「文化の話題」のみ美術、映画が「他記事の引用」でかなり長くなったので別にしました(つまりは今回の「美術」「映画」記事の話題である「ヒルマ・アフ・クリント展」「シンペイ・歌こそすべて」が世間的にもそれなりに注目されてると言うことですが)。
文化の話題
◆写真「久保村厚『リニアが通る村』」(白鳥悳靖)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。
伊那市荒井区
室町在住、農林専門委員長の久保村厚さんの 「リニアが通る村」が全国写真公募展「視点」で視点賞を獲得し6月6日~13日まで東京都美術館にて展示されています。
◆映画「シンペイ・歌こそすべて」(伴毅)
(内容紹介)
中山晋平を主人公とした映画『シンペイ・歌こそすべて』の紹介。ネット上の記事紹介で代替。
なお、過去にも
Category:音楽家を主人公とした映画作品 - Wikipedia参照
【公開年順】
◆『わが愛の譜 滝廉太郎物語』(1993年公開)
澤井信一郎*1監督、風間トオル主演(滝廉太郎役)。瀧廉太郎(1879~1903年)の没後90年を記念して製作
◆『この道』(2019年公開)
佐々部清*2監督。大森南朋(童謡「この道」の作詞者・北原白秋役)とEXILE AKIRA(童謡「この道」の作曲者・山田耕筰役)のダブル主演
がある物の、「作曲家を主人公とする日本映画」は少ない気がします。
映画『シンペイ 歌こそすべて』公式サイト
晋平役は映画初主演となる歌舞伎俳優・中村橋之助*3。18歳から亡くなる65歳までを見事に演じきった。『シャボン玉*4』などの作詞家、野口雨情役は三浦貴大。『東京行進曲』や『東京音頭*5』の作詞家・西條八十役*6は渡辺大。晋平の面倒を見る劇作家・島村抱月役は緒形直人。『東京行進曲』の歌い手で、晋平、雨情と〝全国歌の旅〞に出る歌手の佐藤千夜子役*7は歌手としても活躍する真由子*8。
監督は『ハチ公物語』(1987年)、『遠き落日*9』(1992 年)の名匠・神山征二郎*10。
記事内では紹介されていませんが神山氏には音楽関係の映画では今回の「中山晋平映画」以前にも
神山征二郎 - Wikipedia
◆『日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章』(1981年)
があります。
島村抱月ですが抱月作詞、中山作曲で『カチューシャの唄(抱月が関わった芸術座*11公演『復活』(トルストイ原作)の劇中歌。松井須磨子*12が歌い大ヒット)』があります。
また、抱月作詞ではないですが、抱月が関わった芸術座公演『その前夜』(ツルゲーネフ原作)の劇中歌『ゴンドラの唄』(松井須磨子が歌い大ヒット)の作曲も中山です。
「ゴンドラの歌」については以下の通り、最近も色々とドラマ等で使用されてるし、カバー曲もあるので、若者を含め、ご存じの方も多いかと思います。
【参考:ゴンドラの唄】
ゴンドラの唄 - Wikipedia
【二次使用】
黒澤明監督の映画『生きる』(1952年)において、主人公の男性(演:志村喬)が、ブランコに乗って、「いのち短し、恋せよ、少女(おとめ)」と「ゴンドラの歌」を口ずさむシーンが映画全体の象徴的なシーンとして映されている。
相沢直樹(山形大学教授)は著書『甦る「ゴンドラの唄」:「いのち短し、恋せよ、少女」の誕生と変容』(2012年、新曜社)は、映画『生きる』によって、この歌への関心が再燃するとともに、新たな意義づけがなされたと論じている。
1961年の鈴木清順監督の映画『無鉄砲大将』において、佐川ミツオが歌う主題歌として使用された。
1970年のアニメ作品『あしたのジョー』第33話「初勝利バンザイ」で、主役のジョーとヒロインのり子の仲を見た初登場の大井川医師にて歌われている。
2019年に公開されたドイツ映画『命みじかし、恋せよ乙女』では、樹木希林(前年死去しており、遺作となった)が口ずさんでいる。
【カバー】
◆1997年:由紀さおり・安田祥子
アルバム『歌・うた・唄 VOL.2 スタンダード日本 I』。1998年には同年に死去した黒澤明を偲んで『第49回NHK紅白歌合戦』で披露された。
◆2012年:HALCALI*13
ライオン「クリニカ」のCMソング。
◆2015年:シャーロット・ケイト・フォックス
NHK朝の連続テレビ小説『マッサン』(2014年下期放送)劇中で使用された。同作で亀山エリーを演じたシャーロット・ケイト・フォックスのデビューシングル。
◆2020年:NOW ON AIR*14
4thシングル『ゴンドラの唄』。TVアニメ『啄木鳥探偵處*15』ED主題歌
甦る『ゴンドラの唄』(紹介ページ)から一部引用
第Ⅳ部「『ゴンドラの唄』と現代文化」は、『ゴンドラの唄』が現代において今なお息づいているさまを追ったものです。最終章(第13章)は現代文化、特にサブカルチャーにおける『ゴンドラの唄』の反映を論じたもので、マンガ、アニメ、ゲーム、ライトノベル、Jポップなどからさまざまな事例を挙げて分析するとともに、今日の「恋せよ乙女」の乱舞の背景について考察してみました。
第13章 『ゴンドラの唄』のこだま
◆竹内直子『美少女戦士セーラームーン』(コミック,アニメ,実写ドラマ,映画)
◆新名あき『いのち短し恋せよおとめ』(コミック)
◆『サクラ大戦4〜恋せよ乙女〜』(ゲーム)
◆渡瀬悠宇『ふしぎ遊戯 玄武開伝』(コミック)
◆森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女*16』(小説)
◆『恋セヨ乙女*17』(ドラマ)
◆『オトメン(乙男)*18』(ドラマ)
◆上遠野浩平『ブギーポップは笑わない*19』(ライトノベル)
◆ALI PROJECT『恋せよ乙女〜Love story of ZIPANG〜』(Jポップ)
◆WANDS『恋せよ乙女』(Jポップ)
◆島谷ひとみ『Viola』(Jポップ)
◆北原愛子『AMORE〜恋せよ!乙女達よ!!〜』(Jポップ)
◆HALCALI『ゴンドラの唄』(Jポップ)
黒澤明「生きる」 志村喬「ゴンドラの唄」 | 毎日 韓国ドラマと映画と音楽でヘンボケヨ2012.9.3
「生きる」の中で歌われた「ゴンドラの唄」は(ボーガス注:芸術座公演『その前夜』(ツルゲーネフ原作)の劇中歌として作られた)大正5年の唄だが、この映画のために作られたのかと思うくらい、森繁やひばりや倍賞の比ではなく、志村喬の唄が最も素晴らしい。
「死」を宣告された志村喬がクラブで、♪命短し恋せよ乙女♪と「ゴンドラの唄」を滔々と歌うシーンは、鬼気迫るものがあって、周りの客たちも踊るのをやめて歌を聴いている。顔色一つ変えずに涙を流しながら歌う志村喬。
志村喬が生きた証として、倒れそうになりながらも、奔走して市民のために作った公園の、ブランコに乗ったシーンでもこの「ゴンドラの唄」が歌われる。ここでの歌は、達成感や、充実感、幸福感さえも感じられ、同じ歌でも表情が違う。
この映画で一番心に残るシーンだ。
書評 相沢直樹 著 『甦る「ゴンドラの唄」』: 新曜社通信2013.1.24
当初、この歌を(ボーガス注:作曲の)中山晋平は失敗作と思っていたし、(ボーガス注:作詞の)吉井勇もさほど思い入れを持っていなかったというのは意外。
ところが一本の映画のなかで印象的に歌われたために、二人とも自分たちの作った歌を改めて見直すことになった。
言うまでもなく黒澤明監督の『生きる』(1952年)。
甦る『ゴンドラの唄』 | てくてく 牛込神楽坂2013.11.20
1952年、黒澤明監督の映画『生きる』で、主人公役の志村喬がブランコをこいで(ボーガス注:「命短し、恋せよ乙女」と)『ゴンドラの唄』を歌う場所があります。実は『ゴンドラの唄』が有名なのはこのシーンのせいなのです。
「命短し、恋せよ乙女」というフレーズは以来あらゆるところにでてきます。相沢直樹氏は『甦る「ゴンドラの唄」』の本で、こんな場面を挙げています。
・売れっ子アナウンサーだった逸見政孝氏は自分でこの唄を歌ったと娘の逸見愛氏が『ゴンドラの詩』(1994年、祥伝社)で書き、
・『はだしのゲン』で作者の中沢啓治氏の母はこの唄を愛唱し、
・森繁久彌氏は紅白歌合戦でこの唄を歌い、
・『美少女戦士セーラームーンR』では「花のいのちは短いけれど いのち短し恋せよ乙女」と書き、
・NHKは2002年に『恋セヨ乙女』という連続ドラマを作り、コーラス、独唱、合唱でも出ました。
まだまだたくさんありますが、ここいらは『甦る「ゴンドラの唄」』を読んでください。
「東京音頭」の中山晋平と黒澤明の『生きる』 - 田中雄二の「映画の王様」2014.7.23
中山晋平は「カチューシャの唄」に代表される大正ロマン期の劇中歌の数々、「しゃぼん玉」「砂山*20」などの抒情的な童謡、唱歌、ほかにも「東京行進曲」などを手がけた大作曲家。ところが、作曲した曲は今でも有名だが彼の名はほとんど忘れ去られている。
彼にはその人生を象徴するかのようなこんなエピソードがある。戦後は時流に合わなくなり、作曲もほとんどしなくなった中山。そんな彼が1952年(昭和27)の暮れに、偶然入った場末の映画館(恵比寿説と五反田説あり)で、大正時代に作曲した「ゴンドラの唄」を耳にする。その映画はいわずもがなの黒澤明監督作『生きる』(1952年)。中山は映画を見た翌日に倒れ、ほどなくして亡くなったという。
この映画で、がんに侵された主人公の渡辺勘治(志村喬)が、自分が完成させた公園のブランコを漕ぎ、「ゴンドラの唄」を歌いながら満足して旅立っていった姿に、中山は己の人生を重ね合わせたのかもしれない。でき過ぎとも思えるエピソードだが、何か運命的な出会いを語っているようで心に残る。
【参考終わり】
歌にささげた生涯を描く 中山晋平の映画公開で出演者が舞台あいさつ [長野県]:朝日新聞2024.11.24
「シャボン玉」「東京音頭」など、世に知られる数々のメロディーをつくった長野県中野市出身の作曲家、中山晋平の生涯を描く映画「シンペイ・歌こそすべて」の先行上映が、県内の映画館で始まった。23日には長野市で出演者らが舞台あいさつした。
物語では童謡、歌謡曲、音頭など幅広いジャンルの2千曲を残した中山晋平(1887―1952)の生涯を、晋平が作曲した音楽とともにたどっている。晋平役は映画初主演となる歌舞伎俳優の中村橋之助さん。上田市在住の神山征二郎監督が指揮を執り、晋平の母親役は上田市出身の女優の土屋貴子さんが務めた。
ロケ地となったのは、上田市、須坂市、長野市、松本市など、県内が中心。昨年9月から今年4月までの撮影で、明治、大正、昭和にかけての東京、長野を再現した。
神山監督、集大成の最新作「シンペイ 歌こそすべて」 8日からCINEXで上映、9日舞台あいさつ:中日新聞Web2025.2.7
岐阜市出身の社会派映画の巨匠・神山(こうやま)征二郎監督の最新作「シンペイ・歌こそすべて」が8~21日、岐阜市中心部の柳ケ瀬商店街にある映画館「CINEX」で上映される。9日の上映後には舞台あいさつがあり、神山監督らが登壇する。
神山監督は「ハチ公物語」(1987年)や「ひめゆりの塔」(1995年)などで知られる。「シンペイ」では、明治から昭和にかけて活躍した作曲家で、盆踊りの「東京音頭*21」や童謡「シャボン玉*22」などで知られる作曲家中山晋平(1887~1952年)の生涯を描いた。中山役は歌舞伎俳優の中村橋之助さん。
北京で「日本映画週間」開始 童謡「シャボン玉」作曲家の生涯描いた「シンペイ~歌こそすべて」など上映 - サンスポ2025.4.19
日本映画を中国に紹介する「2025北京・日本映画週間」の開幕式が19日、北京市内の映画館で開かれた。作曲家中山晋平(1887~1952年)の生涯を描いた映画「シンペイ~歌こそすべて」が上映され、開幕式冒頭では中国の子どもたちが、中山が作曲した童謡「シャボン玉」を日本語で合唱した。
◆美術「ヒルマ・アフ・クリント展」(武居利史)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。
クリントが、近年、評価、注目される理由は後で紹介する記事を読んで頂ければと思いますが冒頭に書いておけば以下のようなことでしょう。
1)世間受けしそうなある種のポップさ
2)カンディンスキーなどに先駆けた「抽象絵画の創設者」であるにもかかわらず「生前、あまり作品を発表しなかった」「人智学(シュタイナー)に傾倒したためキワモノ扱いされた」「女性であること(フェミニズム、ジェンダー的な面で注目)」等の理由で、生前、あまり評価されてこなかった「不遇の天才」という話題性
→「生前評価されなかった不遇の天才」という話は「金子みすゞ*23」など日本人の多くが好む話ではないか?
3)「グッゲンハイム美術館で同館史上最高(当時)の60万人が来館」と言う話題性
→「客がたくさん来ている」と言う話はあやはりミーハーを引きつける物があるでしょう
4)アウトサイダー・アート(アール・ブリュット)」「ヴァナキュラー・アート」といった「異端の芸術」がある程度評価されるようになったこと
ヒルマ・アフ・クリント展 - 東京国立近代美術館
抽象絵画の先駆者ヒルマ・アフ・クリント(1862–1944)のアジア初となる大回顧展です。スウェーデン出身の画家アフ・クリントは、ワシリー・カンディンスキー(1866–1944)やピート・モンドリアン(1872–1944)ら同時代のアーティストに先駆け、抽象絵画を創案した画家として近年再評価が高まっています。
ヒルマ・アフ・クリントはなぜ大芸術家になれなかったのか? 映画『見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界』レビュー(評:伊藤結希)|Tokyo Art Beat2022.4.9
アフ・クリントが大芸術家として現れなかった原因はとくに作家の死後に関わっているように思う。というのも神秘主義や神智学から多大な影響を受けて独自の絵画表現を獲得した彼女は、美術界から距離を置いて活動し、存命中にはほとんど作品を発表しなかったからだ。良き理解者となることを期待したのだろうか、神智学のスター的な存在であったルドルフ・シュタイナーには作品を見せたようだが、反応は思いのほか芳しくなかった。
だからこそアフ・クリントは死後20年間作品の公表を禁じ、自身の作品を理解してくれるであろう未来の人々に託したのだ。
奇しくも彼女はカンディンスキー、モンドリアンと同年の1944年に亡くなる。しかしながら、託したはずの未来の人々の対応は予想に反して冷たいものだった。1970年にアフ・クリントの甥の子がストックホルム近代美術館に作品を寄贈しようとしたところ、霊媒師の作品に興味はないと軽くあしらわれてしまうのだ。
カンディンスキー、マレーヴィチといったいわゆる抽象絵画のパイオニアたちも程度の差はあれ神智学に影響を受けているが、アフ・クリントのように交霊会で精霊に依頼されてオートマティスム的に制作した絵画作品というのはなかった。ストックホルム近代美術館にとって既存の美術史に適合しないアフ・クリントの出現が不都合だったことは想像に難くない。
保守的な美術史にメスを入れたのが、昨年ポンピドゥー・センターで開催されたばかりの「彼女たちは抽象芸術をつくる」展(2021)だ。1860〜1980年代という時代の幅をもたせながら、マルチカルチュラルな視点で110人近い女性作家を取り上げて抽象芸術の歴史を読み直したじつに意欲的な企画である。ここでアフ・クリントはジョージアナ・ホートン、アリス・エシントン・ネルソンといったスピリチュアリズムに接近し超自然的な方法で抽象画を制作した作家や、エマ・クンツ、オルガ・フレーベ・カプタインのようなスピリチュアルな体験を探究する過程で抽象画を生み出した作家とともに紹介された。
アフ・クリントの作品が並ぶ美術史は豊かでずっと面白いものになるだろう。
※アフ・クリントの作品が初めて美術史の文脈で紹介されたのは1986年にロサンゼルス・カウンティ美術館で開催された「芸術における精神的なもの:抽象絵画1890-1985」展だった。しかし(ボーガス注:カンディンスキー以前に抽象絵画を発表した天才として描かれる現在と違い、)カンディンスキー、マレーヴィチ、モンドリアンといったスターと並んで展示されるのではなく、単独で一部屋での展示だった。展示方法からも当時のキュレーターたちがアフ・クリントの扱いに困惑していたことが伺える。
ジョージアナ・ホートン、エマ・クンツについては以下を紹介しておきます。
櫛野展正*24
ジョージアナ・ホートンは、45歳のとき、降霊会に参加してから霊媒師としての技術を身につけ、47歳で初めて霊画を描いた。以後10年間、ヘンリー・レニーと70人の大天使と呼ばれる霊の指導のもと、155枚の水彩画を制作した。絵の裏面には、様々な霊に導かれ作品制作をしたことが詳細に記述されている。
振り子で癒しの絵を描く、もう一人の異端のアーティスト、Emma Kunz(エマ・クンツ)
以前、オカルトとアートが繋がって。神秘を絵画に描くヒルマ・アフ・クリントと神智学でヒルマ・アフ・クリントという神秘主義に傾倒した抽象絵画を描いたスウェーデン人画家を取り上げたことがあって、できれば日本でも作品が見られる日が来るといいなぁなんて、半分夢みたいに思っていたら、なんと来年の春に東京国立近代美術館で回顧展が決定したとのニュースが! ありがとうございます。駆けつけます。
この勢いに乗って欲張りたいのが、今回紹介したいスイス人アーティスト、Emma Kunz(エマ・クンツ)。ヒルマ・アフ・クリントと比較されることが多くて、私もそこから彼女のことを知ったのですが、彼女の絵もまた抽象的な模様で、やはり神秘的かつ精神世界を主題とした絵を描いていて、共通点が多いです。
1892年スイスに生まれ、一度もアートの教育を受けたことがなく*25、肩書きはヒーラー(!)で、(中略)振り子(ダウジング)を使って絵を描き始め、1963年に亡くなるまでに500枚もの作品を残したのですが、彼女自身は絵をアートと考えていなくて、ヒーリングの手法のひとつとして患者の治療に使ったり、また形作られる線と色を通して彼女自身が世界を理解する手段にしていたともいわれていて、作品にタイトルもつけていないとか。
今でいうアウトサイダー・アートの括りになるのかもしれませんが、こういう常軌を逸した、湧き上がる情動とか思念とかで創られる芸術、最高。
「正規の美術教育」を受けているクリントは「アウトサイダー・アート(アール・ブリュット)」「ヴァナキュラー・アート」ではないのでしょうが、霊媒師の作品に興味はないという逸話(当初、美術業界から、あまり評価されてなかった)で分かるように、そうしたアートとある種の共通点があるとは言えるかもしれない。また、アウトサイダー・アート等の「異端芸術」が一定程度、評価されるから、クリントも評価されるようになった面もあるでしょう。
再評価高まるヒルマ・アフ・クリントの子孫がメガギャラリーとの提携に猛反発。「作品が略奪される」 | ARTnews JAPAN(アートニュースジャパン)2024.12.24
1862年、スウェーデンに生まれたアフ・クリントは、1906年にはカンディンスキー(1866–1944)、マレーヴィチ(1879-1935年)、モンドリアン(1872–1944)らに先駆けて抽象画を制作していたことから「抽象芸術の真の先駆者」と評される。死後20年は作品を公開しないよう言い残したことから長い間知られてこなかったが、2018年から2019年にかけてニューヨークのグッゲンハイム美術館で開催された回顧展では同館史上最高の約60万人が来場。2022年には伝記映画『見えるもの、その先に:ヒルマ・アフ・クリントの世界』も制作された。日本では、来年(2025年)、東京国立近代美術館で大規模な回顧展が予定されている(3月4日~6月15日)
「ヒルマ・アフ・クリント展」(東京国立近代美術館)レポート。スピリチュアリズムが導いた美しき抽象画。 歴史に埋もれていた女性画家の歩みを辿る2025年必見の展覧会|Tokyo Art Beat2025.3.4
東京国立近代美術館で「ヒルマ・アフ・クリント展」が3月4日〜6月15日に開催される。
ヒルマ・アフ・クリント(1862〜1944)は、スウェーデン生まれの画家。その存在は長らく美術史の陰に隠れてきたが、20世紀に入って急速に再評価が高まり、近年は世界的に大ブレークしているアーティストだ。彼女への評価に際してよく語られることは、同時代の画家ワシリー・カンディンスキー(1866~1944)やピート・モンドリアン(1872~1944)らが切り開いたとされてきた抽象絵画について、彼女こそがその先駆者であった、というもの。そして19世紀末に活動した女性のアーティストの先駆者であった、というものだ。これらの評価が正当かどうかはいくつかの見方があるが、2018年のグッゲンハイム美術館(アメリカ、ニューヨーク)での回顧展が同館史上最多となる60万人を動員するなど、その注目の高まりには目を見張るものがある。
本展の企画を担当する三輪健仁(東京国立近代美術館美術課長)は、「企画から足掛け5年」で実現した本展を感慨深いと語る。「5年前にヒルマ・アフ・クリント財団に展覧会の相談をした時点で、すでに今回のタイミングまで作品借用の空きがない状況だった」とのことで、それほど世界中の展覧会で引っ張りだこだということだ。
作家にとって重要だったのはスピリチュアリズム(心霊主義:人は肉体と霊魂からなり、肉体は消滅しても霊魂は存在し続け、現世へ働きかけてくるという思想)だ。17歳の頃から興味を持ち始め、アカデミーでの学びと並行して、ストックホルムの知識人のあいだで流行していた神秘主義的思想への知見を深めた。とくにヘレナ・ブラヴァツキー*26が提唱した神智学には大きな影響を受けている。
1896年には親しい4人の女性と「5人(De Fem)」というグループを結成。交霊術を行い、トランス状態のなかで高次の霊的存在からメッセージを受け取り、それらを自動書記や自動描画によって記録した。アフ・クリントのこうした作品は、美術界における評価を狙ったり、新しい芸術表現を模索したものというよりも、自らと思想を同じくする人たちに向けて教義や世界観を共有することを目的に制作された。こうした前提がほかの抽象絵画の祖とされるカンディンスキーやモディリアーニらとは異なることは踏まえておきたい。
1917年に制作された「原子」シリーズは、物理的な原子エネルギーと霊的な原子エネルギーとが描かれている。物理学や科学の進歩が目覚ましい19世紀末〜20世紀初頭において、しばしばこうした科学的発見は、今では意外なことにスピリチュアリズムとも結びついた。それまでのキリスト教的世界観からの逸脱、あるいは科学的進歩という大きな時代の変化のなかに、アフ・クリントの思想と芸術もあったと言える(パリ市立近代美術館で先日まで開催されていた「原子の時代」展でも、こうした切り口からアフ・クリントが紹介されていた。レポートは核・原子を芸術はどう描いてきたか。パリ市立近代美術館「The Atomic age : Artists put to the test of history(原子の時代:歴史の試練に挑む芸術家たち)」レポート|Tokyo Art Beat(2024.10.21))。
50代となったアフ・クリントは、1920年に介護していた母親が亡くなると、「人智学」への傾倒を深め、その本拠であるドルナッハ(スイス)に何度も長期滞在。人智学の創始者ルドルフ・シュタイナー*27に影響を受け、作品も幾何学的な図式から水彩のにじみを活かした色の探求へと向かっていく。
アフ・クリントは近年急速に再評価が高まっているが、彼女の残した芸術的遺産については今後も丁寧な検証が待たれる。
三輪は記者説明会で、「2013年以降、アフ・クリントについて語るうえで同時代のカンディンスキーやモンドリアンに先駆けた抽象絵画の先駆者、というのが売り文句になっている」と語りつつ、「(抽象表現の創設者としての)一番二番争いよりも、そうした作家との共通点や差異を探ることが現在は(アカデミアのなかで)重要視されている」と説明。
「単に一番早かったということではなく、彼女の先駆性とは何なのか、具体的に考えていく必要がある。同時代のみならず、戦後の抽象表現主義やポップアート、さらに現代までを含めたより長い時間軸において、その先駆性と魅力をどのように評価していくか。美術史のなかにどのように位置付けていけばいいか。これまでは美術史において、スピリチュアリズムや神秘主義と美術との関係をうまく位置付けられてこなかった。思想を持ったひとりのアーティストである彼女を本当に20世紀の抽象絵画の出発点に位置付けるのであれば、これまでの美術史を書き換えざるを得ない。それがまだうまくできていない。(現在の再評価の)その先にも考えていくことがある。日本での展示がこうした課題を前進させることができたら嬉しい」と締め括った。
ヒルマ・アフ・クリント展|東京国立近代美術館 - B面のつぶやき2025.3.20
美術や文学の世界では、メインストリームから外れていたために忘れられていた人たちの「発見」がしばしば起こります。アフ・クリントをはじめとする、神秘主義の女性画家たちの作品はシュルレアリスムと親和性が高いのですが、シュルレアリストの主流派はオカルト的なものに否定的でした。そのため彼女たちはシュルレアリスムから距離を置く(置かれる?)ことになり、長い間スポットが当たることはありませんでした。
19~20世紀初めごろのヨーロッパが舞台の映画では、薄暗い部屋で人々が輪になって霊を呼ぶシーンが時々見られます。現代と比べると、オカルティズムは大人も嗜むポピュラーなものだったのかも。アフ・クリントも交霊によってインスピレーションを受けていました。そう聞くと一瞬「えっ」と思うかもしれませんが、特別変わった人というわけではないようです。
当時、X線や電気などが発見され、その研究に世の中の関心が集まっていたそうです。アフ・クリントも霊的なものだけでなく、科学的なものにも関心を持っていたことを思わせる資料が展示されていました。
ヒルマ・アフ・クリント作品が見られなくなる? 財団理事長が「精神の探求者だけに公開すべき」と主張(ARTnews JAPAN) - Yahoo!ニュース2025.3.21
現在、東京で「ヒルマ・アフ・クリント展」がアジア初の回顧展として開催されている。そんな中、ヒルマ・アフ・クリント財団の理事長で、アフ・クリントの玄孫であるエリク・アフ・クリントは、「彼女の作品を美術館に展示するべきではない」と主張している。
(ボーガス注:「人智学」創始者のルドルフ・シュタイナーの影響を受けた)アフ・クリントは自身を芸術家というよりも神秘主義者として認識し、時に自分の作品を通して星界と繋がっていると考えていた。
エリクは作品の一般公開を止めて「精神的な求道者」だけに公開を制限しようとしている。
アフ・クリントを研究してきた一部の学者たちは、こうしたエリクの考えを非難している。ドイツの美術評論家でアフ・クリントの伝記作家であるジュリア・フォスはDagens Nyheterの取材に対して、「想像もできない損失です。芸術界全体から大きな抗議が起こるでしょう。そもそも、誰が『精神的な求道者』であるかどうかをどう合理的に判断するのでしょうか?」と語った。
『精神的な求道者=心霊主義信奉者』なんですかね。是非はともかく(まあ、俺は是とはしませんが)、彼女の「心霊主義傾倒」を重視すれば成り立つ考えではあるでしょう。
【ヒルマ・アフ・クリントを知る1万字】オカルトの画家か、抽象絵画の先駆者か。東京国立近代美術館・三輪健仁に聞く(前編)|Tokyo Art Beat2025.4.1
東京国立近代美術館で「ヒルマ・アフ・クリント展」が開催されている。会期は3月4日〜6月15日。
ヒルマ・アフ・クリント(1862〜1944)は、スウェーデン生まれの画家。その存在は長らく美術史の陰に隠れてきたが、2010年代に急速に再評価が高まり、近年は世界的に大ブレークしている。なぜいま、この画家に大きな注目が集まるのか。その魅力や、絵に込められた意味とは。そして彼女について言われる「カンディンスキーやモンドリアンよりも抽象絵画を早く創案したパイオニア」「美術史を書き換える存在」という説明は本当なのか?
「ヒルマ・アフ・クリント展」の企画を担当する三輪健仁(東京国立近代美術館美術課長)に解説してもらった。
◆インタビュアー
かつては「知る人ぞ知る」画家であったヒルマ・アフ・クリントですが、ここ10年ほどで急速に再評価が高まり、今回の日本初回顧展も大きな話題となっています。アフ・クリントといえば、展覧会の概要にも書かれている「ワシリー・カンディンスキーやピート・モンドリアンら同時代のアーティストに先駆け、抽象絵画を創案した画家」との紹介に、とくに注目が集まりますね。それは本当なの?というのが気になるところです。
◆三輪
ヒルマ・アフ・クリントがスウェーデンで生まれたのは1862年、亡くなったのは1944年ですから、ワシリー・カンディンスキー(1866〜1944)やピート・モンドリアン(1872〜1944)とほぼ同世代と言えます。
生前まったくの無名だったわけではありませんが、当時は「神殿のための絵画」の全貌が明らかになっておらず、亡くなった後も、本国スウェーデンの美術史において重要な位置づけがなされていたとは言い難いと思います。
1980年代以降、スウェーデン国内を中心に彼女の作品は何度か展覧会で取り上げられてきました。国外では1986年から87年にかけてロサンゼルス・カウンティ美術館で開催された「芸術における精神的なもの:抽象絵画──1890-1985」でフィーチャーされましたが、現在のような注目には至りませんでした。
状況が劇的に変わったのは2010年代。2013年にスウェーデンのストックホルム近代美術館で開催された回顧展が、2015年までの長い期間、ヨーロッパ各地を巡回しました。その後2018年にニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館での回顧展が開催され、当時の同館史上最多となる60万人超もの動員を記録しました。これらの展覧会によって彼女の存在は世界的なものとなり、現在も注目を集め続けています。
2010年代以降、頻繁に使われるようになった「抽象絵画の先駆者」というタームは、非常に魅力的な売り文句となってきました。この語が使われ続けていることには、企画側の“押し出し方”の戦略が相応に影響しているとも言えます。
2010年代のブレークにはいくつか理由があると思います。
1980年代と2010年代の差異のひとつは、女性のアーティストに対する再評価の流れです。モダンアートの歴史において、これまで女性はマイノリティでした。そして女性であることのみならず、アフ・クリントは、当時の芸術の中心パリなどから離れたスウェーデン国内でほぼそのキャリアが完結していたこと、そして神秘主義的思想を持っていたことなど、いくつかの点でマイナーな存在でした。
地理的(スウェーデン)、思想的(神秘主義)、ジェンダー的(女性)、様々な面でマイノリティであるアーティストとして再発見されたアフ・クリントが美術の歴史のなかに入ってくることで、美術史自体を単線的なものから多様で新しい方向に開くことができるのではないか、と魅力的にとらえられるようになった。1980年代と2010年代とでは、アフ・クリントの存在を受け止める側が変わったということは大きな違いだと思います。ただし言うまでもなく、こういったマイノリティの評価の在り方は、ある種のブーム、トレンド的な面が多分にあり、短期的に消費されかねないので、注意が必要だとは思います。
とはいえ、こうした美術史的な価値観の変化だけでは、グッゲンハイム美術館に60万人も訪れる、ということにはならないでしょう。ではなぜこれほど需要が広がったのか。それはアフ・クリントの作品、その色彩や形態が持つ「新しさ」のためかもしれません。ここでいう新しさ、というのはモンドリアンやカンディンスキーより早く抽象絵画を描いたという新しさ、ではなくて、広く現代の人の感性を惹きつけるアクチュアルな魅力という意味です。
アフ・クリントは、抽象表現の先駆者と言われているわけですが、果たしてこの作品を抽象と言ってもいいのか?という点も関係しているように思います。たとえば画面に現れる渦巻き型の形象は抽象的というよりは、カタツムリやオウムガイのように明らかに生物的なものです。バラやユリの花だとすぐに認識できる形も描いている。既知の約束事によって何が描かれているかを認識できる、という特徴が、多くの人々にとってある種のわかりやすい入り口のように感じられるのかもしれません。それとやはり色彩ではないかと思います。〈10の最大物〉では、パステルカラーを基調としたピンク、紫、オレンジの色面などが現れ、その色面の大きさからも人の目を引く要素になっているのではないでしょうか。
近年は抽象絵画だけでなくポップアートなどと比較する研究者もいますし、前衛的で先駆的であると同時に、現代の大衆に強い訴求力を持つ点は、とても興味深い特徴だと思います。美術史における価値観の変化、彼女の作品が持っている現代の大衆の感性に浸透する力、そのふたつが2010年以降の時代にフィットした、というところではないかと思います。
話が脱線しますが
【1】「埋もれてきた天才」という話題性あるストーリーと「(鮮やかな色彩による華麗な絵など)今の時代にも受けるある種のポップさ」の二つが相乗効果で客を呼んでいる
【2】最近、評価が高まって、世間的な知名度も上がってる
という点は例えば「伊藤若冲(1716~1800年)」に似てるなとは思います(小生はアフ・クリント作品は勿論若冲作品も未見で、世間の評判しか知りませんが。というか、美術に関心が薄く、あまり美術館に行きませんが)。
【参考:伊藤若冲】
伊藤若冲 - Wikipedia
時代の変遷とともに江戸絵画の傍流扱いされるようになった若冲だが、辻惟雄*28『奇想の系譜』(1970年、美術出版社→2004年、ちくま学芸文庫)が出版され、若冲同様、当時、評価が低かったとされる岩佐又兵衛(1578~1650年)、曽我蕭白*29(1730~1781年)らとともに「奇想の画家」として再評価されることになった。2006年に東京国立博物館で開催されたアメリカ人収集家ジョー・プライスのコレクションから成る「プライスコレクション『若冲と江戸絵画』展」において、その人気に火が付いた。2016年春の東京都美術館「生誕300年記念・若冲展」では、入館まで最長5時間20分待ちの事態*30が発生するほどの大人気となり、その人気が頂点に達したと評された。
ジョー・プライス(1)自然 若冲ブームの一翼担う 「葡萄図」に導かれ江戸美術収集 - 日本経済新聞2017.3.1
昨年(2016年)5月18日、東京・上野の東京都美術館。「生誕三〇〇年記念・若冲展」を見ようとする人で、入館の行列は最大5時間20分待ちを記録した。わずか31日間の会期に、44万6242人が訪れた。文字通り記録的な展覧会となった。
伊藤若冲の人気がここまで大きくなるとは。私が若冲作品と出合ったのは64年前。米国人の私がいうのも何だが、奇想の画家ともいわれる若冲は、当時ほぼ埋もれていた。
米国の美術収集家ジョー・プライスさん死去 若冲らの再評価に貢献:朝日新聞2023.4.18
伊藤若冲の作品をはじめ、江戸絵画を収集し、一大コレクションを築いた米国の美術収集家ジョー・プライスさんが現地時間の13日、老衰のため米ロサンゼルス郊外の自宅で死去した。93歳だった。若冲の再評価で、日本の美術界に大きな影響を与えた。
J・プライスさんの思い出 辻惟雄さん「若冲を探し回る米国人!」:朝日新聞2023.5.9
日本人が忘れていた天才画家・若冲の素晴らしさを思い起こさせたということ、これがプライスさんの大きな功績です。私のことを、若冲を現代によみがえらせたなどと言う方がおられますが、実はタッチの差で、三つ年上の彼が第一発見者だったんだと思います。
【参考終わり】
さて、三輪インタビューの紹介を続けます。
◆インタビュアー
アフ・クリントは正規の美術教育を受けていましたが、これは当時の女性としては先進的です。彼女がどのようにして画家になったのか教えてください。
◆三輪
姉のイーダは、女性の権利運動を進める「フレデリカ・ブレーメル協会」の運営に携わりました。姉妹の活動から推測すると、それなりにリベラルな家庭だったのではないかとも思います。10代の後半には絵の勉強を始めていた。彼女が通っていた私塾を開いたのはシャスティン・カードンという女性のアーティストです。とはいえ、カードンの絵画はアバンギャルドな作風ではなく、古典的、自然主義的な肖像画を主に描いていた。(ボーガス注:抽象絵画ではない)この時期の作品を展覧会でもいくつか紹介しています。
◆インタビュアー
アフ・クリントのオリジナリティはどのように芽生えたのでしょうか。
◆三輪
アフ・クリントは1882年に入学したアカデミーを1887年に優秀な成績で卒業しますが、在学中からすでにスピリチュアリズム(心霊主義:人は肉体と霊魂からなり、肉体は消滅しても霊魂は存在し続け、現世へ働きかけてくるという思想)に関心を抱いていたとされています。大きな転機としては、1896年に友人で同じく画家のアンナ・カッセル(1860〜1937)らと神智学などの秘教思想に傾倒するグループ「5人」を作り、その活動が代表的作品群「神殿のための絵画」の制作へとつながっていきます。スピリチュアリズムは、アカデミックな様式から離れた、アフ・クリントの新しい視覚言語が生み出されていく際の大きな要因のひとつになりました。
◆インタビュアー
当時スピリチュアリズムは一般的だったのでしょうか。
◆三輪
19世紀後半、ストックホルムのとくに知識階級のあいだでは、最先端の科学技術に関心を寄せながら、同時にスピリチュアリズムを信奉するといった人々がかなりいたようです。この傾向はスウェーデン特有というわけではなくヨーロッパ各地で見られたものです。出発点のひとつには19世紀半ばのダーウィンの進化論があるとされます。(ボーガス注:天地創造説を否定する)進化論がキリスト教社会に与えたショックは大きかった。神が世界を創造したというキリスト教的創造論と、生物学的進化論の決定的な対立が生じるわけです。
そこで人々の拠り所のひとつとなったのが、アフ・クリントも影響を受けた神智学という思想です。
(ボーガス注:進化論とキリスト教の)両者をうまい具合に折衷したのが、神智学とも言えるかもしれません。アフ・クリントたち「5人」は、交霊の集いを頻繁に開き、高次の霊的存在と交信し、自動書記や自動描画によって霊的存在からのメッセージを記録していきます。そのような交霊会のなかで、アフ・クリントたちは、神智学的教えについての絵を描くようにと告げられたとされています。よく知られるように、抽象絵画を創始した存在として比較されるカンディンスキーやモンドリアンも、神智学に関心を寄せていました。美術の世界だけでなく、科学者たちのなかにも心霊現象に強い興味を持ち人々がいました。19世紀後半から20世紀初頭にかけては、トーマス・エジソン(1847〜1931)やニコラ・テスラ(1856〜1943)による電気に関わる発明、ヴィルヘルム・レントゲン(1845〜1923)によるX線の発見、キュリー夫妻(ピエール[1859〜1906]、マリー[1867〜1934])による放射線の研究など科学分野の画期的な発明や発見が相次ぎました。レントゲンやラジウムなどは、「眼に見えない、肉眼では捉えられないものの探求」という点で、霊的な存在と似ているところがあります。ですからこの眼に見えないものの把握は、この時代の社会全体の大きな関心事であったと言えるのだろうと思いますし、こうした精神的・科学的探究が、20世紀初頭の芸術運動を大きく動かしたことは重要でしょう。
◆インタビュアー
自動筆記というとシュルレアリスムが思い浮かびますが、そうした作家たちとはどのような違いがありますか。
◆三輪
「芸術表現」として行ったかどうかという違いはあるように思います。アフ・クリントたち「5人」は自動書記や自動描画をたとえば展覧会に発表しようとか、美術における新しい技法を生み出そうと考えたわけではありません。アフ・クリントとカッセルは、この時期の自動書記、自動描画を年月がたってから整理して、かなり破棄したとも言われています。少なくとも「5人」がドローイングを描き始めた初発段階では、本人たちはそれを芸術表現とは考えていなかったのではないかと思います。
【ヒルマ・アフ・クリントを知る1万字】 絵に込められた精神世界とジェンダー観。東京国立近代美術館・三輪健仁に聞く(後編)|Tokyo Art Beat2025.4.8
◆インタビュアー
「女性画家のヒルマ・アフ・クリントこそが抽象表現の真の先駆者だった!」という魅力的な“売り文句”につい乗っかりたくなりますが、彼女の美術史における位置付けについては、美術史そのものへのより慎重な検討が必要ですね。とはいえ、再評価のなかで、ワシリー・カンディンスキーやピート・モンドリアンより「一番早かった抽象画」とされてきたのはどの作品なのでしょうか。
◆三輪
「神殿のための絵画」の最初のシリーズ〈原初の混沌〉の制作は1906年、また〈10の最大物〉は翌1907年の制作です。カンディンスキーによる初の抽象絵画とされる作品は1910年頃とされるので、細かな年代ということで言えば「早い」のは間違いないと思います。
◆インタビュアー
最後に、三輪さんがとくに「注目してほしい!」という作品はありますか?
◆三輪
アフ・クリントは、神智学者、教育者、作家、作詞家と実に多彩な経歴を持つアンナ・マリア・ロースによる児童書『てんとう虫のマリア』の挿絵を手がけていて、その原画と推定されるスケッチを今回展示しています。
表は児童書らしいタッチで農園の風景が描かれているのですが、その裏面は、のちの「5人」による自動筆記を想起させるような、くるくると回転する鉛筆による線描で埋め尽くされています。こうした職業的な技術に支えられたスケッチと、彼女の精神世界の探求を予感させる線とが合わさったこの1枚には、ふたつの追求が決して無関係ではないことが象徴されていると思います。会場では表と裏の両面が見えるように展示していますので、ぜひご覧いただきたいです。
アートとスピリチュアリズム 美術と神秘主義〜ヒルマ・アフ・クリントは見えない世界を描いた先駆者となりうるか|ARTの心眼|清藤誠司 セイジィ・キヨフジ2025.4.8
2025年、ついに日本で初公開となったヒルマ・アフ・クリント(1862-1944)の作品は初めて見る者に大きなインパクトを与えている。可愛らしさや色使いという面で目を惹くことも多分にあるだろう*31。2018年ニューヨークのグッケンハイム美術館で行われた大回顧展は60万人の動員を記録した。
彼女の名は、ここ数年で急速に世界的な評価を高めてきたが、その理由は単なる歴史的再評価にとどまらない。カンディンスキーやモンドリアンらが「抽象絵画の祖」として語られてきた美術史の流れに対し、アフ・クリントの存在は、まるで新たな地層が掘り起こされたかのような発見をもたらした。
ヒルマ・アフ・クリントが本格的に芸術を学び始めた1879年ころ、ニューヨークで活動を始めていたヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(1831-1891)らによって設立された「神智学」というのが世界的に流行していた。神智学は西欧の秘教的思想を基盤に、ダーウィンの進化論や心霊主義、輪廻転生説などが混在した組織であった。神智学は、それまで歴史的に異端とされた神秘主義やオカルティズムの存在を一般的に広めるきっかけとなっていた。
1896年アフ・クリントは親しい4人の女性と「5人(De Fem)」を結成し、交霊会を頻繁に開くようになる。その中で、トランス状態に入り霊的存在と交流し、自動書記、自動描画によっていくつかのスケッチや絵画を残している。
アフ・クリントはやがて神秘科学思想家ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)に強い影響を受けていく。シュタイナーは前出のブラヴァツキーらの神智学が、オカルティズムや辺境的な東洋思想へ傾斜していったことに批判的な立場を取り、新たに「人智学」協会を結成し探求を進めていた。
アフ・クリントは何度かシュタイナーへの面会を試み、スウェーデン講演の際に、自分のスケッチや習作を実見してもらっている。
のちの1915年にアフ・クリントが、神智学協会を脱退し、そこから分離独立したシュタイナーの人智学協会へ加入していることからも、彼女のシュタイナーへの傾倒はうかがえる。
シュタイナーが提唱する「高次の超感覚的世界」を図像として描き出そうとした試みがうかがえる創作物がある。
1907年、わずか2ヶ月の間に制作された巨大な絵画《10の最大物、グループⅣ》である。1907年の夏、人生の4つの段階を「楽園のように美しい10枚の絵画」として制作せよ、という天からの啓示を受け取ったというヒルマ・アフ・クリントは、10月から12月のわずか2ヶ月の間に、高さ約3.2m、幅2.4mの巨大絵画《10の最大物》と呼ばれる作品群を制作する。
巨大絵画群は、その前に立つ鑑賞者を圧倒する。
ただ筆致の甘さはよく見えてしまう。直観で感じたもののイメージを写生した、というべきか、空想が消える前に描き切るという制約のためだろう。
「塗りムラが多く、また絵の具が乾かずに垂れた箇所や、飛沫の跡が各所に見られることから、かなりのスピードで描いたと推測される」(『ヒルマ・アフ・クリント展』東京国立近代美術館2025年・図録より)。
アフ・クリントが実際に面会したシュタイナーからの厳しい助言や戒めのような言葉もあったと少ない記録も残っている。(三輪健仁「彼方よりの絵画」・『ヒルマ・アフ・クリント展』東京国立近代美術館2025年・図録より参照)
またシュタイナー及び、のちの人智学協会側が、アフ・クリントの絵画実践を完全に承認するに至っていなかったという見方や証言も残されている。(ドキュメンタリー映画『見えるもの、その先にーヒルマ・アフ・クリントの世界』2019年参照)
当時シュタイナー人智学に触発され、傾倒した自称芸術家、研究者や著述家は少なからずいて、シュタイナーへの面会希望者も多かった。アフ・クリントもそうした傾倒者の一人のような印象があったのかもしれない。
ただアフ・クリントの後年の創作の中に、シュタイナー人智学への探求が花開いたと見て良い作画も表れる。《知恵の樹、Wシリーズ》と題された7点(+部分習作1点)の水彩による細密画は、絵画表現としても見事な域に達している。
今展覧会で注目に値する芸術性を見るならば、《知恵の樹、Wシリーズ》の計8点の水彩画と、《祭壇画、Xシリーズ》巨大絵画三作や、それ以降の《無題》の水彩画作品群は、作家独自の図画表現として一見する価値がある。
ヒルマ・アフ・クリントが「自分の没後20年は作品を公開することを禁じた」という話も残されており、それはシュタイナーが彼女に語ったとされる「作品*32は50年後にしか理解されないだろう」という見解に従ったとすれば、(ボーガス注:作品《10の最大物》の制作は1907年、クリント死去は1944年なので)アフ・クリントが亡くなった後の20年後の期間とほぼ一致する。
これらの逸話が事実なのかは、もはや想像の域を出ない。
そのこともあって彼女の作品の存在がようやく世間に知られるようになるのは1980年代を待たなければならなかった。
ヒルマ・アフ・クリントの芸術を純粋に評価する際、私たちは従来の美術史の枠組みとは異なる視点を持たなければならない。彼女の作品は、アカデミックな技術の習得や、伝統的な画家としての鍛錬を経て確立されたものではなく、霊的な啓示を受けながら形作られたものである。そのため、一般的な美術史の正統な流れにおける画家たち、例えば、ルネサンスからマニエリスム、新古典主義、そして印象派から抽象表現主義へと至る線上で語られるような作家像とは、一線を画している。
この視点は、現代の美術史の再評価において極めて示唆的である。今日、美術の歴史は単なる技術革新やスタイルの変遷だけでなく、作家の内面的な動機や、その時代における精神性といかに結びついていたかという観点からも議論されるようになっている。ヒルマ・アフ・クリントの作品を、単なる抽象表現主義の先駆けとして見るのではなく、異なる精神世界を探求した独自の芸術として捉えることは、新たな美術史観の形成に寄与するだろう。
20世紀前半のスウェーデンで、このような革新的な表現を生み出していた女性画家が、長らく正統な美術史の中で語られず、近年になってようやく評価され始めたことは、考えさせられるものがある。彼女の作品は、単に見過ごされていたのではなく、美術史そのものの語り方が、これまで一定の価値基準のもとに構築されていたことを示唆している。
ART:抽象表現、先駆的に実践 東京国立近代美術館でアジア初 ヒルマ・アフ・クリント展 | 毎日新聞2025.4.21
「抽象絵画を創案」「米グッゲンハイム美術館で史上最多の60万人を動員」「アジア初の大回顧展」と惹句が並べば、見に行くほかない。近年になって再評価が進むスウェーデン出身の女性画家ヒルマ・アフ・クリント(1862~1944年)の個展「ヒルマ・アフ・クリント展」が東京・竹橋の東京国立近代美術館で開催されている。
ヒルマ・アフ・クリント展 女性解放運動と結びつき - 日本経済新聞2025.4.22
制作からおよそ100年を経て突如として世界に発見され、その作品の先進性から近年、抽象表現の先駆として評価が高まっているヒルマ・アフ・クリント(1862~1944)。彼女の画業の前半期ではその後の独自の表現につながる多様な活動を行っている。なかでも特徴的なのが、当時のスウェーデンの女性解放運動との結びつきを見ることができる、児童書の挿図の仕事である。
アフ・クリントの前半生はどのようなものだったのか。彼女はスウェーデンの裕福な家庭に生まれた。平等とほど遠い男女教育だった当時のスウェーデンにおいて、彼女と姉イーダは小学校から王立女子師範学校へ進学した。
本格的に美術を学び始めた17歳頃にはスウェーデンで初めて女性が女性を教える美術教室に通って素養を磨き、王立芸術アカデミーに入学した。欧州で最も早く女性の入学を正式に許可した同国のアカデミーでさえ、当時は男女が別々の指導を受け、男性しか教師になることが出来なかったようだ。
優秀な成績でアカデミーを卒業、職業画家として手掛けた仕事の中に図鑑や児童書の挿図も含まれていた。彼女も多大な影響を受ける神智学の学者でもあったアンナ・マリア・ロースの「書籍『てんとう虫のマリア』のためのスケッチ」(写真、制作年不詳、ヒルマ・アフ・クリント財団)は、植物などのモチーフに彼女が人生を通して関心を抱き続けた自然科学への興味も読み取れる点で特徴的だ。
20世紀初頭のスウェーデンの児童教育分野では女性が活躍し、彼女たちは女性の権利獲得にも尽力した。特に同国を代表する絵本作家オッティリア・アーデルボリ(1855~1936)は同じくアカデミーに通い、ロースの本に挿図を提供、両者の姉がいずれも女性権利団体「フレデリカ・ブレーメル協会」に携わるなど多くの共通点がある。
後に親しい女性4人と「5人(De Fem)」というグループを結成して活動したアフ・クリントを取り巻くこのような環境は、その思想や人生形成に大きな影響を与えただろう。甥の手記によればアフ・クリントは「自立心に富み、威厳があり、意志が強く、生涯にわたって確信をもって自分の選んだ生き方を歩んだ」女性だったという。
画業を代表する「神殿のための絵画」全193点は母の介護で一時制作を中断した後に完成されたというエピソードからも、彼女の人生が垣間見える。「ヒルマ・アフ・クリント展」は6月15日まで東京国立近代美術館(千代田・竹橋)で開催中。
見えない彼方へ ヒルマ・アフ・クリント - 日曜美術館 - NHK2025.4.13
今、世界が注目するスウェーデン出身の画家ヒルマ・アフ・クリント(1862-1944)。カンディンスキーやモンドリアンに先駆けて抽象絵画を創案したとして評価が高まっている。正統な美術教育を受けると同時に、神秘主義思想に傾倒。画家自身が、霊的な存在の啓示を受けて描いたと語る大作は、100年以上前の創作でありながら、現代美術を思わせる不思議な魅力を放つ。彼女が探求した“見えない宇宙”の秘密に迫る。
未知の世界への扉:アジア初の大回顧展ヒルマ・アフ・クリントの衝撃 - こんな日、狼が走る。2025.4.20
スウェーデン出身の抽象画家。21世紀に入ってから名が知られるようになり、これがアジア初の大回顧展だという。
スピリチュアリズムに感心のあったアフ・クリントは親しかった女性4人と交霊会グループを結成し、霊的存在から受け取ったメッセージを記録していく。そこで霊的世界についての絵を描くようにという啓示を受け取り、アフ・クリントは「神殿のための絵画」を描くことになったのだ。
スピリチュアリズムや交霊などと言うと現代では”ヤバめ”方向で片付けられてしまいそうだが、この時代ではいかがわしいものという感覚ではなかったようだ。解説では「エジソンやキュリー夫妻、ヴィルヘルム・レントゲンによる科学分野での発明や発見もまた、(ボーガス注:電気や放射能といった)眼に見えない世界の把握に関わるものでした。アフ・クリントの神秘思想を基盤にした制作に、こういった同時代の科学的実践と共通する点を見出すこともできるかもしれません。」とある。
同時代の科学分野の”眼には見えないが存在する”という知見が背景にあり、高次の存在、精神世界は真摯に取り組む題材のひとつだったのだろう。現代で言うオカルト趣味とは違うものだと思う。
彼女は本気だったと思う。高次の存在から神殿に絵画を飾るよう啓示を受け、神殿の建設計画を立てて、神殿の設計図作成からどの絵をどこに飾るかまでをも決めていた。アフ・クリント自身が神殿を建てることは実現しなかったが、膨大な数の絵画を甥に託して亡くなった。それが今、世界の美術館を巡り、2018年のグッゲンハイム美術館での回顧展では同館史上最多の動員を記録したという。回顧展は世界を巡り続け、いまだスウェーデンに戻ることなく東京にやってきた。もはやこれは高次の存在が言った”神殿”なのだと思う。アフ・クリントの神殿はグッゲンハイムや東京・竹橋で実現しているのだ。
この時代ではいかがわしいものという感覚ではなかったようだ。ですが、アフ・クリント(1862~1944年)と「同世代の人間」であるコナン・ドイル(1859~1930年、シャーロック・ホームズ物の作者として著名な作家)が心霊主義に傾倒していたことは有名です。
また、心霊主義に関心のあった当時の著名人(後に心霊主義から離れた人間も含む)として、ドイル以外にも以下の著名人がおり「心霊主義」が当時としては決して「変な物」として扱われてなかったことが窺えます。かつ「ドイル作品等の評価」が心霊主義と関係なく行われてるように、クリント作品の評価も「心霊主義とは関係なくされてる」のでしょう。
心霊主義 - Wikipedia、心霊現象研究協会 - Wikipedia参照
【心霊主義に関心のあった当時の著名人:誕生年順】
◆ルイス・キャロル(1832~1898年)
『不思議の国のアリス』等で知られる英国の作家。
◆マーク・トウェイン(1835~1910年)
『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』等で知られる米国の作家。
◆アーサー・バルフォア(1848~1930年)
ユダヤ国家建設を「バルフォア宣言(英国のユダヤ系貴族院議員であるロスチャイルドに対して送った書簡)」で認めたことで知られる英国の首相。なお、英国は一方でメッカ太守フサイン・イブン・アリーと結んだフサイン=マクマホン協定(マクマホン宣言)でオスマン帝国との戦争(第一次世界大戦)に協力することを条件に、オスマン帝国の配下にあったアラブ人の独立を承認すると表明していた。
更に英仏露による中東分割の秘密協定であるサイクス・ピコ協定を結ぶという英国政府の三枚舌外交が、現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因になったといわれる。
1892~1894年まで心霊現象研究協会の会長をつとめている。
◆シャルル・ロベール・リシェ(1850~1935年)
アナフィラキシー・ショックの発見で、1913年にノーベル生理学・医学賞を受賞したフランスの医学者。心霊現象の研究でも知られ、1905年に心霊現象研究協会の会長もつとめている。1893年に「エクトプラズム」という造語をつくりだしたことでも知られる。
◆アンリ・ベルクソン(1859~1941年)
フランスの哲学者。1927年にノーベル文学賞受賞。1913年に心霊現象研究協会の会長をつとめている。著書『時間と自由』(岩波文庫)、『物質と記憶』(講談社学術文庫)、『意識に直接与えられたものについての試論』、『創造的進化』、『道徳と宗教の二つの源泉』(以上、ちくま学芸文庫)、『思考と動き』、『精神のエネルギー』(以上、平凡社ライブラリー)等
◆カール・グスタフ・ユング(1875~1961年)
ユング心理学の創始者として知られる心理学者。著書『現在と未来』、『創造する無意識』(以上、1996年、平凡社ライブラリー)等
所蔵作品展「MOMATコレクション」|東京国立近代美術館 - ひつじ泥棒22025.5.1
開催中の展覧会は、所蔵作品展の「MOMATコレクション」の他、同じチケットで観覧可能な「フェミニズムと映像表現」という小企画展、そしてメインの企画展「ヒルマ・アフ・クリント展」。アフ・クリントはスウェーデン出身の抽象絵画作家。数年前から世界各地で第フィーバーの大回顧展がいよいよアジア初上陸ということで、こちらは大盛況。
ヒルマ・アフ・クリント展の美術評について - 人智学的つれづれ草 - 私の中のシュタイナ-2025.5.8
現在、東京国立近代美術館でヒルマ・アフ・クリント展が開催されており、大変な話題となっている模様だ。彼女は、カンディンスキーやモンドリアンらの同時代のアーティストに先駆けて、ユニークな絵画を作り出した画家として、ここ40年くらいの間、急速に評価が高まっている。
色々な評論を読んで、ほとんどすべてに納得がいったのだが、一つ、どうしても引っかかるものがあった。それは、新聞に載っていたもので、その個所を引用してみると、
『妹の死を契機に人智学に傾倒したとされ、女性たちとグループを組織し、精霊たちの導きのもと降霊会を開催、「高次の存在」からメッセージを受け取って膨大な量の絵画を制作した。』 の所である。
句点で区切られた四つの部分は、それぞれまったく正しいのだが、このような順で文章を書くと、それぞれの内容の関連性・発展性について誤解される方もいるのではないかと思い、書かせていただく。
妹のヘルミーナがなくなったのは1880年、降霊会に参加しだしたのは1896年、ヒルマが神智学協会に参加したのは1904年、人智学協会が設立されたのは1913年である。
なぜ、こんなに細かいことにこだわるのかというと、ヒルマ・アフ・クリントがまず影響を受けたのは、人智学ではなく、ヘレナ・ブラヴァツキーが提唱し、世界的に受容された神智学だからだ。また、人智学協会を設立したシュタイナーは、このような主旨のことを言っている。
「人間が霊的世界に接近するためには、自我の明確な意識と自由意志が必要。交霊会での霊的体験は、トランス状態や無意識の状態で起き、本人の意識が関与しないことが多い。このような受動的な体験は、「霊的な真の認識」ではなく、むしろ危険である。」
霊性を重んじながらも交霊術に依存するアプローチには懐疑的だったシュタイナーは、「霊媒師のように描くべきではない」とヒルマに助言しているようだ。
上記記事(「降霊術による描写」にはシュタイナー個人は否定的)が正しいのならば「シュタイナー」に影響を受けながらも、完全に彼の指示に従っていたわけではないわけです。
*1:1938~2021年。『Wの悲劇』(1984年公開)、『早春物語』(1985年公開)で日本アカデミー賞最優秀監督賞を、『Wの悲劇』で毎日映画コンクール脚本賞を、『早春物語』で日本映画監督協会新人賞を受賞(澤井信一郎 - Wikipedia参照)
*2:1958~2020年。2003年、『チルソクの夏』で日本映画監督協会新人賞を、2005年、『半落ち』で日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞(佐々部清 - Wikipedia参照)
*3:1995年、三代目中村橋之助(現:八代目中村芝翫)、三田寛子夫妻の長男として生まれる。三代目中村福之助、四代目中村歌之助は弟。祖父は七代目中村芝翫(中村橋之助 (4代目) - Wikipedia参照)
*4:作曲は中山晋平。中山作曲、野口作詞の楽曲としては他に童謡『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』や歌謡曲『船頭小唄』『波浮の港(歌唱:佐藤千夜子)』がある(野口雨情 - Wikipedia参照)。
*5:盆踊りの定番曲として親しまれ、またプロ野球「東京ヤクルトスワローズ」やプロサッカー「FC東京」の応援歌として使われていることでも知られる(東京音頭 - Wikipedia参照)
*6:中山作曲、西條作詞の楽曲としては『東京行進曲』、 『東京音頭』の他に童謡『おみやげ三つ』『肩たたき』『毬と殿様』や歌謡曲『銀座の柳』『唐人お吉の唄(明烏編)』『当世銀座節(歌唱:佐藤千夜子)』がある(西條八十 - Wikipedia参照)。
*7:1897~1968年。1929年、「東京行進曲」(中山作曲、西條作詞)が大ヒット。しかし、1930年、オペラ歌手への転身を目指しイタリアへ渡るが思ったほどの活躍は出来ず日本に帰国。日本国内での復帰を目指すが、若手の台頭などもあり、果たせず終わる。戦後は全く忘れられた存在となり、事実上芸能界から引退した。生誕地である山形県天童市にあった佐藤千夜子顕彰館(天童民芸館)は佐藤の生家を再現したものであるが2016年(平成28年)7月をもって閉館し、2020年8月現在、屋根が崩壊し、廃墟同然の状態になっている。NHK連続テレビ小説『いちばん星』(1977年:高瀬春奈(現在は引退)→五大路子(高瀬が途中で病気降板したため)が演じた)のヒロインのモデル(佐藤千夜子 - Wikipedia参照)
*8:父は津川雅彦、母は朝丘雪路。父の津川が創業し、母の朝丘が所属していたグランパパプロダクションに在籍している(真由子 - Wikipedia参照)。「女優・松井須磨子を演じた吉本実憂」など「二世俳優でない人間」もいますが、歌手「佐藤千夜子」役の真由子以外にも『四代目中村橋之助(三代目中村橋之助の子:主役の作曲家・中山晋平役)』『三浦貴大(三浦友和、山口百恵夫妻の子:作詞家・野口雨情役)』『渡辺大(渡辺謙の子:作詞家・西条八十役)』『緒形直人(緒形拳の子:劇作家・島村抱月役)』と二世俳優が多数出演しているのは「親の影響力」を狙った営業戦略なのでしょう(なお、それがいいとか悪いとかではなく事実の指摘にすぎませんし、彼らに演技力が無いとdisってるわけでもありません)。
*10:1941年生まれ。1976年、『二つのハーモニカ』で日本映画監督協会新人奨励賞を、1987年、『ハチ公物語』で山路ふみ子映画賞を受賞。著書『生まれたら戦争だった。 映画監督神山征二郎・自伝』(2008年、シネ・フロント社)(神山征二郎 - Wikipedia参照)
*11:1918年の抱月のスペイン風邪による死亡、抱月の恋人でもあった看板女優・松井須磨子の後追い自殺を契機に劇団は解散
*12:映画『シンペイ・歌こそすべて』では吉本実憂が演じている(吉本実憂 - Wikipedia参照)
*13:2002~2013年に活躍した2人組の音楽ユニット(HALCALI - Wikipedia参照)
*14:2016年から2021年まで活動した日本の声優・音楽ユニット。2016年に、東北新社とCSファミリー劇場による「キミコエ・オーディション」の第1弾オーディションにおいて選出された6人によって結成。メンバー全員(飯野美紗子、岩淵桃音、片平美那、神戸光歩、鈴木陽斗実、田中有紀)が2017年公開の劇場アニメ『きみの声をとどけたい』で主要キャラクターの声優として出演しており、同作が声優としての本格的なデビュー作となる(NOW ON AIR - Wikipedia参照)
*15:2020年4月から6月までTOKYO MXほかで放送(啄木鳥探偵處 - Wikipedia参照
*16:2007年に山本周五郎賞受賞(恩田陸『中庭の出来事』との同時受賞)。タイトルは『ゴンドラの唄』の歌詞「いのち短し恋せよ乙女」からとられている。2017年に劇場アニメ化されている(夜は短し歩けよ乙女 - Wikipedia参照)
*17:NHK総合テレビで2002年7月1日から8月1日まで放送
*18:フジテレビで2009年8月1日から11月3日まで放送
*19:1997年に電撃ゲーム小説大賞を受賞した上遠野の小説デビュー作。2000年(テレビ東京で放送)、2019年(東京MX等で放送)にアニメ化
*22:作詞は野口雨情
*23:1903~1930年。生前、西条八十にその作品が評価された物の、死後長く忘れられた存在であった。詩人の矢崎節夫が1984年に『金子みすゞ全集』(JULA出版局)を刊行したことで再評価が始まった。生誕100年目にあたる2003年4月11日には生家跡に金子みすゞ記念館が開館。矢崎が館長に就任した(金子みすゞ - Wikipedia参照)
*24:1976年生まれ。手掛けた展覧会は、死刑囚が描いた絵画、ヤンキー関連作品、高齢者の表現物、スピリチュアル世界に関する展示など、主に社会の周縁で生きづらさを抱える人たちの展示が多い。各展示が奇抜なため突飛な印象を受けるが、アール・ブリュット(アウトサイダーアート)を「生き延びるためのテクニック」と広義に解釈し、「そのような社会的成功とは無縁な人たちの生き様に焦点を当てることを通して、どのような生き方が良い生き方なのか見つめ直すこと」を目指している。著書『ヤンキー人類学:突破者たちの「アート」と表現』(2014年、フィルムアート社)、『キュレーションの現在』(2015年、フィルムアート社)、『シルバーアート:老人芸術』(2015年、朝日出版社)、『アウトサイドで生きている』(2017年、タバブックス)、『極限芸術 〜死刑囚は描く〜』(2017年、クシノテラス) 、『アウトサイド・ジャパン:日本のアウトサイダー・アート』(2018年、イースト・プレス)、『超老芸術』(2023年、ケンエレブックス)、『ヴァナキュラー・アートの民俗学』(2024年、東京大学出版会) (櫛野展正 - Wikipedia参照)
*25:この点は「正規の美術教育」を受けたクリントと違う。
*26:1831~1891年。1875年に神智学協会を創設。著書『インド幻想紀行』(2003年、ちくま学芸文庫)等 (ヘレナ・P・ブラヴァツキー - Wikipedia参照)
*27:1861~1925年。1902年に神智学協会に入会。1912年、神智学協会を離脱し、人智学協会を設立。著書『神秘学概論』(1998年、ちくま学芸文庫)、『神智学』(2000年、ちくま学芸文庫)、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(2001年、ちくま学芸文庫)、『自由の哲学』(2002年、ちくま学芸文庫)、『オカルト生理学』(2004年、ちくま学芸文庫)、『治療教育講義』(2005年、ちくま学芸文庫)、『シュタイナーの死者の書』(2006年、ちくま学芸文庫)、『人智学・心智学・霊智学』(2007年、ちくま学芸文庫)、『ニーチェ・みずからの時代と闘う者』(2016年、岩波文庫)等(ルドルフ・シュタイナー - Wikipedia参照)
*28:1932年生まれ。東京大学名誉教授、多摩美術大学名誉教授。2016年、文化功労者。著書『奇想の系譜』(1970年、美術出版社→2004年、ちくま学芸文庫)などで、当時の美術史ではあまり評価されていなかった岩佐又兵衛、伊藤若冲、曾我蕭白などを「奇想の画家たち」として取り上げたことで江戸絵画の再評価を促し、日本の美術史に大きな影響を与え、特に1990年代以降の若冲ブームの立役者となった。著書『若冲』(1974年、東京美術出版社→2015年、講談社学術文庫)、『風俗画入門』(1986年、小学館→2024年、講談社学術文庫)、『奇想の図譜』(1989年、平凡社→2005年、ちくま学芸文庫)、『戦国時代狩野派の研究:狩野元信を中心として』(1994年、吉川弘文館)、『遊戯する神仏たち:近世の宗教美術とアニミズム』(2000年、角川書店 →『あそぶ神仏:江戸の宗教美術とアニミズム』と改題し、2015年、ちくま学芸文庫)、『岩佐又兵衛:浮世絵をつくった男の謎 』(2008年、文春新書)、『奇想の発見:ある美術史家の回想』(2014年、新潮社)、『十八世紀京都画壇:蕭白、若冲、応挙たちの世界』(2019年、講談社選書メチエ)、『伊藤若冲』(2020年、ちくまプリマー新書)、『若冲が待っていた:辻惟雄自伝』(2022年、小学館)等(辻惟雄 - Wikipedia参照)
*29:明治以降には忘れられた存在となり、多くの作品が失われたり、海外に流出するなどした。そのため、ウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850~1926年)によって作品の多くがボストン美術館に持ち込まれることになり、現在はボストン美術館が最大の蕭白コレクションを所有している(曾我蕭白 - Wikipedia参照)
*30:まあ、勿論、若冲にせよ、アフ・クリントにせよ「話題だから行く(話題になれば人気のラーメン屋でも何処でも行く)」レベルの軽薄なミーハーも多いでしょうが。
*31:【ヒルマ・アフ・クリントを知る1万字】オカルトの画家か、抽象絵画の先駆者か。東京国立近代美術館・三輪健仁に聞く(前編)|Tokyo Art Beatも指摘していますが、こうしたポップさが受けてると言うことはあるでしょう。
*32:1907年に制作した《10の最大物》のこと