新刊紹介:「歴史評論」2025年4月号

特集「歴史学と科学運動の現在」
◆歴科協における科学運動(大日方純夫*1
(内容紹介)
 歴史科学協議会(歴科協)の事務局長(1991~1994年)、「歴史評論」編集長(2003~2006年)、代表委員(2006~2009年)などを務めた筆者が自らが関わった時期を中心に過去の活動を振り返っていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 勿論「歴科協」の運動は必ずしも「政治的な運動」ではないですが、「歴史学の見地からの権力批判」が重要な要素であり、その観点から
1)昭和天皇死亡(1989年1月)前後のマスコミ(村野瀬氏風に言えば報道業者)等による昭和天皇美化への批判
→この頃の「歴史評論」も特集『いま天皇制を考える』(1989年2月号)、『天皇制と一五年戦争』(1989年10月号)、『象徴天皇制の今日:今日の天皇問題と天皇制研究』(1990年2月号)、『現代歴史学天皇制』(1990年4月号)、『「昭和天皇」と新史料』(1990年8月号)を実施(目次だけだが、当時の雑誌についてバックナンバー(300-659号)で確認できる)
 なお、こうした「昭和天皇」美化批判の第一人者としては例えば山田朗*2がいる。
2)新しい歴史教科書をつくる会(1997年結成)など「慰安婦違法性否定」など「右翼の歴史修正主義」への批判
→この頃の「歴史評論」も特集『「自由主義史観」の批判的検討:藤岡信勝氏らの歴史観を批判する』(1996年9月号)、『日中戦争六〇年*3』(1997年9月号)、『「従軍慰安婦」問題』(1998年4月号)、『教科書攻撃を批判する』(1998年7月号)を実施(目次だけだが、当時の雑誌についてバックナンバー(300-659号)で確認できる)
等が重要な活動の一つであったと指摘されています。


◆軍事主義国家への変容と歴科協(小林啓治*4
(内容紹介)
 「第二次安倍*5内閣」「岸田*6内閣」「石破*7内閣」による「日米安保強化(集団的自衛権容認)」「武器輸出の緩和」「軍拡予算」といった「日本の軍事主義国家」への批判、対抗が「筆者にとっての歴史学」「筆者にとっての歴科協」の重要な意義とされていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 なお、筆者は「全てを日米同盟(日米安保)で説明することは適切ではない」が日本において「日米同盟による軍拡、軍事化圧力」が存在することを重要視する必要があるとしています。
 また、筆者は「日米同盟」と言う言葉は「社会党が強い力を持った1980年代はあまり使われなかった(軍事同盟であるかどうか、曖昧に自民党政権もごまかしていた)」が、社会党が自社さ連立で日米安保を容認し、また社会党が衰退するにつれ、最大野党の民主党が「日米安保」に批判的でないこと(日本においては「安保廃止論」の共産党以外は日米安保容認*8)から「日米同盟」と言う言葉がマスコミ(村野瀬氏風に言えば報道業者)等で無批判に使われてること、なかには「日本外交の基軸」とまで呼んでるマスコミ*9があることについて「日米同盟と言う言葉の持つ政治性(専守防衛以外の軍事行動を正当化する意味合い)を問題視すべきだ」と批判している。
 なお、筆者は「第二次安倍以降」、「日米安保強化(集団的自衛権容認)」「武器輸出の緩和」「軍拡予算」など軍事国家化が進展したことを軽視すべきではないとしているが、自民党は1955年の結党時点から「九条改憲」を一応党是としており、また「ベトナム戦争の後方支援(佐藤*10内閣)」「新ガイドライン関連法の成立(橋本*11内閣)」等と言ったことを考えれば自民党は結党以来、ずっと軍事大国化を志向しており、それを野党などの批判で封じ込めていたと評価すべきだとしている。


◆2000年、あの頃のこと(野尻泰弘*12
(内容紹介)
 2020年に歴科協事務局長を務めた筆者が当時を振り返っていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆座談会「2000年代の歴科協を振り返って」(大橋幸泰*13、小嶋茂稔*14高岡裕之*15、服藤早苗*16、源川真希*17、割田聖史*18、佐々木啓*19
(内容紹介)
 2000年代に歴科協の事務局長、代表理事など役員を務めた諸氏が当時を振り返っていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。勿論歴史評論サイト一般財団法人 歴史科学協議会に掲載されてる様々な声明(最近の物しかないですが)

声明「再び日本学術会議の法人化に反対する」(2025年2月10日)

も2000年代の歴科協の活動の一部です。
 また、

バックナンバー(300-659号)
 1975年からの「歴史評論」バックナンバーであり、2000年代より前を含む。また目次のみ確認できる(論文は読めない)。
『歴史評論』バックナンバー660号(2005年4月号)以降
 目次のみ確認できる(論文は読めない)。

で2000年代の「歴史評論」が確認できます。


◆歴史のひろば「暉峻衆三さん*20の人と学問」(大門正克*21
(内容紹介)
 暉峻氏に対する追悼文ですが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆歴史の眼「『佐渡島の金山』世界遺産登録が歴史学研究に突きつける課題」(竹田和夫
(内容紹介)
 勿論、

【竹内康人氏*22
◆『佐渡鉱山と朝鮮人労働』 (2022年、岩波ブックレット)
◆『朝鮮人強制労働の歴史否定を問う:軍艦島*23佐渡・追悼碑*24・徴用工』(2024年、社会評論社

等が問題視する「戦前の朝鮮人強制連行の問題」についても触れられていますが、筆者は「負の側面」として「政府、新潟県佐渡市」によって消されているのはそれだけではないとしている。
 江戸時代においても

佐渡金山 - Wikipedia参照
 江戸時代後期の1770年頃からは、江戸や大坂などの無宿人(浮浪者)が強制連行されて過酷な労働を強いられたが、これは見せしめの意味合いが強かったと言われる。無宿人は主に水替人足の補充に充てられたが、これは海抜下に坑道を伸ばしたため、大量の湧き水で開発がままならなくなっていたためである。
 水替人足の労働は極めて過酷で、「佐渡の金山、この世の地獄、登る梯子はみな剣」と謳われた。江戸の無宿者は、この佐渡御用を何より恐れたといわれる。

水替人足 - Wikipedia参照
 天明の大飢饉などで発生した無宿者が大量に江戸周辺に流入し、様々な凶悪な罪を犯すようになった。その予防対策として、犯罪者予備軍になりえる無宿者を捕らえて佐渡金山に送り、彼らを人足として使役した。
 発案者は勘定奉行石谷清昌*25(元佐渡奉行)。毎年数十人が送られた。総数では、開始された1778年から幕末まで、1874人が送られたとの記録がある。
 佐渡では遠島刑を受けた流人(いわゆる「島流し」)と区別するため(なお、佐渡への遠島は元禄13年(1700年)に廃止されている)、水替人足は「島送り」と呼ばれた。
 当初は無宿者のみを佐渡に送ったが、天明8年(1788年)には敲(鞭打ち刑)や入墨の刑に処されたが身元保証人がいない者、さらに文化2年(1805年)には人足寄場での行いが悪い者や追放刑を受けても改悛する姿勢が見えない者まで送られるようになった。
 水替は過酷な重労働であり、3年以上は生存できないとまでいわれるほど酷使された。そのため逃亡する者が後を絶たなかった。

と言った問題点があったとされるが、筆者の認識ではそうした「前近代(江戸時代)の負の側面」についても、世界遺産登録後の佐渡金山展示においてまともに触れられてないと批判されています。
 「戦前の朝鮮人強制連行」だけでなく「江戸時代の負の側面(無宿人の強制労働や遊郭の存在)についても、まともに触れてない」という同様の批判として以下も紹介しておきます。

【井出明のダークツーリズムで歩く 北陸の近現代】(25) 佐渡金山 金精錬 能登とつながり:北陸中日新聞Web2023.7.1
 鉱山の仕事は重労働であり、それはここも例外ではなかった。佐渡では特に湧水の処理に悩んだようである。対応策として、大量の「水替え人夫」が投入されることになるが、十八世紀後半になると、江戸から移送された無宿人もその役割を担うこととなった。
 佐渡金山では、罪人が強制労働に就かされていたと思われがちであるが、その理解は正確ではない。無宿人とは、「宗門人別改帳」に記載されていない者をさし、彼らは現代風に言えば「住所不定、無職」というだけで、(ボーガス注:必ずしも)何らかの罪を犯している訳では無い。そもそも断続的に起こる飢饉によって、生まれ故郷を捨てて江戸に向かわざるを得なかったケースも有り、見方を変えれば近世における封建主義体制の被害者とも言える。
 佐渡金山の世界遺産登録については、近年、戦時中の朝鮮人労働に関する言及の不足が議論の俎上に載るのだが、この話題に限らず、そもそも経済活動の史跡である鉱山跡を、(ボーガス注:無宿人の強制労働や遊郭の存在などを無視して)ポジティブな視点から伝えようとする当初の方向性にかなりの無理が生じているのではないだろうか。
 地元郷土史家として知られ、筑波大教授も務めた田中圭一*26の著書「佐渡金山*27」の冒頭は「一つの土地はいつも二つの顔を持つ。光の部分と影の部分である」という書き出しで始まる。

相川郷土博物館が大切にする「伝える」と「宝物」とは何だったのか? リニューアル後に見学してきた。|渡辺豪*28(2024.6.5)から一部引用
 佐渡相川の郷土博物館を見学してきた。同館は耐震補強工事のため2022年6月から休館し、2年をまたいで今年5月に再開された。
 遊廓関連の展示はすべて排除されていた。性売買に関する記述も一言もなく、鉱山町にあった映画館、旅館、飲食店などの商業店舗を伝えるパネルにも遊廓について記述はなかった。
 新しくなった相川郷土博物館の展示内容は、ほぼ近現代を扱っており、江戸から強制連行された無宿人(住所不定人)や、その過酷な労働の実態には触れられていない。
 (ボーガス注:理由が何であれ過去の)研究蓄積を展示しない判断は同館の在り方として正しいだろうか。私は到底首肯できなかった。
 同館の展示パネルは「日本最大の金山」「世界有数の鉱山」と繰り返し誇示しているが、金の算出が多かったのは1600年代前半と1900年代前半のみであり、佐渡金山の歴史の中でごく一部に過ぎない。さらに言えば(中略)産出量が多いほど、それだけ末端労働者には過酷な労働環境があったということだろう。他のパネルも「繁栄」という文脈が貫かれており、前述の無宿人の労働環境・病気や、遊廓などにおける性売買などには一切触れられていない。
 井出明氏*29(金沢大学教授)は、2007年に世界遺産に登録され(ボーガス注:世界遺産登録された佐渡金山同様に無宿人の強制労働や遊郭と言った負の面を持っ)た石見銀山の来場数が年々先細る傾向を指して、「光の歴史のみで地域を見せている一種の『虚構性』にも原因があるのではないだろうか」と自著『悲劇の世界遺産:ダークツーリズムから見た世界』(2022年、文春新書)で指摘しており、私もこれに賛同する。歴史認識はともかくとして、観光業においても、こうした展示方針に勝算があるとは思えない。それを裏付けるように、きらりうむ佐渡の集客数は目標の半分以下という実態も報告されている。
 私は以前から、観光言説に遊廓史が飲み込まれると(ボーガス注:遊郭の)美化か不可視化が起きると指摘してきた。同館リニューアルに際して、まさしく再現された格好になった。

 石見銀山の来場数が年々先細る傾向については

インバウンド、聖地、秘境…でも「がっかり観光地」 : 読売新聞2018.4.9
 「がっかり世界遺産」という風評にさらされるケースも珍しくない。その一つが石見銀山島根県大田市)だ。
 2007年に世界文化遺産に登録された。
 翌2008年には、石見銀山を訪れる観光客が81万人に達した。その後、観光客数は減少傾向が続き、2016年は約30万人にとどまり、世界遺産登録前の水準に戻っている。駐車場のある石見銀山公園から、公開されている坑道「龍源寺間歩」までは2.3キロ。観光車両は入れないため、訪問者の移動は徒歩か有料のレンタサイクル、ベロタクシー*30のみ。夏場や雨天時の散策は、体力的に厳しい上、長距離歩行が困難な高齢者や、障害者にとって、気軽に見学できる場所とはいえない。
 アクセスの課題だけでなく、観光客からは「石見銀山は地味だ」「文化的価値が分かりにくい」などの声もある。「がっかり世界遺産」との評価は、観光客を減らす一因となっている。

を紹介しておきます。

遊女や無宿人はどこへ 世界遺産めざす佐渡金山が置き去りにしたもの:朝日新聞2024.7.27
 地元の佐渡市(旧相川町)が運営する相川郷土博物館の元学芸員で、2006~2008年には館長をつとめた柳平(やなぎだいら)則子さん(76)だ。
 自宅を訪ねると、段ボールに詰まった明治時代の古い資料を出してくれた。かつてこの街にいた遊女たちの「外出願」だ。身内の看病や自身の通院などのため出かけたいという内容が和紙に墨書きされている。
 遊女と遊郭の主人らによる連名で、地元の警察署に提出された書類だという。生活に困窮したため遊女として登録したいと願い出る文書などもある。
 数年前、地元の民家でふすまの下張りに使われているのが見つかり、柳平さんのもとに届けられた。「不要になった文書が警察から表具屋に払い下げられ、再利用されたんでしょう」と柳平さんは推測する。
 鉱山労働者がたくさんいた相川地域には江戸時代から幕府公認の遊郭がつくられ、戦後まで営業が続いた。多いときには10軒を超える店が立ち並んだという。
 働いた女性たちの多くは地元の出身だった。江戸から来た佐渡奉行は「佐渡で安いものは女と魚」と書き残した。13歳で客を取った、虐待されて死んだ。そんな記録も数多く見つかっている。
 柳平さんらは、50年ほど前からこの街の遊女について調べ、郷土博物館で紹介してきた。常設展示のほか、特別展をやったこともある。この鉱山町を語る上で、避けることはできないテーマだと考えていたからだ。
 「鉱山と人々の生活とのかかわりの厚みと深み。それがこの街の歴史なんです」と柳平さんはいう。
 ところが今年5月に郷土博物館が耐震改修工事を終えてリニューアルオープンすると、(ボーガス注:「遊女の存在」は「戦前の朝鮮人強制連行」と同様に「隠すべき佐渡の恥」と佐渡市に見なされたのか)遊女にかかわる展示はなくなった。

 江戸から来た佐渡奉行は「佐渡で安いものは女と魚」と書き残した。ですがググったところ「勘定吟味役佐渡奉行、小普請奉行、普請奉行、奈良奉行、大坂東町奉行勘定奉行、西丸留守居外国奉行を歴任し、江戸城開城の際に自決した川路聖謨(1801~1868年)(川路聖謨 - Wikipedia参照)」の『島根のすさみ(佐渡奉行在勤日記)』(平凡社東洋文庫)のようですね。


【参考:佐渡金山の朝鮮人強制労働】

赤旗主張/佐渡金山の推薦/歴史の事実直視し誤り認めよ2022.2.4
 ユネスコの理念と世界遺産の趣旨を踏まえるなら、負の歴史を含めた検討を避けるわけにはいきません。政府・自民党の中には、江戸時代に限った推薦であり、戦時中の朝鮮人の労働と無関係との主張があります。通用しない言い分です。
 戦時中、朝鮮半島は日本の植民地支配下にありました。アジア・太平洋戦争末期に佐渡金山で朝鮮人の強制労働が行われたことは、新潟県史や地元自治体の町史に記述された否定できない事実です。


◆科学運動通信「関東大震災朝鮮人・中国人犠牲者追悼大会参加記」(小笠原強*31
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

関東大震災 朝鮮人・中国人虐殺101年追悼集会 記憶埋もれさせない | 日本共産党 衆議院議員 宮本徹のホームページです。(2024年9月1日付赤旗
 関東大震災時における朝鮮人・中国人虐殺から101年となるのを前に、犠牲者追悼大会が31日、東京都の文京区民センターで開かれました。韓国、中国から遺族や関係者が駆けつけるなど、会場には約450人が集まりました。主催は関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年犠牲者追悼大会実行委員会です。
 献花と黙とうの後、犠牲者の遺族として韓国のチョ・グァンファンさんが登壇。祖父の兄が関東大震災惨殺されたことを話しました。「祖父の兄は両親と妻、娘息子を残して東京に行っていた残された家族は帰りを待っていた。知らせてくれた人は近所に住んでいた人で、虐殺は逃れたものの、後頭部に大きな傷を受け、事件トラウマを抱えて一生苦労した」と語りました。
 「今もどこでどのように殺されたのか、資料も探せずわからないまま」で、記憶が埋もれてしまうことを懸念するチョさん。「私たちがこのような追悼行事を続けていくことが大事だ」と訴えました。韓国政府にも虐殺の実態を明らかにするよう求めています。
 中国人犠牲者の遺族を代表して周松権さんは、「中国人は800人近くが虐殺の犠牲になった。計画的な虐殺がおこなわれた。日本政府に何度も不満を表明し、実態を明らかにするよう求めてきた」と20年以上の運動を振り返りました。「昨年日本の外務省と交渉したが、黙ったままだった。憤りを感じた。悲劇を二度と繰り返さないために未解決の歴史問題を解決していくことを求める」と述べました。
 「関東大震災の虐殺にいたる歴史的な構造」と題して山田朗*32明治大学教授が講演。ジャーナリスト*33有田芳生*34が「ヘイトクライムレイシズム」について、「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」事務局長の田中正敬*35専修大学教授が国家責任追及の課題について講演しました。サンフランシスコ「慰安婦」正義同盟の金美穂さんがアメリカでの活動を報告しました。
 「群馬の森追悼碑を守る会」共同代表の川口正明さんが特別報告をしました。日本共産党の宮本徹*36衆院議員*37があいさつしました。

関東大震災 朝鮮人・中国人虐殺から101年~歴史に誠実に向き合え~過ちを繰り返さぬ誓い - 社民党 SDP Japan(2024年9月19日付・社会新報(社会党機関紙))
 集会の第1部は追悼式。実行委員会共同代表の田中宏一橋大学名誉教授が開式あいさつを行ない、「明治以来、この国はあまりに自国民のことだけを考えているのではないか。その中で虐殺事件が起きた。今日に残している課題ではないか」と問題提起した。
 遺族代表らが献花台に花をささげ、参加者一同で黙とうした後、国会議員らのメッセージが読み上げられた。社民党福島みずほ党首も登壇。「去年、国会で3回、質問したが、虐殺の記録や判決はあるのに、岸田政権は『調査した限り、政府内に事実関係を把握できる記録が見当たらない』と言っている。これを覆したいと思っている」と述べ、「平和と差別撤廃が手を携えてやってくる社会を皆さんと一緒につくっていきたい」と呼びかけた。
 虐殺についてのリレートークでは、明治大学山田朗教授が最初に発言。虐殺に至る歴史的構造について「戦争が植民地支配を生み、植民地支配が国内の暴力的な支配体制を生み、それが次の戦争を招く」とまとめた。
 その上で、韓国併合に対する三・一独立運動以降、「大阪毎日新聞東京日日新聞*38などが朝鮮人を『不逞鮮人』と呼び、何をやるか分からない過激な人たちというイメージが広められた」と、当時の日本のメディアが差別をあおったことを指摘。「当時の内田康哉*39(ボーガス注:加藤友三郎*40内閣)外相が1920年10月7日に声明を出し、『このままでは、いつ第2の尼港事件(同年に内戦状態のロシアでパルチザンが日本人居留民を虐殺した事件)のようなことが起こるか分からない状態だ』と言ったのは大変なこと」「朝鮮人や中国人の人々は、天皇制国家としての日本を脅かし、国民の結束を乱す『内敵』として殺された」として、メディアや政府が先入観や恐怖をあおったことが虐殺を招いたと指摘した。
 ジャーナリストの有田芳生さんは、ヘイト犯罪や人種差別主義は現代の課題であると問題提起。その具体例として、「(ボーガス注:産経新聞のデマ報道等によって埼玉県川口市蕨市などの)在日クルド人に標的が向けられている」と危機感を示した。また、2016年に成立したヘイトスピーチ解消法に触れ、「理念法のため罰則がないが、これがあったから、(神奈川県の)川崎市の罰則付きの条例ができた。川崎市でのヘイトスピーチ参加者数は、40人からたったの4人に減った」として、法律や条例の重要さを訴えた。
 オンラインで参加した専修大学の田中正敬教授は、関東大震災時の虐殺事件についての質問主意書に対する政府答弁を解説。「虐殺等を記載した公文書について『調査した限りでは政府内に見当たらない』と答弁しているが、国会図書館防衛省内にあった。それを指摘されると、『政府内で作成された文書であることを確認することができる記録が見当たらない』と答える。文書が作成されたことを別の文書で確認することが必要なら公文書は意味がなくなる。そこまでして、政府は虐殺を認めたくない」「現代の文書である内閣府中央防災会議で作成された報告書にある虐殺関連の記述を問われても、『有識者が書いたもので政府は関知しない』と答弁するが、中央防災会議の座長は首相。あまりに無責任」と憤った。
 米国からはサンフランシスコ「慰安婦」正義連盟の金美穂さんがビデオメッセージを寄せた。金さんは現地市民団体の共同声明として、「関東大震災における虐殺の国家責任を認めることは真の意味で日本が帝国主義から脱却するために不可欠な一歩である」と訴えた。
 集会の最後に藤田事務局長は、「また来年も追悼大会を行なう。勝つまでやる」と力強く宣言した。

「朝鮮人・中国人虐殺101年犠牲者追悼大会」開催 「政府責任を明らかに」と訴え | 週刊金曜日オンライン2024.10.27
 関東大震災の直後に民族差別により虐殺された朝鮮人・中国人を追悼する「関東大震災朝鮮人・中国人虐殺101年犠牲者追悼大会」が8月31日、東京・文京区民センターで開催。「関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年犠牲者追悼大会実行委員会」の主催で約450人(主催者発表)が参加した。
 第1部の「追悼式」は黙とうで開始。田中宏さん(一橋大学名誉教授)の開会挨拶に続き、朝鮮半島・中国から出席した遺族が挨拶した。福島みずほ参議院議員(社民)、石垣のりこ参議院議員(立民)公設秘書の初鹿明博さん*41、宮本徹衆議院議員(共産)の順でスピーチ。杉尾秀哉参議院議員(立民)、櫛渕万里衆議院議員(れいわ新選組)がメッセージを寄せ、曺和仙さんが「追悼の舞」を披露した。
 中国人遺族の周松権さんは集会の開催に謝意を表し、11年間に及ぶ日本政府との交渉の様子を報告。昨年の外務省官僚の対応を「ただ頷くだけで上層部に伝わるのか不安があった」と前置きして「日本政府が歴史を改竄し隠蔽することは決して許されない」と、後ろ向きな政府姿勢を批判した。
 第2部は「関東大虐殺の責任をただす集い」。追悼大会実行委員会の藤田高景事務局長が「政府は昨年、100年前の虐殺責任を糾す野党の国会質問に虐殺の歴史を抹殺する答弁を繰り返した。それは安倍政権の時からだ。この国の政治を大きく変えねばならない」と述べてスタート。続いて川口正昭さん(旧「群馬の森追悼碑を守る会」共同代表)が、今年初めに群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」にあった朝鮮人労働者追悼碑が県の行政代執行で撤去された経緯を報告。「政府は政治の力で歴史を改竄した」と批判した。


◆科学運動通信「大仙古墳公開見学に参加して*42」(若井敏明*43
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

【萌える日本史講座】仁徳天皇陵で初の内部公開 地面はふかふかだった(1/5ページ) - 産経ニュース2018.12.17
 国内最大の前方後円墳堺市堺区の仁徳天皇陵=大山(だいせん)古墳、墳丘長486メートル=で、宮内庁堺市による共同発掘が行われた。同庁が外部機関と調査するのは初めてで、墳丘を囲む堤(つつみ)から円筒埴輪(はにわ)や石敷きが出土。埴輪の型式から築造時期が5世紀前半~中頃の可能性が高まった。発掘現場が報道関係者に公開されたのも初めてだった。立ち入りは墳丘本体ではなく堤の一部とはいえ、これまでベールに包まれた天皇陵の内部をうかがい知ることができた。

日本最大の大山古墳 発掘調査現場を公開 宮内庁 | 毎日新聞2024.11.29
 日本最大の前方後円墳、大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵大阪府堺市堺区)について、宮内庁は29日、今月上旬から実施している発掘調査の現場を報道陣に公開した。墳丘を囲む三重の濠(ほり)にある堤では近世以降に土を盛って大幅にかさ上げしていることが確認され、築造当初から大きく姿を変えた様子が分かるという。

日本最大の大山古墳、初の立ち入り 歴史・考古学系の17学会・協会 [大阪府]:朝日新聞2025.3.7
 国内最大の前方後円墳世界遺産の大山古墳(伝仁徳天皇陵*44堺市)で7日、歴史・考古学系の17学会・協会の代表者が墳丘に立ち入り、現状を観察した。戦後、学会関係者の同古墳墳丘への立ち入りは初めて。
 日本考古学協会の日高慎*45東京学芸大教授は「崩れているところや、石積みをやり直しているところがあることなどがわかった。測量図や外からだけではわからないこともあり、一般の方と共有できる道を探りたい」と話した。
 歴代天皇や皇族を埋葬したとされる「陵墓」は、同庁により一般の立ち入りが禁じられている。研究者による立ち入り観察は2008年に初めて許可され、18カ所目。大山古墳は学術的に重要な文化遺産だが、規制のため墳丘本体の情報がほとんどなく、2005年の要望当初からの第1候補だった。学会側は公開や観察範囲・機会の拡充を求めて働きかけを継続するという。
 大山古墳は5世紀の築造で、墳丘長は486メートルとされる。同庁は被葬者を仁徳天皇とするが、学界には疑問視する声がある。明治5(1872)年に堺県(当時)が前方部の埋葬施設を調べた例があるが、その後は立ち入りを厳しく規制。2018、21年には、同庁と堺市が墳丘をめぐる堤を共同調査し、多数の円筒埴輪(はにわ)や石敷を発見したが、墳丘には入っていなかった。

「石積みは後世に積み直された」仁徳天皇陵古墳の墳丘に研究者17人が初めて立ち入り調査 - 産経ニュース2025.3.7
 日本考古学協会理事で東京学芸大の日高慎教授は「前方部の石積みは後世に積み直されているなど、入ってみないと分からないことが分かった」と語った。
 宮内庁が管轄する別の古墳は平成20年以降、立ち入りが許可されたものもあるが、仁徳天皇陵古墳は今回初めて許可された。
 研究者団体はこの日、古墳や遺跡のさらなる公開や観察範囲の拡充を求める声明を発表した。

「仁徳陵」初の立ち入りで見えたものは 近現代視点で読み解く必要性 [大阪府]:朝日新聞2p025.3.17
 国内最大の巨大前方後円墳、大山(だいせん)古墳(堺市)の墳丘に、戦後初めて歴史・考古学の学界関係者が立ち入った。宮内庁仁徳天皇陵とし、世界遺産にも登録された盟主的存在の「観察」から見えてきたものは。
 3月7日、その墳丘を17学会・協会*46の代表者が踏みしめた。宮内庁職員に案内されてボートで濠(ほり)を渡り、約2時間かかって1段目のテラスをめぐった。
 宮内庁が管理する歴代天皇らの「陵墓」は非公開だが、学界側は重要な歴史遺産として同庁と交渉を続け、2008年に最初の立ち入り観察が実現。今回で立ち入りは第17回、18カ所目となったが、古墳文化の象徴ともいえる大山古墳は、要望リストの第一に挙げられてきた重要候補だった。明治5(1872)年、堺県(当時)の調べで絵図などの記録が残されたが、その後厳しく規制されて今に至る。墳丘をめぐる堤では18、21年に宮内庁堺市が共同調査を実施しているが、濠(ほり)を隔てた墳丘自体は神秘のベールに包まれた「聖域」だっただけに、今回ひとつの節目を迎えたといえる。
(以下は有料記事です)


◆書評:大島明子『外征と公論:国際環境の中の明治六年政変*47』(2024年、有志舎)(評者:澤井勇海*48
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

今週の本棚:加藤陽子・評 『外征と公議』=大島明子・著 | 毎日新聞
 維新期の変革は、英米仏露などの列国注視のなかで進んだ。一見すれば国内政治の問題に見えても、その背景には必ず、日本列島沿岸の海防問題と列国との条約締結問題のふたつがあった。著者はまず、ここをおさえる。
 海防を左右するのは兵権であり、列国との交渉を裏づけるのは外交権である。新政府軍が、1868年の鳥羽・伏見の戦いから翌年の五稜郭の戦いまでの戊辰戦争に勝利し、旧幕府側から奪う必要があったのは領地と税収だった。だがそれ以上に、徳川慶喜の持っていた兵権と外交権こそが、新政府側にとっては早期に奪取しなければならないものだった。
 こう考えた著者は、1862年から1873年まで、元号なら文久2年から明治6年までの激動期を対象に描いた。ならば幕府が倒れる直前まで、慶喜はいかなる外交政略を進めようとしていたのか。また旧来の軍役による兵権を強化するため、慶喜はいかなる打開策を構想していたのだろうか。
(以下は有料記事です)


◆書評:羽賀祥二*49著『軍国の文化:日清戦争ナショナリズム・地域社会』上・下(2023年、名古屋大学出版会)(評者:大谷正*50
(内容紹介)
 批評は多方面に及んでいて紹介が難しいが、小生が共感したのは本書は日清戦争しか扱っていないが、日清戦争以降の様々な「近現代日本の戦争(日露戦争、シベリア出兵等、色々あるが)」、特に「日本初の総力戦」であり「日清戦争など総力戦とは言えないそれ以前の戦争」と戦争の性格が大きく違う「日中戦争、太平洋戦争(アジア太平洋戦争)」との「軍国の文化」の違いについて、筆者の見解を明示的に触れて欲しかったという指摘である。
 また、「国家のイデオロギー利用」と言う点では、本書は著者の過去著作である羽賀『明治維新と宗教』(1994年、筑摩書房→2022年、法蔵館文庫:明治政府の宗教政策を論じた)、『史蹟論:19世紀日本の地域社会と歴史意識』(1998年、名古屋大学出版会:明治政府等の史跡顕彰を論じた)とも共通するが「過去著書との関係性が明確ではなかった」との指摘がされている。


◆書評:京樂真帆子*51『映画と歴史学』(2023年、塙書房)(評者:加藤厚子*52
(内容紹介)

◆『大佛開眼』(1952年、大映
 衣笠貞之助*53監督、長谷川一夫主演。1940年に新協劇団*54で上演された長田秀雄の戯曲の映画化。北山茂夫*55立命館大学教授が歴史考証に協力
◆映画『山椒大夫』(1954年、大映
 溝口健二*56監督、田中絹代*57主演。林屋辰三郎*58立命館大学教授が歴史考証に協力
◆映画『祇園祭』(1968年、日本映画復興協会製作、京都府京都市協力、松竹配給)
 山内鉄也*59監督、西口克巳*60原作、中村錦之助(後の萬屋錦之介*61)主演。林屋辰三郎立命館大学教授が歴史考証に協力。
 当初は1961年、伊藤大輔*62監督が中村錦之助主演で東映に企画を提出し、西口克己から原作の映画化権も買い、翌年夏より製作する予定で脚本作成を進めていたが、製作費が莫大になることが問題になり、製作中止となった。
 「祇園祭」の映画化が再浮上ししたのは、京都府政百年記念事業として京都府及び京都市の協力が得られる見通しが立った1967年7月で、独立プロ「日本映画復興協会」(代表・中村錦之助)の名の下に同年8月に製作発表された。当初は伊藤監督予定だったが、最終的には山内監督に変更された。著作権が複雑に絡んでいるためソフト化されておらず、祇園祭のシーズンに京都文化博物館・映像ギャラリーで行われる上映会が現在、唯一の一般公開である。
祇園祭 (1968年の映画) - Wikipedia参照)

を元に「それらの映画」に歴史学者達がどう関わったかを論じてるとのことですが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 参考に以下を紹介しておきます。

映画と歴史学京樂真帆子)から一部引用
 1950年、当時の立命館大学教授林屋辰三郎(1914~1998)を中心に紙芝居『祇園祭』が作成された。これは、マルクス主義に基づく「新しい歴史学」を市民に啓蒙する活動の一環としてなされたものである。しかし、残念ながら紙芝居は現存しておらず、その内容を知ることはできない。
 この紙芝居興行に注目した映画監督がいた。伊藤大輔(1898~1981)である。彼はこの作品の映画化を計画し、1961年西口克己が映画用原作として小説『祇園祭』を書く。その後、資金調達が困難となり、伊藤が監督を降板するなどトラブルが続き、映画化は一時断念された。しかし、革新系の蜷川虎三(1897~1981)知事のもと京都府が府政百年事業の一つとして全面的にバックアップすることで映画はクランクインする。こうして、日本史研究の成果は映像化されたのである。
  ここでもう一人の映画監督を思い起こさねばならない。時代劇映画の中にリアリズムを求め、精緻な資料調査を行ったことで知られる溝口健二(1898~1956)である。
 溝口の時代考証が非常に厳密で、多くの調査に基づくものであることは多くの関係者の語るところである。
 「溝口組」の人物が接触したのは林屋辰三郎氏であった、と本稿では考えている。
 そして、溝口の映画製作に触発され、林屋が書いたのが、「散所論」研究のターニングポイントともなる「『山椒大夫』の原像」であった。
 さて、溝口組は鴎外の小説をもとにしながら、林屋説の影響を強く受け、数々の改変を行っている。注目されるのは以下の三点である。
  まず、山椒大夫が京からやってきた荘園領主の使者を迎えるシーンの挿入である。右大臣家の使者は「御領地見回り」のためにやってきた。このように、中間搾取主体としての「山椒大夫」の在り方も描かれている。説経節、小説ともにこのような供応する山椒大夫の様子は描いていない。より中世社会の実像に迫るシーンであろう。
  次に、散所を閉鎖空間と描いたこと。説経節、鴎外の小説ともに厨子王が外部の樵と接触する部分を描く。厨子王は彼らから柴の刈り方を習うのであるが、映画では散所は周りを柵で囲まれた閉鎖空間で、外部との接触は不可能である。林屋説は、その空間に入ることで隷属が始まるとするのであるから、おそらくは閉鎖空間であることを想定しているであろう。溝口は、それを映像化したのである。
  さらに、山椒大夫の末路を破滅と描いたこと。鴎外は山椒大夫は改心し、家はますます栄えた、とした。この点は、溝口が最も違和感を感じた点である。映画において、大夫は国外追放となり、さらに屋敷は解放された散所民たちによって略奪され、火が付けられている。
 溝口は、このようにリアリズムにこだわった。しかし、彼は常にすべて考証に従ったわけではない。
時代考証はきちんとやらなければならない。しかし、わかっていて嘘をつくのは罪悪ではないという変な詭弁を持っている」(内藤昭発言、『別冊太陽』、五五頁)面もあった。研究の成果と映画創作とのバランスは、監督の感性にゆだねられていたのである。


【参考:忍者狩り】

忍者狩り
 三代将軍徳川家光は、豊臣恩顧の外様たちの取り潰しを行っていた。
 6年前、今津藩六万石も、その犠牲になった藩の一つであった。
 荒れ果てた城跡に佇み、過去を忍んでいた元今津藩家臣、和田倉五郎衛門(近衛十四郎)の前に突然現れ出た松山藩蒲生家に仕える村上靭負(穂高稔)なる侍は、彼の腕を買いに来たと切り出す。
 蒲生家では城主忠知(関根永二郎)が病気で、余命幾許もないため、幼い嫡子種丸に家督を相続させる認可御墨付きを幕府より貰い受けていた。
 その確認をするために、松山へ向った大目付谷河内守(加賀邦男)が到着するまでの五日以内に、肝心の御墨付きがなくなれば、松山藩も取り潰せると考えた老中、久世大和守(安倍徹)は、秘かに公儀隠密の甲賀忍者、闇の蔵人(天津敏)にその実行を命じていた。
 その後、早くも動き出した蔵人配下の忍者たちは、江戸を出発した松山藩の駕篭を襲って、御墨付きを奪うが、それは偽物であった。
 そうした幕府の動きを事前に予測していた松山藩城代家老・会沢土佐(田村高廣)は、すでに御墨付きを入手しており、さらなる忍者迎撃のため、取り潰された外様の残党たち4人を、独断で雇い入れていた。
 その4人とは、和田倉はじめ、永長八右衛門(佐藤慶)、筧新蔵(山城新伍)、天野弥次郎(河原崎長一郎)の面々。
 しかし、手練の武士たちが多いことで知られる松山藩の家臣たちは、自分達の技量に対する慢心から、この家老が集めた部外者たちを露骨に無視しはじめる。
 そんな中、リーダー格の和田倉は、自分の過去の経験からしても、幕府の隠密は、すでに松山藩に侵入しており、それは、ここ最近、新規召し抱えになった8人の中にいるに違いないと目星を付けていた。
 その中から隠密を絞り込むために、和田倉は土佐と相談して罠を仕掛けることにする。
 かくして、城代屋敷の一室に御墨付きを置き、その部屋に、問題の8人を警護役として待機させることにするのだが、案の定、その夜、早くも忍者一味が城に潜入し、警護に当っていた並みいる家臣たちをしり目に、御墨付きに火を付け燃やしてしまうことにまんまと成功してしまう。
 その直前、城出入りの本屋、天野屋(中村錦司)と落ち合ったもう一人の男との二人組を追っていた弥次郎は、待ち伏せていた蔵人の含み針に両目を潰され、自害した形で、翌朝、城の門前で発見される事になる。
 いよいよ、8人の中に隠密がいると確信した和田倉は、徹底的に拷問しても誰も口を割らぬと分かると、片っ端から8人の侍たちを斬り殺していく。
 そのあまりの残酷さに耐えかねた家臣たちは土佐に詰め寄るが、このくらいしなければ隠密は倒せぬのだと、和田倉は言い放つのだった。
 さらに、江戸からの密偵が来るとの話を広め、その使者を襲った甲賀忍者たちを、逆に返り討ちにした和田倉の手腕を影ながら確認した蔵人は、御墨付きは美保(北条きく子)という女中が持っているとの情報を得、彼女を、先に潜入させておいたくノ一・白葉尼(高森和子)に誘い出させ、口を割らせようとするが、美保は下を噛んで自害してしまう。
 もはや、御墨付き奪回は不可能と考えた蔵人は、毎日、天守閣から町を観る事を日課としている種丸を殺害せんと、手すりに仕掛けを施すが、これも寸での所で失敗。
 そうした中、生死の境を彷徨っていた城主忠知が逝去する。
 最後のチャンス到来とばかり、蔵人は、翌朝行われるその葬儀に出席する種丸暗殺に勝負をかける。
 一方、和田倉らの方も、必ず出現するに違いない蔵人を待ち受けるのだが、蔵人の技量を知り抜いた和田倉には、正直、種丸の命を守りきる自信はなかった。
▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼
 テレビの「隠密剣士」で火がついた空前の忍者ブームの最中に作られた作品。
 近衛十四郎主演版「隠密剣士」ともいうべき内容とも思える。
 本作の表向きの主人公は近衛十四郎だが、真の主人公とも言うべき人物は、その「隠密剣士」でブレイクした敵忍者役、天津敏と言っても過言ではない。
 そのくらい、この作品での天津敏の存在感は際立っている。
 「隠密剣士」で演じたイメージそのままに、正に最強の忍者と言う雰囲気で、ベテラン近衛十四郎と対峙しても、その迫力は一歩もひけをとっていない。
 また、後のテレビ特撮時代劇「仮面の忍者・赤影」(1967)の悪役で知られるようになる汐路章も、天津敏の配下の忍者として、この時点からすでにちゃんと登場しているのにも注目したい。
 天津敏同様、テレビ時代劇「素浪人・月影兵庫*63」でお茶の間の人気者になっていた近衛や、「風小憎」「白馬童子」など子供時代劇ヒーローだった山城新伍(この時点で、かなり肥満している)が、悪と戦う役で出演しているのはうなずけるが、いつもは冷酷な役柄が多い佐藤慶まで正統派の用心棒を演じているのが興味深い。
 この時代の忍者表現は、変にファンタジックなものではなく、それなりにリアルに表現されており、城に忍び込む忍者たちの動きなど、今観ても、十分納得できるものになっている。
 ラストの対決は、設定も面白いし迫力も満点で、見ごたえがある。
 天津敏ファンには必見の作品だろう。
 ちなみに、近衛十四郎、角度によって、驚くほど息子の松方弘樹そっくりに見える時があり、改めて、血のつながりの強さを感じた。

■日本映画の感想文■忍者狩り
 徳川三代将軍、家光は豊臣家の根絶を狙って外様大名にあらゆる難癖をつけ、時には陰謀をめぐらして潰していた。
 松山の蒲生家の当主が重病になった。家老、会沢土佐(田村高廣)は若君に家督を譲るお墨付きを得て存続を計画。そうはさせじと考えた幕僚・久世大和守(安部徹)は凄腕の甲賀忍者「闇の蔵人」(天津敏)に跡目の儀式前にお墨付きを奪還するよう命じた。
 土佐は徳川家に取り潰された藩の浪人、和田倉五郎左衛門(近衛十四郎)、永長八右衛門(佐藤慶)、筧新蔵(山城新伍)、天野弥次郎(河原崎長一郎)を雇い、対抗する。蒲生藩の重役・原刑部(沢村宗之助)らは和田倉たちを身分違いから色々と差別する。
 お墨付きは替え玉を使って無事に蒲生藩へ届いた。蔵人が送り込んだスパイを摘発するために和田倉たちが無実の人を惨殺したため、彼等の手段を選ばぬやり方への批判は一気に高まる。
 しかし次々に忍者を撃退する和田倉の活躍と、お墨付き奪回を諦めて若君暗殺を狙う蔵人の残忍な手口を目のあたりにした家臣たちは次第に協力的に。仲間の天野が蔵人に殺され、蔵人の手下の尼僧「白葉尼」(高森和子)を追った筧も相討ちになった。
 藩主が病没してしまい、儀式の前にどうしても葬儀を行う必要が出てきた。和田倉は最後の決戦を挑むであろう蔵人を迎え撃つために若君を囮にした。誘い出された蔵人は、若君と和田倉たちを霊廟に閉じ込め、得意の吹き針で失明させる。和田倉も重症を負った。
 目を潰された永長が蔵人に抱きついた。自由を奪われた蔵人と永長の体を和田倉の刀が貫いた。
 蒲生藩は守られたが死んだ仲間に申し訳ないと、和田倉は仕官の勧めを断って去って行く。
 一人の真犯人のためにバカスカ容疑者を殺してしまう冷酷さもあって、このあたりのプロの凄みがこの映画の見どころ。
 敵方の天津敏の顔がほとんど見えないのも不気味で怖くてよい。見えても十分に怖いが。

『忍者狩り』(1964) - 退屈な日々 / Der graue Alltag2009.11.25
 ストーリーは次のとおり。
 三代将軍家光の治世。幕府は理由を付けては外様大名を次々に取り潰していた。伊予松山藩家督相続に際し、幕府の標的となる。この企みを阻むため松山藩は、近衛十四郎をはじめとするかつて自らの藩を取り潰された4人の浪人を雇い、幕府の忍者と対抗する。
 本作は古典的な時代劇とはちがい、陰鬱で凄惨な映画である。華麗な立ち回りはなく、ひたすら非情な殺し合いが繰り広げられる殺伐とした雰囲気。こういうのを「リアリズムの追求」というのかもしれないが、いわゆる普通の痛快時代劇を期待すると見ると疲れるかもしれない。
 こうした映画なので、せっかく期待していた近衛十四郎の殺陣の冴えを見られず、ちょっと残念。宝の持ち腐れというべきか。それでも、霊廟内の暗闇で展開する近衛十四郎と闇の蔵人(天津敏)との緊張感溢れる死闘シーンは一見の価値あり。

忍者狩り(1964年) : 暗闇の中に世界がある ーこの映画を観ずして死ねるか!ー2020.5.8
 後にテレビで『水戸黄門』シリーズや『大岡越前』シリーズのメイン監督となった山内鉄也の映画監督デビュー作である。
 本作は集団抗争時代劇*64と当時流行していた忍者ものを合体した内容だ。
 城に潜入した忍者から城を守るために雇われた四人の侍の活躍が描かれる。
 どこかで聞いた内容にみえるが、発想の元は黒澤明の『七人の侍』があった。
 四人のうち三人は死ぬのだが、三人の墓標を眺めながら闘いの虚しさを主人公が表す描写は『七人の侍』のオマージュだ。
 例によって近衛十四郎の鬼気迫る演技が凄まじい。城に潜入した忍者をあぶりだすため、本物の家臣を含め拷問にかけ、最後は家臣もろとも切り捨ててしまうというシークエンスは寒気すら感じさせる。それまでの東映時代劇の主人公にはないキャラクターだ。
 四人の侍の一人、山城新伍演じるキャラクターはいかにも失敗をしそうな危ないキャラで、最後は尼僧の色気に惑い殺されてしまうという設定がいかにも山城らしい。この尼僧を演じるのが、後年NHK朝ドラ『おしん』で田中裕子のおしんをいじめぬく姑役を演じた高森和子。本作ではセミヌードを披露するなど『おしん』からは想像できない。
 四人の一人、佐藤慶演じる役は、(ボーガス注:悪役常連なので)俳優からしてこいつが実は(ボーガス注:裏切り者で)怪しいのではないかと感じさせる役だ。しかし、最後は自らの身体といっしょに敵方大将を貫き殺させるという、これまた凄まじい役柄だった。
 敵方忍者の大将役は、当時『隠密剣士*65』(ボーガス注:の悪役『風摩小太郎』)でお馴染みの天津敏。黒幕忍者は、はまり役だ。あまりにもはまりすぎるからだろうか、本作では最後までほとんど顔をみせない。クライマックスの対決シーンも薄暗い霊廟の中での死闘だ。しかし、あの特徴的な声だけで天津敏だとすぐわかる。これはなかなか考えた演出だった。
 スタッフ一同渾身の時代劇でありながら、残念ながら興行的にはヒットせず、東映京都の時代劇映画はいっそう衰退に向かっていくことになる。
 しかし、こういう時代には不思議と傑作ができあがってしまう。本作も集団抗争時代劇のなかの傑作の一本であることは間違いない。
<あらすじ>
 徳川三代将軍家光は、幕府の体制を不動のものにするため豊臣恩顧の外様藩取潰しを計った。そのころ伊予松山二十万石、蒲生家では城主式部太夫忠和*66の死病を理由に、嫡子種丸の家督相続を願い出、老中・久世大和守(安部徹)より将軍家のお墨付を下付された。種丸の将軍家初御目見得の儀は六月十日に決った。儀式の後ではいかに幕府といえども蒲生家を取潰す事は出来ない。大和守は、忍者・闇の蔵人(天津敏)らにお墨付け奪還を命じた。一方蒲生家城代家老・会沢土佐(田村高廣)は幕府の腹を見抜き、和田倉五郎左衛門(近衛十四郎)、永長八右衛門(佐藤慶)、筧新蔵(山城新伍)、天野弥次郎(河原崎長一郎)の四人を忍者狩りに当てた。その内の一人、五郎左衛門は、かって闇の蔵人との闘いに破れ主家を失った浪人で、蔵人への憎しみは激しかった。蔵人の手口を知る五郎左は、新規召抱えの家臣八人を巧みに罠にかけ、苛酷な拷問の末一人残らず首をはねた。しかし罪のない家臣の命迄も奪った五郎左の執念に蒲生家の人々は激しい反感を抱いた。一方、弥次郎は御用商人天満屋中村錦司)の動きに疑問を抱き、尾行したが、かえって蔵人の手にかかり命を落した。さらに蔵人は、使者到着二日に控え、最後の手段として幼君殺害を計った。第一次暗殺計画は失敗した。が折りも折、藩主忠知が死去、葬儀は使者到着以前に行われることになった。五郎左は、この機に蔵人が必ず種丸の命をねらうことと思い、葬儀の列にまぎれこんで蔵人を待った。葬儀当日、霊廟に入った五郎左、八右衛門らは蔵人の策略で霊廟にとじこめられ、蔵人の吹き針に次々と倒されていった。しかし八右衛門が、蔵人を腕の中に抱きこみ、五郎左の刃は八右衛門ごと蔵人を突きさした。しかしあまりにも犠牲は大きく、五郎左の心は空しかった。

アナログ派の愉しみ/映画◎山内鉄也 監督『忍者狩り』|堀間善憲2023.9.15
 コワイことでは史上屈指の時代劇だろう。
 『忍者狩り』。これがデビュー作となった山内鉄也監督以下、平均年齢26歳の若いスタッフが妥協なくつくりあげた、酸鼻きわまる集団抗争のドラマだ。
 徳川三代将軍・家光のころ、幕府は豊臣恩顧の外様大名をスキあらば取り潰すべく虎視眈々と狙っていたところ、松山藩蒲生家の当主が重病にかかり、幼い子息への家督相続を定式どおり認めたものの、そのお墨付きをひそかに奪い返してご破算にしようと、公儀隠密に密命が下される。一方の蒲生家ではこうした不穏な動きを察して対抗するために、これまで同様の手段で主家を取り潰された経験を持つ連中を雇う。ここに「闇の蔵人」(天津敏)を首領とする甲賀忍者一派と、和田倉五郎左衛門ら4人の浪人による壮絶な闘いの火蓋が切って落とされた。とまあ、ストーリーの枠組みはごくわかりやすい。
 前半の山場は、蒲生家が最近召し抱えた6人の藩士のなかに忍者が紛れ込んでいることが判明した場面だ。和田倉は彼らを拷問にかけたあげく業を煮やして、刀を引き抜くなり片っ端から叩き斬っていき、5人目までくると相手が素早くジャンプして正体を現したのを一撃で仕留めた。殺戮が終わったとき、最後に残った6人目の男はすでに発狂しており、周囲の家臣たちに向かって和田倉は傲然と「こうしなければ忍者は斬れんのだ!」と言い放つ。この和田倉の役に扮したのは近衛十四郎松方弘樹目黒祐樹の父)だ。
 最後のクライマックスでは、お墨付きの奪取に失敗した闇の蔵人がもはやなりふりかまわず、藩主の葬儀にあたって、世継ぎの幼君と護衛を霊廟に閉じ込めて一挙に殲滅しようとする。凄まじい斬り合いの末、闇の蔵人に両足の腱を切断された和田倉こと近衛の、這いつくばったまま身動きできぬ恐怖を露わにした形相の凄まじさといったら! 観ているこちらまで顔面が引き攣ってしまうほどだ。結局、同僚*67が針で両目を潰されながら闇の蔵人にタックルして「和田倉さん、早く!」と叫び、その男もろとも串刺しにしてようやく息の根を絶つ。
 満身創痍となって強敵を斃した和田倉がラストシーンで藩を去っていくように、結局はだれしも組織の論理の前に使い捨てにされる。平均20代の若い映画制作者たちが見つめていたのは、高度経済成長を成し遂げた日本社会が孕む無残なハラスメントの構図だった。

【参考:里見浩太朗

納得すれば、楽しんでやらせていただく。 里見浩太朗 俳優 | 5LのWeb版 50代以上の世代に向けたプレミアムマガジン2015年08月05日
◆里見
 (ボーガス注:東映ニューフェイスの)合格者は四月から俳優座の養成所に行って半年間、みっちり研修を受けるんです。八月の終わりごろ、俳優課の課長がやってきて、「きみたちは九月いっぱいでここを卒業する。現代劇をやりたい人は、大泉の東映東京撮影所へ、時代劇をやりたい人は京都太秦の撮影所に行きなさい」と言われたんです。
木村政雄*68
 自分で決めるんですか?
◆里見
 誰かが、「お前は、こうしろ」と決めてくれたほうが、よっぽど楽だと思いました。迷った挙句に条件を聞いたら、月給は八〇〇〇円。京都の場合は寮があって、三〇〇〇円出したら、寮で、朝晩の食事が付くと聞いて、それなら生活できるかもしれない。東京でアパートを借りて自分で食べていくとなると、八〇〇〇円じゃ成り立たないんです。つまり僕は寮の食事に惹かれて時代劇に決めたんです。
◆木村
 でも、ニューフェイスに合格すると、スターへの道は約束されているんでしょう?
◆里見
 はじめ、僕も、そう思っていたんですが、とんでもない勘違いでした。毎日、画面に映るかどうかも分からない、通行人や駕籠屋や浪人ばかりです。つまり「仕出し」(エキストラ)なんです。半年間、俳優座で鍛えられたのは、ニューフェイスと言ってちやほやされたのは、いったい何だったのか。痺れを切らして同期の三人で、上の人に聞きに行ったんです。「ニューフェイスに合格したのに、いつまで仕出しをするのですか?」と。すると「みんな一からやるんだ!」と怒鳴られました。
◆木村
 それから間もなく二一歳で、映画『天狗街道』に抜擢されたんですよね。そこからは、とんとん拍子ですか?
◆里見
 とんとん拍子というか、忙しくなりましたね。
◆木村
 時代劇の全盛期が過ぎて、ちょっと作るものが変わっていきますね、時代劇から任侠映画に。
◆里見
 東映の時代劇も、いわゆる片岡千恵蔵中村錦之助(後の萬屋錦之介)という、スターシステムの映画は、もう流行らなくなった。だから『十三人の刺客』とか『十七人の忍者』とか、集団路線が出てきます。それも、二、三年で終わり、とうとう時代劇はだめだと、あきらめた。次に出てきたのが、北島三郎さんの『兄弟仁義』とか任侠路線。着物を着た、カツラの無い現代劇です。僕は着物を着てピストルを持つのは自分のキャラクターを生かしきれない気がして、いやだったんです。そんな頃、時代劇がテレビで復活するんです。錦之助さんも橋蔵さんも、テレビに行くのはいやだと抵抗されましたが、これからはテレビの時代だからと説得されて、(ボーガス注:大川橋蔵主演で1966年にフジテレビで)『銭形平次』が始まったんです。これがすごい視聴率で、時代劇は、映画では廃れても、時代劇ファンは多いということを証明しました。僕も、はじめは、さびしい気持ちでテレビ時代劇をやっていたんですが、各局が競うように時代劇の視聴率をとるようになって、『大岡越前』『水戸黄門』が始まり、『暴れん坊将軍』『必殺』が始まり、テレビ時代劇が盛り上がっていきます。そんな中で、僕は『水戸黄門』の助さんをずっとやっていました。そのとき、テレビ東京の『大江戸捜査網』を、助さんとダブってやっていたんです。助さんだけになったら、今度はテレビ朝日が『長七郎天下ご免!』をやってくれという。次に(ボーガス注:『長七郎天下ご免!』が『長七郎江戸日記』として)日本テレビに移ったんです。おかげで僕は(ボーガス注:日本テレビの)年末時代劇スペシャルを五年間、『忠臣蔵』(大石内蔵助)、『白虎隊』(西郷頼母*69)、『田原坂』(西郷隆盛*70)、『五稜郭』(榎本武揚*71)、『源義経』(武蔵坊弁慶)、『風林火山』(山本勘助)で、最後に『樅ノ木は残った』(原田甲斐*72)までやらせてもらって、これは僕の時代劇俳優としてはものすごい財産になったんです。時代劇のヒーローをこんなに何本もやったのは、時代劇の歴史の中で僕しかいない。とてもラッキーだったんです。
◆木村
 縁があったということなんですかね。時代劇で、誰もが憧れる重要な役どころを引き受けられて、それから『水戸黄門』に戻られ、助さんから合わせて二五年。黄門さんは九年間演じ続けられました。
 最近おやりになった、警視総監役や大学教授とか(ボーガス注:現代劇)もいいんですけど、やっぱり、時代劇にお出になっている里見さんは格別なものがあると思いますよ。
◆里見
 ありがとうございます。時代劇チャンネルとかBSの時代劇はけっこう、視聴率がいいんですよ。やはり、時代劇ファンは多いと思います。
◆木村
 日本は超高齢社会に入りました。誰にも分かりやすくて痛快で、勧善懲悪の時代劇を、もっともっと作ってほしいですね。
◆里見
 視聴率が低いとか、制作費が現代劇より高いとか言って、時代劇を作らなくなったんですが、そんなことはないんですよ。視聴率じゃなくて、時代劇を待っている人に届けなきゃいけないんです。日本の文化なんですから。どうか文化の灯を消さないでほしいものです。実は時代劇小説も、けっこう売れているんですよ。若い書き手も増えています。

*1:早稲田大学名誉教授。著書『天皇制警察と民衆』(1987年、日本評論社)、『自由民権運動立憲改進党』(1991年、早稲田大学出版部)、『日本近代国家の成立と警察』(1992年、校倉書房)、『警察の社会史』(1993年、岩波新書)、『近代日本の警察と地域社会』(2000年、筑摩書房)、『近現代史考究の座標』(2007年、校倉書房)、『自由民権期の社会』(2012年、敬文舎)、『維新政府の密偵たち:御庭番と警察のあいだ』(2013年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『「主権国家』成立の内と外』(2016年、吉川弘文館)、『日本近現代史を生きる』(2019年、学習の友社)、『世界の中の近代日本と東アジア』(2021年、吉川弘文館)、『唱歌蛍の光」と帝国日本』(2022年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『近現代日本の警察と国家・地域』(2024年、日本評論社)、『早稲田大学の学祖・小野梓』(2024年、早稲田新書) 等

*2:明治大学教授。昭和天皇批判の著書として『昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版)、『大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社→2020年、ちくま学芸文庫)、『昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房)、『増補・昭和天皇の戦争』(2023年、岩波現代文庫)、『昭和天皇の戦争認識』(2023年、新日本出版社)等

*3:1937年の日中戦争全面化(盧溝橋事件)からカウントして60年と言うこと。日中戦争については1931年の満州事変からのカウントもありうるので、個人的にはタイトルは「盧溝橋事件60年」の方が良いが気がする

*4:京都府立大学教授。著書『国際秩序の形成と近代日本』(2002年、吉川弘文館)、『総力戦とデモクラシー』(2007年、吉川弘文館)、『総力戦体制の正体』(2016年、柏書房

*5:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官等を経て首相

*6:第一次安倍、福田内閣沖縄・北方等担当相、第二、三次安倍内閣外相、自民党政調会長(第二次安倍総裁時代)等を経て首相

*7:小泉内閣防衛庁長官福田内閣防衛相、麻生内閣農水相自民党政調会長(谷垣総裁時代)、幹事長(第二次安倍総裁時代)、第三次安倍内閣地方創生担当相等を経て首相

*8:当然ながら「日米安保に批判的な小生」としては共産評価は高くなるし、一方で「安保容認」の立民党の評価は低くなります。恐らく、歴史評論今月号の筆者の多くもそうした立場かと思います。例えば、座談会「2000年代の歴科協を振り返って」の高岡関西学院大学教授は「石破政権の大軍拡をはっきり批判してるのはメディアでは赤旗、政党では共産と社民くらいしかないのではないか?」と嘆いています。

*9:そうしたマスコミの中に「読売、産経」だけでなく、朝日や毎日があることを指摘し、筆者は批判している。

*10:吉田内閣郵政相、建設相、自民党総務会長(岸総裁時代)、岸内閣蔵相、池田内閣通産相、科技庁長官等を経て首相

*11:大平内閣厚生相、中曽根内閣運輸相、海部内閣蔵相、自民党政調会長(河野総裁時代)、村山内閣通産相等を経て首相

*12:明治大学教授。著書『近世日本の支配構造と藩地域』(2014年、吉川弘文館

*13:早稲田大学教授。著書『キリシタン民衆史の研究』(2001年、東京堂出版)、『検証・島原天草一揆』(2008年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー) 、『潜伏キリシタン:江戸時代の禁教政策と民衆』(2014年、講談社選書メチエ→2019年、講談社学術文庫)、『近世潜伏宗教論:キリシタン隠し念仏』(2017年、校倉書房)、『近世日本邪正論:江戸時代の秩序維持とキリシタン・隠れ/隠し念仏』(2024年、勉誠社

*14:東京学芸大学教授。著書『漢代国家統治の構造と展開:後漢国家論研究序説』(2009年、汲古書院)、『光武帝』(2023年、山川出版社世界史リブレット人)等

*15:関西学院大学教授。著書『増補・総力戦体制と「福祉国家」:戦時期日本の「社会改革」構想』(2024年、岩波現代文庫

*16:埼玉学園大学名誉教授。著書『平安朝の母と子』(1991年、中公新書)、『家成立史の研究』(1991年、校倉書房)、『平安朝の女と男』(1995年、中公新書)、『平安朝の家と女性』(1997年、平凡社選書)、『平安朝女性のライフサイクル』(1998年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』(2000年、NHKライブラリー→2023年、NHK出版新書)、『平安朝に老いを学ぶ』(2001年、朝日選書)、『平安王朝の子どもたち』(2004年、吉川弘文館)、『平安朝女の生き方』(2004年、小学館)、『平安王朝社会のジェンダー』(2005年、校倉書房)、『平安朝の父と子』(2010年、中公新書)、『古代・中世の芸能と買売春』(2012年、明石書店)、『平安王朝の五節舞姫・童女』(2015年、塙選書)、『藤原彰子』(2019年、吉川弘文館人物叢書)等

*17:東京都立大学教授。著書『近現代日本の地域政治構造:大正デモクラシーの崩壊と普選体制の確立』(2001年、日本経済評論社)、『東京市政』(2007年、日本経済評論社)、『近衛新体制の思想と政治』(2009年、有志舎)、『総力戦のなかの日本政治』(2017年、吉川弘文館)、『首都改造:東京の再開発と都市政治』(2020年、吉川弘文館)、『東京史』(2023年、ちくま新書)等

*18:青山学院大学教授。著書『プロイセンの国家・国民・地域:19世紀前半のポーゼン州・ドイツ・ポーランド』(2012年、有志舎)

*19:茨城大学教授。著書『「産業戦士」の時代:戦時期日本の労働力動員と支配秩序』(2019年、大月書店)

*20:1924~2023年。宇都宮大学名誉教授。著書『日本資本主義の食と農』(2011年、筑波書房ブックレット)、『わが農業問題研究の軌跡』(2013年、御茶の水書房)等

*21:横浜国立大学名誉教授。著書『明治・大正の農村』(1992年、岩波ブックレット)、『近代日本と農村社会』(1994年、日本経済評論社)、『民衆の教育経験』(2000年、青木書店→増補版、2019年、岩波現代文庫)、『歴史への問い/現在への問い』(2008年、校倉書房)、『語る歴史、聞く歴史:オーラル・ヒストリーの現場から』(2017年、岩波新書)、『日常世界に足場をおく歴史学』(2019年、本の泉社)、『世界の片隅で日本国憲法をたぐりよせる』(2023年、岩波ブックレット

*22:著書『浜岡・反原発の民衆史』(2014年、社会評論社)、『静岡県水平社の歴史』(2016年、解放出版社)、『日本陸軍のアジア空襲』(2016年、社会評論社)、『明治日本の産業革命遺産・強制労働Q&A』(2018年、社会評論社)、『韓国徴用工裁判とは何か』(2020年、岩波ブックレット)等

*23:佐渡同様に強制連行された朝鮮人が労働していた端島炭鉱(世界遺産)のこと

*24:山本群馬県知事が不当にも強制撤去した「関東大震災での虐殺された朝鮮人の追悼碑」のこと

*25:1715~1782年。佐渡奉行勘定奉行長崎奉行留守居を歴任

*26:1931~2018年。筑波大学名誉教授。群馬県立女子大学名誉教授。新潟県佐渡郡金井町(現・佐渡市)出身。新潟県佐渡高校新潟大学を卒業後、(後に大学教員となるが)高校教諭として勤務しながら研究成果を発表。1967年に京都大学に国内留学して「鉱山研究史の第一人者」小葉田淳(1905~2001年、著書『日本鉱山史の研究』(1968年、岩波書店)、『続・日本鉱山史の研究』(1986年、岩波書店)、『日本銅鉱業史の研究』(1993年、思文閣出版)、『貨幣と鉱山』(1999年、思文閣出版)等)に師事。「佐渡世界遺産にする会」の中心人物の一人。著書『佐渡金銀山文書の読み方・調べ方』(1984年、雄山閣出版)、『佐渡金銀山の史的研究』(1986年、刀水書房)、『良寛・その出家の実相』(1986年、三一書房)、『先駆ける群像:佐渡の幕末・維新』(1989年、刀水書房)、『百姓の江戸時代』(2000年、ちくま新書)、『村からみた日本史』(2002年、ちくま新書)、『病の世相史:江戸の医療事情』(2003年、ちくま新書)等(田中圭一 (日本史学者) - Wikipedia参照)

*27:1980年、教育社歴史新書

*28:筆者の渡辺剛氏には『戦後のあだ花・カストリ雑誌』(2019年、三才ブックス)、『遊廓』(2020年、新潮社)等の著書がある。

*29:著書『ダークツーリズム』(2018年、幻冬舎新書)等

*30:3輪の自転車タクシーのこと(ベロタクシー - Wikipedia参照)

*31:専修大学助教。著書『日中戦争期における汪精衛政権の政策展開と実態:水利政策の展開を中心に』(2014年、専修大学出版局

*32:著書『昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版)、『大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社→2020年、ちくま学芸文庫)、『軍備拡張の近代史:日本軍の膨張と崩壊』(1997年、吉川弘文館)、『歴史修正主義の克服』(2001年、高文研)、『昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房)、『護憲派のための軍事入門』(2005年、花伝社)、『世界史の中の日露戦争』(2009年、吉川弘文館)、『これだけは知っておきたい日露戦争の真実』(2010年、高文研)、『日本は過去とどう向き合ってきたか』(2013年、高文研)、『近代日本軍事力の研究』(2015年、校倉書房)、『兵士たちの戦場』(2015年、岩波書店)、『帝銀事件と日本の秘密戦』(2020年、新日本出版社)、『増補・昭和天皇の戦争』(2023年、岩波現代文庫)、『昭和天皇の戦争認識』(2023年、新日本出版社)等

*33:その後、2024年10月の衆院選で当選(立民党)

*34:著書『歌屋・都はるみ』(1997年、文春文庫)、『テレサ・テン十年目の真実』(2007年、文春文庫)、『ヘイトスピーチとたたかう!:日本版排外主義批判』(2013年、岩波書店)、『改訂新版・統一教会とは何か』(2022年、大月書店)、『北朝鮮拉致問題』(2022年、集英社新書)、『誰も書かなかった統一教会』(2024年、集英社新書)等

*35:著書『地域に学ぶ関東大震災』(編著、2012年、日本経済評論社

*36:日本共産党中央委員

*37:残念ながらその後、2024年10月の衆院選で落選しており「辰巳氏の参院選落選→その後の衆院選当選」のような早急な再起を熱望しています。

*38:いずれも今の毎日新聞の前身

*39:第二次西園寺、原、高橋、加藤友三郎、斎藤内閣外相、南満洲鉄道(満鉄)総裁等を歴任。通算外相在職期間7年5か月は、現時点での最長記録である。

*40:第二次大隈、寺内、原、高橋内閣海軍大臣、首相を歴任

*41:衆院議員(2009~2012年、2014~2020年)

*42:若井氏の見学は日本最大の大山古墳 発掘調査現場を公開 宮内庁 | 毎日新聞が報じる2024.11.29の見学

*43:著書『平泉澄』(2006年、ミネルヴァ書房日本評伝選)、『邪馬台国の滅亡:大和王権の征服戦争』(2010年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『仁徳天皇』(2015年、ミネルヴァ書房日本評伝選)、『「神話」から読み直す古代天皇史』(2017年、洋泉社歴史新書y)、『謎の九州王権』(2021年、祥伝社新書)

*44:今回、紹介した記事で一番評価できる表記が「伝仁徳天皇陵(あくまで伝承にすぎず真偽不明)」とする朝日で、最も評価できないのが「仁徳天皇陵」を強調する右翼「産経」です。

*45:著書『東国古墳時代埴輪生産組織の研究』(2013年、雄山閣)、『東国古墳時代の文化と交流』(2015年、雄山閣

*46:ググったのですが「石積みは後世に積み直された」仁徳天皇陵古墳の墳丘に研究者17人が初めて立ち入り調査 - 産経ニュース等のマスコミ報道に名前が出てくる「日本考古学協会」以外の16学会・協会がどこかは不明です。

*47:一般には征韓論政変という

*48:東京科学大学准教授

*49:名古屋大学名誉教授

*50:専修大学教授。著書『兵士と軍夫の日清戦争』(2006年、有志舎)、『日清戦争』(2014年、中公新書)等

*51:滋賀県立大学教授。著書『平安京都市社会史の研究』(2008年、塙書房)、『英雄になった母親戦士:ベトナム戦争と戦後顕彰』(2014年、有志舎)、『牛車で行こう!平安貴族と乗り物文化』(2017年、吉川弘文館

*52:著書『総動員体制と映画』(2003年、新曜社

*53:1896~1982年。1953年に『地獄門』でカンヌ国際映画祭グランプリ受賞(衣笠貞之助 - Wikipedia参照)

*54:1940年に村山知義(戦後は新協劇団→東京芸術座)、小沢栄太郎(戦後は俳優座)、宇野重吉滝沢修(いずれも戦後は劇団民芸)など中心人物が治安維持法違反容疑で逮捕されると共に、警察からの圧力もあって解散。戦後の1946年に村山知義が再建。1959年、薄田研二らの劇団中芸と統合し、東京芸術座新協劇団 - Wikipedia参照)

*55:1900~1984年。著書『女帝と道鏡天平末葉の政治と文化』(1969年、中公新書→2008年、講談社学術文庫)、『大伴家持』(1971年、平凡社→2009年、平凡社ライブラリー)、『平将門』(1975年、朝日評伝選→2005年、講談社学術文庫)、『柿本人麻呂論』(1983年、岩波書店→2006年、岩波現代文庫)、『女帝と詩人』、『日本古代内乱史論』(以上、2000年、岩波現代文庫)等(北山茂夫 - Wikipedia参照)

*56:1898~1956年。1953年、『雨月物語』でヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を、1954年、『山椒大夫』でヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を、『近松物語』でブルーリボン賞監督賞を受賞(溝口健二 - Wikipedia参照)

*57:1909~1977年。1974年に『サンダカン八番娼館 望郷』でベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞(田中絹代 - Wikipedia参照)

*58:1914~1998年。立命館大学教授、京都大学教授、京都国立博物館長等を歴任。著書『南北朝』(1957年、創元社→1991年、朝日文庫)、『町衆:京都における「市民」形成史』(1964年、中公新書→1990年、中公文庫)、『佐々木道誉』(1979年、平凡社→1995年、平凡社ライブラリー)、『日本の古代文化』(1979年、岩波書店→2006年、岩波現代文庫)等(林屋辰三郎 - Wikipedia参照)

*59:1934~2010年。1964年、『忍者狩り』で監督デビュー。この映画は東映集団抗争時代劇を代表する傑作として近年評価を高めている。1966年、TBS『ウルトラQ』放送で興ったTV怪獣ブームに触発された企画として、「忍術自雷也もの」をベースに、時代劇に怪獣要素を持ち込んだ特撮映画『怪竜大決戦』を撮る。しかし、映画が斜陽化したため、途中でテレビドラマの監督に転進。TBSの時代劇『水戸黄門』(1969年放送開始)、『大岡越前』(1970年放送開始)、『江戸を斬る』(1973年放送開始)等の監督を務めた(山内鉄也 - Wikipedia参照)

*60:1913~1986年。1959年に京都市議に当選(四期務める)、1975年に京都府議となるが、三期目の1986年3月15日に急死。著書『山宣(新装版)』(2009年、新日本出版社)等(西口克己 - Wikipedia参照)

*61:1932~1997年。父は三代目中村時蔵、兄は二代目中村歌昇(1925~1973年:長男は五代目中村歌六で、長男が五代目を襲名する際に四代目中村歌六を死後追贈された)、四代目中村時蔵(1927~1962年)、初代中村獅童(1929~2008年:二代目中村獅童の父)という歌舞伎の家に生まれるが映画俳優に転身。1963年公開の映画『武士道残酷物語』でブルーリボン賞主演男優賞受賞(萬屋錦之介 - Wikipedia参照)

*62:1898~1981年。『忠次旅日記・甲州殺陣篇』、『忠次旅日記 信州血笑篇』、『忠次旅日記 御用篇』(以上、1927年)、『新版大岡政談』(1928年)、『鞍馬天狗』(1942年、嵐寛寿郎主演)、『大江戸五人男』(1951年:幡随院長兵衛と水野十郎左衛門の対立)、『徳川家康』(1965年)、『幕末』(1970年:司馬遼太郎竜馬がゆく』の映画化)等の時代劇映画で知られる(伊藤大輔 (映画監督) - Wikipedia参照)

*63:但し「月影兵庫」(NETテレビで1965~1966、1967~1968年)はかなりコミカルなキャラクターであり、「忍者狩り」(1964年)での近衛とは大分カラーが違います(素浪人 月影兵庫 - Wikipedia参照)

*64:「集団抗争時代劇」「集団時代劇」の名称は、公開当時リアルタイムに評された呼称ではなく、東映の社史『クロニクル東映Ⅰ1947-1991』に「後年、集団時代劇と呼ばれるようになった」と説明されているように、後年そう呼ばれるようになったものである。『十七人の忍者』、『十三人の刺客』(いずれも1963年公開)、『忍者狩り』(1964年公開)、『十一人の侍』(1967年公開)等が製作されている。『十三人の刺客(暴君である明石藩主「松平左兵衛督斉韶」(菅貫太郎)の命を狙う刺客のリーダー「島田新左衛門」(片岡千恵蔵)の甥で自らも刺客の一人である島田新六郎役)』『十一人の侍(暴君である館林藩主「松平斉厚」(菅貫太郎)の命を狙う刺客・三田村健四郎役)』等に出演した里見浩太朗納得すれば、楽しんでやらせていただく。 里見浩太朗 俳優 | 5LのWeb版 50代以上の世代に向けたプレミアムマガジンで「東映の時代劇も、片岡千恵蔵中村錦之助(後の萬屋錦之介)という、スターシステムの映画は、もう流行らなくなった。だから『十三人の刺客』とか『十七人の忍者』とか、集団路線が出てきます。」と指摘している。ただし里見納得すれば、楽しんでやらせていただく。 里見浩太朗 俳優 | 5LのWeb版 50代以上の世代に向けたプレミアムマガジンで「それも、二、三年で終わり、とうとう時代劇はだめだと、あきらめた。」というように、興行的に突出した成功を収めた作品はなかった。東映岡田茂社長は「集団時代劇」と並行して鶴田浩二主演『博徒シリーズ』(1964~1971年まで全10作)、高倉健主演『日本侠客伝シリーズ』(1964~1971年まで全11作)といった「任侠路線」を進めていたが、任侠路線が大当たりを続けたことで全面切り換えを決意し、「集団時代劇」を含む時代劇映画の製作を終了し、時代劇作品はテレビでの制作に移行させた(十七人の忍者 - Wikipedia参照)

*65:1962年10月7日から1965年3月28日までTBSで放送された時代劇

*66:実際にも蒲生忠知(会津藩主・蒲生秀行の次男)が松山藩主だったが子どもが居ないママ、病死したため断絶し、桑名藩主・松平定行(徳川家康の異父弟である、桑名藩主・松平定勝の次男)が松山藩に転封している(伊予松山藩 - Wikipedia参照)

*67:佐藤慶が演じる浪人「永長八右衛門」

*68:1946年生まれ。吉本興業で東京事務所長、制作部次長、制作部長、常務を歴任。2002年に退社し「木村政雄の事務所」を設立。2019年、自身のブログで「木村政雄の事務所」解散を発表。以後、インタビューに応える以外、目立った活動は行っていない。著書『笑いの経済学』(2000年、集英社新書)、『やすし・きよしと過ごした日々:マネージャーが見た波瀾万丈回想記』(2005年、文春文庫)、『客観力:自分の才能をマネジメントする方法』(2008年、祥伝社新書)等

*69:会津藩家老

*70:明治新政府で陸軍大将、近衛都督、参議。征韓論論争に敗れ、下野し、西南戦争を起こすが敗死

*71:江戸幕府で幕府海軍副総裁。明治新政府でロシア公使、海軍卿、清国公使、第一次伊藤、黒田内閣逓信相、黒田、第一次山県内閣文相、第一次松方内閣外相、第二次伊藤、第二次松方内閣農商務相等を歴任

*72:伊達騒動の当事者の一人