「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2021年5/30分:荒木和博の巻)

琴電(高松琴平電気鉄道)の話(R3.5.30): 荒木和博BLOG

 令和3年5月30日日曜日のショートメッセージ(Vol.423)。高松の中心地から(ボーガス注:琴平線長尾線志度線と)三方に伸びる「ことでん」、高松琴平電気鉄道についてお話ししました。

 5分14秒の動画です。荒木は土日はこのように『土日なので肩の凝らない話題を』と言いだして、「拉致と関係ない」荒木の趣味だという鉄道話を始めますが「ふざけんな!」て話です。よく救う会関係者や家族会も荒木に怒らないもんです。
 なお、荒木曰く
1)琴電の電車は他社からの中古品の譲渡がほとんど
2)琴電は、塩江温泉に行く塩江線があったが戦前(1941年)に廃線になった。また塩江線は珍しいガソリン車だった(もちろん荒木は1956年生まれなので、塩江線についてリアルな体験はありません)
西成線列車脱線火災事故 - Wikipedia(1940年、死者189名)のようにガソリン車は引火事故により、すさまじい犠牲者が出る危険性が高いので、次第に「電車」や「ディーゼル車(軽油が燃料)」にとってかわられ、廃れていった。
3)琴電の駅名は

琴平線
◆仏生山(ぶっしょうざん)駅
◆挿頭丘(かざしがおか)駅
◆陶(すえ)駅
◆羽間(はざま)駅
長尾線
◆御坊川(ごぼがわ)駅
◆池戸(いけのべ)駅
◆鹿伏(ししぶせ)駅
◆公文明(くもんみょう)駅
志度線
◆房前(ふさざき)駅
【塩江線:戦前に廃線
◆伽羅土(からと)駅

ということで難読名が多い、とのことです。
 まあ、暇ネタとしては面白いでしょうが拉致とは全く関係ない。

【参考:ガソリン車】

鉄道トリビア(474) ディーゼルカーと気動車は同じ意味ではない - 過去には蒸気動車も | マイナビニュース
 かつて、日本の鉄道にもガソリンエンジンを搭載した車両があり、「ガソリンカー」と呼ばれた。しかし、ディーゼルカーが使う軽油に比べて、ガソリンは揮発性が高く、火花などから引火しやすかった。そこでディーゼルエンジンが主流になっていった。

柳に風:脱線火災、記憶に刻む=松井宏員 | 毎日新聞2020/3/2
 大阪市此花区のJR桜島線安治川口駅近くに、1基の慰霊碑がひっそりと建っている。先週、訪ねてみると、花とともに40本余りのペットボトルの飲料水などが供えられていた。
 1940(昭和15)年1月29日朝、当時西成線といったこの路線は、桜島の軍需工場へ通勤する“産業戦士”と呼ばれた工員数百人ですし詰めだった。ダイヤより遅れており、後続列車が迫っているのに焦った信号掛がポイントの切り替えを誤って転覆。燃料がガソリンだったから、あっという間に火が回り、191人が犠牲になった。80年後の今も国内史上最大の列車事故だ。
 大阪市に住む堀出悟生(さといき)さん(79)は、今年も1月29日の朝、慰霊碑に赴いた。叔父の堀出悟郎さんが亡くなっているからだ。「勉強もできて、柔道も剣道もできた」という悟郎さんは、郷里の徳島を出て桜島住友金属工業に就職。事故当時、まだ16歳だった。
(この記事は有料記事です)

【参考:塩江線(塩江温泉)】

昭和初期を駆け抜けた「幻のガソリンカー」 塩江温泉鉄道の展示会 香川 | KSBニュース | KSB瀬戸内海放送2019/8/20
 塩江温泉鉄道は1929年(昭和4年)、高松市の仏生山と塩江の間で開通し、ガソリンを燃料に走ることから「ガソリンカー」と呼ばれ、県民に親しまれました。
 昭和初期の塩江は温泉街として栄え、大きなにぎわいを見せていました。塩江温泉鉄道は温泉に向かう多くの人を運びましたが、開通から12年後の1941年(昭和16年)、戦争などの影響で廃線となりました。

少女歌劇 - Wikipediaから一部抜粋
 大正から昭和初期にかけ少年少女音楽隊ブームを背景に誕生し、その後、女性のみによるレビューとして発展した。
 宝塚歌劇団OSK日本歌劇団(旧:大阪松竹歌劇団)、松竹歌劇団(1996年に解散、愛称:SKD)となった3団体が三大少女歌劇として特に有名だった。
 宝塚少女歌劇団が1914年(大正3年)の第1回公演で「少女歌劇」という名称を用いたのが最初で、当時の新聞には「日本で初めての少女歌劇」と銘打った広告が出ている。なお、三大歌劇団はいずれも1940年代に「少女」の文字を団名から外した。
【過去、存在していた団体】
◆塩江温泉少女歌劇(香川県塩江温泉・花屋旅館):1929(昭和4)~1940(昭和15)
 少女ジャズバンドも売り物の一つであった。

少女らの夢の舞台、今は足湯に 消滅した「四国の宝塚」:朝日新聞デジタル(石川友恵)2020年7月31日
 山並みや洋館を描いた舞台の上で、ドレスやレオタードの少女たちが息を合わせて踊る。高松市の塩江地区には戦前、少女歌劇団があり、「四国の宝塚」とも呼ばれた。
 塩江町歴史資料館に、舞台を撮った写真や絵はがきが展示されている。モノクロだが、きらびやかな飾りがついた衣装をまとい、化粧をしているのが分かる。ほかにも、サックスやチェロを演奏する少女、看板俳優の花屋富子の絵はがきも残る。
 資料館を運営する「安原文化の郷歴史保存会」によると、塩江は、高松方面とを結ぶ鉄道ができた1929年ごろから温泉街として開発が進んだ。
 旅館「花屋」が建ち、専属の「塩江温泉少女歌劇」が結成された。舞台の演芸場は、旅館の隣でビリヤードや大浴場も備えた「温泉館」にあった。桟敷席が設けられ、300人が入れた。
 当時の舞台を見た人たちの記録によれば、10~20代の少女たちが集まり、宝塚歌劇団のように歌や踊りを披露した。約30人が2組に分かれて活動し、ジャズバンドもあった。
 少女たちは、演芸場の裏手にある寄宿舎に住み、稽古を積んだ。本場の宝塚から講師を招くこともあったという。シナリオを書く専属の作家もいて、演目は「鬼退治」や「一寸法師」「カモメの水兵さん」など。1カ月ごとに入れ替える形で1日2回、年中無休で上演された。
 幼少期に公演を見た地元の蓮井晃子(てるこ)さん(89)は振り返る。
 「女性たちが足を上げて踊り、最後は旗が下りてきて、日の丸を持って終わった」
 1月に94歳で亡くなった夫の正文さんも、たびたび公演を見に行っていた。2人で当時の思い出話をよくした。「思えば、昔の塩江には宝塚のような舞台もあったし、食堂とか散髪屋とか何でもあった。山のほうなのに、まるで大阪や東京に行く感じだった」と懐かしむ。
 歌劇団は、太平洋戦争直前の40年になくなった。その後、演芸場があった温泉館も取り壊され、旅館「花屋」も焼失。舞台に立っていた少女たちの出身地などの記録は残っておらず、歌劇団を見たことがある人も少なくなった。
 旅館の跡地には、温泉施設「行基の湯*1」が立つ。無料で入れる足湯もあり、疲れを癒やしに今も多くの人が訪れている。

塩江の観光鉄道「ガソリンカー」 よみがえれ往時の姿:朝日新聞デジタル2021年3月5日
 昭和初期に高松市の旧塩江(しおのえ)町へ温泉客を運び、わずか12年で廃線になった塩江温泉鉄道。消滅した鉄路を走っていた「ガソリンカー」を復活させ、町おこしに生かそうと、地元の住民や大学生が模型作りに取り組んでいる。
 ガソリンカーは1929(昭和4)年、仏生山(ぶっしょうざん)―塩江間の約16キロを走る観光鉄道として開通した。ガソリンを燃料とし、塩江温泉郷へ向かう観光客や住民の足として活躍した。戦時色が濃くなる中、経営が悪化し、41年に廃線となった。
 プロジェクトの中心になったのは、元塩江町地域おこし協力隊員の村山淳さん(31)だ。
 村山さんは「幻の鉄道だったガソリンカーを歴史遺産として調査し、観光資源として人を呼べるようにしていきたい」と話した。

【参考:琴電

高松琴平電気鉄道 - Wikipedia参照
 1997年、そごうグループと提携して、瓦町駅に「コトデンそごう」を開店した。しかし、バブル経済期の甘い見通しのもとに立てられた収支計画や2000年のそごうグループ経営破綻の余波を受け、2001年(平成13年)1月22日にコトデンそごうは民事再生法の適用を申請し閉店。コトデンそごうへの債務保証が原因で高松琴平電鉄は経営難に陥り、2001年12月に子会社のコトデンバス(現在のことでんバス)とともに民事再生法適用を高松地裁に申請した。結果、経営者である大西一族は退陣、代わりに香川日産グループや地元の大手食品メーカー「加ト吉」(現・テーブルマーク)などの支援を受け、経営再建することになった。この再建計画は2006年3月に終了した。かつては「琴電ことでん)」、後に片仮名書きの「コトデン」の愛称で親しまれていたが、民事再生法適用申請後、イメージを一新するために「ことでん」と平仮名書きに改めた(ただし、駅名には漢字の「琴電」が引き続き使われる)。
◆路線
 全線とも軌間は1435mm(標準軌)。路線はすべて讃岐平野に存在し、一切トンネルが存在しない。途中下車の制度があり、指定された駅については、その駅までと同額の乗車券でなければ途中下車が可能である。指定駅には無人駅も含まれるが、この場合は下車時に列車の乗務員に申告する。ただし、IruCa利用の場合は非適用となる。
◆エピソード
民事再生法適用前は琴電ことでんバスともに、バス運転手や車掌、駅員の乗客に対する横柄な態度が問題視されていた。そのため民事再生法適用時も「身から出た錆」などと住民は当初、琴電支援に消極的だった。
・マスコットキャラクター「ことちゃん」がイルカになった理由やICカードの名前が「IruCa(イルカ)」になった理由は、民事再生法適用時に「琴電は要るか」という批判に対応したことに由来するといわれる。
琴電では一部を除き他社からの譲渡車両が利用されている。出自も日本国有鉄道国鉄、現・JR)、東武鉄道京浜急行電鉄京急)、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)、名古屋鉄道名鉄)、名古屋市営地下鉄近畿日本鉄道近鉄)、阪神電気鉄道山陽電気鉄道、山形交通(現・ヤマコー*2)、東濃鉄道*3三岐鉄道玉野市営電気鉄道(現在は廃線)と多彩をきわめ、形式も細分されていたことから、ファンの間では広島電鉄ともども「動く電車の博物館」と呼ばれていた。

現役最古の電車、95歳で引退 「余生」はお遍路休憩所:朝日新聞デジタル(福家司)2020年10月2日
 香川県内を走るローカル私鉄、高松琴平電鉄ことでん)は、現役の電車としては日本最古だった「20形23号」などの引退を記念した特別運行を先月20、21日、琴平線で行った。23号は1925年製造で61年に近鉄から譲渡されて以来、長く親しまれた。引退後は、お遍路さんの休憩施設として活用される。
 95年間、おつかれさま。
 21日夜にあった23号などレトロ電車の特別運行の最終便に記者も参加した。4倍近い競争率をくぐり抜け、幸運にも乗車券を手にすることができた。
 4両はいずれも非冷房。40年ほど前に夏場は蒸し風呂のような満員電車で瓦町―太田間を通学した頃を思い出した。
 今やこの4両を除いて、ことでんの冷房化率は100%という。激しい揺れと独特のモーター音で走る電車もこの4両のみとなり、時の流れを感じた。

なぜか香川に赤い電車が ことでんとの絆、くるりも歌に:朝日新聞デジタル2020年12月5日
 ことでんの車両の半数以上は京急から譲渡されたもの
 京急の車両を多く使う理由について、ことでんの車両担当、黒川誠さんは「両社は軌間(線路の幅)が同じで台車などが活用できる。」と説明する。今後も京急に譲渡を求める可能性があるという。

*1:命名は「行基奈良時代の高僧)が塩江温泉を発見した」という伝承による。行基 - Wikipediaによれば、「群馬県草津温泉」「石川県の山中温泉」など、他にもそうした伝承がある温泉地が存在する。なお、資料的裏付けは無く、後世の作り話と考えられている。

*2:現在は鉄道事業から撤退しておりマンション・商業ビル・駐車場賃貸やバス事業を展開(ヤマコー - Wikipedia参照)

*3:現在は鉄道事業から撤退しておりバス事業を展開(東濃鉄道 - Wikipedia参照)