三浦小太郎に突っ込む(2020年5月31日分)(追記あり)

6月1日発売の「正論」7月号に寄稿しました。後、同号掲載の早坂隆氏「樋口委一郎の遺訓と改憲論」はぜひおすすめ | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
 三浦は「樋口委一郎」と書いていますが本当は「樋口季一郎*1」が正しいです。ただし三浦の文章の引用は全て「樋口委一郎」で引用します(2020年6月2日追記:その後、『樋口季一郎』に訂正されました)。
 なお、早坂隆は

『指揮官の決断:満州とアッツの将軍・樋口季一郎』(2010年、文春新書)
松井石根*2南京事件の真実』(2011年、文春新書)
『戦場の名言集 いま胸を打つ遺言』(2015年、中公新書ラクレ)
永田鉄山*3:昭和陸軍「運命の男」』(2015年、文春新書)
『世界の路地裏を歩いて見つけた「憧れのニッポン」』(2018年、PHP新書)
『ペリリュー玉砕:南洋のサムライ・中川州男*4の戦い』(2019年、文春新書)

などの著書があるウヨライターです。
 早坂のツイートも

早坂隆
◆いまだ油断は禁物だが、日本の新型コロナウイルス対策が世界の中でも特筆すべき成功を収めていることは感染者数や死者数*5を見れば明らか。
◆私は18歳まで愛知県で育ちました。そんな大切な故郷の県知事が「昭和天皇御真影*6を燃やすことを芸術として認める*7」ような「たわけもの」(愛知では愚か者のことをこう呼びます)である現実を哀しく思っています*8
南京事件731部隊慰安婦などに関する研究には、残念ながら多くの間違いや捏造が混在しているのが現状です。新たな事実の発掘によって史実を探求しようとすると「歴史修正主義*9」とのレッテルを貼って非難してくる層が存在します。そういった人々が歴史学の深化を妨げているのです*10
◆国際社会では、新型コロナウイルス発生源である中国がアメリカに責任転嫁しようと懸命になっている*11
◆芸能人が政権批判するのはもちろん自由*12だが、それならば中国への抗議の声もしっかりと上げていただきたい*13

など「何、この安倍信者歴史修正主義の残念なウヨライター(呆)」つう代物にあふれています。まあ俺は今後、早坂の本を読むことはないでしょう。
 さすが「安倍信者」の「つくる会理事」三浦小太郎が高評価するだけのことはあります。

 ユダヤ難民救出、キスカ島からの撤退作戦の成功、ソ連の侵略を占守島で撃退した戦果など、傑出した軍人でもあった樋口委一郎

 三浦や早坂が挙げた功績の内「ユダヤ難民救出」については資料がほとんどないため実際の所はよく分かりません。
 三浦、早坂らウヨはやたら大げさに騒ぎ立てますが

樋口季一郎 - Wikipedia
 「樋口ルート」で救われたユダヤ人の数は、総数は最大で2~3万人であった可能性があると以前は主張されていたが、研究が進みほとんどの研究者・ジャーナリストがその説を信じていない。この2万人という数字は、樋口の回顧録を出版する際の誤植*14から流布したものと考えられている。樋口自身の原稿では「彼ら(ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトポールに詰めかけ、入満を希望した」と書き記されていたものが、芙蓉書房版の『アッツキスカ軍司令官の回想録』(1971年)にある数字ではなぜか「二万人」に変わっており、これが難民の実数検証に混乱をきたす原因になっている。
 1939年当時の有田八郎*15外務大臣の公式見解では「80人強」とされている。渡辺勝正『真相・杉原ビザ』(2000年、大正出版)によれば、松浦寛*16は、当時の浜州線満州里 – ハルビン)の車両編成や乗務員の証言から100-200人という推計を示している。早坂隆は『指揮官の決断:満州とアッツの将軍・樋口季一郎』(2010年、文春新書)で数千人と推定している。

などという怪しい代物が「樋口のユダヤ難民救出」です。
 三浦らウヨは樋口ルートの難民数を「2~3万人」や「数千人(早坂隆)」と叫び、一方、研究者は「最大に見積もっても200人程度(松浦寛)」なんて話ではおよそまともに議論なんか出来ません。
 まともな資料があり、業績をまともに評価できる「杉原千畝の業績」などとはおよそ比較になりません(ボーガス注:これについてはこの拙記事の下の方にある【追記】もご覧下さい)。

 樋口はソ連の侵略から祖国を護った軍人たちが、シベリアに抑留されたことに激しく抗議し、これを「虐殺」と非難しています。

 これから拙記事で紹介する「樋口の言葉」とやらは、三浦に寄れば、早坂隆の正論7月号記事『樋口季一郎の遺訓と改憲論』で紹介された『樋口の遺訓』だそうです。
 苛酷な強制労働で多数の人間を死なせたとは言えアウシュビッツ強制収容所とは違い、「殺すことを目的に抑留したわけではない」ので「虐殺」呼ばわりは言い過ぎと思いますが、まあ、非難自体は正当でしょう。
 とはいえ、「ソ連のシベリア抑留を非難しない人間がどこにいるのか」と言う話です。ましてや樋口のような

・元軍人
・三浦の紹介を信じれば「蒋介石が日本に敵対するから日中戦争になった、日本は悪くない」と居直るようなウヨ

が「ソ連のシベリア抑留」を批判するのは「当たり前」すぎて三浦のように大げさに評価することではないでしょう。

 また、孫文三民主義*17をもし本当に蒋介石らが引き継いでいたなら、満州建国の「五族協和」の意義についてもっと理解できたはずと説き

 おいおいですね。「満州国五族協和」なんて嘘じゃないですか。こんなことは紹介しても今では「樋口って非常識なウヨだったんだな」としか評価されないのですが、「非常識ウヨ」の三浦と早坂にはそれがわからないようです(苦笑)。三浦と早坂もこの「樋口意見」と同意見で蒋介石を不当に敵視しているのか。
 それはともかく、三浦らウヨ連中もよく分かりませんね。この三浦の文章では、三浦らウヨは孫文を「高く評価している」ようです。
 しかし一方では『国民党が中国に融和姿勢をとり、一方、日本ウヨが民進党に接近する』昨今では、国民党創設者・孫文について

【新聞に喝!】「族」の表現は侵略者の視点 元東大史料編纂所教授・酒井信彦 - 産経ニュース
 中国は「中華民族」として単一民族国家であると主張しているわけであり、その目的は、チベット人ウイグル人らに、分離独立をさせないようにするためだ。この中華民族主義は、習近平国家主席が目標に掲げた「中華民族の偉大な復興」にも表れているが、共産党が創造したものではなく、古くは孫文が提唱していた。

産経新聞の優れた辛亥革命論 - 酒井信彦の日本ナショナリズム
 孫文の民族に関する思想、すなわち民族主義の理論は、その後更に凶悪に発展する。それが「中華民族主義」、私が「シナ侵略主義」と呼ぶものである。辛亥革命から約十年後、孫文は満・蒙・回・蔵の四民族は、漢族すなわちシナ人に同化して、一つの中華民族になるべきだと言い出す。したがってシナ人以外の四民族の存在価値はなくなり、滅び行くもの、消えゆくべきものと定義される。

第九回講演会報告と動画「中華人民共和国は侵略国家として成立した」講師 酒井信彦 | 一般社団法人 アジア自由民主連帯協議会(文責:三浦小太郎)
 アジア自由民主連帯協議会主催の講演会「中華人民共和国は侵略国家として成立した」 講師 酒井信彦*18(アジア自由民主連帯協議会顧問)が開催されました。
 中華人民共和国のこの様な侵略姿勢は決して共産主義によるものではなく、辛亥革命孫文にはじまるものだと酒井氏は指摘し、孫文民族主義思想の変遷がそれを示しており、孫文の思想は「駆除韃虜」⇒「五族共和」⇒「中華民族」の三段階にわたって変化したと指摘しました。
 1924年の有名な著作(講演録)「三民主義」の中で、孫文はさらに「本音」として、「中国民族の総数は四億、その中には、蒙古人が数百万、満州人が百数万、チベット人が数百万、回教徒のトルコ人が百数十万交じっているだけで、外来民族の総数は一千万にすぎず、だから、四億の中国人の大多数は、すべて漢人だと言えます。おなじ血統、おなじ言語文字、おなじ宗教、おなじ風俗習慣を持つ完全な一つの民族なのであります。」という、シナ人以外の民族を全く無視し、いないも同然、同化されるべき存在とした、これこそがシナ侵略主義の思想だと酒井氏は述べました。

として「孫文民族主義漢民族中心主義で少数民族を差別していた。中国共産党の民族統治の問題点のルーツは孫文だ」と悪口する輩(酒井信彦)もいるわけです。「お前らウヨにとって孫文評価はどうなってるの?」と三浦には聞きたくなります。
 なお、孫文については「中国国民党」は勿論、中国共産党においても高評価されてることは有名な話です。孫文未亡人の宋慶齢 - Wikipediaは新中国において全人代副委員長、国家副主席などの要職に就いていますし。台湾については俺は無知なので政治情勢を知りませんが、もしかしたら「国民党のライバル」民進党においては孫文評価は低いかもしれません。

【参考:中国の孫文評価】

孫中山氏生誕150周年記念大会 習近平総書記が重要演説--人民網日本語版--人民日報
 孫中山孫文)氏の生誕150周年を記念する大会が11日に北京の人民大会堂で盛大に行われた。習近平*19中共中央総書記(国家主席、中央軍事委員会主席)が重要演説を行い、「中国共産党孫中山氏の革命事業の最も堅固な支援者であり、最も忠誠な協力者であり、最も忠実な継承者だ。私たちが孫中山氏に対して行える最もよき記念は、すべての団結可能なパワーを団結させ、すべての動員可能な要素を動員し、孫中山氏をはじめとするすべての革命の先達たちがそのために奮闘した偉大な事業を引き続き前進させることであり、近代以降のすべての仁人志士たちがそのために奮闘した偉大な事業を引き続き前進させることであり、近代以降の中国国民と中華民族がそのために奮闘した偉大な事業を前進させることだ」と強調した。
 習総書記は、「孫中山氏は一貫して揺らぐことなく国家統一と民族団結の方針を維持し、旗幟を鮮明にして国を分裂させたり民族を分裂されたりするすべての言論と行動に反対した。国の主権と領土の保全を維持し、国家分裂という歴史的悲劇が再演されることを絶対に容認しないのは、私たちが歴史と国民に対して行った厳粛な約束だ。国を分裂させるすべての活動は必ず中国国民全体の断固たる反対に遭うことになる。私たちはいかなる人、いかなる組織、いかなる政党が、いかなる時に、いかなる形式で、いかなる中国の領土の一部でも中国から分裂させようとすることを絶対に認めない*20」と強調した。
 また習総書記は、「孫中山氏は緊迫する革命の活動に従事する過程で、いつも中国建設の問題を考えていた。古い中国の政治経済社会の条件下では、孫中山氏のこうした広大な構想は実現が難しかった。今日、中国共産党の指導の下、全国各民族の国民のねばり強い奮闘の下で、孫中山氏がかつて描いた青写真はすでに実現し、孫中山氏が建設に尽力した、独立の、民主的で、強く豊かな国家はすでに世界の東方に高々とそびえ立っている」と指摘した。

「孫文の継承者は国民党」 台湾・洪氏、習氏発言に反論 (写真=共同) :日本経済新聞
 台湾の国民党の洪秀柱*21主席は12日、中国の習近平国家主席清朝を倒した辛亥革命を主導した孫文生誕150年を記念した演説で「中国共産党孫文の最も忠実な継承者だ」と発言したことについて「真正な継承者は当然、国民党だ」と反論した。
 孫文は国民党の創設者で台湾が現在も「国名」とする「中華民国」の建国の父。12日が誕生日で、洪主席はこの日、台北市内の「国父記念館」を訪問し孫文銅像に献花した。

海外各地で孫文生誕150周年記念行事--人民網日本語版--人民日報
 在英国中国大使館は12日、孫中山先生生誕150周年記念行事を行った。在英華僑・華人、中国人留学生、中国系機関の代表150人近くが参加した。劉暁明大使は「孫中山先生は偉大なドリームメーカーであり、早くも100年以上前に『中華振興』のスローガンを打ち出した。われわれが孫中山先生を安心させられるのは、孫先生が大変憂慮していた旧中国の貧しく弱い状況はすでに過去のものとなり、中国国民の生活にも天地を覆すような変化が生じたということだ」と述べた。

【参考終わり】

 樋口は(中略)日本の傀儡のように*22批判されていた汪清衛の「共産主義は日支共同の敵なり」という精神こそ、当時の中国に必要だったのだと指摘しています

 「汪清衛」ではなく「汪精衛(汪兆銘のこと)」ですね。「樋口委一郎(樋口季一郎が正しい)」といい、「評価している」と言う人間の名前を堂々と誤記するとは三浦はあまりにもお粗末すぎます。
 例は何でもいいですが、例えば「自称・自民党支持者」が「安部晋三」「阿部晋三」などと誤記*23したら「はあ?」でしょう。
 あるいは「自称・社会党社民党)支持者」が「土居たか子*24」と書いたら「はあ?」でしょう。
 まあ、それはともかく。そんなことを樋口がいくらほざこうとも、中国人多数派は汪兆銘など支持せず、蒋介石が支持されたわけです。ばかばかしいにもほどがある。

 樋口は、自分なりの「日本皇国憲法前文草案」を書き残しています。

 早坂隆の正論7月号記事『樋口季一郎の遺訓と改憲論』には三浦曰く『日本皇国憲法前文草案(樋口の改憲論)』が紹介されているのだそうです。
 いかに「改憲右派」とはいえ、戦後の「象徴天皇」の時代に「皇国憲法」ねえ。時代錯誤にもほどがあるでしょう。改憲派でもある程度まともな人間は戦後になってから「皇国憲法」なんて言わない(呆)。こんなことは紹介しても今では「樋口って非常識なウヨだったんだな」「こんなんを評価するのが日本の改憲右派か。俺は今の政治状況では絶対に改憲反対だな」としか評価されないのですが、「非常識ウヨ」の三浦&早坂にはそれがわからないようです。 
 「まさかとは思いますが」三浦&早坂も「改憲するときは、憲法の名前は皇国憲法に改める!」つう考えなのか(苦笑)。
 「まさかとは思いますが」こんなアホ記事を疑問を持たずに読むのが「正論」読者なのか。
 「まさかとは思いますが」、「安倍晋三自民党改憲派ウヨ議員」「櫻井よしこ島田洋一ら三浦&早坂以外のウヨ改憲派」も「改憲するときは、憲法の名前は皇国憲法に改める!」つう考えなのか(改めて苦笑)。いや笑い事ではない気もしますが、あまりにも非常識でばかばかしいのでねえ。

【追記】
【1】
 「樋口のユダヤ難民救出話」がいかに怪しい代物かについて、以下の記事を紹介しておきます。

国際人権部会・学習会報告 検証『親ユダヤ』的日本政府像を流布する出版物(金子マーティン*25
 歴史修正者たちが三番目に親ユダヤ宣伝の材料にしているのがオトポール事件である。"満州"国境沿いにあるソ連の町オトポールに2万人のユダヤ人が来て、ハルビンの特務機関にいた樋口季一郎が救ったとされている。これは芙蓉書房から出た樋口の伝記に書かれているが、2万人ものユダヤ人が"満州"に存在したことはない。当時上海にいたユダヤ人でも最大で1万8000人だった。彼らすべてが満州経由で来たとしても(そのようなことは絶対ありえないが)1万8000人にしかならない。

*【歴史】「樋口季一郎とオトポール事件 -- 歴史はこうやって偽造される」|Hiroshi Matsuura|note(松浦寛)
 1938年3月、ソ満国境に殺到した「二万人のユダヤ人」難民の窮状に同情した樋口季一郎中将が、満州国と交渉してそのユダヤ人を保護した。これが、いわゆるオトポール事件の概要である。
◆「二万人のユダヤ人」救済の虚説
 もちろん、今日「二万人のユダヤ人」難民がソ満国境に殺到したなどという荒唐無稽な話を信じている研究者もジャーナリストもほとんどいない。
 2010年(平成22年)、樋口季一郎に関する最初の評伝が刊行された。ジャーナリストの早川隆による『指揮官の決断:満州とアッツの将軍 樋口季一郎』がそれである。このなかで早川は、一般の読者にはあまり知られてこなかった、「二万人のユダヤ人」入満の虚説がどうして樋口の回想録に掲載されるようになったかの経緯を説明している。
 「二万人のユダヤ人」の虚説の流布に関して、最大の被害者は実は樋口季一郎その人なのであるという。というのも、防衛省防衛研究所の資料閲覧室に保管されている樋口直筆の原稿には「二万人のユダヤ人」云々という記載はなく、また「二万人のユダヤ人を救う」という小見出しもない。これらの記述は原稿が編集される段階で何者かが書き込んだわけだが、早川が「問い合わせてみたが、案の定、当時の担当者はすでに亡くなっているということだった。現在、この件に関してわかる者はいない」という。
 この「二万人のユダヤ人」の虚説が一人歩きし出したのは、樋口の回想録や相良俊輔*26による小説『流氷の海:ある軍司令官の決断』(1973*27)によるものであるが、数字の誇大化は、終戦後しばらくすると始まった。
 日猶関係研究会の三村三郎は、『ユダヤ問題を裏返して見た日本歴史』(1950)のなかに、「数万ユダヤ人の恩人 – 銀欄簿に輝く樋口中将を訪う」という訪問記を掲載し、そのなかには「ナチスに追われた約三、四万のユダヤ人が、アメリカを目ざして逃げる途中、シベリア線でソ満国境に差しかかった時です」などと自慢気に救出劇を説明する樋口が登場する。しかし、樋口の著作を読んでも、自分の功績を誇大に吹聴するような人物ではなく、『ユダヤ問題を裏返して見た日本歴史』は樋口以外に関してもでたらめな記述が多く、戦後最初のトンデモ本とも言うべき代物なので、このようなインタビューが実際に行われたのかどうかさえにわかに判断できない。
 『流氷の海』の著者の相良俊輔は、1970年(昭和45年)10月20日付の「ユダヤ人二万の陰に日本人」「ソ満国境に救援列車」という見出しの樋口の追悼記事のなかで、「これは日本陸軍が行った最大の善行と言えるでしょう」などと述べている。さらに元々(ボーガス注:週刊少年サンデー『あかつき戦闘隊』など)少年向けの冒険小説の作家である相良は、子供向きに書いた『人類愛に生きた将軍 ユダヤ難民救出秘話』(1976*28)では「3月5日、満州里と国境を接したソ連領のオトポールにナチスユダヤ人狩りから逃れてきた、約二万五千人のユダヤ難民が吹雪の中で立ち往生」などと、難民数を(ボーガス注:『流氷の海』の2万人から、2万5千人に)水増しして、いいかげんな話を子供たちに吹聴している。
 オトポール事件を実際に担当し命令書を作成した、松岡*29満鉄総裁の秘書・庄島辰登(満鉄会理事)は、3月8日に最初に到着したユダヤ難民を18名としており、その数は、樋口の遺品として1994年(平成6年)8月14日付の『北海道新聞』に掲載された写真に写る難民の数と合致する。庄島による満鉄会の記録調査によればも最初の18名についで、5人あるいは10名と一週間おきに相次いでユダヤ難民が到着し、三月から四月末までに総計約50人のユダヤ人を救援したとある。その後、第二陣、第三陣と少人数の難民が後続し、当時の「浜州線(満州里 – ハルビン)の車両編成や乗務員の証言から考えて100〜200名」というのがオトポール事件の実際である。
 もちろん、1938年(昭和13年)の春にユダヤ難民がソ満国境にやってきた事件自体は史実であり、日独伊三国防共協定を結んだ後のことであるから、国会でも問題になっている。1939年(昭和14年)2月23日、第74回帝国議会貴族院予算委員会赤池*30議員の質問に対して、有田外相は「シベリア経由で満州に入ったユダヤ人数は八十余名、百人足らずであり、満州国の官憲が満州国在留を希望しなかったので上海に向けたものと思われる」と明言している。
 「二万人のユダヤ人」の虚説の流布は、ドイツ史の専門家からも疑義が提出されており、ドイツ現代史の木畑和子*31は、以下のように批判している。
「日本における誤解の一例として、樋口季一郎というハルビンの特務機関長が、ソ満国境まで逃げてきた二万人のユダヤ人を満州に入れて、救ったという話をとりあげてみましょう。1990年代には日本の新聞にも雑誌にも「美談」として掲載されたようです。しかし樋口の話は1938年3月のことです。この時期まで毎年約二万人のユダヤ人がドイツから出国していました。二万人全部のユダヤ人その時期にソ満国境にいたとは考えられません」
◆「731部隊」の残虐行為の隠れ蓑
 1938年(昭和13年)がいかなる意味を持つかは、満州の歴史に詳しい読者ならすぐ気づくだろう。樋口が(ボーガス注:ハルピン特務機関長として)在職していたハルビンの南方約20キロのところに平房という小さな町がある。そして、「この年の後半には、平房の複合施設がついに機能可能な状態にな」 ったのである。731部隊の「死の工場*32」(シェルダン・H・ハリス)が稼働し、細菌戦や化学線を想定した人体実験が、マルタと呼ばれた捕虜などを実験材料として始まろうとしていたのである。
 杉原千畝は、満州国外交部を辞めた理由を尋ねられた際、関東軍の横暴に対する憤慨から、「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかったんだ」 と幸子夫人に答えている。外交官としての諜報活動という職責上、千畝は五族協和の美名に隠れた満州国の「内幕」を知ってしまったのである。
 「二万人のユダヤ人」の樋口美談が、関東軍の残虐行為から目をそらせる隠れ蓑として、国史を美化したい右翼や歴史修正主義者たちにとって格別の使い道がある理由がこれでわかるだろう。
 相良俊輔によれば、樋口季一郎は「ユダヤ問題の権威」だそうだが、相良から見れば誰でも何らかの「権威」である程度にはそう言えるかもしれない。
 もちろん、樋口は有能な軍人であり、その誠実さは疑う余地がない。しかし、『回想録』が樋口の最晩年に書かれたものであり、特にユダヤ関連の記述において要領の得ない話が少なくない。
 なかでも一番要領を得ない記述は、上杉千年*33が『教科書が教えない歴史』(1996)に引用している、以下の一節である。
「かつて私が、秦(彦三郎*34中将)と共に南ロシア、コーカサスを旅行して、チフリスに到った時、ある玩具店の老主人(ユダヤ人)が、私共の日本人たることを知るや襟を正して、『私は天皇こそ、我らの待望するメッシアでないかと思う。何故なら日本人ほど人種的偏見を持たない民族はなく、日本天皇はまたその国内において階級的に何ら偏見を持たぬと聴いているから』というのであった」
 このエピソードにおける天皇は、ユダヤ教のメシア概念からかけ離れた存在であり、樋口が相良の述べるような「ユダヤ問題の権威」ならば、その老人が日本の天皇制に関して単に無知であると即座に判断できるだろうし、間違っても回想録に収録したりはしないだろう(ボーガス注:『日本の天皇制に関して単に無知』というより、どうみても捏造された『日本スゴイですね』話の一種にしか見えず、そんな外国人がいるかどうか自体が怪しい話です。回想録刊行(1971年)が樋口の死去(1970年死去)後であることを考えれば、『日本スゴイですね』話捏造は樋口によるものではなく、樋口の死後になされた捏造の疑いすら否定できません。まあ事実だとしてもどう見ても『ペマ・ギャルポ天皇万歳発言』と同レベルの発言、つまり外国人によるただのリップサービスであり、まともに相手に出来る話ではないですが)。
◆ 歴史の真実を見つめて
 旧軍内でユダヤ関連にまとまった知見を有していたのは安江仙弘だけであり、だからこそ、樋口はオトポール事件が「あって以後、ユダヤ人に関する問題が逐次重大性を帯びて来た。そこで私の同期であり、古くからのユダヤ問題研究家でありパレスタイン*35にもいたことのある安江仙弘*36中佐を大連特務機関長として、その仕事に従わせるように進言した」 としているのである。
 ユダヤ関連について記述した時期の樋口の記憶は、相当に混乱している。安江が大連特務機関長に就任したのは1938年(昭和13年)の1月、つまりオトポール事件の発生する以前のことであり、(中略)オトポール事件が発生した時、安江の一家はすでに満州におり、「二万人のユダヤ人」が入満しているのに、(中略)安江にまったく動きがなどということはあり得ない。長男の弘夫はすでに14歳の中学生であり、「二万人のユダヤ人」が入満したのであれば、大佐が軍務の委細を語らないにしても、父親をめぐる慌ただしい雰囲気を記憶しているはずである。
 安江大佐の長男の安江弘夫*37も、(中略)オトポール事件の際実際に命令書を作成した庄島辰登(松岡満鉄総裁の秘書)も「二万人のユダヤ人」の樋口美談を明確に否定している。
 金子マーティンは、「二万人のユダヤ人」の虚説を「日本の国家主義者たちが繰り返す『おとぎ話』に過ぎない」と述べているが、まったくその通りである。
 自由社に版元をかえた『新しい歴史教科書(市販本)』には、オトポール事件に関して、関東軍の参謀長であった東条英機*38(1884-1948)が、「『日本はドイツの属国ではない』として、部下である樋口の処置を認め、ドイツから抗議もうやむやにして、1万1000人のユダヤ人が逃げたと伝えられている」 などとしているが、そのようなことはまったく「伝えられてい」ないし、とりわけ当事者の樋口当人がそう述べていない。これは、単なるデマゴギーである。
 このようなでたらめな記述が教科書にふさわしいか否かは自明であろう。およそ歴史研究に携わるものなら、一人の目撃者もなければ証言もなく、いかなる史料や記録にも載っていない、二万人のユダヤ人などという「おとぎ話」からそろそろ卒業すべきである。

【2】

【正論7月号】ユダヤ難民と北海道を救った陸軍中将 樋口季一郎の遺訓と改憲論 ノンフィクション作家 早坂隆(1/3ページ) - 産経ニュース
 リトアニア駐在の外交官だった杉原は、ナチスの迫害から逃れてきた約六千人のユダヤ難民に対して特別ビザを発給。その功績は「命のビザ」として広く語り継がれている。
 しかし、実は救出劇はもう一つ存在した。その指導的役割を担ったのが、樋口季一郎という陸軍軍人である。
 さらに樋口は「占守島の戦い」でも昭和史に名を残す。昭和二十年八月十七日、ソ連軍は終戦後であるにもかかわらず、千島列島最北端に位置する占守島への侵攻を開始したが、第五方面軍司令官であった樋口は「自衛戦争」として徹底抗戦を命令。ソ連軍の南下を見事に阻止した。スターリン率いるソ連軍の目的は北海道の北半分の占領であったが、その野望をくじいたことになる。
 そんな多大な功績を残した樋口であったが、戦後、彼の存在は昭和史の中に埋もれた。それは外交官であった杉原に対し、樋口が陸軍軍人であったことと深く関係するであろう。戦後の日本は、それが史実であったとしても、軍人の功績を公に語れるような社会ではなかった。十年前に私が樋口の評伝を刊行した時、その知名度はゼロに等しかった。
 しかし昨今、樋口に関心を寄せる人*39が着実に増えつつある。昭和史を冷静に客観視できる土壌が定着してきた証左であろう。

 「早坂と産経はデマも大概にしろ」ですね。
 まず「ユダヤ人救出劇」云々について言えば、既にご紹介した*【歴史】「樋口季一郎とオトポール事件 -- 歴史はこうやって偽造される」|Hiroshi Matsuura|noteが指摘するように資料が「樋口の回想録」くらいしかなく、樋口が何をしたのか、そもそもそれは「樋口のイニシアチブによるものなのか(それとも単に上の命令に従っただけなのか)」がよくわかりません。そのため「資料が沢山残っており、功績の適切な評価が可能な杉原」「外務省上層部の反対を押し切って免職の危険性すら覚悟した杉原」とはそもそも比較になりません。
 繰り返しますが「8000人救出(杉原の功績)」と「最大に見積もっても200人、もっと少ないかもしれない(樋口の功績:松浦寛氏の推計)」なんて比較にもなりません。
 ついでにいえば、杉原のユダヤ人救出だって日本で注目されるようになったのはごくごく最近です。長い間忘れられてきたというなら杉原だってそうです。彼の名前が日本で知られ始めたのは『1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞』してからの話です(例えば杉原千畝 - Wikipedia参照)。
 「占守島の戦い」は「ユダヤ人救出(樋口の功績と言えるか怪しい話)」と違って、まともな資料も残ってる、「樋口のまともな功績」ですが、そもそも軍人が戦争で戦うのは「当たり前の話」ですからね。
 「人が犬をかめばニュースになるが、犬が人をかんでもニュースにならない」て奴にすぎません。
 大体、日本で「ホニャララの闘いで活躍した」云々で有名な軍人なんて「戦後は勿論、戦前ですら」どれほどいるのか。
 「日本海海戦勝利の貢献者・東郷平八郎*40(当時、連合艦隊司令長官)」「マレーの虎山下奉文*41(当時、第25軍(マレーシア)司令官)」「真珠湾攻撃の立案者・山本五十六*42(当時、連合艦隊司令長官)」などのように関係者が大々的に宣伝でもしない限り、話題にならないのは当たり前ではないのか。
 そして戦後、「占守島の戦い」を関係者が仮に話題にしづらかったとしたら「早坂が強弁するような話(平和主義云々)」ではなく「日ソ友好関係への配慮」や「占守島の戦いで勝ったといったところで北方領土は奪われたという複雑な思い」などではないのか。

 このたび『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓』(勉誠出版。以下、『遺訓集』)という一冊の大書が刊行された。編著者は樋口のお孫さんにあたる樋口隆一氏である。隆一氏は音楽家、指揮者としても著名で、明治学院大学の名誉教授でもある。

 「版元がウヨ出版社に転落した勉誠出版」「産経が褒め称えてる」という時点で樋口隆一著書には「怪しい話(樋口のユダヤ人救出話)を事実扱いしてる」などの「悪い予感」しかしません。大体、孫(樋口隆一)が「俺のじいさん(樋口季一郎)はすごかった」といったところで客観性は何もない。

 大正十四年からは公使館付武官としてポーランドに駐在。豊富な語学力を活かして、ヨーロッパの最新情報を収集、分析した。人間味豊かな性格であった樋口は、現地で幅広い人脈を築いた。オペラなどの西洋音楽にも深い関心を示したが、その孫である隆一氏が後に音楽家となったことは偶然ではないであろう。

 吹き出しました。どう考えても「ただの偶然」でしょう。「素人の音楽ファン(樋口季一郎)」と「プロの音楽家樋口隆一*43」と全然違うでしょうよ。こういうのを「ひいきの引き倒し」と言います。


【脚注について参考】
 脚注で紹介した『あかつき戦闘隊』については以下を紹介しておきます。

【還暦の少年週刊まんが誌 サンデー・マガジンの草創期】(5)バッシングとブーム 発行部数伸び、影響力増す(1/2ページ) - 産経ニュース(喜多由浩*44
 戦争物の漫画や読み物についても、「軍国主義の復活だ」などと批判を浴びる。当時の誌面を見ると、作品のほかにも、戦車や戦艦、戦闘機の図解や模型の懸賞など、確かにミリタリー色が目立つ。(ボーガス注:昭和)38年から、サンデー編集部に在籍した大寄晋(おおより・すすむ)(83)は、特集記事を書くために防衛庁(当時)幹部にインタビューしたり、潜水艦の同乗ルポをやったりもした。
 「当時はまだ、戦争の実戦経験者が多く、話にも迫力がありましたね」
 (ボーガス注:昭和)43年には「あかつき戦闘隊事件」が起きた。サンデーに連載中だった同名の人気戦争漫画に合わせた読者懸賞として、旧日本軍やナチス・ドイツに関係する賞品を出したことから、「戦争を賛美するものだ」として児童文学者や女性団体らから猛抗議を受け、社会問題に発展したのである。当時の編集長は高柳だった。
「確かに行き過ぎた面はあったと思う。ただ、(戦争物を取り上げるのは)先の大戦は科学力の差で負けたということを、ちゃんと子供たちに教えたいと思ったからですよ」

【戦後70年特別企画】元零戦搭乗員たちが見つめ続けた「己」と「戦争」【前編】() | 現代ビジネス | 講談社(1/6)
 漫画雑誌にも零戦ブームがあってちばてつや*45の『紫電改のタカ』とか、『ゼロ戦行進曲』(貝塚ひろし)、『0戦はやと』(辻なおき)、『あかつき戦闘隊』(相良俊輔原作、園田光慶作画)など、私が小学生のころには連載が終わっていたものが多かったんですが、コミックで読んだ記憶があります。
 『あかつき戦闘隊』といえば、「週刊少年サンデー」(小学館)に連載されていたんですが、読者懸賞でなんと日本の海軍兵学校の制服、短剣やナチスの軍服なんかを賞品にしちゃったんですよね(笑)。それで抗議が殺到したという事件があって、たぶんこれをきっかけに戦記漫画がなくなっていったように思います。

あかつき戦闘隊 - Wikipedia
 「あかつき戦闘隊」を掲載していた『週刊少年サンデー』1968年3月24日号において読者懸賞が行われた。この時の懸賞品に日本海兵学校正装一式、米軍ミリタリーグッズ、ナチス軍旗・鉄十字章、ソ連軍ピストルなどが含まれていたことから、古田足日*46今江祥智*47、神宮輝夫*48、前川康男*49といった児童文学者らが賞品の撤回を求めて抗議を行った。朝日新聞は1968年3月15日朝刊社会面(東京都区部、市郡部は夕刊に掲載)に写真付きで掲載された。
18日に、鳥越信*50那須田稔*51、横谷輝*52らも加わり、日本子どもを守る会と共に記者会見を開催する。この記者会見は日本テレビをはじめとしてテレビのニュースでも取り上げられ、新聞にも取り上げられることになった。こういった報道が行われたことで新日本婦人の会をはじめ、いくつもの団体が小学館を抗議に訪れた。27日には各団体代表が連名で申し入れ書を小学館に提出し、文書での回答を要求している。
 小学館の回答は29日に行われ、以下のようなものであった。
・懸賞賞品が、戦争推進の材料とならないように以下のように十分な配慮を行う。
・当選者発表に際して、賞品名の表示は行わない。
・当選者に送付する際に賞品についての解説を添付する。
 古田らの要求は、賞品の撤回であったため、相容れぬ内容であった。

*1:第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団長、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官など歴任

*2:参謀本部第2部長、第11師団長、台湾軍司令官、上海派遣軍司令官、中支那方面軍司令官(なお、中支那方面軍司令官は南京攻略戦の最高司令官)など歴任。戦後、南京事件の責任者(中支那方面軍司令官)として死刑判決。後に靖国に合祀。

*3:陸軍省整備局動員課長、陸軍省軍務局軍事課長、参謀本部第2部長などを経て陸軍省軍務局長。軍務局長在任中に皇道派の相沢三郎中佐によって暗殺される。

*4:ペリリュー島守備隊長(歩兵第2連隊長)を務め、ペリリュー島で戦死

*5:そりゃ欧米と比べれば少ないです(正直、何故あんなに多いのか驚きます)。しかし、台湾や韓国よりは多いのですがね。しかも「台湾や韓国の試行錯誤(その時点では日本には蔓延せず)」を見ながらそれをろくに参考にしないでいたずらに蔓延させたのに何が「世界の中でも特筆すべき成功」なのか。安倍信者も大概にしろと言いたい。

*6:今時「写真」でなくて『御真影』だそうです。どれほど非常識なのか。つうか『御真影』つうのは『奉安殿に教育勅語と一緒に収めた奴』のことで『一般的な昭和天皇の写真』は『御真影』とは言わないんじゃないですかね?。そして早坂らウヨは「明仁上皇徳仁天皇の写真」までも『御真影』と呼んでるのか気になるところです。

*7:大村知事は「芸術として認めた」のではなく「美術展企画者が『それが芸術だ』というなら口出しはしない(展示作品については来館者の評価、判断に任せる)」という「寛容性」を発揮しただけです。大村氏は『芸術展の内容についてどう思うか』という質問には徹頭徹尾『政治家の不当な政治干渉になりかねないからノーコメント』としています。『お前の言うことを表現の自由重視で認める(ただし賛成してるわけでは必ずしもない:あいちトリエンナーレでの大村知事)』ということと『お前の言うことに賛成だ』ということは区別して欲しいもんですが、そう言う脳みそは早坂のようなウヨにはありません。

*8:この件ではウヨ・早坂は「アンチ大村県知事&河村市長万歳」なのでしょうが、勿論俺は逆に「アンチ河村&大村万歳」です。

*9:林博史、吉見義明氏の慰安婦研究や笠原十九司氏の南京事件研究など、まともな研究なら誰もそんなことは言いません。秦郁彦慰安婦研究だの、東中野修道南京事件研究だのを持ってくるから『歴伊修正主義』と非難されるわけです。

*10:早坂が『南京事件731部隊慰安婦』の犯罪性をできる限り矮小化しようとするクズ右翼、歴史修正主義者であることがよくわかる『ナイスツイート』です。早坂『松井石根南京事件の真実』(2011年、文春新書)も、「南京事件否定論のデマ本なのだろう」という察しがつきます。

*11:むしろ話は逆であり「中国に責任転嫁しようとする米国」に対し「米国で9万人も死んだのは米国の医療体制の問題だろ。そんなに死んでる国なんて米国だけじゃねえか。人のせいにするな!」「米国民主党だってトランプ政権のせいで死んだと批判してるじゃねえか!」と反論してるだけなのですが、早坂のような反中国ウヨにはそう言う常識はありません。

*12:小泉今日子などによる「検察庁法改定反対」のこと。

*13:「安倍の検察庁法改定」それ自体について「早坂個人は改定案に反対なのか、賛成なのか」言えないで「中国ガー」でごまかす点があまりにも無様です。大体そんなこと言うなら早坂にとって「安倍の習主席国賓訪日計画」はどう評価されるのか。

*14:誤植ではなく故意の捏造の可能性も勿論あります。

*15:広田、第一次近衛、平沼、米内内閣で外相

*16:著書『ユダヤ陰謀説の正体』(1999年、ちくま新書)、『日本人の「ユダヤ人観」変遷史』(2016年、論創社

*17:民族主義民権主義民生主義

*18:著書『虐日偽善に狂う朝日新聞』(2013年、日新報道

*19:福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、国家副主席、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*20:これについては例えば 分離独立は認めない 認めるものは民族の罪人だ(胡錦涛) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)中国の国家主席が香港の独立を許さないのは当然だろう - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)参照

*21:国会副議長、国民党副主席、主席など歴任

*22:「ように」ではなく「傀儡そのもの」ですね。それは汪兆銘 理想と現実2が指摘するようにまず第一に「汪兆銘蒋介石に対抗するだけの政治力がなかったから」であり、第二に「日本側がそんな汪に対し、彼の自主性を重んじる態度などとらなかったから」です。

*23:もちろん「安倍晋三」が正しい。

*24:土井たか子」が正しい

*25:日本女子大学名誉教授。著書『ナチス強制収容所とロマ』(1991年、明石書店)、『「ジプシー収容所」の記憶:ロマ民族ホロコースト』(編著、1998年、岩波書店)、『神戸・ユダヤ人難民1940-1941:「修正」される戦時下日本の猶太人対策』(2004年、みずのわ出版)、『ロマ:「ジプシー」と呼ばないで』(2016年、影書房

*26:一般には『週刊少年サンデー』(小学館)に1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて、前後編の2部に分かれて連載された戦争マンガ『あかつき戦闘隊』の原作者として知られる。

*27:現在は戦争物の出版で知られる光人社NF文庫で入手が可能

*28:国土社から刊行

*29:満鉄総裁、第二次近衛内閣外相など歴任。戦後、戦犯として裁判審理中に病死。後に靖国に合祀

*30:1879~1945年。静岡県知事、朝鮮総督府内務局長、朝鮮総督府警務局長、内閣拓務局長官、警視総監など歴任

*31:1947年生まれ。成城大学名誉教授。著書『キンダートランスポート:ナチス・ドイツからイギリスに渡ったユダヤ人の子供たち』(1992年、成文堂)、『ユダヤ人児童の亡命と東ドイツへの帰還:キンダートランスポートの群像』(2015年、ミネルヴァ書房)など。木畑洋一東京大学名誉教授(英国現代史)の妻。

*32:1999年に柏書房から刊行されたシェルダン・H・ハリスの著書名

*33:1928~2009年。元「新しい歴史教科書をつくる会」理事。著書『異文化戦争としての大東亜戦争』(1995年、全貌社)、『検証「従軍慰安婦」(増補版)』(1996年、全貌社)、『猶太(ユダヤ)難民と八紘一宇』(2002年、展転社)、『ユダヤ難民を助けた日本と日本人』(2008年、神社新報社)など

*34:ハルピン特務機関長、関東軍参謀副長、参謀次長、関東軍総参謀長など歴任

*35:パレスチナのこと

*36:ユダヤ差別の偽書『シオン賢者の議定書』を初めて日本に紹介した人物として知られる。いわゆる河豚計画 - Wikipediaの立案者の一人。

*37:著書『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(1989年、八幡書店

*38:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣を経て首相(一時は陸軍大臣参謀総長を兼務)。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*39:ぶっちゃけ、そんな人間は明らかに「日本スゴイですね」教信者のウヨだけですが。

*40:佐世保鎮守府司令長官、舞鶴鎮守府司令長官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長東宮御学問所総裁などを歴任

*41:226事件当時、陸軍省軍事調査部長の要職にあったが皇道派だったため、事件後、歩兵第40旅団長に左遷される。その後、 支那駐屯混成旅団長、北支那方面軍参謀長、第4師団長(北支那)、陸軍航空総監兼航空本部長、第25軍(マレーシア)司令官、第1方面軍(満州)司令官、第14方面軍(フィリピン)司令官を歴任。戦後、第25軍(マレーシア)司令官当時の「シンガポール華僑大虐殺」、第14方面軍(フィリピン)司令官当時の「マニラ大虐殺」の責任を問われて死刑判決。

*42:海軍航空本部長、海軍次官連合艦隊司令長官など歴任。いわゆる海軍甲事件 - Wikipediaで戦死

*43:明治学院大学名誉教授。著書『バッハの四季:ドイツ音楽歳時記』(2000年、平凡社ライブラリー)など

*44:著書『満州唱歌よ、もう一度』(2003年、扶桑社)、『野口健が聞いた英霊の声なき声:戦没者遺骨収集のいま』(2009年、産経新聞出版)、『日本から男の子を育てる場所が消えていく:ボーイスカウトの凋落が日本をダメにした!』(2011年、主婦の友新書)、『北朝鮮に消えた歌声:永田絃次郎の生涯』(2011年、新潮社)、『『イムジン河』物語』(2016年、アルファベータ)、『満洲化物語ユートピアを目指した日本人』(2017年、 集広舎)、『韓国でも日本人は立派だった:証言と史料が示す朝鮮統治の偉業』(2019年、産経新聞出版)、『旧制高校物語:真のエリートのつくり方』(2019年、産経NF文庫)など

*45:1939年生まれ。代表作として『あしたのジョー』、『のたり松太郎』、『あした天気になあれ』など。2012年7月から2018年6月まで日本漫画家協会理事長を務め、2018年6月から日本漫画家協会会長。2005年から、文星芸術大学教授を務め、2019年4月1日より文星芸術大学学長に就任。

*46:1927~2014年。著書『海賊島探検株式会社』(1976年、偕成社文庫)、『宿題ひきうけ株式会社』(1977年、講談社文庫)、『ぬすまれた町』(1979年、講談社文庫)、『モグラ原っぱのなかまたち』(1981年、講談社文庫)など

*47:1932~2015年。著書『ひとは遠くからやってくる』(1977年、角川文庫)、『さよなら子どもの時間』(1978年、講談社文庫)、『夕焼けの国』(1979年、講談社文庫)、『優しさごっこ』(1987年、新潮文庫)、『ぼんぼん』(2010年、岩波少年文庫)、『戦争童話集』(2011年、小学館文庫)、『ねこをかうことにしました』(2016年、ハルキ文庫)など

*48:1932年生まれ。青山学院大学名誉教授。著書『児童文学の中の子ども』(1974年、NHKブックス)、『現代日本の児童文学』(1974年、評論社)、『現代イギリスの児童文学』(1986年、理論社)など

*49:1921~2002年。著書『奇跡クラブ』(1976年、偕成社文庫)、『ヤン』(1976年、講談社文庫)、『魔神の海』(1979年、講談社文庫)など

*50:1929~2013年。著書『子どもの本の選び方・与え方』(1982年、大月書店国民文庫)、『桃太郎の運命』(1983年、NHKブックス)、『四季の童話』(1983年、新日本新書)、『子どもの替え歌傑作集』(2007年、平凡社ライブラリー)など

*51:1931年生まれ。著書『シラカバと少女』(1976年、講談社文庫)など

*52:1929~1973年。著書『児童文学の思想と方法』(1969年、啓隆閣)など