自己嫌悪による自殺(緩慢な自殺もふくむ)というのは、正直なんとも手を打つのが難しい - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
「自己嫌悪による自殺(アル中による自殺も同然の死など緩慢な自殺もふくむ)」といって俺が思い出したのが、かなり以前の拙記事「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」を笑おう・パート111(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログで取り上げた寺田ヒロオですね。
ウィキペディアの
寺田ヒロオ - Wikipedia
1931~1992年(享年61歳*1)。
1950年代後半から1960年代前半にかけて人気漫画家となった。1956年から連載をはじめた『背番号0』、週刊少年漫画雑誌『週刊少年サンデー』1959年創刊号から連載された『スポーツマン金太郎』などの野球漫画は特に有名。『スポーツマン金太郎』は1960年、第1回講談社児童まんが賞を受賞。『暗闇五段』(週刊少年サンデーに1963~1964年に連載)は不慮の事故で失明、記憶喪失となった柔道家を主人公にした作品で、1965年に千葉真一主演で『くらやみ五段』としてNET(現・テレビ朝日)でテレビドラマ化された。
しかし、1960年代からの漫画業界は、劇画ブームの影響から、リアルで映像的な画調と刺激的なストーリーがもてはやされるようになり、正統派児童漫画だけを書き続ける寺田の作風は、時流から取り残されるかたちになっていった。徐々に著作のペースを減少させ、寡作となっていった。まず1964年、『暗闇五段』の終了を最後に、週刊誌の連載から撤退。活動の場は小学館の学習雑誌などの月刊雑誌に限定されるようになったが、1973年には漫画家そのものから完全に引退した。その際、手塚治虫がしばらく休んで思いとどまるようにと説得したものの、耳を貸さなかったという。手塚やトキワ荘時代からの漫画家仲間(赤塚不二夫、石森章太郎、藤子Ⓐ、藤子Fなど)も、内心では頑固な寺田にほとほと困っていたが、何とか復帰させようと幾度も諭したものの、功を奏することはなかった。この時期、トキワ荘時代の仲間に送られた手紙に書かれてあったのは、現役時代からは想像もつかないほど弱気な内容で、受け取った方も驚いたという。
引退後は、トキワ荘時代の仲間とすらほとんど会わなくなる。1981年、取り壊しが決まったトキワ荘に当時のメンバーが集う「同荘会」が企画されたとき、寺田は招待されながら姿を見せなかった。
1990年6月23日、突然トキワ荘の仲間(藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一、つのだじろう*2)を自宅に呼んで宴会を催し、終了後、去ってゆく仲間たちにいつまでも手を振り続け、「もう思い残すことは無い」と家族に話したという。翌日、藤子Ⓐは礼を伝えるため、寺田宅に電話をかけたが、寺田は電話口に出ず、妻を通じて「今後一切世俗とは関わらない」との旨を伝えた。なお、この宴会の模様は鈴木がホームビデオで撮影しており、後年ヒストリーチャンネル制作の番組『20世紀のファイルから-証言・あの時、あの人-』(第29話:マンガがすべてだった・「トキワ荘」の頃)で一部が公開されている。
寺田はこの時期、漫画家の棚下照生によく電話をかけていたという。電話口で泣きながら「会いたい」と言う寺田に「今すぐ行く」と伝えると「いや、会いたいけど、来ないでくれ」と訴える状況を振り返り、棚下も藤子Ⓐ同様に、「結局ね、寺田は死にたかったんじゃないかな。寺田は、ゆっくりゆっくり死んでいったんじゃないかな」と述べている。
その後は一人自宅の離れに住み、母屋に住む家族ともほとんど顔を合わせることはなかった。朝から酒を飲み、妻が食事を日に3度届ける生活を続けていたが、1992年9月24日に朝食が手つかずで置かれたままになっているのを妻が不審に思い、部屋の中に入ったところ、既に息絶えているのが発見された。妻は晩年の寺田について「身体が悪くなって、病院に行ってくれと頼んでも、行こうとしないんです。色々手を尽くして、あきらめました。この人は、もう死にたいんだなって…」と、ただ見守るしかなかった状況を語っている。
と言う記述は「緩慢な自殺」以外何物でもないでしょう。
「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」を笑おう・パート111(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログで紹介した動画寺田ヒロオ最後のトキワ壮同窓会 - YouTubeでの藤子不二雄A(我孫子素雄)のコメント(以下は俺の要約なので一言一句同じではありません)も
「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」を笑おう・パート111(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログ
藤子A(我孫子)
「宴会の次の日に僕はお礼の電話をかけた。奥さんが出たんです。『テラさんに代わってもらえませんか』と言ったら奥さんが『寺田は今日から、我孫子さんたちとも一切会わないし電話にもでないと言ってます』と。結局それが最後だったんだよね。だからテラさんの中でその日(我孫子との宴会の日)、一種の決断があったんじゃないですかね。一種の『緩慢な自殺』というんでしょうか。誰にもまねすることのできない生き方ですね。でも僕は『それで良かったのかも知れない』と言う気もするわけです」
と言う代物です。
あるいは『寺田ほど悲壮ではない(赤塚には、晩年は人付き合いをほぼ打ち切った寺田ほどの自己嫌悪、自殺願望は恐らくなかった)』とは言え、晩年、アルコール依存症が酷くなった赤塚不二夫も『緩慢な自殺』でしょうし、その原因は寺田同様の「『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』『もーれつア太郎』で売れっ子だったのに、才能の枯渇で次第にヒット作品が生み出せなくなった苦悩」ではあるでしょう。
こんな金の使い方していたら、金なんかいくらあったって足りるわけがない - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
上記記事は最近、生島ヒロシについての文春記事を読んで思い出した記事です。
≪不動産8億円、金融商品2億円の損失!≫民放全局でレギュラー番組を持ち、フリーアナとして栄華を極めた生島ヒロシ(71)が巨額借金を背負った“年利60%の魔力”(文春オンライン) - Yahoo!ニュース
生島
TBS時代の年収が1200万、それが、フリー1年目から億に到達するんです。2年、3年目と倍々に増えていって、10年くらい続きましたね。
仕事も、司会やインタビューもたくさんさせてもらいました。海外だと、トム・クルーズとかメル・ギブソン*3、MCハマーに会ったり。あとはゴルバチョフさんや、他にも数々の方とお会いして。もう、ひたすら働きましたよ。次々と依頼がくるので、仕事は尽きないものだと錯覚してましたね。
ただ、テレビにたくさん出たり、この人儲かってるなって思われると、どんどん色々な人が寄ってくるんですよ。いい人も、そうでない人も。そこにお金も絡んできて。
たとえば大学時代の親友ですね。僕がフリーになって2、3年。たぶん41、2歳の頃かな。今は美術館とかで、イヤホンをつけて音声案内するようなものってありますけど、当時は無かったんです。それを親友の会社が開発して、僕も面白いと思って、西武の方にイヤホンを持って行って交渉したり、金銭的にも協力したんです。彼に2500万くらい投資しましたね。
でも、結局そのプロジェクト自体がダメになっちゃったんです。彼は、毎月返すって言ってましたけど2カ月経っても入金がない。3カ月、4カ月経っても返済が無くて、最後は連絡も取れなくなっちゃいました。
あと、金融商品。先物取引をやってる友人Aから勧められたんです。先物取引ってすごい複雑で、よくわからないんですよ。それで、勧めてきたAに「お前に任せる」と言って、初回に100万いれたら、数カ月後に700万になったんです。え?こんなことあるの? って、驚いちゃって。初回からいきなり7倍になるって中々無いじゃないですか。それで味をしめちゃったりして。
僕もね、ついつい人を信用しちゃうんですよ。性善説というか。色々なところから美味しい話がきて、金融商品の細かい内容を聞くよりも、「あんたが言うなら、間違いないね」ってやるタイプ。これが一番良くない。よく、詐欺の番組なんかで「騙されちゃいけませんよ!」ってカメラに向かって叫んでましたけど、自分だけは大丈夫だと思い込んで騙されてる。
インタビュアー
自宅や事務所、マンションなど不動産の購入と、金融商品など合わせて、トータルでどれくらいの借金になったのでしょうか?
生島
たぶん10億円くらいですかね。不動産で8億、金融商品で2億くらい。金融商品は、他でお金を借りてやっていたわけじゃなくて、自分の持ち金の中からやっていたから、正確には損失という感じですが、それでも合わせて10億くらいだと思います。ほんと、金銭管理できてなかったですね。
と言う生島のカネの使い方は「怪しい人間がすり寄ってくるところ」など、こんな金の使い方していたら、金なんかいくらあったって足りるわけがない - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)が紹介する無謀なカネの使い方に似ています。
とはいえ「こんな金の使い方していたら、金なんかいくらあったって足りるわけがない - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)が紹介する面子」と生島が「違う」のは生島が今も「芸能プロ生島企画室」(ホームページの記載に寄れば元TBSアナの吉川美和子、女優の浅野温子、元ダイエーホークス監督、野球評論家の田淵幸一、≪借金約10億円!毎月返済700万円!≫仕事は減り、親友に騙され、通販番組へ「生島さん、テレビで全然見ないね」…どん底で救ってくれたのは、あのマルチタレントだった⁉(文春オンライン) - Yahoo!ニュースで名前が出てくる優木まおみなどそれなりに有名な芸能人も所属)の経営者であり、
◆生島ヒロシのおいしいフライパン - Wikipedia(フジテレビ、1989~1990年)
◆生島ヒロシのもっと・自由な生活 - Wikipedia(フジテレビ、1990年)
「生島ヒロシのおいしいフライパン」の後継番組
といった売れっ子時代(1990年代前半:生島は1989年にTBSを退社して独立)のテレビではなく、「ギャラがテレビより低いラジオ」であるとはいえ、
◆生島ヒロシのおはよう定食 - Wikipedia(TBSラジオ(関東ローカル限定)、1998年~、平日5時~5時半)
◆生島ヒロシのおはよう一直線 - Wikipedia(TBSラジオ(全国ネット)、1998年~、平日5時半~6時半)
関東の新聞ラテ欄では『生島ヒロシのおはよう定食&一直線』、あるいは単に『生島ヒロシ』と書かれ、5時~6時半をひとつの番組としている。
という「冠番組を今も持ってる」点ですね。「将来はともかく*4」生島は「無茶苦茶なカネの使い方で自滅した佐藤忠志氏」のようには今のところなってないわけです。やはり生島と「佐藤氏など自滅した連中」は「自らの人間性」「周囲の人間」など、何かが違ったのでしょう。
さて生島の借金返済については以下を紹介しておきます。
≪借金約10億円!毎月返済700万円!≫仕事は減り、親友に騙され、通販番組へ「生島さん、テレビで全然見ないね」…どん底で救ってくれたのは、あのマルチタレントだった⁉(文春オンライン) - Yahoo!ニュース
インタビュアー
独立されて10年過ぎたあたりから、徐々にテレビに出る機会も減っていかれたような。
生島
それまで、ほとんど毎日テレビに出ていたんですが、だんだん自分が担当する番組も終わっていきました。前は、番組が終わっても次の番組が決まっていることが大半でしたが、それも無くなってきて。一抹の寂しさは確かにありましたよね。
タクシーに乗っても、「最近見ませんね」って運転手の方からミラー越しに言われるわけですよ。あー、俺も終わったなって。この先どうなるのかなって気持ちが沈んじゃって。
インタビュアー
そのとき声が掛かったラジオ番組*5は、かなり朝早い時間帯ですよね。今までのテレビのお仕事とはずいぶん違う時間帯かと。
生島
正直、ラジオのオファーがきたときは、「朝5時って誰が聴くの?」って思いましたよ。でも、それ以上に借金がありましたから。社会的責任として、まずは(ボーガス注:借金を?)払わないといけない。もう、来る仕事はなんでもやろう。カッコつけてられないって思ったんです。だから通販だからとか、テレビに比べてラジオのギャラが安いとかどうでもいい。あれだけテレビのレギュラー番組を持ってた人がって言われても馬耳東風。そんなことより、なりふり構わず自分の社員と家族を守ろうって腹を括ってね。ある意味、開き直ったというか。
インタビュアー
それは、途中からそう気持ちが切り替わっていかれたのでしょうか?
生島
もうね、どこ行っても「生島さん、テレビに出なくなった」「全然見ない」って、もう何年も何年も、ずーっと言われ続けるわけですよ(笑)。あまりにも言われるから、「もういいよ、分かったよ」って(笑)。「はい、もうオファー来ないんですよ~」って開き直ってからわりと気が楽になりましたね。
やっぱり、人気が落ちたら落ちたで、自分のニーズが無くなってきているわけですから。もちろん、ちょっと悔しい思いはありましたよ。でも、ある段階からカッコつけなくなった。生きていくためには、やっぱり見栄をはっちゃいけないなって思いますね。
インタビュアー
借金を返済されていくなかで、優木まおみさんが事務所に入られたそうですね。
生島
今から20年前、彼女が21、2歳くらいの学生でしたね。テレビ局の人たちを集めてオーディションをして、200人くらい参加したのかな。その中で、一番面白かったのがまおみちゃんでした。名前が売れるまで3年くらい掛かりましたね。テレビ局のアナウンサー試験を受けても全部落ちて、事務所の電話番とかアルバイトみたいなこともしていて。
でもあるとき、雑誌の編集者の方が「エロかしこい」というネーミングをつけてくれたら、そこから一気に売れたんです。当時、東京学芸大学卒、いわゆる高学歴でグラビアをやるのは珍しかったんでしょうね。賢い人がグラビアやるんだ! って。本人もキャパが大きくて、あんまりあれがいやだ、これがいやだって言わないし、ネーミングもすんなり受け入れて。
インタビュアー
優木さんの活躍は、借金返済にも貢献されたとか。
生島
まおみちゃんが活躍して、すごい勢いで稼いでくれたので、どんどん実入りが増えてきましたね。事務所の売り上げが増えて、スタッフの給料とかボーナスも出しやすくなって。
もちろん、彼女一人に寄りかかって「まおみちゃん、よろしくお願いします……!!」ってやってたわけじゃないですよ。僕は僕で(ボーガス注:借金を?)払ってたんですけど、彼女が貢献してくれて事務所が潤ってきたのは確か。まおみちゃんが救ってくれたのは間違いないですね。
まおみちゃんが活躍して、他のタレントも育って来て。その結果、借金が全て綺麗になったときは、快哉を叫びましたよ。やっとホッとしたなって。
インタビュアー
借金完済後は、金融商品を購入されたり、何か投資は行なっていますか?。または、すっぱり身を引かれたのでしょうか。
生島
今もやってますね……。バカは死ななきゃ治らないって感じで(笑)。国内だけでなく、海外を含めた金融商品も買ってますね。もう、マーケットが激しくなればなるほど儲かる、みたいなやつは避けてますけど。
インタビュアー
10億円の借金を抱えていたときを振り返って、怒りとか自暴自棄になることはなかったですか?。
生島
落ち込んで眠れない夜もたくさんあったし、瞬間湯沸かし器みたいに「バカヤロー!」って怒った日もありましたよ。でもね、数日経つと、「ま、いっか」ってなっちゃうんです。最終的に投資は自己判断だし、自分がバカだったって。
あと、他からお金を借りたとか、何かを担保にしていたわけじゃなく、自分の持ち金から勝負していたので、致命傷な損失ではなかったというか。
もちろん、そうは言っても今でも許せない人もいます。損失証明を出してくれってお願いしたまま、海外に逃げちゃったとか、消息がわからない人とか。訴えてやる! って思ったことも何度もありましたけど、でも、まぁ、命取られるわけじゃないし。ま、いっかって。
僕は幸いにして、病んだり鬱にもなってないんです。あと、そのときにはじめたラジオ*6が今年で25年目になりますが、これも良かったのかな。嫌なことがあっても、毎朝必ずスタジオに行って喋らないといけない。毎日生放送があるから、悩んでる暇がなかったというか。やることが常にある。「ま、いっか! 仕事もあるし」ってね。今でもスタジオに行くのが楽しみなんですよ。自分の興味のある人に会えたり、朝から90分爽快に喋って、よし、今日も一日頑張ろう! ってすごく気分がいいんです。
ラジオ通販もテレビ通販もスポンサーから「費用対効果トップ」と、お褒めの言葉を頂き、プロとして結果を出し続ける事が重要と感じている今日この頃です。
確かに、僕は、お金ではすごい損をしましたよ。借金がなければ、今頃もっと貯まっていただろうって思いますけど、もう過ぎたことですし。
僕は紆余曲折あったけど、人に関しては恵まれてるなって。それはすごく貴重な財産だと思いますね。あとは、やっぱり「ま、いっか」と割り切って、見栄を張らない。今も毎日忙しく過ごしているし、仕事も人生もまだまだ楽しいことが続きそうです。
*1:石森章太郎(享年60歳)、手塚治虫(享年60歳)、藤子F(藤本弘、享年62歳)も寺田並みに短命ですが、彼らの場合、寺田と違い「緩慢な自殺」ではなく「売れっ子としての死去」ですからね。
*2:鈴木、つのだ以外は既に全員故人です。
*3:1995年の『ブレイブハート』でアカデミー監督賞を受賞
*4:「そうした生島の悲惨な末路は見たくない」という「願望込み」ではありますが、多分将来も佐藤氏のような末路にはならないのだろうと思います。
*5:現在も生島が司会を務めるTBSラジオの『生島ヒロシのおはよう定食』『おはよう一直線』(1998年から放送開始)のこと
*6:現在も生島が司会を務めるTBSラジオの『生島ヒロシのおはよう定食』『おはよう一直線』(1998年から放送開始)のこと