珍右翼・高世仁に悪口する(2023年7/29日分)(副題:中村哲にも悪口する&山下清についていろいろ)

中村哲が見た「飽食の国」日本2 - 高世仁のジャーナルな日々

 山田洋次監督(91)の新作映画「こんにちは、母さん」の先行上映会が23日、山田監督の父の出身地である福岡県柳川市の市民文化会館であったとのニュース。91歳にして新たな映画を作ったのはすごい。山田監督の生き方はどこか中村哲医師のそれに通じるものがあるように感じる。

こんにちは、母さん - Wikipediaによれば吉永小百合大泉洋が母子を演じ、主演とのこと。
 吉永が1945年生まれ(今年で78歳)、大泉が1973年生まれ(今年で50歳)なので実年齢ともあっています。
 ニュースについては以下を紹介しておきます。
福岡:「柳川は特別な地」 山田洋次監督 最新作先行上映:地域ニュース : 読売新聞2023.7.23
山田洋次監督新作 先行上映 90作目「こんにちは、母さん」 父親の出身地・柳川で /福岡 | 毎日新聞2023.7.26
 それはともかく高世には「はあ?」ですね。どの辺りが「通じるのか?」。高齢の現役映画監督なら通じるのか? 
 ならば「高齢、映画監督」でググってヒットした以下の方々も通じるのか?。仮に高世がそうした価値観だとして、これらの映画監督には「高齢の現役映画監督」以外には共通点はなく「そんな価値観に果たして意味があるのか?」。

裏話ひとつ 映画人生九十年 - 岩波書店(2009年刊行)
 二〇〇八年の映画『夢のまにまに』により,「世界最高齢(九十歳)の長編映画監督デビュー」とギネスブックにも登録された著者(木村威夫*1)は,日本を代表する映画美術監督である.九十を超えてますます意気盛んで,新作映画を撮り終えた「大型新人」の若さの秘密は?

106歳、世界最高齢の映画監督 マノエル・デ・オリベイラ監督が死去 : 映画ニュース - 映画.com2015.4.2
 1908年生まれのオリベイラ監督は無声映画時代の1931年に監督デビュー。
 最新作は2012年製作の「家族の灯り」と、(ボーガス注:4人の監督による4作品からなる)オムニバス映画「ポルトガル、ここに誕生す〜ギマランイス歴史地区」の中の1話「征服者、征服さる」。

現役最高年齢映画監督の井上昭さん来館‼|コラム|スタッフブログ|おもちゃ映画ミュージアム2021.11.22
 11月16日共同テレビの取材で、現役最高齢映画監督井上昭さん*2が来館。大映京都の思い出についてインタビューでした。
 取材があった前日には井上監督の最新作『殺すな』のスタッフ試写会がありました。藤沢周平さん*3『橋ものがたり』が原作の時代劇で、以前にも時代劇専門チャンネルで、同作品の中の『小ぬか雨』を演出されています。

映画は運動、私のうっぷん 90歳の監督が送る彼女たちへのエール:朝日新聞デジタル2022.12.9
 山田火砂子(ひさこ)*4、90歳。日本で活動する現役の女性映画監督*5としては、最高齢だ。
 映画製作会社「現代ぷろだくしょん」(東京都新宿区)の社長。福祉映画*6や、反戦をテーマにした社会派の作品を送り出し続ける。
 映画製作の道を志した原点は、重い知的障害のある長女を育てた経験にあった。
 長女の通う養護学校にある日、俳優の宮城まり子が講演に来た。
 私財を投じて肢体不自由児の施設(ボーガス注:ねむの木学園)をつくった宮城が呼びかけた。
 「親でもない私が障害のある子どもと関わっている。親だったら、もっと頑張ってください」
 反発を覚えた。
 「親だから、運動するのが大変なのよ」
 それから、映画製作の道へ。「裸の大将放浪記*7」などをプロデュースし、そして自らメガホンを握った。
(この記事は有料記事です。)

 さて高世の記事に話を戻します。

前回のつづき。中村哲医師の「飢餓の国vs飽食の国」後半。
『かつて日本人の大半が農村にルーツを持っていた。故郷に戻りさえすれば最低限の食べ物には困らず、変わらぬ人間関係が温かく迎え、貧乏でも飢え死にしないという安心感があった。』

 果たして「故郷の農村に戻れば生活できた」は「そもそも事実」なのか。生活できないから「(出稼ぎ等で)都会に行った」のではないのか?。農村がそんなに素晴らしいのなら何故「わざわざ農村を出て、都会に行った」と中村氏は思っているのか?
 「昔の農村をいたずらに美化」するのもどうかと思います。そして「その時代に戻るべきかどうかはともかく」今更その時代には現実問題、戻れないわけです。
 勿論「農業は重要」ですが、それはこうした「事実に反するであろう、昔の農村美化」とイコールではない。
 「農業は重要」「にもかかわらず、農業収入でまともに食えない日本の現状でいいのか(そのため、離農者が出る)」という「正論」とこうした「明らかに事実に反する愚論」がミックスされてるところが中村氏の困ったところです。正論の存在は「愚論を正当化」しない。

【参考:裸の大将放浪記

■「裸の大将放浪記」山田典吾 - Elegan_TIV2023.7.23
 「放浪の画家」「日本のゴッホ」と誉めそやされるも,窮屈な人間関係を嫌い,放浪癖を抑えることができなかった。
 牧歌的で人情のふれあいを描いたTVドラマ版と比較し,本作の評判は芳しくない。

 ぼくは頭が悪くて,体も弱くて,お父さんもお母さんも早くに死んじまって.母さんは死ぬ時に,『清は,母さんが死んだ後は,お前はお腹が空いたら親切な人におむすびをもらって食べなさい』といって死にました

 行く先々で食糧を調達する口実に,健在であった母が「死んだ」ことにして,その遺言として嘘八百で同情を買ったことが不評だった。
 だからといって,リアリティを追求した映画でもないことが残念。

裸の大将放浪記 - Wikipedia
 清はおむすびが好物で、たずね行く街で「お母さんに死ぬ間際に『おなかがすいたら出会った人たちからおむすびをもらって食べるように』と言われた」といって人々から施しを受ける。しかしこれは嘘で、当時清の母は健在であり、清の最期も看取っている。
 ちなみにドラマで清を演じた芦屋雁之助は、晩年は糖尿病のため食事制限が必要だったが、演技上おむすびを何度も口にしなくてはならず、苦労したという。またドラマのイメージが強かったため、ファンからもおむすびの差し入れが多くあった。ファンに気を使って、目の前で無理をして食べてみせることもあったという。

画家・山下清の素顔について考える 前編 | Connect-“多様性”の現場から | ハートネットTVブログ:NHK2016.3.7
 障害者アートの先駆者として山下清*8を紹介できないかと考え、山下清の作品を管理されている甥の山下浩さんに連絡をとりました。すると、「山下清の絵は障害者アートではありませんので、再考いただきたい」というメールが寄せられました。そして「山下清は障害者なのですか。本人も家族もそうは思っていませんよ」という問いかけもいただきました。
 ランニングと半ズボンにリュックサック姿で、「ぼっ、ぼくは、おにぎりが好きなんだな」という独特の口調で話す裸の大将・山下清。映画やテレビのイメージと実像はどのように異なるのか。山下清さんと11年間一緒に暮らした山下浩さん*9に直接お会いして、お話をうかがうことにいたしました。
ライターK
 「山下清の絵は障害者アートではない」というメールをいただきましたが、詳しい話をお聞かせください。
山下浩
  まず、山下清は自分のことを障害者だとは思っていません。そして一緒に暮らしていた、私たち家族もそうは思っていません。
 生活に支障があることが障害ならば、おじは何年も放浪生活を続けられるぐらい生活力がありますし、有名になってからは絵画で生計を立てて自立もしていました。絵を描くことを仕事と認識していて、少しでもいい絵を描こうと努力もしていました。
ライターK
 軽度の知的障害があって、IQは70~80だったと、山下清さんの存在を世に広めた精神科医式場隆三郎さん*10は書いていますよね。
山下浩
 実は、山下清は正式に知能測定を行ったことがなく、それらの数字には何の根拠もないのです。決して高い知能をもっていたとは思いませんが、障害者というほどの低いレベルではなかったと思っています。
ライターK
 しかし、山下清さん自身も「自分は生まれつき頭が弱い」と、よく周囲に話をしていたようですよね。
山下浩
  本人が言う「生まれつき頭が弱い」というのは、障害があるという意味ではなく、「学校の勉強ができない」という意味でした。確かに知的障害者の養護施設である「八幡学園」に預けられていましたが、戦前には医学的に診断のついた子どもだけが入園していたわけではないのです。
ライターK
  障害者アートは、現在美術の世界で評価が高く、注目が集まっているので、その歴史に山下清さんが位置づけられないというのは、寂しい気もするのですが。
山下浩
  障害者のアーティストが活躍の場を広げることはすばらしいことですし、応援したいと思っています。ただ、その作品を「障害者アート」という概念で括る必要があるのかどうかは疑問です。作風でジャンル分けするならわかりますけど、描いた人が障害者かどうかというのは作品とは関係のないことでしょう。逆に「健常者アート」という概念が成り立つかどうかを考えてみればわかると思います。

画家・山下清の素顔について考える 中編 | Connect-“多様性”の現場から | ハートネットTVブログ:NHK2016.3.7
 1971年、49歳の若さで亡くなった山下清は、日本中にそのキャラクターを定着させた(ボーガス注:1980年から放送されたフジの)テレビドラマ「裸の大将放浪記」を見ることはありませんでした。
ライターK
 映画*11やテレビドラマの「裸の大将」については、本人やご家族の方はどう思われていたのですか。
山下浩
  「仕方ないね」と言っていました。「水戸黄門」みたいなもので、みんなに愛されるなら、それはそれでいいとあきらめていました。(ボーガス注:テレビドラマは死後に放送が開始されたので)本人は(ボーガス注:1958年公開の東宝)映画しか見ていませんが、「半分は本当で、半分はお芝居だな」と嘆いていました。でも、有名になるのは「絵を売るための営業サービスだ」と割り切っていたところもあります。みんなが何を期待しているのかは、よくわかっていて、それに応えようとしていました。
 有名になってからは、開襟シャツにジャケットを着て、ベレー帽をかぶって、服装には気を使っていましたが、新聞社のカメラマンから、「絵にならない」と言われて、ランニングに着替えさせられたこともありました。夏ではありませんでしたが、それでも文句も言わずに応じていました。
ライターK
 みんなの望むイメージのままであってほしいのでしょうね。「寅さんを演じていた渥美清*12」みたいなものですね。
山下浩
  講演会で話していると、かならず(ボーガス注:テレビドラマの影響で)「山下清は本当におにぎりが好きだったのですか?」という質問が出ます。確かにおにぎりも好きでしたけど、もし目の前に「おにぎり」と「お寿司」があったら、間違いなく「お寿司」を選んだと思います。好物は「お寿司」「かつ丼」「すき焼き」。普通の人と変わらないのですけど、「おにぎりが何より好きでした」と答えれば、うれしいのでしょうね。映画やテレビのおもしろおかしい山下清を愛していただけるのもありがたいですが、できればもうひとりの山下清がいたことも理解してほしいと思います。

山下清とは何者だったのか:東京新聞 TOKYO Web2021.7.19
 山下清が亡くなって五十年。「放浪の画家」と称された創作活動は生前から注目を集め、彼がモデルの映画、テレビドラマや伝記*13は今も根強い人気がある。
◆俳優、お笑いタレント・塚地武雅さん(聞き手・越智俊至)
 「裸の大将」の出演依頼をいただいたとき、最初はお断りしようと考えました。芦屋雁之助師匠が主演したシリーズを子どもの頃から見ていて、そのイメージが強かったので「僕じゃ駄目なんじゃないかな」と思ったんです。比べられて「先代の方がよかった」と言われることも分かっていました。
 それでも出演させていただくことにしたのは、雁之助師匠の作品を知らない子どもたちに知らせたいと思ったからです。山下清という天才画家がいて、その人をモデルにした温かいドラマがあった。それを伝えるため、少しでも役に立てるのならと考え直しました。
 出演が決まってからは、いろいろな資料に目を通しました。山下画伯が出演したテレビを見たり、展覧会に行ったり。小林桂樹さんが主演した映画も見ました。小林さんはシリアスに、雁之助師匠はコミカルな部分を併せて演じていました。僕は、山下画伯を障害のある人というよりも、子どもの心を持ったまま大人になった人と受け止め、そのように演じました。
 ドラマですから、物語が面白く展開していくようにコメディーの要素があるし、ほのぼのさせるヒューマンな部分もあります。人物像はデフォルメされています。でも、ご本人の中にもそういう部分があったのではないかと思います。
 山下画伯の言葉は、真正直で純粋です。大好きだった花火について、こんなふうに語ったと言われています。
「みんなが爆弾なんかつくらないで、きれいな花火ばかりつくっていたら、きっと戦争なんて起きなかったんだな」。
 核心を突いていて、心に刺さりますよね。
 貼り絵などの作品は、丁寧で細かく、小さなものを積み重ねて大きな絵になっているという印象です。無心で一心不乱に長い時間を費やして描いた絵からは熱を感じます。それでいて、うまく描いてやろうとか、人に褒めたたえてもらおうみたいな邪心は感じられません。
 コロナ禍の中で、芸術や文化は軽視されがちです。僕自身、お笑いや芝居をしていて無力感を感じることもあります。でも本当は、美術や音楽、文学、演劇は人を癒やし、頑張って生きていくための支えになるものです。山下画伯が残してくれた絵は、今のような時代にパワーをくれると思います。
<つかじ・むが> 
 1971年、大阪府生まれ。96年、お笑いコンビ・ドランクドラゴン結成。2006年の映画「間宮兄弟」で新人賞を総ナメに。07〜09年に4本*14制作されたテレビドラマ「裸の大将」で主演。
◆おい・山下浩さん(聞き手・清水祐樹)
 マスコミの取材がすごかったので有名な画家だとは分かっていましたが、子どもだった私からしたら、一緒にプラモデルを作ったり、将棋を指したりして遊んでくれた普通のおじでした。
 一日のリズムが決まっていて、正午に昼食と決めたら、制作がヤマ場に入っても正午にはピタリとやめ、再開予定の時間にはすぐに始めていました。急ぎの制作依頼でリズムを乱された時が、一番機嫌が悪かったですね。
 「裸の大将」のイメージとは異なりますが、ドラマはフィクションですから。放浪時も何時に起き、どこまで移動するかをあらかじめ計画し、よく歩いたのでやせていました。画材道具は一切持たず、作品を制作したのは帰ってからのことです。
 注目されるうち、自分が面白おかしく表現されることに葛藤を感じる一方、画家として食べていくために受け入れていたようです。「世の中、半分くらい本当だったらいいんだ」と。プロ意識が強く、絵が評価されるのは喜んで「オレは兵隊の位で言うと、大佐くらいにはなったのか」なんて言っていました。
 知的障害だったと言われますが、十五年間も一人で放浪し、お金や食べ物をもらったり、雇ってもらったり。すごい生活力、行動力で、強いて言えば少し空気が読めない「発達障害」ではなかったかと思います。
 作品を障害者アートやアウトサイダーアートという枠組みでとらえられることもありますが、違和感を覚えます。健常者アートとは言わないでしょう
<やました・ひろし>
 1960年、東京都生まれ。清の弟の長男で清が亡くなるまで同居し、貼り絵の指導も受けた。95年、清の作品の管理や鑑定をする「山下清鑑定会」を設立、代表を務める。

裸の大将・山下清が出会った「いじめられない世界」 甥が見た素顔:朝日新聞デジタル(山根由起子)2023.7.21
 「裸の大将」の愛称で知られる放浪の天才画家、山下清(1922~71)。ランニング姿と丸刈り頭といった、映画やドラマ「裸の大将放浪記」のイメージが強いですが、素顔はどんな人だったのでしょうか。東京・西新宿のSOMPO美術館で開催中の「生誕100年山下清展:百年目の大回想」では、貼絵(はりえ)や油彩、ペン画、水彩画など作品約190点のほか、放浪中に使ったリュックサックや浴衣も展示されています。作品と人柄の魅力を、清が亡くなるまで11年近く、同居した甥の山下浩さん(62)が語ってくれました。
記者
 「裸の大将放浪記」ではランニングシャツに半ズボンがトレードマークでしたが、家ではどうでしたか?
山下浩
 家ではランニング姿に半ズボンでしたが、実はおしゃれで、外出の時はベレー帽やジャケットを着ていましたね。シャツは、ストライプやチェックなど柄物が好きでした。旅館やレストランなど行く先々で色紙の山。いつもサインをしていました。人気者だったので、年男ではないのに豆まきに呼ばれたり、朝、テレビ局や新聞社の迎えのハイヤーが来て、夜帰ってきたりとか、そういう思い出があります。ただ、画家として食べていくために名前を売らなくてはならないということと、面白おかしく表現されている自分との間にすごく葛藤もあったようです。
 伯父によく「なんで絵を描くの?」と聞くと、「仕事なんだよな」と言っていました。絵で生計を立てている誇りと、自分には描くことしかないということの両方の意味が込められている言葉だと思いました。伯父にとっては絵を描くことが人生のすべてでした。

*1:1918~2010年。1941年、日活に入社。1963年、『悪太郎』をきっかけに鈴木清順監督(1923~2017年)作品の美術を担当、「清順美学」と呼ばれるその作風の創造に大きく貢献する。1972年にフリーとなり、フリー第1作となる『忍ぶ川』で初めて熊井啓監督(1930~2007年)とタッグを組み、その後は1作品を除くすべての熊井作品で美術を手掛けた。1991年、熊井啓監督『式部物語』の美術でモントリオール世界映画祭最優秀美術貢献賞を受賞。2008年には長編映画『夢のまにまに』を公開し、これが長編映画監督デビューとしては世界最高齢(90歳)であるとして、ギネス世界記録に登録された。さらに、2009年には長編第2作目『黄金花』を公開。現役の映画監督として、当時、新藤兼人(1912~2012年。『一枚のハガキ』(2011年)が遺作)に次ぐ高齢監督となった(木村威夫 - Wikipedia参照)。

*2:1928~2022年。時代劇専門チャンネルのオリジナル時代劇『殺すな』(2022年)が遺作となった(井上昭 - Wikipedia参照)

*3:1927~1997年。1971年、『溟い海』でオール讀物新人賞を、1972年、『暗殺の年輪』で直木賞受賞。1974年に日本食品経済社を退社して、本格的な作家生活に入る。

*4:「現代ぷろだくしょん」初代社長・山田典吾(1916~1998年:今井正『真昼の暗黒』(1956年)のプロデュースで知られる)の妻。夫の死後、社長

*5:日本最高齢の女性映画監督・山田火砂子が描く「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」|日刊ゲンダイDIGITAL(2021.8.26)によれば最新作は『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』(2022年公開)

*6:日本初の孤児院を創設した石井十次を取り上げた石井のおとうさんありがとう - Wikipedia(2004年)、日本初の知的障害児施設「滝乃川学園」を創設した石井筆子を取り上げた筆子・その愛 -天使のピアノ- - Wikipedia(2007年)、留岡幸助を取り上げた大地の詩 -留岡幸助物語- - Wikipedia(2011年)、社会福祉法人「北海道光生舎」創設者・高江常男を取り上げた『明日の希望 悲しみよありがとう 高江常男物語』(2013年)のこと

*7:1981年(国連の国際障害者年)公開。フジテレビ『裸の大将放浪記』(1980~1997年)で山下清(1922~1971年)を演じた芦屋雁之助(1931~2004年)がこの映画でも山下を演じている。

*8:1922~1971年。著書『ヨーロッパぶらりぶらり』(1994年、ちくま文庫)、『日本ぶらりぶらり』(1998年、ちくま文庫)、『東海道五十三次』(2000年、小学館文庫)

*9:著書『家族が語る山下清』(2000年、並木書房)

*10:1898~1965年。式場病院院長。雑誌「ホトトギス」を愛読し、文芸の世界に憧れ「白樺派」の作家たちや柳宗悦バーナード・リーチなど民藝運動に関わる人物と親交を持つ。精神科医としてはゴッホに関心を寄せその方面での著作も多い。また「裸の大将こと山下清」の才能に注目し、彼を世間に広く紹介した(式場隆三郎 - Wikipedia山下清を支え、ゴッホを広めた精神科医・式場隆三郎とは | NHK(2023.8.9)参照)

*11:1958年公開(東宝)。小林桂樹(1923~2010年)が山下清を演じ、毎日映画コンクール主演男優賞を受賞(裸の大将 (映画) - Wikipedia参照)

*12:渥美についてはけっきょく渡哲也は、渥美清と同じ轍を踏んだと思う - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)や拙記事渥美清で色々と書いてみる - bogus-simotukareのブログを紹介しておきます。

*13:小沢信男『裸の大将一代記』(2000年、筑摩書房)のこと

*14:『裸の大将』(2007年)、『裸の大将:宮崎編』(2008年5月)、『裸の大将:山梨編』(2008年10月)、『裸の大将:火の国・熊本編』(2009年)のこと