった*32ような(?)気がしないこともないのですが、これはこれで私にはとても面白かった作品でした。
 本来武家の娘のはずのお岩が最初から娼婦だったり(しかも高岡早紀のセリフほとんど全部現代語)、(ボーガス注:伊右衛門に殺害された後に)伊右衛門に復讐するより赤穂浪士の討ち入りを助けるために(ボーガス注:幽霊としての)妖力を使ったり、もうストーリーは相当いじられまくってます。佐藤浩市をはじめ、渡辺えり*33を筆頭に役者もみんな「危ない人間」ばかりで、忠臣蔵とか怪談とかいう以前に、出てくる人間が幽霊よりよっぽど怖い性格ばかり。
 心中直前、大石内蔵助にお金を貸してくれと尋ねてきた同志に対し、内蔵助が「遊びの金ならば貸してやれるが、暮らしのためならば貸せん、暮らしのための借金は心を貧しくするからな」と断り、その同志は「そうですね、最初から遊びの金と言えばよかったのですね」と静かに笑って立ち去り、遊女と心中した、というエピソードが内蔵助自身によって語られるシーンがありました。あれはなぜか印象に強く残っています。
 まあ「カルト名作」というべきものかもしれませんが、興味のある方はレンタルしてみてください。

・おそらく単なる偶然にすぎませんが、松竹が『忠臣蔵外伝 四谷怪談』を公開した1994年には、東宝が同じく忠臣蔵物『四十七人の刺客』を映画化しています。そして『四十七人の刺客』で上杉家*34重臣・色部又四郎を演じた中井貴一*35日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しています。
 中井(色部又四郎)以外のキャストは

大石内蔵助高倉健*36
浅野内匠頭橋爪淳
吉良上野介西村晃

などとなっています。また『四十七人の刺客』では「浅野が吉良に切りつけた理由は不明」とされています。
 まあ、松竹『忠臣蔵外伝 四谷怪談』の場合は「外伝」「四谷怪談」であり「忠臣蔵物」とは言いがたいですが。
・また、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1994年公開)の監督・深作欣二は『赤穂城断絶』(1978年、東映)というオーソドックスな忠臣蔵映画も作っています。
 『赤穂城断絶』は 

大石内蔵助萬屋錦之介
浅野内匠頭西郷輝彦
吉良上野介金子信雄*37

などというキャストになっています。
・ちなみにウィキペディア忠臣蔵外伝 四谷怪談」によれば、三浦が名前を挙げた人間について

民谷伊右衛門佐藤浩市*38
  この映画では赤穂浪士の一員という設定(もちろん、鶴屋南北四谷怪談において『忠臣蔵』と関係があるのは『伊藤家が吉良家の家臣』と言う点だけで、伊右衛門は赤穂家の家臣ではありません)。
◆お岩:高岡早紀*39
  伊右衛門の妻
◆お槇:渡辺えり子*40
  伊右衛門が婿入りを狙う伊藤家(吉良家家臣)の娘・梅(荻野目慶子*41)のお付き女中
大石内蔵助津川雅彦*42
横川勘平火野正平*43
  三浦の言う「遊女と心中する赤穂浪士
◆お可留:菊池麻衣子
  横川勘平の心中相手

という配役です。
 ちなみに三浦の言う「危ない人間」云々については

映画「忠臣蔵外伝 四谷怪談」(1994年)の観賞備忘録(感想とあらすじと情報を添えて) | シネマテーク
 この映画をホラー映画として捉えていいのか判断が難しいが、ホラー映画特有の怖さよりも、俳優の演技が怖いという別の側面がある映画である。
 お梅を演じた荻野目慶子と(ボーガス注:お梅の祖父)伊藤喜兵衛を演じた石橋蓮司、お付き女中のお槇を演じた渡辺えり子の3人が不気味なことこの上ない。
 この3人がそれこそアダムス・ファミリーのような感じである。
 石橋蓮司は存在が不気味。
 渡辺えり子は、存在が不気味なうえに、ニターって笑うシーンなどは、ゾゾっとするほど気色悪い。
 この二人をはるかに凌駕したのが、荻野目慶子。
 キレた演技という生易しい言葉では済まされない。目つきのヤバさ、表情の気色悪さ、行動の不可解さ。すべてが常軌を逸しており、そのことが怖かった。

https://blog.goo.ne.jp/takashi2596/e/06dbc626c223b15b5ce26e4f27047494
 異彩を放っていたのが、吉良方、伊藤喜兵衛(石橋蓮司)の孫娘・お梅を演じた荻野目慶子です。
 “子供の頃の病により言葉を失った”という設定なので、セリフが一言もなく、発するのは笑い声と叫び声だけという、狂気さえ感じる“怪演”でした。
 おそらく、この作品以前の自分のイメージを、良い意味で“ぶち壊した”演技だったのではないでしょうか。

を紹介しておきます。

*1:田中内閣建設相、三木内閣国土庁長官福田内閣防衛庁長官自民党国対委員長(大平総裁時代)、総務会長、幹事長(中曽根総裁時代)、中曽根内閣副総理、自民党副総裁(宮沢総裁時代)など歴任(ウィキペディア金丸信』参照)

*2:宇野内閣防衛庁長官、宮沢内閣建設相、自民党国対委員長(河野総裁時代)、政調会長(橋本総裁時代)、幹事長、副総裁(小泉総裁時代)、小泉内閣首相補佐官など歴任(ウィキペディア山崎拓』参照)

*3:コメ欄でも指摘がありますが『ザ・在日特権』、『北朝鮮利権の真相』など極右デマ本、ヘイト本の版元と化したのが今の宝島社です。

*4:著書『北朝鮮送金疑惑:解明・日朝秘密資金ルート』(2002年、文春文庫)など

*5:運輸次官から政界入り。吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、自民党総務会長(岸総裁時代)、池田内閣通産相科学技術庁長官などを経て首相

*6:岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、佐藤内閣通産相自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)などを経て首相

*7:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、日本民主党幹事長、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相

*8:岸内閣科学技術庁長官、佐藤内閣防衛庁長官、運輸相、田中内閣通産相自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行政管理庁長官などを経て首相

*9:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官を経て首相

*10:国民協同党書記長、委員長、片山内閣逓信相、改進党幹事長(重光総裁時代)、鳩山内閣運輸相、自民党幹事長(石橋総裁時代)、岸内閣科学技術庁長官(経済企画庁長官兼務)、池田内閣経済企画庁長官、自民党政調会長、幹事長(池田総裁時代)、佐藤内閣通産相、外相、田中内閣副総理・環境庁長官などを経て首相

*11:池田内閣経済企画庁長官、佐藤内閣通産相、三木内閣外相、福田内閣経済企画庁長官、鈴木内閣官房長官、中曽根、竹下内閣蔵相などを経て首相首相退任後も小渕、森内閣で蔵相

*12:著書『二つの危機と政治:1930年代の日本と20年代のドイツ』(1994年、御茶の水書房)、『ゾルゲ事件 獄中手記』(2003年、岩波現代文庫)、『ゾルゲの見た日本』(2003年、みすず書房

*13:お断りしておけば、ゾルゲがスパイだろうが『公開を禁止されてる機密情報』でない限り情報収集それ自体は違法ではありません。情報収集それ自体が違法ならジャーナリズム活動なんか出来ません。

*14:まあ、それは普通に考えてあり得ないでしょうね

*15:著書『愛情はふる星のごとく』、『ゾルゲ事件上申書』(以上、2003年、岩波現代文庫)、『尾崎秀実時評集・日中戦争期の東アジア』(2004年、平凡社東洋文庫

*16:参謀本部作戦課長、中支那方面軍参謀副長、北支那方面軍参謀副長、陸軍省軍務局長(調査部長兼務)、近衛師団長、第14方面軍(フィリピン)参謀長など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。武藤たち関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、石原莞爾が中央の統制に服するよう説得に来た際に、「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論して、石原を絶句させたという。また盧溝橋事件勃発の際、参謀本部作戦課長であった武藤(拡大派)は、上司(参謀本部作戦部長)である石原莞爾が「いわゆる不拡大派」であることを知りながら、軍事課長の田中新一(拡大派)に電話をかけ、「田中か、面白くなったね、大変面白い、大いにやらにゃいかん。しっかりやろう」と大声で話していたという。石原莞爾に対する態度のように誰に対しても遠慮無しに毒舌を吐くなど、傲岸不遜な性格であったため人気が低く、部下から「武藤ではなく無徳」といわれていたという(ウィキペディア武藤章』参照)

*17:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相(一時は陸軍大臣参謀総長も兼務)など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀(ウィキペディア東條英機』参照)

*18:一橋大学名誉教授。著書『国家論のルネサンス』(1986年、青木書店)、『ジャパメリカの時代に:現代日本の社会と国家』(1988年、花伝社)、『東欧革命と社会主義』(1990年、花伝社)、『コミンテルンの世界像:世界政党の政治学的研究』(1991年、青木書店)、『ソ連崩壊と社会主義』(1992年、花伝社)、『モスクワで粛清された日本人:30年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』(1994年、青木書店)、『現代日本のリズムとストレス:エルゴロジー政治学序説』(1996年、花伝社)、『20世紀を超えて:再審される社会主義』(2001年、花伝社)、『国境を越えるユートピア国民国家のエルゴロジー』(2002年、平凡社ライブラリー)、『象徴天皇制の起源:アメリカの心理戦「日本計画」』(2005年、平凡社新書)、『情報戦の時代:インターネットと劇場政治』(2007年、花伝社)、『ワイマール期ベルリンの日本人:洋行知識人の反帝ネットワーク』(2008年、岩波書店)、『日本の社会主義:原爆反対・原発推進の論理』(2013年、岩波現代全書)、『731部隊と戦後日本』(2018年、花伝社)など

*19:第25軍(マレーシア)参謀副長(軍政部長兼務)、ボルネオ守備軍参謀長、第2師団長など歴任(ウィキペディア『馬奈木敬信』参照)

*20:侍従武官、第6航空軍第21飛行団長など歴任。陸軍卿、内務大臣、司法大臣、首相、枢密院議長などを歴任した元老・山県有朋の孫。 徳島県知事、三重県知事、内務次官、第1次西園寺内閣逓信大臣などを務めた山県伊三郎は義父(ウィキペディア『山県有光』参照)。

*21:支那方面軍参謀、大本営参謀、南方軍参謀、ビルマ方面軍参謀、第23軍参謀、第20軍高級参謀など歴任。海軍大臣、内務大臣などを歴任した元老・西郷従道西郷隆盛の弟)の孫(ウィキペディア『西郷従吾』参照)。

*22:法政大学名誉教授。著書『ソビエト政治と労働組合:ネップ期政治史序説』(1982年、東京大学出版会)、『ゴルバチョフの時代』(1988年、岩波新書)、『スターリンと都市モスクワ 1931‐34年』(1994年、岩波書店)、『アジア冷戦史』(2004年、中公新書)、『モスクワと金日成:冷戦の中の北朝鮮1945-1961年』(2006年、岩波書店)、『プーチンはアジアをめざす:激変する国際政治』(2014年、NHK出版新書)、『ソビエト連邦史:1917ー1991』(2017年、講談社学術文庫)、『神と革命:ロシア革命の知られざる真実』(2017年、筑摩選書)など

*23:その可能性は現時点では「否定できない」でしょうが、一方で肯定する証拠もないでしょう。

*24:関東軍作戦主任参謀として満州事変に関与。関東軍作戦課長、参謀本部作戦課長、参謀本部第1部長、関東軍参謀副長、舞鶴要塞司令官など歴任

*25:上海総領事、駐タイ大使、外務省東亜局長、駐オランダ公使、駐ブラジル大使、駐ビルマ大使など歴任。著書『外交官の一生』(中公文庫)

*26:斎藤、岡田内閣外相、首相、第一次近衛内閣外相など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*27:この事件では松井石根・中支那方面軍司令官、谷寿夫・第6師団長(役職はいずれも事件当時)が死刑となっている。

*28:武藤が陸軍省軍務局長時代に太平洋戦争が開戦されたことに触れていないのが興味深い。

*29:この事件では現地司令官である山下奉文・第14方面軍司令官(事件当時)が死刑となっている。

*30:Facebook Friend(フェイスブックの友人)の略

*31:1955~2012年。歌舞伎役者だが、NHK大河ドラマ『新・平家物語』(1972年、平敦盛役)、『元禄太平記』(1975年、大石主税役)、『武田信玄』(1988年、今川義元役)、『元禄繚乱』(1999年、主役・大石内蔵助役)、『武蔵』(2003年、池田輝政役)などテレビドラマでも活躍(ウィキペディア中村勘三郎(18代目)』参照)

*32:この作品において高岡は主演女優ですし、この種の娯楽作品ではヌードが前面に宣伝されることは良くあることなのである意味当然のことではあります。

*33:忠臣蔵外伝 四谷怪談」(1994年)当時の芸名は「渡辺えり子(本名でもある)」だが、後に「渡辺えり」に改名している。

*34:吉良上野介(『四十七人の刺客』では西村晃)の息子が、上杉家に養子に行き藩主になっていたため、上杉家が吉良サイドとして登場してきます。

*35:1961年生まれ。1994年、『四十七人の刺客』で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を、2003年、『壬生義士伝』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。俳優・佐田啓二の息子。女優・中井貴恵の弟。(ウィキペディア中井貴一』参照)

*36:1931~2014年。1963年に『人生劇場 飛車角』で高倉は準主役に抜擢された。これ以降、仁侠映画を中心に活躍。1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演し東映の看板スターとなる。しかし、1973年には『仁義なき戦い』がヒットすると、東映の岡田社長は「高倉健任侠映画はしばらく止める」と実録ヤクザ路線に変更したため、高倉と東映の関係は悪化。高倉は1976年に東映を退社する。フリー転向後、1977年に『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』の2作品に主演し、第1回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞と、第20回ブルーリボン賞主演男優賞のダブル受賞に輝いた。これによって長年のヤクザ俳優イメージからも脱却する。その後も映画『動乱』、『遙かなる山の呼び声』(1980年)、 『駅 STATION』(1981年)、『鉄道員(ぽっぽや)』(1999年)で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。また、1998年に紫綬褒章、2006年に文化功労者、2013年には文化勲章を受章(ウィキペディア高倉健』参照)。

*37:1923~1995年。俳優業以外でも料理研究をライフワークとしており、1987年(昭和62年)から、朝日放送ABCテレビ)で自ら考案した料理を披露する番組『金子信雄の楽しい夕食』を放送。これをまとめた書籍『金子信雄の楽しい夕食』(1991年、文春文庫)、『続・金子信雄の楽しい夕食』(1994年、文春文庫)も出版されている(ウィキペディア金子信雄』参照)。

*38:1960年生まれ。1994年、映画 『忠臣蔵外伝 四谷怪談』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。俳優・三國連太郎の息子(ウィキペディア佐藤浩市』参照)。

*39:1972年生まれ。1994年、映画 『忠臣蔵外伝 四谷怪談』に出演し、ヌードを披露し話題となった。この作品では日本アカデミー賞最優秀主演女優賞、ブルーリボン賞・主演女優賞を受賞。翌年1995年に、篠山紀信撮影のヘアヌード写真集 『one, two, three』を出版。映画、写真集と相次いでヌードを公開した(ウィキペディア高岡早紀』参照)。

*40:1955年生まれ。女優、劇作家、演出家。1978年、もたいまさこらと「劇団2○○」(げきだんにじゅうまる)を結成。1980年に「劇団3○○」(げきだんさんじゅうまる)と改名。1983年、『ゲゲゲのげ』で岸田國士戯曲賞受賞。1987年、『瞼の女:まだ見ぬ海からの手紙』で紀伊國屋演劇賞受賞。1997年、「劇団3○○」解散後、2001年に「宇宙堂」を結成(ウィキペディア渡辺えり』参照)。

*41:なお、ウィキペディア「荻野目慶子」によれば、荻野目は、当時、深作欣二と不倫関係にありました。彼女は深作作品では『いつかギラギラする日』(1992年)、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1994年)に出演しており、これらへの出演が不倫のきっかけのようです。

*42:1940~2018年。1982年、映画『マノン』でブルーリボン賞最優秀助演男優賞を、1988年、映画『マルサの女』、『夜汽車』で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。2006年に紫綬褒章を、2014年に旭日小綬章を受章。父は俳優・澤村国太郎、兄は俳優・長門裕之ウィキペディア津川雅彦』参照)。

*43:1949年生まれ。1962年にフジテレビ『少年探偵団』でデビュー。NHK大河ドラマ太閤記』(1965年)で豊臣秀吉を演じた緒形拳がブレイクしたことで、「第二の緒形拳」を作るべくNHKの指示で芸名を「二瓶康一(本名でもある)」から改名。作家・池波正太郎が名付け親となり、「火野正平」として1973年に大河ドラマ国盗り物語』(主演は斎藤道三役の平幹二朗)に羽柴秀吉役で出演、当たり役となり人気を集めた。1974年に舛田利雄監督映画『俺の血は他人の血』で映画初主演を果たした。また1974年、日本テレビで放送された『傷だらけの天使』では水谷豊が演じた乾亨役でほぼ出演が決まっていたが、スケジュールの都合で出演できなかったという(ウィキペディア火野正平』参照)。