高世仁に突っ込む(2020年9/16日分)(追記あり)

朝鮮人虐殺の実態2 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 高世仁に突っ込む(2020年9/9日分) - bogus-simotukareのブログで取り上げた高世仁に突っ込む(2020年9/9日分) - bogus-simotukareのブログの続きです。
 小生もうかつでしたが「高世は朝鮮人虐殺にしか触れてない」のですが、関東大震災であった虐殺は「数が最も多いのが朝鮮人虐殺」とはいえ「朝鮮人虐殺以外にもある」点に注意が必要です(追記:後に高世は朝鮮人虐殺の実態3 - 高世仁の「諸悪莫作」日記で「朝鮮人虐殺以外の虐殺」にも触れています。朝鮮人虐殺の実態3 - 高世仁の「諸悪莫作」日記については高世仁に突っ込む(2020年9/17日分) - bogus-simotukareのブログでコメントしました)。
 関東大震災 - Wikipediaにも書いてありますが

【1】被差別部落民虐殺
福田村事件 - Wikipedia
【2】在日中国人虐殺
王希天殺害事件(王希天 - Wikipedia参照。王希天 - Wikipediaによれば『1974年1月、中華人民共和国政府から、「革命烈士」の称号を追贈された』そうです。参考文献として、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺:中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』(1993年、青木書店)、田原洋『関東大震災と中国人:王希天事件を追跡する』(2014年、岩波現代文庫*1)が紹介されています)
【3】左翼活動家虐殺
甘粕事件 - Wikipedia
 大杉栄伊藤野枝を虐殺
亀戸事件 - Wikipedia
 日本共産青年同盟(共青。今の民青の前身)初代委員長・川合義虎、労組活動家・平沢計七らを虐殺。
 『【3】左翼活動家虐殺』に対する反発が
◆和田久太郎(無期懲役で服役中、結核となり、将来を悲観して自殺)による福田雅太郎 - Wikipedia狙撃事件や
◆難波大助(死刑)による虎ノ門事件 - Wikipediaの一因になったというのは有名な話です。「暗殺は失敗したとは言え」、福田狙撃、裕仁狙撃は「大杉、伊藤ら左翼活動家を虐殺し、その下手人をろくに処罰しない戦前日本政府」への「左翼活動家」和田、難波流の復讐劇だったわけです。
 ちなみに話が脱線しますが、
1)『美味しんぼ』で主人公・山岡の後輩記者に『難波大助』という人物が出てきますが、これは左翼としての原作者・雁屋氏の「難波に対する、ある種の思い入れ」なんですかね。さすがに偶然では無いでしょう。
2)福田の狙撃事件については「福田の孫」である安田元久 - Wikipedia学習院大学名誉教授(日本中世史)の著書『駘馬の道草:大正末期・昭和初期の激動と前半生の自伝』(1989年、吉川弘文館)に記載があるそうですが小生は未読です。

などについても記憶していく必要があります。

参考
【亀戸事件】
赤旗
関東大震災直後の亀戸事件とは?
亀戸事件87年/「野蛮な弾圧忘れない」/東京・江東 犠牲者追悼の集い
亀戸事件から88年/先輩たちの遺志継いで救援活動の先頭に/東京で追悼会
関東大震災・亀戸事件90年追悼会/歴史学び平和へ共に/東京・江東
歴史に学び国際連帯/亀戸事件94周年追悼会 東京・江東
虐殺の事実風化させぬ/亀戸事件95年追悼会/東京・江東区
亀戸事件96年の追悼会/希望ある未来へ決意継承/東京・江東 「虐殺忘れない」
亀戸事件 忘れない/97周年追悼会 犠牲者の遺影に献花/東京

【安田元久*2『駘馬の道草』】

『駘馬の道草』 - 学問空間
 学習院大学学長だった故・安田元久氏に『駘馬の道草』という著書(自伝)があるのは知っていましたが、ずいぶんのんびりした書名なので、功なり名を遂げた老学者の思い出話、秀才の自慢話かと思って読まずにいました。
 しかし、昨日、池袋のジュンク堂でたまたま手にとって少し読んでみたら、予想とはずいぶん違っていそうだったので、あわてて購入し、昨日・今日とよみふけってしまいました。
 この本には「大正末期・昭和初期の激動と前半生の自伝」という副題がついていますが、27歳で終戦を迎えるまでで終わっており、客観的には「前半生」じゃないですね。
 関東大震災時の戒厳司令官だった福田雅太郎陸軍大将の孫に生まれ、(ボーガス注:甘粕事件、亀戸事件への報復として)祖父が無政府主義者(ボーガス注:和田久太郎)からピストルで撃たれたり、自宅に爆弾入りの小包を送りつけられたりする珍しい経験はしたものの、非常に恵まれた環境で育ったスポーツ万能の安田青年の生活は、フランス帰りの超エリート軍人であった父親が予備役となり、ついで神兵隊事件の首謀者の一人として逮捕され、内乱予備罪の被告人となるに及んで一変し、親戚・知人宅に転居を繰り返し、精神的な荒廃もあって旧制高等学校受験に3度失敗。ようやく入学した静岡高等学校でバスケットボール三昧の生活を送っていたら病気で一年休学。昭和17年に東京帝国大学入学に進学したものの、翌年には入営。薩摩半島の川辺町に駐屯して米軍上陸に備えた訓練をしていて終戦を迎える、といった具合です。
 ちなみに、「元久」との名前は元号とは関係ないそうですね。

【王希天殺害事件】

荒野に向かって、吼えない… 『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』その1
 王については資料の不足から不詳な点も多いが、1915年頃に日本に留学生としてやって来たとみられる。日本滞在中だった周恩来とも交遊が生まれたようだ。周は1974年に王を「革命烈士」にしている。
「革命烈士の遺族には、国家的な優遇措置があり、事実、王振折一家の暮らしは、各段レベルアップした模様だ。したがって、(ボーガス注:「5・4運動」など、広義の革命運動には従事していたとは見なせても、共産主義革命という狭義の)革命運動のなかで斃れたのではない王希天に(ボーガス注:「5・4運動」など、広義の革命運動に従事したが故に、日本右翼に虐殺されたのだとしても)革命烈士の称号が与えられたのは、周総理との在日時代の濃密な親友関係なしには考えられないような気がする」。

荒野に向かって、吼えない… 『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』その2
「客観的、法理論的にいえば、これは立派な国際刑事事件であった。刑事事件の犯人を軍がかくまうわけにはいかない」。
 しかし組織の理論ではそうはいかなかった。
 王の殺害は必ず国際問題になるだろう、徹底した緘口令をしかなければならない、隠蔽はかえって問題を大きくするかもしれない、それでも、「当旅団の意見は、すべての事件について徹底的に隠蔽する、どういう事態があっても部内から刑事犯人は出させない、それでいいのですね」と遠藤は念を押した。
 隠蔽を図った王希天事件は遠藤の予想通り外交問題に発展する。「日韓併合」により韓国を植民地化したことで、(ボーガス注:ウイグル問題での中国のように)朝鮮人虐殺は日本の「国内問題」だと突っぱねることができた。それに対し、王は中国籍を持った外国人であった。
 10月中旬には中国の世論は沸騰していた。日本の警察が証拠がありすぎるとしたように、北京政府も早い段階で(ボーガス注:実行犯の一人である)佐々木の名をつかんでいた。しかし北京政府は様々な弱みを抱えていた。公使館と留学生たちは反目しあっており、留学生のリーダー的存在であった王希天は駐日公使から憎しみを買っていた。また北京政府は中央政権という体をなしておらず、財政難に苦しんでもいた。日本語と英語に堪能な外交官、政治家の王正延を団長とする調査団を派遣するが、随員は経済実務者が多かった。王正延には様々な借款や資金誘致の申し入れという裏の目的があった。
「王正延は、虐殺真相追求より、各種借金交渉でペコペコ頭を下げるつもりだった」。
 こうして王は「行方不明」とされたまま、王希天事件は闇へと葬られてしまった。
 一高で王と同級生だった、最高裁判事も務めることになる横田正俊は1971年に同窓会誌に寄せた文章の中で、王が「朝鮮人と間違えられて殺されるという悲運にまであわれた」としてる。まだ王希天事件の真相が明らかとなる前だが、横田は王が行方不明になったのではなく殺されたのだと考えていた。しかし「朝鮮人と間違えられ」たせいだというのは誤りであり、横田のような(ボーガス注:王と親しい)立場にいた人ですら、真相からは遠かったのでもある。
 要約というにはあまりに長くダラダラと書いてしまったが、それは王希天事件から学ぶべきことが、今だからこそたくさんあるように思えてしまったからだ。まず第一に、近年日本では、(ボーガス注:南京事件、沖縄の集団自決・軍強制など)日本人の手によって行われた過去の蛮行の忘却への欲求が高まっているというのがある。そして、王希天殺害前後の状況を見ると、現在に生きるわれわれとこれは無縁の出来事なのであろうかという問いを避けることはできなくなる。
 人手不足の折には安価に使い倒せる労働力として外国人労働者に頼りながら、景気が後退するとあの手この手で追い出そうとするばかりか、それを正当化するために差別感情を煽るというのは、現在でも世界の多くで見られることであり、無論日本も例外ではない。
 自らの命令が守られず王が殺害されたことを知って泡を食った遠藤は、これが国際問題に発展することを正しく見抜き、激怒した。しかしその遠藤も、隠蔽の方針が決まるとこれに抗することなく、渋々どころか「自負心」を持って積極的に加担した。これもやはり出世欲のなせる業であろうし、垣内も遠藤もその後順調に出世していった。
 『複合戦争と総力戦の断層:日本にとっての第一次世界大戦*3』(山室信一*4著)を読むと、違法行為や上官の命令を無視してでも既成事実を作り上げればあとはどうにでもなるし、それはむしろ後に評価されるはずだという日本軍の体質は(ボーガス注:張作霖爆殺事件や満州事件(柳条湖事件)以降どころか)すでに第一次大戦時に見られたという。張作霖殺害事件、柳条湖事件などはまさにこの軍内部の「下剋上」の空気なくしては起こりえなかったし、日本はこれにより泥沼の日中戦争に進んでいく。
 (ボーガス注:王虐殺という)中岡の取った行動はまさにこの軍の体質を表すものであった。陸大卒のエリートである中岡にはこれが軍の命令違反であり、法的にも問題になるということくらい重々わかっていただろう。それでも(ボーガス注:満州事変を実行した石原莞爾らが『既成事実を創ればどうにでもなる』と考えたように中国人留学生で『54運動などに参加する抗日活動家』の)「大物」である王を殺せば、後に評価されると考えたのだろう。
 日本軍には、一方で出世欲から適法であるか否かよりも上の決定に従うことが重視され、他方でこれと矛盾するようだが、やはり出世欲とセクト主義から違法であろうが国際問題を引き起こそうが結果としてうまくいくのなら上官の命令に背いても構わないという体質にも染まっていた。東条英機は軍人というより官僚的人間であったと評されるが、官僚全般にもこのような空気は存在していたのだろう。そして(ボーガス注:モリカケ事件、桜を見る会事件、山口敬之レイプもみ消し疑惑などの不祥事が多発した)現在も日本の官僚がこのような体質と無縁であるとは思えないし、官僚のみならず日本社会全体が同様であるとしていいだろう。
 100年近く前にこの蛮行を引き起こした日本社会は果たしてその後変わったのだろうか、改めてそう問いかけざるをえないのが、日本社会の現状なのである。

「関東大震災中国人虐殺を忘れるな」華僑指導者が呼びかけ--人民網日本語版--人民日報2013年7月11日
・在日華僑の活動家として有名な旅日華僑中日交流促進会の林伯耀会長は8日、「関東大震災時の中国人虐殺を忘れるな」と華僑同胞に呼びかけた。
・仁木富美子氏*5今井清一*6など日本人研究者の調査によって得られた少数の生存者による証言によると、当時、日本軍、警察、扇動された一部市民が、暗くなった後、都内江東区大島町にある中国人居住区に押し寄せ、無抵抗な中国人を次々と殺害したという。江東区だけでも名前が判明している中国人犠牲者は600人を上回った。江東区以外でも同様の事件が起こったが、犠牲となった中国人の総数をまとめた統計資料はない。
 犠牲者には、学生運動のリーダーとして有名な王希天氏も含まれていた。王氏は、周恩来元総理と同時期に日本に留学、2人は親友同士だった。王氏は1918年、「全国学生救国団」運動の代表となった。この団体は、あの「五・四運動」を率いる団体となった。「関東大震災中国人虐殺」の情報が国内に伝わると、大きな抗議の動きがわき起こった。1924年3月4日に北京で催された追悼大会には、3万人以上の人々が参加した。
 林会長は「今もなお、日本政府は虐殺という真相に蓋をしている。歴史教科書にも、この悲惨な史実は掲載されていない」と訴えた。
 関東大震災発生時に中国人と同じく虐殺の被害に遭った韓国人は「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」を東京に建立したが、中国人犠牲者を追悼する慰霊碑は、今もなお建立されていない。

「関東大震災と中国人虐殺事件」 公文書管理のずさんさ変わらず|好書好日朝日新聞2020年4月4日掲載
 関東大震災が起きた1923(大正12)年9月1日。その翌日に戒厳令が布告された。数千人といわれる朝鮮人や、社会主義者労働運動家らが、軍隊、警察、自警団などに殺された。そして、あまり知られていないが、数百人の中国人も東京府南葛飾郡大島(おおじま)町(現・江東区)で殺されている。
 (ボーガス注:2020年)3月9日に96歳で亡くなった今井清一氏の『関東大震災と中国人虐殺事件』はこの問題にしぼり、様々な史料や先行研究を踏まえ、多角的に考えた。日本の植民地支配下にあった朝鮮人と違い、中国人殺害は外交問題になるため、「政府中枢が中国政府や日本国内の諸勢力の動きにも配慮しながら」「徹底的に隠蔽(いんぺい)」したという。
 『昭和史』(共著)などで知られる歴史学者は、自らの編著『日本の百年 震災にゆらぐ』で取り組んだテーマを、60年近く追い続けた。6章のうち、2章を新たに書き下ろした本書の「あとがき」には、こう書いている。
 「(ボーガス注:森友問題で発覚した)公文書管理のずさんさは、九十余年前の関東大震災の当時から変わりがありません」

*1:田原『関東大震災と王希天事件:もうひとつの虐殺秘史』 (1982年、三一書房)の改題、文庫化です。

*2:著書『鎌倉開府と源頼朝』(教育社歴史新書)、『権勢の政治家・平清盛』(清水新書)、『後白河上皇』、『北条義時』、『源義家』(以上、吉川弘文館人物叢書)など

*3:2011年、人文書院

*4:京都大学名誉教授。著書『近代日本の知と政治』(1985年、木鐸社)、『法制官僚の時代』(1999年、木鐸社)、『思想課題としてのアジア』(2001年、岩波書店)、『ユーラシアの岸辺から』(2003年、岩波書店)、『キメラ(増補版):満洲国の肖像』(2004年、中公新書)、『日露戦争の世紀』(2005年、岩波新書)、『憲法9条の思想水脈』(2007年、朝日選書)など

*5:著書『関東大震災 中国人大虐殺』(1991年、岩波ブックレット)、『震災下の中国人虐殺:中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』(1993年、青木書店)、『史料集 関東大震災下の中国人虐殺事件』(編著、2008年、明石書店)など

*6:1924~2020年。横浜市立大学名誉教授。著書『横浜の関東大震災』(2007年、有隣堂)、『関東大震災と中国人虐殺事件』(2020年、朔北社)など(今井清一 - Wikipedia参照)