新刊紹介:「歴史評論」2012年1月号

特集『映画(映像)をめぐる歴史と時間』
詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。興味のある部分だけ紹介する。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/
 
◆『映画史における〈異本〉とフィルム復元―伊藤大輔作品を中心に―』(板倉史明
(内容要約)
・「異本」というのは何らかの理由によってオリジナルから生まれた「異なるバージョン」ということです。何も映画に限ったことではなく、本なんかにもあります。なぜ異本を研究するかというと
1)異本だらけで何がオリジナルか、わからないときや、オリジナルが既に失われたときにオリジナルを確定したり推定する
2)異本がなぜ誰によってどのようにつくられたのかを知る
といったことです。
・ここで筆者が取り上げているのは、戦前の人気映画監督・伊藤大輔の映画2作です。アメリカで発見された『薩摩飛脚』と広島で発見された『忠治旅日記』です。
 まず『薩摩飛脚』から。原作は大佛次郎で『薩摩飛脚』というのは薩摩藩に潜入した公儀隠密のことだそうです。このフィルムは今は日本に返還されて東京国立近代美術館フィルムセンターにあります。2008年には上映会が行われています(http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2008-05/kaisetsu_12.html参照)。
 何がオリジナルと違うかというと、オリジナルはトーキーですが、異本は無声映画です。つまり弁士付き映画としてアメリカでは上映されていたわけです。何でトーキーがあるのに無声映画をわざわざ異本として創ったのかはこの記事を読む限りでは良くわかりませんが当時は場所によっては、トーキーより「弁士付き映画」の方が人気があったんでしょうか。それとも「トーキー上映機械」がそこになかったのか?。それはともかく、したがって現在ではどういうセリフをどういう声色で言ったかは今後トーキーフィルムが発見されない限りわからないわけです。
 次に『忠治*1旅日記』。これも今は東京国立近代美術館フィルムセンターにあります。これがオリジナルと何が違うかというと一部にマキノ雅弘監督『忠治活殺剣』が混入しています。何らかの理由で『忠治旅日記』の一部が欠落し、その欠落した部分をマキノ『忠治活殺剣』の似た部分で埋め合わせたものと推定されています。


◆『占領軍が描いた日本女性史―CIE映画『伸びゆく婦人』の検討―』(池川玲子*2
(内容要約)
 『伸びゆく婦人』というのはGHQのセクションCIE(民間情報教育局)が作った教育映画の一つです。要するに「戦前女性は虐げられていたけれどGHQ民主化政策で男女平等が進展してる」というそういう映画のようです。まあ、筆者はいろいろ書いてあるんですがうまくまとまらないので一点だけ興味深いと思った点を指摘しておきます。この映画は結局、戦前の女性運動についてはほとんど触れない、つまり日本史を知らない人が見たら戦前日本には女性運動がなかったのかと誤解しかねない作品になってるそうです。もちろんアメリカが日本の女性運動を知らないわけがないんであって、作成に当たっては戦前からの活動家・平塚らいてう山川菊栄などに意見聴取してるそうです。じゃあ何で戦前の女性運動を描かなかったかと言ったら、説明がややこしくなるからです。「日本には欧米と違って力はとても弱く不十分ではあるが女性運動があった。しかし彼女らの多くはある者は弾圧され、ある者は沈黙し、またある者は悩みながらも戦争協力した」というのがまあ正しい描写でしょうが、そうなると「女性が一方的に虐げられたという単純なストーリー」ではなくなる。わかりやすさを優先し、そういう複雑さをオミットしたという話なんでしょう。


◆『失われた戸惑いを求めて―「復帰」前後の沖縄アクション映画*3・再読―』(千葉慶*4
(内容要約)
 今号収録論文のうちでかなり左翼的(?)かと思われる論文。俺的に面白かったので要約は長くなる。
 筆者が取り上げている映画は「仁義なき戦い」(1973年、東映)、「県警対組織暴力」(1975年、東映)などで知られる「ヤクザ映画の巨匠」深作欣二のヤクザ映画『博徒外人部隊』(1971年、東映)と、森崎東の『野良犬』(1973年、松竹)です。筆者によればこの二作は深作と森崎それぞれが沖縄問題、要するに中央政府が沖縄に米軍基地をおしつけてるという今も続く、解決しない問題ですが、これを彼らが娯楽映画を借りて、「自らの沖縄への思いをぶつけた政治的作品(もちろん日本批判のわけですが)」なんだそうで、筆者は深作、森崎らの「メッセージ」に一定の評価をしています。当然どちらの映画も舞台は沖縄です。
 いや見ないと本当にそういう「左翼的(?)」政治的作品なのか、そうだとしてその政治的メッセージは評価に値するのかはわからないですけどね。この論文だけでは何とも言えません。ただ深作作品はともかく森崎作品について言えば、「政治的作品」という筆者の読み自体は正しいでしょう。「野良犬」というタイトルで気付いた方もいるかもしれませんが森崎作品は黒澤明三船敏郎志村喬のコンビで制作した映画「野良犬」のリメイクだからです。言うまでもなく黒沢「野良犬」の舞台は沖縄じゃありません。東京です。それをわざわざ、森崎が舞台を沖縄に改変したのは政治的意図があったと見るのが自然でしょう。しかし俺は森崎っていうと「寅さん」「釣りバカ」のイメージが強いんですがね。そういう映画を撮っていらしたわけですか。
 ちなみに俺の見たところ沖縄映画を筆者は次のように分類している。
1)別に沖縄が舞台でなくてもいい映画
2)沖縄を「観光地」「癒しの島」的に描く映画
 筆者は『ナビィの恋』(1999年)を上げている。
3)沖縄の社会問題を取り上げた映画
 3)は次のa)〜c)に別れる
a)良心的「本土人」(いわゆるヤマトンチュー)が、沖縄の社会問題に対し、沖縄人とともに立ち上がり一定の成果を収める
b)「本土人」は沖縄を踏みつけにする悪としてしか登場しない
 筆者はその例として『沖縄ヤクザ戦争』(1976年、東映)、『沖縄10年戦争』(1978年、東映)をあげている。あとでこれらの映画についてはぐぐってみつけた映画評を紹介する。
c)a)の変形パターン。良心的「本土人」は登場するが彼らは「所詮、本土の人間には沖縄人の気持ちはわからない」と言われたり、力不足で何もできなかったりで「所詮自分は何の役にも立たない無能」「偽善者ではないのか」と戸惑いや悩みを深めていく。
 数少ない「3−c)」にあたると筆者が主張するのが森崎映画、深作映画である。
 

【森崎映画について参考】
 「日本の三大映画監督は自分にとって黒澤明勝新太郎森崎東だ」とまで言う森崎ファンらしい元高校教師・池田博明氏なる方のサイト(http://www.asahi-net.or.jp/~hi2h-ikd/film/morisakidata/cw002960.htm)にはいくつか森崎『野良犬』評があるので紹介してみる。

藤田真男
 ボロ家に住みながら女道楽をやめないグウタラ亭主・花沢徳衛*5が「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」と昭和天皇終戦詔勅をまねて女房に不平を言うと、内職しながら耐えがたきを耐え続けた女房の清川虹子天皇の口グセをまねて「あっ、そう」と亭主を無視する。
(中略)
 これは森崎東監督のデビュー作『喜劇・女は度胸』(1969)の一場面だ。
(中略)
 (注:昭和天皇をおちょくる)彼の思いが何となく理解できたのは、もう少しあとのことだった。
(中略)
 森崎東監督の松竹映画『野良犬』(1973)も、実質的な主役を演じたのは、志垣太郎だ。
 この映画は単に黒沢明の『野良犬』(1949)のリメイクだと思われているが、実はそんな映画ではない。志垣ら沖縄出身の少年たちが刑事・渡哲也から奪った拳銃で、ひとりずつ憎い日本人を殺していく。最後に残った志垣は誰を殺そうとしているのか。
 逮捕された少年が刑事に向かって言う。「俺たちがやりたかった一番憎い奴をやりにいった」と。
 続いて少年たちの仲間の少女の主観ショットとして、彼女がバスの窓から見た皇居と警視庁がカットバックされる。このシーンを見逃したら何も見なかったのも同じなのだが、公開当時、森崎監督の意図を正しく理解した日本人は、ほとんどいなかったようだ。
 『野良犬』は6人の沖縄の少年が(注:沖縄を捨て石にした昭和)天皇を裁こうとした物語だ。6人のうち1人は刑事に尋問されて沖縄人ではないと言うが、何者なのかは言わない。おそらく朝鮮人ではないか。
 舞台となった川崎には朝鮮人も多く、画面に北鮮系(注:原文のまま)の看板も映る。この映画は確信犯として(注:昭和)天皇暗殺を具体的にほのめかした唯一の日本映画だといって間違いないだろう。

 な、何やてえ?。ホンマかいな?。松竹映画やろ?。深読みのしすぎと違うか?。しかしこれはいずれ見ないとあかんな。しかし俺の森崎イメージ「松竹喜劇映画の人」は大きく変わったな(まあ、深読みだとしても松竹映画なのに随分人が死ぬのな、とは思った)。
 ちなみに藤田氏のいう「彼の思い」とは藤田氏曰く次のようなものらしい。

森崎湊著『遺書』('71・図書出版社)
 森崎東監督の兄・湊の16歳から20歳(1944年)までの日記をまとめた本。戦争末期、特攻要員となった森崎湊は敗戦の翌朝、割腹自殺をとげた。敗戦を認めず決戦を主張する将校たちを覚醒させるためだったという。
「私は今でも憶えている……『東条英機は出世主義者であり、落語家である。あいつが十四や十五の遊び盛りの少年を殺すのだ』という故人の憤激の声を。『皇居遙拝だけに熱心で、工員の怪我には全く無関心の経営者のいるような軍需工場なら、ストライキでつぶしてしまえ』という憤激の声を。(中略)森崎湊の死は、敗れた祖国に殉ずる従容たる武人の死というより、むしろとりつくろった美しい言葉で日本中の青春を圧殺しつづけた者たちへの憤激の死ではなかったのか?」(森崎東の序文)。
 その憤激は『野良犬』の少年たちにも受け継がれたのだろう。森崎監督『黒木太郎の愛と冒険』('77)の主人公の父の元軍人・三国連太郎は、この(注:森崎湊著)『遺書』を残して割腹自殺する。 

滝沢一
 黒沢「野良犬」に欠落していたものは、竹中労のいう「人を殺した人のまごころ」であった。森崎東が一八〇度視点を転回して、犯人の側に基調を置いたのは、「野良犬」を再映画化するための当然の志向であった。犯人側に沖織から集団就職してきた六人の若者がえらばれる。いや朱実を加わえて七人である。この若者たちにとっては戦後はまだ終っていない。それは黒沢の「野良犬」の犯人が復員兵であった状況と重なりあう。彼らは言葉によって、学歴によって差別され、酷使されて、都会の荒野を野良犬のようにさまよう。黒沢「野良犬」の復員兵が野良犬から狂犬に化する状況よりも、はるかに容易に殺意の反撃に転じ得るものだ
 だからこそ、若者たちが偶然手に入れたピストルでもって、一人一発ずつ怒りの対象に銃弾をぶちこみ、共同正犯になろうとする設定が生きる。
(中略)
 村上刑事を沖縄出身者にしなかったところもよい。黒沢「野良犬」で(注:村上が)犯人と同じ復員兵であり、復員時にリュックを盗まれた経験を共有するという発想から、刑事も沖縄出身にするというのは、かえってストーリー・テリングのあやにとらわれた悪しきルーチンになる。村上刑事は刑事一年生の優等生であり、沖縄出身の集団就職者などに無縁の存在であってよいのである。

読者の映画評「野良犬」野村正昭
キネマ旬報1973年12月下旬621号)
 殴るよりも蹴るよりも、人から人への視線の暴力が一番打撃を与えるといったのは誰だったろうか。暖かい眼差しが人を蘇らせるならば、冷たい限差しは最も人を傷つける。
 次々に起る殺人の共同犯人、沖縄の若者グル一プの象徴=少女(中島真智子)は、何故殺すという刑事らの問いに「その眼よ」と鋭く言う。拘置所の壁を叩きあって歌う琉球怨歌のその意味が、僕らに全くわからないのと同様、いくら彼らの心情がわかったようなふりをしていても、僕らには結局、真の意味での冷たい眼を受ける彼らの側の気持は理解できないだろう。次々と逮捕される僕らと同世代の若者たちは、そんな眼をはねかえすかのように、叫び、走り、悲しみ、そして撃つ!
(中略)
 いったい僕らは、日常、誰に、どんな眼を向けているのか。そして、誰に、どんな眼を向けられているのか。大仰な<差別>だ<偏見>だは、向ける側にしてみれば、意味もない眼差しひとつに、いや、眼差しひとつだからこそ、許せないこともあるにちがいない。<拳銃>はその時に本当にスクリーンのこちらの僕を射ちつくしてくるだろう。73年の「野良犬」とは、そんな<眼差しの対立関係を背負った>僕ら自身なのかもしれない。(東京都保谷市・自由業・19歳)

他にもいくつかググって見つけたのを紹介。

http://home.f05.itscom.net/kota2/jmov/1999_04/990439.html
「野良犬」
 深夜、人気のない道でOL風の若い女がバイクに乗った二人組みにハンドバッグをひったくられる。抵抗した女性は路上に叩き伏せられた。現場を通りかかった所轄の刑事・渡哲也がバイクに体当りして横転させ、一人を取り押さえたが、直後から乗用車が襲いかかる。
 渡はとっさに拳銃を抜き、威嚇射撃を行うが複数の男たちに殴られ拳銃を奪われてしまい、あろうことか、被害者の女性が撃たれて重傷を負ってしまう。
 渡の身柄は警視庁の監察官・中丸忠雄の管理下におかれ捜査を外される。いきり立つ渡に対し、正当防衛の確認をとったかどうか冷徹に質問する監察官を制して渡の身元引き受け人を買って出たのは、ベテラン刑事・芦田伸介だった。芦田は現場検証と聞き込みをもう一度じっくりと行い、犯人の足取りをつかもうとする。
(中略)
 芦田は廃品回収業者の社長が射殺された事件を追っていた。遺体から検出された弾丸は渡の拳銃から発射されたものだと断定された。そこの従業員・財津一郎によれば、共同経営者の妻・千石規子ともども、殺された社長は、採用した若い衆にロクな給料も払わず、コキ使っていたため社長を怨んでいる人は大勢いたらしい。
 次の夜、日雇の手配師が、やはり同じ拳銃で殺された。芦田は一見何の関係もなさそうな二つの事件が、「沖縄」「集団就職」というキーワードでつながる事に着目する。
 犯人の身元は比較的簡単に判明した。渡の拳銃を使って殺人事件を起していたのは沖縄出身の若い職工たちだった。犯人が沖縄に高飛びするらしいと睨んだ芦田は旅行会社を張り込むが、彼等に気付かれてしまい、渡の拳銃で銃撃され重傷を負う。
 重体だったひったくり事件の被害者の女性が死ぬ。責任を感じた渡は、同じく沖縄出身の女工のセンから、彼等が渡の拳銃に残った弾丸で一人づつ、仲間を苛めた連中に復讐している事を知った。仲間うちで次のヒットマン役へ拳銃を受け渡す予定の場所に張り込んだ渡の目前で、芦田を撃った青年が自殺する。あと一歩のところで拳銃はふたたびもち去られてしまった。
 芦田に逮捕された青年が仲間の所在を自供する。しかし、渡が逮捕した犯人たちはお互いに励ましあい、決して仲間を売ろうとしなかった。
 太平洋戦争中に本土の犠牲になった沖縄が本土に返還されて、職を求め期待に胸をふくらませて上京してきた彼等は、世間知らずを良いように利用され、使い捨て同然の扱いを受けていたのだった。彼等の中にも各々に複雑な事情と感情があることに気付いた渡だったが、芦田が死んだという事実を知ると、犯人たちの最後の一人・志垣太郎を逮捕すべく、後を追った。
 沖縄へ戻って、やはり怨みを抱く人間を殺そうとしていた志垣を船上に追い詰めた渡は、抵抗した志垣を射殺した。
 搾取された仲間の仇を全員が協力して討つ。別に逃げ隠れするつもりは無い犯人たちが、とにかく仲間に拳銃を受け渡すため、つかまって自供しないために自決までする。
 「沖縄」という日本の中の一種の外国に対する偏見や特別な感情、本土の人間のどこかに残っている申し訳無さ。
 原作は「野良犬」だけれどもオリジナルから拝借したのは「拳銃が奪われる」というところくらいなもんで、こちらの再映画版のほうは、かなり複雑である。

【深作映画について参考】

http://home.f05.itscom.net/kota2/jmov/1996_01/960148.html
博徒外人部隊
 刑務所を出所したばかりのやくざ、郡司(鶴田浩二)は刑務所にいる間に新興やくざ大東会組長大場(内田朝雄)、幹部の貝津(中丸忠雄)に牛耳られた地元・横浜に見切りを付けて、仲間とともに沖縄に渡り地元やくざと抗争しながら勢力を拡大します。やっと一息付いた頃、本土からかつて郡司の組を潰した大東組が乗り込んで来ます。
 国内で倒産寸前になった中小企業が再起を図るために未開の地に進出し涙ぐましい努力の末に市場を開拓、やっと事業が軌道に乗りかけたところへ大手企業が資本力にものを言わせてあっという間にシェアを横取りするという、まるで日本の産業界の縮図を見る思いですね。
 耐える男の魅力は鶴田浩二に尽きます。しかもこの人の場合は絶対に「斬り死に」がスペックですから観客としてもある意味、安心して見ていられます。
 郡司は出所後、憎い仇の大場の組事務所に乗り込んでいきます。ちょっとお、いきなりクライマックス?と思わせましたが、郡司は大東会の卑劣な「組潰しのカラクリ」をネタに大場を強請って大金をせしめます。こういうところが着流しやくざの仁侠映画とはまるで違う現代的なセンスで、たぶん東映やくざ映画では数少ない背広姿の鶴田浩二のキャラクターを客に納得させる上手い導入部です。
 本土だと組織のしがらみから抜けれないので当時、まだ外国だった沖縄に新天地を求めて、かつての敵工藤登(安藤昇)とも食い詰め者同士の友情に意気投合、尾崎(小池朝雄)、 鮫島(室田日出男)、イッパツ(曽根晴美)、関(渡瀬恒彦)、おっさん(由利徹)らと旅立つ姿はまるで失われた栄光と青春を取り戻さんとするかのようなどう考えても無理やりな情熱を感じます。
 沖縄の地元やくざの組長、与那原(若山富三郎)と狂犬舎弟の次郎(今井健二)らを力でねじ伏せて郡司は縄張りを拡大。そこへまたしても大東会が登場、与那原と対立していたやくざの波照間(山本麟一)を懐柔します。せっかくせしめた利権を横取りされてはならじと郡司一家は踏ん張りますがそこが中小企業の悲しさなので、物量に勝る大東会に次第に追い詰められて仲間が一人づつ犠牲になります。
 クールでドライな鶴田浩二が終始サングラス姿でとにかくかっこいいです。クソ暑い沖縄(ロケは秋ですが)に黒背広の軍団が上陸するシーンは、製作当時はまだ米国領土だった沖縄でよく撮影許可が降りたと思いますが、50人を超えるやくざの大名行列はけだし壮観です。かつて東宝に所属し、どうみても冷遇されたため東映へ移籍、スタアシステムの中で本当の主役スタアになった鶴田浩二と対決する、組織暴力団の先陣切ってんのが元東宝中丸忠雄っていうのがちょっと笑えるというか、なんというか。
 敵の攻撃に耐えに耐えて最後にキレる。鶴田浩二仁侠映画は必ずといっていいほどラストは特攻をかけて全滅するのがパターン。仲間と縄張りとメンツを奪われてコケにされまくった郡司と工藤。この作品でも最後に上陸してきた大東組の行列に残った仲間全員でカチコミをかけて壮絶な死を遂げます。

ヤクザ、新たなる混乱を求めて 深作欣二『博徒外人部隊』(1971年) - シネマトブログ
◆まさにジャンプ漫画のような娯楽作品
 出所した郡司(鶴田浩二)の元にかつての組員たちが集まり、輝かしいあの頃よ再び! という感じで新天地・沖縄を目指す。そこで地元のやくざを次々撃破するも、最後には自分たちを崩壊の一歩手前まで追い込んだ張本人たちが登場。最終決戦を挑む。
 というように少年マンガでもありそうなストーリー展開。
 そもそもわずか七人で沖縄やくざを制圧しようと考えることが少年的ですよね。
 さらに、与那原(若山富三郎)なんて、つながる眉に顔の大きな傷、そして片腕、そして拳法使いとまさにマンガ的キャラクター。
 かつての敵同士が同じ目的のために組むというのも王道的展開。
 そして敵と戦いながら男気溢れる友情を培うのもよくあります。
 郡司側や敵側の登場人物に「キャラ萌え」できます。
 もうこれは『ワンピース』とか『銀魂』のようではないですか。
 事実、この両作品はどう考えても東映任侠・やくざ映画の影響を受けているのは明らかですので、東映のサービス/エンタメ精神というのはその後の日本マンガ文化に受け継がれたといえるのかもしれません。

 「政治的な映画」と見なす評もある森崎映画評と違ってググってもこういうのしか見つからないんだよな。ま、筆者がなぜ「3−c)」に当たると見るのかを俺なりに筆者の文を元に説明してみる。郡司は力で地元やくざ与那原らをねじふせるが、命を奪うことまではせず「ある種の連帯感」が発生する。ヤンキー漫画で良くある「スデゴロで殴り合った後はお友達」的な描写なのだろう。
 こうして本土人でありながら、沖縄に骨を埋めようと決意する郡司。しかし、そこに大東会が表れ、抗争が発生、郡司は所詮自分が与那原ら沖縄人とは違う「よそ者であること」を自覚する。その当たりが「3−c)」と見なす理由らしい。


【『沖縄ヤクザ戦争』、『沖縄10年戦争』について参考】
 森崎映画と違い、深作映画同様、普通のヤクザ映画の気がするのだが。いやそうでもないのか?。『沖縄ヤクザ戦争』のDVDタイトルがすごすぎる。
 「本土の残飯は食らうな!。たとえ沖縄が再び戦火にまみれても!」。いや戦火にまみれたらあかんだろうとは思うが「本土の残飯は食らうな!」って「たとえ補助金がどんなに投入されてもオスプレイは受け入れん」と後ろについてもおかしくないようなセリフではある。


いくらおにぎりブログ「【映画】沖縄やくざ戦争
http://blog.goo.ne.jp/langberg/e/a690c4a2b066b01e88c6aee39f4322ba
『沖縄やくざ戦争』(1976)を見た。 - リンゴ爆弾でさようなら
沖縄を舞台にしたヤクザ映画はだいたい傑作という説を唱え隊。 - シネマトブログ
戦争、だ~いすき 中島貞夫監督『沖縄やくざ戦争』(1976年) - シネマトブログ
アシバー(沖縄やくざ)、喰らいあう 松方弘樹・千葉真一『沖縄10年戦争』(1978年) - シネマトブログ
柿沢謙二ブログ: 映画「沖縄やくざ戦争」
 「仁義なき戦い 広島死闘篇」の大友勝利(千葉真一)の狂犬ぶり再びといった感じ。千葉先生演じるヤクザ幹部「国頭正剛」の本土人嫌いぶりがよくわからないがどういう設定なのだろうか。太平洋戦争中に本土人に酷い目に遭わされたとか?(まあ言うまでもなく集団自決強要とか実際にあるわけだが)
 ついには沖縄に来た本土ヤクザの幹部をリンチ殺害する始末だ。

http://blog.goo.ne.jp/langberg/e/a690c4a2b066b01e88c6aee39f4322ba
 これに慌てたのは、琉盛会の理事長*6はじめマトモな幹部のみなさん。なにしろ、(注:千葉先生がぶっ殺した)曽根晴美は、本土でも最大規模を誇る関西旭会の幹部だったというのですから。「下手したら、旭会と戦争だよ」とガクガクブルブルしている成田三樹夫に、しかし千葉ちゃんは言うのです。
 「戦争やろうじゃねえか。戦争、だーい好き*7」。
 「気は確かかね。向こうは組員2万人の大組織だ」と抵抗してみる成田三樹夫ですが、そもそも、この言葉は間違えています。なにしろ、千葉ちゃんの気は「確か」じゃありませんから。「ヤマトの奴らどもは、一歩たりとも、この沖縄の土を踏まさん」と息巻く千葉ちゃんに、琉盛会のみなさんは困った表情です。
 「わしゃ知らん。わしゃ知らんぞお」と織本順吉が日和ったので、しかたなく成田三樹夫松方弘樹が、はるばる大阪までワビに行くことに。「中里英雄であります。なにぶん田舎者のことで、謝罪の法をわきまえておりませんが、本土の流儀ではかような場合、指を切断すると聞いております。たとえ、十本残らず切られたとしても文句はありません」と、折り目正しく挨拶をする松方弘樹に、心動かされたのでしょうか。旭会の大幹部、海津(梅宮辰夫)は、快く許してくれたのでした。もちろん、千葉ちゃんの首を取るという条件ですが。
 沖縄に戻った松方弘樹は、「この恥知らず」と千葉ちゃんから、キツーいパンチを喰らっちゃいました。「兄弟、貴様までがヤマトの犬に成り下がるとは思わなかったぞ」と、寂しそうな笑みを浮かべる千葉ちゃん。しかし「生きるためさ」と松方弘樹は言います。「生きるためなら、犬にでも豚にでもなるさ」。

 それとこの映画の地井武男先生のゲスぶり半端ないな。内ゲバ殺人やらかしたあげく「誰がやったんだろう?」とすっとぼけですよ(あとで松方にぶっ殺される)。
 よく考えれば「北の国から」以降、田中邦衛先生とともに「いい人演技」が増え、ついには「ちい散歩」でそれがピークに達したように思う地井先生(まあ、実際にいい人なのだろうが)だが田中氏同様、元々は結構悪役もやっていたように思う。
 ま、この映画は、次のような流れらしい。
1)海津(梅宮辰夫)をなだめるために、暴走した千葉ちゃんの暗殺を沖縄ヤクザ幹部連(織本順吉成田三樹夫)に強要される千葉ちゃんの子分・松方弘樹。松方は「これは海津の要求による琉盛会による粛清」として処理し、松方らの責任は問わないことを当然要求する。「子分の親分殺し」で処分されたのではたまったものではない。「安心しろ」という幹部連。
2)しかし暗殺後、前言を反故にして、この機会に邪魔な松方らを粛清しようとする幹部連。そのバックには海津がいた。マジギレした松方が今度は千葉ちゃん並の大暴走。織本や成田を暗殺し、いずれは海津も襲撃するであろうことを暗示して映画は終わるらしい。うわ、すげえ見たい。千葉ちゃんの狂気と、地井先生のゲスぶりが興味あるなあ。そしてここまでいっちゃってる設定の人間は千葉先生の演技でないとたぶん説得力がないな。

沖縄やくざ戦争 - Wikipedia
 第4次沖縄抗争をモデルに映画化されたが、封切り公開時は未だに抗争が続いていた。さらに千葉真一が扮した国頭正剛は、実在する旭琉会理事長・新城喜文であることをはじめ、そのほかの登場人物も誰をモデルにしたか明確に判ることから、沖縄県では興行されなかった作品。

映画と実際の事件はだいぶ違うようだが一応紹介。

第4次沖縄抗争 - Wikipedia
 1973年(昭和48年)から1981年(昭和56年)7月までに起こった、沖縄県の旭琉会と、上原組の抗争事件(三代目山口組*8は上原組を支援)。旭琉会理事であった上原組・上原勇吉組長を旭琉会が謹慎処分としたことから勃発した。
経緯
 1969年(昭和44年)12月、沖縄の暴力団を二分していた『山原派』と『沖縄派』が合併、旭琉会の前身にあたる『沖縄連合琉球会』が結成された。
 本土復帰後の1973年(昭和48年)に山口組は東亜友愛事業組合との交渉の末、東亜友愛事業組合沖縄支部(宣保俊夫支部長)を山口組直系として沖縄への進出を果たす。そんなさなか、旭琉会理事・上原勇吉が謹慎処分を受け、これが一連の抗争の伏線となる。
 1974年(昭和49年)9月、旭琉会幹部は、那覇市のバーで上原勇吉の実弟・秀吉に会ったものの、旭琉会幹部に対して秀吉が挨拶をしなかったことから喧嘩が発生。翌日に旭琉会側が上原組組員7人を拉致し、激しい暴行を加えた。これに対し同年10月24日、上原組組員が、宜野湾市のクラブで旭琉会理事長・新城喜文を射殺。同年12月9日には旭琉会組員が、上原組幹部・山城長栄を刺殺した。
 1975年(昭和50年)2月、旭琉会組員7名が、上原組組員の仲宗根隆・嘉陽宗和・前川朝春を拉致し殺害した。このリンチに対する報復として、上原組側は同年12月9日、旭琉会理事長・又吉世喜を射殺した。
 ここに至り山口組は、沖縄進出に本腰を入れ始める。翌1976年(昭和51年)に、山口組若頭補佐、大平組組長・大平一雄は、東亜友愛事業組合沖縄支部の仲本正弘・正秀兄弟を大平組舎弟頭・古川真澄の養子とし、古川は沖縄県で「琉真会」を発足。更に同年12月には、上原勇吉の実弟・秀吉が大平の舎弟となり、上原組を琉真会=山口組が支援。本土の暴力団も巻き込む事態に沖縄県警は、1977年3月に「旭琉会対上原組・琉真会対立抗争事件取締本部」を設置。1977年(昭和52年)9月には当時の警察庁長官・浅沼清太郎が山口組壊滅作戦を指示、警察の全国的な暴力団殲滅体制に抗争どころではなくなってきたこともあってか、1981年(昭和56年)7月に山口組二代目吉川組・野上哲男組長、二代目旭琉会・多和田真山会長、澄田組二代目藤井組・橋本実組長の三者が五分の兄弟分となり、旭琉会と山口組の抗争は一応の終結を見た。

 次に「沖縄十年戦争」。沖縄のヤクザ抗争に本土組織が介入して泥沼になるという基本的展開は『沖縄ヤクザ戦争』と同じらしい。主役も千葉、松方コンビという所も前作と同じ。ただし「千葉ちゃんが妻子持ちになりあまり暴れない」などといった違いもあるらしい。

「癒しの島」から「冷やしの島」へ『沖縄10年戦争』
http://earthcooler.ti-da.net/e2528739.html
西沢千晶による映画鑑賞の日記プラスα。『ヤクザ映画「沖縄10年戦争」』
http://blog.livedoor.jp/chiakix/archives/51228736.html

 藤田まことさんが、自分の組織の汚いやり方に反発を覚え沖縄のヤクザに理解を示す本土のヤクザを演じている。

 ただし歴史評論の千葉論文によれば藤田は「実は沖縄出身」と言う設定だそうで「本土ヤクザは汚い」という設定は結局は変わらないらしい。

 「沖縄10年戦争」は、製作当時、沖縄から猛反発され、沖縄でロケをすることができず、一切、沖縄では撮影されていないそうだ。そればかりか、公開当時、沖縄では上映もボイコットされて沖縄県内では上映されなかったそうだが、「沖縄10年戦争」は、本土のヤクザに食い物にされる姿を描いていて沖縄を悪く描いているわけではないのだが

 まあどう描こうとヤクザ映画はヤクザ映画だからなあ。


◆歴史のひろば『放送史関係資料のアーカイブ化をめぐる現状と課題』(米倉律)
(内容要約)
NHKが開始した「NHKアーカイブス」以外には日本において「放送関係資料のアーカイブ化」は進んでいない。そうしたアーカイブ化を業界上げて積極的に進める必要があるという話。
 「放送関係資料」としては「放送番組(テレビ、ラジオ)」「放送はされなかったが番組作成の元となった録音、録画テープ」「取材メモ」「番組台本」「番組広報用ポスター、チラシ」等が上げられる。

*1:もちろん国定忠治

*2:著書『「帝国」の映画監督 坂根田鶴子―「開拓の花嫁」・一九四三年・満映』(2011年、吉川弘文館

*3:ヤクザ映画はともかく「野良犬」はアクション映画なのか?

*4:著書『アマテラスと天皇:〈政治シンボル〉の近代史』(2011年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*5:花沢徳衛 - Wikipediaによれば党員歴50年を超える日本共産党

*6:織本順吉

*7:アマゾンレビュー曰くこの後にも『俺たちゃ何十万ものアメリカ軍相手に本物の戦争やったじゃねえか。海洋博だとか何だとか、どいつもこいつも腑抜けになりやがって』というさらにすさまじいセリフが続くらしい

*8:映画の関西旭会のモデル