〈動画〉トランプと帝国主義 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba
「かつて」ではなく今だって「量産」ではないんですかね?。いつもながら「党への誹謗」しかしない「下劣な反党分子」松竹です。
いずれにせよケネディが大統領だったのは「1961年1月20日~1963年11月22日*3」。
従って「ケネディとアメリカ帝国主義」なる論文が発表されたのは早くて「1961年」、遅くとも「1963年」でしょう。つまり今から約62~64年前です(松竹が正確な発表年月日を記載すればこんな憶測の必要は何処にもないのですが)。
ちなみに「1961~1963年」には以下の出来事がありました。
1961年 - Wikipedia参照
◆1月20日
ケネディが米国大統領に就任
◆2月1日
右翼テロ事件・嶋中事件(風流夢譚事件)
◆4月15日
ピッグス湾事件(米国ケネディ政権によるキューバ・カストロ政権転覆未遂事件)。
◆5月16日
韓国で、朴正煕らによる軍事クーデタ。
◆8月13日
東ドイツが東西ベルリンの境界を封鎖。後に境界線上に「ベルリンの壁」を建設
◆9月1日
第一回非同盟諸国首脳会議
◆9月18日
コンゴ動乱の停戦交渉を試みた国連事務総長ハマーショルドが飛行機墜落事故で死亡(戦闘機による撃墜説がある)。
◆10月2日
大関の柏戸、大鵬が同時に横綱昇進(柏鵬時代の幕開け)
◆12月12日
三無事件(右翼活動家のクーデター計画)
1962年 - Wikipedia参照
◆10月22日
米国のケネディ大統領が「ソ連によるキューバへのミサイル基地設置計画」の中止を求め、キューバ海上封鎖を表明(キューバ危機の始まり)
◆11月1日
ソ連がキューバ国内に設置したミサイルの撤収を開始。
◆11月20日
海上封鎖撤回によりキューバ危機終了
1963年 - Wikipedia参照
◆9月12日
最高裁で松川事件の被告全員の無罪が確定
◆11月1日
南ベトナムで軍事クーデター。ゴ・ディン・ジエム大統領、および大統領の弟で、大統領顧問のゴ・ディン・ヌーが暗殺される。
◆11月22日
ケネディ米国大統領暗殺事件。
小生も「1970年代生まれ(団塊ジュニア、就職氷河期世代*4)」なのでこんな「1960年代の古い論文」はリアルタイムでは勿論読んでません(そもそも生まれてません)し、「コアな支持者」でもないので未だ読んだこともありません。こんな「古い論文」はそもそも入手が困難ですし。
題名「ケネディとアメリカ帝国主義」からして恐らく、以下のような「ケネディ政権による帝国主義的行為への批判」が内容でしょう。
◆ピッグス湾事件 - Wikipedia(1961年4月15日)
ケネディ政権によるキューバ・カストロ政権転覆未遂事件。この事件を契機に「アメリカの脅威」から身を守ろうと、カストロはソ連に接近し、キューバ危機(1962年10~11月)の一因となる。
◆1963年ベトナム共和国の軍事クーデター - Wikipedia(1963年11月1日)
ゴ・ディン・ジエム大統領、および大統領の弟で大統領顧問のゴ・ディン・ヌーが暗殺され、ズオン・バン・ミンが大統領に就任。
ズオンのクーデターは、ジエムを見限った米国CIAが支援していたとされる。
ジョン・F・ケネディ - Wikipedia参照
【ベトナムへの軍事介入】
◆ケネディは、アイゼンハワー政権下(1953~1961年)の1960年にはわずか685人であった南ベトナムに駐留するアメリカ軍事顧問団を、1961年末には3,164人に増加させ、さらに1963年11月には16,263人に増加させた。
◆1962年2月にケネディは「南ベトナム軍事援助司令部」を設置し、爆撃機や武装ヘリコプター等の各種航空機や、戦車等の戦闘車両や重火器等の装備も送るなど、「軍事顧問団」を、その規模・内容ともに「実質的にはアメリカ軍の正規軍と変わらない」ものとさせた。さらにケネディは、1962年5月に南ベトナムとラオスへの支援を目的に、タイ国内の基地に数百人規模の海兵隊を送ることを決定した。
◆ケネディ政権は1961年11月にベトナムに「枯葉剤の撒布」を行うことを決定した。ベトナム人や米兵に健康障害を生み出した「悪名高い、この作戦」は、南ベトナム解放民族戦線の隠れ場となる森林の枯死、及びゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的であった。ベトナム政府によれば、最大300万人のベトナム人が枯れ葉剤にさらされ、21世紀の現在もなお先天性欠損を抱える子ども15万人を含む100万人が健康への深刻な影響を受けているとしている。
しかしよりによって「こんな古い論文」を礼賛し、「昔の日本共産党は良かった(それに比べて今はダメだ?)」と言い出すとは「松竹の反党運動を支持するメインの層」は「そうした過去」を懐かしむ「オールドな面子」(80歳代以上の古参の党員、後援会員、サポーターのウチの反党分子など)なのか?
正直、定年退職してリタイアした「60~70歳代(1946~1965年生まれ)の高齢者」ですら、「62~64年前の論文」などに愛着がある人間がどれほどいることやら。
50歳代か、それより若い「現役世代(1966年以降生まれ)」ならなおさらです。
1)最近の20~30歳代(1986~2005年生まれ)の若者(下手するとケネディを知らない)
2)若くはないがこの論文が発表された頃(恐らく1961~1963年のケネディ政権時代に発表)にはまだ生まれてない「40~61歳(1964~1985年生まれ)」、または生まれていたがまだ「1961~1963年当時は12歳(小学生6年生)以下」と幼く、さすがにこんな論文を読める年齢ではない「62~74歳(1951~1963年生まれ)」の御仁
→「1970年代生まれ(団塊ジュニア、就職氷河期世代)」の俺もこれに該当します。
3)若くはないし、この論文が発表された時期(1960年代)に既に生まれていたが、最近、共産支持になったので「1960年代の党」については詳しくない「75歳以上(1950年より前に生まれた)」の御仁
はこんな「昔の論文」を松竹に持ち出されても
◆そんな昔の論文なんか知らん。ワシは1980年生まれ(今年で45歳)やから、その論文が書かれたであろう時期(1963年)なんかそもそも、まだ生まれてへん
→「1970年代生まれ(団塊ジュニア、就職氷河期世代)」の俺もこれに該当します。
◆そんな昔の論文なんか知らん。ワシは1955年生まれ(今年で70歳)やから、その論文が書かれたであろう時期(1963年)には生まれてたけど、まだ小学3年生(8歳)やったからね。小学3年生がそんな政治論文をリアルタイムでは読まんやろ。
→その論文が書かれたであろう1963年生まれの人間でも今年で62歳であり、「10~50歳代」の人間は当然生まれていません。1963年当時生まれていても「小学6年生(12歳:1951年生まれで今年で74歳)」などは現実問題としてそんな論文を読むわけがないし、リアルタイムでこの論文を読んでる人間は相当の高齢者(75歳以上?)に限られます。
◆そんな昔の論文なんか知らん。ワシは1935年生まれ(今年で90歳)やから、その論文が書かれたであろう時期(1963年)にはもう「28歳」やったし、リアルタイムで読むことが可能だったけど、当時は共産党員やないからリアルタイムでは読んでへん。
◆いずれにせよ、そんな昔の論文なんて、「リアルタイムで読んだ人間(1963年から党支持者だった古参の党支持者(1963年当時15歳以上と仮定すれば1948年より前の生まれで現在、77歳以上))」を除けば、よほどコアな党支持者でもない限り、入手して読む機会ないやろ。ワシ、そこまでコアな支持者じゃないし。松竹は紹介するなら論文タイトルだけでなく、どんな内容か簡単な説明ぐらいしろよ。
つうか、そもそも松竹は本当にこの論文読んだんか?。タイトルを知ってるだけで、読んでないから説明しないのと違うのか?
◆その論文と「お前の反党行為」と何の関係があるの?。そもそもお前は「安保条約の容認」を主張して、「党方針に反する」として除名されたけど、1960年代の党は今と同様に安保条約の廃棄を掲げてたやろ。1960年代の党を美化するお前の態度と、安保容認とどうつながるんや?
1960年代にお前みたいに「安保条約容認」なんか言うたら確実に党除名やろ。
そもそも「安保条約容認」のお前が「米国帝国主義批判(ケネディ政権の外交批判)」の論文を美化するとか何の冗談や?
でしかないでしょう。というか以上は「かなりの部分」が「1970年代生まれ(団塊ジュニア、氷河期世代)」の「俺の感想」ですが。
しかしそんな「オールドな面子」が「松竹らの主要な支持層」ならば「松竹らの運動には展望がなさ過ぎる」と言うべきでしょう。
「話が脱線します」が、ちなみにしばらく前に拙記事米原昶の評伝『米原昶の革命:不実な政治か貞淑なメディアか』(松永智子)が2025年のサントリー学芸賞を受賞(2025年11月11日記載) - bogus-simotukareのブログ(2025.11.11)で紹介した「日本共産党の幹部政治家だった」米原昶が活躍した時期の「一部」がこの時期(1960年代)です。
米原昶 - Wikipedia参照
1909~1982年。
1949年、衆院議員選挙に鳥取県全県区(米原の出身は鳥取で、父親の米原章三(1883~1967年)は鳥取の企業「日ノ丸自動車」「丸由百貨店」「日本海新聞」「日本海テレビ」の創業者)から日本共産党の公認候補として出馬しトップ当選を果たす。所謂「五〇年問題」により党内が所感派、国際派に分裂する中、再選を期して臨んだ1952年の衆院選挙で落選、以後同選挙区から2度立候補するが何れも当選には至らなかった。鳥取県内の選挙区から立候補して当選した共産党国会議員は、現在のところ、残念ながら米原のみである。
1959年から1964年までの5年間、『平和と社会主義の諸問題』誌の編集委員として党から派遣、家族とともにチェコスロバキア(現在のチェコ)の首都プラハへ赴任する。1967年の都知事選挙では共産党推薦候補となるも、社会党との共闘により出馬を取りやめ美濃部亮吉候補への一本化に応じ、美濃部が当選した。
1969年、衆院選挙で東京2区より立候補、17年ぶりに当選を果たす。1972年の衆院選挙でも当選するが、1976年の衆院選挙で次点に終わり落選して以後は政界からの引退を表明。
1982年5月31日、筋萎縮性側索硬化症により東京都渋谷区の代々木病院にて死去(享年73歳)。
上記引用文の「青字部分」がちょうど「1960年代の米原昶の活動の一部」ですね。なお、米原昶の長女が「エッセイスト、同時通訳の米原万里(1950~2006年)」。次女が作家「井上ひさし(1934~2010年)」の妻となった料理研究家の井上ユリ(旧姓:米原)です。
青字部分の「米原昶のプラハ赴任」には以下の記事で分かるように万里(1950年生まれ)やユリ(1953年生まれ)といった娘達も同行しました。
「米原食堂」その2「ブランボラーク~ジャガイモのパンケーキ~」(井上ユリ)
わたしたちが少女時代をおくったチェコも、ロシアやドイツにおとらず、食べない日は無いというジャガイモの国だ。そのせいなのか、ふたりともジャガイモが大好きでジャガイモ料理をよく作った。
今回紹介するのは、ブランボラークというチェコの代表的なジャガイモ料理。お好み焼き、というかパンケーキというか、すりおろしたジャガイモに小麦粉、卵を混ぜてフライパンで焼いたもの。そのままをビールのつまみやおやつにすることもあれば、肉料理の付け合わせにもなる。
「米原食堂」その7「果物のクネードリキ」(井上ユリ)
私たち一家がプラハに滞在した最後の一年、母は仕事でベルリンに単身赴任した。父も毎日家事ができるほどの時間はなく、週に何度か家政婦さんに来ていただくことになった。このパーニ・トゥルコフスカ(トゥルコフスカ夫人)は料理がとても上手だった。ソビエト学校で食べるお昼はロシア人の職員が作っていたし、たまに外食をすることはあったが、チェコの家庭料理を知ることができたのはパーニ・トゥルコフスカのおかげだ。
その彼女がわたしたちのおやつにときどき作ってくれたのが、果物入りクネードリキだ。
具は果物の水煮。万里が書いているように、プラム、杏を使うことが多い。
果物のクネードリキは発酵した小麦粉の生地で具を包み、茹でて作る。イーストを使うので、パンの一種だが、食べた感じも大きさも中華まんじゅうに近い。
「米原食堂」その9「パンもおむすびもころころコロリン」(井上ユリ)
わたしたちがプラハにいた六十年前、「海苔を巻いた梅干しのおむすび」は特別な日の大ご馳走だった。当時、和食の食材なんて手に入らなかったのだから。
五年ぶりに日本に戻ったとき、とにかく毎日お米のご飯が食べられることが、嬉しくて嬉しくてしょうがなかったのを昨日のことのように覚えている。
米原流いい男の見分け方(陸田英子)(2016.4.29)
「ただでもらった馬の歯を見るものではない」
米原万里さんの連載「同級生に会いたくて」(KADOKAWA「本の旅人」1999年11月号-2001年4月号)は、こんなヨーロッパの諺ではじまります。のちに『噓つきアーニャの真っ赤な真実』として刊行され、第33回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する作品の、待ちに待ったスタートでした。
「プラハ時代について書いていただけませんか」
少女の米原さんがプラハで何を経験し、何を考えたのか、そこで何があったのか、異文化の中で少女時代を過ごすとはどういうことなのか……編集者としてはもとより、米原ファンの一人としても関心があったのです。
さて、冒頭の諺は、マリが同級生のリッツァのことを思い出すきっかけになる諺でした。リッツァはマリに、
「男の善し悪しの見極め方、教えたげる。歯よ、歯。色、艶、並び具合いで見分けりゃ間違い無いってこと」(『噓つきアーニャの真っ赤な真実』)
と言っていたのです。ちなみにこの時、二人は小学四年生!!
米原さんは、実によく子ども時代のことを覚えていました。
『噓つきアーニャの真っ赤な真実』男の子編の相談をしていた時に、
「プラハ時代のことはとても印象に残っているので、先生との会話*5も再現できる」
とおっしゃっていて、昨日のことも忘れがちな私はその記憶力に驚かされました。
【プロフィール】
陸田英子(くがた・あやこ)
角川書店で主にノンフィクションと人文系書籍を編集。現在は、KADOKAWAの文芸・ノンフィクション局で、角川新書、角川選書、角川ソフィア文庫、翻訳書やノンフィクション、学芸系書籍の編集部の部長。
「オリガ」を作ったひと達(鈴木馨)(2017.3.4)
『オリガ・モリソヴナの反語法』の単行本を作っている時、米原万里さんの鎌倉のご自宅には7、8回お邪魔した。
プラハのソビエト大使館付属学校の教師、オリガ・モリソヴナの強烈な罵詈雑言が次々と甦る。オリガのことをエッセイ、ノンフィクションでなく、小説で書こうと思い描いていた米原さんは、それをエイヤッと書いてしまった。
【プロフィール】
鈴木馨(すずき・かおる)
1953年、横浜市出身。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。1978年(株)集英社入社。2014年、集英社を退職。現在はフリー編集者。
マリ・ユリがいっぱい(井出勉)(2017.6.1)
3才から4才のアルバムにはマリ・ユリと撮った写真が並ぶ。
場所はプラハ。
記憶はよみがえらない。ご両親に連れられ、マリ・ユリ姉妹がプラハに到着したのは、私が3歳の時、その出会いから1年ほどで私は両親と日本に旅立った。
とても幼い頃のことも、なにかしらは覚えているものだが、私のプラハの記憶は、子どもなりに完璧に話していたチェコ語が、帰国後半年で日本語に置き換わるうちに、すっかり消え失せたようである。
マリ・ユリは多感な少女期をプラハで過ごし、その鮮明な記憶はご存じの通り、米原万里さんの著作によみがえっている。
プラハで生まれた私は、マリ・ユリがチェコにあらわれるまで、日本人はおろか、東洋人の子どもを見たことがなかった。そしてその後1年間ほど、マリ・ユリとプラハで一緒に過ごしたが、日本人の子どもといえばマリとユリしかいない。いま思うと、幼い私にとりマリ・ユリは絶対的な存在感だった。
【プロフィール】
井出勉(いで・つとむ)
1957年チェコ・プラハで生まれる。上智大学外国語学部イスパニア語学科卒。日本航空に30年勤務。ジャパン・プラットフォーム初代事務局長。現在、日本ペンクラブ事務局長代理。著書に「あした、世界のどこかで*6」、共著「あてになる国の作り方*7」。
対談「戸田忠祐×井上ユリ」(2017.10.4)
◆戸田忠祐
まりちゃんはチェコから戻って、なかなか日本社会に適応できなくて悩んでいたんだよね。おばちゃん*8がその悩みのいい聞き役だったみたいだよ。二人でけっこう連絡取り合っていてね。
まりちゃんの思い出(斎藤一)(2017.12.5)
(ボーガス注:妹の)ユリさんから「万里にまつわる思い出をゆかりの方々に書いていただいています」ということで、光栄にも私にご依頼が来ました。
思わず「まりちゃん」と書いてしまいましたが、私にはほかの呼び方はできません。幼稚園前から小学2年までをともに過ごした「幼馴染み」だからです。そのようになった理由は、都内の女学校の同級生だった私の母とまりちゃんのお母様が、結婚後に設けた家が大田区馬込の同じ学区内にあったという偶然によります。
「思い出」を書くことをお受けしたものの、エピソードのようなことは全く書けないことに気づきました。
例えば、母たちが子供たちを連れてどこかに一緒に行くことが良くあったようで、大森のガード近くの映画館などが記憶に残っていますが、その映画はフェリーニの「道」だったようであることは頭に残っていても、まりちゃんと何を話したとかそういうことは全く思い出せません。小学校のクラスも同じでしたが、そこでのことも何も思い出せません。
残っている記憶はセピア色の写真のように断片的なのですが、その断片集の中で多くの部分を占めているのは米原家のことです。米原家は当時の普通の家とは全く違う洋風の家で、畳の部屋などなかったし、庭も広かったと思います。そこで食べるお菓子なんかも普通とは違うモダンなものでした。遊び道具や本も私の家にはないようなものがあり、行くことは楽しいことであったことは間違いありません。まりちゃんの言ったことの中では、「チズ」という言葉を覚えています。大分あとで「智頭*9」という鳥取のお父様の実家だったとわかりましたが、きっととても好きな場所だったので、何度も口に出したのでしょう。
そうしたまりちゃんの世界が突然消えたのが米原家のチェコ行きです。母に連れられて羽田空港に見送りに行ったときのことは鮮明に覚えています。いつしか文字通り「遠い人」になっていきました。
その後のまりちゃんとは3回ほどの出会いです。1回目はチェコから戻った中学生の頃、米原家での再会パーティのような場で、突然レコードをかけてツイストのような踊りを始めたことに仰天し、「外人」になって帰ってきたと思い、近づくことはできませんでした。次は30代後半の頃、小学校の同期会というのがあり、その2次会に、誰かが彼女を呼んだらしく荏原町のスナックで会いました。そこで、酒に少し酔った時に、コップの酒を私に向かってかけるという行為に及んだのでびっくりしました。
3度目の再会は50代になってからのお母様のお通夜の時でした。前回とはうって変わって穏やかで、半世紀ぶりに、「まりちゃん」が戻って来たように思いましたが、それから長い時を経ない間に訃報に接することになってしまいました。申し訳ないことですが、「米原万里」の著書を読みだしたのはその後のことです。
色鮮やかに 軽やかに(大沼有子)(2019.4.15)
これは、プラハのソヴィエト学校にかよっていたころのわたし(たぶん7歳ぐらい)の写真です。学芸会のような企画で、万理ちゃんの振り付けで、さくらの曲に合わせて“日本舞踊もどき”を踊らされました。
(中略)
話がプラハ時代にもどりますが、そのころ学校ではお互いにメッセージを添えて絵をかきあう、思い出アルバム?が流行っていました。その時期、万理ちゃんがわたしの思い出アルバムにかいてくれた絵とメッセージです。
他にも、プラハ時代、うちに来たときスケッチブックにすばらしく美しいお姫さまを描いてくれたのを覚えているのですが、残念ながらそちらの方は見つかりません。でも、万理ちゃんの色の使い方が、とても鮮やかだったのを覚えています。
【プロフィール】
大沼有子(おおぬま・ゆうこ)
1956年に東京で生まれる。 5歳から10歳までプラハで過ごし、万理さんとは在プラハ・ソヴィエト学校同窓生。小学校教員を経て、今はチェコの子どもの本を翻訳している。 訳書に『ベルンカとやしの実じいさん』(福音館書店)がある。
米原万里さんの思い出(1)(中尾博行)(2019.6.4)
万里さんは、今で言う帰国子女の走りで、チェコスロバキヤでロシア語を学び、長じて(中略)ロシア語同時通訳者として華々しい活躍をされていたことは、大勢の方が良く知るところです。
【プロフィール】
中尾博行(なかお・ひろゆき)
1950年北海道生まれ。東京外国語大学イタリア語学科卒。東京銀行、東京三菱銀行*10に30年勤務。その後、半導体・電子部品商社の役員を経て現在は医療法人の財務責任者を務めている。
そのプラハ時代の経験を後に万里は『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年、角川書店)、『オリガ・モリソヴナの反語法』(2002年、集英社)として刊行(米原万里 - Wikipedia参照)。
このうち、『嘘つきアーニャ』は2002年に大宅壮一ノンフィクション賞を、『オリガ・モリソヴナ』は2003年にBunkamuraドゥマゴ文学賞*11(池澤夏樹*12選考委員)を受賞してるのでご存じの方も多いかと思います(小生はどちらも未読ですが。というか、未だ米原万里の本を一冊も読んでませんが)。
それにしても「米原昶の評伝『米原昶の革命』(松永智子著、2025年、創元社)のサントリー学芸賞受賞」で神谷や松竹が、米原昶に触れるかと思いましたが今のところ触れてませんね。
松竹は「ケネディとアメリカ帝国主義」(1960年代の共産党の論文)という「かなり古いネタ」を記事にしてるのに。
触れてないと言えば、俺が気づいてないだけかもしれませんが、共産党の方(赤旗インターネット版、志位議長、田村委員長、小池書記局長、山添政策委員長ら党幹部のXなど)もこの受賞を触れてないように見えます。
俺が気づいてないだけかもしれませんが、ネット上でもあまり米原昶に触れた文章を見ない気がします。
米原昶ももはや「共産党支持者(党員、後援会員、サポーター)を含む多くの人間」にとって「過去の人物」なのか?
それにしても「米原万里が存命(今存命なら75歳)だったら、この受賞をどう評価したか?」と思うと、彼女の早世(1950~2006年、享年56歳)が改めて惜しい。
しかしこの駄記事もそうですが、松竹もどれほど「安保・外交バカ」なのか?
松竹もどれほど「政治とカネ」「物価高」等といった「安保・外交以外の問題」に無関心なのか?。心底呆れます。
*1:大統領就任前や暗殺後(ケネディ死亡後は副大統領のジョンソンが大統領に昇格)にこうしたタイトルの論文が書かれるとは思われないため「ケネディとアメリカ帝国主義」が「ケネディ大統領在任中(1961年1月20日~1963年11月22日)に書かれたであろうこと」は確かでしょうが、「かつて」と曖昧にごまかし、「ケネディとアメリカ帝国主義」が書かれた時期が何時なのか明記しないのが松竹らしい姑息さです。なお、松竹の言う「かつて」が「ケネディとアメリカ帝国主義」が書かれた「1960年代」を指し、1970年代以降は指さないのか、松竹の言う「など」もすべて「1960年代に書かれた論文を指し、1970年代以降に書かれた論文は指さないのか」はこの文章だけでは分かりません。
*2:「など」と曖昧にごまかし、「ケネディとアメリカ帝国主義」以外にどんな論文を意味してるのか、明記しないのが松竹らしい姑息さです。もしかしたら「論文『ケネディとアメリカ帝国主義』は党外はともかく、党内においては、田中角栄『日本列島改造論』(未読の人間でも田中本の名前は知ってる)並みに極めて有名なので、松竹も名前を挙げられるが、『連発』云々と書きながら松竹には他に具体例が上げられない」「実は松竹はこんなことを書きながら、論文タイトルを知ってるだけで論文『ケネディとアメリカ帝国主義』を未読」と言うお粗末な話かもしれませんが。
*3:在任中に暗殺された。リー・ハーヴェイ・オズワルドが犯行現場近くで容疑者として逮捕されるが、逮捕後に彼がジャック・ルビーによって殺害されたため、オズワルドが本当に犯人なのか、犯人だとして犯行動機は何か、背後関係はあるのかは解明できなかった。ルビーの犯行によって真相解明が困難になったため、彼のオズワルド暗殺については「事件の真相解明を妨害するための口封じ」という謀略説も根強く存在する。
*4:幸いにも正社員で今の会社に採用されましたが。
*5:後に刊行された米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』の「オリガ・モリソヴナ」のことか?
*8:戸田忠祐氏の妻「戸田優子氏」のこと
*11:毎年「一人だけの選考委員」(任期は1年間)が選出するという点が特徴(Bunkamuraドゥマゴ文学賞 - Wikipedia参照)
*12:1945年生まれ。小説『スティル・ライフ』で1987年に中央公論新人賞を、1988年に芥川賞を受賞。作家の福永武彦(1918~1979年)は父。声優の池澤春菜(1975年生まれ)は娘(池澤夏樹 - Wikipedia参照)