高世仁に突っ込む(2020年9/19日分)

朝鮮人を殺した自警団は「被害者」なのか? - 高世仁の「諸悪莫作」日記

 きょうは某新聞社に用事があって都心に出た。

 何で「某」なんてぼかすんですかね?

 日経新聞世論調査で菅*1内閣の支持率が74%!と出た。
 (ボーガス注:日経の調査では)政権発足時の歴代内閣支持率の1位が2001年小泉*2内閣の80%、2位が09年鳩山*3内閣の75%で菅内閣はこれに続く3位だった。
 うーむ・・・「少数派」の私としては、ちょっと驚いてしまいました。
 6月下旬の世論調査で、安倍*4内閣支持率33.7%*5と出たとき、河井前法相夫婦の逮捕は「総理に責任」があると72%が答えていて、世の人々はちゃんと見ているなと思ったのだが。安倍政権の「悪事」を大番頭として支えてきた菅氏の「安倍なき安倍内閣」が、これほどの支持をうけるとは。
 こういう結果を見ると、政府と人民は区別しなければいけないと思う一方、悪政の責任の一端は人民にもあると考えざるを得ない。

 70%を越えた日経が一番高いようですがそれでも同業他社も「60%台」のようですからねえ。別記事にも書きましたが「マスコミがろくに菅批判報道しない(逆に秋田出身の苦労人と持ち上げるテレビ局もある)」とはいえ、日本国民の馬鹿さにげんなりですね。
 これが「一時は自民党幹事長(第二次安倍総裁時代)だったが最近は安倍に干されていた石破」ならまだ理解できますが。
 「菅の60~70%マイナス安倍の直近30%(強固な自民支持層?)」=「増加した30~40%」の人間が何を考えてるのか、さっぱりわかりません。
 「石破*6(鈴木内閣自治相だった石破二朗の息子)や岸田*7岸田文武衆院議員の息子)は世襲議員だが菅は違う。庶民派」とでもいうのか。そんなことで「安倍政権官房長官」としての無法を支持することなど俺にはできませんし、ならば「世襲議員である小泉や安倍が長期政権なのは何だったのか?」「最近は世襲が多いとは言え、ほとんどの歴代首相は世襲では無いだろ?」と言う話です。
 なお、「政府と人民は区別しなければいけない」のは当然です。日本だって俺や高世などは菅批判派です。野党各党(立民、共産、社民など)も勿論菅批判派です。
 一方で「悪政の責任の一端は人民にもある」のは当たり前です。独裁国家ならともかく「死票が多い小選挙区」「高い供託金(そもそも左派議員の進出を妨害するために戦前に導入されたと言われる)」「現職議員に有利ないわゆる『べからず選挙(日本の選挙 “べからず”が多いのはなぜ?参照)』」など「反民主的制度」があるとはいえ、日本は「民主主義国家」です(かつそうした反民主的制度は「消極的容認」であるにせよ国民が容認している)。
 選挙で政権交代すれば政治は変えられるし、政権交代しなくても「与党の大幅議席減」「政権支持率の低迷」で政権を辞職に追い込むこともできる。
 実際、「自民党長期政権」において残念ながら政権交代の事例は少ないとは言え「片山社会党内閣(吉田*8内閣からの政権交代)」「細川*9非自民内閣(宮沢*10内閣からの政権交代)」「鳩山民主党内閣(麻生*11内閣からの政権交代)」がある。
 また政権交代ではないものの、過去において有名な例では

安保闘争による岸*12内閣辞職
◆金脈疑惑による田中*13内閣辞職
リクルート疑惑による竹下*14内閣辞職
◆女性スキャンダルによる宇野*15内閣辞職
◆佐川疑惑による細川内閣辞職
参院選敗北(不況期の消費税増税が理由とみられる)による橋本*16内閣辞職
参院選敗北(「消えた年金問題」や事務所費疑惑が理由とみられる)による第一次安倍内閣辞職
故人献金疑惑による鳩山内閣辞職

などがあるわけです。なんで今回が「少なくとも現時点では」そうならないのかさっぱり分かりません。まあ、そもそも「金脈疑惑」「リクルート疑惑」「佐川疑惑」「故人献金疑惑」で首相を辞職させた国民が「安倍のモリカケ桜を見る会疑惑」を容認する理由がさっぱり分かりませんが。
 「安倍内閣官房長官」菅の首相就任、高い支持率なんて例えるなら「田中内閣官房長官」で「ロッキード疑惑議員の一人でもある二階堂進」を「ポスト田中」にしたら高支持率というような異常な話でしょう(実際にはクリーンを売りにしていた田中内閣副総理・環境庁長官三木武夫*17が首相に就任)。
 しかも「赤羽国交相」「麻生副総理・財務相」「梶山経産相」「小泉環境相」「西村経済財政担当相」「萩生田文科相」「橋本五輪担当相」「茂木*18外相」(以上、大臣)、「甘利税制調査会長(安倍政権で経済財政担当相、自民党政調会長、選対委員長など歴任)」「二階*19幹事長」「森山国対委員長(安倍政権で農水相)」(以上、党要職)と大臣、党要職のかなりの部分が「留任」です。留任で無い面子も

【横滑り】
「加藤官房長官」(安倍政権厚労相から。第二次安倍内閣官房副長官、第三次安倍内閣一億総活躍等担当相、自民党総務会長を務めた安倍の側近)
「河野行革相」(安倍政権防衛相から。第三次安倍内閣国家公安院長、第四次安倍内閣外相を歴任)
「武田総務相」(安倍政権国家公安委員長から)
「下村政調会長」(選対委員長から。第一次安倍内閣官房副長官、第二次安倍内閣文科相を務めた安倍の側近)
【再任】
「上川法相」(第三次、第四次安倍内閣で法相)
「田村厚労相」(第二次安倍内閣厚労相

でほとんどが「安倍政権からの横滑りや再任」です。かつ「初入閣」の連中にそれほどの期待があるとも思えない。
 「安倍だけが悪いとでも言うのか?」ですよねえ。何というか「東京裁判荒木貞夫*20陸軍大臣板垣征四郎*21陸軍大臣梅津美治郎*22参謀総長木村兵太郎*23元陸軍次官、東条英機*24陸軍大臣、畑俊六*25陸軍大臣、南次郎*26陸軍大臣武藤章*27陸軍省軍務局長など陸軍ばかりが悪者にされた(大蔵省の賀屋興宣*28元蔵相、海軍の岡敬純*29海軍次官嶋田繁太郎*30海軍大臣永野修身*31軍令部総長(役職はいずれも太平洋戦争開戦時)、外務省の重光葵*32元外相、白鳥敏夫元駐イタリア大使、東郷茂徳*33元外相、広田弘毅*34元外相など非陸軍の被告もいるが陸軍の被告が最も多い)」「その経歴上、訴追されてもおかしくない米内光政(林、第一次近衛、平沼、小磯、鈴木内閣海軍大臣、首相を歴任)が訴追されなかった」ような変な話です。
 まあ、二階堂について言えば、その後、「闇将軍」田中のプッシュで自民党総務会長(鈴木、中曽根総裁時代)、幹事長(中曽根総裁時代)を務めるまでに復権しますが。

 多くの虐殺を、市民による自警団が行ったことをどうみるか。これには様々な見方がある。
 市民らはパニックのなか流言蜚語に騙された「被害者」だとする見方がある。民衆に罪はないというわけである。
 『昭和史(新版)』(遠山茂樹*35今井清一*36藤原彰*37 岩波新書1959)では―
 《政府は戒厳令をしいたが、このもとで、三千人にのぼる朝鮮人が一般市民の組織する自警団などの手で虐殺された。これは警察から出たと見られる「不逞鮮人」襲撃のデマにのせられて、不安におびえた市民が、理性を失って、排外主義的な感情にかられたからであった》

 引用された文章を読む限り、遠山らは「市民に罪は無い」とまで言ってないでしょう。
 流言飛語を広めたマスコミや「それを口実に市民取り締まりができて好都合」と流言飛語を取り締まらなかった(それどころか途中から自分で広めた疑いもある)政府にも問題があると言ってるだけでしょう。
 「話は脱線しますが」、中国の「日本人民も日本軍国主義者の被害者」という物言いと似たようなもんです。「お断りしておけば」勿論、あれは本心と言うよりも、日中友好のための中国側のポジショントーク的な面が明らかにあります(特に1972年の日中国交正常化前の『台湾と日本が国交があった頃』は。蒋介石の方も『以徳報怨』アピールしていたからです)。何せ中国政府は「戦争の元凶」昭和天皇の訪中を要請してたと言いますし*38
 いずれにせよ、「日本人民も日本軍国主義者(昭和天皇以下、政府指導部)の被害者」というのは決して「だから一般日本人は中国侵略、東南アジア侵略などについて何一つ悪くない」つう話では無い。
 政府や軍部によって統制された情報に踊らされたにせよ「日本人の多く」は日中戦争、太平洋戦争を支持しましたし、戦争で中国人、米国人など他国民を殺した。
 それは「日本人民も軍国主義者の被害者」ということで免罪できる話とは違う。中国もそこまで言ってない。「寛大な判決」とはいえ中国は戦犯処罰もしたわけです。
 「関東大震災での朝鮮人虐殺」について「流言飛語に踊らされた」と言うのも話は同じです。流言飛語に踊らされようと殺人など免罪出るわけもないし、実際、遠山らは免罪などしてないでしょう。
 確かに高世が紹介する

尾原宏之 - Wikipedia『大正大震災 忘却された断層』(2012年、白水社
藤野裕子 - Wikipedia『都市と暴動の民衆史』(2015年、有志舎)、『民衆暴力:一揆・暴動・虐殺の日本近代』(2020年、中公新書

に比べたら若干遠山らのほうが「民衆の暴力への批判」が弱いかもしれませんがそれは「ニュアンスの差」でしかない。遠山らはさすがに「民衆を免罪はしてない」。そこは「後述しますが」香港暴力デモを全面肯定する高世などと遠山は「全然違う」。
 後でも触れますが高世も

朝鮮人を殺した自警団は「被害者」なのか?

というなら、

香港警察を襲った暴力デモ隊は「被害者」なのか?

を真剣に考えるべきでしょう。俺は高世のように「警察が悪い、彼らはむしろ被害者だ」で片付ける気には全くなりませんので。
 なお、「高世の文を引用はしませんが」高世も指摘していますし、俺もそう思いますが、「戦前においてこうした政治的暴力の発動(関東大震災(1923年)での朝鮮人虐殺や甘粕事件、亀戸事件のような左派活動家虐殺)」は「時代背景や性格が違うので、朝鮮人虐殺などとは単純比較できない」とはいえ珍しい物ではありません。戦前ははっきり言って「暴力に対する日本国民のハードル」が今と比べかなり低かったのでは無いか。
 具体的に言えば

【明治時代】
佐賀の乱(1874年、元司法卿・参議の江藤新平が首謀者)、秋月の乱(1876年)、西南戦争(1877年、元陸軍大将・参議の西郷隆盛が首謀者)などの士族反乱
◆不平士族による大久保利通*39内務卿の暗殺(いわゆる紀尾井坂の変)(1878年
秩父事件1884年
ポーツマス条約(日露戦争講和条約)で賠償金が得られなかったことに反発した民衆による日比谷焼き討ち事件(1905年)
 第1次桂*40内閣が総辞職。
【大正時代】
◆鎮圧のために軍まで出動し寺内*41内閣が崩壊に至った米騒動(1918年) 
原敬*42首相暗殺(1921年
【昭和時代】
◆515事件(1932年)
 犬養*43首相を暗殺

などですね。そして「高世の文を引用はしませんが」、高世も言うように「反体制派の民衆蜂起」であり「朝鮮人虐殺とは性格が違う」とはいえ「秩父事件米騒動の暴力を民衆の抵抗運動としてただ美化していいのか」「民衆の暴力という意味では秩父事件米騒動と、朝鮮人虐殺にはつながりが否定できないのでは無いか」つう複雑な気持ちは俺にもあります。
 それにしても、「高世よ、その主張は、お前の過去の『香港暴力デモ美化』と矛盾しねえか。お前は民衆蜂起として、そして『中国が悪いから蜂起するしか無い』といって美化してたよな?。お前、言ってることがデタラメすぎねえか?」つう気はします。あの暴力デモははっきり言って常軌を逸していて「関東大震災での朝鮮人虐殺」のような「本土中国人へのテロ行為(それも殺害すらあり得る)」にすら発展しかねない危うい物だったと思いますね。
 そう言う意味では「誤解を恐れず」にいえば「香港国家安全維持法」について「中国政府ばかりを非難する」のは片手落ちの気がしますね。
 まあ、「反体制派のやること」だからといって暴力を安易に認めるべきでは無いだろうと俺は思います。
 まあ、何というか「反中国政府・中国共産党分子」高世って中国政府・中国共産党に対する認識が明らかに歪んでますよね。「秩父事件米騒動」については「朝鮮人虐殺につながる面もあったのでは無いか」と言う男が香港暴力デモは平然と容認ですから。高世の方は俺のような人間を「お前の方こそ中国政府・中国共産党びいきがすぎる」と思ってるかもしれませんが。

【参考:日本人民も日本軍国主義者の被害者】

藤田茂「中国人民の寛大政策について」
・1974年7月7日、日中戦争開始の原因となった盧溝橋事件37周年に中帰連が主催した「日本軍国主義を告発する」報告集会において為された藤田茂*44・初代会長の講演内容です。
◆軍事裁判
 もっとも印象に残る証言について述べます。
 それは私が連隊長の時代、山西省安邑県に上段村という村がありますが、その部落に共産軍がいるという情報が入りましたので、「直ちに補足せん滅すべし」という師団命令をうけて、私は部下を指揮してその部落に向いました。夜明け前、折りしも移動しつつある敵50名と遭遇、ただちに戦闘に入りました。白々と夜が明けるころ戦闘は終わりましたが、私はまだ部落の中に敵が潜んでいるかもしれないと思い、部落の掃討を命じました。
 この時の証言に立った張葡萄という62歳になる老婆は、このため一家が皆殺しにされ、ただ一人生き残ったのです。老婆は当時の情況を話しているうちに段々興奮してきて、怒りのために体が震えだし、顔は汗と涙と鼻水とよだれでクチャクチャで、それは物凄い形相でした。老婆の白髪まじりの頭髪は憎しみで逆立っていました。
 私は元来、人の喜び、怒り、悲しみ、苦しみの表情を何度も見たことがありますが、この老婆のような凄い形相を見るのは初めてであります。なんと言いますか、怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみ、恨み、これらの感情が一時に爆発したという表情であります。
 この老婆は髪を逆立てて、テーブルを乗り越え私に飛びかからんばかりの有り様なのです。証言という生やさしいものではありません。裁判長が幾度もなだめ、看守が、元の席へ引き戻してもすぐに私に飛びついてくるのです。また連れ戻す。また夢中で飛びかかってくる。
 私は本当にそこに立っていることができなくなりました。つらい、苦しい、まさに断腸の思いであります。心から呵責の念がわいてまいりました。もうどうでもいい、ひと思いにこの老婆に蹴るなり、噛みつくなり、打ち倒すなりして欲しいという気持ちで一杯でした。そこにからくも立ちすくんでいることで精一杯でした。
 私はこの老婆の怒りと憎しみでくしゃくしゃになった顔がまぶたに焼きついていて、生涯消えることはないでありましょう。
 6月19日、判決が言い渡されました。私に対する判決はまったく予想外でした。なんとただの18年の禁固刑だというのです。しかもこの18年は抑留の全期間を通算するというのです。日本敗戦後、ソ連での5年間、中国での今までの6年間を通算し、すでに11年が経過し、あと7年間の禁固刑というのです。7年たてば、この私を日本に帰すというのです。なんと夢のような話なのです。
◆中国の寛大な政策について
 判決があった翌月の終わりごろでした。班長さんが散髪に行くようにと連絡してまいりました。
 「ちょっと早いのになんだろう」といぶかしく思いながら理髪を終えて、案内された部屋に入って私は本当にビックリいたしました。そこに思いがけない私の妻がいるではありませんか。私もビックリ、しかし家内の方もビックリした表情でしばらく声も出ません。
 家内ははるばる面会のため日本から撫順へやってきたのですが、この部屋に通されしばらく待っているようにと言われて待っていたのです。
 普通、囚人との面会は、別の部屋で金網越しに十五分ぐらいの話ができるものと、想像しながら家内が待っているその部屋で、突然私が入っていくと、看守は「どうぞごゆっくり」と言い、サッサと外へ出て行ってしまったのですから、まったく勝手の違うのにビックリして口もきけないでいるのです。
 家内は、面会ができると聞いて日本を出発するときは、戦犯の家族として中国では罵られ、時には石を投げつけられるかもしれないとかなりの覚悟を決めて来たようですが、中国へ参りますと、それはそれは丁重なもてなしを受け、各所を案内され見物し、想像とはまったく逆の暖かい歓迎に面食らってしまったのです。まったく日本人の常識では考えられない状態の連続です。
 中国の人々の寛大で暖かい処遇にはただただ頭のさがる思いでした。
 先般、中国を訪問した知人が私に申しました。
 「中国の人々は、過去の戦争のことは忘れましょう、将来の平和と友好のため話し合いましょうと言いました。さすが中国人は大国の人民だ。あの日本軍の侵略による損害を水に流そうというのです」と。私はこの言葉を聞いて大変情けなく思いました。誰が親兄弟を殺され、先祖伝来の家を焼かれてこれらを忘れられましょうか。私は「過去のことは水に流そう」と言っておられる中国人民の奥深い心情を、正しく理解する必要があると痛感いたしました。
 先年、中国帰還者連絡会の代表団が訪中した際、平頂山を訪れました。前回1966年訪問したときにはありませんでしたが、その小高いところに立派な記念館が新しく建てられておりました。この記念館に一歩足を踏み入れると、館内におびただしい白骨があります。説明を聞きますとこの山の中腹を掘り起こし取り出したものです。子どもに覆いかぶさったままの姿の親子の白骨もあります。土がついたまま累々たる白骨の山です。
 この平頂山の事件というのは、抗日愛国軍がこの平頂山部落にいたという理由で日本軍が部落を包囲し、三千名の住民を広場に集合させ機関銃で全員射殺し、一人一人を銃剣でとどめをさし、さらにガソリンをかけて焼却し、山を爆破して死体を埋めたという恐るべき日本軍の蛮行であります。
 平頂山には石碑が立っています。その石碑には「血と涙と恨みを心に刻み、階級の苦しみを銘記せよ」と刻まれています。侵略戦争の苦しみを忘れるどころではありません。この記念館は戦争を知らない若い世代を教育する貴重な学習の場なのです。
 広州で、あるレセプションに出席いたしましたとき、その席上で広州市革命委員会の副首席の方の挨拶がありましたが、その一節で「私の故郷は河北省であります。そこでは軒並みに日本軍によって殺された人がたくさんいました。私は日中問題について長い間悩んでいました。毛沢東思想の学習と党と政府の辛抱強い指導によって、ようやく日本人民と日本軍国主義を区別することができるようになりました」と言っておられました。
 中国の東北から海南島に至るまで、かつて日本軍が侵略した地域には、中国人民の血の跡が残っているのです。このことを私たちは銘記しなければなりません。日本が中国を侵略したことは拭い去ることのできない歴史の事実であります。
 私は、侵略戦争の実態をよく見つめて侵略戦争を心の底から憎むとき、はじめて「過去のことを水に流して日中友好を願う」中国人民の心情を理解することができるのだと考えています。過去の侵略戦争を反省し、日本軍国主義の告発こそ、日中友好の基礎であると私は確信しております。
 訪中した際、周恩来総理は私に対して次のように述べられました。
「今度、日中両国の間に国交が回復したことはまことに喜ばしいことです。これは経済的基盤の異なる両国の総理が紙の上で約束したものであります。しかし、本当の友好はこれからでありましょう。中国人民と日本人民がお互いにもっともっと理解を深め、その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、初めて子々孫々に至るまで変わることのない友好関係が結ばれることでしょう。これにはまだ永い年月がかかることでしょう。日中友好のためお互いにいっそう努力しましょう」
 私はこの言葉こそ今日、中国人民の心情であると感じております。
 私は老骨に鞭打って、侵略戦争反対、軍国主義の告発、日中友好のために今後も邁進する覚悟です。

忘れられた「日中国交正常化の原点」 | nippon.com(2012年9月25日 記)小倉和夫*45
 国交正常化の原点には、日中戦争(1937年~1945年)をひきおこした「軍国主義者」は糾弾されねばならないが、日本国民と中国人民はともに戦争の被害者であり、そうした立場に立って日中友好関係の構築に努力せねばならない、という考え方があった。毛沢東周恩来が主張し、日本側も、100%ではないが、一応それを原則とし認める姿勢を示した。それは、一種の便宜的「区分論」であり、現実にそうした区分論をどこまで適用できるかは、微妙な問題であった。
 例えば、だれが軍国主義者なのかは、議論をはじめれば難しい問題だ。しかし、中国から見れば、(ボーガス注:最低限は)国際的に主要な戦犯とされた人々(例えばA級戦犯)は、日本人の国民感情はともかく、対外的にはきちんと「軍国主義者」として扱ってもらわねば困るということになる。だからこそ、こうした「区分」を曖昧にするかのような、日本の一部の政治家の言動には、中国として極めて敏感になる。

周恩来 - Wikipedia
・日本軍の捕虜に対して、「服役期間中に態度が良好だった戦犯に関しては、早期釈放をしても良い」「民族間の恨み、階級間の憎しみ、それを忘れてはいけない。しかし、それでも私たちは彼らを「改造」し良くしなくてはいけない。彼らを生まれ変わらせ、我々の友にしよう。日本戦犯を『鬼』から『人』に変えられるかどうか、これこそ中国文化の知恵と力量に対する試練なのである」と述べたという。
・戦犯管理所職員やその家族の多くが日本軍の被害を受けていたため戦犯を厚遇する事に反発がでたが周恩来は『復讐や制裁では憎し­みの連鎖は切れない。20年後に解る』と諭したという。
・「最初の日本人戦犯裁判」で「死刑7人、執行猶予付き死刑3人」が確定したが周恩来の指示で最終的に「死刑なし、無期懲役なし、懲役20年4人」に減刑された。あまりの寛大な処置に戦犯管理所職員から不満が出たが「今は分からないかも知れないが20年後、30年後に分かる」と周恩来は言ったという(ちなみに連合軍側が裁いたBC級戦犯の裁判では死刑判決が920人、終身刑判決が383人だった)。
 元戦犯たちが日本に帰国し中国帰還者連絡会を結成し、その代表団が日中国交正常化後に再び訪中した際面会した周恩来はこう言ったという。
「今度、日中両国の間に国交が回復したことはまことに喜ばしいことです。しかし、本当の友好はこれからでありましょう。中国人民と日本人民がお互いにもっともっと理解を深め、その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、初めて子々孫々に至るまで変わることのない友好関係が結ばれることでしょう。これにはまだ永い年月がかかることでしょう。日中友好のためお互いにいっそう努力しましょう」。
日中国交正常化では「わが国は賠償を求めない。日本の人民も、わが国の人民と同じく、日本の軍国主義者の犠牲者である。賠償を請求すれば、同じ被害者である日本人民に払わせることになる」と発言した。
・また、日本人戦犯だけでなく、対日協力者だった戦犯にも寛容であり、満州国皇帝愛新覚羅溥儀や蒙古聯合自治政府主席のデムチュクドンロブ(徳王)が周恩来から特赦と役職を与えられている。

周恩来総理と中日関係(上) 生誕110周年にあたって_人民中国
 2007年は中日国交正常化35周年の節目の年であり、2008年は私たちが敬愛する周恩来総理の生誕110周年にあたる。
◆日本人民と日本軍国主義を区別
 中国の対日政策の中で、2つのことがとりわけ重要な意味を持っている。一つは、日本人民と日本軍国主義を厳格に区別することである。つまり、侵略戦争を起こし、中国やアジア各国の人民に巨大な災難をもたらしたのは日本軍国主義であり、日本人民もまたその被害者である、ということである。  
 もう一つは、過去の2000年の歴史と50年の歴史との関係を適切に扱うことである。つまり中国人民は一方で1895年から1945年までの50年間に、日本軍国主義の侵略に遭った歴史をしっかりと覚えているとともに、もう一方で中日両国の人民の間の2000年にも及ぶ友好往来の歴史を忘れてはならないということである。  
 周総理はこうした政策を定めた人であり、それを徹底的に実行した手本でもある。1950年代初め、日本から来た友人たちと会見し始めたときから、周総理は中国のこの政策を繰り返し彼らに説明した。  
 1953年9月、初めて日本の友人と会見した。平和擁護日本委員会の大山郁夫会長である。このとき周総理はこう述べた。  
「日本軍国主義の対外侵略の罪行は、中国人民や極東の各国人民に巨大な損害をもたらしただけでなく、さらに日本の人民にも空前の災難を蒙らせました。日本の平和を愛する人々は、この歴史的教訓を心に刻み、日本が再び軍国主義化して、再び対外侵略をすることがないようにすべきであります。そうしてこそ日本が、過去と現在に蒙った災難よりもっと深刻な災難を再び蒙ることを免れることができると信じています。中国は日本と正常な関係を回復したいと願っています。しかし、日本政府*46は依然として、中華人民共和国と中国人民を敵視する政策を引き続き実施し、蒋介石集団とのいわゆる『外交関係』を引き続き保持しています。日本は太平洋における不安定要因となっており、それによって日本が新中国との講和条約を締結し、正常な外交関係の樹立するのを妨げています」  
◆日本人居留民の帰国支援
 1931年の「九・一八事変」(日本のいわゆる「満州事変」)で、日本が東北三省を占領してから、たくさんの日本人が中国大陸にやって来た。抗日戦争が終わった時点で、約130万人の日本人が中国に居留していた。多くの日本人居留民は1948年以前に帰国したが、新中国が成立した後にも約3万人が留まっていた。
 1952年末に中国政府は、中国に滞在している日本人居留民の状況を発表し、帰国を望む日本人居留民に中国政府は協力するとし、日本が団を派遣して中国紅十字会と協議してもよいと表明した。
 1953年1月、日本赤十字社日中友好協会、日本平和連絡会(以下「三団体」と略称)は、初めて日本政府の発行したパスポートを持って訪中し、日本人居留民の帰国問題を協議した。
 その結果、双方は次のような合意に達した。
 日本政府は帰還船を派遣して居留民を引き取る。中国側は日本人が居住地から乗船するまでのすべての費用を負担するとともに、日本人が物品を携行し、外貨の両替をするうえでの便宜を供与する。
◆戦犯を人道的に扱う
 日本の戦犯に対する処理では、いっそう新中国の広い度量を示した。中国紅十字会代表団は「三団体」の招きに応じて日本を訪問する際、周総理は、中国に拘置されているすべての日本の戦犯の名簿を日本側に渡すよう、とくに李徳全団長に指示した。
 その後、双方は協議を経て、1612人の日本の戦犯のうち、1017人が1956年6月から9月にかけて、数回に分かれて日本政府が派遣した帰還船で帰国した。残りの罪行の重い45人は、それぞれ8年から20年の有期懲役を言い渡されたが、死刑に処せられた者は一人もいなかった。
 これらの戦犯が帰国するときや、帰国後に再び中国を訪問したとき、毛主席と周総理は彼らと会見し、未来に目を向けて中日友好に力を尽してほしいと励ました。釈放されて帰国した日本の戦犯たちは、中国のヒューマニズムに感動しないものはなく、誰もが日中友好の活動に力を入れることを表明し、それによって贖罪の気持ちを表した。現在でも、彼らの子どもたちが、父親たちの遺志を受け継ぎ、日中友好のために努力している。

駐日大使館と日本民間団体が「七七事変」78周年を記念 2015/07/17
 中国人民抗日戦争・世界人民反ファシスト戦争勝利70周年を記念する重要な一環として、7月7日、駐日中国大使館と「日中友好8・15の会」、「関東日中平和友好会」、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」、「不戦兵士市民の会」、「再生の大地―撫順戦犯管理所」合唱団など日本の民間団体が一緒に集会を開き、「七七事変」78周年を盛大に記念した。
 程大使はあいさつで次のように述べた。
「この戦争は中国人民に一大災難をもたらし、日本人民も大きな被害を受けた。この不幸な歴史は中日関係に深い教訓を残した。中国政府と人民は一貫して日本軍国主義分子と一般の人民を区別し、中国の指導者は日本人民もあの戦争の被害者だと何度も強調している。戦後、中国は100万人の日本人が故郷に帰るのを手伝い、物資が極度に不足する状況の中、数千人の日本の戦争孤児を自分の子どもとして育てた。これで中国人民の広い度量と大きな愛が示された。」

*1:第一次安倍内閣総務相、第二~四次安倍内閣官房長官を経て首相

*2:宮沢内閣郵政相、橋本内閣厚生相を経て首相

*3:細川内閣官房副長官新党さきがけ代表幹事、民主党幹事長などを経て首相

*4:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官などを経て首相

*5:俺的にはまだ高いですが。

*6:小泉内閣防衛庁長官福田内閣防衛相、麻生内閣農水相自民党政調会長(谷垣総裁時代)、幹事長(第二次安倍総裁時代)など歴任

*7:第一次安倍、福田内閣沖縄・北方等担当相、第二次、第三次安倍内閣外相、自民党政調会長(第二次安倍総裁時代)を歴任

*8:戦前、天津総領事、奉天総領事、駐スウェーデン公使、外務次官、駐伊大使、駐英大使を歴任。戦後、東久邇宮、幣原内閣外相を経て首相

*9:熊本県知事、日本新党代表を経て首相

*10:池田内閣経済企画庁長官、佐藤内閣通産相、三木内閣外相、福田内閣経済企画庁長官、鈴木内閣官房長官、中曽根、竹下内閣蔵相を経て首相。首相退任後も小渕、森内閣で蔵相

*11:橋本内閣経済企画庁長官、森内閣経済財政担当相、小泉内閣総務相、外相、第一次安倍内閣外相、自民党幹事長(福田総裁時代)、首相を経て第二~四次安倍、菅内閣副総理・財務相

*12:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、日本民主党幹事長(鳩山総裁時代)、自民党幹事長、石橋内閣外相を経て首相

*13:岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、佐藤内閣通産相自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)などを経て首相

*14:佐藤、田中内閣官房長官、三木内閣建設相、大平、中曽根内閣蔵相、自民党幹事長(中曽根総裁時代)などを経て首相

*15:田中内閣防衛庁長官自民党国対委員長(三木総裁時代)、福田内閣科学技術庁長官、大平内閣行政管理庁長官、中曽根内閣通産相、竹下内閣外相などを経て首相

*16:大平内閣厚生相、中曽根内閣運輸相、海部内閣蔵相、自民党政調会長(河野総裁時代)、村山内閣通産相などを経て首相

*17:国民協同党書記長、委員長、片山内閣逓信相、改進党幹事長(重光総裁時代)、鳩山内閣運輸相、自民党幹事長(石橋総裁時代)、政調会長(岸総裁時代)、岸内閣科学技術庁長官(経済企画庁長官兼務)、池田内閣経済企画庁長官、自民党政調会長、幹事長(池田総裁時代)、佐藤内閣通産相、外相、田中内閣副総理・環境庁長官などを経て首相

*18:福田内閣金融等担当相、自民党政調会長(谷垣、第二次安倍総裁時代)、第二次安倍内閣経産相、第四次安倍内閣経済財政担当相などを経て第四次安倍、菅内閣外相

*19:小渕、森内閣運輸相、小泉、福田、麻生内閣経産相自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)を経て現在、幹事長

*20:犬養内閣陸軍大臣、第一次近衛、平沼内閣文相など歴任。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*21:関東軍高級参謀として満州事変を実行。関東軍参謀長、第一次近衛、平沼内閣陸軍大臣朝鮮軍司令官、第7方面軍(シンガポール)司令官など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*22:陸軍次官、関東軍司令官、参謀総長など歴任。戦後終身刑判決で服役中病死。後に靖国に合祀。

*23:関東軍参謀長、陸軍次官、ビルマ方面軍司令官など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*24:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相(一時は陸軍大臣参謀総長も兼務)など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*25:阿部、米内内閣陸軍大臣。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*26:参謀次長、朝鮮軍司令官、第2次若槻内閣陸軍大臣満州事変当時の陸軍大臣)、関東軍司令官など歴任。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*27:支那方面軍参謀副長、北支那方面軍参謀副長、陸軍省軍務局長兼調査部長、近衛師団長、第14方面軍(フィリピン)参謀長など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*28:第一次近衛、東条内閣蔵相。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放。公職追放も解除され、政界に復帰。池田内閣法相、自民党政調会長(池田総裁時代)など歴任

*29:海軍省軍務局長、海軍次官を歴任。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*30:東条内閣海軍大臣軍令部総長を歴任。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*31:広田内閣海軍大臣軍令部総長など歴任。裁判中に病死。後に靖国に合祀

*32:東条、小磯内閣で外相。戦後、禁固7年の判決。出所後、公職追放が解除され政界に復帰。改進党総裁、日本民主党副総裁(総裁は鳩山一郎)、鳩山内閣外相を歴任

*33:東条、鈴木内閣で外相。戦後禁固20年の判決で服役中に病死。後に靖国に合祀。

*34:斎藤、岡田、第一次近衛内閣外相、首相など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*35:1914~2011年。横浜市立大学名誉教授。専修大学名誉教授。著書『明治維新天皇』(1991年、岩波セミナーブックス)、『明治維新』(2000年、岩波現代文庫)、『戦後の歴史学と歴史意識』(2001年、岩波モダンクラシックス)など

*36:1924~2020年。横浜市立大学名誉教授。著書『横浜の関東大震災』(2007年、有隣堂)、『濱口雄幸伝』(2013年、朔北社)、『関東大震災と中国人虐殺事件』(2020年、朔北社)など

*37:1922~2003年。一橋大学名誉教授。著書『軍事史』(1961年、東洋経済新報社)、『日本帝国主義』(1968年、日本評論社)、『天皇制と軍隊』(1978年、青木書店)、『昭和の歴史(5):日中全面戦争』(1982年、小学館→1988年、小学館文庫→1994年、小学館ライブラリー)、『戦後史と日本軍国主義』(1982年、新日本出版社)、『太平洋戦争史論』(1982年、青木書店)、『南京大虐殺』(1985年、岩波ブックレット)、『日本軍事史』(1987年、日本評論社)、『大系日本の歴史(15)世界の中の日本』(1989年、小学館→1993年、小学館ライブラリー)、『昭和天皇15年戦争』(1991年、青木書店)、『南京の日本軍:南京大虐殺とその背景』(1997年、大月書店)、『中国戦線従軍記』(2002年、大月書店→2019年、岩波現代文庫)、『天皇の軍隊と日中戦争』(2006年、大月書店)など

*38:実際には宮沢政権時に明仁天皇が訪中。

*39:参議、大蔵卿、内務卿など歴任

*40:台湾総督、第3次伊藤、第1次大隈、第2次山県、第4次伊藤内閣陸軍大臣、首相、内大臣侍従長兼務)を歴任

*41:第1次西園寺、第2次桂内閣陸軍大臣朝鮮総督、首相を歴任

*42:第4次伊藤内閣逓信相、第1次、第2次西園寺、第1次山本内閣内務相などを経て首相

*43:第一次大隈内閣文相、第二次山本内閣文相(逓信相兼務)、加藤高明内閣逓信相等を経て首相

*44:1889~1980年。終戦当時は第59師団長(藤田茂 (陸軍軍人) - Wikipedia参照)

*45:青山学院大学特別招聘教授。日本財団パラリンピックサポートセンター理事長。駐ベトナム大使、駐韓国大使、駐フランス大使、国際交流基金理事長などを歴任。著書『パリの周恩来:中国革命家の西欧体験』(1992年、中公叢書)、『記録と考証・日中実務協定交渉』(2010年、岩波書店)、『日本人の朝鮮観:なぜ近くて遠い隣人なのか』(2016年、日本経済新聞出版社)など

*46:当時は吉田茂内閣