今日のMSN産経ニュース(7/6分)(追記・訂正あり)

空海のタントラ「仏教」とチベット(22)ほか
 エントリタイトルと完全に内容が逸脱していますが。コメ欄で「近畿の野次馬さん」に面白いブログを紹介してもらったのでここに引用してみましょう。
 「自他共に認める性格の歪んでる人間」ですので、挑発行為としてid:MukkeさんにもIDコールを送っておきます。 なお某女史の名前は「自己防衛のため」全て「I濱Y子」と伏せ字にしておきます。まあ、「そんなに安岡ブログをキチンとは読んでいませんがざっと読んだ限りでも」安岡氏はかなり中国びいきの気がします*1がそれでも以下で俺が紹介する安岡氏のダライ批判、I濱批判は正当な物じゃないかと思います*2。まあ、Mukke氏は俺への態度同様、安岡氏にも「ダライ猊下やI濱女史への誹謗」という理解しかしないでしょうが。

http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38533207.html?guid=ON
空海のタントラ「仏教」とチベット(22)
I濱Y子氏(早稲田大学教授)は次のように述べる。

「クビライ・カアンとパクパ(元の国師チベット支配者)」の関係は「施主・応供僧関係」だった。「この・・施主・応供僧関係は・・のちに十六世紀後半のアルタン・ハーンとダライラマ三世、清朝の歴代皇帝と(歴代の)ダライラマ・・との出会いにおいて手本とされることになる」(参考文献1;p.253)。

 つまり簡単にいえば、チベット密教指導者と蒙古王や清朝の関係は、”お寺と檀家の関係”で、一方は領土を布施し、一方は教えを垂れる関係だったと言う。つまりチベットは一貫して独立国だったと言っているのである。

「(蒙古人からダライ・ラマが領土を布施して貰っていた時代)ダライラマがモンゴルにたいして優越的立場にあったことは、書簡の形式からも証明することができる」(同p.260)。
「(清朝からダライ・ラマが領土を布施して貰っていた時代)つまり、ダライラマは清皇帝を対等な者として扱い・・」(同p.261)。
「つまり、一七八〇年における乾隆帝とパンチェンラマとの会見は、全てチベット仏教世界のコンテクスト(つまり”お寺と檀家の関係”)のなかでおこなわれており、両者のあいだに(一方が他方に一定の領土を与えていたにも関わらず)儒教的原理に基づいた冊封儀礼などは存在しなかったのである」(同p.274)。

 このように、実質的な支配・従属関係が存在しなく、単に”お寺と檀家の関係”だったとのI濱氏の主張は、全て「書簡の形式」や「儀礼」がどのようなものであったか、つまり形式がどうだったかから考察されている。昔の人は意外に真面目で、「形式」がある状態の時、「実質」上も実際にそうであることが多い。無意識的に両者が乖離することはあるが、意識的に本音と建前を使い分けることは苦手だった。
 だから、満州族ツングース族の一派)が全中国を支配し「清」朝を名乗った時、彼らが儒教原理に基づき、本気で儒教国家を築こうとしたこと、中国文明に対する真の尊敬の念があったことは信じられるのだ。実際彼らは支配者になっても歴代王朝と比較しても質素な生活を続け、税金を年々下げ、遂にはモンテスキューが「法の精神」の中で中国を礼賛するなど、理想政治の原型として当時の西欧で中国ブームを巻き起こした。
 一方、満州族チベット密教に対しても真の信仰心を有していた。つまり彼らは、漢族を支配する手段として一方で儒教を信仰する振りをし、チベット族を支配する手段として一方でチベット密教を信仰する振りをしたのではなく、どちらも本気だった。少なくとも初めはそうだった。彼らは非常に真面目な連中だったのである。
 ところが、こうした真面目な彼らの考え方を激変させる事件が発生した。チベット密教の真の姿を知ってしまったのだ。それが石濱氏も述べている次の事件である。

ダライラマ五世と同時代に清朝に君臨していた康熙帝は、ダライラマ(注:五世、以下全て同じ)がモンゴルにたいして保持していた権威を尊重し、モンゴル問題についてはダライラマと協力して解決する姿勢をとっていた。一方、ダライラマも清皇帝を文殊菩薩の化身、仏教の興隆者と称え礼をつくしていた。しかし、(注:清朝に対する反乱である)三藩の乱が鎮圧された一六七八年、ダライラマ政権が(注:三藩の乱の首謀者の一人)呉三桂と(注:清朝に隠れて)通交していた書簡が明るみにでたことにより、ダライラマ政権と清朝の関係は急速に冷え込んでいった」(同p.265-266)。

 (注:しかし、)この事件は、石濱氏が述べているような生易しい事件ではなかったのである。他の(注:チベット)研究者はどう述べているか。山口瑞鳳氏(東京大学名誉教授。1984年「吐蕃王国成立史研究」で日本学士院賞、1988年「チベット」で毎日出版文化賞、1996年勲3等瑞宝章を受賞)は述べる。

「清は、一六七〇年代半ばまでモンゴリアの問題には積極的にダライ=ラマの権威を活用して解決する方向をとっていた。しかし、呉三桂の乱にさいし、ダライ=ラマは当初清に協力を約束し、青海のダライ=フンタイジを中心とするモンゴル人にもその旨を示したが、呉三桂側の使者を迎えて回を重ね、そのうちに清朝側が不利という報に接すると、最初の約束を果たししぶり、ついには呉三桂のため助命を嘆願するにさえいたった。これに加えて、呉三桂がダライ=ラマの配下に援軍をもとめた書を清朝側が差し押さえたことからダライ=ラマに対するぬき難い不信感を植えつけられて、八〇年代以降、明確にダライ=ラマの権威を無視する態度を表明しはじめた。これを感じとったダライ=ラマ五世は清朝を怖れ、一六八二年に後事を摂政サンギェー=ギャンツォに托して没した」(参考文献2;p.591-592)。

 読者の方々はこのシリーズの14回目で述べたチベットの不思議な「薬」の話を覚えておられるだろうか?
(「空海のタントラ「仏教」とチベット(14)」)

http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38533073.html
「薬といえば、チベットには奇妙な薬がある。・・それは法王(ダライ・ラマ)とか第二の法王とかの大便を乾かして、いろいろな薬の粉を混ぜ、それを法王あるいは高等ラーマの小便でこねて丸薬にこしらえ、その上を金箔で包むとか赤く塗るとかして、これにツア・チェン・ノルプー(宝玉)という奇態な名をつけ、薬に用いております。・・宝玉がこういう材料でできているなどということは、一般人民はほとんど知らず、法王が秘密の法でこしらえたごくありがたいものであると思っているのです」(参考文献3;p.247)。

 つまり、ダライ・ラマとはそれと同じである。表面は非常に有り難いものに見える。然し、その中は腐っている。表面は大乗仏教の「顕教」で飾られている。然し、その中心にはタントラ・ヴァジラヤーナと言う麻原彰晃並みの殺人と腐敗したSEXと欺瞞の「密教」がある。ダライ・ラマの「約束」など全く意味のないものだった。驚くべき最悪の裏切り者だったと知った。この時から清朝チベットの関係は変わってきた。”お寺と檀家の関係”ではなくなったのだ。これ以降、満州族は漢族の儒教を益々高く評価するようになり、遂に3百年間中国を支配した後には完全に中国人として同化したと言われている。
 山口瑞鳳氏は更に述べる。

「ダライ=ラマ政権が成立すると、清朝は、(一六)四九年以降、ダライ=ラマに北京訪問を呼びかけた。これにこたえて(一六)五二年の暮れダライ=ラマ五世は北京を訪れ、黄寺で盛大に迎えられ、翌年ラサにもどった。この訪問で彼は清朝から称号を贈られた。この一事は清朝からいえば、その封冊をうけ、帰順したことになるが、チベットでは清帝を大施主としたにとどまるという解釈をとった。・・後年、清朝の干渉がはじまると、干渉を避ける名目をそこに求めたが、認められるわけはなかった」(参考文献2;p.590)。
「(チベット内の内輪もめでダライ・ラマ側がガルダンを支持したのに対し、清朝の)康熙帝は提案を拒否するとともに、かえって(チベット遠征の)大軍を発してガルダンにさしむけ、ウラン=プトゥンの戦いでガルダンを破った。こうして、(ダライ・ラマ側に攻撃されていた)ハルハの衆を旧領にかえし、(一六)九一年にドロン=ノール湖に彼らを集めて、内モンゴル四九旗と同様に叩頭の臣礼をとらせ、以来、清が従来許してきた彼らに対するダライ=ラマの権威を拒否する旨を宣言した」(同p.592)。

 今回記事では、中国宗主権に関し現在歴史学会で2つの説が存在していることをご紹介した。読者の方々は両方の説を読まれた後で、この内どちらが良識にかなっているか・どちらが合理的であるかをご判断されれば良い(注:もちろん安岡氏はI濱説に否定的なワケだ)。

参考文献:
1.「中央ユーラシア史」(小松久男編/2005/山川)
2.「中央アジア史」(江上波夫編/1987/山川)
3.「ノンフィクション全集4」(河口慧海著・河口正編-等/1973/筑摩書房

http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38533233.html
空海のタントラ「仏教」とチベット(23)
(前略)
 英国は第1次大戦前、中東で一方でユダヤ人に建国を認めてあげますといい、一方でアラブ人にも独立を約束していたが、(注:同様の手法で)甘い言葉でチベット人をたらし込み、遂に(注:I濱女史が高く評価するシムラ条約で)チベットを自分の半従属国とすることに成功したのだ(注:ということで安岡氏はI濱と違いシムラ条約を評価していない)。
 然し、日本が朝鮮を清から「独立」させるといって自分の植民地にし、満州中華民国から「独立」させるといって自分の植民地にしたのと同じことを英国はやったわけだが、日本は第2次大戦で負けたため悪者にされ*3、英国は戦勝国だったために同じことをやっても責任は未だに曖昧にされている。
 しかも英国は、日本より頭が良く、阿片戦争で中国に勝ったとは言え、未だ中国に底力が有ることを知っていた。だから「シムラ会議」では”チベットを中国から取り上げて名目上「独立」させ、実は英国が支配する”と主張することがいえず、”「独立」ではなく・「自治」を与えて英国が支配する”とまでしか言えなかったのだ。

http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38533246.html
空海のタントラ「仏教」とチベット(24)
I濱Y子氏は、
チベットを支配されても一貫して非暴力の姿勢をとりつづけるダライラマ十四世」
と述べるが、実は米紙ニューヨーク・タイムズ1998年10月2日号は、ダライ・ラマ14世が(注:中米国交正常化で資金援助が打ち切られるまで)CIAから莫大な金を貰ってテロ*4をやっていた人物であることを報じた。
(中略)
 ダライ・ラマ14世がテロリストであること*5ニューヨーク・タイムズ紙により1998年に明らかになった。にも関わらずI濱氏は、2000年初版発行、2005年初版第2刷の参考文献1.で、相変わらず「一貫して非暴力の姿勢をとりつづけるダライラマ十四世」と美化している訳だ。これでは「学者」を名乗るのを返上された方がましではないのか?
参考文献:
1.「中央ユーラシア史」(小松久男編/2005/山川)
(後略)


ダライ・ラマ79歳に 精力的に外遊続ける
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140706/chn14070619020003-n1.htm
 まあ、長生きしても後20年ですかね。それまでに何がどうなるか。そしてポストダライの情勢がどうなるか。正直「ダライが死ぬまでダライ一味は中国と対立状態→ダライ死去後、広告塔がいなくなりダライ一味は急速に衰退、崩壊」というパターンしか俺には予想できない。
 また、中国も「政権主流派がそういう立場」かどうかはともかく、「ダライが死ねばあいつら終わるだろ、交渉する必要なんかねえよ」「ダライがいなくなると抑えが効かなくなってテロが起こるとか言う奴がいるけど人民解放軍武装警察でぼこぼこに潰せばいいだけじゃん」という強硬派が無視できない力を持って存在すること、主流派が「そうした強硬派を何とか抑え込んでまでダライと交渉する気があるかといったらたぶんないこと」は事実なんだろうなと思う。
 まあ、だからこそ「日本ウヨとつるむ」などというペマ・ギャルボのような愚行は駄目なわけだが、そうは思っていないらしいチベットキチガイの誰かさん(名前を出すことを自粛)には本当に呆れる。
 まあ、俺は何度も言うように「チベットがどうなろうと知った事じゃない」んだけどね。


■馬*6総統が慰安婦問題で米ホンダ議員に「協力」約束 台湾、関連機関に連携指示
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140706/chn14070612320001-n1.htm
 慰安婦問題というと産経は「韓国の問題」にしたがりますが、台湾にも慰安婦はいたのでこういう馬総統の態度は何ら不思議ではありません。今後、産経が非難する「反日国家」に台湾も仲間入りするのか気になるところです。


■チラシ配り、情報求める ゆかりちゃん不明18年に
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140706/crm14070616210004-n1.htm
 金賭けてもいいですけど、これ「ゆかりちゃん(失踪時4歳)」のご両親が「巣くう会」に駆け込んだらほぼ100パー特定失踪者認定でしょうね。何せ荒木和博らには「幼稚園児・松岡伸矢君(平成元年失踪、失踪時4歳)」を特定失踪者認定した前科がありますから。
 「失踪したのが平成8年」「失踪場所が海なし県・群馬」「失踪場所が太田市のパチンコ店」「店内防犯カメラにサングラスとマスクをした怪しい男*7が写ってる」なんてことは荒木には全く関係ありません。
 「その怪しい男こそ北朝鮮工作員」とか荒木だと言い出しかねない。
 まあ、ゆかりちゃんのご両親は荒木一味に駆け込むほど気が狂ってはなかったわけですが。
 ただ残念ながらこれ今となってはねえ。18年も経ってますからね。
 記事に寄れば

県警の小倉正美刑事部長はチラシ配布を前に「ゆかりちゃんの発見、保護、そして事件解決のため皆さんの力を借りたい」とあいさつした。

そうですがぶっちゃけた話、警察サイドもかなりあきらめてるでしょう。ご両親の前でそんな事言えませんけどね。


■【書評】『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』*8田中秀雄著
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140706/bks14070613000008-n1.htm
 日本から「蒋介石政権打倒による中国全面植民地化計画」を積極的に実行しながら「引きずり込まれた」とはいい神経しています。
 結果的には「日本は負けました」けど、勝てると思って自分から中国戦線に突撃していったのであって、「引きずり込まれた」わけではない。
 こんな事言うのが許されるのなら「ベトナム戦争(あるいはイラク戦争)にアメリカは引きずり込まれた」「アフガン戦争に旧ソ連は引きずり込まれた」とも言えてしまう。「謀略ではめられた*9わけでなく」自分から戦争を仕掛けていったのに「戦争が思い通りに行かずかえって酷い目にあったから」と言って「引きずり込まれた」はないでしょう。
 トラウトマン和平工作とかハルノートとか「和平への道」はいくつかあったのに「全部斬って捨てた」のが日本なんですが。
 公営ギャンブルで身を持ち崩した人間が「ギャンブルに引きずり込まれた」というくらいみっともない。「ヤクザのいかさまばくちで型にはめられた」のならともかく公営ギャンブル(競馬、競輪、競艇など)で身を持ち崩したのを「ギャンブルに引きずり込まれた」とは言わないでしょう(公営ギャンブルの是非とはまた別問題です)。

弱しと見ればつけ上がり威(い)たけだかになるところの心理は、恐らく支那人を知る限りの日本人は承知している筈(はず)である。

 上海派遣軍参謀、満州国軍政部顧問などを歴任した軍人・佐々木到一の書き残した文章だそうです。
 戦前の日本軍人が「弱みを見せればつけあがるのが中国人だ、中国人ごときに舐められてたまるか。力で押せばあいつらは屈服するんだ」なんて主旨の事を言ってるような無様さだから、中国戦線から撤退できず悲惨な敗北を喫したんだろうなあと思います。この文章を引用した産経はどうもそう思ってない上に、「今だって中国人は同じだ、習近平*10指導部ごときに舐められてたまるか」と思ってるらしいから呆れます。

*1:某エントリ(http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38533287.html)でははっきりと「解放前のダライの農奴支配はナチス並みの暴虐と言ってもいいのではないか」と言う主旨の事を書いてますので

*2:上でも書きましたが「ざっとしか読んでませんので」あくまでも「紹介した安岡エントリのみ」賛同しているのであって、「チベットに関係ない、全ての安岡エントリの内容に賛同しているわけではない」のはもちろん「紹介していないチベットエントリ」についても賛同してるわけではないことを断っておきます。

*3:まあ実際悪者ですけど

*4:つうか反中国ゲリラ戦

*5:つうか反中国ゲリラ戦の黒幕であること

*6:連戦内閣法相、台北市長を経て台湾総統

*7:もちろん警察は重要容疑者としている

*8:2014年、草思社刊行

*9:酷いのになると「盧溝橋事件中国陰謀論」まで唱え出しますがそんなのは論外です

*10:福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、国家副主席、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを経て国家主席、党総書記、国家中央軍事委員会主席、党中央軍事委員会主席