「珍右翼が巣くう会」メンバー・黒坂真に突っ込む(2020年12月31日分)

◆黒坂のツイート

黒坂真
 中野顕さん。官斡旋は斡旋ですから強制連行ではない。

 問題は「形式的な自主性」ではなく「実質的な自主性」であり「『斡旋だから自由意志』とはいえない(実質的には自由意志と言えない)」からこそ「強制連行」扱いされるわけです。
 黒坂の物言いは過労死について「死ぬまで働けとは言ってないから死んだのは当人の自己責任。会社には責任はない」というレベルの詭弁です。

黒坂真
 侵略という語の定義もまだ定まっていませんから、日本が朝鮮半島や中国を侵略したなどとは言えませんね。英国がインドや中国に侵略したとは言えない。イスラエル建国*1は侵略だったとも言えない。

 おいおいですね。その理屈なら、黒坂らウヨが侵略だと非難する

・(武力による恫喝を伴った)ソ連バルト三国併合
ソ連北方領土侵攻
・中国のチベット解放
北朝鮮朝鮮戦争開戦
ソ連によるハンガリー動乱や「プラハの春」の鎮圧
ソ連のアフガン侵攻

も侵略とは言えなくなるでしょうに。あるいは「ナチスドイツのポーランド侵攻」も黒坂にとって「侵略ではない」のか。

黒坂真
 日本共産党中国共産党覇権主義と批判しますが、中国共産党は平和勢力とみなします。

 「はあ?」ですね。日本共産党の主張は「尖閣に対する中国の態度は乱暴で覇権主義と批判せざるを得ない」が「中国の尖閣への武力侵攻の危険性はさすがにない(そんなことをしても日中関係が悪化する上に欧米の経済制裁が予想され何の利益もないから)」「ありもしない尖閣侵攻の危険性を口実に自衛隊軍拡や尖閣への自衛隊駐留などには賛成できない」つうだけの話です。
 それのどこが「中国共産党は平和勢力とみなします」なのか?。デマも大概にしろという話です。

黒坂真
 日本共産党は、(ボーガス注:敗戦直後の満州での)ソ連兵の日本女性に対する蛮行も日本のせいだ、というような宣伝をします。

 おいおいですね。
 「関東軍満州開拓団の幹部がろくに日本人女性を守らなかった(それどころかソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの、70年後の告白(平井 美帆) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)あの地獄を忘れられない…満州で「性接待」を命じられた女たちの嘆き(平井 美帆) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)が指摘するように、保身のために関東軍満州開拓団の幹部が進んで日本人女性をソ連軍に提供したという話すらある)」「そもそももっと早く日本政府が降伏すべきだった、ドイツが降伏した時点で日本の敗戦が確実だったはずだ(日本独力で英米仏に対決し勝利する力など日本には無いので)」「そうすればソ連軍の蛮行もなかった」というと黒坂と類友には「ソ連の免罪」になるようです。呆れて二の句が継げませんね。デマも大概にしろという話です。そもそもそうした日本軍、日本政府などへの批判は何も「日本共産党だけがしている」わけでもない。

黒坂真がさいとう和子にリツイート
 古今東西、貧困な家庭の女子が身売りをせざるを得ない例が多かったことを、さいとう和子さん*2日本共産党員はわからないのでしょうか。
さいとう和子
・根深い、日本の「性」の売買構造。
・個人の選択の問題に矮小化するのは、本質を見誤る。
「1日で49人の相手を…」 過酷な労働、波乱の人生赤裸々に 「からゆきさん」肉声テープ発見 - 毎日新聞【牧野宏美/統合デジタル取材センター】
「一日一晩のうちに、49(人と)したよ」。
 16歳の少女は、船底で汚物にまみれて海を越え、見知らぬ異国で春を売った。幕末から明治、大正にかけ、貧しさから海外に渡り、娼婦として働いた女性「からゆきさん」。その一人が約60年前、その過酷な体験を赤裸々に語った約12時間分の肉声がテープに残されていた。からゆきさんが自らについて語ったり書き残したりした史料はほとんど残っていない。この女性はシンガポールで裕福なイギリス人に身請けされ、たくさんの宝飾品を贈られて「ダイヤモンドおなご」と日本人の間で呼ばれた。30歳半ばでホテル経営に乗り出すほど成功したが、帰国後、だまされてほぼ無一文になるなど、波乱に富んだ生涯だった。なぜ女性は肉声を残したのか。古いテープを再生してみたい。
 録音テープが見つかったのは次のような経緯があった。島原出身の作家、宮崎康平(1917~80年)が61年、シンガポールから帰国していた女性と自宅で面会。録音しながら2回にわたりインタビューした。宮崎氏は「『からゆきさん』についての小説を書きたい」と知人に依頼し、この女性を紹介されたが、その後別の仕事で多忙になり、小説*3は未完のまま死去した。テープは宮崎氏の妻が保管していた。
 妻は2011年、元島原市職員で舞台の創作活動をしている知人の内嶋善之助さん(68)にテープを託し、内嶋さんが長期保管するためにデジタル音源化した。語られた内容はその後、「からゆきさん」の研究を続ける嶽本新奈(たけもと・にいな)明治学院大助手が分析している。
 テープは約12時間分。女性はインタビュー当時、73歳だった。シンガポールへ行くまでの経緯や、密航した船の中の様子、娼館での労働環境、娼館を出た後の生活などが島原の方言で詳細に語られている。
◆極度の貧しさから渡航 「船底は地獄」
 貧しかった。父は神経症のため働けず、女性は10代前半から奉公に出され、島原の揚屋(遊女を呼んで遊興する店)で下働きをしていた。16歳の時に母親が死亡すると、家計を支えるのは女性ただ一人に。揚屋の給料では到底足りない。そんな時、銭湯で見知らぬ高齢女性から「高い給金が出る。遠いところに行かないか」と誘われ、外国行きを決意する。
 女性をあっせんする女衒(ぜげん)と呼ばれる男性たちの手引きでシンガポールに密航したのは1904年。日露戦争開戦の年だ。島原の港から24人の若い女性たちと4人の男性と船に乗り込み、石炭などを置く船底部分に身を潜めた。暗闇で便所もなく、汚物は垂れ流し。航海は約1カ月続き、世話役の男性が女性たちに性的暴行を加えることもあったという。この女性は自分の体に汚物をつけることで暴行から逃れたといい、「船の底は地獄だった」と振り返る。
 シンガポールに着くと、日本人が経営する「女郎屋」へ連れて行かれた。マレー街と呼ばれる、日本人娼館が集まっていた通りだ。イギリスの植民地だったシンガポールでは、移民の増加に伴って1890年代にヨーロッパ、中国系などの娼館が急増。からゆきさんは1905年ごろまでに増えた。当時109の日本人娼館に633人の娼婦が働いていたとの記録がある。
◆「忙しかときは痛かとですよ」 性病検診も重荷に
 この女性は女郎屋の主人から衝撃的な「事実」を知らされる。シンガポールに来るまでの旅費や宿泊費、手数料などとして膨大な額の借金を負わされていた。絶望的な気持ちになり、涙があふれた。
 最初の客は現地で商売をする日本人だった。初めての体験だった。「水揚げ」は人気が高く、客は通常より高い料金を払うが、すべて女郎屋が受け取り、女性の取り分はなかったという。
 短時間(ショート)は3ドル、一晩で15ドル。女性は「借金」を返し、日本に残した家族に送金するため懸命に働いた。
 女性の肉声が残っている。
 「忙しかときは痛かとですよ、あそこが。それで這(は)うて廊下と階段を行くとですよ。あれが女郎の地獄ですよ」
 「そんなんとを、49(人)したよ。わたしゃ、一日一晩のうちに。いっぺん、そういうことのあった。昼の午前中、9時から。晩のちょっと3時ごろまでな。もうね、泣くにゃ泣く」
 客が多いときは朝から未明まで、1日49人の相手をした。痛みは、ワセリンを塗ってしのいだ。
 「ほんなごて、情けなか。いやらしゅうて、今も忘れられん。おそろしゅうて……」
 苦痛に追い打ちをかけたのは、性病対策のための洗浄だった。当時、性病のまん延を防ぐため、娼婦は1人の客の相手が終わるごとに、膣内を消毒洗浄するよう指示された。疲れた体をひきずるように部屋から洗い場まで毎回階段を上り下りすることは重い負担だった。この洗浄が原因で不妊になった女性もいるという。
 娼婦に毎回の洗浄を求めたのは、週に1度、医師によって行われる性病検診に引っかからないようにするためだった。娼婦は1人1冊、日記帳のような帳面を渡され、月経周期やいつ客を取ったかなどを細かく記録していた。医師は検診で問題がない場合はそれにサインし、客も安全であることの証明として帳面を娼婦に見せるよう求めていた。
 性病検診は、軍人や船乗り、クーリー(苦力=中国人労働者)らが性病にかかり、まん延することを防ぐことが目的だった。娼婦が性病にかかっていると分かると、娼館が営業停止になるなどペナルティーを受けたとされる。嶽本さんは「重視していたのは公衆衛生のため、娼館のため、客のためという視点です。働く女性自身のためではありませんでした」と話す。
◆英国人に身請け、中絶と不妊手術迫られる
 1年半、娼館で働いた後、18歳になった女性はイギリス人のフォックスという男性(当時27歳)に身請けされる。身請けとは、娼館への借金を肩代わりして精算し、娼婦をやめさせることだ。シンガポールでは、イギリス人が現地で娼婦を愛人にすることは珍しくなかった。
 当時女性には他に好きなイギリス人がいたが、強引に身請けしたフォックスと8年間暮らすことに。フォックスは宝飾品をたくさん買い与え、島原の実家にも送金してくれた。身請けされた後、女性は日本人の間で「ダイヤモンドおなご」と呼ばれ、経済的には不自由のない生活を送ることができた。
 しかし、結婚をして子どもを持つという生き方は選べなかった。
(以下、この記事は有料記事です。)

 長くなりましたがあえて「毎日記事(無料で読める部分だけですが)のほぼ全文」を紹介しました。
 黒坂にはいつもながら「やれやれ」ですね。
 「個人の選択の自由にしてはいけない(社会が生活支援すれば身売りなどしなかっただろう)」という斉藤ツイートに「当時は仕方が無かった(個人の選択の自由にして何が悪い!)」で済ませるのだから黒坂も全く良い度胸です。
 仮に「当時は仕方が無かった」と前提するにしても斉藤ツイートが「当時は社会の認識がそこまで進んでいなかったので仕方がないにしても今の日本で同じようなことがあってはいけない。コロナ不況の中で女性が泣く泣く性風俗産業に従事するようなことがあってはいけない」を意味するのは明白でしょうに。
 黒坂は「コロナ不況の中で女性が泣く泣く性風俗産業に従事するようなことがあっても構わない」という価値観なのかと疑われても文句は言えないでしょう。
 なお、毎日記事に名前が出てくる宮崎康平氏(在野の歴史研究家)については宮崎康平 - Wikipediaを参照下さい。
 宮崎康平 - Wikipediaまぼろしの邪馬台国 - Wikipediaにも書いてありますが竹中直人主演、吉永小百合共演の映画『まぼろしの邪馬台国』(2008年公開、東映)のモデルとなった人物です。竹中が宮崎氏を、吉永が「宮崎氏の研究を支える妻」を演じました(ただし、宮崎説は「邪馬台国長崎県島原にあった」と言う珍説だそうでおよそまともに扱えるもんではないですが)。
 また宮崎康平 - Wikipediaによれば、フジテレビで『汽笛が響く!』としてドラマ化された城山三郎の小説『盲人重役』(角川文庫)(正直、城山小説としてはマイナー作品ですが)のモデルでもあるそうです(宮崎氏は一時、宮崎組*4取締役、島原鉄道常務取締役、島原ガーデン社長などを務めた)。
 また、毎日記事に名前が出てくる内嶋善之助氏についてはググってヒットした記事

人言ながさき:噴火災害の記録を残す 元島原市職員・内嶋善之助さん(67) /長崎 - 毎日新聞2020.11.3
 事態の終息まで6年超を要した雲仙・普賢岳の噴火から17日で30年。噴火が空前の長期災害の引き金になるとは当時、誰も予想していなかった。元島原市職員の内嶋善之助さん(67)は、1991年6月3日に発生した大火砕流などの対応にあたった当時の記録メモを、来春までに本にする予定だ。内嶋さんに思いを聞いた。【聞き手・近藤聡司】

普賢岳噴火、克明な日記 元市職員が30年経て出版へ:朝日新聞デジタル2020.11.15
 長崎県雲仙・普賢岳が198年ぶりに噴火した日から17日で30年。地元の島原市職員として災害対応にあたった内嶋善之助さん(67)が、当時を克明に記録した日記の出版をめざしている。記憶を風化させてはいけない。14日、朗読会で一部を披露した。

災害から30年 島原市で普賢岳噴火初日を伝承|【西日本新聞ニュース】2020.11.15
 雲仙・普賢岳が198年ぶりの噴火を始めた30年前の日を思い起こそうと、長崎県島原市の舞台創作団体・シマバラ表現主義クラブ代表の内嶋善之助さん(67)が朗読会「普賢岳のめざめ」を14日、市森岳公民館で開いた。
 内嶋さんは市職員時代に噴火災害を体験。1990年11月17日の噴火開始から30年の節目に「噴火災害全体を俯瞰(ふかん)する作品を」と当時の日記を基にドキュメンタリー本「普賢岳ダイアリー-日記に描かれた噴火災害の風景(カオス)」を著した。
 噴火の記憶の伝承を呼びかける朗読会には約50人が参加。内嶋さんが、著書から噴火初日の様子と、崩壊が心配された眉山の現状視察登山を記した箇所をよく通る声で淡々と読み上げたあと、被災中に創作した朗読詩を披露した。

を紹介しておきます。
 また、毎日記事に名前が出てくる嶽本新奈氏については以前

新刊紹介:「歴史評論」3月号(その1) - bogus-simotukareのブログ
特集:歴史のなかの〈異国人/日本人〉の子ども
◆「〈異・外国人〉との子ども」研究の整理と「からゆきさん」事例 (嶽本新奈*5

新刊紹介:「歴史評論」5月号 - bogus-simotukareのブログ
特集『新書から広がる歴史学
◆服藤早苗*6『平安朝の父と子*7』:ジェンダー史から権力の変遷を考える(嶽本新奈)

で紹介しました。

*1:イスラエルについて「侵略」と非難されてるのは建国では無く、建国後のアラブとの戦争で支配地域(例:シリア領土のゴラン高原など)を拡大したことでしょう。

*2:衆院議員。日本共産党中央委員。公式サイトさいとう和子公式サイト

*3:宮崎康平『からゆきさん物語』(2008年、不知火書房)のことか?

*4:宮崎氏の父の会社で後に宮崎氏が社長になるが経営不振で倒産

*5:著書『「からゆきさん」:海外〈出稼ぎ〉女性の近代』(2015年、共栄書房)

*6:埼玉学園大学名誉教授。著書『家成立史の研究』(1991年、校倉書房)、『平安朝の母と子』(1991年、中公新書)、『平安朝の女と男』(1995年、中公新書)、『平安朝の家と女性』(1997年、平凡社選書)、『平安朝 女性のライフサイクル』(1998年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『平安朝に老いを学ぶ』(2001年、朝日選書)、『平安王朝の子どもたち』(2004年、吉川弘文館)、『平安王朝社会のジェンダー』(2005年、校倉書房)、『古代・中世の芸能と買売春:遊行女婦から傾城へ』(2012年、明石書房)、『平安王朝の五節舞姫・童女天皇大嘗祭新嘗祭』(2015年、塙選書)、『藤原彰子』(2019年、吉川弘文館人物叢書)など(服藤早苗 - Wikipedia参照)

*7:2010年、中公新書