なぜ政府は2人の拉致被害者を見捨てるのか?(4) - 高世仁のジャーナルな日々
拙記事珍右翼・高世仁に突っ込む(2022年5/28日分)(副題:『即時一括全員帰国路線が二人を見捨てた』という高世の救う会、家族会批判に驚く)(追記あり) - bogus-simotukareのブログで批判した高世記事なぜ政府は2人の拉致被害者を見捨てるのか?(3) - 高世仁のジャーナルな日々の続きです。
29日、「拉致被害者の即時一括帰国を!私たちは決して諦めない! 国民大集会」が東京で開かれた。
国民集会での方針は事実上、政府方針となり、歴代総理はその場で、「不退転の決意でまい進することをお誓い申し上げる」と言うのが決まったパターンになっている。
今回も「全ての拉致被害者の即時全員一括帰国」が既定路線として確認されたことを、拉致被害者とその家族のために悲しむ。また拉致問題が進展せぬまま、時間だけが過ぎていくことになるのか、と。
(ボーガス注:2002年の小泉訪朝から)20年ものあいだ成果がないとなると、即時全員一括(ボーガス注:帰国)で一発逆転を狙う*1しかなくなる。時間がすぎればそれだけ焦りはつのり、方針は「過激化」する。しかし、それは袋小路への道である。
(ボーガス注:モリカケ、桜疑惑などを批判した朝日新聞、東京新聞などのリベラルメディア、共産党機関紙・赤旗など)普段は厳しく政府を批判するメディアでも、こと拉致問題となると、急に矛先が鈍ってしまうのはなぜか。
それは、拉致問題をめぐる方針が「家族会」から出ているように見える*2からだ。その批判をためらってしまうのは、被害者家族という圧倒的な「被害者性」ゆえである*3。
酷い事故に遭ったり、不幸に見舞われた本人や家族を前にすれば、その人たちの気持ちに寄り添おうとするのは人情である。そうした配慮や忖度はメディアにも働く。ただ、それが過剰になっていることが問題だ。
2006年に共同通信が平壌に支局を開設するさい、事前に「家族会」に開設してよいか「おうかがい」を立てた*4と聞く*5が、「家族会」の「聖域」化はここまできたのかと驚く。「家族会」が「圧力団体」と化しているとの声も聞く。
「家族会」、「救う会」、「政府(内閣)」のまるで三位一体のような構造はいかにして作られたのか。そしてそれがなぜアンタッチャブルになるのか。
(つづく)
「お前だって巣くう会や家族会に媚びて、アンタッチャブルな存在にすることに加担した一人だろ、偉そうなことを言える立場か!」とは思いますが、「赤字部分」の主張それ自体は正論だと思います。
しかし、赤字部分は「ついに高世もここまで言うようになったか」ですね。(つづく)という「次の記事」でもこうした批判の言葉がやはり飛び出すのか。
*1:小泉訪朝当時から「即時全員一括帰国」が巣くう会、家族会の主張なので高世の言うような「焦り」という話ではないでしょう。
*2:「見える」のではなく実際そうでしょう。勿論「家族会の方針=事実上、巣くう会のいいなり」ですが
*3:拉致問題ほど酷い話は珍しいですが「無茶苦茶なことを言う被害者に対して批判の矛が鈍る」のは珍しいことではありません。例えば名古屋闇サイト事件における被害者の母親の主張を批判する(1) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)、名古屋闇サイト事件における被害者の母親の主張を批判する(2) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)、 裁判官が判例に固執することを批判して、なにがどうなってほしいんだか - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)、法律家とかジャーナリストとかいう仕事は、情よりも冷徹さが必要なんじゃないの - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)が批判する「名古屋闇サイト事件被害者遺族の母親」と「毎日新聞など一部マスコミ」の癒着(?)関係はその一例です。
*4:そのときに「構わない」という回答だったのか、「置くな」という回答をあえて無視したのか、気になるところです。なお、共同通信 「平壌支局」撤退の真相:FACTA ONLINE(2017年7月号)によれば2017年3月に撤退したようです(2006年9月設置なので10年ほどの支局設置)。
*5:いつ高世がその話を聞いたのか、そして「今回のように、家族会に対して批判的考えを持つようになった」のはいつなのかを明確に語って欲しいもんです。もし「2006年当時にその話を聞いてその当時から今回のような批判意見を内心持っていた」が家族会からの個人攻撃を恐れて「何も言わずに家族会に同調していた」のなら高世は反省の言葉を口にすべきです。なお、この話、恐らくメディア業界では「公然の秘密」でしょう。