今日の産経ニュース(2025年8/18、19分)

<産経抄>日本で生まれたインド人少女の数奇な人生 - 産経ニュース

 本名はアシャ・バーラティ・チョードリー。インド人の両親のもとで神戸に生まれ、小学校を卒業後東京に移る。父親はインド国民軍(INA)を率いる独立運動の指導者、チャンドラ・ボースの側近だった。数奇な生涯は『インド独立の志士「朝子」*1』(笠井亮平*2著)にくわしい。今月15日の小紙に訃報が掲載された。享年97歳。

 そういう人間を紹介しても勿論構いませんが

 先の戦争のアジア解放という側面が、もっと重視されていい。

として「だから日本の太平洋戦争はアジア解放の聖戦だった」とデマ飛ばすのも大概にしろという話です。
 チャンドラ・ボース
1)当初は「敵(英国)の敵は味方」でナチスドイツと手を組もうとしたが、ナチスが冷淡な態度なので日本と手を組んだこと
2)日本の敗戦が濃厚になるや、ソ連に亡命*3しようとしたこと(但し飛行機事故で死亡し、目的を果たせぬまま死亡したこと:なお彼がソ連に亡命できたとして、当時のソ連が彼の要望に応えたか不明です)*4
を考えればボースとは「反英国」の立場からインド独立に協力してくれそうな国なら「何処の国(ナチドイツ、日本、ソ連)でもウエルカムな人間にすぎなかった」と見るべきでしょう(スバス・チャンドラ・ボース - Wikipedia参照)。但し実際に共闘したのは日本だけだったという話です。


<主張>日本とアフリカ 共栄目指し中露に対抗を 社説 - 産経ニュース
 「中露に対抗」というタイトルに呆れます。
 アフリカ支援はあくまでも「アフリカのために何が必要か」と言う話であって「中露との対抗」ではない。


<産経抄>藤田嗣治「アッツ島玉砕」と朝日新聞 - 産経ニュース

・大作「アッツ島玉砕*5
・この絵は、昭和18年9月に開かれた国民総力決戦美術展に出品され、拝む人が絶えなかったという。戦後、戦争協力者のレッテルを貼られた*6藤田は渡仏し、日本国籍を捨てた*7

 藤田はこの絵を軍の依頼で描いています*8し、「国民総力決戦美術展に出品され、拝む人が絶えなかった」という文からは藤田の作品が軍の要望通り「戦意高揚に貢献したこと」が窺えます。戦後、藤田が批判されるのはやむを得ないことであり、産経のように「被害者」であるかのように藤田を描くのは違うでしょう。
 それにしても産経が言うように藤田が仮に「批判に耐えかねて渡仏し、フランス国籍帰化した」のだとして、まあ随分と藤田に甘いことですね(左翼の迫害(?)によって事実上国外追放されたとして、藤田を使って左翼叩きできるからでしょうが)。
 産経の場合「いつもなら」海外移住した人間は「愛国心がない」といって叩いてるでしょうに(呆)。

 ちなみに決戦美術展は、朝日新聞社が後援していた。

 「アンチ朝日」の産経らしいですがそもそも朝日は「戦前の朝日は何一つ間違ってなかった」とは言ってない(むしろ戦前を反省してる)ので何の批判にもなっていません。

*1:2016年、白水社。書評として『インド独立の志士「朝子」』書評 二つの故郷、手放さず生きる|好書好日(2016.5.15)を紹介しておきます。

*2:岐阜女子大学特別客員准教授。著書『モディが変えるインド』(2017年、白水社)、『インパールの戦い:ほんとうに「愚戦」だったのか』(2021年、文春新書)、『インドの食卓:そこに「カレー」はない』(2023年、ハヤカワ新書)、『第三の大国・インドの思考』(2023年、文春新書)、『「RRR」で知るインド近現代史』(2024年、文春新書)、『実利論: 古代インド「最強の戦略書」』(2025年、文春新書)。読まないと何とも言えませんが、補給(兵站)を無視し、多数の餓死者を出したと言う意味では「インパールの戦い」は愚戦でしかありません。笠井『インパールの戦い:ほんとうに「愚戦」だったのか』(2021年、文春新書)がそうした「兵站無視による餓死」を軽視して「インパールの戦い」を美化しているのであれば「論外の愚論、暴論」です。

*3:勿論ボースが「同じアジアの政治活動家」である毛沢東中国共産党主席)、金日成北朝鮮国家主席)、ホーチミン北ベトナム国家主席)などのように「共産主義にシンパシーを感じてた」という話ではないでしょう。

*4:産経は都合が悪いのでボースが「ナチドイツやソ連とも手を組もうとしたこと」には触れませんが。

*5:アッツ島の戦い」では1943年5月29日に守備隊長の山崎保代陸軍大佐(死後、二階級特進し陸軍中将)が残存兵力を率いて最後のバンザイ突撃を敢行し、部隊が全滅したことで戦いは終結した。日本軍(アッツ島守備隊)の損害は戦死2,638人、捕虜は29人で生存率は1%に過ぎなかった。この時、初めて大本営発表で「玉砕」表現が公式に使用されたとされる(アッツ島の戦い - Wikipedia参照)

*6:「戦争協力者のレッテルを貼られた」と被害者のように表現するのではなく、「戦争協力者として批判された」と客観的、中立的に書くべきでしょう。

*7:ここも「国籍を捨てた」というネガティブな表現ではなく「日本国籍からフランス国籍帰化した」と客観的、中立的に書くべきでしょう

*8:藤田は産経が触れた「アッツ島玉砕」以外にも軍の依頼で「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘(ノモンハン事件(1939年)の戦争画)」「十二月八日の真珠湾真珠湾攻撃(1941年)の戦争画)」「シンガポール最後の日(シンガポールの戦い(1942年2月)の戦争画))」「血戦ガダルカナルガダルカナルの戦い(1942年8月~1943年2月)の戦争画)」「サイパン島同胞臣節を全うす(サイパンでの集団自決(1944年6月)の戦争画)」を描いている(藤田嗣治 - Wikipedia参照)