特集「歴史認識のポリティクス:地域・国家・市場Ⅲ」
【前振り】
なお、新刊紹介:「歴史評論」2024年11月号(副題:戸板康二『團十郎切腹事件』の一部ネタばらしがあります) - bogus-simotukareのブログでも、この特集については触れてるのでこの機会に紹介しておきます。
【テーマ1:歴史認識を共有するとはどういうことか】
◆「歴史」の共有と継承:京都・西京神人(にしのきょうじにん)を例として(三枝(みえだ)暁子*1)
(内容紹介)
西京神人の一族達がどのように「西京神人としての歴史を共有し継承していった」かについて論じられていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
なお、歴史評論の三枝論文でも指摘がありますが
vol.11 歴史と向き合い歴史をつくる │ 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科三枝(みえだ)暁子
(ボーガス注:西京神人の語りと、三枝氏ら歴史学者の通説が必ずしも合致しないことについて)川井さん*2の反応は、「先生には先生の立場がある。わしらにはわしらの立場がある*3」とあっけらかんとしたものだった。
と言う文章からは「西京神人から先祖代々継承してきた歴史認識」が「客観的な歴史学的事実」とは必ずしも合致しないことが窺えます(勿論、合致する部分もありますが)。まあ今更「ご先祖の言い伝え」を否定するのも難しいのでしょう。まあ、そうした事は「西京神人」に限らず、他の「言い伝え」でも色々とあるかと思います。
参考
vol.11 歴史と向き合い歴史をつくる │ 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科(三枝(みえだ)暁子)
神人の語りにおいて、特に重視されている歴史的事件は、(ボーガス注:言い伝えでは神人の先祖とされる菅原)道真の左遷と死、安楽寺天満宮をはじめとする御供所(ごくしょ)の創祀、文安の麹騒動*4、明治の上地による御供所の解体であるが、このうち特に雄弁に語られるのが、文安元年(1444)に起こった文安の麹騒動である。これは、室町将軍から付与された麹業の独占権の喪失を機に生じた幕府と神人との間の合戦であり、合戦の事実そのものは、当時の公家の日記からも確認することができる。
この騒動が現在に至るまで語り継がれているのは、室町将軍によって麹業の独占を得た15世紀が、その後の時代の神人の共同体にとって最も輝かしい時代であり回帰すべき時代と認識されてきたからであろう。
毎年10月、瑞饋祭(ずいきまつり)の際に行われる「甲の御供(かぶとのごく)」という神事では、神人の代表者が今も祝詞をあげており、祝詞においては(ボーガス注:「将軍・足利義晴ら」と「細川晴元*5、晴元の家臣である三好長家、政長*6兄弟ら」が戦った)大永7年(1527)の桂川合戦*7の際に神人たちが将軍足利義晴を助けたという神事のいわれが語られる。応仁の乱後の京都に打ち続いた戦乱の一つである桂川合戦の記憶が、祝詞を通じ呼び覚まされ、「現在」に「中世」が現出するかのような瞬間に立ち会うたび、「中世」という時代に当事者性をもって向き合う人々が今も確かに存在するのだという実感をもつ。それと同時に、祝詞をあげ神事を行うことで、新たな神人の歴史がつくられていることにも思い至り、歴史をつくる当事者としての自覚と気概が共同体を存続させてきたことに気づく。
◆近世後期における歴史認識の生成・展開とその特質(岩橋清美*8)
(内容紹介)
近世後期における歴史認識の生成・展開について「村方旧記」を素材に論じている。
「村方旧記」はその地域の歴史を「客観的に論じた物」として村の中で継承されていったが、村役人が作成者という点で「村役人の主観性」を免れていない点に注意が必要であると指摘される。
【テーマ2:偽文書*9、偽史*10にどのように向き合うか】
◆椿井文書(つばいもんじょ)の史学史:一井文書・笠川文書との比較を踏まえて(馬部隆弘*11)
(内容紹介)
偽書である椿井文書*12、一井文書、笠川文書を比較し、その共通点と違いが論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
◆歴史の「法的ガバナンス」の行方(武井彩佳*13)
(内容紹介)
「ニュルンベルク裁判(ナチ戦犯裁判)」「東京裁判(日本の戦犯裁判)」「ホロコースト否定論処罰法(ドイツなど)」等、歴史的事件(あるいは歴史認識、歴史評価)と法との関わりについて論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
◆アメリカのルーン碑文:移民・偽史・想像力(小澤実*14)
(内容紹介)
「アメリカのルーン碑文(ケンジントン石碑など)」と言う偽史(後世の創作であり事実ではない)について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
参考
アメリカにバイキングが到達した証拠!?「ケンジントン・ルーンストーン」の謎|ATLAS2024.6.29
ケンジントン・ルーンストーンとは、アメリカのミネソタ州中央部ケンジントンで「発見」された石碑である。
1898年、オロフ・オルソン・オーマンと言う人物が所有地の木の伐採をしていたところ、背の低いポプラの木の根元に砂岩の石板を「発見」した*15。
碑文には1362年の銘が記されており、ヨーロッパ人が北米に足を踏み入れるよりも100年以上前のバイキング遠征について書かれていた。
ルーン文字とは何か(小澤実)2020.10.1
私が初めてルーン文字なる不可思議な文字の存在を意識したのは、中学校の頃だったと思います。ちょうど、ドラゴンクエストとかファイナルファンタジーとかいったファミコン用のRPGゲームが登場する時代*16でした。中世ヨーロッパ風の剣と魔法の世界です。それらに代表されるゲームでは、しばしばルーン文字が、いやルーン文字と名付けられた文字列が使われていました。今思うと、クリエイターたちが見様見真似でゲームの世界に放り込んだ適当な作りの文字体系であったのかもしれませんが、私は、剣と魔法とルーン文字はセットだと思うようになっていました。
それに拍車をかけたのは、高校時代に読み耽ったトールキンの『指輪物語』に代表されるファンタジー小説でした。それらも、RPGゲームに負けず劣らず(と申しますか、小説の方が本家本元なのですが)、いたるところでルーン文字を目にしました。すべての作品に出てきたわけではないでしょうし、ひょっとすると思い込んでいるほどは出てくるわけではないのかもしれませんが、よほどこの中世(風ですが)という時代は、ルーン文字という未知の文字と関係があるのだなと高校生の私の頭の中には刷り込まれました。以上が私のルーン文字事始めです。
(中略)
ルーン文字は過去のものとなったのでしょうか。私には必ずしもそうは思えません。最初に述べたように、ゲームや小説などのフィクションの世界でルーン文字に出会うのは珍しいことではありません。最近では「ハリー・ポッター」シリーズにもルーン文字は登場しましたし、アリ・アスター監督のホラー映画『ミッドサマー』(2019年公開)でも取り上げられました。書店に行けば、ルーン文字占いの本が当たり前のように並んでいます。これは日本だけではなく、ルーン文字の「本場」である欧米でも同様です。もちろん彼らのルーン文字の理解は、言語史的に正しいとは言えません。しかしながら、このようなルーン文字の受容は、新しい時代に即した、新しい息吹を吹き込まれたルーン文字の生き方、と言えるかもしれません。
ルーン文字とナチズム(小澤実)2025.1.31
スティーヴン・スピルバーグ監督の「インディ・ジョーンズ」シリーズを見た方は、(ボーガス注:『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年公開)、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(1989年)で)主人公インディが、ナチスの軍人*17や学者との間で、神秘的な力を持つ古代遺物を奪い合っているシーンを覚えているかもしれません。
フィクションには違いないのですが、第三帝国がオカルティズムに基づく疑似科学の「研究」を推進していたことは紛れもない事実です。
ナチズムとオカルトとの関係において、しばしば引き合いに出されるのがルーン文字です。ハインリヒ・ヒムラーの親衛隊(SS)がルーン文字を模った「隊のシンボル」を持っていたことはよく知られています。
アリオゾフィーは、「アーリア人種」の至高性を証明するために、「アーリア人種」と措定される民族集団の生物学的特徴、その歴史、そこで生み出された文化などのさまざまな「証拠」を追求しました。この疑似学問が最高潮を迎えたのはナチズム期です。その「学知」の中核の一つがルーン文字の研究でした。その中心的な担い手がグイド・リスト(Guido List, 1848-1919)です。
こうしたアリオゾフィーに一つの形を与えたのがナチスの親衛隊長ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler, 1900-1945)でした。
彼の庇護のもと、考古学者ヘルマン・ヴィルト(Herman Wirth, 1885-1981)が主導して1935年に創設したのが、アーネンエルベ(「祖先の遺産」Ahnenerbe)という疑似学術組織でした。1939年にアーネンエルベは親衛隊組織の一部となり、第三帝国が投資する莫大な資金によって、アーリア人種の至高性を示すアーリア人学説を証明するための「研究」を組織的に進めました。
ここで私たちが注目すべきは、カール・マリア・ヴィリグート(Karl Maria Wiligut, 1866-1946)というアリオゾフィストの存在です。
「ヒムラーのラスプーチン」と称されたヴィリグートは、ヒムラーの信任を得ることで、親衛隊内で少将の地位にまで昇進しました。
彼の思想に一時傾倒したヒムラーは、親衛隊の構成員が身につける隊章などにもルーン文字を刻むとともに、彼の居城でもあったヴェストファーレン州ビューレンのヴェーベルスベルク城をルーン文字で装飾し、親衛隊員の結婚式などに関わる独特の宗教儀式をヴィリグートに一任しました。
アーネンエルベにはルーン文字の研究を進める部門として、「文字ならびにシンボル学部門」(Schrift- und Sinnbildkunde)が設けられていました。その部門を先導したのはゲッティンゲン大学の印欧語学者ヴォルフガング・クラウゼ(Wolfgang Krause, 1895-1970)でした。
第三帝国のルーン学を論じる場合、クラウゼのライバル、ギーセン大学のヘルムート・アルンツ(Helmut Arntz, 1912-2007)にも触れねばなりません。このアルンツも、クラウゼと同様、ルーン文字研究を飛躍的に進展させました。一つはルーン文字研究の文献目録を刊行したこと、もう一つはルーン文字研究の機関誌を刊行したこと、さらにはハンス・ツァイス(Hans Zeiss, 1895-1944)との共著『大陸の在地ルーン碑文』(Die einheimischen Runendenkmäler des Festlandes, 1939)という大陸のルーン碑文のカタログを作成したことです。その上でアルンツは、ドイツ語圏で最初のルーン文字概論『ルーン学便覧』(Handbuch der Runenkunde, 1935)を刊行しました。
第三帝国崩壊後のドイツでは、アーネンエルベは解体され、さらに公職追放などナチズムと関連する学問の痕跡を抹消しようとする動きが起こりました。他方で、「禊」を済ませたとして教壇に戻る研究者も少なからずいました。戦後のアルンツはルーン学とは一切関わることなく、大学からも距離をとり、文書研究とワインの研究で生涯を終えました。他方アーネンエルベの中で研究を進めていたクラウゼは、ゲッティンゲン大学でルーン学を継続し、多くの研究者を育てました。
ゲッティンゲン大学のクラウゼのポストを受け継いだのは、クラウス・デューウェル(Klaus Düwel, 1935-2020)です。
1974年にゲッティンゲン大学に着任したデューウェルは、1978年に正教授となりました。ここでデューウェルはクラウゼ以来のルーン学の研究を進めました。数多くの論文を刊行し研究集会を主催しましたが、特筆すべきは1968年に刊行した『ルーン学』(Runenkunde)でしょう。彼のいるゲッティンゲン大学は、ドイツにおけるルーン学の中心地として多くの研究者を輩出しました。
デューウェルの活躍により、戦後ドイツはルーン学の中心の一つとして名声を得ました。それでは、アリオゾフィーとルーン文字研究を推進したナチズムの影は綺麗に消え去ったのでしょうか。アルマーネン・ルーンに追加された疑似ルーン文字と同じフォルムを持つ鉤十字は、戦後ドイツでは公的な場での使用を禁じられました。しかしネオナチや極右らはあいも変わらずルーン文字を用いたシンボルを掲げています。
アカデミアでのルーン学が進展する一方で、ナチズムを想起させるルーン文字の利用はなお人々の生活に根を下ろしています。世界各国において民族主義・一国主義・排外主義が高まり、SNS を通じてフェイクニュースが即座に拡大する現在において、ルーン文字がどのように利用されるのかを私たちは注意深く観察しなければなりません。
【参照文献】
◆小澤実「第三帝国のルーン学:ルーン学者ヘルムート・アルンツの軌跡」中丸禎子*18・田中琢三*19編著『北欧とファシズム(仮)』(勉誠社、2025年刊行予定)。
【参考:ミッドサマー】
映画ミッドサマーを途中退席した奴による退席理由の吐き出し(ネタバレ有)|DJ_em(dIff)2020.2.24
「昨年から話題になってたミッドサマーやな!。スチール見る限りドチャクソなカルト村に連れ込まれて、やばい風習や残酷描写てんこ盛り、ドラッグも儀式用のツールとして当たり前にあるし、そして遊びにいった大学生全員が嫌な死に方して、ポスターの女の子だけ助かるというか、カルトに取り込まれるエンドやろな。あらすじ見る限り別れる寸前のカップルが行くわけやし、『あたい、こんな男いらない!』で『解放されます!』宣言エンドやろ。ほんでこのカルト村、確実に近親相姦とか障害者隔離用の座敷牢とかもあるし、外部からの種付けで血を濃くしすぎない儀式あるんやろなー。」
鑑賞前の予測、全部大当たりして逆に引く。
映画/ミッドサマー - 人生はB級ホラーだ。2021.11.22
ダニーの『理解がある彼くん』だった(しかしそこはかとなくクズかった)クリスチャン。
彼は普通にクスリを盛られ(ていうかめっちゃ気軽に薬物摂取するなこの監督の映画)、マヤと性の営みを強制させられます。
村人の女性(すっぽんぽん)数人に囲まれて。
来ました、18禁の18禁たる所以のシーンです。
他にも頭が潰れた死体とか芸術的に飾られた死体とかお人形遊びみたいにリメイクされた死体とか色々出てきましたが、いちばんキツかったのはこの場面。
ハッスル中、老女(すっぽんぽん)に尻を鷲掴みにされてインサートを促されるクリスチャン。
姉に頭を撫でられながら快楽に悶えるマヤ。
その快楽に共鳴して喘ぎ声を出す女性たち。
よくもまあこんな場面を思いついて且つ撮影したもんだな???
【まとめ:ハッピーエンドの定義が『苦しむ主人公の救済』だとしたら】
ダニーはとても哀れな女性です。
心を病んだ妹に両親を殺され、天涯孤独となりました。
唯一の拠り所、クリスチャンは優しいけれどその場凌ぎの対応しかせず、電子図書館の使い方も分からないくせに友人の論文のテーマを真似するというごく普通のプチクズ。クリスチャンの浮気で一縷の糸すら切られ、絶望する彼女を救ったのは、「ホルガの共鳴精神」と「女王として生贄を決められること」でした。
最初こそ死にゆく生贄を目の当たりにし、ダニーは拒絶し、泣き叫びます。
ですがダニーは、やがて実に晴れやかに笑うのです。
その瞬間、彼女は正気をぶん投げました。
彼女は真の自由を得た。すべての苦しみから解放された。
すなわち『人間』をやめた。
だから、ダニーはもう苦しくない。
と、いう点はまぎれもなく超絶ハッピーエンドなんだなぁと頷きました。
しかしホルガ、(ボーガス注:闇の部分が出てくるまでは)最初は良い村だと思いましたが、やはり御免ですね個人的に。
ここは、マイノリティは生きていけない。
大多数が殉ずる『普通』の外に出てしまった人間は、ここでは絶対に生きていけない。
ホルガの村は、全員が同じ思考を持っているからです。
こういう共同体は、滅ぶのは一瞬なんだろうなぁ、と思いを馳せました。
世にも恐ろしい、真っ白な夏の悪夢でした。
ホルガ村に行く #ポエム - Qiita2020.3.20
映画「ミッドサマー」の舞台であるヘルシングランド地方もホルガ村も、スウェーデンに実在する地名なのです。アリ・アスター監督、正気なのでしょうか。実在の地名を使ってこんな映画を作ってしまって、地元の人からクレームが来ることを恐れないのでしょうか。ヘルシングランドなどという(ボーガス注:ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』の『ヘルシング教授』を連想させる)如何にもホラー然とした大仰な名前、てっきり架空の地方なのだとこの記事を書くまで思っていました。日本を舞台にした映画で(ボーガス注:GODZILLA ゴジラ - Wikipedia(2014年公開)の)ジャンジラ(雀路羅)市だの(ボーガス注:犬ヶ島 - Wikipedia(2018年公開)の)メガ崎市だのを見てきたので、てっきりその類の「絶対に実在の地名とかぶらなさそうな架空の地名」だと思い込んでいました。
しかし、ヘルシングランドというのは現在の行政区分ではないため、Wolframのデータベースには入っておらず、直接図示することができませんでした(日本でいうところの尾張や近江のような旧国名らしいです)。
ミッドサマー (映画) - Wikipedia
心理学を専攻する大学生のダニーは、ある冬の日に双極性障害の妹が両親を道連れに一酸化炭素中毒で無理心中して以来、深いトラウマを負っていた。家族を失ったトラウマに苦しみ続けるダニーを恋人クリスチャンは内心重荷に感じながらも、別れを切り出せずにいた。
ダニーはクリスチャンと一緒にパーティに参加した。席上、彼女はクリスチャンが友人のマーク、ジョシュと一緒に、同じく友人であるスウェーデンからの留学生ペレの故郷であるホルガ村を訪れる予定であることを知った。クリスチャンはペレから「自分の一族の故郷で、今年夏至祭が開催される。夏至祭は90年に1度しか開催されないので、見に来てはどうか」と誘われていたのである。
夏至祭の儀式が粛々と進むが、年長者の男女2人が高い崖の上に姿を現し、いきなり身を投げるという棄老の儀式が行われた。身を投げた者のうち女性は即死するが、男性は下半身から落ちたせいかまだ生きており、村人たちはハンマーで頭を叩き潰してとどめを刺す。村の長老であるシヴは、ショックを受けたダニーをはじめとするよそ者たちに、「これはホルガの死生観を表現した『普通の文化』であり、村人は全員72歳になると同じようなことをしなければならない」と説明する。
ダニーは集まった村人たちから、コミューンから悪を追い払うために9人の生け贄が必要だと説明される。よそ者であるジョシュ、マーク、コニー、サイモンの4人。すでに生け贄となった2人の村人と、自ら生け贄に志願してこれから死ぬイングマールとウルフの2人。ダニーはあと1人の生け贄を、よそ者のクリスチャンにするか、それとも抽選で選ばれた村人のトービヨンにするか、選択を迫られる。彼女は恋人のクリスチャンを生け贄に選択する。半ば意識を取り戻したクリスチャンは、自分がイングマールとウルフとともに黄色い三角屋根の神殿の中にいることを知る。やがて神殿に火が放たれる。体に火が付いたウルフの絶叫を、外にいる村人たちも模倣して叫ぶ。ダニーははじめこそ恐怖で泣いていたが、神殿が焼け落ちてゆくにしたがい、徐々に笑顔になっていく。
本作のラストシーンについては様々な解釈がなされているが、アスター監督は「ダニーは狂気に堕ちた者だけが味わえる喜びに屈した。ダニーは自己を完全に失い、ついに自由を得た。それは恐ろしいことでもあり、美しいことでもある」と脚本に書き付けている。
『ミッドサマー』で浄化された話 その②美の破壊編 - さかしま劇場
村人があらかじめ用意していた木の鎚で、ダンの頭をかち割ってトドメをさします。
このダンという名前のおじいちゃん、ビョルン・アンドレセン(Björn Johan Andrésen)という名前のスウェーデンの俳優が演じています。
彼は1970年の『ベニスに死す』という名前の映画で主演を務めて、その美貌から一躍有名になった俳優です。
今でも、「映画の美少年」を語る時には必ずと言っていいほど引き合いに出される役者ですね。
そういう映画の中で美少年として崇められてきたビョルンを、映画の中で殺す。
しかもあの世界一の美少年と謳われた、美しい顔面をかち割って、ですよ。
美しいものこそ残酷に破壊されてほしい性癖の歪んだオタクに絶対に勧めたいシーンです。
『ベニスに死す』以外にさほど目立った俳優活動のないビョルンがまさかこんなタイミングでまた観られるとは、とありがたい気持ちでいっぱいです。
『ミッドサマー』で浄化された話 その④メンヘラ救済編 - さかしま劇場
『ミッドサマー』におけるダニーのボーイフレンド、クリスチャン(Christian)の、頼りにならない感はもう徹頭徹尾すさまじいです。笑えてくるレベルでひどいです。
例えばロンドンから来たサイモンとコニーのカップルに「ふたりは付き合ってどのくらいなの」と尋ねられ、クリスチャンが「3年半だよ」と答えたのをダニーが「4年よ」と訂正するシーンとか。
さらにクリスチャンがダニーの誕生日を忘れていて、男友達のペレにこっそり教えられてはじめて思い出すシーン。そのあと苦しまぎれに間に合わせのケーキでダニーの誕生日を祝いますが、ここで風が強くて蝋燭に全然火を付けられないのが何とも情けないですね。
そんなこんなでどんどんダニーの(何やねんこいつ)感が高まっていった挙句、クリスチャンが((ボーガス注:村人に投与された)ドラッグで判断力がにぶっていたとはいえ)ホルガ村の女の子・マヤと性交に及んでしまいます。
これが決定打となって、ダニーが「メイクイーン」として神にささげる生贄を選べる場面、彼女はクリスチャンを生贄に選びます。クリスチャンはドラッグ漬けになったまま、熊の皮をかぶせられ、炎にまかれて死亡します。
個人的には、去年2019年に、新宿の歌舞伎町でホストの男性が恋人の女性に刺されたという事件をちょっと思い出していました。
この事件で被告の女性は、「最近彼(ホストの男性)が冷たくて悩んでいた」と、「どうしたら好きでい続けてくれるか考えた。一緒にい続けるためには殺すしかないと思った」と供述しているそうです。
これと同じで、『ミッドサマー』においても、ダニーはクリスチャンを怒らせて仲を険悪にしたくないので、呆れはしてもクリスチャンに怒鳴りちらすようなことは決してしないようにしています。けれどそれでも、離れていくクリスチャンの気持ちを取りもどすことはできないし、さらに彼は他の女性と性交する始末。それならいっそ殺してしまおう、というような衝動的行動のように、僕には思えました。
ダニーが、クリスチャン(正確に言うとクリスチャンが閉じ込められている三角の建物)が燃えているのを見てにっこりとほほ笑むシーンがありますが、あれは「ざまあwww」っていう笑いより、もう彼氏がこれ以上自分から離れていく辛さを味わう必要がなくなった、という安心と解放の笑みの様に見えました。
ホルガ村で、村人の女性たちはダニーを料理に誘ったり、一緒に踊ったりと、仲間として積極的に関わってくれます。クリスチャンがマヤと性行為に及んだショックでダニーが号泣している時には、一緒に声いっぱいに泣いてくれます。まァこれは貴方たちの儀式のせいでしょって感じではあるんですけど。
それでダニーは、心理的な支えというものを、ホルガ村に見出します。ハタから見れば、洗脳された、狂気に堕ちたように見えるかもしれませんが、孤独だったダニーにとっては自分を受け入れてくれる安息の地を見つけたワケです。
そういうわけで、恋人との永遠を手に入れ、自分を受け入れてくれる場所をも見つけた、という見方をしてみると、『ミッドサマー』はメンヘラが見ていて最高に救済を感じる映画なんではないでしょうか。
シチュエーションがシチュエーションなので「(ボーガス注:呪われた殺人村の)何が救済だ」と感じる方もいるかもしれませんが、仮に、結婚しただとか妊娠しただとか何でもイイんですけど「恋人はもう絶対に自分を裏切らない」と錯覚しちゃうような状況に陥って、さらに周囲の人間が全員むちゃくちゃ優しい、という環境に置かれたら、誰しもが人生バラ色!と勘違いしてしまうと思いませんか?
それと同じで、『ミッドサマー』は、観る側の捉え方とは別に、主人公のダニーにとってはまぎれもないハッピーエンドだと思います。
そして僕にもハッピーエンドだと感じられたからこそ、『ミッドサマー』は僕にカタルシスという名の浄化作用をもたらしたのだな、と思います。
まあ「呪われた殺人村(ホラー映画『ミッドサマー』)」だの「ナチス(これは歴史的事実ですが)」だのルーン文字(あるいはルーン文字と関係するバイキングや北欧)も一部において、大分ネガティブイメージが付いてる気がします(因みにホラー映画『ミッドサマー』の舞台設定はスウェーデンで、出演俳優もスウェーデン人が多いとのこと)。
勿論一方で「北欧社民主義(福祉国家)」「ムーミン」等の明るいイメージもあるでしょうが。なお、俺個人はホラー映画は苦手なのでまず見ません。というか、市川崑映画『犬神家の一族(生首菊人形、斧で撲殺など)』『病院坂の首縊りの家(生首風鈴)』レベルでも「精神的にダメ」ですね。
◆書評:吉田豊子*20『中国民族政策の歴史的研究*21:内モンゴルと国共両党1945~1949』(2024年、研文出版)(評者:島田美和*22)
(内容紹介)
内モンゴルを素材に「清朝」「国民党」「日本(満州国の一部は内モンゴルに当たる)」等の、中国共産党が統治する以前の「内モンゴル統治」の影響を受けた上で、中国共産党がどのように「内モンゴル統治政策」を決定していたのかが論じられているとのこと。
参考
近現代中国民族政策の歴史的研究 —内モンゴルと国共両党(1945~1949)—(奥村(吉田) 豊子) │ 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科
執権政党である国民党との政治的関係という大状況を重視した。これなしには、共産党の政策に対する理解ができず、この視角をとおしてはじめて揺れ動く現実政治に規定されていた中共(中国共産党)の政策の曲折を捉えられることができた。
中共の政策の性格をより一層はっきりさせるために、同じ内モンゴルに対する、執権政党である国民党の政策過程についても、一次史料を駆使して、できるだけ客観的に捉えるよう務めた。
中共の少数民族政策は、曲折がありながら、結局、(ボーガス注:建前では国家としての独立があり得る、旧ソ連のような連邦制ではなく、独立を否定して)地方自治のなかで民族問題を解決しようとした国民党との差はさほど大きくはない、と言えよう。
国内書 中国民族政策の歴史的研究 内モンゴルと国共両党 1945~1949【中国・本の情報館】東方書店
内モンゴルで育った著者が、2005年に東京大学で学位を取得した博士論文をもとに、一部構成を入れ替えて刊行。
吉田豊子『中国民族政策の歴史的研究』について(中見立夫*23)
出版にあたって(奥村哲*24)
第一章 清末~日本降伏前の内モンゴル統治
第二章 戦後の内モンゴル民族運動の高揚
第三章 中国国民党の対応
第四章 中国共産党の政策(一)中国国民党の憲法制定国民大会まで
第五章 中国共産党の政策(二)「高度の自治」から「民族区域自治」へ
終章
補論1 中国共産党の少数民族政策:「民族自決権」の内実をめぐって(1922~45年)
補論2 内戦期中国共産党の少数民族政策:公式主張の変遷
補論3 〔書評〕松本ますみ*25著『中国民族政策の研究*26』
内モンゴルで育った著者ですが
(戦後70年)二つの祖国、私が結ぶ 中国残留孤児の娘、18歳で日本へ | 中国残留日本人孤児2015.9.8
京都産業大准教授、吉田豊子さん*27(45)の父は中国残留孤児だった。
吉田さんの父・金一さんは1986年、日本の肉親捜しに来日。縁者は見つからなかったが、帰国を決意した。1988年、夫婦と3男3女の家族8人は福島県郡山市の福島中国帰国孤児定着促進センター*28に身を寄せた。
来日時、18歳だった次女の吉田さんは「自分の力で生きていくしかない」と懸命に勉強した。センターの日本語教師の尽力もあり、埼玉県の高校に編入。東京都立大(現・首都大学東京*29)に合格し、進学や下宿の入居にかかる費用は高校の先生たちが全額賄ってくれた。奨学金で学費を払い、アルバイトで生活費を稼ぎ、東大の博士課程に進み研究を続けた。
今年8月、家族とともに中国・内モンゴル自治区の地方都市ウランホトから約40キロの郷里を訪れ、初めて村はずれの丘の頂にある金一さんの養父母の墓に参った。
だそうです。つまりは「吉田豊子氏=残留孤児二世」ですね。そうしたハンデがありながら大学教員とは優秀な御仁なのでしょう。
◆書評:家永真幸*30著『台湾のアンデンティティ』(2024年、文春新書)(森巧*31)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。
家永真幸『台湾のアイデンティティ』(文春新書) 8点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
1968年には新進気鋭の作家だった陳映真*32が逮捕される「民主台湾聯盟事件」が発生します。
陳は小説家として活動しながら、日本から研修生として台湾に留学していた浅井基文*33の一軒家に集まって他の知識人と交流していました。
浅井は中華人民共和国に好感を持ち、蔣介石を嫌っていた青年でしたが、語学留学のためと割り切って台湾に来たといいます。そのとき、浅井は台湾では禁書であったマルクスや毛沢東の本を外交官特権で持ち込みました。
浅井の家では音楽による交流などとともに、台湾の若者が禁書である社会主義の文献を読み耽るといったこともあり、陳映真もその中の1人でした。
浅井は1965年に台湾を離れますが、浅井は後任の加藤紘一(本書では特に指摘されていない*34が、経歴を見ると「加藤の乱」の加藤紘一*35)のために社会主義関係の本を残しておきました。
その後、陳らは何らかの形で読書会を続けていたようですが、1968年に「台湾民主聯盟」という組織を作って政府を転覆させようとした容疑で陳ら36人が逮捕され、14人が有罪判決を受けます。
彼らに下された判決の容疑は大部分が捏造であり、背景にはLT貿易などを皮切りに中国へ接近していた日本の外務省に対する圧力をかける意図などがあったという説もあります。
その後、陳は1975年の蔣介石の死去に伴う特赦で釈放されました。
「台湾アイデンティティ=台湾人意識」においては「蒋介石独裁」や「中国共産党の一党独裁」への批判意識が影響したという「ある意味、以前から指摘されてること(その意味では間違いではないだろうが、目新しさはない)」が指摘されてるようです。
また「筆者が日本人」なのである意味当然でしょうが「日本と台湾」という視点が強いようです。
安倍晋三元首相が暗殺されると、台湾ではそれを悼むムードが広がり、高雄市には安倍晋三の銅像までつくられましたが、この背景には第2次安倍政権のもとで「交流協会」が「台湾交流協会」になったり、「台湾」を国際社会の主体として扱う姿勢があったからではないかと著者はみています。
安倍『美しい国へ』(2006年)を出した文春新書という点で、「安倍万歳論」が展開されてはいないかという危惧を感じますね。
勿論、親台湾ロビーだった岸信介を祖父に持ち、首相在任中、「交流協会」を「台湾交流協会」に改称するなど、親台湾的なポーズを取った*36安倍について全く触れないわけにも行かないでしょうが。
いずれにせよ、これを単純に「台湾は安倍に好意的」と見なすのは不適切でしょう。そこには当然ながら台湾側の「政治的計算(日本国内の台湾ロビーの政治利用)」があるし、こうした安倍持ち上げは主として「民進党」など「中国と対立的な政治党派」であり、例えば国民党などはまた立場が違うでしょう。
そもそも「台湾にも元慰安婦がいる→当然、慰安婦問題での安倍批判が台湾にも存在する」という問題もありますし。
【参考:浅井基文】
浅井基文『私における陳映真と1960年代の台湾』(2011.9.2)
私が1960年代の中頃に台湾に約2年間住み、陳映真と知り合ったことにより、私のこれまでの生き方に陳映真の存在がどれほど大きな位置を占めてきたかを知っていただくために、私自身のことについて必要最小限の範囲でお話しすることから始めさせていただきたいと思います。
私が外務省派遣の語学留学生として台湾に来たのは1963年7月でした。台湾は、私にとって最初の外国でした。私は愛知県の田舎で高校まで過ごし、東京で生活したのは東京大学での3年間と外務省に入ってからの研修期間の3ヶ月だけの世間知らずでしたから、台湾に着いた時、私は、社会のことについてはほとんど無知、白紙の状態でした。
<外交官を志望した動機>
東大という最難関があったから挑戦した(登山家が言う「そこに山があるから登る」というのと同じ感覚でしょうか)に過ぎず、大学に入って何をしようという問題意識があったわけでもなかったのですから、(ボーガス注:東大入学後)方向感を失ったのはいわば必然であったといえます。
大学生活そのものに積極的な意義を見いだせなかった私は、早く大学を抜け出したいという気持ちと、何か挑戦できる具体的なものを求める気持ちから、大学3年でも受験できる、難関と言われていた外交官試験に挑戦することにし、運良く合格したのです。当時は今日と異なり、大学中退がハンディにならない職種としては、外交官試験か、弁護士資格が得られる司法試験しかありませんでした。どちらも難関であることには変わりなかったのですが、司法試験は(ボーガス注:憲法、民法、刑法、商法、刑訴法、民訴法(いわゆる六法)と)とても受験科目が多く、しかも私も一応法学部生でしたが、法律は苦手で政治系に進んでいたほどですから、最初から選択の余地はなかったし、私はどちらかといえば政治・外交には興味があり、しかも受験科目の内容からいっても短期決戦(約1年弱)で勝負ができるかも知れないとも思えたので、外交官試験にしぼったのでした。私は「金儲け」的なことにはまったく関心がなかったので、民間企業という選択肢ははじめからありませんでした。
しかし、「山があるから登る」的な動機が主ですから、(ボーガス注:東大受験同様、外交官試験受験も)合格すること自体が目的であり、外務省に入って何をしようとするか、ということまでは深く考えていませんでした。
要するに、深い考えもなく、外交官としての「人並みの立身出世」を漠然と考えながら外務省に入ってしまった、というのが正直なところでした。
<なぜ台湾に行ったのか>
外務省に入ってまず受ける語学研修で中国語を選んだのは、高校生の頃から、毛沢東、周恩来が率いた中国革命の成功と社会主義・中国の新鮮なイメージがなんとなく私の中に育っていたためもあって、私は外務省では中国問題にかかわりがある仕事をしたいという気持ちがあったという単純な理由からでした。中国関係の仕事にかかわりたいならば、志望者が多い英語やフランス語ではなく、中国語を選んだほうが中国関係の仕事に就く確率が高くなるというアドヴァイスを、大学では一年先輩*37で外務省では一年後輩*38になる、今自民党の代議士をしている加藤紘一*39から受けたのです。
私としては親近感が強かった中国で語学研修をしたかったのですが、国交もない「敵性国家*40」であった中国に行けるはずもなく、行き先は当時国交関係のあった台湾*41しかありませんでした。「蒋介石の支配する台湾か」と思うと、まったく気乗りしませんでしたし、台湾での生活には何の期待感も抱けなかったというのが正直な気持ちでした。とにかく中国語を習得するためと割り切るしかない、と自分自身に言い聞かせた記憶が残っています。
台湾での生活に関しては、単に語学としての中国語を習得するだけで時間を過ごすのは味気なく、社会主義・中国について理解、認識を深めたいと思いました。大学在学中から読みかじっていたレーニン選集、マルクスとエンゲルスの主要な著作(文庫版)、日本語版の毛沢東選集、魯迅の二、三の著作に加え、中国語の勉強にもなるからと思って、中国語版の毛沢東選集を買い求めて持って行きました。蒋介石独裁のもとではこれらの本は禁書だという程度の知識はありましたが、いわゆる外交特権で入国に際して携帯品をチェックされることはないからかまわない、という軽い気持ちでした。
中国語は師範大学「国語中心」で学び、また、一応籍をおいた台湾大学で好きな課目を受講する(大学3年中退という学歴しか残っていない私の場合、正規の学生ではなく「傍聴」生でした)というのが当時の外務省派遣語学留学生のお決まりのパターンでしたが、私には、(ボーガス注:その後三民主義への評価をより肯定的な物に改めますが、当時は蒋介石独裁と同一視しており)もともと三民主義を学ぶのは勘弁してほしいという気持ちが強かったので、台湾大学には最初に数回顔を出した程度で、ほとんど通った記憶はありません。
<最初の親しい友人・李作成>
私は、「国語中心」で語学として中国語を習うことに気持ちが入らず、台北生活半年を経ずして(という記憶があるのですが)、羅斯福路三段25号に一軒家(比較的に大きな居間と3つの個室付)を借りて、私が一室、その前後に友人になっていた李作成に他の一室にマン・ツー・マンの家庭教師として住んでもらい、自分の興味・関心に即して実践的に中国語を学ぶ環境を作りました。李作成にとっては家賃負担がなく、食費もかからないというメリットはあったのだと思いますが、それにしても、日本の中国侵略戦争の惨禍を体験し、親とも離ればなれになって子どもの身で台湾に移ってきたという過酷な戦争体験を背負った彼にとって、日本人である私と一緒に一つ屋根の下で生活することにはかなり違和感、葛藤があっただろうと、今にして思います。
李作成は、いわゆる外省人で、年齢も私より十歳は上だったと思います。彼は、私の記憶に間違いがなければ、台北で学校の教師をしていたように思います。台湾には一人の身寄り、親戚もなく、自ら天涯孤独と言っていました。内向的だった私にとっては、快活で話し好きな李作成はいうならば「兄貴」のような存在でした。
私が李作成と知り合うようになったきっかけは残念ながら思い出せません。外務省から派遣されて台湾に語学留学していた先輩諸氏は、当時の台湾の知識分子たちと交流し、その交流関係を代々後輩に引き継いでいくという流れができており、私も一年先輩*42の池田維*43に誘われて、彼の家で開かれていたそういう集まりに顔を何度か出したことがあります。
池田の家に、いちどきに十数人~二十数人が集まってワイワイがやがや、国民党批判を含めてさまざまなテーマについて議論するといったサロン的な雰囲気で、私は中国語がまだ付いていけないこともありましたが、なんとなくこの集まりの醸し出しているスノビッシュな雰囲気、また、特権階級の子息たちが集まってつかまる心配もなく無責任に(と私には感じられた)放談して溜飲を下げているという自己満足的な感じは性に合わず、すぐに寄りつかなくなりました。しかし、李作成と知り合ったのはこの集まり、会合の席であったかも知れません。というのは、そのほかに彼と知り合えるような機会、状況はほかに思い出せないからです。
しかし、すでに述べたような彼の身の回りのことを考えると、こういう虚勢を張って粋がっている(中国語:摆虚架子)高級幹部子弟中心の集まりに彼が参加していたということも考えにくいことです。会場にいる皆さんの中で李作成の当時の事情をご存じの方がおられたら、是非教えてください。
李作成はいつの日にか(ボーガス注:故郷である)大陸に戻りたいとよく話していました。ただし、思想的に社会主義に共鳴するということでは必ずしもなかったと思います。陳映真と仲がよかったということは、当時から社会主義・中国に対する拒否感とは無縁だったということではないでしょうか。彼が1968年に逮捕されたのは、陳映真と仲がよく、そのグループの一員と見なされたからでしょうが、彼自身は「思想犯」ではなかったと思います。李作成のおかげで私は陳映真と知り合うことができたのです。
<蒋介石政権>
1947年に起こったいわゆる二・二八事件の記憶は当時の台湾社会では生々しいものがありました。二・二八事件によって民心を完全に失い、アメリカ(及び日本)の庇護に頼って大陸反抗(「光復大陸」)の夢にしがみつき、そしてなによりも民間の経済的活力を引き出すよりは国民党による主要経済部門(重工業)の支配にのみ関心があった蒋介石政権は、自らを「台湾人」「本省人」と名乗る多くの人々にとって、植民地支配をしていた日本軍国主義に勝るとも劣らない忌むべき存在であることが、私のような外国人の目から見ても明らかでした。要するに、さまざまな権力的暴力装置によってのみ辛うじて政権の座にあったのが当時の蒋介石政権でした。
<1960年代前半期の社会的雰囲気>
したがって、当時の台湾社会の雰囲気は、私のような一外国人の目から見ても、重苦しい空気が沈澱していたように常に感じられました。二・二八事件の再発及び共産主義の浸透を未然に防止するべく社会の隅々にまで配置された特務機構の監視の目は厳しく、政府批判することはもちろん、政治的な話題を口にすることさえ憚られる、そんな状況でした。台湾独立を唱えることも共産主義に共鳴することも、思想犯罪として厳しく取り締まられていたのです。言論の自由はまったくありませんでした。
もちろん、台湾社会が完全に沈黙に追い込まれていたというのは必ずしも正確ではないと思います。私は台湾に住むようになってからそれほど時をおかないで、彭明敏*44らの台湾独立論の存在を知りました。アメリカや日本などに拠点をおいて台湾独立運動を模索する動きが存在するという話を聞き及んだ記憶もあります。
本省人(台湾人)の政治意識というのは、日本の占領支配が終わった直後には解放感と将来に対する強い希望があった、しかし大陸から逃げ込んできた国民党軍が支配者然として居座り、腐敗を極め、しかも横暴かつ傲慢だったので、期待感が大きかっただけにその反動としての幻滅感、失望感は激しく、裏切られたという思いが外省人一般に対する反感を植え付けた、と大ざっぱにまとめることができるのではないかと思います。「犬(日本)が去り、豚(国民党)が来た」、「豚(国民党)に比べれば犬(日本)の方がましだった」という例えをしばしば聞いた憶えもあります。
私の生き方・人生そのものは、陳映真との出会いによって大きく方向づけられたというのが一番の実感です。外務省に入って世間的な「立身出世」のこと程度しか頭にないままに、中国語習得の味気ない台北生活を覚悟していた私でしたが、陳映真の誠実な人柄、他者のことを思いやる温かい眼差し、しかも、台湾という当時の厳しい思想環境の中で私利私欲には無縁で、自らの生命に危険が及ぶことを承知、覚悟し、ひたすら台湾の祖国復帰という目的のために自分の人生を捧げようとする決意を25歳の若さですでに明確に持っていることを、知り合ってから比較的短時間で知ることになって、私は本当に目が見開かれる思いを味わいました。
陳映真は私よりわずか4歳年上(私が1941年生まれで、彼は1937年生まれ)でしたが、あらゆる点で私にとっては「かなわない」、一目も二目もおかずにはいられない存在でした。
私が外務省を早期退職したのは、外務省にいたのでは自分の考え方を全うできないと考えたことが主な理由でしたが、そのような決断ができたのは、私の妻があっさり理解してくれたことも大きいですが、陳映真という心の鏡に照らして自分の生き様を考え、実践することを心掛ける自分になっていたということも大きいのです。 ちなみに日本では、(ボーガス注:親米右派、反中国・親台湾派など)私のことを「親中派」と揶揄する向きがあります。私は、陳映真をはじめ、劉広志(中国外交部のソ連専門家で、私が1973-75年にソ連在勤中に公私にわたってお世話になった人物)、靳海東(中国勤務の1980年に知り合って今日まで続く、義兄弟の契りを結んだ親友)など、私たち日本人とはスケールが違う、個性豊かな尊敬すべき少なくない中国人と知己を得る機会に恵まれました。彼らなくして今の私はあり得ない、という意味において、私は「親中派」と言われることをむしろ勲章だと受けとめています。
陳映真が何故に私のような未熟な人間と親しくしてくれるようになったのかは、聞く機会もありませんでしたので、今でも分かりません。とにかく、私の台湾生活は、思いもよらず、きわめて充実したものとなりました。
<陳映真の人となり>
陳映真については、「親中派」「共産主義者」というレッテルから由来する、彼自身の人格そのものまで否定する言説が、特に台湾独立を唱える人々の間であるらしいことを聞き及んでいます。しかし私は、陳映真の本質にあるのは他者感覚にあふれた温かい眼差しのヒューマニズムであることを確信しています。そういう彼の人となりは、優れて彼の育った家庭環境によるところが大きいと思います。後日(確か1968年)に外務省中国課に勤務していた時に台湾出張の機会があり、陳映真と再会する機会がありました。その時、彼に誘われて台中の彼の父親にもお目にかかったことがあります。キリスト教会の牧師であったお父さんは、正しく「この親にしてこの子あり」と納得がいく慈愛あふれる人格者でした。
私は外務省を退職してからの1990年代初期に一度、娘を伴って台湾を訪れたことがあります。すでに出獄していた陳映真は台北市内に居を構え、愛妻と暮らしていました。陳映真に案内してもらって確か桃園にある李作成の集団墓地になっているところを訪れ、彼の未亡人と娘さんにも会うことができました。陳映真の李作成に対する少しも変わらない友情の念をひしひし感じました。
また、いつだったか覚えていませんが、陳映真が訪米する前か後かに日本に立ち寄った際、彼を囲むなにかの会合に私も参加したことがあります。彼が出獄してから最初の出会いだったと思いますので、私が娘と一緒に台湾を訪問する前のことだったでしょうか。
<陳映真の当時の思想>
1963年当時には、特務機関の監視の目はきわめて厳しく、陳映真は、大陸の放送による断片情報以外、共産主義や毛沢東思想について理解する手段はなかったと思います。蒋介石独裁政治を批判し、「二つの中国」「一中一台」に反対し、台湾の祖国復帰を目指すという考え方は明確でしたが、先ほども述べたように、それはあくまでも「憂国憂民」「愛国」のナショナリズムに基づくものでした。彼が共産主義及び毛沢東思想に直に接することになったきっかけは、私の部屋にあった文献を通じてであることは間違いないのではないかと思います。
もちろん、台湾社会が民主化されていく中で、陳映真が共産主義についての理解、認識を深めていったことは当然だと思いますが、それはあくまで後のことであり、1960年代初期の彼について当てはまることではないと思うのです。
私は、陳映真たちが逮捕されたことを、彼と台中で会ってから帰国してすぐ知ることになりました。つまり彼らが逮捕されたのは、私が出張で台湾に行き、彼と親交を暖めて帰国した直後のことだったという記憶があります。首謀者とされた陳映真が懲役10年とされた(死刑などもっと重い判決を免れた)ことには、二つの事情があったのではないでしょうか。一つは、陳映真たちの思想及び行動が国民党政権を脅かすほどのものではなかったと国民党政権自体が認識していたいうことです。言葉を換えれば、彼らの思想状況は「まだその程度」の段階にとどまっていたということではないでしょうか。
もう一つは、国民党政権が陳映真たちの背後に(ボーガス注:若輩者とはいえ、現役の日本外務官僚である)私という存在があったことを重く見ていたのではないか、ということです。後日、判決書を読む機会がありましたが、名指しはなかったものの、私を黒幕・首謀者として扱っていた記憶が残っています。ひょっとすると国民党政権は、微妙な日台関係を背景にして、私の背後にさらに日本外務省さらには日本政府の「陰謀」をすら疑心暗鬼で感じ取っていたかも知れません。
今はもう時効になっていると思うのでご紹介しますが、当時、国民党政権はかなり強烈に、私の扱いについて外務省にプレッシャーをかけたようです。私自身辞職を覚悟しましたし、上司に辞職を申し出た記憶があります。私の上司が剛胆な人で国民党政権のプレッシャーをはねのけてしまい、私は中国課から配置換えということで台湾側の要求に一定の配慮を示しつつ、外務省内の人事としては、「出世コース」といわれていた条約局条約課に「転出」することで私に「傷がつかない」処置がとられて一件が終わりました。もし日台国交関係が(ボーガス注:1972年に断交せず)1980年代まで続いていたら、私が(ボーガス注:1983~1985年に)外務省中国課長になることはあり得なかったでしょう。
いずれにせよ、1960年代までの陳映真の思想状況は「真っ赤」というにはほど遠い程度のものだったと思うのです。もちろん、ここには当時の彼を熟知し、1968年の事件に連座された方もいると思いますので、私の間違いについてはご指摘いただきたいと思います。私としては、私の不用意で幼稚を極める行動が陳映真以下36人もの人々の逮捕を引き起こしてしまったということについて、本当に申し訳ないことをしてしまったという後悔と謝罪の気持ちでずっと過ごしてきたということを、ここで申し上げます。陳映真は寛恕してくれたことは先ほど申し上げましたが、彼以外の無辜の罪に問われた方々には改めて謝罪の気持ちを述べさせていただきます。
本省人である陳映真が1988年に「中国統一聯盟」を組織し、その主席に就いたこと、その後しばしば中国を訪問し、中国側から重視されてきたことに対して、台湾独立を標榜する民進党及び台湾独立を支持する人々からは厳しい批判、非難が浴びせられてきたことは聞き及んでいます。しかし、私は、「台湾独立」の主張については、国際政治、特に21世紀の人類史の流れの中で位置づけることが必要だと思います。陳映真とは直接意見を交換したわけではないし、陳映真がこれまでにどのような発言を実際にしてきたかについては知りませんので、あくまで私の推論なのですが、私はこれから私が述べる内容については、陳映真が膝をたたいて、「浅井よ、よくぞ理解してくれた」と言うのではないかとかなり自信を持って言うことができる思いなのです。
まず、国際政治とのかかわりについて。台湾独立という主張は、アメリカ及び日本の支持なしには成り立ち得ません。台湾独立を唱える人々は、「いや、台湾人の民族自決(人民自決)の要求であり、この要求は国際的に正当だ」と主張するでしょう。しかし、アメリカ及び日本の国内に根強い台湾独立支持論者は、中国を牽制し、押さえ込むために台湾を自らの影響下においておくことが死活的に重要だ、と判断するが故に支持するのであって、民族自決論支持は、自らの台湾に対する権力政治的な野心を覆い隠すための「イチジクの葉」にしか過ぎません。
また、「民族自決の主張は国際的に正当だ」という点について言えば、国際連合憲章その他で国際法上認められている法的権利であることは間違いありませんが、第二次世界大戦後の国際政治のもとにおける実例を見ても明らかなとおり、それは関係大国が支持し、承認する場合(1960年代のアフリカ諸国や、ソ連崩壊後の独立国家の誕生や(ボーガス注:2002年の)東チモール独立達成の場合)にのみ、あるいは大国が無関心である((ボーガス注:1993年にエチオピアから独立宣言した)エリトリアの場合)か大国間の相互牽制で動きがとれない場合(旧ユーゴ構成諸国の独立)に辛うじて「実現」するに過ぎません。要するに、国際政治の動き如何という要素を抜きにして、民族自決(人民自決)という国際法上の権利の実現はあり得ません。台湾の場合も例外ではないのです。
台湾独立論に執着している人たちに求められるのは、他者感覚を働かせて、中国の立場から国際関係を見て、その中で台湾問題を中国自身がどのように位置づけているか、ということを考えて見ることだと思います。いずれにせよ、(ボーガス注:台湾が「独立」できるか分かりませんが仮に)アメリカや日本の支持に頼る形で「独立」しても、それは名前だけのことであり、いつまでたってもアメリカの意向に振り回される従属国でしかないのです。戦後60数年間、そういう惨めな、やりきれない体験をしてきた日本人の一人である私としては、台湾の皆さんにもよく考えていただきたいと希望します。
陳映真が台湾独立論を批判し、中国との統一を唱えてきたのは、「中国にいかれている(中国語:入迷)」からではなく、以上のような国際情勢認識、人類史的発展の方向性を踏まえた上での理性的判断・認識に基づくものであることは間違いないと思います。それは、何度も繰り返しますように、彼の社会主義・共産主義へのコミットメントが彼のヒューマニズムに基づくものであるからです。そういう観点から、陳映真に対する正当な評価が行われることを、私は台湾社会に望みたいと思います。
浅井基文『台湾訪問』2011.9.21
9月15日から19日まで、作家・陳映真に関する私の理解をお話しする報告会に出席(16日)し、また、1971年に始まった釣魚島(尖閣列島)「保衞」運動(大陸、香港及び台湾では「保釣(運動)」と略称)の40周年に際してこの運動の中国現代史における意義と今後の課題を討議するシンポジウム(17日及び18日)にパネラーとして出席するために久しぶりに台湾を訪問しました。
<陳映真の1960年代当時の思想状況に対する台湾での受けとめ>
参加者の中には、陳映真が当時既に共産主義思想にかなり蓄積を持っていたのではないかという認識を前提に、彼と私との間では毛沢東やレーニンの個々の文章に関する突っ込んだ意見交換や討論が行われたのではないか、という質問が提起されました。私は、私が持ち込んだ毛沢東選集やレーニン選集に接するまでの陳映真はそういう文献を読む機会はなかったことは明らかで、また私自身もこれらの文献を読みかじった程度で突っ込んだ議論ができるレベルからは遠かったので、そういうことはなかったということを紹介しました。
<陳映真たちの逮捕のきっかけ>
私は単純に、1968年に私が台湾を再訪して陳映真と会ったことが彼らが逮捕される直接の原因だったのだろうと思っていたのですが、実は彼らに関する情報を密告した存在があったことが原因であったということを陳映真自身が後に書いており、また、密告者とされている楊蔚(「政治犯」「思想犯」として監獄生活を送った経歴の持ち主)と結婚した(後に離婚)経歴を持つ作家・季季がその著書『行走的樹』(今回の訪問の際に入手できました)でも断定的に書いています。季季の本によると、楊は出獄後も国民党の厳しい監視下にあり、深い交友関係にあった陳映真らに関する情報提供を行うことを強いられていたということのようです。
<陳映真の思想的立場に対する評価>
陳映真に対しては、「中国にのめり込みすぎた」「親大陸派」というレッテルが貼られていますが、丘延亮などによりますと、陳映真は改革開放政策以後の中国に対しては、その赫々たる経済的成果そのものは評価するけれども、改革開放政策そのものが果たして社会主義の本道を行くものであるかどうかという点については留保があったし、特に天安門事件以後の中国政府の思想的取り締まりに対しては厳しい批判を「公開された論評」などで容赦なく行っていたのであって、以上のレッテル貼りはおかしいというものでした。私自身も関心のある点ですので、今後機会があれば陳映真の発表した論評などを読んでみたいと思いました。
浅井基文陳映真研究計画起動儀式(人民日報海外版2023年12月6日)*45(2024.1.3)
昨年(2023年)12月6日付の人民日報海外版が、私の敬愛する陳映真に関する文章を掲載しました。陳映真夫人・陳麗娜が中国現代文学館に寄贈した彼の資料の贈呈式兼「陳映真研究計画始動式」が行われたことを紹介するものです。主催は中国作家協会、中国作家協会港澳台*46弁公室と中国現代文学館が担当して行われたこの会合には、中国と台湾の学者30人余が出席し、彼を追憶し、記念するとともに、彼の文学精神の研究、伝承に関して研究討論を行ったことが紹介されています。陳麗娜夫人が述べた(と紹介されている)発言は、今回の催しの意義を余すところなく伝えていると思いました。若い頃の彼の祖国・中国に対する熱い思いを知る私にとって、中国の今回の催しは彼の人生を永遠に中国の歴史に刻み込むということであり、彼に対する中国の最高級の評価の表れとして、「陳さん、良かったね。波乱の人生が最後に報われたね」とねぎらう気持ちでいっぱいになりました。
私は最近、家永真幸著『台湾のアイデンティティ:「中国」との相克の戦後史』(文春新書)が刊行されたことを知り、なんとなく気になって買い求めました。その中で、中国と台湾との相克の歴史という脈絡における陳映真評価が行われていることに感慨を覚えたばかりでした(ちなみに、著者は2011年9月2日付のコラム「私における陳映真と1960年代の台湾」の記述について部分的に引用していることに驚きました)。
陳映真に対する追慕の念を含め、人民日報海外版所掲文章を翻訳してコラムに残すことを思い立ちました。もしまだご覧になっていない方の参考になれば幸いです。
タイトル:「彼の作品を理解すればするほど、彼に対する尊敬はますます深まる:両岸の学者が台湾の作家・陳映真を追憶し、記念する」(原題は『我们越了解他的作品,就会越敬重他:两岸学者追忆和纪念台湾作家陈映真』)
台湾の著名な作家「陳映真」の夫人「陳麗娜」は、次のように述べた。
「今を去る2000年に私と映真は初めて中国現代文学館を訪れ、展示されている巴金、魯迅、老舎、茅盾など大陸作家の原稿、資料を見る機会があった。映真は非常に感激した。これらはすべて、彼が青少年時代に密かに読んだことがある作品であり、彼が中国に対する確固としたアイデンティティを抱くに至ったものであるからだ。彼の作品及び原稿がこの文学の殿堂入りすることができるとは、彼はついぞ考えたこともなかった。これは彼の文学的成果に対する最高の礼遇である。」
◆終始一貫した国家統一の追求
陳映真は忠誠なる愛国主義者、著名な思想家、理論家、文学者であり、台湾愛国統一陣営の傑出した指導者であり、中国作家協会の第7期及び第8期委員会の名誉副主席であった。彼は長きにわたって台湾の思想文化の陣地を堅守し、雑誌『人間』等の進歩的刊行物を創刊し、多くの文学作品及び文芸理論関係の文章を創作し、台湾同胞の愛国愛郷の伝統を称揚し、多くの台湾同胞が祖国統一を追求する道に歩むよう影響力を発揮した。1988年、陳映真は「中国統一連盟」を結成してその最初の主席を担当した。2006年、彼は祖国大陸に定住し、2016年に北京で逝去した。
中国作家協会副主席の李敬澤は次のように述べた。
「陳映真の文学精神、崇高な理念及び輝かしい人格、社会主義に対する飽くなき追求、マルクス主義に対する科学的探求、両岸平和統一に対する熱心な願望は、中国文学に豊富で貴重な遺産をとどめ、両岸同胞が手を携えて共に進むことを励ましている。」
陳映真は両岸インテリ層に広範な影響力を持ち、「台湾の魯迅」と称される。
大学時代、陳映真は小説『麺攤』で台湾文壇に頭角を現した。1968年、陳映真は「マルクスレーニン主義、魯迅等左翼書籍読書会を組織」等の罪名で逮捕された。7年の獄中生活の中で、彼は理想のためには死を厭わない、志を同じくする同志たちと知り合うと共に、「理想と志のために家族を失い、命を落とした世代の物語」を深く認識することを通じて、「都市プチ・ブル分子から憂国憂民、愛国の知識分子」となり、左翼的傾向と濃厚な人文的関心がその創作人生を貫くこととなった。
陳映真が入った文学世界は魯迅そして1930年代の中国左翼文学に始まるが、陳映真の創作はその左翼文学の発展の系統を明確に受け継いでいる。
1985年、陳映真は住宅資産を抵当に入れ、社会的弱者に関心を当てることを信条とする雑誌『人間』を創刊し、底辺民衆の変転浮沈を文字で活写した。創刊号のカバー・ストーリーは「内湖のゴミの山で生計を立てようとする人々」だった。雑誌はわずか4年続いただけで、第47号をもって財政困難で停刊したが、台湾同世代人に対して消すことのできない影響を生み出した。雑誌『人間』は数多くの青年作家を団結、育成し、左翼進歩的文学の火種を蓄積した。
「死んでも悔い改めない統一派」である陳映真は特に、台湾の一部から批判され、あるいは故意に忘却された。しかし、彼の理想信念は歴史的に正しい(ことが立証される)ものである。
2017年末の陳映真逝去1周年に際し、台湾人間出版社は『陳映真全集』全23巻(450万字)を出版し、陳映真の文章(小説を含む)820本を収録した。人間出版社の刊行者・呂正恵は、『陳映真全集』はジャンルを問わず、編年形式で陳映真のすべての作品、文章、インタビュー等を時間順に配列したと語った。全集は陳映真研究の重要なベースであるとともに、1960年から2010年に至る50年間の台湾の政治、社会、思想状況を理解する上で必要不可欠な資料でもある。
*1:東京大学教授。著書『比叡山と室町幕府』(2011年、東京大学出版会)、『日本中世の民衆世界:西京神人の千年』(2022年、岩波新書)
*2:西京神人の末裔の一人
*3:完全に話が脱線しますが、松竹や紙屋には是非とも「共産には共産の立場がある。わしら(紙屋や松竹)にはわしらの立場がある」で、党から離れて自分らだけで勝手にやれと言いたいですね。
*4:これについては文安の麹騒動 - Wikipedia、【発酵コラム㉛】室町時代の麹騒動とは?! - 日本発酵文化協会参照
*5:家臣だった三好長慶による下克上で失脚するまでの間、畿内に君臨していた(細川晴元 - Wikipedia参照)
*6:後に三好長慶と対立して敗死した(三好政長 - Wikipedia参照)
*7:合戦は細川晴元が勝利し、足利義晴は京都を離れ、近江坂本に移った(桂川原の戦い - Wikipedia参照)
*8:國學院大学教授。著書『近世日本の歴史意識と情報空間』(2010年、名著出版)
*9:例えば馬部氏が取り上げた椿井文書、一井文書、笠川文書
*10:例えば武井氏が取り上げたホロコースト否定論、小澤氏が取り上げた「米国のルーン碑文(明らかに後世の創作)」
*11:中京大学教授。著書『戦国期細川権力の研究』(2018年、吉川弘文館)、『由緒・偽文書と地域社会』(2019年、勉誠出版)、『椿井文書:日本最大級の偽文書』(2020年、中公新書)
*12:江戸時代後期に椿井政隆(1770-1837)によって創作されたとされる偽造文書(椿井文書 - Wikipedia参照)
*13:学習院女子大学教授。著書『戦後ドイツのユダヤ人』(2005年、白水社)、『ユダヤ人財産はだれのものか:ホロコーストからパレスチナ問題へ』(2008年、白水社)、『〈和解〉のリアルポリティクス:ドイツ人とユダヤ人』(2017年、みすず書房)、『歴史修正主義:ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』(2021年、中公新書)
*14:立教大学教授。著書『近代日本の偽史言説』(2017年、勉誠出版)
*15:歴史評論の小沢論文に寄れば自称「発見者」オーマンによる偽作というのが通説。
*16:小澤氏は1973年生まれ。ドラゴンクエスト(第1作)の発売は1986年、ファイナルファンタジー(第1作)の発売は1987年
*17:ナチス・ドイツ聖櫃捜索隊司令官の『ヘルマン・ディートリッヒ国防軍大佐(演:ヴォルフ・カーラー)』や『エルンスト・フォーゲル親衛隊大佐(演:マイケル・バーン)』のこと(レイダース/失われたアーク《聖櫃》 - Wikipedia、インディ・ジョーンズ/最後の聖戦 - Wikipedia参照)
*20:京都産業大学准教授。なお評者に寄れば吉田氏は2021年に死去しており、今回紹介された著書は、死後に編纂された遺著(東大に提出された博士論文が主要な内容)になる。
*21:副題から分かるように「民族政策」といっても内モンゴルのみが論じられている。
*23:1952年生まれ。東京外国語大学名誉教授。吉田氏の恩師。著書『「満蒙問題」の歴史的構図』(2013年、東京大学出版会)等
*24:1949年生まれ。吉田氏の夫(彼女は1970年生まれなので21歳差の夫婦)。東京都立大学名誉教授。著書『中国の現代史:戦争と社会主義』(1999年、青木書店)、『中国の資本主義と社会主義』(2004年、桜井書店)、『文化大革命への道』(2020年、有志舎)等
*26:1999年、多賀出版
*27:1988年の来日時が18歳で、2015年時点で45歳なので1970年生まれ。2021年に死去したそうなので享年51歳であり早死にと言っていい(死去理由が何かは、歴史評論記事にも書いてないし、ググってもヒットしないので不明です)。
*28:閉所した定着促進センターによれば平成3年(1991年)7月に閉所。最後まで残っていた埼玉県所沢市のセンターも平成28年(2016年)3月に閉所(中国帰国者定着促進センター閉所式 支援32年、6644人巣立つ 埼玉 - 産経ニュース(2016.3.8)参照)
*29:2015年当時。現在は東京都立大学に名前が変わっている。
*30:東京女子大学教授。著書『パンダ外交』(2011年、メディアファクトリー新書)、『国宝の政治史:「中国」の故宮とパンダ』(2017年、東京大学出版会)、『中国パンダ外交史』(2022年、講談社選書メチエ)
*32:1937~2016年。著書『戒厳令下の文学:台湾作家・陳映真文集』(邦訳、2016年、せりか書房)(陳映真 - Wikipedia参照)
*33:勿論、外務官僚(外務省条約局国際協定課長(1978~1980年)、アジア局中国課長(1983~1985年)など歴任)で、その後、1990年に外務省を早期退官し、日大教授(1990~1992年)、明治学院大教授(1992~2005年)等を歴任した浅井基文先生のことです。浅井先生と陳の関係については、浅井『私における陳映真と1960年代の台湾』(2011.9.2)を紹介しておきます。
*34:名前を見れば分かる(同姓同名の別人とは誰も思わない)と思ったんでしょうか?
*35:中曽根内閣防衛庁長官、宮沢内閣官房長官、自民党政調会長(河野総裁時代)、幹事長(橋本総裁時代)を歴任
*36:勿論、一方で【1】安倍は例えば「2018年の李克強首相(当時)の訪日」では、李首相の北海道訪問に同行し、日中友好をアピールしたこと、【2】コロナ禍や自民党内「反中国派(親台湾派)」の批判等で挫折したが、首相在任中、習近平中国国家主席の国賓訪日を計画していたことで分かるように「反中国」を徹底できたわけではない。
*37:いずれも東大法学部政治学科で、加藤(1939年生まれ)は1959年入学(1963年卒業)、浅井氏(1941年生まれ)は1960年入学(1963年中退)。つまり二人とも現役入学ではない(いわゆる浪人の後、東大合格)わけです。
*38:浅井氏(1941年生まれ)は1963年入省(東大3年生の時に大学中退し入省)、加藤(1939年生まれ)は1964年入省(1963年の卒業後すぐに入省ではなく1年浪人の後に入省)
*39:加藤も中国語を選択し香港副領事、外務省アジア局中国課次席事務官など歴任
*40:中国との国交樹立は1972年
*41:1972年の中国との国交樹立により、国交断絶
*42:池田(1939年生まれ)は1962年入省、浅井氏(1941年生まれ)は1963年入省
*43:1939年生まれ。外務省アジア局中国課長、カナダ公使、タイ公使、外務省アジア局長、官房長、オランダ大使、ブラジル大使、交流協会台北事務所代表等を歴任
*44:1923~2022年。著書『台湾の法的地位』(共著、1976年、東京大学出版会)
*45:以前、今日の中国ニュース(2024年1月4日分) - bogus-simotukareのブログでも紹介しています。